「星を数えさせるためのハイエ」の解説

 五年前の発想、高校時代に起こったきっかけが、ついに小説として形になりました。人生の凝縮エキスみたいな作品です。さすがに面白いはずなので読んでください。

https://syosetu.org/novel/249461/






 当然のことながら、今回の作文は上記URLから読める小説のごりごりのネタバレ記事になるので、小説の方をまだ読んでいない人はそっちを先に読んで来てください。当然のことながら読む価値がある作品になっているのでぜひ読んでください。特に、最近流行りのモルカーが好きな人はぜひ。
 ちなみにぼくはモルカー全話視聴済みで、これを書いている今は、ゾンビ回であろう第6話を楽しみに待っています。……しかしモルカーが好きな人の大半は、モルカーを見る目に関して、ぼくとは気が合わないものと思います。
 それでは以下より、ネタバレ解説です。




















・ハイエって何者?

……作中にて女神を自称するハイエですが、知っている人は知っている通り、彼女の持つ特徴は、ぼくのいくつかの他作品に登場する「魔女」に酷似しています。
 実際、ハイエは魔女です。傲慢の魔女ハイエ、というのが彼女の正式名になります。が、設定として「本人はその呼び名を気に入っていない」ということが決まっており、作中の湊秋人とハイエの会話ではそれが明かされなかったため、彼女が魔女であることは明言されませんでした。
 ハイエの使える魔法の内容は作中で本人が語った通りです。そして魔女シリーズにおけるお楽しみ要素、魔女の名前の由来ですが……。
 今回は「ハイエンド(最高級)」が由来になっています。他の魔女よりもハッキリと「人間」を見下しており、それを隠す気もない彼女は、自称女神と書いて自称ハイエンドであるのです。自分こそが最も優れた存在だと信じて疑わず、それゆえに人間に対して優しい存在となっています。
 ハイエンドと言えばハイエンドPC等、機械に対して使う機会も多い単語ですが、いつかAIが人間を超えた日には、ハイエのように優しい存在になっていてほしいものですね。
 ついでに、主人公であると同時に「たった二人の登場人物」の片割れでもある湊秋人の名の由来ですが、これはセブンシンズの夏樹や千柚や設楽と同じく、大した意味なく決めた物になっています。
 ハイエが君付けで読んで馴染む名前で、なおかつ「苦悩を抱えたサディスト」である彼の雰囲気に合うように、男性感からは少し離れたネーミングをしました。サディストと男性感の組み合わせは火と油みたいなところがありますからね……。
 また、いわゆるコミュ障からはやや逸脱した意味でありつつもコミュニケーションに障害を抱える彼に「湊」という名前を付けたのは、Vtuberグループのホロライブ内で一番のコミュ障である湊あくあを由来にしたところもあります。
 なぜホロライブなのか。それは単に趣味であったり、セブンシンズの冒頭を思いついた時にホロライブの動画を見ていたから……という繋がりの理由であったりします。
 なお、「秋人」の方はなんか字面と響きがいい感じの物をフィーリングで選びました。頭の中にはバクマンがありました。




・魔女の担当ジャンルについて

……魔女シリーズはそもそも「エロ漫画みたいな小説(官能小説とは似て非なる物)が、ぼくにも書けるはずだ!」と、エロ漫画を読んでいた時に思い立って、最強のエロ漫画のヒロインを考案しようとした際に生まれたキャラクター概念です。
 エロ漫画のヒロインに求められる物、それは男性への都合の良さに他なりません。そうではない女性とのエッチは、それはエロ漫画ではなく、恋愛漫画の一部という扱いになるはず……というのが持論です。
 そこで生まれたのが「尽くす系ニマド」に登場する聖杯の魔女ニマドです。この作文の最後に貼っておくURLから上記タイトルの作品を読んでもらえれば、上述のコンセプトの具体的な形を感じ取ってもらえるはずです。
 しかし、結局「尽くす系ニマド」は、エロ漫画みたいな小説にはなれませんでした。友人から言われた「全然興奮できない」という感想にぼくも全面同意します。エロ方面への実用性は皆無です。
 その代わり……ということなのか、ニマド発案当初は予定していなかった「魔女のシリーズ化」が、ぼくの頭の中で始まりました。試行錯誤の末に今度こそエロ漫画的な小説を目指そうしたというよりは、これはこれで有用な設定だと気に入ったことがシリーズ化の理由だったように思います。
 ……という経緯があって魔女シリーズは生まれたので、その名残りとして、それぞれの魔女には「担当ジャンル」があります。
 例えば「眠姫ザロウと漆モズ」に登場する安眠の魔女ザロウは眠ることを愛し、眠ることで魔法を使用するキャラクターになっていますが、彼女の担当は「眠姦」です。
 エロ漫画的な小説の書き方は未だ掴めず、魔女の担当ジャンルが活かされることはあまりありません。むしろ彼女らは別ジャンルの役目を負うも多いですが、担当ジャンルの概念はあくまでも名残りなので、それで良いのです。優先するべきはキャラクターの担当ジャンルではなく、一作品全体の目指すべきジャンルだと思っているので。
 ところで、現在までに作品化されている魔女の担当ジャンルを一覧にすると、以下のようになります。

「カッセロ・ザロウ・イノベトラル・コハク・ヒヤナギ」
「SM・眠姦・乱交・言いなり・死姦」

 シリーズ化以前に作られたニマドは、単体で全てを処理するつもりだったので「全部盛り」になっています。
 さて、この流れで行くと「星を数えさせるためのハイエ」は、どのエロ漫画的ジャンルに属するのでしょうか? 特にコハクなんかが、魔法の内容と無関係に性格のみを理由としてジャンルを割り当てられていることからも分かるように、心が読めるというハイエの能力はジャンルに関係しません。
 自称ハイエンドであるハイエは人間を見下しています。人間のことを、自分の足元にも及ばないカスだと思っています。しかしそれ故に人間に優しいのです。弱くて脆くて手がかかるような、自分より圧倒的に劣った存在に対してこそ優しくなれる性格。そう、ハイエの担当ジャンルは……。

「カッセロ・ザロウ・イノベトラル・コハク・ヒヤナギ・ハイエ」
「SM・眠姦・乱交・言いなり・死姦・赤ちゃんプレイ」

 ……魔女シリーズの「闇」は濃くなっていくばかりです。



☆魔女登場作品リスト

・傲慢のハイエ登場……「星を数えさせるためのハイエ」
https://syosetu.org/novel/249461/

・聖杯のニマド登場……「尽くす系ニマド」
https://syosetu.org/novel/186976/

・被虐のカッセロ登場……「鎖付きアクアリウム
https://syosetu.org/novel/229967/

・安眠のザロウ登場……「眠姫ザロウと漆モズ」
https://syosetu.org/novel/233192/

・偶像のイノベトラル、偽証のコハク、魂魄のヒヤナギ登場……「oneフォルダsevenシンズ」
https://syosetu.org/novel/244282/

・作者のツイッター
@kinukawa1221

x日後に左利きになる人

 鬼滅の刃のロングランヒットに関連付けて、こんなことを言っている人がいた。
「そういえば「100日後に死ぬワニ」は、流行ったと言う間もなく消えたな」
 これは、鬼滅の刃の作者「吾峠呼世晴」が、ジャンプの巻末コメント等にアイコンとして載せているイラストが「ワニ」であることと関連付けた連想だったのだろうと、ぼくは思う。たったそれだけの関連性で「鬼滅の刃」と「100日後に死ぬワニ」を比べるのも可哀想と言えば、それはそうかもしれない。
 と、それはそれとして。ぼくはその連想を聞いて、ある一つのことを思った。それは、
「ああ、100日後に死ぬワニは、さっさと消えてくれて本当によかったなぁ」
 ということ。ぼくはあの漫画が大嫌いだ。そしてそれを、個人の感想の範疇に収めるべきではないとも考えている。
 100日後に死ぬワニは、多くの人間のために、絶対に消えてもらわなければならない物だった。間違ってもあれを長期的な流行になどしてはならない。ぼくはそう信じて疑わないが、それが理解出来ないという人もきっと多いことだろうとも思うので、今回の作文はそのあたりのぼくの思想を説明していこうと思う。
 基本的に、全文が敵意から湧いた物になるだろう。






 まず大前提として、いくらなんでも魅力を全く持たない物が大きな話題になどなるわけがない。100日後に死ぬワニという作品には、確かに魅力があった。
 100日後に死ぬワニの魅力、それは「結末を知った上で読むと生まれる面白さ」だ。ワニ君の何気ない日常が、近いうちに死ぬという前提で見ると深みを持つようになる。「また来年でいいか」というような言葉に、表面上には存在しない意味が加算される。そういった「面白さの形」の構造が、この上なく分かりやすく楽しめること、それがあの作品の魅力だった。
 同じような面白さは、他の無数の作品の中に無数に存在している。一度最後まで読んだ漫画を一巻から読み返す時、一度最終回まで見たドラマを一話から見返す時、何回かに一回は、知っているはずの話に初見時とは全く違った印象を持つことになり驚かされる……そんな経験をしたことのある人はきっと多いだろう。それは尊く、しかしどこにでもある面白さだ。
 だから100日後に死ぬワニは、その魅力の最大の目玉は、決して「新しい面白さ」を開拓したわけではない。ただ、「分かりやすさ」という面にだけ革新的な物があった。
 一つの作品を最後まで追うことは、結構な体力と時間を消費するものである。そして「結末を知った上での面白さ」は、その体力と時間の消費をさらに増やさなければ味わうことが出来ない。そんな、言わば「高級品」である「面白さの形」を、誰にでも手軽に味わえるようにしたこと。その面においては、100日後に死ぬワニは新しかった。
 けれども、全100話という量は、どう考えてもあまりにも多すぎた。第1話を見た時の「なるほど」という感覚は良かった。何も問題なく面白かった。いっそその1話が同時に最終話でもあれば、発想の上手い創作ということで無事に終わっていたと思う。
 けれど実際には100話あった。ぼくはその全てを見たわけではないけれど、節目節目で話題になるたびに覗きに行ってみれば、1話の頃とほとんど変わらないような「面白さの形」がそこにある。そしてその面白さとは「結末ありきの物」なのだ。逆に言えば、結末を抜いて考えた時のその作品に、面白さなど欠片もない。
 そこが手軽さの弱点なのだとぼくは思う。労力的な高級品である面白さの形を手軽に味わおうとすると、どうしてもそれ以外の旨味が犠牲になってしまうんじゃないだろうか。通常、改めて見返すと初見時とは別な面白さを発揮する作品というのは、「結末を知らない初見時」に読んだ時もちゃんと面白い物だ。結末を知らなければ面白くない物というのは、そういった意味で質に劣っている。
 けれども実際には多くの人が、100日後に死ぬワニという作品に対して愛想を尽かさず、見切りを付けず、なんやかんや先を気にして続きを待った。なぜそうなったのかと言えば、やはりみんな「ワニはどんな死に方をするのか」「本当にワニは死ぬのか」というところが気になったからだろう。100日後に死ぬワニの100日後とは「オチ」なのだから、オチが気になるのは当然のことだ。
 その感覚を理解することは出来る。ぼくだってワニの最期が気になった。しかし同時に、あまりに汚いやり方だとも感じた。ワニの最期は読者にとって、目の前に吊るされたニンジンだ。普通、面白さという名のニンジンは、最新話が公開されるたびに読者に供給されるべき物じゃないのか。そこの道理を当然のようにねじ曲げた作風はとても許し難い。
 とはいえ、結局ワニはちゃんと死んだ。そういう意味ではあの作品は読者を裏切らなかった。……が、そうだったとして、作品全体が褒められる物になるわけではない。100日後に死ぬワニという作品は、その汚いやり方を批判されるべき物である。アイドルのCDに握手券が付くことを批判することと同じように。
 そう考えているから、ぼくは、100日後に死ぬワニが国民的な流行りになろうとする素振りを見せた時、かなり焦らされた。批判されるべき物が、むしろ肯定されるのではないかと冷や冷やさせられた。
 実際にはそうならなかったのだからよかったものの、もしも100日後に死ぬワニを肯定する人間が圧倒的多数派になっていたら、日本の創作の面白さはいくらか死んでいたかもしれない。当時、ぼくはそんなことを危惧していた。






