オンリー1の円 (アナログゲームの話)

 子どもの頃食べたクッキーに「2003」の文字が彫られていたことを覚えている。当時の幼すぎた自分には、その意味が分からなかったことも。

 2003年頃の時代はまだ、ゲーム機が今ほど家庭的な物として根付いてはいなかったように思う。家族で桃鉄マリオパーティ等のゲームを楽しむ風景を映したCMが現れたのは、かなり最近になってからのことだろう。
 とはいえ、では当時の子持ち家庭の人々が「家族でゲーム」をしていなかったのかというと、別にそんなことはなかったと認識している。当時の親と子どもがやるゲームといえば、たとえば人生ゲームのような盤ゲームだった。あるいはトランプやオセロだった。
 日本の家庭的なアナログゲームの全盛期は、そういったWii以前の時代にあったように思う。今の日本の家庭において、アナログゲームにかつての栄光はない。
 ぼくが子どもの頃はパッケージが擦り切れるほどアナログの人生ゲームを愛好していた我が家の面々も、Wiiの存在が馴染んでくるにつれて、やれ後片付けが面倒くさい、やれ地味だ飽きたということで、すっかりアナログゲームを毛嫌いして、デジタルゲームの愛好家に宗派替えをしていた。かつて家にあったすごろく系の玩具はほとんど全て売るか捨てるかしてしまうほどにである。
 我が家のように「毎週土日は家族で集まってパーティゲームをプレイする」というような習慣が、子どもが高校を卒業したあとでも続いている家庭というのはなかなか珍しい例かと思う。しかしそんな我が家だって、もしも面倒なことがなくて演出も派手な数々の素晴らしいデジタルゲームたちが存在していなかったらどうだったろうか……と考えると習慣の強固さは定かではなく、デジタルゲームには感謝しかない。
 けれども、しかしそれはそれとして、ぼくはずっともったいないことをしているような気分にもなっているのだ。
 アナログゲームが全てデジタルゲームに劣るなんて、そんなことがあるだろうか? アナログボードゲームの愛好家は世界中にいると聞く。ドイツではアナログのボードゲームが日本とは比べ物にならないほど盛んに開発され愛されていると聞く。それらの物が全てデジタルゲームに劣るなんて、そんなことがあり得るのだろうか? アナログゲームの毛嫌いは、手を伸ばせばとどく距離にある何か素晴らしい体験を、みすみす取り逃してしまっているんじゃないか……。
 と、思いはしてもどうしようもない、という状態を数年受け入れてきた。家族の興味をアナログゲームに引き戻す方法など思いつきもしなかったからだ。
 しかしそんな日々の最中、天啓が舞い込んできた。
 ある日突然、母がカードゲームを買って帰ってきたのだ。それはいわゆるTCGではなく、例えばUNOのような、ボードゲームとしてのカードゲームだった。改装セールを謳う電化製品店を見に行ったら安く売っていたから気まぐれに買ってみたらしい。そのお値段、実に700円。ビンに入ったワインよりも安い。
 そのカードゲームのタイトルは「モノポリービッド」。あの有名なボードゲームモノポリー」の名を冠しているそれに、ぼくは大きな期待を寄せた。母も似たような期待をしたから買ってきたのだろう。母がモノポリーについて知っていることは「いただきストリートみたいな物」ということだけだったから、デジタルゲーム信仰が巡り巡って早10年以上、いよいよもってそれがアナログに回帰してきたことになる。
 きっと我が家はここから少しずつ、アナログゲームの世界に惹き込まれていくのだ。2003年頃とは違ってぼくや弟は賢くなり、奥の深いゲームにも対応できるようになっている。楽しめるゲームの幅は段違いであるはずだ。年に何本も出ないデジタルのパーティゲームに飢えるだけの時代は終わるのだ。
 ……と、ぼくは期待していた。










