何がRPGだ、馬鹿にしやがって

 Switchで出た新作の桃鉄を、ぼくは最初神ゲーだと思った。しかしそれは思い違いだった。
 父と母とぼくと弟……我が家は四人家族である。最年少の弟が高校生であることからこの家の平均年齢を察せられるけれど、そんな我が家は昔からずっと、四人でテレビゲームをして遊ぶことが習慣になっている。よその家が金曜日はカレーとか、三連休はお出かけとか、そんな風に決めている家族間のお約束として、土日にテレビの前に集まってゲームをすることが染み付いているのだ。
 そこで我が家は常々、家族全員で一緒に遊べる物として、操作技術によらない部分で勝負できるゲームを求めている。なぜそれを求めるのかといえば、アイテム有りのスマブラでも、50ccのマリオカートでも、まともな勝負が出来ないくらい、家族間でゲーム操作の得意不得意が別れてしまっているからだった。
 それでも我が家は、ミニゲームくらいの簡単なゲームでなら、それなりに楽しく戦うことが出来る。あるいは「すごろく」という、運と思考で形成されたゲームジャンルを選べば、得意不得意の概念はそもそも消える。だから「すごろく」は一つの理想だった。我が家の人間はみんな、家族の明らかなミスプレイングを見てほくそ笑むほど、人間性が終わっているわけではないから。
 そういう背景があって、マリオパーティwii以降の据え置き作品(つまり8から)を全て遊んだ。いただきストリートPS2wiiPS4で遊んだ。すごろく系やミニゲーム集らしきゲームは(あからさまに幼児向けまたはボリューム不足でない限り)片っ端から遊んできたつもりだ。……そして全て飽きた。
 マリオパーティの新作は、ボジョレーヌーヴォーのように毎年出てきてくれる物ではない。その他のタイトルも同じ……どころか、そもそも据え置きゲーム機におけるすごろく系ゲームまたはミニゲーム集的ゲームの新作自体が、そうそう多く世に出てくる物ではない。我が家は慢性的にすごろくに飢えている。準備や片付けが楽で、備品の紛失もなくて、様々な処理も機械がやってくれて楽ちんな、デジタルのすごろくに飢えている。
 その結果、かつてSwitchなんて物がまだ我が家になかった頃、wii桃鉄「北海道大移動の巻」を我々四人家族は、ゲーム中年数で言って200年プレイした。そしてもちろん飽きた。
 令和になって、その他のすごろくゲームに全て飽きが来た時、我が家は最後の希望である桃鉄の新作を待ち望んだ。そしてそれがようやく発売された。さっそく手に取って遊んでみて、「北海道(略称)」の時から大きく変化したゲーム性にぼくは大興奮した。そして前作の改善点が全て良くなっていることを知って、これは間違いなく神ゲーだと感じた。
 けれど冒頭に書いた通り、それは思い違いだったのだ。新作桃鉄は、対戦ゲームとしては下の下、パーティゲームとしても前作に劣る代物だった。






 新作桃鉄の出来に憤慨したぼくは、やがてこの制作者インタビュー記事に行き着いて、期待することをやめた。

https://news.denfaminicogamer.jp/interview/momotetsu2017/2#i-2

 このインタビューで最も重要な文言は、抜き出した以下の通りだ。



「100年プレイと言っても、普通の人でも20年から30年ぐらいで、だいたい決着がついちゃうのね。「このバランスでいいの?」ってさくまさんに聞いたら、「いいんだよ。『桃鉄』は20年過ぎたらもう、RPGだから」って言われてさ。“その割り切りなんだ”って、なるほどと思ったよ。」

「100年遊ぶモチベーションというのは、ライバルキャラと接戦を演じることではなくて、プレイを少しずつ積み上げていって、この超高額物件を買おうとか、そういうものなんだよね。RPGのレベルをカンストするみたいな。そういう思い切りで、バランスを調整してるんだなって。」