 たしか、ホームレス中学生という映画だったと思う。貧乏な家族がおかずも無しに米を咀嚼して、咀嚼して咀嚼して咀嚼し続けて、ある時言うのだ。
「いま一瞬、いつもと違う味がした! 旨かった!」
 と、それは劇中で「味の向こう側」と呼ばれた。
 食べ物でなくても、そんな風にただ一つのことを突き詰めることで、新たな発見が起こるようなことはあるかもしれない。その「突き詰めた事」が、「白米を白米だけで食べる」という一般的にはあまり上等ではないとされている行為だったとしてもである。突き詰めることは人の自由であり、それ自体は悪いことではない。
 けれども、白米を白米だけで噛み続けることを「美食」扱いし始めてしまったら、それは話が変わってくる。普通においしい料理を普通においしく食べることと、味の向こう側とを同列に語ってしまうと、何が良い物で何が悪い物なのか、分からなくなってしまう。
 100日後に死ぬワニは「面白さの向こう側」なのだ。上等には程遠い話を100話突き詰めた結果に辿り着く物、それがあの作品の結末だった。そしてそれを「名作」扱いされてしまうと絶対にまずい。なぜなら名作は売れる。売れた上に人から認められる。そうであるならば人は、第二第三の名作を作りたがるものだ。
 つまり100日後に死ぬワニが人々に認められた場合、100日後に死ぬワニのような作品が増産されることが考えられる。例えば鬼滅の刃とは違って、100日後に死ぬワニは作品の面白さ自体の手軽さ故に、比較的多くの人にとって「狙って真似できる物」なのだから、なおさらだ。
 すると、それを「名作というのはこういう物だよ」と見せられる若い世代が増えるだろう。その若者たちがいつか創作を行う時、もちろん自分で名作を作りたいと意気込むはずだ。そしてその時に思い浮かべる名作が「結末を知った上での面白さの、廉価版」になるとすれば、元々は廉価版であったその面白さの形を「完成形」として扱ってしまうだろう。
 我々が美味しい料理を食べられるのは、先人たちが「美味しいとは何か」を示してくれたからだ。我々が面白い漫画を読めるのは、先人たちが「面白いとは何か」を示してくれたからだ。大昔の人が「白米はそれだけで美味い」と言っていれば、誰かが「塩気のある物と食べるともっと美味い」ということに気付くまで、大抵の人間が白米を白米だけで食べていたことだろう。
 100日後に死ぬワニを流行らせてしまったら、世界の「面白い」の基準がいくらか後退してしまう。子どもを立派に成長させるためには親が立派であらなければならないように、これからも世界に面白い漫画が現れてほしいと望む人は、面白い漫画だけを面白いと言わなければならないのだ。決して、手軽な廉価版の面白さをスタンダードにしてはならない。
 だからあの作品が流行ったと言う間もなく消えていってくれたことは喜ばしいことだった。かわりに鬼滅の刃のような作品が流行ることは喜ばしいことだった。そうでなければ人間の感性は死んでしまう。それが防がれたことは大きい。
 何せ人間はきっと、感性を殺されても生きられるほど強くはないだろうから。






 全盛期に比べて、日本国内では据え置きゲームの地位が衰え、スマホゲームが天下を取らんとしている。多くの大人がゲームのためにまとまった時間を取れないことがその原因とされているが、その場合の問題はもちろん「ゲームのための時間や体力がないこと」である。間違っても「ゲームに時間や体力が必要なこと」ではない。
 仮に、時間と体力を失った人間に合わせてスマホゲームがさらに繁栄し、据え置きゲームは滅びたとしよう。すると人間はスマホゲームのおかげで幸せになれるのだろうか? 据え置きゲームに熱中する余裕があった昔の頃よりも? ……とてもそうは思えない。
 問題の根本を解決せずに対処療法的なことばかりしていると、幸福の絶対量は減少の一途を辿る。原液を薄めすぎたカルピスが「普通」になれば、販売機から出てくるボトルの中のカルピスの味だって薄くなる。同じようにあらゆる食べ物が不味くなっていったら、数々の美味しい物を食べていた時のような幸福は、過去の栄光を取り戻すまで永遠に失われるだろう。
 物事の批判に対して批判的な人たち、文句を言う人間は全て悪だと思っている人たちは、そこのところが分かっていないのではないかと思う。良い物を良いと知らしめることと同じくらい、悪い物を悪いと断ち切ることは重要だ。いわゆる腐ったミカンは取り除かなければならない。
 けれども、本当に心から「100日後に死ぬワニ」を気に入っている人だっているだろう。それはぼくも分かっている。作者本人なんかはその最たる例であった方がむしろ自然だとさえ思える。すると、そういう人たちにとっては、ぼくの思想こそが、腐ったミカンだということになる。
 人間は争わずにはいられない。何かを批判する時には、いつもそう思う。それが結局、ぼくの精一杯だ。争わずにはいられない世界こそが腐ったミカンなのである……と心の底から言えるほど、ぼくは強くない。我が身を守ることに必死だ。
 左利きの人は右利きの人よりも寿命が短い、と聞いたことがある。世の中のあらゆる物が右利き用に作られているため、そんな世界で暮らすことのストレスが寿命を縮めるというのだ。寿命の話の真偽がどうかは知らないが、ストレスの件は本当のことだろうと想像できる。ちなみにぼくは右利きである。
 もしも100日後に死ぬワニが流行る世界が来てしまったら、それはぼくが「精神的な左利き」になるということを意味している。悪いけどそうなりたくはない。ぼくはずっと右利きの世界の右利きでいたい。
 だからこの作文に「結末を知った上での面白さ」が生まれないことを祈って、締めとさせてもらおうと思う。
 鬼滅の刃が、今後も最高の出来でアニメ化されますように。
 

魔女の復活光景一覧

 最近、ツイッターで「不死の蘇り方のパターン、あなたはどれが好き?」という感じのイラストを見たのだけれど、そこに我らが聖杯の魔女ニマドさんのパターンが入っていなかったことが、この作文を書くきっかけになった。
 今回は作文の最後に、ここで記載された魔女が登場する作品のURLを置いておきます。まだ読んでない人や、この作文を読むことで興味が湧いた人たちはぜひ見に行ってみてください。
 また、先に言っておくと全ての魔女は、下記に記載する通りの方法でもって、死亡せずともダメージをゼロに戻すことが出来るものとします。






・聖杯のニマド
……0フレームで蘇るタイプ。復活モーションがない。いつの間にか「死んでなかった」ことになってるタイプ。
 自由度の高い魔法を持つニマドにとって「自分は魔女である」ということを人間に説明する際、重要なことは魔法で「何をするか」ではなく魔法で「何をしないか」である。例えば、
「こら、禁煙でしょ」
 と吸っていた煙草をひったくられて、そのタバコが手品みたいに消えたとする。これでも当然人間は驚くだろうけれど、
「こら、禁煙でしょ」
 と吸っていた煙草がひったくられ、それが彼女自身の手のひらに押し当てて消火されたなら、大抵の人はもっとびびるだろう。
 そういった演出面を考慮することで人間と友好関係を結ぼうとする彼女は、その気になれば様々な方法で蘇ることが出来るのだけれど、実際は0フレーム制が採用されることと思う。
 血まみれになって死んだはずの女が起き上がり、みるみるうちに傷が治っていくよりも、後ろから肩を叩かれて「えっ?」と振り返ると死んだはずの女がそこにいて、死体があったはずの場所を見ると血痕一つ残っていなかった方が怖い。そうやって彼女は「自分は魔女だ」ということを証明していくのである。



・被虐のカッセロ
……網目状の黒い光による円錐に包まれて、そこから解放される時に全快しているタイプ。木っ端微塵に消し飛ばされて死亡した場合は、逆に言えば「円錐の発生地点」が彼女の蘇る場所となる。なおその場合、その地点が選ばれる理由に法則性はない。彼女の性格と同じく、大体気分で決まる。
 カッセロの場合は狙って演出するタイプではなく、本人の意識が蘇りの方法に勝手に現れているタイプ。物理的な被虐が趣味である彼女いわく、「派手に治して安心させないと、向こうが本気でやってくれない」とのこと。
 ちなみに復活時に現れる円錐の直径はカッセロの体を包む最低限と決まっているので、なんらかの理由で彼女の体の大きさが変わると円錐の大きさも変わる。が、それは単なる黒い光であり、円錐の中に入った他者への影響は皆無である。その場合、円錐の中にいる者にとってカッセロの復活は0フレーム制になる。



・安眠のザロウ
……状況によって復活の方法は二パターンに分かれる。
 その場での復活に支障ない場合(肉体が原型を保っており、生存可能な環境がある(マグマの中とかではない))は、負った傷などのダメージを「肉体の時間」を巻き戻すかのように全快させたあと、起床のポーズ(仰向けの状態から上半身を起こし、両手を上げて伸び)をして目覚める。
 上記の方法が不可能な状況になると、彼女の復活は特殊な0フレーム制になる。ニマドと同じく気付いた時には復活可能な場所で蘇っていることになるが、その際「起床のポーズ」を必ず取る。
 また、「蘇生」ではなく単に「回復」を行う場合でも、彼女は一度目を閉じて眠りの体勢に入ることで上記の復活を行う。その復活方法の見た目上、初見の人間にとっては死んでしまったように見えかねないので、ものすごく心臓に悪い。



・偶像のイノベトラル
……泥から復活する。彼女が死亡した場合、その死体は泥となり、その泥が再び彼女を形作る。もちろん記憶や人格は継続する。
 死亡時に発生する泥が何らかの理由で速やかに消滅させられた場合、死亡場所から最も近い地点の泥から復活する。まったく同じ地点に複数の泥があった場合は、その具体的な位置を知らずとも方角単位で復活地点を選べることから、生前の意識が死後~復活の間にもどこかに存在している様子。
 何度でも復活出来るとはいえ、他の魔女と同じく、彼女は人間と同じ条件で一度死ぬ。そして彼女の復活は泥という原料を必要としているため、地球上の全ての泥が消滅した場合、その時になって彼女は本当の意味での死を迎える可能性がある。あるいは宇宙のどこかに、彼女の生存出来る環境と泥があるのだろうか……。



・偽証のコハク
……その場での復活に支障ない場合(肉体の原型と環境に問題がない場合)は、ザロウの復活方法から起床のポーズを省いた形で蘇る。
 復活に支障がある場合、彼女の肉体(死体)はまず「支障ない環境」まで移動する。この「移動」は、目に見えない力によって物理的に引きずる形で行われる。そして十分な環境にまで移動しきった肉体は、時間を巻き戻すかのように再接着されて、その後ザロウから起床のポーズを省いた形で復活する。
 ……なお、その「移動」の通り道にある物体は全て消滅する。(漫画「亜人」の設定をパク……参考にしてもらえると分かりやすいかもしれない)
 カッセロと同じく本人の意思が復活方法に勝手に影響しているタイプであり、つまり彼女はそんな時にまで「周囲を巻き込む」。が、だからこそ生前同様の性格通り、「移動」の通り道は他者の声によって指定することも出来る。指定する権利は早い者勝ちで決定される。
 また、肉体が木っ端微塵に消し飛ぶなど、そもそも「移動」する物がなくなってしまった場合は、彼女もニマドと同じ0フレーム制で復活する。周囲の存在にとってはそれが一番安全なので、万が一コハクを特殊な環境で死なせかけてしまった場合は、文字通り速やかに塵にすることをおすすめする。