 とりあえず、モノポリービッド(以下ビッド)のルールを説明しようと思う。
 ビッドはいわゆる競売ゲームだ。モノポリー原作にあるようなすごろく要素や、金を取ったり取られたりの要素はそこにない。
 それぞれのプレイヤーは、毎度オークションにかけられる「色のついた物件」を手持ちの金で競り落として、同じ色の物件をいくつか揃えることで自らの得点に変えていく。当然金は有限なので、可能なかぎり無駄遣いをせず、かつ他人に競り負けずに、望んだ色の物件を競り落とすことが求められる。これはそういった駆け引きのゲームである。
 ……というのが建前なのだけれど、ビッドの実態はそんな物ではなかった。
 まずは前提をいろいろと解説しようと思う。ビッドは以下のような流れでゲームを行う。

・ゲーム開始時、プレイヤー全員に5枚の手札が配られる。
・各プレイヤーが自分の手番を迎えるたびに、全プレイヤーは山札から1枚引いて手札を得る。
・プレイヤーは自分の手番にアクションカードを、持っているだけ何枚でも使うことができる。その後、金銭カードを使って全員で競りを行う。

 ……アクションカードっていうのは何のことだ? と、この説明を聞いた人は思うはずなので、それについても解説していく。
 アクションカードとは、金銭カードと違って競りには使えないが、手番に使用することで各種特殊な効果を発揮するカードである。遊戯王に例えて言えば、金銭カードはモンスター、アクションカードは魔法というわけだ。そんなアクションカードの裏面は金銭カードと見分けがつかないようにデザインされており、山札や手札には金銭カードとアクションカードを入り交じらせてゲームを行うことになる。
 アクションカードには以下の4種類がある。それぞれの効果を、俗称を交えて解説する。また、言うまでもなく全てのカードは使い捨てである。

・2ドロー
……使うと無条件で山札から2枚引けるカード。手札が増えるということは金かアクションが増えるということなので、単純に強力。

・オールマイティ
……任意の色の物件の代用品として使えるカード。同じ色の物件を決められた数揃えて初めて得点になるゲームなので、全ての色になり得るこのカードは強力。

・横取り
……他人が競り落とし済みの物件を、1つ強奪できるカード。敵の物件は減り自分の物件は増える、攻防一体の強力なカードである。

・打ち消し
……アクションカードを打ち消すカード。他人がアクションカードを使用した際、これを使うことでその効果を不発にすることができる。強力な効果揃いのアクションカードを潰せる唯一の手段なので、これもまた強力。

 ……というバラエティ豊かな面々に加えて、金銭カード1円~5円を合わせた山札や手札を用いてゲームは行われる。言うまでもなく、全てのカードは複数枚存在している。
 競りは、金銭カードを任意の枚数伏せることで行う。全プレイヤーが伏せ終えてからカードを表にして、一番大きい金額を出していた人が物件を得るのだ。競りに負けた人の金は手元に戻るが、勝った人の金はそのまま捨て場に置かれる。そのあたりは現実のオークションと同じ仕組みなので分かりやすい。
 ……ところで、金銭カードには1円~5円の計5種類のカードが存在しているわけだが、当然、その中では5円が最強のカードとして君臨している。というのも、全てのカードは間違いなく「1枚のカード」であるのに、1円カードは5円カードの五分の一のパワーしか持っていない。だからこそ5円が最強と言えるのだ。逆に言えば、5円カードは1円カードの五倍のパワーを持っているということになる。分かるだろうか? 実に五倍、「五倍」である。つまり、両方ともカードの枚数としては「1枚」なのに、実際のパワーとしては「1枚分」と「5枚分」だと言い表すことも出来る……というわけだ。だから金銭カードの中では5円が最強なのだ。
 ……そしてここで、アクションカードの解説を今一度思い出してほしい。
「横取り……他人の競り落とした物件を強奪する」
 たとえばこのアクションは、金銭1枚の最大パワーが5円なのだから、最大で5円相当の力を発揮できるカードということになる…………と思ったら大間違いである。
 実際の「横取り」のパワーはもっと大きい。なぜなら競りは、「任意の枚数」の金銭カードを伏せることで勝負するからだ。横取りのパワーは理論上青天井である。そして需要が高い色の物件が競りにかけられるほど、それを求める人はきっと大きな金額をもって、なんとしてでもそれを競り落とそうとするだろう。その「大きな金額」が、たった1枚のカードに返される可能性のある5円未満であることは考えづらい。つまり「横取り」は適切なタイミングで使用すれば、少なくとも「5円~?円」の価値を発揮することが期待できるわけだ。そして小学生でもない限り、その使用タイミングを致命的に誤ることはないだろう。
 同じ理由で、競り落とすまでもなく物件の代用品になれる「オールマイティ」も青天井のパワーを持っている。それらを打ち消せる「打ち消し」も、相対的に青天井のパワーを持っている。2ドローは、1円を2枚引く可能性があるかわりに、青天井パワーを2枚引く可能性もあるカードだということになる。
 そしてさらに思い出してほしい。ビッドにおける「手札を増やす方法」についてだ。それには2種類しかない。

