夢日記。夢の国

 ぼくは遊園地の列に並んでいた。一人だった。他に並んでいる人は前後に大勢いて、大人も子どもも男性も女性も多かった。そのアトラクションは室内型のようで、列も室内にあった。内装にはスチール感があり、全体的に秘密基地のような雰囲気がしていた。
 そろそろ自分の順番が近付いてくる段になると、その辺りに小さめの看板が一つ立っていることに気が付いた。土台と細い支柱一本で立ち、頂点に四角いボードが付いているタイプの看板だ。
 それは列を形作る綱のような手すりの外に立っていて、諸注意を説明するかのような形でこちらを向いていた。しかしそこに書かれている物は諸注意の類ではなかった。

「アトラクションの演出上、お名前のイニシャル順に入場していただくとよりお楽しみいただけます!」

 顔にAとかKとかSとか書かれた某人間たちがイニシャル順に並び直す絵と共に、そんなようなことが書いてあった。
 ぼくは他の客がその看板に従うのかを気にした。自主的な並び直し(それもイニシャル順)なんて上手く出来るのかなぁと考えると、きっと現代人はこれを無視するだろうと予想した。
 しかし実際は、列をかき分けて前の方へとやって来た子どもたちが、イニシャル順に並び直し始めたのだった。するとそれを微笑ましげに見守りながら大人たちも並び直しを行い、一瞬のうちにそれは成し遂げられてしまったようだった。
 即席で集められた他人同士がこんなに上手くやれる物なのだなと、感心を通り越して呆気に取られている間にぼくの順番がやってきた。派手な添乗員のような衣装を着たお姉さんに通されてアトラクションの中へ行く。
 イニシャル順が必要な演出とはいったい何なんだろう? そうワクワクとした想像をしながらぼくは嫌に静まり返った道を進んだ。なんとなくタワーオブテラーの鏡の演出が頭に浮かんだのだけれど、なぜイニシャル順と関連しそうもなく内装の雰囲気とも一致しないそれが思い浮かんだのかは謎だ。
 通路を歩いていけば乗り物の乗り込み口だとか、スクリーンの前に敷き詰められた座席だとか、そういった物が現れるのだとばかり思っていた。しかし実際は、二つの大きな扉が現れただけだった。
 右と左、二つの扉。見た目上どちらにも違いがあるようには思えず、どちらも「押し」の両開きで、他の場所と同じく無骨なスチール感を演出している。またその扉からは、中の様子を確認することが出来なかった。
 ぼくはなんとなく、左の扉を開いた。扉は軽い物だった。
 扉を抜けた先には、裸の女性が大勢いた。床はそこから突然ペタペタとした素材になっていて、壁に沿うような形でそこかしこに密集し積み重なるロッカーが設置されており、なんだか湿気の多い部屋だった。ぼくは咄嗟に、大きなプールの更衣室を連想した。
 そしてその時になって思い出した。ここはアトラクションではない。遊園地の中にある大浴場だったのだと。ぼくはその更衣室のうちの一つに来ており、まわりには裸の女性が大勢いる……。
 ……しかしまぁ、男女それぞれの更衣室へ続く扉がさっきの二つの扉だったとして、見分けがつかないなんてことがあり得るだろうか? あちこちを裸の女性が行き交う中、入口付近で立ち尽くしたままぼくは考えた。
 更衣室の男女表示を見逃すだとか、見逃しかねない分かりにくい表示しかされていなかっただとか、そんなことがそう簡単にあり得るとは思えない。そしてその「自分があり得ないミスをした」という説に無理があることは、目の前の光景も証明してくれていた。
 誰も、ぼくがそこへ入ってきたことに対して悲鳴を上げないのだ。訝しげな視線を送ることすらない。服を着ているとはいえ、まさか見た目で男と気付かないはずはないだろう。そしてよく見ると、その部屋には中学生くらいの男子(裸)も数人いた。
 更衣室が男女で分けられている、という考え方からして間違っていそうだ。ならばいったいどういう区別がされているのか……それは分からないが、とにかくぼくがこの場にいることは、どうやら「間違い」にはならないようだ、ということだけが確かだった。
 けれどもさらに観察を続けてみると、この部屋には成人以上の男性が一人もいないことが分かった。小さな子どもや明らかに未成年であろう人たちの中になら裸の男だっているが、逆に言えば男はそれくらいの種類しかいないのである。女性に関しては遊園地が好きそうな若い年代が目立つことはあっても、各年代の人たちがそれなりの数闊歩しているのにも関わらずだ。
 ぼくは、これはまずいかもしれないと思い始めた。まさか見た目で性別を勘違いされることはないだろうと断言出来るが、年齢なら勘違いされていてもおかしくはない。しかしそうだったら、ぼくが服を脱いだところで、皆は本当のことに気付かないままになるだろう。ぼくが黙っている限り誰も気付くはずがない。誰も、ぼくのことを子どもだと勘違いし続けるしかないのだ。
 そしてぼくは服を脱いだ。ずっとその部屋にいると、周囲の人間がことごとく裸でいる中、自分だけ服を着ていることがどうにも恥ずかしいことのように思えてしまったのである。
 結果、誰もぼくの存在には目もくれなかった。かといって透明人間になっているわけでもないことは雰囲気で分かる。ぼくが何もおかしなことをしていないから、誰もぼくの存在を意識していないだけだった。
 一体何なんだろうここは……? 困惑しながら更衣室を抜けて先へ進むと、隣の部屋と合流して浴場へ向かうための、尋常ではなく大きな廊下に出てきた。そこを成人以上の男性を含むあらゆる人間が裸で歩いていた。
 ぼくは隣の部屋を覗いてみる。それは後から思えば迂闊な行動だった。もしも二つの更衣室が何らかの基準で区別されている物なら、片方に馴染んだぼくがもう片方に入ることはとんでもない行為になるということを、その時はまったく考えていなかったのである。
 しかし幸いにも、結果としてぼくは「右側の更衣室」でも目立つことはなかった。ぼくがそこにいることが至極当然だというように、他人同士健全な距離感としての無視がそこにもあった。
 しかし右側の部屋には、明らかに男性が多かった。こちらの部屋にいる女性は明らかに幼児と呼ぶべき年代だろう人しか存在せず、また左の部屋の女性比率よりもさらに際立って男性比率が高かった。大まかに見れば、やはり二つの部屋は性別で区別されているように感じた。しかし本来なら更衣室に大まかも何もないだろう。ぼくの見方が何かおかしいのだと思った。
 浴場へ続く大きな廊下には、中央にトイレが設置されている。普通トイレといえば更衣室の中に設置されていそうな物だが、それは例えば公園にある物のように、巨大廊下の真ん中にドンと建っていた。
 トイレはちゃんと男女別に分かれていた。青色と赤色でそれぞれの性別を示す人型マークが入口に書かれている。間違えようもないほど分かりやすく見慣れた表示だった。
 ただ少し不思議なことがあるとすれば、廊下の真ん中に建ったそのトイレでは、左が男子側で右が女子側になっていた。更衣室の位置から考えれば、左右逆になっていた方が自然なはずだ。
 ……と考えたところで、あれ? と違和感に気付き始める。世界がぐわんぐわんと回転するような現実離れした感覚と共に、ぼくはまた周囲を見回した。
 どこを見ても、どこを見ても、裸の女性がいる。明らかに誰もが無防備で、明らかにぼくのことを気にも留めていない。男のぼくが、しかも裸で、その人たちのことを見ているのに、誰もそれを気にしていなかった。
 この場所でも「女性を露骨に見ること」は不審な行動として扱われるはずだとぼくは思った。他の裸の男性たちも、ここにいる全ての人間がぼくに対してそうするように、何もおかしなことはないと言わんばかりに、女性を含む全他人たちのことを適度に無視している。そんな中でぼくだけがジロジロと見回していたら、その行動は不審かつ不愉快と捉えられるに違いないはず。
 ……と思うのに、実際はそうならなかった。ぼくがどれだけ周りの人間を見回しても誰も気にしないのだ。そして、そのことを確認してから、ようやくぼくは気が付いた。
 ぼくはいくらでも視界に入る女性の裸に、何ら興奮していなかった。それは下半身だって証明していることだった。
 絶対に何かがおかしい……。そう考えたところで、全てが途切れた。





 夜になってから、友達を誘ってもう一度大浴場に行った。ぼくが左側の更衣室に入ると、そこはガランとした無人空間になっていた。どうやら夜にここへ来る人はほとんどいないようで、貸切状態になっているようなのだ。
 服を脱いでから巨大廊下に出ると、友達はすでにそこで待っていた。友達というのは同年代の女性だった。彼女の長髪は原色の濃い赤色をしていて、なんとなくぼくは、彼女が自分の友達であることを奇跡なのだと思っていた。彼女は欠点なんかおよそ無いような人間で、ぼくとは大違いだったから。
 廊下に出てもなお他の人は一人もいなかった。昼間は賑やかだった廊下も、今は照明があってもなんだか暗い感じがする。広大な面積が寂しいその場所に二人きりだった。やはり彼女も裸になっていた。
 女友達の裸を見た。ぼくは確かにそう認識していて、何ならその状況自体に少なからず興奮もしているはずだったけれど、しかしそれはどうも性的な興奮とは違うようだった。例えるならば何かこう、自分の好きなマイナー漫画を友達も好きであることを初めて知った時のような、そういう意味での興奮だった。当然肉体反応は何も起こらない。
 ぼくは両腕を伸ばして左右の更衣室をそれぞれ指さし、その友達に聞いてみた。
「もしかしてなんだけど…………あっちとこっちって男女別で分かれてる?」
「そりゃそうでしょ?」
 何を当たり前のことを言ってるんだ? と彼女は首をかしげていた。今一度確認するけれど、お互いとも完全に裸である。
「……昼間来た時、間違えたっぽいんだよね」
「はぁ!? マジ!? え、それで大丈夫だったの?」
「まぁなんか、うん。何事もなかった」
「えぇ……。それはすごい」
「それでなんだけどさ」
 今度はトイレを指さして言う。
「あれも男女別に分かれてるよね」
 友達は頷いた。
「ええ」
「なんで?」
「えっ? そりゃトイレはそうでしょ、普通」
 友達はいぶかしげな顔をして当たり前のようにそう言った。ぼくだって確かにそう思う。トイレは男女別、更衣室も男女別、それが普通だろうと。でもそうだからこそ、何かおかしい。
「なんか変じゃない?」
「何が?」
「更衣室は右が男で左が女なのに、トイレは逆だから、配置として不自然じゃない?」
「あー、言われてみれば確かに」
「それから……」
 ぼくは周囲を見渡して言った。昼間には文字通り、誰の裸でも見放題だったこの場所を見渡して。
「更衣室を男女で分けてるなら、ここで合流するのはおかしい。裸で風呂に入りに行くのに、合流しちゃったら分ける意味がない」
 更衣室をいくら分けたところで、最終的に合流してしまえばそこで何が起こるのか。そのことは、その場にいるぼくたちがちょうど証明していた。
「……あっ、えっ? 本当だ。……えっ? あれっ……?」
 ほんの簡単なことだと分かっているはずなのにそれが理解できないという様子で、友達は見るからにうろたえていた。けれども彼女は、リンゴを食べたイヴのように突然その体を男の……ぼくの視線から隠そうとし始めるようなことはしなかった。少なくとも彼女はこの場所のおかしさに気が付き始めても、自分の裸を隠したいとは思わないらしかった。
 大体彼女は、更衣室は男女で分かれていると当然のように答えてくれたわりに、左側の更衣室から出てきたぼくを見ても何も言わなかった。そしてぼくに裸を見られることを何とも思っていないらしいこともある。けれど彼女だけじゃない、みんなどこかがおかしい。変だ。
 そして、何かがおかしいのはぼくも同じだった。ぼくは、本当なら性欲にまみれた男のはずだった。こんな状況で性欲のことを忘れるわけがない男だった。それを思い出した。思い出しても、どうやら一向に何も変わらないのだけれども。
 でもこれが理想郷だと思った。性欲なんて物はやはり消えてなくなった方が良くて、それが消えてもぼくは性別に……女性に執着する。そして女性たちはぼくのその執着に対して、何も感じないでいてくれる。自分は今、性欲が消えて、許容に溢れた世界を見た。それが理想で、ここが楽園だ。そう思った。





