カチリカと過ごした夢の中(旧「トンネルの先にある世界」)のセルフ解説

 最近、小説を一つ書き上げました。今まで何本か小説を書いてきましたけど、今回の出来は最高傑作だと思います。エンタメとしてそれなりに良いことはもちろん、自己表現として完璧でした。読んでほしいのでURLを貼っておきます。

syosetu.org

 

 

 

 

 で、今回の作文は上に貼った「カチリカと過ごした夢の中」のセルフ解説記事になります。まだ読んでいない人は先に小説の方を読んできてください。最高傑作なので。

 また、今回は語りたいことが多すぎるので、解説は小説本文の各所をうえから順に切り抜いていく形で行います。読んでない人にとってはネタバレの嵐です。まだ読んでいない人は先に小説の方を読んできてください。最高傑作なので。

 ところで、カチリカがなぜ最高傑作なのかというと、それはカチリカがぼくが2019年3月28日(しかも夜22時台)に投稿した(らしい。投稿サイトいわく)作品「尽くす系ニマド」への、個人的なアンサー小説として成立しているからです。アンサーとして、オチに自分で納得出来ました。

 探して読むのが面倒な人のために説明すると、尽くす系ニマドとは、ヒロインである無敵のお姉さんが、主人公である無職のダメ男を無敵パワーで助けてくれる超ご都合主義小説……になる予定だった作品です。それを書いてからというもの、ぼくの創作にある程度明確なアイデンティティが生まれたように思うので、ぼくは「ニマド以前・以後」という概念を創作に限らず、自分の人生に対しても持っています。けれどそのニマドのオチに、ぼくは納得がいっていませんでした。

 ニコニコ動画異世界オルガを見て「どうしてクソラノベは、主人公をチートにしてハーレムを作るんだろう? ハーレムが決定事項なら、ヒロインをチートにして、主人公は全ての困難をそのヒロインに片づけてもらえばいいのに。叶わない夢を見るならそのくらい吹っ切れないと」と思ったことがきっかけで執筆したニマドがバッドエンドで終わった件に、自分で執筆しておきながら当時のぼくは愕然としました。流れで書いていたらそうなってしまったのです。「そんな甘ったれた考えはフィクション上でさえ通じない」と、神がそう言っているような気がしました。

 しかし、そのバッドエンドの発端は、ヒロインに全てを任せきりにしてどこまでも堕落しておけばよかった主人公が、自尊心を捨てられないばかりに「何でも出来る環境を用意されて、何も出来ないっていうのが、何より一番みじめなんだ」とか言ってしまったことによる物でした。……納得いきませんよね? 仮に自尊心がズタズタに傷つくのだとしても、だからって神にかなり近い能力を持ったヒロインのことを自ら突き放しますかね? ニマド執筆からもうすぐ3年が経とうとしていますけど、当時の自分は「そういう物だ」と考えていたのでしょうか? ニートのくせに。

 現在の、未だニートから脱却していないぼくは思います。あのオチはあり得ないと。一生遊んで暮らしていけるような力の塊みたいな存在が自分に協力を申し出てくれているなら、それを自分から手放すなんてことは、ぼくの考えとしては絶対にあり得ないわけです。親族と友人の一同から軽蔑の目を向けられて、罵られて、それに何も言い返すことが出来なかったとしても、絶縁を言い渡されたとしても、ニマドを自分の意思で手放すことは絶対にあり得ないんですよ。一生遊んで暮らせることって、自分に優しいヒロインがいる人生って、そういう物じゃないですか。

 その点についてずっと納得がいっていなかったのですけど、ニマド3周年記念が訪れるよりも早く、今回その「納得がいかなかったオチ」に対するアンサーとして、カチリカを書き上げることが出来ました。そういう意味で完璧な作品だったと思います。注目点の一つはそこですね。

 ……それでは前置きも済んだので、15行くらい間隔を開けた後で、いいかげん解説を開始しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・電車で訪れる魔界

……冒頭の描写の話です。今作は以前に書いた作品「アンダーライン×アンダーライン」と世界観を共有しているのですが、「人間とサキュバスの共存が成立して、人間界と魔界の行き来も容易になった」という設定は良いとして、じゃあ具体的にどういう手段で二つの世界を移動するの? と考えた時に、パッと思い浮かぶ物がなくて困りました。

 初めは何かジェット機的な物で、遊園地のアトラクションみたいなノリで「それでは夢とロマンの溢れる魔界へ、しゅっぱーつ!」みたいな感じにしようかと思ったんですけど、ふと気が付いたんですよね。あっ、たぶんそれはニート乗れないわ、料金が高すぎて……と。

 というわけで、超気軽に電車で来れるようにしちゃいました。別にどこでもドア的な物でもよかったところをわざわざ電車にしたのは、ぼくがインターネットで知り合った女性とオフで会うために電車に乗った経験があったことと、にゅう工房さんの同人誌にそういう内容の物があったからですね。影響受けまくってます。

 

 

 

ナポリタン専門店

……主人公の伊古田と、その友人である糸原が一緒に出かけた際の昼食に訪れた店。これは実在の物……というか、ぼくの実体験です。カードゲーマーの友達と品ぞろえの良いカードショップを求めて秋葉原へ行った時、なんかいつの間にか地下の方にあるナポリタン専門店で昼食をとる流れになっていました。友達が連れて行ってくれなかったら絶対に入っていなかったタイプのお店ですね。すごくおいしかったし、箸も置いてくれていたし、なぜかおしゃれなBGMが突然、輪るピングドラムのOP「少年よ我に帰れ」になったりしていました。パルメザンチーズもかけました。