・魂魄のヒヤナギ
……魂の入れ替えを行うタイプ。
 魂とは生命活動を行うために必要なパーツの一つであり、いくら魂だけを繋ぎ止めても、「魂が入っていないこと」以外を理由にして生命活動を止めた肉体を治すことは出来ない。よって、彼女に自己再生能力の類はない。
 しかし、彼女は自身の魂を操ることが出来る上に、他人の魂を操ることも出来る。なので彼女の復活とは、要するに他人の健康な体を乗っ取ることによって行われる。記憶や人格は当然引き継ぐ。また同様に、この方法で他人を実質的に蘇らせることも可能。
 なお、彼女の趣味は平たく言うと「監視」であるが、外見からでは「どの肉体の中にヒヤナギの魂があるのか」を人間が判別することは出来ないので、そういう意味で理にかなった復活方法と言えるだろう。




☆魔女登場作品リスト
・聖杯のニマド登場……「尽くす系ニマド」
https://syosetu.org/novel/186976/

・被虐のカッセロ登場……「鎖付きアクアリウム
https://syosetu.org/novel/229967/

・安眠のザロウ登場……「眠姫ザロウと漆モズ」
https://syosetu.org/novel/233192/

・偶像のイノベトラル、偽証のコハク、魂魄のヒヤナギ登場……「oneフォルダsevenシンズ」
https://syosetu.org/novel/244282/

何がRPGだ、馬鹿にしやがって

 Switchで出た新作の桃鉄を、ぼくは最初神ゲーだと思った。しかしそれは思い違いだった。
 父と母とぼくと弟……我が家は四人家族である。最年少の弟が高校生であることからこの家の平均年齢を察せられるけれど、そんな我が家は昔からずっと、四人でテレビゲームをして遊ぶことが習慣になっている。よその家が金曜日はカレーとか、三連休はお出かけとか、そんな風に決めている家族間のお約束として、土日にテレビの前に集まってゲームをすることが染み付いているのだ。
 そこで我が家は常々、家族全員で一緒に遊べる物として、操作技術によらない部分で勝負できるゲームを求めている。なぜそれを求めるのかといえば、アイテム有りのスマブラでも、50ccのマリオカートでも、まともな勝負が出来ないくらい、家族間でゲーム操作の得意不得意が別れてしまっているからだった。
 それでも我が家は、ミニゲームくらいの簡単なゲームでなら、それなりに楽しく戦うことが出来る。あるいは「すごろく」という、運と思考で形成されたゲームジャンルを選べば、得意不得意の概念はそもそも消える。だから「すごろく」は一つの理想だった。我が家の人間はみんな、家族の明らかなミスプレイングを見てほくそ笑むほど、人間性が終わっているわけではないから。
 そういう背景があって、マリオパーティwii以降の据え置き作品(つまり8から)を全て遊んだ。いただきストリートPS2wiiPS4で遊んだ。すごろく系やミニゲーム集らしきゲームは(あからさまに幼児向けまたはボリューム不足でない限り)片っ端から遊んできたつもりだ。……そして全て飽きた。
 マリオパーティの新作は、ボジョレーヌーヴォーのように毎年出てきてくれる物ではない。その他のタイトルも同じ……どころか、そもそも据え置きゲーム機におけるすごろく系ゲームまたはミニゲーム集的ゲームの新作自体が、そうそう多く世に出てくる物ではない。我が家は慢性的にすごろくに飢えている。準備や片付けが楽で、備品の紛失もなくて、様々な処理も機械がやってくれて楽ちんな、デジタルのすごろくに飢えている。
 その結果、かつてSwitchなんて物がまだ我が家になかった頃、wii桃鉄「北海道大移動の巻」を我々四人家族は、ゲーム中年数で言って200年プレイした。そしてもちろん飽きた。
 令和になって、その他のすごろくゲームに全て飽きが来た時、我が家は最後の希望である桃鉄の新作を待ち望んだ。そしてそれがようやく発売された。さっそく手に取って遊んでみて、「北海道(略称)」の時から大きく変化したゲーム性にぼくは大興奮した。そして前作の改善点が全て良くなっていることを知って、これは間違いなく神ゲーだと感じた。
 けれど冒頭に書いた通り、それは思い違いだったのだ。新作桃鉄は、対戦ゲームとしては下の下、パーティゲームとしても前作に劣る代物だった。






 新作桃鉄の出来に憤慨したぼくは、やがてこの制作者インタビュー記事に行き着いて、期待することをやめた。

https://news.denfaminicogamer.jp/interview/momotetsu2017/2#i-2

 このインタビューで最も重要な文言は、抜き出した以下の通りだ。



「100年プレイと言っても、普通の人でも20年から30年ぐらいで、だいたい決着がついちゃうのね。「このバランスでいいの?」ってさくまさんに聞いたら、「いいんだよ。『桃鉄』は20年過ぎたらもう、RPGだから」って言われてさ。“その割り切りなんだ”って、なるほどと思ったよ。」

「100年遊ぶモチベーションというのは、ライバルキャラと接戦を演じることではなくて、プレイを少しずつ積み上げていって、この超高額物件を買おうとか、そういうものなんだよね。RPGのレベルをカンストするみたいな。そういう思い切りで、バランスを調整してるんだなって。」



 ……ぼくはこれを見て怒り狂いかけたが、実際にはそれを通り越して、諦めた。
 我が家は桃鉄(北海道)を200年遊んだ。正確に言えばそれは、10年を二十回遊んだり20年を十回遊んだりしたことをわざわざ数えては記憶していて、それで自慢げに「200年も遊んだヘビーユーザーなんだぞ!」……と言っているわけではない。
 100年を、二回遊んだから、200年遊んだと言っているのだ。
 20~30年で決着がつく? 100年遊ぶモチベーションは接戦を演じることじゃない? ふざけやがってこの野郎……真剣に100年を戦った四人のことを馬鹿にしているのか!? と、そういう怒りが湧いた。
 一応言っておくと、このインタビュー記事は何年も前の物である。どうやら「Switchで桃鉄を出す」ということさえ具体的に決まっていなかった時期の記事らしい。だから新作桃鉄が本当にこの記事通りの、この記事と寸分違わぬ感性で作られた物であるという保証はない。けれども、少なくとも「この記事は2020年の物だ」と言われれば信じてしまうような出来の物……それが「新作の桃鉄」だったことは確かだ。
 我が家は、桃鉄を100年一戦で大真面目に遊ぶような人間が四人集まり構成されている。二回もそうやって遊んだのだ。ビリオンロードだってそうやって遊んだ。遊びといえども勝負は勝負、家族という名の対戦相手に塩を送るようなアドバイスをすることはあっても、やるからには勝ちたいという気持ちでやってきた。何百年もずっとだ。
 なのに新作桃鉄のゲームバランスはそれを鼻で笑うような物だった。いや、桃鉄は前作からそうだった。前作からずっと対戦ゲームとしての「やってはいけないこと」、バランスブレイカーがいくつか潜んでいた。けれど新作では「それ」が改善されていたように思えたのだ。……その「それ」というのが「前作の改善点」であって「バランスブレイカーの存在その物」ではなかったことが、だからなおさらショックだったのだけれど。
 新作桃鉄は北海道の時と比べて、十の欠点を改善した代わりに、百の欠点を新たに得てしまったようなゲームである。その分、改善された十だけが見えているうちの「序盤の手触り」に歓喜したばかりに、その後の百を見たショックは大きかった。それを感じる人間は大抵勝手なものだけれど、ぼくは新作桃鉄の本性に気付くにつれて「裏切られた」と感じた。
 そしてその後、何の運命か数年前のインタビュー記事にたどり着いて見れば、これである。桃鉄RPGだなんて、そう言われれば、もはや諦めるしかなかった。本当にそういう思考の人間が作ったとしか思えないほどに、対戦ゲームとしての桃鉄は死んでいるのだ。
 対戦が出来るすごろくゲームでRPGを語るなんてどうかしている。それで良いゲームになるわけがないんだ! ぼくは一時そう怒り狂ったけれど、すぐに「狂っているのは、100年プレイを家族で遊ぶ我が家の方だ」と気が付いて、どうしようもなく沈み込んだ気持ちへと追いやられた。
 人間の幸せとは結婚して幸せな家庭を築くことなんだ、それ以外にないんだ。……あらゆる人間からそう言い聞かせられる「結婚願望と無縁の人間」は、こんな気持ちなんだろうか。……と、そんな妄想にふけることしか出来なかった。





