改めてマリオパーティSwitchのレビュー

 前回の記事は一年以上前に上げたこちら。

https://arisu15849.hatenablog.com/entry/2019/01/08/161742

 グーグル先生いわく、マリオパーティSwitch(正式名称スーパーマリオパーティ)の発売日は2018年10月5日であるらしい。つまりこの記事を書いている今も、現状のマリパ最新作は、二周年のカウントダウン真っ最中の状態にあるわけだ。
 週末はゲームをして遊ぶことが恒例となっている我が家において、このマリパSwitchは未だ現役ポジションにある。すごろくゲームまたはパーティゲームは世に出回る種類が少なく、我が家は自然とパーティゲームに飢え、気付けば同じゲームを二年も遊び続けようとしているのだ。
 というわけで、約二年の時を経た今になって、つまり「過去に上げた記事」とはまた違った視点を得た今になって、マリオパーティSwitchを再レビューしてみようと思う。とはいえ大方の感想は過去記事と変わらないから、評価が変わった部分のみを今回書いていくことにする。それがぼくからの、マリパSwitchへ対する二周年記念のお気持ちだ。
 さて、回りくどくしても仕方がないので、早速結論から言うことにする。結論として本作は、前回記事を書いた当初の印象よりも、実際はもっと面白く優れたゲームだった。それはもう長らく前回記事を訂正しなかったことを、申し訳なく思うほどに。





 まずは前回記事で上げた「今作の問題点」について一つずつ話していこうと思う。答え合わせのような物だと思ってもらいたい。

・問題点?その1 キャラ性能の差
……これについては今に至るまでの長い時の中で、実はあながち問題点とも言えなかったことを知ることになった。正直、この件を「問題点」と捉えた当時のぼくは馬鹿だ。
 前回記事にもある通り「明らかな強キャラ」は存在する。逆に明らかな弱キャラ(いわゆる完全下位互換)も存在しており、本作を「競技」として見た場合、全てのキャラに対して「選択する意義」があるとは口が裂けても言えない。その点に関しての印象には何ら変化はない。
 が、どうも前回記事のぼくは、「本作はパーティゲームである」ということを忘れていたらしい。競技として見た場合に不適切な部分が多少あったとして、それはパーティゲームにとって大した問題ではなかったのだ。なぜそう言えるのかといえば、例えばキャラ性能の差というのは、ハンデとしてちょうど良いシステムになっていたりすることが、理由として挙げられる。
 パーティゲームとは「皆でわいわい遊べる物」であり、この場合の「皆」というのはある程度無作為
な物であるべきだと考えるぼくとしては、腕の差が勝敗に直結するゲームをパーティゲームとは呼び難い。だからぼくは昔から、パーティゲームのゲーム性における良し悪しは「腕と運のバランス」で決まると主張していたが、そこにまだ第三の要素が存在していたことを見落としていた。
 つまり、不愉快ではないハンデの付け方は、歓迎すべきパーティ性なのである。例えば我が家でスマブラマリオカートを遊ぼうとすると、「ぼくだけ開始から一定時間攻撃禁止」とか「ぼくだけ一定時間が経ってからアクセルを踏む」とか、そういうハンデの付け方をすることでしか勝負の結果を揺るがすことが出来なくなってしまうが、それは不愉快なハンデであり、パーティゲームとして望ましくない物なのだ。
 ハンデの愉快不愉快は、ゲーム性を揺るがすか否かで決まる。攻撃出来ないスマブラ、アクセルが踏めないマリオカート、そんな物はもはやゲームではない。しかし通常のサイコロは平等なままに、本作から追加された「第二のサイコロ」だけが弱いというハンデは、あくまでも「すごろく」というゲームの体を保った上での物だと言えるだろう。それはつまり愉快なハンデだ。実にパーティゲーム的なハンデの付け方に、キャラ性能の差は一役買っているのである。
 またそれと同時に、キャラ性能の差はパーティゲームに必要不可欠な「運」の要素も担っている。前回記事で散々「すごろく中で仲間を得ることが強い」ことを書いたと思うが、仲間を得るイベントが発生した際に、誰が仲間になるのかはランダムであり、そこに運が生まれる。
 プレイヤーは仲間の持つ「第二のサイコロ」を自由に選択肢として扱うことが出来る。つまり強キャラであるクッパワリオテレサが仲間になればそれだけ強力であるわけだが、当然ながら救いようもない弱キャラが来ることもある。キャラ性能に差があることで、「仲間を得る」という強行動の中にもアタリとハズレが生まれるのである。
 ゲーム中の選択肢における「正しさ」の中に含まれたアタリとハズレ。これぞまさに、パーティゲームに望まれる運要素だ。仲間を得る際のランダム性はさながらガチャポンのようであり、万人が楽しめる腕と運の良ブレンドなゲーム性のみならず、毎度その場のわくわく感や盛り上がりにも貢献してくれている。キャラ性能の差と仲間システムの組み合わせは、理不尽ではなくなおかつ愉快な運要素という、パーティゲームとして大正解のシステムになっているのだ。
 キャラ性能に差があることは、確かにマリオパーティ史上でおそらく初めての「ゲーム開始と同時に明確な差が付く」概念である。しかしその新要素はよく確かめてみれば、競技的欠点を補って余りあるパーティゲーム的利点を持った素晴らしい物だった……という答えに、長い日々の中でようやく辿り着くことが出来た。
 今になって思えば、前回記事の自分は未熟すぎたとしか言いようがない。