・各プレイヤーの手番が回るたびに、全員が1枚を引く。
・2ドローカードを使う。

 そしてゲームは、全員に5枚の手札が配られるところから始まる。みんなに必ず5枚の手札が配られるのだ。……つまり何が言いたいのかというと、こういうケースがあり得るということになる。

・Aさんの初期手札
……1円3枚、2円1枚、3円1枚。(実質のカードパワー=8円)

Bさんの初期手札
……5円1枚、2ドロー1枚、オールマイティ2枚、横取り1枚(実質のカードパワー=約22円~?円)

 ……こんな圧倒的なパワー差を持った状態でゲームがスタートする可能性がある。数えてみたところ、最も枚数の多いカードは1円カード、次に多いカードは2円カードであったため、確率的にもあり得ない話ではない。
 そしてこうなってしまうと、Aさんに勝ち目はない。同じ5枚の手札でもパワーの差は歴然であり、その差を能動的に埋める方法は存在しないからだ。全員で均等に行う1枚ずつのドローが、Aさんにだけ強く、Bさんにだけ弱いことが繰り返されなければ、圧倒的なパワーの差は埋まらない。……はたしてそれは「駆け引き」だろうか?
 もちろん、運次第で勝負が決まるゲーム自体は悪いものじゃない。作り手が「駆け引き」を謳っていようと、運ゲーとして面白ければそれはそれでゲームとして問題ないわけだ。
 けれど、ビッドの場合はそこもまずかった。「最初に配られた手札を見て、勝ち目がないことが分かる」のはさすがにまずかった。だってそんなに盛り下がることって他にないのだ。そんなつまらない気持ちになるゲームは他にないのだ。
 ババ抜きやUNOで山のような手札を抱えたって、まだそれで負けると決まったわけじゃない。麻雀でクソみたいな配牌に当たっても、上手く降りたり役満を目指すという「道」がある。でもビッドにはそういった物が何もない。まずい手札になったら理論上必ず負けるし、それを覆すためのワンチャンスを取りに行く能動的な手段、「道」もない。ただ祈ることしか出来なくなるのだ。
 自分の手札が弱くたって、他人の手札も同じくらい弱い可能性が残っているだろ……と思う人もいるかもしれない。けれど、ビッドの山札は「共用」である。一つの山札を全てのプレイヤーで分け合って使うのだ。必然的に、自分が弱いカードを引けば引くほど、「他人が強いカードをすでに引いている確率」は増していく。それも含めて、最初の手札を見た瞬間にとことん盛り下がることがあり得るというのだ。
 あげくに、問題はそれだけには収まらない。すでに説明したように最強の金銭カードは5円だが、アクションカードは全て実質的に5円以上の価値を持っている。つまりゲーム中で最も強いカードはアクションカードだということになる。最強は「金」ではないのだ。「競売」は「金」によってのみ行われるのにも関わらずだ。これは「競売ゲーム」であるはずなのにだ。
 競売その物とは関係ないところで飛び交う、最強のアクションカードたち。競りのために金を伏せるよりも前に、あれやこれやと効果が飛び交うその光景はまさに「空中戦」だ。はたしてそれがこのゲームの正しい姿なのだろうか。駆け引きとは何なのだろうか。競売にも空中戦にもまともに参加できず、黙って指をくわえているしかないような、ただ運が悪いばかりに1円や2円を大量に抱え込んでしまったプレイヤーの気持ちはどこへ行く?
 アナログゲームから離れて早10年。大人になったぼくは、ある種当然といえば当然なのかもしれない事実に気が付いたのだった。……クソゲーは、アナログの世界にもあるのだと。全員の手番が一周する頃には運悪く1円を5枚も抱え込んでしまいボコボコに負けながら、ぼくは身をもってそれを知った。
 理不尽すぎて静かに怒り狂ったぼくが数えた、全体のカード枚数の配分は以下の通りである。