 目が覚めた。

怪奇ファミスタ人間

 これは前回記事の続きに当たる作文です。

 ↓前回記事↓
https://arisu15849.hatenablog.com/entry/2020/10/10/201435















 前回書いたように、パワプロ勢だった我が家に初めてファミスタがやってきた。パワプロとはあまりにも違った仕様に戸惑い、それを楽しみながら遊び続けてみて、そろそろファミスタ(2020)がどういった物なのかを理解してきたと感じるので、今回それについて書いてみようと思う。
 結論から言うと、ぼくはもうファミスタのことが好きじゃなくなった。





 ファミスタは野球ゲームではなく野球盤ゲームである……とは前回にも言った通りだ。投手と打者のやり取りにおいて上下の概念がなく、左右の動きと球速による駆け引きだけで遊ぶゲームなのだと。
 しかし実は、ファミスタにも上下の概念があることが判明した。正確には「落ちる」という概念がある。それは野球盤で言えば、レバーを引くことでストライクゾーンの底が抜けるギミックのような物だった。
 全投手が共通して投げられる球種フォーク。パワプロとは違い、ストレートと同じように全ての投手がそれを投げられるゲーム性には何か意味があるはずだと前々から思ってはいた。そしてそこ末に、フォークとは「振ってはいけない球」なのだ……ということを知ったのだ。振ってはいけない球……「ストライクゾーンを通るボール球」とも言える。それが察知していた「意味」の内容だった。
 ぼくは初めてファミスタのフォークを見てからしばらくの間、それは途中で心電図のように揺れ動き、それによって減速する「緩急の球」だと思っていた。速球と減速球を使って野球盤らしい駆け引きを楽しんでくれ、ということなのかと。
 しかし実際は違った。波のように揺れる球は、減速を表現しているわけではなかった。「落ちて」いるのだ。上下の概念がないゲームで「今、この球は落ちています」という意味を表すために、フォーク球は揺らめいていたのだ。そしてファミスタにおいて「落ちた球」には、絶対にバットが当たらない。
 似たような機能がアナログ野球盤にも実在する。先に言った「底が抜けるギミック」は、単なる架空の例えではないのだ。
 実際の野球盤でストライクゾーンの底がからくり屋敷の如く抜けてしまうと、当然ながら誰もその球を打つことは出来なくなる。球は穴の中に消えていくだけだ。だから底抜けによる「消える魔球」は、振らなければ必ずボール判定となるルールになっている。しかしいつ底が抜けるのか(というか、抜くのか)は投手担当のプレイヤーしか知らないため、そこに駆け引きが生まれることになる。
 ……と、それをデジタルで再現した物が、ファミスタのフォークであるというわけらしい。フォークを打つことは出来ない、しかし振らなければ必ずボールになる。ならばそれは野球盤ゲームとしてふさわしいシステムだろうと、それだけ聞いたらぼくだって思う。
 けれども実際は、それは減速と見間違える演出の球だった。上下の概念がない平面的な描写の中でどうやって落下を表現すればいいのかは正直ぼくにも分からないが、しかしフォーク球は明らかに駆け引きの超重要要素であって、仕様を理解しなければゲームが成り立たない。なのにそれに対する説明は、オフラインの中に一切存在しないのだ。
 説明書の類は操作方法しか教えてくれず、仕様についての解説は皆無だ。ならばぼくがゲーム中のTIPSを見逃してしまったのだろうか? そう思って初めてロード画面を真剣に見つめたところ、(うろ覚えながら要約すると)このような文章が表示されていた。

「アウトになった選手がベンチに帰る速度は、走塁速度よりずっと速いんだ! 悔しさって人間の限界を超えるんだね」

 は? と思った。
 この文章が何を言っているのかというと、走塁を試みるもアウトになってしまった選手が画面から消える際(つまりベンチに戻る際)、ファミスタではその選手が超高速で走り去る演出がなされている……という話をしている。
 そういったコミカルな演出自体には何の罪もない(むしろ良い物だ)が、しかしあろうことかその文章のサブタイトル的部分には「1」の表記があったのだ。TIPSその1という意味の1である。
 そのことはつまり、フォーク球の説明をするでもなく、ゲームのコツやテクニックを教えるわけでもなく、真っ先に存在する豆知識その1の内容があまりにもつまらない冗談だった……ということを表している。
 だったら「は?」以外に何の感想もないだろう。作った人は頭がどうかしてるんじゃないかとも思った。ちなみにTIPS2以降も文章の内容やノリはほとんど変わらない。身になる知識などそこには一つも存在しなかった。
 フォーク球の性質には自力で気付くか、Google先生に頼るかの二択しかない。あるいは既存のファミスタプレイヤーにとってそれは今さら言うまでもない常識だったのかもしれないが、常識を語るにしては、例えばパワプロと比べても、ファミスタはマイナーすぎやしないか……? 
 そういうきっかけで、まずはぼくにファミスタへの不信感が生まれたのだった。そしてそれは結局留まるところを知らなかった。
 なんと、フォーク球に関する問題にはまだ続きがある。それは「落ちないフォーク」があること。つまり「ストライクゾーンを通るボール球に見えるストライク球」である。もはや何を言っているのか分からないだろう、ぼくも嘘であってほしかった。
 落ちないフォークとは、言ってしまえば「不発」である。フォーク球には不発の概念があるのだ(おそらくその他の球には無い)。
 不発となったそれは、通常のフォークと同じ軌道(つまり同じ表現・描写)を見せるが、ゲーム的処理としてはストライク球として扱われる。……どういうことかというと、バットを振れば打つことが出来て、見逃せばストライクになる……という意味だ。そこで改めてもう一度言うが、不発フォークと通常フォークは、見た目は同じである。
 ではどうやって不発か否かを見分けるのか? その手がかりは「音」にある。通常フォークが落下(減速)する際、ひょろひょろ〜といった情けない感じの音が鳴る(これがまた減速表現っぽくて紛らわしい)。不発フォークではその音が鳴らない。見分ける方法はおそらくその点のみだと思われる。
 この仕様のマズすぎる点は二つある。まず一つは、視覚表現と聴覚表現が喧嘩していること。普通ならばそれらは、お互いがお互いを高めあって然るべき要素だろう。でなければ、例えば音が目の邪魔をするなら、その音は無い方がいいということになる。
 しかしフォーク球に関しては、バットを振るなら目で見てタイミングや左右の位置調整をしなければならず、振るかどうかを決めるには目ではなく音に集中しなければならない。それぞれの注意が別ベクトルに向かうので、単純にダブルタスクになる。しかも当然ながら投手は、フォーク球以外の球も投げてくるのだから、打者はそれについても考えなければならない。
 振ってはならないフェイントのようなボールがある……という駆け引きだけではいけなかったのだろうか? ぼくには不発フォークが存在することによる面白みがまったく理解出来ない。無駄に話を複雑にしているだけのように思える。リアリティとしては、狙った球を投げ損なうことだってそりゃああるだろうけれど、念力で変化球を作るゲームで今さらリアリティを語るのか……?
 そして第二のマズい点、それは不発が存在するせいで「フォーク球」がなまじ打ててしまうことだ。これのせいで、フォーク球の性質に気付くまで時間がかかってしまった。「これは振っても当てられない球なのでは?」と思う頃にこそ、不発球がバットに当たるのである。
 初めから全ての説明があるのならまだいい。しかしファミスタ初経験者にとっての実際は手探りだ。その手探りの中での不発球は非常に悪質であり、「基本的にフォークは振ってはいけない」という大原則に気付くことなく、パブロフの犬(または猿破壊実験)のように無闇にバットを振り続ける結果に繋がってしまう。それもこれも、無駄にややこしいシステムに説明がないばかりに起こることだ。
 パワプロにもこの手の不親切は一応存在する。例えばこれはぼくも最近聞いた話だけれど、「内角の球は早めに、外角の球は遅めに打つと、ヒット性の当たりになりやすい」という物。さらには「外角と内角の判定範囲は1:1ではない」という話まで聞いた。これはフォーク球の仕様以上に気付くことが困難な知識と言えるだろう。
 が、しかしそれを知らなかったところで、ゲームが成立しないということはない。知識の有る無しで有利不利の差は産まれるだろうけれど、振ってはいけないボールの存在に気付けないような、「ゲーム性の成立」に関わってしまう致命的無知にはならない。
 ファミスタの不親切さは野球(盤)ゲームとして度を越しているのだ。この時点でかなり許せない気持ちが湧いてきたが、遊び続けて気付き見つけた不満点はまだ終わらない。
 ゲームの苦手な人が「え、私いまどこにいるの?」と自分のキャラを見失うようなことはよくあることだ。アクションやレースゲームどころか、すごろく系ゲームでさえ唐突に土地勘を消失したりする。ぼくにはそのことが今まで全く理解出来なかったが、それもファミスタにおいては別だった。ぼくは人生で初めて、キャラクターを見失った。
 ファミスタは、非常にごちゃごちゃとした表現やデザイン性が、必要な情報の視認を困難にしている。デザインセンスが死んでいると言っていい。特に打球が飛んだあとの守備画面における「ランナーが今どこにいるのか」という部分は、判断速度が問われる割に見づらさも極まっている。
 しかしそれはまぁ、我が家の人間がぼく含め全員下手くそということで納得してもいい。パワプロならばキャラを見失うことなどあり得ないのだけれど、まぁ数歩譲ってそれも良しとしよう。投球前にランナーの所在を確認して、どこへ打たれたらどのように送球しようということをあらかじめちゃんと決めておけば、一応致命的な問題は起こらない。
 しかしタイトルに2020を関するファミスタには、そういった粗が目立つ箇所がとにかく多い。例えば守備には捕球オートという機能があり、それは文字通り「飛んだ球を拾う動作」をコンピューターが代行してくれるお助け機能であるが、そこにもまた難があったりする。
 まずAIがアホである。明らかに頭上超えする打球を手前に追いかけてから、実際に頭上を超えて初めて慌てて奥へ追いかけたり、左中間に飛んだ球をバウンド後センターが拾って三塁に送球しようとしたところ、すぐ近くにいたレフトがその球をキャッチしてしまったり……という風に、パワプロではあり得ない挙動を見せることがままある。しかし全てを手動操作にすることは、少なくとも我が家では現実的じゃない。そもそも誰しもがそれを出来るわけではないから、オート機能が備わっているんじゃないか。
 捕球オート以外でも守備の仕様には問題がある。例えばファーストが捕球した際に一塁送球の操作をしてしまうと、誰もいない一塁へボールが投げられ、捕る人のいないボールは明後日の方向へ転がっていく……ということが起こり得てしまう。
 それはそういう操作をする方が悪いのだと言えばその通りなのだけれど、前述の「視認性の悪さ」を鑑みてほしくもあり、またテレビCMを見るに本作は家族向けを意識しているようにも思う。ならばゲームについては、あまり子どもや主婦を買いかぶりすぎない方がいいはずじゃないか。
 昔のパワプロでは、同じような経験をした記憶がぼくにもある。しかし最近はゲームの親切さも極まって、ファミスタではしょっちゅう誰もいない場所へボールを投げてしまう母や弟も、パワプロではその手のミスを一切していない。明らかに間違った操作は反映させないように設定されているのだ。間違った場所には投げなかったり、あるいは投げるにしても、塁にフォローが入るのを待つようにゆっくりと下投げでトスしたりする。
 ぼくが言う「昔のパワプロ」とはプレステ2や、3Dになる前のDSが現役だった時代にあったパワプロのことである。ファミスタ2020というタイトルの意味をよく考えてみてほしい。あらゆる仕様の不親切さが、正直令和のゲームのそれとは思えない。それともそのシビアさが良いという物好きばかりが多数派なのか……?
 ゲーム性の根幹を成すフォーク球の説明を欠き、AIはアホかつ不親切で、画面は見づらい。これはひどい出来のゲームだと、ぼくはそう感じる。希望小売価格より千円も安く新品を手に入れた時は喜んだが、どの店に行っても同じような価格で売られていることを確認したことからも、このゲームの多数決的評価が見えてくるように思う。
 改めて言うけれど、ぼくはもうファミスタのことが好きじゃない。初めて触れたファミスタがこれだから、シリーズが名作扱いされていること自体疑念の目で見ているほどだ。