 小説としてのこのパートの役割は二人の会話以外にも、「伊古田の友人はナポリタン専門店を昼食に選んだ」という事実自体があります。これが後に伊古田の「オフで初めて会った女性とファミレスで昼食をとる」という話や「糸原は俺よりも良質な人間だ」という見解に繋がるんですね……。

 

 

 

・プラモデルをピッキングするバイト

……これはぼくが散髪に行った際、「お仕事は何されてるんですか?」と聞かれたことで実際に吐いた嘘です。電車の話等のディティールは実話と小説で違っていますけど、作中の伊古田と同じくらい迷いなく嘘を吐けてしまったことはよく覚えています。でもぼくは彼と違って嘘を吐くのが下手なので、たぶん相手にはバレていたでしょう。

 ちなみにプラモデルのピッキングバイトは実在します。タウンワークに載ってました。ググっても出てきます。

 小説としては、この時点では伊古田が嘘吐きだということはまだ明かされていませんが、その後の支払いのことを気にしている彼の心情描写は終盤へ向けた伏線ですね。伊古田だってある程度のお金は持っているんです。問題は彼がニートから更生しない限り、その所持金が増えることは絶対にないということだけで……。

 

 

 

・「いやー、まぁ、そっちの方が旅行〜!って感じがするかなぁと思いまして。ははは」

「あー、いや、それはですね、なんというか、まぁそうなんですけども……。でも、あの、あれを持ってるんですよ、あれ。そういうキャンペーンがあって」

……無害そうな喋り方をする伊古田と、キョドる伊古田の図。後々に彼がすることを思うと、化けの皮感が凄まじいですね。大抵の他人が見る「伊古田という男の印象」はこれになっているのだと思います。

 

 

 

・伊古田ミツルという名前

……このあたりで登場キャラのネーミング由来について話しておこうと思います。

 本作は、書き始めた瞬間からニマドのアンサー小説になることが確定していた(そうでなければボツになる)ので、伊古田が最後にヒロイン(カチリカ)の差し伸べた手を振り払ってしまうことは決定事項でした。そこで思い出した名キャッチコピーがこれです。

「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」

 これはICOというゲームソフトのキャッチコピーです。ニマドの主人公はニマドから魂ごと手を放してしまったので、同じくそうなることが確定している今作の主人公には「ICOる(動詞)→ICOった(過去形)」ということで、イコタ(伊古田)という名前が付きました。

 一方で彼の友人ポジションには、一緒に秋葉原に行ったぼくの現実の友人の苗字が4文字なので、とりあえず4文字にすることだけは決定していました。しかしそれ以上は良い名前が特に思いつかず苦戦しまして……、そこでいい機会なので、今まで自分に課していたある縛りを解くことにしました。それは「(少なくとも自分の知っている)野球選手の名前は使わないこと」です。なぜなら野球選手の名前を使ってしまうと、執筆中ずっとパワプロのことが頭の中を支配して気が散ることになりますし、それは読者にとっても通じることだろうと考えていたからでした。

 しかしそうは言っても名前が思いつかないので、ここはひとつ試しに縛りを解いて、野球選手の名前を使ってみようということに決めました。結果として選出されたのが比較的普通の名前っぽい「糸原」です。伊古田の友人の名前にそれ以上の意味はありません。

 で、その流れで、伊古田の(特に必要なかった)下の名前はミツルに決定しました。野球繋がりで、タッチを描いたあだち充から取っています。

 

 

 

ケルベロス

……これ、書いている途中で「ケルベロスには頭が三つある。双頭の犬はオルトロスだ。」ということに気付いたのですけど、伝わればいいかと思って放置しました。というか、実際に双頭の犬を見て「オルトロスじゃん!」なんて言う人います? 「ケルベロスじゃん!」って言いません? 伊古田くんもそうでした。

 

 

 

・「風俗ってね、相性の合う女の子を見つけてからが本番なんだよ」

……これはある一つの性癖に特化したエロサイトに設置されていた「おすすめ風俗情報の語り場」みたいなところを(行ける金があるわけでもないのに)見ていた時に知った概念です。結果としてヒロイン(サキュバス)の初登場時の台詞としてのインパクトや風格は抜群の出来になったと思います。ありがとう、ぼくと同じやばい性癖を持った人たち。やっぱりリアリティは現実にあるんですね。

 

 

 

・「なんでそんな、都合のいいことを言う?」

「お腹すいてるの。ね、人助けだと思って」

……ここのカチリカの発言が大嘘だったことが、本編内では上手く伝えられなかったように思います。後に彼女の本当の魂胆を知ることで「あれは嘘だったのか」という流れにするつもりだったんですけど、べつに性欲と食欲って両立しますもんね。しくじりました。

 作中では語るタイミングを失いましたが、別作品「アンダーライン×アンダーライン」の方で語られている通り、サキュバスの魔法にはリスクが伴います。カチリカの背負っているリスクは「過剰な満腹感」です。そのせいで彼女は性行為を通して精力を得ることをあまりせず、人間と同じようにただセックスをしているだけのことが多いので、あれだけ痩せているんですよね。……本編で言えなきゃ意味がないでしょ!