1円=14枚
2円=13枚
3円=8枚
4円=10枚
5円=5枚
2ドロー=7枚
横取り=7枚
打ち消し=7枚
オールマイティ=11枚

 計82枚のカードを組み合わせた山札をプレイヤー全員で共有して、このクソゲーは執り行われる。 











 ……けれど、純粋な運次第で発生する純粋なクソゲーに対面したぼくの心は、その時点ではまだ折れていなかった。これがデジタルゲームだったらとっくに折れていたと思うが、アナログゲームなので折れていなかった。
 アナログゲームの強みとは何か? それは簡単にアレンジルールが作れることである。プログラミングで構成された精密な玩具であるデジタルゲームとは違い、非常に自由に、非常に容易に、非常に独創的に、アナログゲームのルールは各々でアレンジすることが出来る。アレンジとはつまり、「改善」だ。だからトランプやUNOや麻雀にはローカルルールという概念がある。その概念の根付きこそが、アナログゲームの強みを表しているのだ。
 ぼくは必死に、素晴らしい改善案を自分の脳内に探し求めた。何せこれは10年越しにデジタルから回帰したアナログの遊びなのだ、きっとアナログの世界にはまだ見ぬ面白いゲームがいくつも眠っているのだ。なんとしてでもこのモノポリービッドを呼び水にしなければ、今度こそそれを完全に取り逃がしてしまう。ぼくはゲームが好きだ。だから必死だ。
 我が家にアレンジルールを導入させるために求められることのうち、最重要なのは「分かりやすく簡単なこと」だとぼくには分かっていた。ぼく以外の家族はどこまでいってもゲーマーではない。テストプレイを繰り返してより良いゲームを目指す喜びを理解しない人たちにアレンジを認めさせるには、簡単で簡潔で、一ミリも気後れを感じさせない内容でなければならない。
 それを念頭にルールのアレンジを考えた時、モノポリービッドというゲームで勃発する「空中戦」については、もはや救いがたいものと思われた。アクションカードのパワーをちょうどいい物にする方法は思いつかなかったのだ。例えば強力すぎる効果にランダム性(狙った物件を横取りできるとは限らない)とか、代償(使うには○○円払うとか)を与えてしまうと、ルールと実際の処理が複雑化の一途をたどるわりに、「弱くなりすぎた無数のアクションカード」という名のゴミが場に散乱する可能性を招いてしまう。それは1円を増やすだけの行為であり、楽しい運ゲーにも熱い駆け引きにも一向に近づくことが出来ない。
 かといってアクションカードその物をごっそり取り除いたゲームを提案しても、そんな味気ない物で遊びたいと思う人はいないだろう。ぼくもそれはさすがにどうかと思う。そうなると、改善すべきは「高すぎるパワー」ではなく「低すぎるパワー」の方であるように思えた。とにもかくにも、枚数だけは立派な手札を見てげんなりするということだけでも無くせれば、このゲームは「神ゲー」ではなくとも「そこそこ楽しめる物」として落ち着けるはずだから。そうなれば「次のアナログゲーム」もあるかもしれない。
 低すぎるパワー、つまり一番多く入っているわりに一番しょぼい1円カードの扱いをなんとかしなければならない。何度も言うけれど「全部抜く」というのはあり得ない。そんな仰々しすぎる手段は気後れを生み、また同時に2ドローのパワーを引き上げてしまうから。
 そこでぼくが思いついた案は、以下の二つだった。

