夢日記、円満ではない終わり。

 小型のマグロくらいなら収まりそうな、大きな長方形のクーラーボックスを持って、ぼくは小学校の階段を上っていた。今日は、かつてこの学校を卒業して大人になった人たちが、子どもの頃の気分を再体験することができるイベントの日なのだ。
 クーラーボックスの中身は父が趣味で釣った魚である。水と氷も入っているので、歩くたびに揺れてガラガラと音が鳴る。とても運べないというわけではなくても、階段を上るにはきつい荷物だ。父はまだ海岸で釣りを続けているだろう。
 教室に入るとすでに大勢の人が、懐かしい作りの椅子に座っていた。一方で机は無い。かわりに、みんな画板を持っている。ぼくが足元にクーラーボックスを置いて、どっこいしょと椅子に座ると、現職員だろうスーツの男性から画板とプリントと筆記用具を渡された。
 職員はともかく、教室中の誰の顔にも見覚えがなかった。そして着席した者たちの綺麗に全員が男性だった。しかし何にしてもクラスは間違えていないはずだ。確実に確認して入ったのだから。
 はじめ、の声がかかり、ぼくたちは鉛筆を握る。小学校のテストとはこんなに簡単な物だったんだなぁ、と感慨深く思いながら、あくびが出そうなほど簡単な答えをプリントに記入していく。……記入していったのだが、ある時ふと、全く答えが分からなくなってしまった。ピタリと己の手が止まる。何度も問題を読み直す。舐めまわすように、何度も、じっくりと。
 信じられなかった。だってずっと、たとえば「足し算の筆算」のような、本当に小学生レベルの簡単な話ばかりをやっていて、それは今も変わっていなかったのだ。なのに答えが分からなかった。周囲の世界から途端に切り離されたような感覚。小学生の問題が分からない大人は、落ちこぼれの小学生よりももっと焦る。
 問題のレベルはずっと同じなのに、突然答えが一つも頭から出てこなくなった。忘れる忘れないの問題ではないはずの「考えれば分かること」が、全て、ド忘れしてしまったかのように一切出てこなくなってしまった。さすがにおかしいと感じ始める。顔を上げて周囲を見ると、誰も問題を解く手を止めていなかった。やはりぼくだけがおかしいのだ。
 足元を見ると、クーラーボックスがなかった。
 馬鹿な、あんな物が音もなく消えるわけがない。いくらテストに夢中になり、あるいは焦っていたとしても、クーラーボックスが動かされたなら絶対に気がつくはずだ。やはりおかしい。何がおかしいのか? ぼくは自分の頭や正気を疑った。正常な精神をしていないのかもしれない。
 ともかく、父にこの件を報告しなければと思った。急用を思い出したと言って教室を抜け出す。階段をかけ下りる。学校の門から出て、アスファルトや白線やガードレールの敷かれた通学路を走って走って、車や信号機に気をつけながら、ぼくは海岸まで戻ってきた。
 やはり父は釣りを続けていた。そしてその足元には、ぼくが持っていたはずのクーラーボックスがあった。
 父に一連の出来事を話すと、何を言ってるんだ、お前が今これを持ってきたんだろう、と笑われた。そんなはずはなかったが、ボックスはもちろん、中の魚もそのまま無事だったから、まぁいいかと思うことにした。
 そうなれば、それならそれで、今度は学校に戻らなくてはならないということになる。父も「おう行ってこい」と言うので、ぼくはまた大急ぎで海岸線に沿って走った。
 その道中で、砂浜に立っていた有名なお笑い芸人に出会った。やけに急いでいるぼくに興味を示した彼は、そのまま学校までついてくることになった。ぼくはいよいよ急がなければと思って、赤いカードを使うことに決める。危険が伴うので、カードの効果をまずは芸人にも説明する。
 カードを使うと、ぼくと芸人の体は電動自転車のように加速して進む。そしてカードを使う回数が五の倍数になるたび、その時だけカードの効果はさらに強くなる。それは事故を起こさないように気をつけねばならないが、便利であることには間違いない物だった。
「使いますよ、一回!」
 足元から浮遊感が生まれ、強風に背中を押されるように加速する。おっとと、と着地時に歩幅を整えながら、またカードを使う。同じカードをかざすだけで何度でも使えるから、慣れればもっと速く走れるはずだ。
「二回! 三回! 四回! 五回目行きますよ! 五回!」
「うおおおわあっ!」
 リアクション芸に定評があるだけに、芸人はカメラが回っていても良いくらい活き活きとカードに踊らされていた。しかし転びはしない。ぼくも彼もきっちり走っている。これなら間に合う。
 しばらく進むと山道に入った。狭く曲がりくねった下り坂で加速することに若干の不安はあったけれど、やるしかなかった。
「一回! 二回! うおっ」