 ……ぼくはこれを見て怒り狂いかけたが、実際にはそれを通り越して、諦めた。
 我が家は桃鉄(北海道)を200年遊んだ。正確に言えばそれは、10年を二十回遊んだり20年を十回遊んだりしたことをわざわざ数えては記憶していて、それで自慢げに「200年も遊んだヘビーユーザーなんだぞ!」……と言っているわけではない。
 100年を、二回遊んだから、200年遊んだと言っているのだ。
 20~30年で決着がつく? 100年遊ぶモチベーションは接戦を演じることじゃない? ふざけやがってこの野郎……真剣に100年を戦った四人のことを馬鹿にしているのか!? と、そういう怒りが湧いた。
 一応言っておくと、このインタビュー記事は何年も前の物である。どうやら「Switchで桃鉄を出す」ということさえ具体的に決まっていなかった時期の記事らしい。だから新作桃鉄が本当にこの記事通りの、この記事と寸分違わぬ感性で作られた物であるという保証はない。けれども、少なくとも「この記事は2020年の物だ」と言われれば信じてしまうような出来の物……それが「新作の桃鉄」だったことは確かだ。
 我が家は、桃鉄を100年一戦で大真面目に遊ぶような人間が四人集まり構成されている。二回もそうやって遊んだのだ。ビリオンロードだってそうやって遊んだ。遊びといえども勝負は勝負、家族という名の対戦相手に塩を送るようなアドバイスをすることはあっても、やるからには勝ちたいという気持ちでやってきた。何百年もずっとだ。
 なのに新作桃鉄のゲームバランスはそれを鼻で笑うような物だった。いや、桃鉄は前作からそうだった。前作からずっと対戦ゲームとしての「やってはいけないこと」、バランスブレイカーがいくつか潜んでいた。けれど新作では「それ」が改善されていたように思えたのだ。……その「それ」というのが「前作の改善点」であって「バランスブレイカーの存在その物」ではなかったことが、だからなおさらショックだったのだけれど。
 新作桃鉄は北海道の時と比べて、十の欠点を改善した代わりに、百の欠点を新たに得てしまったようなゲームである。その分、改善された十だけが見えているうちの「序盤の手触り」に歓喜したばかりに、その後の百を見たショックは大きかった。それを感じる人間は大抵勝手なものだけれど、ぼくは新作桃鉄の本性に気付くにつれて「裏切られた」と感じた。
 そしてその後、何の運命か数年前のインタビュー記事にたどり着いて見れば、これである。桃鉄RPGだなんて、そう言われれば、もはや諦めるしかなかった。本当にそういう思考の人間が作ったとしか思えないほどに、対戦ゲームとしての桃鉄は死んでいるのだ。
 対戦が出来るすごろくゲームでRPGを語るなんてどうかしている。それで良いゲームになるわけがないんだ! ぼくは一時そう怒り狂ったけれど、すぐに「狂っているのは、100年プレイを家族で遊ぶ我が家の方だ」と気が付いて、どうしようもなく沈み込んだ気持ちへと追いやられた。
 人間の幸せとは結婚して幸せな家庭を築くことなんだ、それ以外にないんだ。……あらゆる人間からそう言い聞かせられる「結婚願望と無縁の人間」は、こんな気持ちなんだろうか。……と、そんな妄想にふけることしか出来なかった。