・問題点?その2 マップの質と数
……これについては概ね前回記事と同じ感想になってしまう。特にマップ数の少なさは、どう言い繕ったところで本作の大きな欠点であることに変わりない。マップが5~6個はあった過去数作品を振り返ってみても、そして実際に遊び続けた感想としても、やはりマップ4個というボリューム不足は致命的だった。
 ただ、一つだけ訂正しておくこともある。それは前回記事で、要約して「クソマップ」と称した物についてのことだ。
 本作の4つのマップはそれぞれ「遺跡」「爆弾」「(南国の)島」「黄金」と表現することが出来るが、前回話題に上げたクソマップ(仮)はこのうちの「島」のことである。
 本作随一の広さを誇り、イベントも豊富なその島は、しかしその特徴が災いして「一向に誰一人としてスターにたどり着けない事態が度々起こる」「複数回起動して初めて効果を現すイベントがまるで機能していない」「本作のゲーム性において本来必須の要素(ジュゲム)が手薄になっている(ランダム性があり確実に起動することが出来ない)」などなど、数々の欠陥を孕んだ問題マップ……それが当時の「島」の印象だった。
 今でもその印象に概ね変わりはない。……と言いたいところだが、時を経た現在では実際のところ、「島」に対する認識は以下のような変化を遂げている。……「クソマップという見解に変わりはない。が、しかしそれは、「10ターンで遊ぶなら」の話である。」
 本作のすごろくは基本的に、10ターンが経過するまでの間に(つまり全員の手番が十回終わるまでの間に)稼いだスターとコインの数を競うゲームである。が、実はプレイヤーが望むのであれば、初めから対戦期間を20ターンと決めて試合に望むことも出来る。
 しかしそんな気の利いた機能があったところで、大抵の人は10ターン制のルールを選ぶことだろう。何せ20ターン制にした場合、一戦にかかる時間の目安はなんと約二時間になる。ゆっくりゲームのプレイ出来る環境と、仲良し四人組が揃ったとして、じゃあマリオパーティを二時間ぶっ続けで遊ぼう……と考える人はそう多くないだろう。例えばそう、二年近く本作を遊び続けている我が家のような人々でもいなければ、そんなことをしようとは滅多に思わないはずだ。なぜならマリオパーティとは本来10ターン制が基本であり、それで十分に楽しい物だったのだから。
 だからきっと多くの人は気が付かないし、ぼくも気が付くために年単位の時間を要した。しかし実際、クソマップと思われた「島」は、20ターン制で遊ぶと評価が一変する。有り余る対戦期間が「島」に合わさると、その広大な舞台は我々に正しく満ち足りたボリューム感を与え、複数回起動する前提のイベントも完璧に機能して、一戦の間に他マップをしのぐ多彩なバリエーションを発揮してくれるようになる。他マップとは一味違った楽しさを与えてくれるようになる。ただ対戦期間が長くなるというだけのことで、「島」は純粋に「一二を争うほど楽しい良マップ」へと早変わりするのだ。