・5枚以上そろった1円カードは、それを捨て場に置くことで、山札から同数のカードを引くことが出来る。
・5枚そろった1円カードを捨て場に置くことで、「反射」のアクション効果を発動する。それは打ち消されない。

 前者のルールは言うまでもなく、シンプルな救済措置そのものである。1円を5枚抱え込んでしまったとしたら、それを全て捨てることで5枚ドローできる、という風にするのだ。
 この案のいい点はなんといっても、「手札に1円が溜まっていくこと」にワクワク感が付与されることだろう。なにせ見事5枚に達した瞬間に5枚ドローが確定するのだ。「1円が5枚も抜け落ちた山札」から5枚も引けるのだ。それは当然、このルールを適用する者に計り知れないパワーを期待させるだろう。そしてその「計り知れない期待」があるからこそ、その期待が裏切られたとしても諦めがつくというものだ。元々このゲームは運要素が強いのに、「1円を引きまくる」「その後のビッグチャンスも逃す」という二大不幸にぶち当たれば、これは今日は負けるしかなかったのだろう……とうなだれることが出来る。気持ちよく、うなだれることが出来る。なぜならその不幸極まる敗北の中には、「特大の希望を追いかけた」という輝かしい体験が含まれているからだ。遊びの面白さは勝ち負けだけで決まる物じゃない、過程の中にも面白さはある。この前者の案は、それを確保するためのアレンジルールなのだ。
 一方で、後者はドッキリ感を優先している。「反射」の効果とはつまり、他人が使ったアクションカードの効果を自分の物とすること、「打ち消し」の上位互換のことを指している。「横取り」を反射すれば逆に自分が他人の物件を奪い、「2ドロー」を反射すれば自分が2枚引き、「オールマイティ」を反射すればそれを自分の物とすることが出来て、「打ち消し」に対しては同じく「打ち消し」として働く。5枚も溜まってしまった1円カードを、そんな最強の一撃必殺カードに変換することが出来る……というアグレッシブなルールが後者の案である。
 せっかくの満を持しての必殺技を「打ち消し」1枚で台無しにされてはアレンジの意味がないので「反射は打ち消せない」の注意書きも入れるとして、これはこれで悪くない案だろう。前者の案に似て「巨大なパワーへの期待」が生まれる上に、他人の利益を打ち消しながら自分の利益にするという性質上、前者よりも「してやったり感」が出ることになる。対人戦のゲームとしてそれは魅力的な物だと言えるだろうし、気持ちだけでも「駆け引き」らしくなることは、本来あるべきだった趣旨に沿っているようで非常に綺麗なルールであるように思える。
 ただ後者の問題としては、説明が若干ややこしいことがある。「横取り」に対して打つ例はともかく、それ以外のアクションカードに対して使った場合の「反射」という言葉は的確ではないだろう。しかしそれ以上に的確な言葉はぼくには思いつかず、その微妙な違和感が、家族への解説を邪魔してしまう可能性は十分にある。というか、うちの家族なら「なんで反射は打ち消せないのさ。他のカードは全て打ち消せるのに」なんてことを言い出しかねない。そのくらいちょっと考えたら分かるだろうがボケ、という言葉を飲み込む自分の姿が容易に想像できる。
 ということで、まずは前者だ。ゲームバランス的にはたして本当に「5枚になったら交換」で合っているのかは分からないが、とにかくまずはそのルールを搭載してみなければ始まらない。要求枚数が多すぎるかもしれないし、1円を強くした結果2円がカスになるかもしれないけれど、そんな問題はすぐに対処できることだ(枚数調整や、2円もアレンジに巻き込むことは容易)。細かい調整よりもまずは「1円をオンリーワンの存在にすること」、そして「もしかしてそっちの方が面白いのでは?」と気付かせること、それが何より先決だ。
 だからぼくは遊び終えたモノポリービッドを片付けながら、家族に向かって提案してみた。
「このゲームは、1円を引きすぎるとゲームにならん。どげんかせんといかん。ってことで、1円が5枚手札に来たら、それを全部捨てて新しい5枚と交換できるってことにするのはどう?」
 答えたのは父だった。
「は? なに言うてんねん、そんなこと言い出したら運絡みのゲームなんも出来んやろ。時の運は時の運なんだよ」
 ……その言葉を聞いた時、ぼくは父がどういった人間なのかということを改めて、今さら改めて思い出した。
 何かに対して不愉快だと思うことは常日頃から多々あるけれども、カチンと来たというか、プツンと切れる感覚があったというか、この手の「人の発言」に対して「思想に対する殺意」みたいな物を感じたのはそれが久しぶり、または初めてだった。
 ちゃぶ台をひっくり返すように手元のカードをぶちまけたくなる衝動を抑えつつ、ぼくは家族と遊んできたゲームのことを、父と遊んできたゲームのことを一瞬にして振り返った。