 そろそろ具体的に「新作桃鉄のここがダメ」という話をしていこうと思う。
 今作の対戦ゲームとしての最大の欠点は二つ。偉人とバンクだ。偉人とは正式には「歴史ヒーロー」だったか、たしかそんなような名称になっていた気もするが、とにかくそいつらはひどいバランスブレイカーだった。
 特定の物件を独占すると偉人が味方になる。そして偉人は自分の手番の一番最初、サイコロを使うよりも早くカードを使うよりも早く、一定確率で効果を発揮する。発揮される効果は偉人によって様々だが、中にはイカれた強さのぶっ壊れ効果が混じっているというわけだ。
 偉人のまずいところはまず第一に、「物件の独占による出現」という「桃鉄において元々顕著だった資本主義性」をさらに加速させる条件で加入して、「一切のリソースを消費せず」に効果を発揮するところだった。
 貧乏神のなすりつけが白熱する桃鉄というすごろくゲームにおいて、手番を消費せずに相手の行動を妨害することは「やってはいけないこと」だった。大金を奪うカードも他人のカードを叩き割るカードも全員をn回休みにするカードも、手番を消費しなければ打てない(足が止まる=その間に貧乏神をなすられかねない)という構造があったからこそ対戦ゲームとして成り立っていたのだけれど、桃鉄RPGとして見ている制作者にはこれが分からないらしい。
 調べてみたところ、この偉人のシステムは今作が初というわけではなく、過去作でも搭載しては「バランスブレイカーすぎる」と散々批判を受けてきた物らしい。歴史上の偉人が次々に登場する絵面は確かにイベントとしては面白いのだけれど、その絵面のためにゲームバランスを疎かにされたのではたまったものではない。二度同じ過ちを犯したということは、例のインタビュー記事と合わせて考えてみても、もはや改善の意思がないということだろう。……なおさら不愉快だ。
 続いて「バンク」のことだけれど、これは最大のがっかりポイントだった。
 桃鉄といえば資本主義ゲームである。金が金を呼び、金持ちが強力な急行系カードを買い占めて走り回り、走り回ることによって金を稼ぎながらまた強力なカードを買い占める……という流れが常識となっているが、しかし今作は序盤だけを見ると、その対戦ゲームとしては寒くなりかねない資本主義にメスを入れているように感じられた。
 今作ではざっくり言って、一度に持てるカードの枚数が大幅に減少しているのだ。初めてそれを目にした時、ぼくはこの上ないわくわくを感じた。今までの資本主義的ゲームバランスがカードに関しては一新されて、まったく新しい戦いが繰り広げられるのかもしれないと。
 しかしゲームを進めていくと、ある時「バンク」という概念が誕生してしまう。それはカードの避難所的なシステムであり、バンクにしまったカードはいつでも取り出すことが出来る上に、しまっている間は相手からの妨害によってカードを割られたり奪われたりすることがなかった。このバンクも今作初登場というわけではない、携帯機の桃鉄で過去すでに実装されたシステムらしかったが、なぜ再登場に踏み切ったのか、理解に苦しむとしか言えない。
 要するにカードの資本主義は加速したのだ。カードの買い占めはただの買い占めではなく、安全圏へ貯蓄する買い占めになった。他プレイヤーの行動ではどうしようもない領域に貯蓄が出来るようになってしまっては、対戦ゲームとしてはますます寒い展開となるに決まっていて、我が家においても実際にそうなった。
 これら二つのシステムは明らかに北海道の時よりもゲームバランスを悪化させている。その上それらは挑戦的に搭載された新システムでさえない、単なる見え透いたバランスブレイカーだというのだから、もうこの時点でほとんど愛想は尽きた。 
 ……が、今作のマズイ点はまだ他にもあった。
 例えば、北海道の頃には名産怪獣というシステムがあった。それは特定の地名を訪れると確率または条件次第の確定でゆるキャラ的な怪獣が現れ、様々なイベントを起こすという愉快な物だった。今作でもそのシステム自体は続投されているのだが、問題は、その出番があまりにも少なすぎることだ。さすがに統計など取っておらず体感の話になるけれども、怪獣の出番は体感で前作の半分以下だと言える。
 大量の偉人が搭載されたことによって、イベントの容量的に怪獣の出番は減らされてしまったのだろうか? 競技的な対戦ゲームという枠組みから抜け出して、「古い定義のすごろく」らしい単純な「運ゲー」として桃鉄を見たとしても、怪獣の出番減少は単純に寂しい。これは完全に個人の感想だけれど、教科書的に地名と紐づけられた偉人よりも、各地の名産品を元ネタにしたコミカルな怪獣たちが暴れ回る方がぼくは好きだった。
 そして、そんな個人の感想は抜きにしても、怪獣の出番が減ってしまったことはゲーム的に大きな損失だったと言える。なぜなら怪獣は「特定の地名に訪れた時」その瞬間に現れてイベントを起こすのに対して、偉人は特定の地名を独占したあとに、「自分の手番の最初」に現れて効果を発揮するからだ。……つまり「マスに止まること」が「イベント」に直結しているのは怪獣だけで、偉人は婉曲的であり、その婉曲さが最悪の結果を生んでいる。