 そして、コインが余りがちな本作においてゲーム性の根幹を担っている重要システム「ジュゲム」が「島」においては不十分である点も、この20ターン制がいくらか解決してくれる。というのも、勝負期間が伸びることで序盤の幸運を活かしたいわゆる「逃げ切り」が起こりづらくなり、勝敗を分ける「スター」という得点の差は、確率的に平たく横並びになって行きやすくなる。すると「スターが同数の場合コインの数で勝敗を決める」というルール上コインは必然的に、それ単体として重要な物になっていく。それがゲーム性において、ジュゲムへの依存度をいくらか緩和するのだ。
 今までの、10ターン制の体感では、コインはあくまでもスターを買うための物でしかなかった。より多くのマスを進み、スターの在り処に出来る限り頻繁に駆けつけなければ、コインを大量に持つ意味は薄いと思われていた。それなのに本作はコインが妙に手に入りやすく、コインだけが手元に貯まるシチュエーションが頻発していた。そんな中で上手くスターの数がプレイヤー間で横並びになり、コインの枚数で決着を付けることになる展開はそもそも稀だとされていたことから、大量のコインを確実に有効的な形でスターに変えてくれるジュゲムの存在が必要不可欠な物となっていた。もしもジュゲムがいなければ、運よくスターが近くに湧いた人の勝つ「運要素が強すぎるゲーム」となり、パーティ以前にゲームとして拙い物となっていただろう……とさえ感じていたものだ。
 しかし20ターン制においては逃げ切りの概念が薄まり、ジュゲムの活躍がどうであれ、確率的にスターの数は横並びになりやすい。スターの湧く場所がある程度ランダムである以上、試合が長引き試行回数が増すほどに、幸運(つまり偏った結果)による勝利は少しずつ、確率的に非現実的な物になっていくからだ。そうなることでプレイヤー間のスター数の差も平たくなって行く傾向にあり、当然コイン枚数で決着を付ける展開を目にすることも増えていく。だから20ターン制では、何にも変換されなかった「コインその物」の価値が、10ターン制に比べればいくらか増しているのである。
 この理屈により、ジュゲムになぜかランダム性が付与されている「島」においても、20ターン制にさえすればかなりまともなゲーム性が保たれることになる。「島」とはまさに20ターン制のためにあるマップであり、いやむしろ20ターン制を前提として作られたかのようなマップであり、そういう意味では本作の隠れた良マップだったのだ。
 ……と力説したけれども、結局マップの数が4つしかないという欠点については擁護し切れない。また「島」が隠れ良マップだった一方で、「他マップ(全3種)」は20ターン制にするとつまらなくなるのか? と言えば、それは全くそんなことはないので、この「島」の良さの発見は、本作の「マップの質と数」という欠点を補いきれる物ではなかった。確かに「島」の魅力に気付いた時には驚かされたものの、一つの驚きが、複数の堅実な魅力を追い越すことはない。堅実に面白いマップが従来のように5つは用意されていること、今のところそれだけが正義であるように思う。
 しかし、少し視点を変えるだけで見えてくる物がまるで違ってくるという何か教訓じみた経験を得られたこと自体は、間違いなく素晴らしいことである。何やかんやと文句を言ってみたところで、本作は二年近いプレイに耐えうる程度には面白さの約束された作品なのだ。パーティゲームを求める全ての人におすすめ出来る良作と言えるだろう。
 そう考えてみれば、むしろ過去作品たちが完璧に近すぎたのだろうと思う。懐古主義には染まりたくない物だけれども。



