ポエムにしては長い文章保管庫。(創作)

 会計は持つから好きなものを頼め、と言うと、彼女はメニュー表の中から迷いなくその一行を指さした。
 値段を見て、思わず笑ってしまう。
「遠慮がないな」
「エンリョ?」
 きょとんとした目で見られる。俺は反射的に「別にいいんだけど」と付け足したけれど、彼女は別に、そういう価値観の中できょとんとしたわけではないようだった。
「あぁ、そっか、今が「遠慮の時」だったのか。分からなかった」
 しまった〜、と言わんばかりに、彼女はわざとらしく額に手を当てる。どのリアクションが素で、どのリアクションがわざとなのか、彼女に関しては中々分かったものではない。
「いや、だから別にいいんだって」
「良くはない! 遠慮も知らないポンコツだって思われるのは心外だよ。……それとも、ポンコツへの哀れみで奢ってくれるの?」
「そんなわけないだろ」
「そう……?」
「うん。君は賢いからな。人が覚えられる概念くらいすぐにものにすると思っていたよ。……だからその上で笑ったんだ」
「あ〜、なるほどぉ。そういう時も「笑う時」なんだ」
「そうとも」
 店員を呼び、まずは彼女が指さした通りの物を頼む。自分の分はその際に目についた物の中から適当に決めた。
「いつかは私もあぁしてみたいなぁ」
「あぁするって?」
「店員さん」
「あー、仕事なぁ。そうだよなぁ。……まぁそれも近いうちに出来るようになるさ、ブラックかもしれないけど」
「えー、ブラックは困るなぁ。怒鳴られた時ってどんな顔すればいいの?」
「いや、普通に残業のことを言ったつもりだったから。それは俺にも分からん」
 なんてことはない会話を繰り広げる最中に、なんだか妙な居心地の良さを感じた。しかし俺という人間が、友人との会話に人生の喜びを感じられるほど豊かな人格を形成できている覚えはなかったので、その居心地の良さの正体を知りたくなった。
 じきに彼女の注文した料理が運ばれてくる。それを見て真っ先に思い出したのは「寿司屋の大トロ」だった。料理のジャンルとしては全く別物だけれど、いかにも頭一つ抜けていますよという雰囲気がそっくりだった。
 そして、それで思い出した。この居心地の良さは、彼女が遠慮という概念を本質的には理解していないおかげなのだと。
「……食べないのか?」
「え?」
 カトラリーも持たずに、それどころか料理に目を向けることもなく、彼女は真っ直ぐこちらを見つめていた。
「いやいや、私だけ食べ始めるっていうのも悪いし」
「冷めるぞ」
「いいよ。それで私の遠慮が証明できるなら」
「はぁ? ……あぁ、そういうこと?」
 遠慮という概念すらまともに知らないポンコツだと思われた……という彼女の被害妄想はまだ続いていたらしい。そうではないというところを、今また別の形での遠慮を見せることで証明しようというのだ。
 金銭が絡む遠慮と、それ以外の遠慮。様々な遠慮の概念を知っているということがよく分かった。目で称賛を伝えると、彼女は敏感にもそれをきちんと受け取ったようで、満足そうに顔をほころばせた。
「じゃあもう食べたら?」
「え、なんで?」
「もう遠慮のことはよく分かったよ。それで十分だろ?」
「そうなの……?」
「じゃなかったら何なんだ……?」
「だって、「知ってる」と「出来る」は別だから。私は「出来る」ことを証明したいの」
「うん、だから分かってるよって。もう十分なんだ。なにも犬みたいに待つことないだろ」
「むっ、犬じゃないし。どこからどう見ても人間でしょ」
 言って彼女は豪快な一口目を頬張り、その味に満足してまた笑顔を見せる。……俺はそれを見て、ふと彼女が暗に「遠慮なんて物が、どれだけくだらない物なのか分かったか?」と言っているような気がして、心の中で自嘲した。人のことを言えたものではない被害妄想だ。
 もしも彼女が本当に概念ごと「遠慮」を知らなくて、「好きに頼めと言ったじゃないか」と我がもの顔で注文をして、自分の分の料理が運ばれてくるなりそれにがっつき始めたなら……。俺としては、それはそれで好ましいことであるように思うのだ。だから遠慮なんて物は、本当はくだらない物なのかもしれないと感じてしまった。
 そしてそう感じるのは、彼女と出会うよりも前の頃にまで人生を振り返れば、別に初めてのことではなかった。
 少なくとも「会計を持つ相手よりも高い物は頼めない」だとか、そんなつまらない遠慮を覚えてしまうことだけは、出来れば避けてほしいものだ。心からそう思った。俺の居心地の良さのために、彼女には今のままでいてほしいと。