 

 

 

・「でも金はいらない。むしろそっちが払えというならある程度は払う」

……伊古田くんの見栄です。ナポリタンを食べるだけで財布の中身の心配をしていた男の台詞とは思えません。ある意味ミスリードです。

 

 

 

・カチリカの名前の由来

……これは本当に大した理由がありません。響き重視です。

 一応原則としては、ニマド以降の作品のコンセプト上「ヒロインの無敵さ」は重要な物であり、「人間は無敵ではない」という現実の存在から「ヒロインが人外であること」がその重要さを支えているので、ヒロインの名前はわざと王道から外した感じの響きを選択することで人外感を演出しようとは考えています。これは夢子とリリア以外の全ての魔女やサキュバスについて言えることです。

 で、カチリカについてですが、まだ構想がぼんやりしていた頃に「伊古田の指にホチキスの針を打ち込むヒロイン」というものがあったので、ホッチキスの歯を閉じた時の音をカチッだとするなら、逆に開いた時の音とはなんだ……? …………リカッかな? ということでカチリカという名前が決定しました。意味がわかりません。

 しかし、結果として名前の響きや字面は最高になったので、己の壊滅的なオノマトペのセンスに感謝ですね。

 

 

 

・「もしここにきて、十人くらい男がいたらどうするつもりだった?」

……ぼくのツイッターのTL形成においてめちゃくちゃお世話になっているnoneさんという方がいるのですが、ここの発想はそのnone氏(サークル名「ガラクタをガリガリ」)が描いたエロ漫画「ピケコチャンvs10人ヌキ」から来ていますね。いろんな人のエロ漫画から影響を受けている……。

 

 

 

・ああいった物を確か、誉れの墓地というのだったか。

……三島由紀夫の「金閣寺」の中にあるらしい一文「脱ぎすてられたそれらのものは、誉れの墓地のような印象を与えた。」が元ネタです。急に謎の教養要素が出現している。

 ぼくがこの一文を知ったきっかけは、米澤穂信の短編集「儚い羊たちの祝宴」に収録されている「玉野五十鈴の誉れ」を読んだ時に「誉れ」ってなに? とググったことでした。なお、金閣寺を読んだ経験は皆無です。青空文庫に入っていないからです。

 余談ですけど、自分の創作の作風からして明らかな通り、太宰治の「人間失格」はぼくの趣味ドンピシャの最高な作品でした。しかし三島由紀夫の作品が一つも青空文庫入りしていないことを知ったことで、ぼくが人間失格を読めたのは太宰治が自殺したおかげだったのだ……ということにも気付き、複雑な気分になりました。

 

 

 

・俺は生まれて初めて、女を押し倒した。

……伊古田くんの独白。この一文があることで、後にチラッと語られる彼の童貞卒業がどういう物であったのかが分かるようになっています。少なくとも彼は、○○さんを押し倒してなどはいなかったのです。

 

 

 

・「私、怪我してる男の人が性癖なの」

……カチリカの台詞。この設定を思いついたきっかけは、田村結衣さんの描いている漫画「矢野くんの普通の日々」(単行本1巻発売中!)の1話が宣伝としてツイッターに流れてきたことでした。一応言っておきますが「矢野くんの普通の日々」はちゃんと心の優しくて明るい恋愛小説です。おかしいのはそこからカチリカを発想したぼくの頭だけです。

 

 

 

・つまらないセックス

……度々カチリカが口にする台詞。ぼくはコレの指すものが具体的に何なのかをよく把握出来ていないのですけど、セックスに詳しい人いわく「世の中には、毎回毎回決まったことを決まったように行うだけの、バッターボックスに入る野球選手みたいなルーティーンじみたセックスしか出来ない奴、「セミ童貞」がいる」らしいです。伊古田くんもそんな感じだったんだと思います。

 でもそれは、彼なりに好奇心を良識で抑えた結果なんですよね。彼の化けの皮は何重にも張り巡らされているのです。二泊三日の間にほぼ全部剥がれましたけど。

 

 

 

・暗いトンネルの話

……伊古田くんの夢に出てきたトンネル。一緒に乗っていたはずの人たちはいつの間にか消え失せており、この列車は本当に「先」へ向かっているのか、自分はこれに乗っていても平気なのか……? と不安になる話。

 これは伊古田くんのやっている「適当に誤魔化してニート生活を続ける」という人生に対する暗喩的な表現……だったのですが、それを作中で語る機会を失いました。旧タイトルの意味と、それが変更された理由は全てそこにあります。

 

 

 

・「電車が信じられないほど揺れるんだよ。ぼよんって」

……悪夢をまるで面白おかしい夢だったかのように話す伊古田くん。ここの台詞の意図は、実はぼくもよく分かっていません。でも伊古田くんはこのタイミングで「悪夢を見た」とかは言わない気がするんですよ。見栄ですかね? 結局のところ彼は最後まで、自分の人生について誰かに「助けて」とは言いませんでしたし。

 

 

 

・遊ぶ約束をしたはずの友達が突発的に不在で、家の中で待たせてもらうことも出来ずに追い返された小学生時代のある日を思い出す。冷たいと感じないこともなかったが、理屈は分かることだ。

……これもぼくの実体験です。小学校低学年の頃の話でした。一緒にゲームキューブとかデュエルマスターズで遊ぶって約束してたのに……。でも歳を取った今になって考えると、たぶんあの後その友達は、親からそれなりに怒られたんじゃないかと思います。だとしたらそれでイーブンですね。

 

 

 

・まぁ当たり前にしたって、嘘は嘘なのだけれど。常識がなんであれ、出来ないことを出来ると言うことに全く罪がないとは、俺は思えない。

……伊古田くん最大の名言かもしれない地の文です。彼の正体を知ってから読み返すと「どの口が言うんだ……?」って話ですよね。自分のことを棚に上げて他罰的なところに彼の見下げ果てた人間性がにじみ出ています。この辺りから伊古田くんのクズ男っぷりが明らかになっていきますしね。

 

 

 

・カチリカという女は、思っていたよりも結構なサイコパスなのかもしれない。俺の心の中には再び危機感が舞い戻って来る。痛覚を遮断したところで、危機感は無痛の状態を貫通してくるものだ。

……伊古田くんの名言2。「俺と同じじゃん!」みたいなニュアンスが一切感じ取れないところが薄気味悪いですね。彼は自分の好奇心をサイコだとは思っていないのでしょうか?

