x日後に左利きになる人

 鬼滅の刃のロングランヒットに関連付けて、こんなことを言っている人がいた。
「そういえば「100日後に死ぬワニ」は、流行ったと言う間もなく消えたな」
 これは、鬼滅の刃の作者「吾峠呼世晴」が、ジャンプの巻末コメント等にアイコンとして載せているイラストが「ワニ」であることと関連付けた連想だったのだろうと、ぼくは思う。たったそれだけの関連性で「鬼滅の刃」と「100日後に死ぬワニ」を比べるのも可哀想と言えば、それはそうかもしれない。
 と、それはそれとして。ぼくはその連想を聞いて、ある一つのことを思った。それは、
「ああ、100日後に死ぬワニは、さっさと消えてくれて本当によかったなぁ」
 ということ。ぼくはあの漫画が大嫌いだ。そしてそれを、個人の感想の範疇に収めるべきではないとも考えている。
 100日後に死ぬワニは、多くの人間のために、絶対に消えてもらわなければならない物だった。間違ってもあれを長期的な流行になどしてはならない。ぼくはそう信じて疑わないが、それが理解出来ないという人もきっと多いことだろうとも思うので、今回の作文はそのあたりのぼくの思想を説明していこうと思う。
 基本的に、全文が敵意から湧いた物になるだろう。






 まず大前提として、いくらなんでも魅力を全く持たない物が大きな話題になどなるわけがない。100日後に死ぬワニという作品には、確かに魅力があった。
 100日後に死ぬワニの魅力、それは「結末を知った上で読むと生まれる面白さ」だ。ワニ君の何気ない日常が、近いうちに死ぬという前提で見ると深みを持つようになる。「また来年でいいか」というような言葉に、表面上には存在しない意味が加算される。そういった「面白さの形」の構造が、この上なく分かりやすく楽しめること、それがあの作品の魅力だった。
 同じような面白さは、他の無数の作品の中に無数に存在している。一度最後まで読んだ漫画を一巻から読み返す時、一度最終回まで見たドラマを一話から見返す時、何回かに一回は、知っているはずの話に初見時とは全く違った印象を持つことになり驚かされる……そんな経験をしたことのある人はきっと多いだろう。それは尊く、しかしどこにでもある面白さだ。
 だから100日後に死ぬワニは、その魅力の最大の目玉は、決して「新しい面白さ」を開拓したわけではない。ただ、「分かりやすさ」という面にだけ革新的な物があった。
 一つの作品を最後まで追うことは、結構な体力と時間を消費するものである。そして「結末を知った上での面白さ」は、その体力と時間の消費をさらに増やさなければ味わうことが出来ない。そんな、言わば「高級品」である「面白さの形」を、誰にでも手軽に味わえるようにしたこと。その面においては、100日後に死ぬワニは新しかった。
 けれども、全100話という量は、どう考えてもあまりにも多すぎた。第1話を見た時の「なるほど」という感覚は良かった。何も問題なく面白かった。いっそその1話が同時に最終話でもあれば、発想の上手い創作ということで無事に終わっていたと思う。
 けれど実際には100話あった。ぼくはその全てを見たわけではないけれど、節目節目で話題になるたびに覗きに行ってみれば、1話の頃とほとんど変わらないような「面白さの形」がそこにある。そしてその面白さとは「結末ありきの物」なのだ。逆に言えば、結末を抜いて考えた時のその作品に、面白さなど欠片もない。
 そこが手軽さの弱点なのだとぼくは思う。労力的な高級品である面白さの形を手軽に味わおうとすると、どうしてもそれ以外の旨味が犠牲になってしまうんじゃないだろうか。通常、改めて見返すと初見時とは別な面白さを発揮する作品というのは、「結末を知らない初見時」に読んだ時もちゃんと面白い物だ。結末を知らなければ面白くない物というのは、そういった意味で質に劣っている。
 けれども実際には多くの人が、100日後に死ぬワニという作品に対して愛想を尽かさず、見切りを付けず、なんやかんや先を気にして続きを待った。なぜそうなったのかと言えば、やはりみんな「ワニはどんな死に方をするのか」「本当にワニは死ぬのか」というところが気になったからだろう。100日後に死ぬワニの100日後とは「オチ」なのだから、オチが気になるのは当然のことだ。
 その感覚を理解することは出来る。ぼくだってワニの最期が気になった。しかし同時に、あまりに汚いやり方だとも感じた。ワニの最期は読者にとって、目の前に吊るされたニンジンだ。普通、面白さという名のニンジンは、最新話が公開されるたびに読者に供給されるべき物じゃないのか。そこの道理を当然のようにねじ曲げた作風はとても許し難い。
 とはいえ、結局ワニはちゃんと死んだ。そういう意味ではあの作品は読者を裏切らなかった。……が、そうだったとして、作品全体が褒められる物になるわけではない。100日後に死ぬワニという作品は、その汚いやり方を批判されるべき物である。アイドルのCDに握手券が付くことを批判することと同じように。
 そう考えているから、ぼくは、100日後に死ぬワニが国民的な流行りになろうとする素振りを見せた時、かなり焦らされた。批判されるべき物が、むしろ肯定されるのではないかと冷や冷やさせられた。
 実際にはそうならなかったのだからよかったものの、もしも100日後に死ぬワニを肯定する人間が圧倒的多数派になっていたら、日本の創作の面白さはいくらか死んでいたかもしれない。当時、ぼくはそんなことを危惧していた。