 ……けれども結局、すぐに売ってしまおうという判断にはならなかった。ファミスタパワプロと比べて明らかに劣る野球系ゲームだけれど、その中に唯一無二な魅力があることまでは否定出来なかったのだ。
 イカれたボールばかりが飛び交う大味なゲーム性が、たまには恋しくなることがある。不親切で見づらくて未だ把握出来ないシステム(いわゆる強振が回数制なのだが、残弾増加の条件が分からない。なんかヒットを打つと増えているような気もする)があったとしても、変化が欲しくなることはある。パワプロありきのファミスタということならば、家族でお金を出し合うだけの価値に見合っていたと言えないこともない。
 だからこれからも我が家はちょくちょくファミスタで遊ぶだろう。いつか派手さのために視認性を犠牲にした画面にも適応して、フォーク球関連のシステムにも慣れて、パワプロならあり得ないようなミスも減って、今より肯定的にファミスタを楽しむことが出来る日が来るのかもしれない。
 だから、今のうちに恨み言を言う。今の気持ちを忘れないように。この文章はレビューではない。作文、または日記なのだ。
 携帯機版パワプロであるパワポケシリーズの一作に、「怪奇ハタ人間」というRPGモードが収録されている。RPGというのはコマンドを選んでターン制で敵と戦うあれだ。ドラクエ的なあれが、なぜか野球ゲームの中に収録されている。
 ハタ人間のストーリーはこうだ。旗を刺された人間は自我を失い、他の人間に同じような旗を刺そうとするようになる……。と、そんなゾンビ物のような異色の物語(とゲームジャンル)が、なぜか野球ゲームに収録されている。そういったことがパワポケシリーズ恒例の魅力でもあるのだけれど、今はそれはともかくとして……。
 ハタ人間でバッドエンドを迎えると、幼稚園児がクレヨンで描いたような不出来な絵で、頭に旗の刺さった主人公と仲間たちが描かれ、
「し あ わ せ」
 と表示される……という恐ろしい演出があるのだが、ぼくはファミスタをやっていてそれを思い出した。
 誰がどう見ても明らかな説明不足。他作品という名のお手本がすでにある状況で生まれたデザインセンスの欠如。そして令和にあるまじき不親切さ。ファミスタの欠点は全て、致し方ない物とは呼べないようにぼくは感じる。ファミスタ2020は、もっと実力のある人が作ってくれれば、きっとパワプロと同じかそれ以上にいいゲームにだってなれたはずなのだ。
 なのにロード画面に現れるTIPSにはこんな文章があった。不足した説明を求めて睨みつけたロード画面にて、である。

「今日もファミスタ、明日もファミスタファミスタあれば、ずっと幸せ」

 ……製作者は頭に旗でも刺さってんのか?

パワプロ勢、人生初のファミスタに触れる

 ぼくがまだ「五」という漢字の書き方に苦戦していた小学生の頃、父が突然プレイステーション2を買ってきた。
 「安かったから」というなんとも間の抜けた一言と共に現れたそれは、ぼくに猛烈な興奮と感動を与える物となる。何せ当時のぼくにとって据え置きゲームとは「セガサターン」のことであったのだから、そこからプレステ2へ移行したことはまさに「時代が進んだ」という衝撃そのものだった。
 ……その頃すでにプレステ3が発売していたことを知るのは、それから五年以上あとのことになる。
 いろいろなソフトを買って遊び、プレステ2が我が家に馴染んだある日。ぼくは自宅で、学校の授業に対する愚痴をこぼしていた。
「体育の時間にハンドベースをするのだけれど、ルールが全く分からない。そもそも先生はロクにルールの説明なんかしなかった。ぼく以外にもルールが分からない人は大勢いるのに、授業としてどうかしている」
 と、現在の知能で要約して大体そんなことを言ったつもりだ。すると父が提案したのはこんな解決策だった。
「よし、野球のルールを知ろう。というわけで、今から野球ゲームを買いに行く。お前もゲームならすぐに覚えられるだろう」
 かくして我が家にパワフルプロ野球が現れ、それは以後、我が家における野球ゲームの代名詞となるのだった。
 そして時は流れて、元号も変わった2020年。我々家族は、いい加減パワプロにも飽きを感じていた。というのもそれは、コロナで父の帰りが早くなり、パワプロが「休日に遊ぶゲーム」から「毎晩遊ぶゲーム」に変わったせいだった。
 野球ゲーム自体は好きだ。しかし如何せん飽きを感じてしまう。そんな我が家の面々に対して、ある時テレビのCMを通じて出川哲朗が言った。
 ファミスタを買え(要約)と。





 ファミスタに触れたことは人生で一度もない。CMを見たところ、どうやら演出的な見た目はパワプロと大きく異なるらしかったが、しかし野球ゲームが野球ゲームであることに変わりはない。きっとすぐに体に馴染むだろう。
 そう思いながら初めてファミスタで遊んだぼくは、そのあまりの衝撃に目を疑った。まず衝撃の一、「カーソルの不在」である。
 野球ゲームは当然ながら、投手を操作するプレイヤーが球を投げ、打者を操作するプレイヤーがそれを打とうとする。「どこを狙い投球するのか」「どこを狙いバットを振るのか」といったことは当然、それらを示すカーソルを動かして決めることになっていた。
 だが、そのカーソルがない。一切ない。ファミスタから真っ先に突きつけられたカーソルの不在には、ある朝起きたら知らない場所で寝ていたような衝撃があった。なんなのだこれは、これでどうやって遊べばいいのだ!?
 大混乱の中、ともかくぼくは投球ボタンを押してみる。物は試しである。操作と結果の因果関係をなんとなくでも感じることが出来れば、パワプロに比べて異次元的なこのゲームの性質だってきっとすぐに把握出来るだろう。球種の選択からして勝手が違うが、とりあえずまずはレバーをニュートラルにしてストレートを投げた。
 放たれた球は、当然ながら真っ直ぐど真ん中に向かって飛んでいく。ではそれを別の場所に投げるにはどうすればいいのか? ぼくはとにかくレバーをガチャガチャ動かしながら二球目を投げた。
 そしてそれによってぼくは、いよいよファミスタの異次元性への理解の第一歩を踏み出すことになる。
「!?!?!?!?」
 衝撃の二、投手の手を離れた球が念力を受けたかのように途中で曲がること。否、「曲げられる」ことだ。念力とはつまり「操作」だった。投手の手を離れた球が、放っておけばど真ん中へ向かうストレートが、手元のレバーを倒すことでクネクネと左右に曲がるのだ。
 な、なんてことだ、こいつは野球ゲームじゃない……超次元ベースボールだ。ウイニングイレブンとよく似た物だろうと思い込んで、ぼくらはイナズマイレブンを買ってしまったんだ。
 激しすぎるカーブを描き、バッターの背中側を通過して行った球を見つつ、ぼくは愕然となった。当然ながらそれは、パワプロでは一度も見たことがない光景だった。
 投球についての謎は後を絶たない。例えばそれは画面内に表示された「決め球」という項目だった。概念的なものを超えて、システムとして存在する「決め球」を見たのは初めてだ。しかし一方でそれら決め球には、ムービングファストやシンカーなど見覚えのある名前が付いている。
 試しにボタンを押してみると、「決め球」は派手なエフェクトと共に、他の球よりも強い物として放たれた。この場合の「強い」というのは「よく曲がる」「速い」といった一般的な意味、野球的常識の範疇と言える意味であった。
 ……が、それはぼくが偶然、常識の範疇に収まる球ばかりを投げる投手を使っていただけのことだった。別の選手を投手としてみると、決め球にこんな球種が現れたのである。「剛速球」。
 きっと恐ろしく速い球が、肉眼で追えないような速度の球が発射されるに違いない。しかし今さらそれがどうした、もうそれくらいでは驚かないぞ。剛速球とやらがいったいどれほどの物か見届けるべく、ぼくはそれを投げた。
 投手の手を離れた球は、しかし通常のストレートと変わらない速度であった。あれ? と思ったその時、球が突然青白く発光! ストレートを遥かに凌ぐ凄まじい急加速を見せて、その球はキャッチャーミットへと消えた。
 …………滅茶苦茶じゃないか!
 完全に異次元ベースボールを舐めていた。言われてみれば、念力で球が曲がるのだから、急加速だってするだろう。もはやこれは我々の知る野球ではないのである。そして我々は、知らない世界の球をそうそう打てる物ではない。家族一同、素人が千賀のフォークを打とうとするかの如く苦戦した。
 そしてその後も、イカれた球種たちが縦横無尽に画面内を飛び交うことになる。例えばサークルチェンジは「逆・剛速球」であり、突然マトリックスのワンシーンのような減速を見せる。フォークという名のボールは「落下」の概念を持たず、心電図のようにジグザグ軌道に震える急速の遅い球となっている。
 そしてそれらの球は全て、念力によって左右へ曲げることが出来るのだ。見覚えのある名前の球種たちが、実際は全て異次元の存在となっているのである。なんてゲームだ……。
 これでどうやってヒットを打てばいいんだ! そう思いながらも、フォークが事実上のチェンジアップとして扱われていることを受けて、ぼくはあることに気が付いた。……フォークに落下の概念がないわけじゃない、このゲームの投球とバッティングに「上下」の概念がないんだ。
 そのことに気がつくと、ファミスタというゲームが遥かいにしえの時代、ファミコンソフトとして生まれた経緯に察しがついた。つまりこれは野球ゲームではなく、野球盤ゲームなのだ。どちらにせよ異次元であることに変わりはないが。
 たかだかプレイ一日目なので、異次元ベースボールにおいて本当に投手側が最強であるのか、それはまだ分からない。ゲームのシステム自体理解していないことだらけだ。
 けれども一つだけ確かなことがあった。
 ぼくは野球盤よりも、野球の方が好きだ。小学生の頃、ルールを理解してから取り組んだハンドベースは、野球盤よりも面白く、パワプロよりはつまらなかったと記憶している。
 出来ればファミスタにも、野球ゲームであってほしかったものである。