 時々加速が過ぎて、左右の岩壁や木々、茂みに突っ込みそうになる。しかしそこはゲームで言うところの壁ジャンプの要領で上手く受け身を取り、ぼくたち二人は従来では考えられないほど素早く山道を下っていく。
 道中、買い物袋を持ったおばあさんとすれ違った。こちらは「危ない!」と肝を冷やしたが、幸い事故になることはなく、またおばあさんも全く驚いていなかった。慣れているようで、にこやかに会釈をしてくれたから、ぼくもそれに返した。
 突然、芸人が後ろからぼくの腕を握る。スピードが出ていた分、反動で「うっ」と声が出る。ぼくは不服の意で睨みつけるが、彼はお構い無しにぼくを草むらの方へ引いて行った。
「こっちの方が近道なんだよ。一回番組で来たことあるから知ってんだ」
 太い根っこが地面の上にせり出しているような一際巨大な樹木を目印に、芸人は道無き道へぼくを誘った。腰まである雑草をかき分けながら、正規の道よりもさらにきつい傾斜を下っていく。
 ふと、ある地点を境に、空からの光が入らなくなった。葉の間から十分に道を照らしていた木漏れ日が、密度を増した枝枝によってほぼ完全に遮られたのだ。鬱蒼とした木々の中、「近道」は廃墟のような暗闇に包まれた。
 下り坂の傾斜は終わって、平坦な地面に変わる。唐突に開けた落ち葉と土の道路が現れ、その脇にはポツポツと捨てられた民家が見え始めた。いかにも木の板を張り合わせて作られた「家の形をした物」は、脆そうな緑色へ変色しとっくに腐れ朽ち果て、家の壁を構成している板と板の間は隙間だらけで、そこかしこから真っ暗な内側へと繋がっている。
 先へ進むほど暗闇は増していくようで、真っ直ぐで障害物もない道なのに、50メートル先はもはや何も見えない有り様だった。
 人の気配も、生活の気配もない。けれどそこかしこに、崩れた焚き火のような黒い木片の小山があった。……直感的に、ここに人が済まなくなった経緯は、およそ円満ではなかったのだろうと悟った。
 奥の暗闇から、まるで細い腕をこちらに伸ばしてくるみたいに、嫌に冷たい風が吹いてきて頬を撫でる。芸人は腐った木の民家をよじのぼっていた。
「こっちこっち。そこの屋根の穴から行くんだ」
 ぼくはぞっとして、彼をそこから引きずり下ろした。何かがあったわけではないが、これ以上ここにいてはいけないと感じた。
 さっき彼にそうされたように、今度はぼくが強引に腕を引いて行く。雑草をかきわけて来た坂を上っていく。芸人は依然として軽い調子だった。
「本当だって、近道なんだって。確かに見た目アレだけど」
 そう言う彼について行ったら、なぜかは分からないがきっとタダでは済まない。そう思った。だから彼を説得するための言葉を探しながら、あの巨大な樹木のところまで彼の腕を引き半ば強引に戻ってきては、ぼくは言った。
「お前っ、上見ろよ!!」
 上に何があるのかは知らないけれど、ぼくは気付いたらその台詞を選んでいた。そして、直感的にそれを選んでしまった以上、もうぼくが上を見ることはできない。
 けれど、芸人が上を見たことは背中越しの感覚で分かった。
「……うわ、マジじゃん」
 彼が何を見たのか聞くことになる前に、ぼくたちは死にものぐるいで正規の山道を駆け下りた。
 学校の下駄箱に着くと、知っている顔の先生二人が校舎の中から出てきた。ここは小学校のはずなのに、その先生たちは中学の先生だった。国語科の若いS先生と、社会科の年配のN先生だ。二人とも男性である。その姿は昔と少しも変わっていないように見える。
 S先生が先にぼくを見つけて顔をほころばせた。
「おおっ!? なんだなんだ、お前、どういうやつで? ここ小学校だぞ」
 意外なタイミングでの再開に、最近はどうしているのかといった世間話が盛り上がる。N先生はそれを少し離れたところで眺めていたから、ぼくはそちらにも声をかけてみる。
「N先生、お久しぶりです」
 しかし一人目の時とは打って変わって、N先生の方は途端に険しい顔付きをした。
「私を「N先生」ではなく「先生」と呼ぶことには、意味があるんですね?」
「……は? いや、N先生って呼びましたよね?」
「また……。「先生」とだけ呼ぶことに意味があるんですね?」
 N先生の表情はみるみるうちに怒りへと変わっていく。次の瞬間にでも怒鳴り声を上げそうな、大人の本気の怒りの顔だ。
 おい、ちょっと、何なんだ、助けてくれ……と後ろを振り返ると、S先生がどこにもいなかった。ここまで着いてきたあの芸人もいない。二人とも忽然と姿を消してしまった。
 静まり返った、人気のない薄暗い下駄箱置き場で、N先生がぼくに一歩ずつ、ゆっくりと詰め寄ってくる。彼は明らかに怒っていた。話が通じない。ここには他に誰もいない。
 ぼくは、ずっと起こり続けていたおかしな「何か」が、まだ終わっていないのだと直感した。










 現実時間7時20分。「朝だよー」の声に、こんなタイミングで起こす奴があるかとぼくは腹を立てた。