 そろそろ具体的に「新作桃鉄のここがダメ」という話をしていこうと思う。
 今作の対戦ゲームとしての最大の欠点は二つ。偉人とバンクだ。偉人とは正式には「歴史ヒーロー」だったか、たしかそんなような名称になっていた気もするが、とにかくそいつらはひどいバランスブレイカーだった。
 特定の物件を独占すると偉人が味方になる。そして偉人は自分の手番の一番最初、サイコロを使うよりも早くカードを使うよりも早く、一定確率で効果を発揮する。発揮される効果は偉人によって様々だが、中にはイカれた強さのぶっ壊れ効果が混じっているというわけだ。
 偉人のまずいところはまず第一に、「物件の独占による出現」という「桃鉄において元々顕著だった資本主義性」をさらに加速させる条件で加入して、「一切のリソースを消費せず」に効果を発揮するところだった。
 貧乏神のなすりつけが白熱する桃鉄というすごろくゲームにおいて、手番を消費せずに相手の行動を妨害することは「やってはいけないこと」だった。大金を奪うカードも他人のカードを叩き割るカードも全員をn回休みにするカードも、手番を消費しなければ打てない(足が止まる=その間に貧乏神をなすられかねない)という構造があったからこそ対戦ゲームとして成り立っていたのだけれど、桃鉄RPGとして見ている制作者にはこれが分からないらしい。
 調べてみたところ、この偉人のシステムは今作が初というわけではなく、過去作でも搭載しては「バランスブレイカーすぎる」と散々批判を受けてきた物らしい。歴史上の偉人が次々に登場する絵面は確かにイベントとしては面白いのだけれど、その絵面のためにゲームバランスを疎かにされたのではたまったものではない。二度同じ過ちを犯したということは、例のインタビュー記事と合わせて考えてみても、もはや改善の意思がないということだろう。……なおさら不愉快だ。
 続いて「バンク」のことだけれど、これは最大のがっかりポイントだった。
 桃鉄といえば資本主義ゲームである。金が金を呼び、金持ちが強力な急行系カードを買い占めて走り回り、走り回ることによって金を稼ぎながらまた強力なカードを買い占める……という流れが常識となっているが、しかし今作は序盤だけを見ると、その対戦ゲームとしては寒くなりかねない資本主義にメスを入れているように感じられた。
 今作ではざっくり言って、一度に持てるカードの枚数が大幅に減少しているのだ。初めてそれを目にした時、ぼくはこの上ないわくわくを感じた。今までの資本主義的ゲームバランスがカードに関しては一新されて、まったく新しい戦いが繰り広げられるのかもしれないと。
 しかしゲームを進めていくと、ある時「バンク」という概念が誕生してしまう。それはカードの避難所的なシステムであり、バンクにしまったカードはいつでも取り出すことが出来る上に、しまっている間は相手からの妨害によってカードを割られたり奪われたりすることがなかった。このバンクも今作初登場というわけではない、携帯機の桃鉄で過去すでに実装されたシステムらしかったが、なぜ再登場に踏み切ったのか、理解に苦しむとしか言えない。
 要するにカードの資本主義は加速したのだ。カードの買い占めはただの買い占めではなく、安全圏へ貯蓄する買い占めになった。他プレイヤーの行動ではどうしようもない領域に貯蓄が出来るようになってしまっては、対戦ゲームとしてはますます寒い展開となるに決まっていて、我が家においても実際にそうなった。
 これら二つのシステムは明らかに北海道の時よりもゲームバランスを悪化させている。その上それらは挑戦的に搭載された新システムでさえない、単なる見え透いたバランスブレイカーだというのだから、もうこの時点でほとんど愛想は尽きた。 
 ……が、今作のマズイ点はまだ他にもあった。
 例えば、北海道の頃には名産怪獣というシステムがあった。それは特定の地名を訪れると確率または条件次第の確定でゆるキャラ的な怪獣が現れ、様々なイベントを起こすという愉快な物だった。今作でもそのシステム自体は続投されているのだが、問題は、その出番があまりにも少なすぎることだ。さすがに統計など取っておらず体感の話になるけれども、怪獣の出番は体感で前作の半分以下だと言える。
 大量の偉人が搭載されたことによって、イベントの容量的に怪獣の出番は減らされてしまったのだろうか? 競技的な対戦ゲームという枠組みから抜け出して、「古い定義のすごろく」らしい単純な「運ゲー」として桃鉄を見たとしても、怪獣の出番減少は単純に寂しい。これは完全に個人の感想だけれど、教科書的に地名と紐づけられた偉人よりも、各地の名産品を元ネタにしたコミカルな怪獣たちが暴れ回る方がぼくは好きだった。
 そして、そんな個人の感想は抜きにしても、怪獣の出番が減ってしまったことはゲーム的に大きな損失だったと言える。なぜなら怪獣は「特定の地名に訪れた時」その瞬間に現れてイベントを起こすのに対して、偉人は特定の地名を独占したあとに、「自分の手番の最初」に現れて効果を発揮するからだ。……つまり「マスに止まること」が「イベント」に直結しているのは怪獣だけで、偉人は婉曲的であり、その婉曲さが最悪の結果を生んでいる。
 遊ぶ年数が長くなればなるほどに、怪獣と偉人の違いは本当に重大な差を生んだ。すごろくにおいて「マスに止まる→何かが起こる」という流れは神聖な物なのだと、ぼくは今作の桃鉄を遊んで始めて知ることになった。
 偉人は退屈なのだ。自分が今どこにいようとも、一度物件を独占さえしていれば、手番の初めに突然現れて効果を発揮していく、そんな偉人は「すごろくとして退屈」なのだ。怪獣のように、マスに止まる→何かが起こるという、コールアンドレスポンスの形が成り立っていないから、遊べば遊ぶほど、繰り返せば繰り返すほど、毎度のイベントの特別感が失われていって退屈な物になる。
 あぁ、前作ならここに止まった時はあの怪獣が出てきたのになぁ……。そう昔を懐かしみながら、全国各地どこでも大差ないマス目の効果に退屈さを噛み締めるゲーム、それが今作の桃鉄になってしまっている。その上、怪獣よりも「すごろくとしての面白み」に欠ける偉人が、対戦ゲームとしての面白みまで破壊しているというのだから、これはもはや憎んでも憎みきれない。多少大袈裟に言えば、偉人のシステムはそもそも、すごろくというゲームジャンルへの冒涜だとさえ言える。
 怪獣を押しのけて存在感を現し、対戦ゲームどころかすごろくとしての桃鉄までをもつまらなくする。そんな偉人に対する憎しみの勢いで、ぼくは今作に何体の怪獣が登場しているのかを調べてみた。……すると驚くべきことに、まだ一度も目にしていない怪獣が十体以上いることを知った。そしてその事実を知った時は目が飛び出るかと思った。我が家の新作桃鉄プレイ期間は、その時点でもう75年を過ぎていたからだ。
 詳しく見ると今作の怪獣たちは、妙に条件が複雑だったり、登場確率が低かったりする上に、60年を過ぎると一律で登場確率が低下する仕様になっているらしかった。そしてその情報の真偽は、我が家の経験がほとんど保証してしまっている。(ただしその情報サイトには虚偽の情報も紛れ込んではいた)
 前作を200年、今作を75年遊んだ経験から、いっそ断言してしまってもいい。どう考えても怪獣の出現率は激減している。あの頃の楽しさを、ピヨピーを、タコヤキングを、サラウドンを、ウナギラスを、オダワラー(カマボッコン)を、大岩五郎を、パールくんを、ピリピリ(めんたいこ)を、返してくれよ! あいつらがいたからゲームにメリハリがあって面白かったのに……。大体、75年も遊んでいて出てこない怪獣が十体もいるなんて、RPGとして見てもおかしいんじゃないのか?
 どうして前作ではゲームを彩る名役者だった怪獣たちを、今作では隠し要素がごとく必死こいて探しに行かなければいけないんだろう。それでようやく会えたところで何が楽しいんだ? そんな物はもう単なる退屈なコンプリート作業だ。すごろくにせよRPGにせよ、それが本編を味気なくしてまで用意するべき物だったのだろうか?
 今作はそんな風に、もはやRPG的なすごろくとして見ても難のある出来になってしまっている。前作だったら、日本列島を駆け回るはずの桃鉄というゲームで、目的地が月になることさえあった。種子島に行けた者からロケットに乗り、本当に月まで飛んで行き、月面のマップを走るのだ。そしてサブタイトルの通り、北海道が大移動(四国の下に来る)することもあった。確かに前作は奇想天外なイベントだらけで、対戦云々以前に初見でのRPG的な楽しさがあったことが認められる。
 それが今作はなんだ、愉快な怪獣の登場頻度は減り、複数のプレイヤーの手番にいちいち出てくる偉人の退屈なイベントでテンポは悪くなり、奇想天外のキの字もない平坦なストーリーにまみれて驚きは皆無と来た。強いて言えば東京オリンピックが開催されて各プレイヤーに大金が入るという時事ネタはあったが、どう考えたって「月がゴール」や「四国の下の北海道」に比べればパワー負けしている。さすがの名作とはいえネタ切れがひどくないだろうか?
 もちろん、毎度毎度予想の斜め上を行くイベントを用意しろとか、そんな無茶ぶりを言うつもりはない。けれど新しい怪獣を何体か考えて、前作までの出現頻度で搭載することくらい不可能ではなかったはずだ。対戦ゲームとしてもう少しマシな出来にすることだって、どう考えてももっとまともに出来たはずだ。出来ることはもっとたくさんあったはずだろう。無数にあったはずだろう。だって今作は、改善点ばかりなんだから。
 新作の桃鉄はどうしてこんな有り様になってしまったんだろう? 桃鉄RPGだからか? 何がRPGだ、馬鹿にしやがって。
 ……と、そんな風に、新作桃鉄を否定する言葉なら次から次へと出てくる。初めの手触りに期待させられたからこそ本当に憎たらしい。もっと世の中にすごろくゲームがあれば、家族がもう少しまともにゲームを操作出来ていれば、こんなクソゲーにかまってやることなんかないのに。現実として我が家はすごろくゲームに飢えているから、桃鉄の新作が出ればそれを遊ぶしかない……。
 ゲームで遊びながら、ゲームの勝ち負け以外のところで悔しさを感じたのは、初めての経験だった。





 ……実は新作桃鉄には擁護出来る点がある。というか、ある条件を満たすと、今作は神ゲーになる。
 その条件とは……一戦20年以上で遊ばないことだ。20年までならバンクは出ない。物件を独占しまくれるほどの資金力も身につきようがないから、偉人の問題もない。怪獣は相変わらず少ないかもしれないが、それと引き換えに(バンクや偉人と無縁である大前提の上で)対戦ゲームとして改善された新しいゲーム性の桃鉄を遊べるのだから、ほとんど文句のない完璧な状態だと言える。
 そうだ、元をただせばギャグのつもりで搭載された「100年(99年)」という規模でなんか遊ぼうとするから、数多の欠点に気が付いてしまうようなことになったのだ。20年までの規模で遊べば、今作は間違いなく神ゲーだった。100年プレイを始める前に、まずはお試しで10年を……と初めて新作に触れた時、それはそれは楽しかったのだ。100年プレイを始めた時、最初の20年は本当に楽しかったのだ。欠点なんか見つからなかった。黄色マスからとんでもない威力のカードがポンポン出てきて「このゲームはインフレとバランス調整を両立させたんだ!」と興奮したものだ。
 一生その20年以内に引きこもっていれば問題ない。100年プレイに手を出すという、明らかにこのゲームをしゃぶりつくそうという考えを持ったヘビーユーザーに対してのみ、ことごとく欠点を見せつけてくる今作の性質その物が気に食わなくて仕方がないところではあるけれども、そこは我慢だ。
 桃鉄100年を対人戦で遊ぼうなんていうのは、世間一般的には狂気の沙汰なのだろう。100年プレイはソロプレイヤーのためだけにある物で良い。そういう風に作った方が売れるに決まっているのだから仕方がない。極めて少数派である家族四人は、子どもが全員とっくに義務教育を終えている歳なのに毎週家族でゲームをするなんてすごく仲が良いんですね! と世間一般の「そうではない人たち」に言われながら、一生パーティゲームに飢えていればいいのだ。
 だから、新作の桃鉄の購入を検討している人がいるのなら、ぼくは正直に今作のことをおすすめしたい。個人的には今年触れた中で最も嫌いなゲームと言って間違いないけれど、大多数の人にとってはそうでないことが分かるから。
 まだ未プレイの人は、新作の桃鉄を買って遊んでみれば分かるから、そうしてみてほしい。それはとても楽しくて、この作文は、頭のおかしな人間が書いた物なのだと思えてくるだろう。

「oneフォルダsevenシンズ」の解説

 面白い小説があるので読んでください。これです。ぼくが書きました。

 

syosetu.org

 

 今回の作文は上に載せた作品のネタバレをごりごりにやっていくので、先に小説本編の方を読んでくることをおすすめします。

 けれど、どうしても、どうしても、ネタバレを見てからでなければ本編を読む気力が起きなさそうだ……という人は、その気持ちに従うことも有りだとは思います。おすすめは出来ませんが。

 ともかく、一つ確実に言えることがあります。上記の小説本編をまだ未読の人は、それを読んでおいた方が、そこまで見たいわけでもないyoutubeの関連動画を見漁るよりかは、よほど有意義な時間が過ごせるだろうということです。

 以下、ネタバレ解説になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・冒頭の一文について。

……本編の冒頭にある、「少年の日の思い出」に登場するエーミールの有名な台詞を題材にした文章。あれはどういう意味で冒頭に置かれた物なのか、というかそもそもあれは誰の言葉なのか、諸々の説明をテンポ的に作品内に取り入れることが出来なかったので、ここで説明しておきます。

 まず冒頭のあれは、夏樹の思考を文章化した物です。それもその思考は大学生の夏樹だけの物ではなく、中学当時の夏樹から続いている物だと思われます。

 エーミールは馬鹿だったんじゃないか? という旨のあの文章は、要するに「人間のクズの思考」の一例です。責任転嫁、罪悪感や共感性の欠如、そういった物を表す文章を、冒頭に置いておきました。本編後半で明かされる「殺したいほど俺のことが嫌いなら、俺と別れればよかったのにな」という夏樹の台詞も似たような意味合いを持っていますね。

 ただ、それと同時に、本作の主人公に当たる千柚は「人を見る目」のない人物であり、それが原因の一つとなって悲劇を被るので、冒頭文には夏樹の思考そのままの「人を見る目のない人間は馬鹿だ」という意味も含まれています。

 エーミールは馬鹿だし、それを指摘する人間もクズでしかない……、そんな救いのない「全員悪人」といった形の物語が、以降の本編で展開されていくことになります。作者としてはそれを初めから知っていたので、物語の方針を示す文章として、これを冒頭に置いておきました。