 しかしファミスタにはまだ隠された希望があった。それはミニゲーム。しかもその内容には「雪合戦」「宇宙人バスター」といった、野球ゲームとしてはエキセントリックな物がぽつぽつと並んでいる。
 まだ実際にプレイしたことはない。しかしこれは、実質マリオパーティの新作ミニゲームかもしれない。ファミスタの評価を決めるには、まだまだ知らないことが多すぎるのだ。俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ……!

 ……この話題についての作文は、また何か書きたいことが発見されれば、続きを書くと思う。

「ゆるい、ぶらっどぼーん」解説

 今回の作文の内容は、ぼくの書いた二次創作小説の解説です。当然ながら全人類が「ゆるい、ぶらっどぼーん」を読んだ前提で話すので、まだ読んでない人は以下のURLからどうぞ。
 ブラッドボーン既プレイの人なら読んで損はさせないはずです。全十万文字と中々長いけど頑張って。

https://syosetu.org/novel/233666/






















 さて、ここからは上記URL作品および、PS4ゲームソフト「ブラッドボーン」のネタバレを含みます。ブラッドボーンは、アクションゲームが苦手でないなら遊ばないことは人生の損失と言えるゲームなので、これから先のネタバレには十分注意してください。





 ブラッドボーンの二次創作……それも本編の内容を一味変えてなぞるような内容を書こうと思い立った時に、真っ先に決めたのは「寄り道の削除」でした。
 ブラボは自由度の高めな作品でして、クリアに必須な最短ルートと、クリア自体には必要ないがいろいろと用事はある寄り道が存在しています。特にそれは仕事ではなくゲーム、つまり遊びですから、寄り道を楽しむ気概くらいは持ち合わせていてなんぼです。
 が、その寄り道を二次創作の中では「初めから存在しない物」として扱う。そう決めた理由は、聖杯ダンジョンという面倒な機能のせいです。
 主人公は聖杯というアイテムを用いることで、特殊な地下迷宮……つまり寄り道を探索することが出来ます。そこには、ゲーム攻略を力強くサポートするアイテムの数々や、最短ルートでは出会えないボスの面々など、ゲームとして楽しい要素に満ち満ちているのですが……。
 聖杯ダンジョンは、規模が大きすぎて、もはやそれだけで一つのストーリーになっているのです。ボスの種類だけを数えれば、最短ルートに登場する者たちと大差ありません。聖杯ダンジョンを書こうとすると、小説の長さは倍化します。しかしその分面白くなるのかというと……しょせんは寄り道ですからね。本編以上の物は保証出来ません。
 さほど面白いわけでもない話を、本筋と同じくらい長く続ける。人気漫画の引き伸ばしでもあるまいし、そんなことをする理由はありません。なのでまずは、聖杯ダンジョンを全てカットすることが方針として決まっていました。
 すると、寄り道のいくつかは聖杯を手に入れるための物になっているので、自然とそれもカットされていくことになります。そうこうするうちに「いっそ最短ルートに限った方が話が早いのでは?」という考えに至って、あらゆる寄り道はほぼ全てカットされたのです。
 寄り道にはいわゆるマップの他に、NPCやそれに連なるイベント、二次創作的に想定したストーリーに必要ないアイテムなど、あらゆる物を含みました。
 その末に始まりから終わりまでの文字数が十万に達したことを思うと、カットの判断は英断だったと言えるでしょう。
 そうしてカットされた中に、「捨てられた古工房」というマップがありました。ゲームではそこにボスはおらず、敵もおらず、ただアイテムを回収するための場所になっている狭いエリアです。
 しかし捨てられた古工房には、ストーリーとしてとても大きな意味が込められています。というのも、そこは二次創作の中にも登場した「狩人の夢」とそっくりな景色なのです。夢の中とまったく同じ景色が、現実にも存在する。プレイヤーはそのことに驚かされます。
 捨てられた古工房は、言われなければ行き方にさえ気付けないような隠し要素的エリアであり、拾えるアイテムも「ストーリー的な価値」が重視されている場所です。例えば、夢の中にいた「人形」とそっくりの人形が、古工房には捨て置かれています。
しかしその人形は夢の中と違い動きません。
 ……が、よく観察してみると、指が一本ぴくりと動く時があります。アクションゲームをやりながら、背景として存在する人形の指が動いていることに気付くほど念入りな観察を行う人は稀でしょう。ぼくもネットの情報で知り、実際にその指の動く様を確認しただけです。そしてそれらのことはご存知の通り二次創作に活かされました。
 古工房で拾えるアイテムは大きく分けて三つ、「古い狩人の遺骨」「小さな髪飾り」「人形の服」です。人形の服については、単に帽子・服・手袋・スカートとマネキンコーデが如く全身が手に入り、またゲーム中それを装備することも出来ます。その他に「3本目のへその緒」というストーリー的にもゲーム性的にも非常に重要なアイテムが拾えますが、それについては「寄り道」としてカットしています。
 古工房のアイテムのうち、小さな髪飾りは、ゲーム中で人形に渡すことが出来る特殊なアイテムです。そしてそれを渡した際のセリフは、形を変えて二次創作に活かされました。
 そして最も重要なことに、人形の服シリーズには全て共通して、ゲーム中で以下の解説文が用意されています。

「打ち捨てられた人形用の服(帽子・手袋・スカート)
 着せ替え用のスペアであるようだ

 ごく丁寧に作られ、手入れされていたであろうそれは
 かつての持ち主の、人形への愛情を感じさせるものである

 それは偏執に似て、故にこれは、わずかに温かい」

 ……さて、まずゲーム本編のストーリーでは……つまり本来の公式ストーリーでは、捨てられた古工房とは、かつてゲールマンの居た場所とされています。
 というのも、DLCコンテンツとして配信された「the old hunter」という外伝にて、マリアという名の人形にそっくりな女性が、ゲールマンの熱心な弟子であったことが語られたからです。
 古工房にはマリアそっくりの人形があり、狩人の夢には主人公よりも先にゲールマンがいて、景色は古工房にそっくりな上、夢の中だからか動いて喋る人形もいる。普通に考えて、狩人の夢そのものが、ゲールマンの意識や記憶から作られた物と考えるべきでしょう。
 だから公式本編では、ゲールマンがマリアに師弟関係以上の想いを抱いていたことが匂わせられています。偏執ですからね。人形を作って、服を作ってよく手入れして、それを自分でも着てしまうようなほど熱烈な。変態というのは、時として意外なところに潜んでいるものです。
 ……が、それが二次創作で大きく変わることになりました。その変化は全くの偶然で起こったことです。すでに言った通り「寄り道のカット」は冗長さの回避のため、ただそれだけのために決められたことだったのですが、別の意味が生まれたことに気付いたのは、二次創作を書き終えたあとのことでした。
 二次創作において、主人公の狩人さんは、最愛の人である人形さんを夢から連れ出すことに成功します。しかし、悪夢の中を抜け出して人形さんとの平和な生活を望んだ彼に突きつけられたものは、「現実では、人形は命なき無機物である」という事実でした。
 それでも彼は人形さんと一緒に暮らしていくことを選び、その覚悟を決めて、ぴくりと動いたような気がした彼女の手を握りどこかへと去っていくわけですが……そこでですよ。
 その狩人さんなら、やりそうじゃないですか。人形さんの服のスペアを作り、よく手入れして、その上自分でも着てしまうような、ちょっとおかしな人になりそうじゃないですか。
 人形さんとの幸せな生活を夢見て狩りを全うした狩人さんが、最後に現実を突きつけられて、それでも諦めなかったなら、まさにそんな狂人になっていて当然でしょう。
 そしてそんな狂人なら、人形さんとお喋りが出来ていた過去に焦がれて、「狩人の夢」とそっくりな景色を作りだして、そこに住み着いていたって不思議ではありません。公式本来のストーリーと、構図が完全に逆転するのです。二次創作の中で古工房を寄り道として削除したことで、それは原作を知る者にのみ伝わる「後日談」の仄めかしに変わりました。
 さらに、偶然の一致はまだ終わりません。DLCコンテンツのタイトルは「the old hunter」……それは過去の世界に旅立ち、例えばゲールマンの過去やマリアの存在を知るような物語なのですが、二次創作の世界線においては別の意味も持つことになります。
 old hunter……古い狩人……つまり過去作主人公です。新主人公が前作主人公の作った工房へと足を踏み入れ、人形への偏執を知り、そしてひょんなことから過去へ旅立ってしまう。そこにはきっと、十万文字の冒険を超えて変態と化した、我らが狩人さんも同行することでしょう。彼は過去の世界で、人形さんそっくりのマリアという女性が動き喋り生きていることを目にして、いったい何を思うのか。
 原作をなぞったオリジナルストーリーとして、こんなに綺麗にピースが組み合わさることがありますか。まさに偶然を超えた奇跡です。惜しむらくは、ぼくが金をケチってDLCを自分の手でプレイしていないのに、ネタバレだけは死ぬほど見てしまったせいで、今のところゆるいぶらっどぼーんの続編はあり得ないということですが……。
 それでもこの奇跡の合致を、ひょっとすると誰にも気付かれることのないまま眠らせてしまうことだけは避けたかった。なので今回この作文を書きました。蛇足だったかもしれませんが、これを小説の一部として本編に載せなかっただけ、立派に分別をつけたとして許してください。