 家族で麻雀をして遊ぶことがよくある。そんな環境の中で父は、四風連打のルールは知っていても、九種九牌のルールは知らない人だった。知らないだけなら仕方がないけれど、父は最悪なことに、九種九牌の存在を教えられてもそれを頑なに認めない人だった。
 麻雀を知らない人にも分かるようにざっくり説明すると、九種九牌とは、さっきぼくが挙げたアレンジルールのような「ひどい始まり方への救済措置」のルールである。そしてそれはもちろんアレンジルールなどではなく、れっきとした麻雀の公式ルールである。
 一方で四風連打とは、これも救済措置に近い公式ルールだが、九種九牌に比べればゲーム性的な重要度はさほどでもない。いわく縁起的な意味合いに近いルールらしいけれど、まぁそんなことはどうでもいい。大切なのは、「まともなゲーム性の確保を意識した場合」、「九種九牌の存在を否定する理由なんて何一つない」ということだ。知らないならまだしも、否定するというのは、より良いゲーム性へ向かうことの拒否と同義になる。
 九種九牌は否定するが四風連打は肯定する……父の中にあるそんな奇怪な思想の由来として考えられるものは一つしかない。父は「ルールはルールだから」で納得できるタイプのシンプルな性格をした人であり、父にとって「すでに知っていたルール」こそが「ルール」であり、それ以外の物はそうでないという認識になっている……という説しか考えられない。ルールが何のためにあるのか、なんてことは考えないタイプなのだ、父は。
 次に、少し話題は変わって「桃鉄」で遊んでいた時のこと。それは家族で100年プレイ(約40時間プレイ)に挑むという企画を実施していた時のことだ。年数が進むごとにイカれた性能の偉人が現れ始め、さすがにそれをされると「勝ち負け」以前に「楽しくない」という感覚を呼んでしまう無茶苦茶な展開が起こり始めたので、ぼくはそれ(プレイヤーではなくゲーム性そのもの)に苦言を呈したことがあった。システム側で勝負を拮抗させろとは言わないけど、もうちょっと遊んでる人たちがちゃんと楽しめるようにするべきだよなぁ……と。それに対する父の返事は概ね以下の通りだった。
「いいじゃん、いろいろあった方が面白くて」
 ……また別ゲームに話題を変えると、いたストで遊んでいる時もそうだった。初周のカード運やサイコロ運が極まりすぎて、序盤から終盤まで一貫して一方的なゲームが繰り広げられた際、さすがにこれはつまらない、いたストは昔からこんな感じのゲーム展開を許してしまう仕様になっていたけど、それでもう30周年か……ついに改善されやしないっていうのか……とぼくが嘆いていると、その時まさに一人勝ちしていた父は言った。
「俺はこういうの好きだけどな。面白いじゃん」
 勝つことが面白いという気持ちは否定しないけれど、とにかく父は「この試合が楽しいかどうか」しか考えていなくて、ゲーム性そのものが「楽しい試合を量産できる物になっているか、つまらない試合を極力減らせる物になっているか」ということにはまるで興味がないことは明らかだった。興味がないというか、そんな物の考え方をしたこともないのだろう。
 一方で、父の立派なところは、いざ自分がその理不尽なゲーム性によって最初から最後までなすすべもなくボコボコに敗北させられた時、それについて一切文句を言わないというところにある。今回は運が悪かったな、の一言で済ませてしまうのだ。たとえそれが一時間二時間の長期戦だったとしてもである。その感覚こそが「ゲーム性の良し悪しに目を向けない」という姿勢を生みだす諸悪の根源なのだろうけど、それはそれとして発言や振る舞いに一貫性があることは立派だと思う。