 

 

 

・「ところでカチリカ、俺は昨日、さっきの巨乳の女性から言われたんだ。魔界観光ならもっと都会の方がいいですよって」

……伊古田くんが「外食出来るような金はない」という話をするためのスタート地点。糸原が彼のまわりくどいトークに「話が見えてこない」とツッコミを入れていたことを思うと、そういうこと言わずに会話に付き合ってくれたカチリカの性格が見えてくる……ような気もしますね。

 それを思えば、この後カチリカが伊古田くんにお昼を奢ってくれるのは「優しさ」なのだと思います。一方で、伊古田くんが同じようなことを行う時、それは「見栄」です。

 

 

 

・そう言いながら、彼女はまたこちらの体の一部に舌を這わせている。けれど、今回ばかりは、傷口から流れる血の味を知るためにそうしているわけではなかった。……やがて興奮を煽るためにわざと出しているかのような水音が響き始める。

……ここから始まる一連の描写は、死ぬほど分かりづらいし官能の欠片もない文章ですが、一応エロ描写です。自分にはエロい文が書けないんだと落ち込んでいた時期もありましたが、逆に考えるんだ、エグいことをやっていてもR15で投稿できる才能があるんだ、と考えることで自信を取り戻しました。

 ただ、万が一本当に伝わっていなかったらそれは困るので、詳細を一応ここに書いておきますね。伊古田くんはこの時、自分は夕食を食べながら、カチリカにはフェラをさせています。単純な暴力とはまた違った味わいのあるひどい行いですよこれは……。

 

 

 

・そう、あれは俺が高校生の頃だ。俺が麻雀のルールを覚えた理由の三割くらいはそこにあった。

……脱衣麻雀についての話です。ぼくの実体験です。これによってルールを覚えた結果、今では家族で時々麻雀をして遊ぶようになったので、物事のきっかけなんて物はなんだっていいんだということがよく分かります。

 

 

 

・「脱衣麻雀っていうのは、「脱衣」のためにすると麻雀が邪魔だし、「麻雀」のためにすると脱衣が邪魔なんだよ。今、それと全く同じ感覚が起こった」

「骨付きチキンと骨無しチキンがどっちもあるのに、わざわざ前者を選ぶような人の気持ちと同じくらい分からない」

……これも全部ぼく自身の話ですね。しかし、物語の流れを汲む伊古田くんの発言としてのこれは、それがお前の言うことを聞いてくれたカチリカに対する態度かよ……って感じがしますね。徐々に彼のクズっぷりが浮き彫りになってきています。

 ところでぼくはダークソウル2のアマナの祭壇で学んだのですが、男には何をされても勃たない状況という物が実在するようです。

 

 

 

・これも今日初めて知ったことだけれど、普通にセックスをするよりも、こうして食べさせてもらったりしている方が「なんだかすごいことをしている」という感覚は強い。自分が偉くなったように錯覚するというか……そういう感じだ。

……伊古田くんのこれ、さも夕食時に気付いた感覚のように書いてありますけど、昼食を奢ってもらった時のことも踏まえての感想ですからね。奢ってもらうことが確定しているご飯を人目のある場所で「あーん」されながら楽しんでいるなんて、なかなか素質ありだと思います。

 なのに会計の瞬間には居たたまれなさを感じているのが、彼のよく分からないところなんですよね。本人の生まれつきのクズっぷりと、生きていく間に把握していった良識とが、いちいち反発し合っているように見えます。そういう意味では伊古田くんは、別作品「星を数えさせるためのハイエ」の主人公(湊秋人)にも似てますね。

 でも湊くんがハイエに奢られそうになれば「これは奢られる方が間違いか? それとも相手の好意を無下にする方が間違いか……?」と(常識に対する義務感の一心で)苦悩して体調を崩しそうですけど、伊古田くんは「奢られることの決定」には躊躇がありませんでしたね。みんな違ってみんなクズ。

 

 

 

・「お兄さんも、今日見たような巨乳の方が好きなの?」

「またエロ漫画で聞き飽きたような台詞を……」

「あはは、まぁどっちでもいいんだけどさ」

……ここ、伊古田くんは質問に答えてないんですよね。彼がどの程度本気で巨乳に興味を示しているのかは定かではありませんが、しかし彼が好奇心の人であることはそれなりに確かなことなので、少なくともカチリカの体型に対する「面白い」は嘘ではないと思います。

 

 

 

・「怖い? 痛くないんだからそんなことは……あぁでも骨折はたしかに」

暴力への恐怖その物をたったの二日で完全克服できる人間など、存在しないのではないかとは思うけれども。

……暴力への恐怖に関しても見栄を張る伊古田くんの図。腕の骨を折られた際のリアクションを気にしていたり、彼は本当に見栄っぱりですよね。ニマドの主人公は自尊心で身を滅ぼしたので、見栄っぱりの伊古田くんはそのアンサーを務めるに足る逸材だと思います。

 

 

 

・ まぁ、それは今回のカチリカとの約束が俺にとって都合のいい物だったから……というのが大前提にある考えなのだけれども。これがもっと明らかな苦痛や、あるいは単純に金が絡むことだったとしたら、俺としても「絶対に逃げるなんてことはない」とは言い切れない。なにせ奢られ童貞を卒業するような男だ、その人間性の高は知れている。

……伊古田くんの心情です。これは彼の自分自身をニートたらしめている部分に対して言っています。「無限回のセックスの確保」と引き換えでも働くことは出来ないと、そういうことです。本当に高が知れすぎているんですよね、彼。

 

 

 