金庫と口外禁止とover there

https://arisu15849.hatenablog.com/entry/2020/03/20/171731

 今回の作文は、上記の過去作とまったく同じノリになります。注意してください。下ネタです。













 弟は滑舌が劣悪だ。特に「き」が「ち」に聞こえる様は未だに改善されない。これはそんな弟が小学生だった時の話だ。
 kiがtiに聞こえるということは、「森の木」は「森の地」になり、「黄緑色」は「血緑色」になり、「キウイ」は「チウイ」になるということである。「キャンバス」のような小文字の絡む物は普通通りに発音出来るようだけれど、とにかく弟と話していると、日常生活にどれだけ「き」という発音が多いのかに気付かされる。
 ある時、連休を利用して我が家は旅行に行った。すると泊まった部屋の中に、子どもにとっては普段あまり見る機会がないような、物珍しいアイテムが置いてあった。……ダイヤル式の金庫である。
 当時まだ幼かった弟はその金庫の存在にはしゃいで言った。
「チンコだ! 初めて見た!」
 男なんだから毎日見てるだろ、と家族全員が思った。そしてこの瞬間から、面白がった家族全員から旅行が終わるまでの間「金庫」は「チンコ」と呼ばれることになった。ひどい話だ。
 ともかく、そうして弟はしばらくの間チンコを……もとい金庫をいじり回していたが、やがて中に何か入れてみたくなったようで、ちょうど良い物はないかと探し始めた。金庫を見たら何か入れたくなるのは、白い紙を見れば絵を描きたくなることと同じような、子どものサガなのだ。
 そして部屋に置いてあった蜜柑を一つ、金庫の中にお供えするように置いて、弟は鍵を閉めた。番号を忘れるのだけはやめてくれよと言うと、大丈夫大丈夫〜と返事があった。
 そして弟は数時間後、解錠番号を忘れた。夕ご飯を食べ終えて「蜜柑でも食べるか」と言い出した時には、彼の頭の中に数字など何一つ存在していなかったのである。
「チンコの中の蜜柑が取れない」
 そんなパワーワードが生まれた。しかしまぁ、入っているのは所詮蜜柑だ、貴重品ではない。よってホテルに事情を説明するのは明日の朝でも良いと判断し、我々はその日は眠ったのだった。
 そして翌朝事情を説明すると、まぁ蜜柑くらいならなんとかしとくので大丈夫ですよ、というような返事をもらった。最終的にあのチンコ……もとい金庫が無事開けられたのか我々家族は知る由もないままチェックアウト時間になってしまったが、だから帰りの車でぼくは言った。
「まぁチンコに入れたのが蜜柑で済んでよかったじゃない。貴重品に貴重品入れてたら大変だったよ」
 誰も笑わなかった。





 ウチの父はよく冗談で母の胸を揉む。男子小学生が言うところの「デュクシ(効果音)」が最も近いノリなのではないかと思うが、デュクシほどアホかつ頻繁に起こるわけではない。このあたりの雰囲気やさじ加減の表現は中々難しいところがあるが……我が家においてその冗談は完全に和やかな物としてあったことだけは明記しておく。
 ぼくの物心ついた頃から父は冗談で母の胸を揉んでいたが、ぼくはそれを見て今までに一度も、何かがおかしいと思ったことはない。ぼくもアホではないので、女性の胸は基本揉んではいけないということくらい幼稚園児だった頃から知っていたし、教育上特に問題があるとも思えなかった。
 が、高校生くらいになった頃、何かのきっかけで友達に「ウチの父は冗談で母の胸を揉む」という話をしたところ、完全に予想外のドン引きリアクションをいただくことになった。「いや、服の上からおりゃ〜って愉快な感じでだよ?」と付け足すと、もっと引かれた。
 友達(男子)からも友達(女子)からも全く同じ反応をされたので、どうやらこれは人に話さない方がいいらしいと悟ったぼくは、両親に「どうやら黙っといた方がいいらしいね」と悟りの報告をすると、「当たり前だろ!」と焦った様子で言われた。残念だが、それはすでにスクールカウンセラーの先生に雑談として話してしまった後のことだった。
 事を重く見た父は、もう母の胸を揉まないと一人で勝手に固く誓っていた。しかしその誓いは守られ、ぼくは自分の軽率な行動が、我が家の愉快な特色を一つ失わせてしまったと、傍から見ればすごくどうでもいい責任感を背負うことになった。
 だからここ最近、その誓いが反故になっていることはとても喜ばしいことだ。





 ……という話の外伝として、弟のことがある。弟にとって「父が胸を揉む話は外でするな」という決まりは何かとても面白い物であるらしい。限られた身内での秘密という形態に魅力があるのか、下ネタが好きなのか、その正体は分からないけれど、とにかく彼はその話が好きだった。
 ただまずいことに、弟は「その話を外でするな」の意味を正しく理解していない。「他人の誰にも話すな」という部分は理解しているのだが……つまり「公共の場では、家族に向かっても話すな」という部分を理解していなかった。
 この話が出た頃には、弟はとっくに中学生になっていたのだが、しかし彼は馬鹿だった。ある日家族でドーナツを食べに行った時、弟が持ち前の無駄に大きな声量で喋った。
「パパがママのおっぱい揉む話でさぁ」
 ……例えばこれを読んでいるあなたがミスタードーナツへ行った時、店内の席に座った家族連れのうち、そこそこ育った男の子の口からそんな一文が飛び出てきたらどう思うか? まさにカオスだ。あなたは「事実は小説よりも奇なり」という言葉を思い出すだろう。
 そこでドーナツ屋からの帰り道、母が弟に言った。
「外にいる時はね、あんまり「おっぱい」とか言っちゃダメなの」
 弟は馬鹿なのでこう答えた。
「じゃあ、「アソコ」?」
 家族は失笑の渦に飲み込まれた。下ネタに関連するワードは代名詞でぼかすことがある……そんな文化の「意味」をよく理解しないまま、暗記的に覚えたお馬鹿の起こした笑いだった。

馬鹿馬鹿しい疑問符、見下げ果てた迂回。

 友人の中に、とてつもなく好奇心旺盛な人がいます。その友人というのは女性ですが、彼女本人も「私は好奇心のために生きている」と豪語するほどです。下半身のみに麻酔をかけた手術の際、手術の光景を己の目で確かめたいと申し出て医者からやんわり断られたという逸話が、彼女の好奇心の代表例になっています。

 要するに彼女は「イカれたメンバーを紹介するぜ!」という流れで紹介されてもおかしくないレアな感性の持ち主なのですが、それゆえに時々理解しがたい時もあります。例えば彼女はインターネット上の変質者から「使用済みの下着を売ってください」と話しかけられた際、「面白い理由があるなら協力してやらんこともない」という意図でもって「何に使うんですか?」と返信したらしいのです。そしてそれ以降変質者からの返事がなくなったことを鼻で笑っていました。

 本人に確認したところ、その話を聞いたぼくはつまり「プレゼン次第で女性の使用済み下着を買えるコネ」を会得したとも言えるらしいのですが、まるでわけがわかりません。なんでしょうその、カードゲームで言うところの「激レアだけど何に使えばいいのか分からない」みたいなコネは。使い道を知っている人はぼくに連絡をお願いします。

 ともかくです。彼女はそういった理解しがたい感性を時々現して、そのたびにぼくは「好奇心ってなんだろう……?」と哲学に対面することになるわけです。そしてある時、その哲学的問いに対する一つの答えを、好奇心の獣である彼女本人から受け取ったのでした。

「私の好奇心は、氷菓くんの性欲と同じポジションだと思います」

 そう言われた瞬間、ぼくは全てを理解しました。なるほど、じゃあしょうがねぇなぁ! と。

 ぼくも大概、性欲で生きているようなものなので、それと同じような物だと言われればすっきり理解できました。けれどもこの理解の仕方が、後々おもしろを呼ぶのです。

 性欲と同程度に重要な物だよ、と説明されて、そっかぁ! となる人間はそう多くないでしょう。大抵の人間にとって性欲とは「しょうもない物」という認識のはずです。社会の空気がそれを示しています。だから好奇心旺盛な友人の特殊な性質についてを、別の人に解説する時にはまた別の例え話が必要になります。そしてある日その別な例え話は生まれました。

「彼女の好奇心は、地球にとっての海のような物。全体の半分以上を占め、深く、未知数で、絶対に無くてはならない物だ」

 と、それはなかなか良い例えのように思えました。いささか壮大すぎる気がしなくもないですが、にわかには理解しがたい物に対する例えはそれくらいがちょうどいいでしょう。

 が、そこで問題が起こります。そうです、彼女の好奇心はぼくの性欲と同じポジションにある物なので、彼女の好奇心が壮大になればなるほど、自動的にぼくの性欲も壮大になっていくのでした。

 性欲を地球にとっての海に例えるなら、その心はこうでしょう。……全体の半分以上を占め、深く、未知数で、絶対に無くてはならない物だが、増えすぎると重要な物まで水没させダメにしてしまう。……あれ? 結構合ってないですか?