 遊ぶ年数が長くなればなるほどに、怪獣と偉人の違いは本当に重大な差を生んだ。すごろくにおいて「マスに止まる→何かが起こる」という流れは神聖な物なのだと、ぼくは今作の桃鉄を遊んで始めて知ることになった。
 偉人は退屈なのだ。自分が今どこにいようとも、一度物件を独占さえしていれば、手番の初めに突然現れて効果を発揮していく、そんな偉人は「すごろくとして退屈」なのだ。怪獣のように、マスに止まる→何かが起こるという、コールアンドレスポンスの形が成り立っていないから、遊べば遊ぶほど、繰り返せば繰り返すほど、毎度のイベントの特別感が失われていって退屈な物になる。
 あぁ、前作ならここに止まった時はあの怪獣が出てきたのになぁ……。そう昔を懐かしみながら、全国各地どこでも大差ないマス目の効果に退屈さを噛み締めるゲーム、それが今作の桃鉄になってしまっている。その上、怪獣よりも「すごろくとしての面白み」に欠ける偉人が、対戦ゲームとしての面白みまで破壊しているというのだから、これはもはや憎んでも憎みきれない。多少大袈裟に言えば、偉人のシステムはそもそも、すごろくというゲームジャンルへの冒涜だとさえ言える。
 怪獣を押しのけて存在感を現し、対戦ゲームどころかすごろくとしての桃鉄までをもつまらなくする。そんな偉人に対する憎しみの勢いで、ぼくは今作に何体の怪獣が登場しているのかを調べてみた。……すると驚くべきことに、まだ一度も目にしていない怪獣が十体以上いることを知った。そしてその事実を知った時は目が飛び出るかと思った。我が家の新作桃鉄プレイ期間は、その時点でもう75年を過ぎていたからだ。
 詳しく見ると今作の怪獣たちは、妙に条件が複雑だったり、登場確率が低かったりする上に、60年を過ぎると一律で登場確率が低下する仕様になっているらしかった。そしてその情報の真偽は、我が家の経験がほとんど保証してしまっている。(ただしその情報サイトには虚偽の情報も紛れ込んではいた)
 前作を200年、今作を75年遊んだ経験から、いっそ断言してしまってもいい。どう考えても怪獣の出現率は激減している。あの頃の楽しさを、ピヨピーを、タコヤキングを、サラウドンを、ウナギラスを、オダワラー(カマボッコン)を、大岩五郎を、パールくんを、ピリピリ(めんたいこ)を、返してくれよ! あいつらがいたからゲームにメリハリがあって面白かったのに……。大体、75年も遊んでいて出てこない怪獣が十体もいるなんて、RPGとして見てもおかしいんじゃないのか?
 どうして前作ではゲームを彩る名役者だった怪獣たちを、今作では隠し要素がごとく必死こいて探しに行かなければいけないんだろう。それでようやく会えたところで何が楽しいんだ? そんな物はもう単なる退屈なコンプリート作業だ。すごろくにせよRPGにせよ、それが本編を味気なくしてまで用意するべき物だったのだろうか?
 今作はそんな風に、もはやRPG的なすごろくとして見ても難のある出来になってしまっている。前作だったら、日本列島を駆け回るはずの桃鉄というゲームで、目的地が月になることさえあった。種子島に行けた者からロケットに乗り、本当に月まで飛んで行き、月面のマップを走るのだ。そしてサブタイトルの通り、北海道が大移動(四国の下に来る)することもあった。確かに前作は奇想天外なイベントだらけで、対戦云々以前に初見でのRPG的な楽しさがあったことが認められる。
 それが今作はなんだ、愉快な怪獣の登場頻度は減り、複数のプレイヤーの手番にいちいち出てくる偉人の退屈なイベントでテンポは悪くなり、奇想天外のキの字もない平坦なストーリーにまみれて驚きは皆無と来た。強いて言えば東京オリンピックが開催されて各プレイヤーに大金が入るという時事ネタはあったが、どう考えたって「月がゴール」や「四国の下の北海道」に比べればパワー負けしている。さすがの名作とはいえネタ切れがひどくないだろうか?
 もちろん、毎度毎度予想の斜め上を行くイベントを用意しろとか、そんな無茶ぶりを言うつもりはない。けれど新しい怪獣を何体か考えて、前作までの出現頻度で搭載することくらい不可能ではなかったはずだ。対戦ゲームとしてもう少しマシな出来にすることだって、どう考えてももっとまともに出来たはずだ。出来ることはもっとたくさんあったはずだろう。無数にあったはずだろう。だって今作は、改善点ばかりなんだから。
 新作の桃鉄はどうしてこんな有り様になってしまったんだろう? 桃鉄RPGだからか? 何がRPGだ、馬鹿にしやがって。
 ……と、そんな風に、新作桃鉄を否定する言葉なら次から次へと出てくる。初めの手触りに期待させられたからこそ本当に憎たらしい。もっと世の中にすごろくゲームがあれば、家族がもう少しまともにゲームを操作出来ていれば、こんなクソゲーにかまってやることなんかないのに。現実として我が家はすごろくゲームに飢えているから、桃鉄の新作が出ればそれを遊ぶしかない……。
 ゲームで遊びながら、ゲームの勝ち負け以外のところで悔しさを感じたのは、初めての経験だった。