 たしか、ホームレス中学生という映画だったと思う。貧乏な家族がおかずも無しに米を咀嚼して、咀嚼して咀嚼して咀嚼し続けて、ある時言うのだ。
「いま一瞬、いつもと違う味がした! 旨かった!」
 と、それは劇中で「味の向こう側」と呼ばれた。
 食べ物でなくても、そんな風にただ一つのことを突き詰めることで、新たな発見が起こるようなことはあるかもしれない。その「突き詰めた事」が、「白米を白米だけで食べる」という一般的にはあまり上等ではないとされている行為だったとしてもである。突き詰めることは人の自由であり、それ自体は悪いことではない。
 けれども、白米を白米だけで噛み続けることを「美食」扱いし始めてしまったら、それは話が変わってくる。普通においしい料理を普通においしく食べることと、味の向こう側とを同列に語ってしまうと、何が良い物で何が悪い物なのか、分からなくなってしまう。
 100日後に死ぬワニは「面白さの向こう側」なのだ。上等には程遠い話を100話突き詰めた結果に辿り着く物、それがあの作品の結末だった。そしてそれを「名作」扱いされてしまうと絶対にまずい。なぜなら名作は売れる。売れた上に人から認められる。そうであるならば人は、第二第三の名作を作りたがるものだ。
 つまり100日後に死ぬワニが人々に認められた場合、100日後に死ぬワニのような作品が増産されることが考えられる。例えば鬼滅の刃とは違って、100日後に死ぬワニは作品の面白さ自体の手軽さ故に、比較的多くの人にとって「狙って真似できる物」なのだから、なおさらだ。
 すると、それを「名作というのはこういう物だよ」と見せられる若い世代が増えるだろう。その若者たちがいつか創作を行う時、もちろん自分で名作を作りたいと意気込むはずだ。そしてその時に思い浮かべる名作が「結末を知った上での面白さの、廉価版」になるとすれば、元々は廉価版であったその面白さの形を「完成形」として扱ってしまうだろう。
 我々が美味しい料理を食べられるのは、先人たちが「美味しいとは何か」を示してくれたからだ。我々が面白い漫画を読めるのは、先人たちが「面白いとは何か」を示してくれたからだ。大昔の人が「白米はそれだけで美味い」と言っていれば、誰かが「塩気のある物と食べるともっと美味い」ということに気付くまで、大抵の人間が白米を白米だけで食べていたことだろう。
 100日後に死ぬワニを流行らせてしまったら、世界の「面白い」の基準がいくらか後退してしまう。子どもを立派に成長させるためには親が立派であらなければならないように、これからも世界に面白い漫画が現れてほしいと望む人は、面白い漫画だけを面白いと言わなければならないのだ。決して、手軽な廉価版の面白さをスタンダードにしてはならない。
 だからあの作品が流行ったと言う間もなく消えていってくれたことは喜ばしいことだった。かわりに鬼滅の刃のような作品が流行ることは喜ばしいことだった。そうでなければ人間の感性は死んでしまう。それが防がれたことは大きい。
 何せ人間はきっと、感性を殺されても生きられるほど強くはないだろうから。






 全盛期に比べて、日本国内では据え置きゲームの地位が衰え、スマホゲームが天下を取らんとしている。多くの大人がゲームのためにまとまった時間を取れないことがその原因とされているが、その場合の問題はもちろん「ゲームのための時間や体力がないこと」である。間違っても「ゲームに時間や体力が必要なこと」ではない。
 仮に、時間と体力を失った人間に合わせてスマホゲームがさらに繁栄し、据え置きゲームは滅びたとしよう。すると人間はスマホゲームのおかげで幸せになれるのだろうか? 据え置きゲームに熱中する余裕があった昔の頃よりも? ……とてもそうは思えない。
 問題の根本を解決せずに対処療法的なことばかりしていると、幸福の絶対量は減少の一途を辿る。原液を薄めすぎたカルピスが「普通」になれば、販売機から出てくるボトルの中のカルピスの味だって薄くなる。同じようにあらゆる食べ物が不味くなっていったら、数々の美味しい物を食べていた時のような幸福は、過去の栄光を取り戻すまで永遠に失われるだろう。
 物事の批判に対して批判的な人たち、文句を言う人間は全て悪だと思っている人たちは、そこのところが分かっていないのではないかと思う。良い物を良いと知らしめることと同じくらい、悪い物を悪いと断ち切ることは重要だ。いわゆる腐ったミカンは取り除かなければならない。
 けれども、本当に心から「100日後に死ぬワニ」を気に入っている人だっているだろう。それはぼくも分かっている。作者本人なんかはその最たる例であった方がむしろ自然だとさえ思える。すると、そういう人たちにとっては、ぼくの思想こそが、腐ったミカンだということになる。
 人間は争わずにはいられない。何かを批判する時には、いつもそう思う。それが結局、ぼくの精一杯だ。争わずにはいられない世界こそが腐ったミカンなのである……と心の底から言えるほど、ぼくは強くない。我が身を守ることに必死だ。
 左利きの人は右利きの人よりも寿命が短い、と聞いたことがある。世の中のあらゆる物が右利き用に作られているため、そんな世界で暮らすことのストレスが寿命を縮めるというのだ。寿命の話の真偽がどうかは知らないが、ストレスの件は本当のことだろうと想像できる。ちなみにぼくは右利きである。
 もしも100日後に死ぬワニが流行る世界が来てしまったら、それはぼくが「精神的な左利き」になるということを意味している。悪いけどそうなりたくはない。ぼくはずっと右利きの世界の右利きでいたい。
 だからこの作文に「結末を知った上での面白さ」が生まれないことを祈って、締めとさせてもらおうと思う。
 鬼滅の刃が、今後も最高の出来でアニメ化されますように。