 というわけで、今回の作文は水没記事になります。下品な話のオンパレードです。苦手だという人は今のうちにブラウザバックで陸地へと戻ってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある時、ぼくは思いました。

「男は、実はおっぱいがそこまで好きじゃないのでは?」

 なぜそう思ったのかというと、魔女についてのことを考えていたからです。魔女というのは何なのかというと、この場で必要な雑な理解としては、魔女=ぼくが考えた最強のエロ漫画ヒロインだと思ってください。

 おっぱい揉ませてと頼めば、魔女は快く揉ませてくれるでしょう。エロ漫画のヒロインとして最強のキャラクターですからね。がしかし、ぼくの考えた魔女というキャラクターは、決して聖母のような存在ではないのです。なぜ聖母ではないのかについては話すと長くなるので、知りたい人はご連絡ください。

 ともかくですよ。聖母ではない魔女が快く胸を揉ませてくれる時、揉まれている最中の魔女はいったい何を考えているのだろう? キャラクター設定としてそれを決めなければならない、ある時唐突にそう思ったのです。

 そこで魔女の口から出た言葉が、「人間の男、おっぱいそこまで好きじゃない説」でした。

 魔女いわく、世の中を見渡してみても「おっぱいを模した物」はロクに見つからないというのです。やれおっぱい饅頭だとか、やれおっぱいマウスパッドだとか、そういった物は無数に存在しますが、言ってしまえばそれらの物は「ネタ」じゃないですか。半分以上ギャグで作られたような商品たちです(商品が生まれるまでの過程を知らない一般人としては、少なくともそう見えます)。

 一方で、いわゆるオナホールという物に対する人間の執念には、人外である魔女としても目を見張るものがあります。無限とも思えるバリエーションに、各種創意工夫の凝らされた作り。男の醜い欲望の、その執念が、オナホールという分野には漂っているように感じられます。……それに比べたらおっぱいに対する執念なんか、カスじゃないかと。

 ……というようなことを考える魔女は、実際に自分の胸を揉みしだく人間の男を見て「持論に不備があったのか……?」と思うわけです。キャラ設定は決まりました。めでたしめでたし。

 で、実際、魔女の持論には一定の説得力があると思いませんか? 生まれてこの方こんなアホな疑問符の使い方をしたことはなかったように思いますが、とにかくぼくには、魔女の持論に力があるように感じられるのです。

 男性の……というかぼく自身の、女性の胸へ対する欲求はカスだったのでしょうか? 海のような性欲のその一端を大きく担う、胸への執着が? そんなバカな、とぼくは思いました。

 思ったので、例の好奇心の友人にこの件についての意見を求めました。すると答えがもらえたので好奇心様々です。

「性欲とは子孫を残すためにある本能だけれど、いくら胸を揉んだって子孫は残せない。けれども、それは前戯になる、つまり胸を揉むことは子孫を残すことに対して、間接的に必須の行為だとも言える。だから胸に対する執着を男性は本能的に持つけれど、前戯への執着は、本番への執着に比べれば薄い物なのではないですか?」

 ……という見解が彼女の答えでした。上の文章はさすがにぼくが要約した物なので本人の意図と微妙に異なる可能性はありますが、大体は上記のような見解を示していたと見て間違いないように思います。

 言うまでもなく、それはなかなか興味深い意見でした。性欲の全ては子孫を残すという本能的な目的に帰結する……というのは、なるほどそうかもしれないと納得しそうになる説得力がありました。

 けれどもそれは、いかにも女性の視点らしい意見だなぁとも感じられました。

 非常に残念なことですけれど、少なくとも男の性欲という物は、そんなに素晴らしい物ではないのです。だから社会から「しょうもない物」として扱われるのです。ぞんざい扱いをされても致し方ない程度には、性欲という物は醜く、独りよがりなものです。

 考えれば分かることじゃないですか。「おっぱいを揉みたい」という欲求を抱いた男性の全員が、「女性を気持ちよくさせたい」と考えていると思いますか? 悲しいことですけれど、それはありえないでしょう。性欲にまみれた男たちは、胸が「揉みたい」のであって、「揉んであげたい」わけではないのです。

 女性側にそのことを「そういうもの」として受け入れてもらおうだとか、そんなことは口が裂けても言えません。どう考えてもクソなのは男の方ですからね。だから貴重な友人の意見は、女性の視点としてはむしろ当然な物であるように思います。が、しかしそれは、現実に即してはいないようにも思えました。

 全ての性欲は子孫を残すことに帰結するという説を、ぼくは否定しました。しかしそれによって謎は深まるばかりです。セックスに比べれば弱い執着だったとしても、なぜ子孫を残すことに繋がらない「胸を揉む行為」に対して男は執着するのか。謎です。

 むしろ友人のもたらした説が正しくあってくれた方が、全ての話がスムーズになるように思えます。……けれども真剣に考えてみれば、それはそれで地獄です。そこかしこの男が「おっぱい揉みたいなぁ」と考えている世界も地獄ですが、そこかしこの男が「おっぱい揉んで気持ちよくさせてあげたいなぁ」と考えている世界はもっと狂気的に気色悪い地獄じゃないですか。友人の説の通りに世界が回ってしまうとそういった地獄が爆誕するのです。男の立場からでさえ、冗談じゃないよと感じます。

 と、そこで突然、ぼくにアイデアが降ってきました。魔女と同じような、フィクションのアイデアです。

 女性の視点で考えるならば、男性の性欲は、女性ファーストであるに越したことはないでしょう。上記の狂気的気色悪さの地獄が地獄たりえるのは、現実の男性の惨状から察して、その献身ぶった思想が、間違いなく押しつけがましい害悪になることが分かっているからです。女性を満足させることのみを性的な至上の喜びとして、しかし同時に身の程もわきまえて、望まれない限りは何もしない。男性がそんな生物になってくれれば、それは女性としては非常に望ましいことなのではないでしょうか。

 だからフィクションの世界においては、それを実践する女性が現れても不思議ではありません。いわゆる魔王ポジションの、強大な力を持った女性が、全世界の男性の性欲を女性にとって好ましい形へと変化させることを企むのです。

 そこで男性側にも魔王に歯向かう者が現れます。男性の性欲は今のままでいいのだ……という思想を持つ彼のことを「勇者」と呼べるのかどうかは微妙なところですが、彼が魔王を倒すべく仲間を集めてパーティを作るなら、ぜひともメンバーとして魔法使いを入れておいてほしいものですね。

 魔王の望みは男性の性欲を女性ファーストにすることですが、かといって性行為全てを否定しようというわけではありません。それはただ女性にとってより良い性行為だけを抽出しようという企みであり、むしろ性行為の実行自体は、今の世界よりも確実に保証する物である。……という理屈でもって、男を誘惑するわけです。女性のことを第一に考えるなら、今すぐ胸を揉んだっていいし、セックスだって出来るんだぞ……と。そしてその誘いに乗った男は、魔王の超常的な力によって「従来の性欲の形」を失うのです。

 勇者の仲間は一人、また一人と、誘惑に屈して消えていきます。ニンジンをぶら下げられた馬のように、目の前の性行為には逆らい難いのが男という生き物の弱点なのです。……しかし勇者は違いました。彼は従来の性欲こそが正しい物だと信じており、それに反する性行為には目もくれません。

 そしてついに魔王との決戦が始まるのです。勇者はついに魔王へ致命的な一撃を与える、その寸前にまで至りました。

「お、愚かな……。私に従っていれば、胸くらいいくらでも揉めたものを。セックスくらいいくらでも出来たものを……。そちらはそれが出来て、こちらは望む物を手に入れる、そのことに対して貴様は、いったいなぜそうまでして抗うのだ……!」

「物理的に胸が揉めたからなんだ、セックスが出来たからなんだ! 性欲は、性欲は人の心だ、お前に支配されて心を失った性欲に、いったい何の意味がある? 自分がしたいと思うから、しようとするんだろ! それ以外にないんだ!!」

 勇者は全ての力を振り絞った一撃を放ち、魔王を粉砕します。……しかし力を使い果たした勇者もまた、塵となって消えてしまうのでした。

 残された一般人たちは、っ魔王も勇者もどっちもやべーやつだったから両方消えてくれて助かった……と思いましたとさ。めでたしめでたし。

 

 ……と、つまり、意味不明なノリの長編エロ漫画は、こういった経緯で生まれていたりするのかな、と思ったわけです。ある日疑問が降って湧いて、その答えを見つけられずに、かわりに物語が生まれると。今までぼくが読んできた漫画の裏には、そんな経緯があったのかもしれない。そう思いを馳せました。……この話に、それ以上の意味はないのです。

 最後に、同じ下品ネタ繋がりで最近感じたことがあるので、その話をしてこの性欲水没記事を終わらせたいと思います。

 二次元の美少女イラストを見た時に、普通の人はまずどの部分から見るのでしょうか? ぼくの場合は、顔です。まずキャラクターの顔を見ます。当然視界にはそれ以外の物も同時に移りますが、注目の大半は顔に注がれるのです。そして大抵の場合は「かわいい」と感じます。

 しかしその後、顔は十分見たので他の場所に目を向けようと視点を落としていくと……体の部分を見ると、初めに抱いた「かわいい」という感想が「エロい」に変わってしまいます。そして再度キャラクターの顔に注目してみても、もう初見時に抱いた純粋な「かわいい」は返ってこないのです。性的ニュアンスの含まれた「かわいい」という感想しか出てこなくなってしまいます。

 このことからぼくは、エロスの大半は首から下にあると考えました。表情がエロい場合は例外です。特におかしなポーズを取っているわけではない体を見て「エロい」と思うことはあっても、特におかしな表情を浮かべているわけではない顔を見ても、エロいと思うことはありません。だからエロスの大半は首から下にあると考えました。

 そう考えると、極論を言ってしまえばエロスにとって、首から上は不要ということになりますよね。倫理的にどうであれ、事実としてそういった側面があるのではないか。そう考えたぼくは、すぐにその具体例を思いつきました。(ぼくの言えたことではなく、あくまでも客観的または女性視点で見て)趣味の悪いエロ漫画では時々、顔に紙袋を被せた女性を犯している場面を見ます。あれがまさに「エロスは首から下にある」という説を体現した表現であり、いわゆる壁尻と呼ばれるシチュエーションも、そういった物と似た系列にあることだと言えるでしょう。

 首から下にエロスがあるという考え方は、ある程度正しいと思われます。しかしそうすると逆説的に、人間の顔にはエロス以外のあらゆる「人間的に大切な概念」が含まれていることになりますよね。人の顔に紙袋を被せるような、そんな度し難い醜さを持つ、虐げられて当然の「男の性欲」という物からは、適度に切り離された存在。それが人体のパーツにおける「顔」なのではないでしょうか。

 そして、そこまで考えて初めてぼくは、「人と話す時は相手の顔を見て話しなさい」という言葉が身に沁みたように感じました。顔を見るということは、相手を人間として尊重することを意味しているのではないか。そう思えたからです。

 ……その昔、ぼくが中学生だった頃。大嫌いだった勉強とちゃんと向き合おうと、一度だけ奮い立ったことがありました。親としては「何が息子を変えたのだろう」と気になるところでした。それはより正確に言えば、今までどれだけ口を酸っぱくして言っても聞かなかった息子を、何が変えたのだろう……という疑問でした。

 そしてその疑問に対する答えは、ライトノベルでした。ひねくれた性格の主人公が、しかし勉強だけはそれなりにしていることを受けて、当時のぼくは一度だけやる気になったのです。なんてしょうもない理由だと、今振り返っても思います。しかし理由のしょうもなさなんてどうでもいいではありませんか。何にせよ勉強をしようという気になれたのなら、それ以上何を望むことがあるのでしょう。

 だから、「そんなしょうもない理由で……」と親が落胆したのは、ぼくが「やっぱ無理」と勉強を投げ出してからのことでした。そりゃ、ぼくも思います。なんてしょうもないんだ……。

 だからこそ今、思うのです。人の顔を見ることの大切さに、こういった迂回ルートを辿った末気が付きましたよ……と言ったら、仮にぼくがまだ十代だったとしても、親は泣いたんじゃないでしょうか。なんて理由だ……と。

 つまりまた一つ、親に見せられない創作品が増えたわけです。原稿用紙に書いた自作小説を母親に見せていた時代も、今は昔……。

 性欲による水没は、すでに始まっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 ところで、

「じゃあ神に作られた我々は、神なのですか?」

 という言葉があります。ぼくの言葉です。何やら名言っぽい雰囲気を放っていますね。いったいどういう意味の言葉なのでしょう?