 また、話をややこしくする最大の要因として、「見る目のない人」が千柚であるなら、冒頭の文章に例えて言うと「千柚=エーミール」という構図になりそうに思えることがありますが、これはそうではありません。そのような構図はありません。

 そのような構図がないのだから、千柚が複数の人物から「あー、君はそういうやつか」という意味合いの言葉を受けることには、何の矛盾もありません。冒頭の文章はあくまでも、

「人間のクズの思考」

「人を見る目がないことの罪」

「物語の方針」

 の三つを示す物であり、それ以上の物ではないのです。

 だから本編内で千柚がかけられる「少年の日の思い出」のような台詞は、その言葉をかけられる側ではなく、むしろその言葉を「かける側」に注目してほしかったのですが、書き終えてから自分で読み返してみると、それはちょっと無理があるように感じました。これはちょっと何が言いたいのか分からないように見えるなぁ、と。

 本当に言いたかったことは、「人を見る目がない者」を見下しているやつだって、エーミールのような台詞を吐くことになるのだ、ということです。エーミールは馬鹿なのではないか? と考えたはずの夏樹自身が、千柚に「お前はそういうやつなんだな」と言うことに意味があるのです。

 少なくともこの作品の中には、聡明で真っ当で落ち度のない人間なんて、一人もいないこと。「少年の日の思い出」のような台詞を用いたことには、そういった意味を込めました。



・タイトルの意味。

……「oneフォルダsevenシンズ」というタイトルの意味も、作中で解説する暇はなく、また自然に伝わってくれるとも思えない出来になってしまったので、ここで説明しておくことにします。

 七という数字を聞いて、本編を読んだ人が真っ先に想像するのは、七体の泥人形A~Gのことになるかと思います。もちろんそれらを「夏樹の欲から生まれた泥人形」という「一つの括り(フォルダ)」に属する、「七つの罪深い存在(シンズ)」と捉えることも間違いではありません。というかそれは正解です。……ただ、正解は二つあります。

 泥人形という「人工的(魔女工的)に作られた物」を除いた、「純粋な人格」だけを作中から抜き出すと、ちょうど七つになるのです。それを指して「「この小説」という一つの括り」の中にある「七人の罪深い存在」という意味で、oneフォルダsevenシンズというタイトルを付けました。

 千柚、夏樹、生前の設楽功、イノベトラル、コハク、見張りの男、ヒヤナギ。この七人は全員悪人である。そういった意味を込めて付けたタイトルです。これは本編冒頭のエーミール云々の話とも共通した意味合いですね。

 ただ、ぶっちゃけた話、執筆終盤になって「七人いる!」ということに偶然気が付き、急遽このタイトルを付けたので、意味が伝わらなかったとしても仕方がないことだとは思います。作者自身でさえ途中まで気付けなかったことを、読者に気付けというのは無茶ぶりすぎるかなぁと。だからここで説明するようなことになってしまいました。

 ちなみに正式タイトルが決まる前の執筆中の仮題は、そのまま「七人いる!」でした。ハンターハンター経由で「11人いる!」というタイトルの漫画があるらしいことを知ったので、夏樹が従える女性(泥人形)の数を指してパロディ的なタイトルを付けようとしていました。

 11人いる! の内容をぼくは全く知らないのですが、一人の男に彼女が七人もいればそりゃあ「!」くらい付けたくなるだろうと思い、それはそれで良いタイトルだと考えていました。

 ところで一説によると、異性との付き合いについて、女性は「上書き保存」的に、男性は「名前を付けて保存」的に記憶するそうです。括りという意味で使った「フォルダ」という言葉はそこになぞらえています。



・各キャラクター名の由来。

……これもせっかくなので説明しておこうと思います。

 千柚は「か弱そうな女性名」を連想して付けた名前であり、それ以上の意味はありません。彼女にはなんとなく弱そうなイメージを付けておかないと、なあなあで夏樹と友人関係を続けているという背景に合わない気がしたのです(強い人ならとっくに夏樹のことなんかしばいてると思う)。

 非常に差別的なことですが、最近執筆した小説に登場する人間にはそういった「印象」で名前を与えています。しかしまぁ文字だけの表現という、ある種インターネット的(古風に言えば文通的)な形態を用いている限り、漠然とした印象という物は、すごく重要な物であるように個人的には感じています。

 夏樹も「明るくて元気そうで爽やか」という印象だけで名付けました。生粋のイケメン系クズである彼ですが、陰湿さや悲痛さからは遠い存在にしたかったので、それらとは縁遠そうな印象の名前にしました。要するに単純なクズにしたかったのです。「大樹」等になると体育会系感が強まってきてしまうので夏樹、という感じです。

 設楽功は、これは「功」という名前から感じるサバサバした男性の印象を頼りにした一方、苗字に関しては何の意味もなく適当に付けました。記憶に残りやすいそこそこ珍しい苗字、かつ珍しすぎない苗字を必要とした時、設楽という苗字が思い浮かんだのです。無論それは、バナナマンの片割れの顔をしていました。

 魔女イノベトラルの由来は「ライトノベル」のアナグラムです。彼女の魔法は作中において「ハーレムを作る魔法」とも言い換えられますが、ハーレムといえばなろう系小説、なろう系小説といえばライトノベルでしょう。だから「ライトノベル」の文字を入れ替えて「イノベトラル」です。この名前を思いついた時、ぼくはぼくのことを天才だと思いました。

 魔女コハクの由来は「紅白」と「旗揚げゲーム」です。「人の言いなり」という彼女の性格を旗揚げゲームに例えて、旗揚げゲームといえば赤と白だろうということで、紅白(コウハク)を縮めてコハクと名付けました。魔女の名前というのはこのように、必ずしょうもない理由を持っているものです。

 魔女ヒヤナギの由来は「柳」と「幽霊の正体見たり枯れ尾花」です。幽霊と柳には何かと関連性がありますが、登場時すでに死亡している彼女には「彼女は本当に幽霊です」という意味で「正体は枯れ尾花ではない→非枯尾花」という名前を付けようと思いました。しかしそれではどうにも形になりそうにないので、植物繋がりということで柳を引っ張ってきて「非柳」です。

 ちなみにそれぞれの魔女の名前の発音ですが、イノベトラルは違法賭博、コハクは琥珀、ヒヤナギは茨城と同じ発音です。



・ヒヤナギの性格について。

……魔女はみんな頭がおかしい。作中で挙げた通り、それは揺るがぬ事実です。しかしそれにしても、ヒヤナギだけはさすがにちょっとおかしすぎないか? という疑問が、本編を読み返した自分の中に芽生えたので、ヒヤナギという魔女についてのことをここで説明しておこうと思います。

 イノベトラルは「盲目的に彼氏を好く女」の誇張です。コハクは「まわりに流されることしか出来ない人間」の誇張です。ではヒヤナギは何の誇張なのか? 彼女は「好きな人が自分のいないところで何をしているのか、気になって仕方がない人」の誇張です。

 自分のいないところ、つまり、自分が死んだ後の世界で、生前好意を向けた男が何をしているのか。それを実際に確認することが彼女の生き甲斐なのです。しかし魔女らしく頭のおかしい彼女は、「確認した物」が何であろうと必ず満足します。

 と、その一部を切り抜いた風景が本編での描写だったわけですが、この説明無しでは、一番意味の分からないままぶっ飛んでいるキャラクターになっていたことかと思います。なのでどうぞ、ここで納得していってください。



 以上で、大体の解説を終えました。これよりも細かい解説を今後ツイッター上で行う可能性について、ゼロとは言いきれないので良ければフォローしておいてください。

 フォローすれば、単なるオタクのツイートと、「あぁ、あの小説を書いた人って本当にやばい人なんだ」ということが察せられるツイートが見られるようになると思います。面白いのでおすすめです。


ツイッター……@kinukawa1221


 それではこの作文は、次こそはもっと単体で面白い作文を書けるように……と祈りつつ、ここで終わることにします。

 2021年に続く!

ローリスク・ノーエノン

 最近、小説を書きました。今日のこんな作文よりそっちの方が遥かに重要なので、下に貼ったURLから賢明な未読者さんたちはそっちの方を読んできてください。

 

syosetu.org

 ただ、上に貼ったURLから読める話は長く、暗く、重いので、そういうのが無理だという人は、こっちの短く、軽く、ノリで読める方を読んできてください。こっちもつい最近書いた物です。タイトルから察せる通り本当にノリで読む物なのでよろしくお願いします。

 

syosetu.org

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 では作文の本題に入ります。

 上に載せた二つの小説のうち、前者を読んだ人間はほとんどいません。作者からは閲覧数が確認出来るので断言できます、ほとんどいないのです。oneフォルダsevenシンズを読んだ人間の数なんかより、一般人は聞いたこともないような奇病の国内罹患者数の方がたぶん多いだろうと半ば確信できるくらい、本当にほとんど読まれていません。

 対して下に載せた方(二つある内の後者)の、人前でタイトルを読むこともためらわれるような小説は、そこそこ閲覧数が付いています。前者の十倍以上……というか四十倍くらいあります。かけ算の元の数字が小さすぎるので、数値として特別大きいわけじゃないのですが、それはそれとして差が大きいことは確かです。

 そしてぼくが確認することの出来るこの「閲覧数」というやつは、言い方を換えると「アクセス数」という物になります。つまりその数字は、読破した人の数を保証する数字ではなく、少なくとも最初の一行を画面に表示した人の数を保証する数字であるわけです。

 ……要するに、確率的に、誰も前者の小説を最後まで読んでいないことだって、あり得ることになります。

 

 なんとなく察せているかもしれませんが、より力を入れて書いたのは前者の方です。

 

 ……名作ミステリ小説「九マイルは遠すぎる」の著者ハリイ・ケメルマンは、同書の序文にて、こんなことを言っていました。

「作家はしばしば、一篇の物語を書き上げるのに、どのくらいかかるかと問われることがあるものである。ここにそのひとつの答えがある。それは一日で済むかもしれないし、十四年かかるかもしれない、どちらと見るかは人それぞれの見かたによる。」

 この言葉は、素人が趣味で物を書く場合でもまったく同じ通りだと思います。ぼくが冒頭でURLを載せた二つの小説のうち、特に前者の方は、書くために年単位の時間を要したとも言えるし、一週間と一日で済んだとも言えるわけです。

 今までの人生があったから書けたという見方をすることも出来る……という意味では後者の方の小説も同じなのですが、そっちの方は執筆開始から一日で書き終えることが出来ました。一万文字ちょっとの後者を書くのは一日で終わるのに、四万文字ちょっとの前者を書くのには一週間かかったことを照らし合わせてもらえると、前者を書いていた時のぼくの苦労が若干伝わるのではないかと思います。

 そして前者の方は、どうにも書き進められずに一度諦めたこともありましたし、それは「一週間と一日」という「執筆期間」にはカウントしていません。一方で後者の小説は、それを思いついたのは書き終える前日でした。

 過去、ここのサイトに載せた作文の中にて語られた「イノベトラル」という名前を覚えている人はいるでしょうか。その珍奇な名前のキャラクターを、つい最近になってようやく作品として成立させられたのです。長い道のりだったんですよ。

 ……だから当然のことながら、ぼくは前者が全く読まれないことの原因を探ろうとするのですが、そこでまず第一に言っておくべきことがあります。それは「内容がつまらなさすぎる、ということはあり得ない」と考えていることです。

 はい、それだけは無いです。主観的な意味でもそうですし、以前それなりの閲覧数を記録して肯定的な感想や評価までもらった過去作品の中にも、今回と似たような長く暗く重い話があったことから、内容が問題であるわけではないと考えられます。