・「尊厳の問題……ってやつなのかな」

……伊古田くんの名言3。食事中に自分のモノをしゃぶらせておいてこの言いぐさ! 彼には自己矛盾が多すぎるんですよね。単純に趣味が悪いとか、人として越えちゃいけない一線を越えてしまうとか、そういうタイプとは一味違うひねりのあるクズ野郎です。

 

 

 

・「モーツァルトの名を聞いてもだ」

……元ネタはモーツァルトが作曲した楽曲「俺の尻をなめろ」。月曜から夜ふかしによって有名になったネタだと認識しています。少なくともぼくはその番組がなければモーツァルトがそんな人だとは知らないままでした。

 

 

 

・それを考えると、まるで夢から覚めてしまうような気分になる。今から明日が憂鬱になってしまう。……それは、それだけは絶対に良くないことなのに。

……伊古田くんが働きたくない理由の一つがここで語られています。しかし「明日起きたくない」という気持ちは、「死にたい」に最も近い気持ちだ」という言葉を入れるタイミングは、残念ながら本作にはありませんでした。

 

 

 

・まずは昼食を共にした。聞いた話、大抵の女性はそういった洒落っ気の欠片もない店を嫌うらしかったけれど、彼女はファミレスでも普通に楽しそうにしていてくれた。

……伊古田くんが見た悪夢、もとい過去の話です。ナポリタン専門店の話にここで繋がります。

 

 

 

・食事を終えたあとはカラオケに行った。彼女の歌う曲は俺の知らない曲ばかりだったけれど、むしろそうして一緒に過ごさなければ一生知らなかったかもしれない良曲を知ることが出来て楽しかった。

……同じく過去の話。過去話の中ではここが最大の注目ポイントです。伊古田くんは一言も「○○さんと行けばなんでも楽しい」みたいなことは言ってないんですよね。彼はそういうことを言わないんですよ。

 その後彼が何をして○○さんから嫌われたのか、具体的なところはぼくにも分かりません。でもなんとなく想像はつきますよね。親しくなるにつれて相手の神経を逆撫でする余計な質問とかしまくってそうです。

 

 

 

・「お兄さんは変な人だね。未体験のことがしてみたいのに、本物のいじめられっ子から話を聞き出そうともしないし、セックスは普通すぎるし」

……カチリカのこの台詞、常識的に考えたら「そりゃそうだろ」って感じ(食事中にフェラさせるのとトラウマをえぐるのは別問題すぎる)ですけど、実はめちゃくちゃ的を射ている発言なんですよね。だって伊古田くん、このあと結局いじめの話をかなりひどい形で聞き出すし、普通じゃないセックスもするし……。

 

 

 

・俺も、彼女も、「嫌いになるか?」と聞かれているのに、質問にちゃんと答えることは出来ないものだった。

 その気持ちは痛いほど分かる。簡潔な答えを口に出来るほど事が単純ではないことが、なんとなく雰囲気で察知できてしまうのだ。

……これ、伊古田くんは巨乳の件について問われた時も同じことを考えていたと思います。でも彼は好奇心の人なので、カチリカとの魔界旅行が二泊三日ではなく一か月くらいあれば、そのうち「正直な気持ちを口に出したらどうなるんだろう? やってみよう!」みたいなことになっていた可能性は大です。

 

 

 

・「殴ったり蹴ったりすればいいのに。爪でもなんでも剥がせばいいのに。今からでも私をひん剥いて外に連れ出してくれたらいいのに。他のことだってなんだっていいのに……。お兄さんもどうせそうしたいんでしょ……? みんなそうなんだから」

「な、なんて言いぐさ……」

……ここの伊古田くん、ツッコミとしてこんなこと言ってますけど、実際カチリカとずっと一緒にいたら実践しかねない雰囲気はありますよね。爪剥がしといて「あぁそうだ、俺はグロいのがダメなんだった」とか言ってそう。そうすればカチリカから腕を切られた時に目をそらした描写も伏線として機能しますし……。

 

 

 

・例えば、挿入したまま首を絞めたり腹を殴ったりすれば、締まり具合にどんな変化があるのかだとか。例えば、男の本気の力で何度も何度も平手打ちをし続けたら、彼女の肌……例えば尻や、背中や、顔は、どんな風に変色してくのかだとか。……そういう知識を、知見を、俺は一晩で大量に得てしまった。

……伊古田くんの悪事の中でも物理的な物なら一二を争うこれ、その行為を具体的に「提案」したのはどちらなのか、という部分が気になりますよね。カチリカが提案して伊古田くんがそれに従ったのか、それともその逆なのか……。

 その点は作中では語られず、真実は闇の中ですが、果たして伊古田くんが闇に葬るような真実の中に、明かしておいた方が彼の印象を少しでもマシにする物なんて含まれているのでしょうか? ここまでの信頼度で言えば、ちょっとその線は薄そうですよね。

 

 

 

・けど正直に言うなら、高揚感については今までの人生で一番かもしれない物があった。自分が人でなしの変態であることを自覚させられてしまったことになる。二十年と少しを生きた経験上、自分の性格的に、それを隠して生きていくことがそこまで苦になりそうではないことが、唯一の幸いではあるけれど。

……逆に今まで自覚してなかったんかい、とツッコミたくなるような伊古田くんの心情です。そしてそれと同時に、彼の嘘吐きとしての自信の表れでもあります。「嘘への自信」については、本編最後の一行へ向けた伏線でもありますね。

 

 

 

・それにびびって、いつも以上に嫌だ嫌だってじたばた暴れちゃったんだよね。そしたら偶然、近づけられてただけの刃が肌にかすって、血が出て……。あれはたぶん私だけじゃなくて、その場の全員が焦ったと思う。血が出て、痛くて、怖くて、さらに必死に抵抗する私と、それをどうにか押さえつけようとするいじめっ子たちとで、もう半狂乱……。それである時、私を黙らせようとした誰かが本気で殴ってきて、一人が殴ったら二人三人って……。