 ……これは、「男はおっぱいにそこまで執着していない説」を説明する際、「魔女が言っていた」という言い回しについて、「魔女? それは君自身の妄想だろうが」と噛みついてきた人を、迎撃するために編み出した言葉です。

 つまり、神に作られた我々は神ではない。なのでぼくに作られた魔女も、ぼくではない。……と、はい、そういうことです。大事なのは説得力と勢いです、正しさは二の次にしましょう。

 けれどもまぁ、文脈を省いて上記のカギカッコ内のセリフそれだけを目にした人は、まさかそれが性欲から生まれた言葉だとは思いもしないでしょうね。しかし、ぼくの口から出る言葉とは、大抵の場合そういうものです。

 性欲は海のようなもの。あらゆる物が、そこから生まれてくるのです。

改めてマリオパーティSwitchのレビュー

 前回の記事は一年以上前に上げたこちら。

https://arisu15849.hatenablog.com/entry/2019/01/08/161742

 グーグル先生いわく、マリオパーティSwitch(正式名称スーパーマリオパーティ)の発売日は2018年10月5日であるらしい。つまりこの記事を書いている今も、現状のマリパ最新作は、二周年のカウントダウン真っ最中の状態にあるわけだ。
 週末はゲームをして遊ぶことが恒例となっている我が家において、このマリパSwitchは未だ現役ポジションにある。すごろくゲームまたはパーティゲームは世に出回る種類が少なく、我が家は自然とパーティゲームに飢え、気付けば同じゲームを二年も遊び続けようとしているのだ。
 というわけで、約二年の時を経た今になって、つまり「過去に上げた記事」とはまた違った視点を得た今になって、マリオパーティSwitchを再レビューしてみようと思う。とはいえ大方の感想は過去記事と変わらないから、評価が変わった部分のみを今回書いていくことにする。それがぼくからの、マリパSwitchへ対する二周年記念のお気持ちだ。
 さて、回りくどくしても仕方がないので、早速結論から言うことにする。結論として本作は、前回記事を書いた当初の印象よりも、実際はもっと面白く優れたゲームだった。それはもう長らく前回記事を訂正しなかったことを、申し訳なく思うほどに。





 まずは前回記事で上げた「今作の問題点」について一つずつ話していこうと思う。答え合わせのような物だと思ってもらいたい。

・問題点?その1 キャラ性能の差
……これについては今に至るまでの長い時の中で、実はあながち問題点とも言えなかったことを知ることになった。正直、この件を「問題点」と捉えた当時のぼくは馬鹿だ。
 前回記事にもある通り「明らかな強キャラ」は存在する。逆に明らかな弱キャラ(いわゆる完全下位互換)も存在しており、本作を「競技」として見た場合、全てのキャラに対して「選択する意義」があるとは口が裂けても言えない。その点に関しての印象には何ら変化はない。
 が、どうも前回記事のぼくは、「本作はパーティゲームである」ということを忘れていたらしい。競技として見た場合に不適切な部分が多少あったとして、それはパーティゲームにとって大した問題ではなかったのだ。なぜそう言えるのかといえば、例えばキャラ性能の差というのは、ハンデとしてちょうど良いシステムになっていたりすることが、理由として挙げられる。
 パーティゲームとは「皆でわいわい遊べる物」であり、この場合の「皆」というのはある程度無作為
な物であるべきだと考えるぼくとしては、腕の差が勝敗に直結するゲームをパーティゲームとは呼び難い。だからぼくは昔から、パーティゲームのゲーム性における良し悪しは「腕と運のバランス」で決まると主張していたが、そこにまだ第三の要素が存在していたことを見落としていた。
 つまり、不愉快ではないハンデの付け方は、歓迎すべきパーティ性なのである。例えば我が家でスマブラマリオカートを遊ぼうとすると、「ぼくだけ開始から一定時間攻撃禁止」とか「ぼくだけ一定時間が経ってからアクセルを踏む」とか、そういうハンデの付け方をすることでしか勝負の結果を揺るがすことが出来なくなってしまうが、それは不愉快なハンデであり、パーティゲームとして望ましくない物なのだ。
 ハンデの愉快不愉快は、ゲーム性を揺るがすか否かで決まる。攻撃出来ないスマブラ、アクセルが踏めないマリオカート、そんな物はもはやゲームではない。しかし通常のサイコロは平等なままに、本作から追加された「第二のサイコロ」だけが弱いというハンデは、あくまでも「すごろく」というゲームの体を保った上での物だと言えるだろう。それはつまり愉快なハンデだ。実にパーティゲーム的なハンデの付け方に、キャラ性能の差は一役買っているのである。
 またそれと同時に、キャラ性能の差はパーティゲームに必要不可欠な「運」の要素も担っている。前回記事で散々「すごろく中で仲間を得ることが強い」ことを書いたと思うが、仲間を得るイベントが発生した際に、誰が仲間になるのかはランダムであり、そこに運が生まれる。
 プレイヤーは仲間の持つ「第二のサイコロ」を自由に選択肢として扱うことが出来る。つまり強キャラであるクッパワリオテレサが仲間になればそれだけ強力であるわけだが、当然ながら救いようもない弱キャラが来ることもある。キャラ性能に差があることで、「仲間を得る」という強行動の中にもアタリとハズレが生まれるのである。
 ゲーム中の選択肢における「正しさ」の中に含まれたアタリとハズレ。これぞまさに、パーティゲームに望まれる運要素だ。仲間を得る際のランダム性はさながらガチャポンのようであり、万人が楽しめる腕と運の良ブレンドなゲーム性のみならず、毎度その場のわくわく感や盛り上がりにも貢献してくれている。キャラ性能の差と仲間システムの組み合わせは、理不尽ではなくなおかつ愉快な運要素という、パーティゲームとして大正解のシステムになっているのだ。
 キャラ性能に差があることは、確かにマリオパーティ史上でおそらく初めての「ゲーム開始と同時に明確な差が付く」概念である。しかしその新要素はよく確かめてみれば、競技的欠点を補って余りあるパーティゲーム的利点を持った素晴らしい物だった……という答えに、長い日々の中でようやく辿り着くことが出来た。
 今になって思えば、前回記事の自分は未熟すぎたとしか言いようがない。



・問題点?その2 マップの質と数
……これについては概ね前回記事と同じ感想になってしまう。特にマップ数の少なさは、どう言い繕ったところで本作の大きな欠点であることに変わりない。マップが5~6個はあった過去数作品を振り返ってみても、そして実際に遊び続けた感想としても、やはりマップ4個というボリューム不足は致命的だった。
 ただ、一つだけ訂正しておくこともある。それは前回記事で、要約して「クソマップ」と称した物についてのことだ。
 本作の4つのマップはそれぞれ「遺跡」「爆弾」「(南国の)島」「黄金」と表現することが出来るが、前回話題に上げたクソマップ(仮)はこのうちの「島」のことである。
 本作随一の広さを誇り、イベントも豊富なその島は、しかしその特徴が災いして「一向に誰一人としてスターにたどり着けない事態が度々起こる」「複数回起動して初めて効果を現すイベントがまるで機能していない」「本作のゲーム性において本来必須の要素(ジュゲム)が手薄になっている(ランダム性があり確実に起動することが出来ない)」などなど、数々の欠陥を孕んだ問題マップ……それが当時の「島」の印象だった。
 今でもその印象に概ね変わりはない。……と言いたいところだが、時を経た現在では実際のところ、「島」に対する認識は以下のような変化を遂げている。……「クソマップという見解に変わりはない。が、しかしそれは、「10ターンで遊ぶなら」の話である。」
 本作のすごろくは基本的に、10ターンが経過するまでの間に(つまり全員の手番が十回終わるまでの間に)稼いだスターとコインの数を競うゲームである。が、実はプレイヤーが望むのであれば、初めから対戦期間を20ターンと決めて試合に望むことも出来る。
 しかしそんな気の利いた機能があったところで、大抵の人は10ターン制のルールを選ぶことだろう。何せ20ターン制にした場合、一戦にかかる時間の目安はなんと約二時間になる。ゆっくりゲームのプレイ出来る環境と、仲良し四人組が揃ったとして、じゃあマリオパーティを二時間ぶっ続けで遊ぼう……と考える人はそう多くないだろう。例えばそう、二年近く本作を遊び続けている我が家のような人々でもいなければ、そんなことをしようとは滅多に思わないはずだ。なぜならマリオパーティとは本来10ターン制が基本であり、それで十分に楽しい物だったのだから。
 だからきっと多くの人は気が付かないし、ぼくも気が付くために年単位の時間を要した。しかし実際、クソマップと思われた「島」は、20ターン制で遊ぶと評価が一変する。有り余る対戦期間が「島」に合わさると、その広大な舞台は我々に正しく満ち足りたボリューム感を与え、複数回起動する前提のイベントも完璧に機能して、一戦の間に他マップをしのぐ多彩なバリエーションを発揮してくれるようになる。他マップとは一味違った楽しさを与えてくれるようになる。ただ対戦期間が長くなるというだけのことで、「島」は純粋に「一二を争うほど楽しい良マップ」へと早変わりするのだ。
 そして、コインが余りがちな本作においてゲーム性の根幹を担っている重要システム「ジュゲム」が「島」においては不十分である点も、この20ターン制がいくらか解決してくれる。というのも、勝負期間が伸びることで序盤の幸運を活かしたいわゆる「逃げ切り」が起こりづらくなり、勝敗を分ける「スター」という得点の差は、確率的に平たく横並びになって行きやすくなる。すると「スターが同数の場合コインの数で勝敗を決める」というルール上コインは必然的に、それ単体として重要な物になっていく。それがゲーム性において、ジュゲムへの依存度をいくらか緩和するのだ。
 今までの、10ターン制の体感では、コインはあくまでもスターを買うための物でしかなかった。より多くのマスを進み、スターの在り処に出来る限り頻繁に駆けつけなければ、コインを大量に持つ意味は薄いと思われていた。それなのに本作はコインが妙に手に入りやすく、コインだけが手元に貯まるシチュエーションが頻発していた。そんな中で上手くスターの数がプレイヤー間で横並びになり、コインの枚数で決着を付けることになる展開はそもそも稀だとされていたことから、大量のコインを確実に有効的な形でスターに変えてくれるジュゲムの存在が必要不可欠な物となっていた。もしもジュゲムがいなければ、運よくスターが近くに湧いた人の勝つ「運要素が強すぎるゲーム」となり、パーティ以前にゲームとして拙い物となっていただろう……とさえ感じていたものだ。
 しかし20ターン制においては逃げ切りの概念が薄まり、ジュゲムの活躍がどうであれ、確率的にスターの数は横並びになりやすい。スターの湧く場所がある程度ランダムである以上、試合が長引き試行回数が増すほどに、幸運(つまり偏った結果)による勝利は少しずつ、確率的に非現実的な物になっていくからだ。そうなることでプレイヤー間のスター数の差も平たくなって行く傾向にあり、当然コイン枚数で決着を付ける展開を目にすることも増えていく。だから20ターン制では、何にも変換されなかった「コインその物」の価値が、10ターン制に比べればいくらか増しているのである。
 この理屈により、ジュゲムになぜかランダム性が付与されている「島」においても、20ターン制にさえすればかなりまともなゲーム性が保たれることになる。「島」とはまさに20ターン制のためにあるマップであり、いやむしろ20ターン制を前提として作られたかのようなマップであり、そういう意味では本作の隠れた良マップだったのだ。
 ……と力説したけれども、結局マップの数が4つしかないという欠点については擁護し切れない。また「島」が隠れ良マップだった一方で、「他マップ(全3種)」は20ターン制にするとつまらなくなるのか? と言えば、それは全くそんなことはないので、この「島」の良さの発見は、本作の「マップの質と数」という欠点を補いきれる物ではなかった。確かに「島」の魅力に気付いた時には驚かされたものの、一つの驚きが、複数の堅実な魅力を追い越すことはない。堅実に面白いマップが従来のように5つは用意されていること、今のところそれだけが正義であるように思う。
 しかし、少し視点を変えるだけで見えてくる物がまるで違ってくるという何か教訓じみた経験を得られたこと自体は、間違いなく素晴らしいことである。何やかんやと文句を言ってみたところで、本作は二年近いプレイに耐えうる程度には面白さの約束された作品なのだ。パーティゲームを求める全ての人におすすめ出来る良作と言えるだろう。
 そう考えてみれば、むしろ過去作品たちが完璧に近すぎたのだろうと思う。懐古主義には染まりたくない物だけれども。