 ではいったいどこに問題があるのだろう? それを突き止めるために、比較対象として、ぼくは直近でそこそこ閲覧数が付いた後者の小説が、なぜその閲覧数を付けられたのかを考えました。そしてその答えを得るために、自分のさらに過去の作品まで遡り「閲覧数の多かった作品」をリストアップして、そのリストにあるはずの何かしらの共通点を探してみました。

 まずはタイトルを見てみよう……ということで、これから、300件以上の閲覧数が付いた自分の過去作品のタイトルを並べていきます。閲覧数の多い順に並べました。またここに記載する閲覧数は全て、この作文を書いている十二月七日の昼頃に確認した数値となっています。

 また「閲覧数」を見る都合上、更新されるたびに繰り返しページへアクセスすることになる「連載形式の作品」は除外しておきました。

 以下、リストです。

 

・「恩返しの鳥類」……閲覧数5602件 (公開日2020年5月)

・「セックスしないと出られない部屋」……閲覧数1087件 (公開日2020年9月)

・「僕のクラスには雪女がいる」……閲覧数916件 (公開日2015年10月)

・「マッチ折りの少女」……閲覧数832件 (公開日2016年4月)

・「勇者はオナニーがしづらい」……閲覧数476件 (公開日2020年12月)

・「動機を答えよ」……閲覧数452件 (公開日2017年4月)

・「縛られる視線」……閲覧数413件 (公開日2016年12月)

・「もったいない闇医者」……閲覧数392件 (公開日2020年5月)

・「深夜十二時の鐘が鳴る頃、シンデレラたちはすやすやと眠っている」……閲覧数369件 (2016年10月)

・「空を飛ばない青い鳥」……閲覧数355件 (公開日2016年12月)

・「体も心も痛まない」……閲覧数347件 (公開日2016年8月)

・「スケープゴート(バーチャル謎肉、二次創作。)」……閲覧数341件 (公開日2019年12月)

・「触れられるのは一度だけ」……閲覧数334件 (公開日2015年12月)

 

 ……はい、閲覧数300超えの作品はこれだけありました。13個ありますね。

 これらのリストのうち、例外的に扱うべき物が一つあるのでそれを先に挙げておきます。「スケープゴート(バーチャル謎肉、二次創作。)」ですが、これはタイトル通り二次創作作品であり、なおかつ18禁作品です。これら二つの特徴を同時に持つ作品は現状これ一本のみなので、共通点探しのデータとしては例外的に扱います。

 例外を除いた12作品のタイトルにある共通点はなんだろう? そう考えて自分の過去作を見た時、全てではなくともある程度多くの作品に共通する点を一つ見つけました。それは「元ネタがあること」です。

 そのまんまタイトルにしている「セックスしないと出られない部屋」とは一部界隈で有名な概念ですし、「雪女」「マッチ売り(折り)の少女」「シンデレラ」と元ネタの存在がタイトルの時点で明らかな作品が三つもあります。そしてタイトルからは分かりにくいかもしれませんが、読者の皆様方が小説投稿サイトで読み物を探す時に、タイトルと一緒に必ず見えるはずの「あらすじ」に「現代版、鶴の恩返し……!!!!」と書いてある「恩返しの鳥類」も元ネタがある作品と呼ぶことが出来るでしょう。

 12作品中5作品が、元ネタの存在が明らかな小説でした。そして13位中の1~4位をそれら5作品のうちの4作品が独占しています。……これはもう、「元ネタの存在がタイトル(あらすじ)から見えること」が、閲覧数を増やすことに貢献していると言ってしまって良いでしょう。

 ちなみに閲覧数300件未満の作品数は20個あり、そのうち元ネタの存在が明らかなタイトルは「西の魔女が死んだ」のパロディ的ネーミングである「北の人魚が死なない」ただ一本しかありませんでした。さらにその一本の作品の物語は、あらすじを見て明らかに分かるほど、西の魔女が死んだとは一ミリも関連していない内容となっています。

 以上のことから、過去作品のタイトルを見ただけでも「元ネタの存在を匂わせている物が強い」という傾向が読み取れます。……が、「oneフォルダsevenシンズ」というタイトルはもちろん「勇者はオナニーがしづらい」なんてタイトルにこれといった元ネタはありません(「七つの大罪」と「勇者(概念)」という見方も出来ますが、それを言い出すと「青い鳥」や「闇医者」やその他様々な単語も定義に巻き込まれかねないので、それらは一旦切り離して考えます)。

 作品ごとに生まれる閲覧数の差が大きすぎること。その謎は、元ネタのあるタイトルだけでは説明しきれなさそうです。というわけで、次はあらすじの方を見てみましょう。例えば「暗い話はウケない」などの傾向があるなら、それがあらすじの表すところから読み取れるはずです。

 

 

・「恩返しの鳥類」のあらすじ

……現代版、鶴の恩返し……!!!!

 

・「セックスしないと出られない部屋」のあらすじ

……セックスしないと出られない部屋に拉致られた学生、小田君と佐藤さん。二人はなんとかして部屋から出られらはしないかと奮闘するけれど、小田君の方は一人で黙々と、的外れな思考を深めていくのだった……。
 救えない人間は、セックスしたって結局救われないと思います。

 

・「僕のクラスには雪女がいる」のあらすじ

……隣の席の女子、彼女は雪女と呼ばれている。

 

・「マッチ折りの少女」のあらすじ

……雪の降る夜。真っ白な雪の積もる夜には、マッチ折りの少女が現れるらしい。

 

・「勇者はオナニーがしづらい」のあらすじ

……現代の勇者は性欲が強かった! そんな彼が打倒魔王を達成するまでの愉快な一部始終をお送りします。

 

・「動機を答えよ」のあらすじ

……見上げる彼の視界には、配線コードのような物と火花が映っていた。

 

・「縛られる視線」のあらすじ

……以前から家に帰ると視線を感じる。誰かに見られている。視線の正体を突き止めることもできずに時は流れ、今日も仕事を終えては居心地の悪い家に帰る。
他に見る物もないのでテレビを点けると、芸能人が怪談や都市伝説を語る番組が映った。するとそこで話される内容が、なにやら自分の境遇に似ているではないか。テレビを見るうち、いつもより強い視線を感じるようになっていく……。

 

・「もったいない闇医者」のあらすじ

……誇張でもなく比喩でもなく、正真正銘どんな患者でも立ち所に治療してしまう凄腕の闇医者「蟷螂蚕(とうろう・かいこ)」が主人公の話。

 

・「深夜十二時の鐘が鳴る頃、シンデレラたちはすやすやと眠っている」のあらすじ

……シンデレラが仲良く家族で暮らす平和な話です。

 

・「空を飛ばない青い鳥」のあらすじ

……中学三年生の瑠奈は幼い頃に両親が離婚し、父に育てられてきた。その父が、半年ほど前に再婚した。
再婚相手の女性を受け入れることができず、家に居場所がない。何をするわけでもなく公園にいた彼女に、妙に惹かれる声を持った男が現れる。彼は、瑠奈を誘拐するのだという。
本人曰く、彼の目的は、釣りへ行くことらしい。

 

・「体も心も痛まない」のあらすじ

……生まれつき肉体的な痛みを感じず、それどころか精神的なストレスも感じない。そんな女の子の話。

 

・「スケープゴート(バーチャル謎肉、二次創作。)」のあらすじ

……バーチャル謎肉たかぎさんの二次創作です。18禁です。

 

・「触れられるのは一度だけ」のあらすじ

……制服を着ていた。私は家を出て学校に向かう。

 

 

 ……はい、以上ですね。長い物も短い物もありましたが、数としては後者の方が多いように感じます。

 リストアップしてみて分かった重要なことは、タイトルからして明らかに暗く重たく救いのないあらすじは存在しない、ということでした。実際の内容はともかく、あらすじの時点では、例えば明らかにバッドエンドだろうなと分かる物はありませんし、明らかに人が死ぬだろうなと分かる物もありません。一部「誘拐」「救われない」という不穏なキーワードが入ることはありましたが、物珍しいあらすじ(誘拐した娘と釣りへ行くとは?)の誘拐物が十中八九バッドエンドになると断言できる理由はないでしょうし、「救われない」についてはタイトルのインパクトが強すぎて「ギャグかもしれない」と思わせる余地があります。ホラー路線の匂いがする「縛られる視線」のあらすじについては唯一その傾向の例外かもしれませんが……。それはあとで考えましょう。

 ところで、明らかに救いのなさそうな印象のあらすじがなかった一方で、あらすじとタイトルを見ただけでは内容がまったく想像のつかない物も混じっていました。「動機を答えよ」「触れられるのは一度だけ」が最たる例ですね。これらに閲覧数が多く付いたことから、少なくとも「内容が具体的に想像出来ない作品は軒並み駄作」ということはなさそうだと言えます。

 さて、それではここで、閲覧数300未満どころか100未満になってしまった不人気作品のあらすじを見てみましょう。

 

 

・「oneフォルダsevenシンズ」のあらすじ

……「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」
 偉そうにそんな台詞を吐いたエーミールは、もしかすると馬鹿だったんじゃないだろうか? ある人物がそう考えた。
 異性、恋愛、心、人権、正義と悪、友達。……それらについての確固たる持論を持った人間たちと「人間ではない者たち」が絡み合う時、必ず誰かが幸せになって、必ず誰かが不幸になる。現代の若者たちを主役としたそんな微ファンタジー小説

 

・「北の人魚が死なない」のあらすじ

……「他の人がやりたがらないことを率先して行える人は良い人だ」

 頭のネジが何本か飛んでいる男二人が、食えば不老不死の力を得られるという人魚の肉を求めて北へ行く。

 彼らのような人間は、案外傍にいるのかもしれない。

 

・「ロスト・ガーディアンスライム」のあらすじ

……外見からは人間との見分けが付かず、人類を滅亡に追い込む化け物「堕脳(ブレイン))」。
 異能力を持った童貞たち「EF)かx(サード)」。
 良い具合に腐りきった警察の先輩後輩コンビ、九段下&井納。

 脱走した捕獲済み堕脳「初乃蘭(か(ういの・らん)」の行方を巡って、クセが強すぎる面々の奔走が始まる!