 でも、ぼくは父のそういうところが嫌いだ。ぼくは「楽しいゲーム」が欲しい。「楽しい試合」がしたいのではない、「楽しいゲーム」が欲しいのだ。高確率で楽しくなるゲームで遊んでみたところ、実際には楽しくない試合が繰り広げられた……という場合なら納得できるという話だ。麻雀で裏目ばかり引き続けて負けたからといって、麻雀というゲームの完成度は疑いようがない。そういうゲームがしたいのだ。だから「その場の楽しさ」だけで全てを語る父とは気が合わない。自分が苦しむ可能性を受け入れることと引き換えに、他人が苦しむ可能性を許容してしまうような思想には、反吐が出る。そんな「自助の世界」のような思想は嫌いだ。それは父のような強い人の理屈だから、ゲームでマジギレしてしまうほど感情を揺さぶられない強い人の理屈だから、ぼくにはまったく同意できない。ゲームという物にはもっと、「納得のいく負け方」が必要なのだ。
 そんな風に、ずっと前から父とは何度も意見が衝突していたのだけれど、それが決定的な結果を、つまり喧嘩を引き起こすということは今までなかった。なぜなら思想がどうあれ、デジタルゲームを遊ぶなら、与えられたルールの中で遊ぶしかないからだ。デジタルゲームのルールアレンジの幅はアナログに比べれば著しく狭く、気に入ろうと気に入らなかろうと、選択肢はほとんど「遊ぶか、遊ばないか」の二択しかない。そして世の中に出回っている「ある程度の質を持ったデジタルパーティゲーム」には数がない。遊ばないという選択肢を取れるほど、デジタルパーティゲーマーの世界は潤沢ではないのだ。だから「結局は遊ぶ」という結論でぼくも父も一致しており、喧嘩が起こることはなかった。
 しかしそこで、モノポリービッドだ。アレンジが容易なアナログゲームクソゲーだ。デジタルにあった一線がそこにはない。話はすでに「どう思うか」ではなく「どうするか」になっている。「遊ぶ、遊ばない」以外にも「アレンジする、しない」の選択肢が生まれている。思想が違えば結論も変わるようになってしまっている。そうなることを、もう10年もまともにボードゲームに触れていなかったぼくは予想出来ていなかった。
 父は「時の運は時の運だ」と言った。それは場面によっては正しい言葉だ。ぼくだって坊主めくりのようなゲームを否定しているわけじゃない。あれはあれで運ゲーとして、ジャンクフード的な良さがある。トランプもUNOもそうだ、運が勝負のほとんどを決めるゲームだって「そのつもり」で遊べば楽しい。でもモノポリービッドは違う。あれは「そのつもり」になった上でなお、始まった瞬間に深刻にげんなりする可能性があるゲームだ。「時の運」という言葉で済ませていいラインを明らかに超えている。
 そんなことは、実際にプレイした人なら、我が家の人間なら分かるはずなのだ。1円カードは「何らかの役に立つケース」の方が少ないって、もうみんな実感しているはずだ。アクションカードが強力すぎると実感しているはずだ。他の運ゲーと比べてゲーム性に致命的な欠陥があることが、二度三度と遊んだ我が家の人間になら分かるはずなんだ。けれど実際に出てきた言葉は「時の運は時の運だ」だった。
 ぼくはそれが許せなかった。
「そんなことを言う奴と二度とやるか、ボケが」
 そんな言葉が喉まで上ってきていた。