 ……実は新作桃鉄には擁護出来る点がある。というか、ある条件を満たすと、今作は神ゲーになる。
 その条件とは……一戦20年以上で遊ばないことだ。20年までならバンクは出ない。物件を独占しまくれるほどの資金力も身につきようがないから、偉人の問題もない。怪獣は相変わらず少ないかもしれないが、それと引き換えに(バンクや偉人と無縁である大前提の上で)対戦ゲームとして改善された新しいゲーム性の桃鉄を遊べるのだから、ほとんど文句のない完璧な状態だと言える。
 そうだ、元をただせばギャグのつもりで搭載された「100年(99年)」という規模でなんか遊ぼうとするから、数多の欠点に気が付いてしまうようなことになったのだ。20年までの規模で遊べば、今作は間違いなく神ゲーだった。100年プレイを始める前に、まずはお試しで10年を……と初めて新作に触れた時、それはそれは楽しかったのだ。100年プレイを始めた時、最初の20年は本当に楽しかったのだ。欠点なんか見つからなかった。黄色マスからとんでもない威力のカードがポンポン出てきて「このゲームはインフレとバランス調整を両立させたんだ!」と興奮したものだ。
 一生その20年以内に引きこもっていれば問題ない。100年プレイに手を出すという、明らかにこのゲームをしゃぶりつくそうという考えを持ったヘビーユーザーに対してのみ、ことごとく欠点を見せつけてくる今作の性質その物が気に食わなくて仕方がないところではあるけれども、そこは我慢だ。
 桃鉄100年を対人戦で遊ぼうなんていうのは、世間一般的には狂気の沙汰なのだろう。100年プレイはソロプレイヤーのためだけにある物で良い。そういう風に作った方が売れるに決まっているのだから仕方がない。極めて少数派である家族四人は、子どもが全員とっくに義務教育を終えている歳なのに毎週家族でゲームをするなんてすごく仲が良いんですね! と世間一般の「そうではない人たち」に言われながら、一生パーティゲームに飢えていればいいのだ。
 だから、新作の桃鉄の購入を検討している人がいるのなら、ぼくは正直に今作のことをおすすめしたい。個人的には今年触れた中で最も嫌いなゲームと言って間違いないけれど、大多数の人にとってはそうでないことが分かるから。
 まだ未プレイの人は、新作の桃鉄を買って遊んでみれば分かるから、そうしてみてほしい。それはとても楽しくて、この作文は、頭のおかしな人間が書いた物なのだと思えてくるだろう。