……カチリカのこの凄惨な過去話は、まだ2ちゃんねるが5ちゃんねるではなかった昔の時代に、ぼくが偶然発見した良からぬ性癖の持ち主たちが巣くうエロSSスレ(本当のスレタイは忘れた)で見た描写を元ネタにした物です。世の中には本当にひどいものを書く人がいますよね……。それがこうして役に立ったので、スレに書き込んでくれた人にはとても感謝しています。

 

 

 

・「へぇー。テレビかぁ。熱湯風呂に落とされたりとか?」

「いや、まだそういうお笑いに参加するところまでは来てないから……。無駄にエロくなりそうだし」

「私もやったことない」

「俺も別に見たいとは思わない」

……ここの伊古田くんの台詞、直感で書いたんですけど、どういう意図として受け取ればいいのか自分でもイマイチ分かっていません。好奇心の人である彼が「熱湯に落とされるサキュバス」に興味を抱かないなんてことがあるか? と思えば嘘であるようにも聞こえますけど、こんなところで嘘を吐く理由が思い当たりませんし、「すでに男芸人のそれを見て容易に想像がつくから、「未体験」にカウントされるか微妙な判定になっている」と思えばそれが正しいような気もします。……一番あり得そうなのは、彼がまだ「同じことをやっていても、性別や容姿が違えば印象は完全に別物になる」ということに気付いてない説ですね。

 あるいはこの会話文は、普通にぼくのミスなのかもしれません。

「見てみたさはあるけど時間がなぁ」

「今からでもやろうよ」

「ちょっともう疲れたんだよ……」

 みたいな会話が伊古田くんのキャラクター的には正しかったのかも。それでカチリカに「後悔しない?」と聞かれて、そうやって全ての後悔を取り逃がさないように躍起になると失った物ばかりが目に付くようになって人生が不幸に云々……みたいな持論を展開するのが伊古田くんらしかったかもしれません。……でも昨晩の衝撃的な行いで一睡もできず本当に疲れていたらしい彼がその場でそんなに饒舌になるのかというと、それはそれで怪しいですね。何が正解なのかぼくにも分かりません。

 

 

 

・「ピッキングのアルバイト。プラモデルのパーツを扱ってる。……フリーターなんだ」

……カチリカに嘘を吐く伊古田くんの図。定型文と化したその内容から、彼の嘘の常習性がうかがい知れます。定型文にオチまで用意しているところが憎らしい。

 そして彼はこの会話の流れで、カチリカが現在無職の身であることを知ります。もしもカチリカが大金持ちだったら……という甘ったれた幻が彼の中に無かったはずがないのに、本人はそれを地の文でさえ表に出しません。伊古田くんは見栄っぱりなんです。己に対してもですよ。

 

 

 

・「ああ。今度はちゃんと部屋の中で待っててくれよ、別に何も思わないから」

「じゃあ貴重品も置いていく?」

「……いいとも、サキュバスは人間に危害を加えないらしいからな」

……ここの伊古田くん、一瞬だけ返答に迷ってますね。たぶん彼にとっての「信用」はそういう物じゃないんでしょうけど、それを口に出すのはまずいってことは分かっているみたいです。直後の地の文からも「盗人への不安」が漂っているので、彼は貴重品は身に着けておきたいタイプのようです。きっと無職ゆえ、失った物を取り返すことが出来ないせいでしょう。

 ちなみに、カチリカはここで仮に「いや、それとこれとは別だから」と言われても別に気にしませんし、なんなら「じゃあ貴重品も置いてく?」は半ば冗談で言っています。部屋の主が戻ってくるまで廊下で立って待っていたような人ですからね。口調とは裏腹に、馴れ馴れしすぎる振る舞いをしないように気を遣っている印象があります。散歩について来る時だっていつも「ついて行っていい?」と聞いてきますし。

 

 

 

・「散歩にする? さすがにもう奢ってはあげないけど」

「それは残念だなぁ。……まぁ適当にぶらぶらするか」

「ついて行っていいよね」

「もちろん」

……一つ前の解説を踏まえて見る、カチリカさんのデレ始めている図。「いいよね」と前のめりな確認になっています。

 if世界線には存在するであろう、共に暮らした期間が長くなったことでついに何も言わずに当然のような顔をして同行するようになったカチリカさんとか、見てみたかったですね……。伊古田くんが働いてくれさえすれば見れただろうに……!

 

 

 

・伊古田の語るソフトクリームに関するエピソードの全て。

……台詞も会話文も、全てぼくの実体験です。チョコソフトを無謀な食べ方で散乱させた幼稚園の友達は女子であり、直後の予防接種で号泣していました。ぼくはバニラ味を落とさなかったし注射も泣かずに終えました。でも今はニートです。

 

 

 

・ほんの少し舌先について溶けただけの甘い汁が、それでも喉に詰まったような感覚に陥った。……一瞬だけ息ができなくなって、意味もなく大声を上げそうになる。

……図星を突かれた伊古田くんの、本人にも何と呼んだらいいのか分からない激しい衝動的感情の様子です。彼の上げそうになった大声というのが、「お前に何が分かる」の意味だったのか、それとも「分かるなら助けてくれ」の意味だったのか、あるいはもっと言葉としての意味を成さない悲鳴のような物だったのかは、本人にも分からないままでした。

 

 

 

・「……なぁ、それってあれだろ。センチメンタルとか関係なくさ、今までの俺の君に対する態度が、ちょっと社会的に見て好ましくなかったからっていう」

「それもある。ご飯奢ってあげた人は何人かいたけど……」

「いや、待て、それ以上言わなくていい」

……伊古田くんの豆腐メンタルな図。悪いことしている自覚はあるのに、それを他人の口から出されることには耐えられないのです。そしてその気持ちに、「相手がどういう意図でそれを口に出しているのか」は一切関係がないのです。