 

・「眠姫ザロウと漆モズ」のあらすじ

……安眠の魔女ザロウは友人の勧めに従い、人間として生徒として学校に紛れ込んでいた。どこのクラスにでもいるような冴えない陰キャ男子である漆モズは、ある日そんな魔女へ蛮行を働く……。

 捉え方によっては恋愛小説です。

 

・「鎖付きアクアリウム」のあらすじ

……肉体的な苦痛を望む人外、被虐の魔女カッセロは、自らの欲求を満たすために度々弱者を演じる。そして今回はその手の目論見が上手く行き、彼女はまんまと誘拐の被害者となった。
 しかし出会いがどんな形であろうとも、彼女のもとに現れる男たちは、多くの場合彼女を失望させる者たちであった。

 

・「デイフラワー・ザ・ゴールド」のあらすじ

…… ループする金曜日に陥れられた少年「志田」が、その元凶を見つけ出して全てを解決する超短編!(ジョジョパロディを多分に含みます)

 

 

 ……はい、2020年下半期だけの物を抜粋するとこんな感じです。過去の人気作品たちに比べると、ちゃんとあらすじを書こう、物語の内容を伝えよう、という気概がいくらか増しているように感じられます。

 これはぼくの推測なのですが、あらすじは真面目であればあるほど不人気になるのではないでしょうか? タイトルがほぼあらすじと同義であるセックスしないと以下略を除けば、人気作品上位五つは全てあらすじが短い物になっています。それどころか13作品全体で見ても、長々と物語の内容を説明している物は数えるほどしかない一方で、そうではない物は10作品近くあります。

 またその他に挙げられる特徴としては、最近の不人気作品のあらすじに共通する「長文の中のジャンルの不明さ」があります。

 長文かつ不穏な雰囲気の漂う「縛られる視線」のあらすじは、しかし明らかにホラー系だろうと分かる内容をしていました。もちろんそれがミスリードというか騙し討ちである可能性もゼロではありませんが、最近の作品のあらすじにあるジャンルの不明さと比べればそれはほんの僅かなことです。

 最近の不人気作には、一目見て「〇〇系の話だろう」と想像出来るようなあらすじが付いていません。そしてそれはタイトルを見ても同じです。書いたぼく自身ジャンルが明確ではないので、投稿する時はいつも「ジャンル……文芸」を選んでいるくらいです。

 これは「空を飛ばない青い鳥」と同じような特徴だと言えますが……とりあえず主人公が誘拐されることは明らかなそれと、男二人で人魚の肉を食べに行くと語る作品のあらすじ、どちらが実体を想像しやすいかと言われたら、やっぱり前者の方になるんじゃないでしょうか。

 また、デイフラワー・ザ・ゴールドだけはあらすじに思い切り「ジョジョのパロディ」と書いてあるのですが……これが不評だった理由は本当に謎です。元ネタがあってバトル物と分かりそうなのに。

 しかしまぁ、そればかりは謎だったとしても、他の12作品(または11作品)については傾向が見えてきているので、大まかにはその方向で考えて間違いないでしょう。

 そして、すでに言ったように、閲覧数とはアクセス数のことです。読破した人の数ではありません。もちろん口コミや、ランキングに載ること、投稿サイトの機能にある「推薦」を行ってくれる人(恩返しの鳥類が唯一、この機能の恩恵を得られた作品でした)、評価を見てから読むか否か判断する人の存在はあるでしょうけど、それでもせいぜい300件程度の規模なら、そこまで致命的な差が付く「閲覧数の資本主義」は存在しないのではないかとぼくは考えています。現にツイッターの方で数百数千のフォロワーを持つ人に読了宣言をしてもらった作品が、閲覧数100未満の不人気作品となっている例だってありますし、口コミ的な物を数の勘定に入れるのは基本的に無理筋であるように思います。

 そうすると閲覧数とは、小説本文の内容ではなく「タイトルとあらすじ」でほとんど決まる物だ……と考えてしまうことも出来るようになります。完全にその通りだとは言えないでしょうけど、どちらかといえばその傾向があると考える方が自然なはずです。

 さて、では結論として、今回の「共通点探し」から読み取れることとは何だったのかと言いますと、つまり閲覧数の多い作品とは……「元ネタがある物であり、なおかつ、あまり真剣に長々とあらすじを書いていない物」……であるようです。

 特に元ネタがなく、あらすじが小難しい物は不人気となる傾向があると、そういうわけです。……ただこの考え方をすると、人気作品のうち長文あらすじの二作品のことをどう処理するのかに困るのですが……。

 その二作品は例外として切り捨てて考えてしまっていいのでしょうか? ……いや、実はまだ、この過去作品のデータには隠された事項が残っているのです。それはいったい何なのかというと……。

 

 連載形式の作品を除く全作品34個のうち、閲覧数100未満の作品は8個あり、そのうち6個は2020年下半期に書かれていること。

 そんなショッキングな事実が、今回過去作品のデータを収集している最中に判明しました。

 

 ……つまり、ぼくの書く小説の閲覧数が頻繁に三桁を割るようになったのはつい最近のことであり、昔は人気作品の傾向に従っていない作品でも、少なくとも100件の閲覧数は付いていたことになります。

 もちろん各年で小説の投稿数にはかなりの開きがありました。初めて投稿サイトに小説を上げたのは2015年7月のことであり、2015年に上げた小説の数は6本、そのうち現在の人気作(閲覧数300以上)は2本ありました。6本書いて最初の年に2本も! 素晴らしいことですね。

 翌年2016年に上げた小説は10本。人気作はそのうち5本です。初投稿から約一年が経過したこの年には、上げた小説のなんと半数が閲覧数300を越えています! すごい!

 その翌年2017年に上げた小説は4本。本数は少なくなりましたが、これは連載形式の作品を除いた数字であり、ぼくが連載形式での執筆に初めて手を出したのもこの2017年でした。上げた4本のうち人気作は1本ありました。最初の年が6本中の2本から始まったことを思えば、悪くない打率だと思います。

 その翌年2018年に上げた小説は連載形式を除いてなんと0本。連載形式を数に入れても3本しか上げておらず、またそれらの全てが未完のまま、企画が(ぼくの中で)永久凍結しています。完全に不作の年です。

 不作を抜けての2019年に上げた小説は連載形式を除いて3本。人気作は1本でした。また、連載形式を数に入れれば上げた作品の総数は5本でしたが、それら2つの連載も未完で凍結しています。人気作を出したとはいえ微妙な年ですね。

 そして現在の2020年12月7日現在、2020年に上げた小説の数は連載形式を除いて11本。過去最多です。そしてそのうちの人気作は4本です。ちなみに連載形式まで数に入れると作品総数は16本になり、5本の連載のうち1本を除いて無事に完結しています。めでたい!

 さて、ではここで2020年を除き本数が最も多かった「2016年に上げた10本のうちの人気作5本」と、2020年に上げた11本のうちの人気作4本のタイトルを具体的に挙げて、比較してみましょう。

 

 

☆2016年作品(古い順)

・マッチ折りの少女

・体も心も痛まない

・深夜十二時の鐘が鳴る頃、シンデレラたちはすやすやと眠っている

・空を飛ばない青い鳥

・縛られる視線

 

☆2020年作品(古い順)

・恩返しの鳥類

・もったいない闇医者

・セックスしないと出られない部屋

・勇者はオナニーがしづらい

 

 

 ……おや? 2020年は4本のうち1本が元ネタのあるタイトル(あらすじ)で、2本が下ネタですね。「奇抜でもなく元ネタもないタイトル」は1本だけです。一方でそれは2016年作品には3本もあります。2020年の方が総数は1本多く上げているのに、人気作の数では1本劣り、奇抜さと元ネタに頼らない作品では2本負けていました。

 これについて語るには、三ヶ月ほど記憶を遡る必要があります。

 ……実を言うと、ぼくは「セックスしないと出られない部屋」を書いた時点で、すでに今回話したような傾向に気付いていました。だって2020年になってまた昔みたいにたくさん短編小説を書くようになったのに、その半数が不人気なんですよ? 特別力を入れた作品だろうとそうでなかろうと、データ的にそういう数値が出てきたら、なぜそうなってしまうのだろうと普通考えるじゃないですか。

 特に2020年初っ端の短編だった「恩返しの鳥類」は異常です。短編で当時唯一の閲覧数四桁、5000超えですよ5000超え。どうして去年まで閲覧数三桁は確保していたのに、今年のスタートダッシュは(推薦のおかげで)異常な出来の良さだったのに、その後不人気作が六つも出てくる事態になってしまったというのでしょう? おかしくないですか。

 だからぼくはその原因を調べ、「元ネタありが強い」と気付き、そして自分の書いた18禁小説2本(その内1本は未完凍結の連載)がそれなりの閲覧数を稼いでいたことを鑑みて、一部の界隈で常識と化している概念「セックスしないと出られない部屋」というタイトルで小説を書きました。実験のために、あらすじに「救えない」という不穏なキーワードも入れておきました。

 それで得られた閲覧数は1087! 短編作品で二回目の四桁です。けれどもその作品の評価は、以下のようになりました。

 

・閲覧数1087件

・お気に入り9件 

・十点満点の評価……7点が1票、6点が1票、5点が1票

・感想0件

 

 それに対して「恩返しの鳥類」と「もったいない闇医者」の評価はそれぞれ以下の通りです。

 

☆恩返しの鳥類

・閲覧数5602件

・お気に入り204件

・十点満点の評価……9点が56票 8点が19票 7点が7票 6点が3票 5点が1票

・感想13件

 

☆もったいない闇医者

・閲覧数392件

・お気に入り3件

・十点満点の評価……9点が2票 7点が1票

・感想3件

 

 

 ……はい、明らかにセックスしないと(以下略)は嫌われていますね。閲覧数400に満たない闇医者に比べてお気に入りの数が特別多いわけではなく、闇医者に感想が3件あることに対してセックスしないと(以下略)は0件、読者の付けられる十点満点の評価は低い点数を付けられています。どう見ても、仮にこの作品を今よりも五倍多い数の人に見てもらったとしても、鳥類の恩返しのような素晴らしい結果にはならないでしょう。

 しかしぼくには、この作品が閲覧数ばかり優れていて実のところ評価の伴っていない物となった理由がよく分かるのです。……その理由とは「セックスしないと出られない部屋」というタイトルなのに、セックスシーンは全カットだったことでしょう。しかもこの際ネタバレしちゃいますけど、その話はバッドエンドなんですよ。

 18禁タグが付いてない時点でエロ描写なんか高が知れていることくらいは分かると思うのですが、それにしても「セックスしないと出られない部屋(概念)」系列の作品を読みたがる人というのは、エロさやエモさを求めて読み始めると相場が決まっていることでしょう。ぼくだってその気持ちはよく分かります。けれど、だからこそその需要に唾を吐くような物語を書いたのです。

 するとそれが閲覧数四桁! 低評価! こんな結果を見せられたら、書いた側としてはこう思うしかないじゃないですか。

「あぁ、大抵の人はタイトルや何となくの響きを見ることで読む気を起こして、自分の期待した物と違う内容があると「つまらない」と評価するのだなぁ。そして彼らの「期待」は「救えない」という不穏なワードがバッドエンドに繋がることを許さなかったのだなぁ……。……みんな、手軽でありきたりな物が好きなんだ」

 そんな風に、ぼくは悟りました。そして「勇者はオナニーがしづらい」を投稿してみると、またそれなりの閲覧数を得られたわけです。今度は評価の方も閲覧数500未満に対してお気に入りが2件、十点満点の評価8点が2票とそれなりに良い物となりました。あらすじにある「愉快な」というキーワードにある程度忠実な内容だったので、みんな満足してくれたのでしょうか?

 しかしそうした「ある程度予測できた人気(または不人気)」の影で、6本の閲覧数的不人気作品が生まれているわけです。その中でも例えば「ロスト・ガーディアンスライム」は、あらすじにもあるように「異能力を持った童貞」が活躍する話になっているのですが……。……ぼくはこれを「童貞守ってたらチート能力に目覚めた件」みたいなタイトルで発表するべきだったんでしょうか? そうすれば少なくとも閲覧数は三桁に届いていたのでしょうか……?