 喉で止まった暴言とは、ツバのような物である。吐き出すのも飲み込むのも自分の意思で決められる。そして吐き出すことは、正しい正しくない以前に「下品」なことだ。……それを分かった上でぼくは考えた、吐き出してしまうべきかどうかを。
 口に出してしまえば百パーセント喧嘩になるだろう。特に「ボケ」という語尾がそうさせるだろう。けれどぼくは別に「もうあなたとは遊びません」という意思を伝えたいわけではないのだ。意思疎通がしたいのではなく、怒りをぶつけたいのである。だから「ボケが」は必須だった。しかし、では「怒りをぶつけられる」というリターンに対して、「喧嘩」というリスクの方はどの程度重いのだろう?
 喧嘩を始めれば、まぁまず「次のアナログゲームを遊ぶ機会」は「消滅」するだろう。ちょっとした気まぐれでデジタルの世界から抜け出してアナログに手を伸ばしてみればこれだ……と母は思うだろうから、きっとそうなる。それどころかもしかすると、完全崩壊とまではいかなくとも、「週末は家族で集まってゲームをする」という習慣自体が一時的に停止してしまう可能性も十分にある。それはなかなか重いリスクだ。元々我が家は「直近には何の心配もない円満極まる家族」……というわけでもないのだから、案外一つの綻びが雪崩を呼ぶかもしれない。すでに言ったように、我が家の素晴らしい習慣ってやつは、デジタルゲームの素晴らしさによって支えられてきたと言っても過言ではない程度には、決して完全無欠の強度を誇るものではないのだから。
 家族がみんなで仲良く遊んでいられるような余裕がなくなることなんて、わざわざ引き起こさなくてもきっとそのうち勝手にやってくるだろう。それをあえて「今」引き起こすことになるかもしれないリスクを、保留されていたあらゆる問題の雪崩を呼びかねないリスクを、怒りを伝えるためだけに受け入れるべきなのか? ……さすがに否だった。ぼくはぐっと暴言を飲み込んだ。
 そうすると、これからの自分が取るべき行動の方針はシンプルだ。ただひたすらに、モノポリービッドのプレイを拒否し続けること。俺は別のゲームがしたいと主張し続けること、それしかない。そうすることで全ては避けきれなくても、ある程度は避けられる。マリオパーティの発売も近い、話題はすぐにそちらに移るだろう。しかもぼくがキレなかった甲斐あって、そして父がぼくと真逆の思想と精神をしているおかげで、モノポリービッドがアナログゲームの呼び水となる可能性もゼロよりは大きく残せる。無難な収まりどころだ、やはりそっちの選択の方が正しいように思う。
 ……ただ、こんな作文を書くくらいだから、ぼくの怒りが未だ冷めやらないこともまた明らかではある。そしてぼくの「モノポリービッドについてのストレス発散」はこれが初めてではない。ここでしたことと全く同じようにルールを解説して、問題点を取り上げて、改善案を提示して、父の言葉とその背景をぼくに見える限りの範囲で説明して、友達にこの件についての「愚痴」を言ったことがある。今LINEを確認してみたところ、その愚痴を言ってから今日までで、もうすぐ二週間が経過しようとしているらしかった。
 二週間経っても怒りが冷めやらない。友達に愚痴っても、作文として書いてみてもまだ冷めない。許せない。「より良いゲーム」を目指そうともしない人間のことが許せない。そういう発想がないとか、やろうとしても出来ないなら仕方ないけれど、発想はぼくから聞き、具体的な案も一応は聞いておいて、それを試しもせずに「興味ない」とばかりに一蹴する人間のことは許せない。目の前に転がっている改善点に着手することがそんなに難しいかよ、仕事でもあるまいし、余分に時間を持っていかれるわけでもあるまいしすごく疲れるわけでもあるまいし、ただ遊び程度のことを、遊びの中で遊びのノリで改善しようっていうのが、そんなに難しいことなのかよ。そう思う。本当に許せない。
 我が家の雪崩を構成する材料が、一つ増えたように感じた。