 なお一応言っておくと、この場面のこれは決して「他の男の話なんか聞きたくない」という意味ではありません。それについてはどちらかといえばむしろ興味があることが、後の地の文で明かされています。

 

 

 

・「俺は、嘘をついた」

「嘘?」

「働いてないんだ、俺。高校卒業してからずっと、ニート生活ももうすぐ六年になる。ピッキングのバイトなんて全部嘘だ。八時三十三分の列車は電車通学をしていた頃の話だよ」

「……そうなんだ」

……あえて言うなら、ここが伊古田くんのデレ場面です。休日に向こうの目的を理由に一緒に出かけたり、お昼を食べながら楽し気に会話していたような友人の糸原くんに対して、彼はこの「嘘」を明かしていませんからね。カチリカへの信用度(あるいは期待度)が友人のそれを超えたことになります。

 一方で、カチリカがそれを「伊古田がデレた」「信用してくれたからこそ適当に誤魔化さず打ち明けてくれたのだ」と受け取ったのかというと、それは怪しい……というかたぶん無理だったかと思います。過去作に例えると、わざわざつらそうな人間を探して助けに来たハイエのような存在とは違って、カチリカは偶然伊古田くんに声をかけただけですからね。彼を許容するために、それ自体を目的としてやってきたわけではありませんから、そういう人が伊古田くんの告解を受けてどう思うのかといえば、やっぱり多少なりともショックだったんじゃないでしょうか。それが後の彼女の表情に出てくるわけです。それを「哀れみ」ではなく「寂しそう」と受け取った伊古田くんの目は正しいと思います。

 ちなみに、これに続く「信じてもらえないかもしれないけど」から始まる伊古田くんの台詞は、その内容もさることながら、嘘を吐いたことを打ち明けてから言うことになってしまったせいで「オオカミ少年」の効果がいくらか発生してしまうという、悲しみと負のループを巻き起こしています。まあ、誘いを断られたカチリカからすれば、そんな物は嘘だろうと本当だろうとどっちでもいいのですが。

 

 

 

・「でも、すごいね。それなら二泊三日の旅費なんてどこから出したのさ」

「……小学生の頃から貯めてあったお年玉を使って来たんだ。笑えるだろ?」

「笑わないよ。大事なお金だったんでしょう?」

……ここ、この場面! ぼくが一番好きな場面です。カチリカの台詞、最高すぎじゃないですか……?

 カチリカ本編を投稿するまでの間、章ごとに一回ずつと、全体通して一回……の計二回にわたって自分で本編を読み返したのですけど、なぜか二回目のこの場面で泣きそうになりました。自分で書いたのに。

 あれでしょうか、ぼくも中学の頃からのお小遣いと、成人後に父のコネで一年(契機)だけやっていたバイトの稼ぎを後生大事に貯めこんでいるから、それが伊古田くんのお年玉貯金と重なって感情移入してしまったんでしょうか。

 そうなんだよカチリカ~! 君は分かってくれるのか~うぅ~! ぼくは昔から自他共に認める金の亡者で、守銭奴らしくこれまでずっと金を貯めこんできて、親だってそれを昔からずっと小学生の頃からずっと「金の価値が分かってる」って評価してくれてたのに、高校を卒業したぼくが人生初バイトを経て「働くことの苦痛は金より大きい」って話したら、お前は本当は金の価値が分かってなかったんだな……とか言ってくるんだよ、カチリカ~、なんで、なんで、今までずっとぼくの守銭奴具合を見ていたのに、それが「こいつにとってはそのくらい働くことがつらいのか」って解釈にならないんだよ~!! カチリカはそれも分かってくれるのか!? カチリカなら分かってくれるのかよ! どうなんだよ~!!

 ……………………はぁ?

 

 

 

・「そうだお兄さん、連絡先交換しとこうよ」

「えっ」

いいの? と本当に間抜けな声が出る。逆に交換しない理由がないでしょ……と、ものすごく呆れた顔で言われた。

……これは大きな分岐点です。少なくとも伊古田くんが最初の怪我を負ったあたりでのぼくは、この展開を想定していませんでした。カチリカとは何の手がかりも残さずにさよならをして、人間界でまた友達に嘘を吐くような、救えないし救われない伊古田くんを書くつもりだったんです。でも途中で気付きました、これは連絡先を交換しない理由がないなと。

 伊古田くんもすっかり夢から覚める気でいたので、まさか繋がりが残るとは思っておらず間抜けな反応をしています。普通はそう思いますよね……。ぼくもてっきり永遠の別れになるものだと思っていました。しかし実際これが、ニマドの例のオチに対するアンサーなのです。

 「金」という気持ちだけではどうしようもない問題(作中に書いてある通り、それが気持ちで解決できるならそもそも伊古田くんが魔界旅行に行っていない可能性が高い)があり、その問題点については差し伸べられた手を振り払うけれど、それ以外の部分ではギリギリ繋がりを保つ終わり方。これが……! これこそが! 正しい救いの振り払い方ですよ!