 しかし仮にそうだったとしても、はっきり言って、クソくらえなんですよね、そういうの。大っ嫌い、馬鹿じゃねぇのと思います。

 不人気作品の内容を見てもらえば分かってもらえることなのですが、ぼくはそれで寄って来る人たちに向けて小説を書いてるわけじゃないんですよね。巷で噂のソードアートオンラインがアニメ化したから「どんなに面白いんだろう!」とわくわくしながら見たら、今まで見た全ての深夜アニメの中でワースト1位なんじゃないかってくらいクソつまらなかった時から、ぼくはライトノベル的な小説が大嫌いです。もちろんライトノベルの中にだって面白い作品はありますけど……それらの数に対して内容のしょうもない物が多すぎます。

 けれども読者の多くはその「しょうもない内容」を求めている。四年前にはいたはずの、ライトノベル的ではないぼくの作品を読んでくれていた大勢の読者たちは、いったいどこへ行ってしまったのか……? と、ぼくは昔が恋しくなります。けれども、考えてみれば「四年」の月日が流れていたのです。四年もですよ。小学校卒業を間近にしていたガキんちょが、高校受験を終えるくらいの月日ですよ。大学生活の丸々全てを含むくらいの月日ですよ。

 昔の作品を読み返してみると、ぼくの文体が、四年で激変しているんですよね。だから「どうして四年前はライトノベル的ではない作品でも読んでくれる人がいたのだろう……」という問いの答えは一つ、「ぼくの文体が四年前はラノベっぽかったから」だと推測できます。あらすじの件にもその傾向があったように、「素人が投稿サイトに上げた小説」を読む人たちというのは、そういう層の人たちは、小難しい文章を嫌う場合が多いんじゃないでしょうか。内容がラノベっぽくない、文体もラノベっぽくない、……じゃあ読まない! ってことです。

 ぼくの激変っぷりは「死神JKデイズちゃん」「魔法少女デビューはメルヘンにあらず」という数年前の二作品と「死神JKデイズちゃん(リメイク!)」という作品を読み比べてもらうと分かると思います。あるいは一番初めに投稿した作品「機械的な日々」と、2020年に投稿した作品のいずれかを読み比べてみてもらっても大丈夫です。まったくの別物であることが分かります。デイズちゃんリメイク版の方が未完凍結の連載作品なので、URLは貼りませんが。

 ともかくそういうわけで、昔のぼくは死んで、もういません。そしてそろそろ話をまとめに入ろうと思います。

 2015年に小説投稿を開始して5年経ち2020年となった今、ぼくと小説投稿サイトの読者層は、いつの間にか嫌い合う関係になっていました。ぼくは「セックスしないと出られない部屋」だって「作品としてつまらない物」を書いた気など毛頭ありません。タイトルに釣られて寄ってきて、あらすじに一応ヒントを出しておいたような、理不尽ではないはずのバッドエンドな内容に「つまんね」という判断を下した読者たちのことが嫌いです。彼らを目がけてマーケティング的に正しいタイトルを付けるなんて御免ですよ。

 しかしそれならそれで、じゃあどの層へ向けて小説を書いているの? と言われると、ぼくはそれに答えられません。なぜなら小説執筆は完全な趣味であり、仕事にしようとか誰かと競い合おうとか、そういった感覚はまったくないからです。

 その一方で、ぼくが嫌っているタイプ以外の、ライトノベル的ではない読者の大多数が普段どこにいるのかというと、それは小説投稿サイトなんかではなく、本屋や図書館や電子書籍購読ページなんですよね。良い物が読みたければプロの書いた物を読めばいいというのは当然の発想でしょう。ぼくもそうしています。素人作品の中から読む価値がある物を探すくらいなら、そんな砂漠に落とした真珠を探すような真似をするくらいなら、素直にプロの書いた本を買いますよ。

 だからこの宙ぶらりんな、プロ並みの努力は絶対御免だけどライト層は大嫌いだ……という思想に染まってしまったような、そんなぼくの書く小説の「読者」は、ほとんど「ぼく本人」しかいないことになってしまうのです。というか、すでにそうなっています。不人気作の急増がそれを表しています。

 けれどそれでいいんだと思います。こうやって自分の統計じみたデータを漁ってみたり、各作品を書いた時のぼくがどんな人間だったかに想いを馳せたり、文体の変化に時の流れを感じたり、それで自分のことをより深く知ったり……。と、それでいいんですよ。

 趣味でやっていることなのに、何が悲しくて、嫌いな人たちに向かって「どうか読んでください」と媚びなきゃいけないのか、ぼくには分かりません。間違いなく面白いから読め! ぼくから言えることはそれだけです。

 ……いつか虎になりそうだって思った人が、どこかにいることかと思います。

 

 

 

 

 

 ここまで読んでくれるような人がいるのか甚だ怪しく思いますが、最後にこの作文のオチを書いておくことにします。まだ今回のタイトルの意味を明かしていませんからね。

 ぼくは昔、ゲスの極み乙女というバンドの曲が好きでした。しかしボーカルの川谷絵音(かわたに・えのん)とベッキーの例の騒動によって、ぼくはそのバンドの曲を素直な気持ちで聴けなくなり、やがて興味を失っていってしまいました。だって騒動の最中に出た曲のタイトルが「両成敗でいいじゃない」ですよ。サビが来るたびに例の騒動が脳裏をよぎって気が散るじゃないですか。

 が、そんなぼくが何かの機会か偶然かによって、久しぶりにゲスの極み乙女の曲を聴くことがありました。それもぼくが興味を失った以降の時代に生まれた曲です。それは「影ソング」というタイトルの曲で、サビの歌詞はこうでした。

「日々のうのう What you know? 何も知らないくせに出しゃばって

 日々のうのう Oh what you want? 本当に品がないな君たちは」

 ……ぼくは、これは才能だと思います。

 川谷絵音はいつか言っていましたよね。自分が悪いことをしたのは分かっているが、部外者である一般の人たちは何故こんなにぐちゃぐちゃと口出ししてくるんだ? みたいなことを。その気持ちをこんな歌詞にして歌に乗せることが出来るのは、創作者として抜群の才能だと思います。まぁその才能のせいでぼくは再び「あ、ぼくはやっぱりもうダメだ、このバンド」と判断したわけですが。ぼくはとにかく、歌を聴いている時は気を散らせたくないんです。

 で、まぁそれはそれとして、川谷絵音の言い分には一理ありますよね。部外者が口出しするなという点ではなくて、「口出ししている人のいったい何割程度が、そんなに立派に生きているんだろう?」という意味で。キリストだって「石を投げていいのは一度も罪を犯したことがない人だけ」とか、そんな感じのことを言っていたじゃないですか。その点では一理あるんですよ。

 だから彼が本当にまずかったのは、それを「客」である「一般の人」に言ってしまったことなんだと思います。彼本人でもなくバンドメンバーやベッキーや彼に苦しめられた女性でもなく、まったく無関係のコメンテーターが同じことを言っていれば、賛同されるとまではいかなくとも「一理ある」とは思われていたはずです。

 川谷絵音はそういう意味で、名前が売れすぎていました。「一般の人」という言葉がそのまま自分の客層を指してしまうような大人気の獲得は、ハイリスク・ハイリターンなんですよ。

 一方ぼくみたいな有象無象の一人が、こんなインターネットの片隅で、自分の客層であるだろう人たちに「大っ嫌い。馬鹿じゃねぇの」と言ってしまったところで、川谷絵音と同じようにはなりません。なぜなら誰も見てないからです。閲覧数で言えば二桁だからです。

 だからぼくはずっとこのまま、誰にも気付かれないような場所で、好き勝手なことを書き続けていきたいと思っています。小説を書くにしても、それ以外の物を書くにしても、それは変わりません。

「リスクは低く、絵音にはならない」

 はい、タイトル回収!





 ……恩返しの鳥類に「お手本のような起承転結」とお褒めの感想をくれた読者のことは大好きです。

 

ポエム2

「自分のことしか愛せない人間は、誰からも愛してもらえないんだって」
「……それはつまり、誰かに愛してもらえた人間は、他の誰かを愛せるようになるってこと? ……あのね、君のことを愛する覚悟も無い人間ばかりがね、君のことを悪く言うんだよ」





 クズっていうのは馬鹿にされるのが好きなのよ。何の役にも立たない人間に「君もつらかったんだね、気付いてあげられなくてごめんね」って、それが煽りじゃないなら何だって言うの?





 「好きこそ物の上手なれ」なんて言葉は、因果関係の順序も分からない大昔の馬鹿が生んだ言葉だ。





 心がガラスで出来ている。破片は他人に突き刺さる。





 外で野良猫を撫でていると、車の走っていく音が聞こえた。私も猫も、即座に音のした方向に目を向ける。不倫している気分だった。





「容姿に惹かれることは愚かなことだと考えています」
「外見よりも内面に目を向けるべきだ……ということですか?」
「いえ、美しい容姿はすぐに失われる物だからです」





 子どもの頃、大きなショウリョウバッタを踏んでしまったことがある。その時見た物は今でも忘れられない。内臓が飛び出て、グロテスクも極まったそのバッタは、なんとそのまま跳んで逃げていったんだ。……だから自殺はおすすめ出来ないな。君もあのバッタみたいになるぞ。





 理性が強い人というのは、努力でそれを保っているわけじゃない。ただそれを捨てることが出来ないから、持ったままになっているだけだろう。





 生まれたからには幸せになりたいと願っていたが、しかしそもそも、人間は幸せになるために生まれてきた物なのだろうか?
 良薬は口に苦く、つらい時間ほど長く感じ、愛だとか友情だとか……簡単には得られない物ばかりが、幸せを求める心の「急所」になる。……人間はむしろ、不幸になるべくして作られた物なのではないだろうか。





 わたしより辛い思いをしている人が世の中にはたくさんいる。だからわたしは、世界で一番不幸になったつもりで泣くことにしたの。そうすれば他の人たちは、わたしよりももっと声を上げやすくなるはずでしょう。





 社会通念や倫理観に逆らった形の思想は、実行によってのみ輝き、死によってのみ完成する。





「もしもあれが人魚だったら、きっと住処は汚泥だろう」
「サビに行くたび死にそうになるのやめてもらっていいですか」
ー 歌が下手な人 ー





 私はあの人を心配しているわけじゃない。私はただ、喉元まで出かかる「だから言ったのに」を飲み込み続ける人生の、その辛さを想像して、それを避けようとしているだけだ。





 望んだものが望んだようになる世界を望むなら、希死念慮の取り扱いは心得なければならない。





 大根おろしは一晩置いておくと辛さが消えます。人生とは違いますね。





「……いい?」
「どうぞ。……ただ僕は差別主義者なので、煙草を吸う女性は嫌いですね」
「おお、差別主義者ね。別にいいんじゃないかな、私も背が低い男は嫌いだし」





 映画を見始めて約十分が経った頃だったろうか。友人の親が死んだという報せを、友人本人から聞いて、やはり自分は人と関わることに向いていないと確信した。なんて間の悪い奴なんだと思ってしまったのだ。 





 魔女の誕生は、あなたから見た他人の心境の劇的な変化のように、理解の外で突然生まれたように見える物です。





 大きな家を見ると、あの中にある暮らしはどんなに素敵な物なんだろうとつい考えてしまう。おぞましいことは狭い家の中にあると決まっているわけでもないのに。





「実のところ私たちは、人間とほとんど変わらないんですよ。暑ければ汗をかくし、刺されれば死ぬでしょうし、それから……出来れば誰からも嫌われたくないものです」





 過去が美化されていくことは、ずっと続けられるなら素晴らしいことですよ。死に際に振り返った時、ああ良い人生だったと思えるんですから。





 死なないで……なんて無責任なことは言えないから、もしあなたが自殺をするようなら、その時はしょうがないから、私はあなたのことを恨むことにするよ。





 事実は変えられないが記憶は変えられる。いわゆるタイムマシンの実現は、そういった着想から始まった。





 科学もセクハラも「知りたい」から始まる。





「私のことは筋肉のようなものだと思ってほしい。筋肉は君を助ける。しかし君が筋肉を助ける必要はない」
「それは、そんな言い方をするなら人間はみんなそうじゃないか。疎かにするといつの間にかいなくなってしまう……」





 甘え方が分からない。甘ったれるのは得意です。





 性欲に伴わせるべき礼儀を重んじる人間のうち、果たして何割程度が、金がないばかりに礼儀に頼っているのか、知る由もない。





「笑顔が素敵な女性を見ると好きになってしまいます。けれど同時に、その笑顔をぐちゃぐちゃにしてしまいたくもなるんです。……だけどそんなことをしたら、その人はもう二度と、僕に笑顔を見せてくれなくなってしまう。どちらかを必ず諦めなきゃならないんですよ、僕は、一生……!」
「……ふーん? じゃあ今日のところは私をぐちゃぐちゃにしてよ。また明日笑ってあげるから」