・問題点?その3 テンポが劣悪
……これについては本当にマジで一切冗談抜きに一ミリたりとも擁護出来る点がない。購入当時から一切感想が変わらない。頼むから演出スキップ機能を搭載してくれ。特に各試合で始めてマップ全体を見渡す時、そのマップの特徴を解説し始めるパートだけは鬱陶しすぎるので何とかしてほしい。二年も同じマップの解説を聞くのはうんざりだ。
 この劣悪なテンポの演出や解説を提案した人は、例えば毎朝家を出るたびに、最寄り駅への行き方と近場のコンビニへの行き方を熱烈に解説され続ければ、いつか自分の犯した過ちに気付いてくれるのだろうか。……というくらい本当に鬱陶しい機能が本作のすごろくに巣食っている。勘弁してくれ。



・問題点?その4  すごろく以外のモードについて
 ……さて、ここからは前回記事で明確に問題点として挙げることはなかった話題に踏み込んでいく。前回記事あるいは前々回記事の中で「すごろくのマップ数は不足しているが、その分すごろく以外の本作初登場のモードが充実しているのでどっこいどっこいだろう」というようなことを言った記憶があるが、まさにその新モードの問題点について語っていく。
 本作のすごろく以外の目玉モードは大きく分けて二つある。四人で協力してボートを操縦し渓流下りをするモードと、リズムゲームの集合体のようなモードだが、ここでは分かりやすく「カヌー」と「リズム」と呼ぶことにする。それで、まずはリズムの問題点についてだが、これは「リズムゲームの集合体」という説明から薄々察してもらえるかもしれない。……そう、リズムモードは、実質的に「新モード」では無い。
 マリオパーティにおいて、すごろくの最中に度々ミニゲームを行い、その勝敗がすごろく勝負の行方に影響を及ぼすことは、ゲームのアイデンティティの一つとなっている。そして当然その「ミニゲーム」を、すごろくと切り離して自由に遊ぶ(いわゆるフリープレイ)ことも出来る。一方でリズムモードはあえて言うのであれば、リズム天国的な小規模リズムゲームを集めたモードであると言える。……それとミニゲームのフリープレイとは、いったい何がそんなに違うというのだろうか?
 いや、実際に違いはある。例えばミニゲームのフリープレイは一つずつゲームを選んで遊んだり、何ゲーム先取で勝利……と決めた連続勝負をすることが主な遊び方であるわけだが、リズムモードは「ランダムに選ばれるリズムゲーム」を「一定数続けてプレイ」して、その「総合得点」を競うルールになっている。一つ一つ好きな物を選ぶだとか、一種目単位で勝敗を分けることはしないのだ。
 そして「リズムゲーム」を単なるミニゲームとしてみた場合、それらの特徴が「リズムモード」の全てだった。つまりフリープレイと比べて多少ストイックなミニゲーム集のリズム編が、一つのまったく新しいモードのような面をして鎮座しているというのが実際のところなのである。そしてこれはあくまでも個人の感想だけれども、リズムモードにある物は、パーティゲームには不要のストイックさだと感じた。各種目の総合得点で戦えば、運の要素が薄まりすぎてしまう。
 パーティゲームの良さというのは、それなりに明確な実力差がある者同士でコントローラーを握っても、ミニゲームで十回も戦えばそのうち一回はほぼ必ず下克上が起こるような、いわゆる「エンジョイ」と呼ばれる和気あいあいとしたゲーム性にあるとぼくは考えている。しかし総合得点で競うルールはその良さを消してしまう。リズムゲームを作るならもっと数と質を厳選して、普通のミニゲームの一つとして搭載してくれた方が個人的には嬉しかった。
 ……というリズムへの批判的評価の一方、もう一つの新モード「カヌー」については、これは確実に「新モード」と言って差し支えないような新しさと独自性を持っていたと感じている。それなりに評価している。
 四人チームが二人ずつ左右に分かれてオールを持つことで、右へ左へ障害物を避けながら、あるいはアイテムを取りながら、制限時間内に渓流を下りゴールすることが目的であるカヌーモードのことを、リズムモードのように「事実上単なるミニゲーム集である」とするのには無理がある。というのも、カヌーはその内容の密度、ボリュームが尋常ではないのだ。
 道中には分岐路がいくつもあり、分岐先のルートにそれぞれ全く趣の違うギミックが用意されている。川を下る一方のゲームなので一度のプレイでは各分岐路のギミックを制覇しつくせないこともあり、それだけカヌーを操縦する楽しさにも多様さ、奥深さがあることになる。
 また、道中に浮かぶ風船に激突することで四人協力型ミニゲームが始まり、その成績次第で制限時間が追加されるシステムの存在も欠かせない。マリオパーティにとって1vs3や2vs2といったチーム戦はお馴染みであったけれども、四人全員で協力するミニゲームは少なくともWii以降初めてである。この時点でカヌーは、ありそうでなかった独自性を十二分に有しているわけだが、あくまでもそれは渓流下りに対するサブ的な物だ。
 従来の「すごろくとミニゲーム」という関係が、カヌーモードの中で「渓流下りと協力ミニゲーム」という形となって完成されている。この「大筋とミニゲーム」の形こそがパーティゲームの一つの理想形であり、カヌーがリズムとは一線を画するところだと言えるだろう。
 ……と褒められる点の多いカヌーモードではあるが、悲しいかなこちらにも許容し難い欠点はある。その欠点とは、まず何と言ってもミニゲームの種類の少なさだ。
 渓流下りの成功を目指す際、貴重な制限時間を増やす手段であるミニゲームに挑まない選択肢はほぼ存在しないのだが、全ての風船を取得し毎度ミニゲームに挑んでいると、ゴールするまでの間に何度か同じゲームをプレイすることになってしまう。基本的に必ずそうなると言ってしまっていい。なぜならそれはランダム性の偏りで起こることではなく、単純に「全てのミニゲームがプレイ済みとなる」ことで起こる既視だから。
 そしてすでに言ったように、カヌーの良さの一つは、繰り返し遊び、以前とは別の分岐ルートを辿ることにある。すごろくを見ていれば分かるように、ただ一度遊んだだけで飽きてしまうような物は良作とは言い難く、その面でカヌーはかなり良い線を行っているのだ。しかしミニゲームの少なさがその足を引っ張っている。
 もちろんすごろくモードにおいても、10ターン中に時々同じミニゲームが発生することはある。しかしランダムの結果であるそちらとカヌーとでは何もかもが違いすぎる。カヌーにおけるミニゲームは絶対数が不足している。だから渓流下りの楽しさを求め繰り返しカヌーをプレイするうちに、じわりじわりと少しずつだけれども、協力型ミニゲームは苦行へと変わり果てていくのだ。
 ……というわけで、結局のところ発売二周年が迫る現在、我が家で行われるマリオパーティと言えば、完全にすごろくのことを指すようになってしまっている。リズムやカヌーは過去の思い出となり、もう実際に遊ばれることはない。これら二つの新モードは、あくまでも長期的な目で見るならだけれども、すごろくのマップ数問題を補う要素にはなり得なかったのだ。
 また、これは「ゲームでビリになった者が家事を手伝う」という画期的かつ素敵な罰ゲームを採用している我が家だから……あるいはぼくが野蛮な男だからかもしれないが、カヌーにはまだもう一つ問題点があった。それは今後ぼくがパーティゲームについて語る時に必ず共通するであろう、偏見についてのことだ。
 つまり結局のところ、「勝者と敗者」という構図が存在しない完全協力特化のパーティゲームは、そうでない物に比べてすぐに飽きられてしまうのではないだろうか……。
 仮にカヌーのミニゲーム数が倍になっていたとしても、我が家がすごろくと同じくらいカヌーモードを贔屓にしているような未来は、ぼくには想像できなかった。





 ……と、以上をもって、本作を遊び続けたからこそ知ることの出来たレビュー内容はおそらく全てになる。
 何やらネガティブな後味になってしまったが、キャラ性能の差がパーティゲーム的に非常に優れた物だった……ということに気付けただけでも、本作の個人的評価は前回記事当初と比べて確実に上昇している。そしてそうとなれば、今さらとはいえ本作の良さを今一度広めずにはいられない。だからこの記事を書いた。
 パーティゲームに少しでも興味のある人は、みんなマリオパーティを買えばいい。もうすぐ二年になるというのにあまり値落ちしていない、この「スーパーマリオパーティ」を。Switch唯一のマリオパーティを。
 そしてみんな祈るようになればいい。ぼくと同じように、マリオパーティの新作を、あるいはリメイクを、もしくは他のパーティゲームでもいいから、どうにか次のパーティゲーム作品を出してくださいと、皆で祈るのだ。パーティゲームに飢えるのだ。いったい何時になったら我々は、その年に発売したパーティゲームで、明日の風呂を誰が洗うべきか決められるようになるのだろうかと。
 より多くの人間が祈ればきっとそれは叶う。オカルト的パワーではなく、需要と供給……経済の力によって!
 何にせよいつかまた新作を手に取って、早計すぎるレビューと、一年後の答え合わせをしたいものだ。