 

 

 

・「じゃあね、お兄さん。向こうに行ってもたくさん話そうね」

「もちろん。……あーでも、その頃にはカチリカは別の男と寝てるのか……」

「そこはサキュバスだから。嫌なら働いてこっちで暮らせー」

「へいへい、そうですね……」

……大きな分岐点を経た直後の、特大の不穏要素場面。伊古田くんとカチリカさんのやり取りは本編後の世界で、果たして本当に長続きしたんでしょうか……? 性癖に対する耐性が無敵レベルのカチリカにとって、魔界へ来る男の中に優良物件はまあまあ居そうですけども……。

 この直後の地の文で伊古田くんに若干のNTR耐性があることが仄めかされていますが、事態はそれどころではありません。カチリカの目の前に別の好ましい男が、言わば「働ける伊古田」が現れる可能性は常にあるのです。差し伸べられた手を振り払うというのは、そういうことを意味しているんですよね。

 しかもこの場面、ナチュラルに「働くことに比べたら君が寝取られることの方がマシだ」と言っているのに等しいですからね。伊古田くんのクズっぷりは、過去作のクズ男たちと違って息をするように自然と入り込んでくるので見逃しそうになります。まあそこは相手がサキュバスなので、彼の言葉も人間に対するそれに比べればそこまでひどい発言にはならないんですけど、だとしても無罪ではないですよね。

 

 

 

・「まだ二十四なんでしょー! 若いんだから全然大丈夫だよー!」

「それ、十八の頃からずっと言われてますよ!」

……ぼくは今年で23歳になりますが、18の頃から「これ」を言われ続けて23歳になります。この会話の救いの無さが、身内にニートがいない人にも伝わるものなのか、若干不安です。自分の将来の方は若干どころではなく不安です。

 

 

 

・本人の言葉を信用するなら、糸原は童貞である。その原因はたぶんそういう、緊張とか何とか言っているところなんだろうな……とは思う。というのも、彼は言ってしまえば普通の社会人だけれど、しかし欠点らしい欠点を持ち合わせていないのだ。……俺なんかより良質な人間なのだ。

……友人である糸原を評する伊古田くんの図。非童貞ゆえのイキりとニート(とそれ以外の人間性)ゆえの卑屈さが一瞬のうちに入れ替わる、彼のアンバランスさがよく出ている場面です。カチリカは彼のこういうところを察知して「生きづらそう」と感じたのでしょうね。息をするように嘘を吐くのに罪悪感はあるわ、性癖も人間性も終わってるのに罪悪感はあるわ……。考えてみれば伊古田くんの生きづらさの根源は罪悪感にある気がしますね。やはりハイエの湊くんに似ています。

 

 

 

・だから、あと彼に足りない物があるのだとすれば、それはネットで知り合って仲良くなった女性とオフ会をする勇気だとか、そういう物なのだと思う。緊張していたら童貞のまま狙撃されて死ぬというわけだ。

……上記の文章の直後の伊古田くんです。イキり、卑屈になり、茶化す。一瞬のうちにそれを行う彼の心情は、ある意味での情緒不安定なのかもしれません。

 

 

 

・「どうだったって? そりゃ、「最高だった」としか言いようがないけど、それだとあんまり伝わらないよな……。ちょっと待て、いい表現を考える」

「いや、別にそんなレポしてくれとは言ってないが」

「思いついた! 糸原、日本人男性の平均寿命は知ってるか?」

……伊古田くんの回りくどくてながーい話のスタート地点です。もしもこの話をカチリカにしていたらどんな相槌を打ってくれたんだろう……と考えてしまうのはぼくだけでしょうか。己の寿命の短さに感傷する糸原より、相手の寿命の短さに感傷するカチリカの方が見たかったと思うのはぼくだけですか? なんだか振り払ってしまった手の重さを感じるんですよね……。

 

 

 

・「そういえば伊古田さぁ、お前就職はどうすんの?」

「どうすんのって?」

「いつまでもフリーターってわけにいかないだろ」

「分かってるよ。……正社にでもならないと魔界に通えないなって実感し始めたら本気出すって」

「そうか……?」

「あぁ、今年中には決心つけるさ」

……もしかして読解力のない人には「伊古田が改心した!」と受け取られたりするのかなぁ、と思いながら書いていたシーンです。もちろん、むしろ一ミリも改心してません。「今年中には決心つけるさ」が一番の大嘘です。来年の伊古田くんはまた適当な嘘を吐くことでしょう。

 

 

 

・その写真に写る俺は、本当にひどい顔をしていた。

……本編最後の一行です。カチリカから送られてきた自分の写真が、とても「前向きな人間の顔」には見えなかったことから、今まで自分が吐いてきた嘘は全てバレていて、泳がされているだけなのではないかと不安になり始める伊古田くん。悪い行いとはいえ、確かにあったはずの彼の「自信」なんて物も、そうやってあっさり消えていくのです。そしてその写真の顔がまた、カチリカの言い当てたことを裏付けています。

 ……という感じで、ニマドのアンサーらしく、きっちりバッドエンドで終わりました。伊古田くんがここから先何らかのきっかけで立ち直り更生し、希望ある未来へ進むような姿は、ぼくにはちょっと想像できません……。

 

 

 

・おまけ、カチリカの不穏要素について。

……カチリカの描写は理屈で考えれば、魔界の方であっさりと「働ける伊古田」に寝取られかねず、伊古田くんが交換した連絡先に既読も付かなくなるような未来はすぐそこまで迫っているような不穏さをはらんでいますが、彼女の不穏要素はそれだけではありません。

 言いたいことは言うし笑いたい時は笑う、と豪語した彼女が「いろいろあって」と表現をぼかした退職理由。精神的な痛みには無力な魔法であるにも関わらず、なぜか克服している「ように見える」つらい過去。不眠症らしき描写……。

 カチリカが自分で気に入った人に進んで寝取られるなら、伊古田くんはともかくカチリカ本人はある程度幸せになれるのでしょうけど、連絡先を知っている「だけ」のカチリカとの関係は、もっと別な、誰も幸せになれない形でフェードアウトしていく可能性もありますよね……。

 本作の続編を書く予定はありません。