・問題点?その3 テンポが劣悪
……これについては本当にマジで一切冗談抜きに一ミリたりとも擁護出来る点がない。購入当時から一切感想が変わらない。頼むから演出スキップ機能を搭載してくれ。特に各試合で始めてマップ全体を見渡す時、そのマップの特徴を解説し始めるパートだけは鬱陶しすぎるので何とかしてほしい。二年も同じマップの解説を聞くのはうんざりだ。
 この劣悪なテンポの演出や解説を提案した人は、例えば毎朝家を出るたびに、最寄り駅への行き方と近場のコンビニへの行き方を熱烈に解説され続ければ、いつか自分の犯した過ちに気付いてくれるのだろうか。……というくらい本当に鬱陶しい機能が本作のすごろくに巣食っている。勘弁してくれ。



・問題点?その4  すごろく以外のモードについて
 ……さて、ここからは前回記事で明確に問題点として挙げることはなかった話題に踏み込んでいく。前回記事あるいは前々回記事の中で「すごろくのマップ数は不足しているが、その分すごろく以外の本作初登場のモードが充実しているのでどっこいどっこいだろう」というようなことを言った記憶があるが、まさにその新モードの問題点について語っていく。
 本作のすごろく以外の目玉モードは大きく分けて二つある。四人で協力してボートを操縦し渓流下りをするモードと、リズムゲームの集合体のようなモードだが、ここでは分かりやすく「カヌー」と「リズム」と呼ぶことにする。それで、まずはリズムの問題点についてだが、これは「リズムゲームの集合体」という説明から薄々察してもらえるかもしれない。……そう、リズムモードは、実質的に「新モード」では無い。
 マリオパーティにおいて、すごろくの最中に度々ミニゲームを行い、その勝敗がすごろく勝負の行方に影響を及ぼすことは、ゲームのアイデンティティの一つとなっている。そして当然その「ミニゲーム」を、すごろくと切り離して自由に遊ぶ(いわゆるフリープレイ)ことも出来る。一方でリズムモードはあえて言うのであれば、リズム天国的な小規模リズムゲームを集めたモードであると言える。……それとミニゲームのフリープレイとは、いったい何がそんなに違うというのだろうか?
 いや、実際に違いはある。例えばミニゲームのフリープレイは一つずつゲームを選んで遊んだり、何ゲーム先取で勝利……と決めた連続勝負をすることが主な遊び方であるわけだが、リズムモードは「ランダムに選ばれるリズムゲーム」を「一定数続けてプレイ」して、その「総合得点」を競うルールになっている。一つ一つ好きな物を選ぶだとか、一種目単位で勝敗を分けることはしないのだ。
 そして「リズムゲーム」を単なるミニゲームとしてみた場合、それらの特徴が「リズムモード」の全てだった。つまりフリープレイと比べて多少ストイックなミニゲーム集のリズム編が、一つのまったく新しいモードのような面をして鎮座しているというのが実際のところなのである。そしてこれはあくまでも個人の感想だけれども、リズムモードにある物は、パーティゲームには不要のストイックさだと感じた。各種目の総合得点で戦えば、運の要素が薄まりすぎてしまう。
 パーティゲームの良さというのは、それなりに明確な実力差がある者同士でコントローラーを握っても、ミニゲームで十回も戦えばそのうち一回はほぼ必ず下克上が起こるような、いわゆる「エンジョイ」と呼ばれる和気あいあいとしたゲーム性にあるとぼくは考えている。しかし総合得点で競うルールはその良さを消してしまう。リズムゲームを作るならもっと数と質を厳選して、普通のミニゲームの一つとして搭載してくれた方が個人的には嬉しかった。
 ……というリズムへの批判的評価の一方、もう一つの新モード「カヌー」については、これは確実に「新モード」と言って差し支えないような新しさと独自性を持っていたと感じている。それなりに評価している。
 四人チームが二人ずつ左右に分かれてオールを持つことで、右へ左へ障害物を避けながら、あるいはアイテムを取りながら、制限時間内に渓流を下りゴールすることが目的であるカヌーモードのことを、リズムモードのように「事実上単なるミニゲーム集である」とするのには無理がある。というのも、カヌーはその内容の密度、ボリュームが尋常ではないのだ。
 道中には分岐路がいくつもあり、分岐先のルートにそれぞれ全く趣の違うギミックが用意されている。川を下る一方のゲームなので一度のプレイでは各分岐路のギミックを制覇しつくせないこともあり、それだけカヌーを操縦する楽しさにも多様さ、奥深さがあることになる。
 また、道中に浮かぶ風船に激突することで四人協力型ミニゲームが始まり、その成績次第で制限時間が追加されるシステムの存在も欠かせない。マリオパーティにとって1vs3や2vs2といったチーム戦はお馴染みであったけれども、四人全員で協力するミニゲームは少なくともWii以降初めてである。この時点でカヌーは、ありそうでなかった独自性を十二分に有しているわけだが、あくまでもそれは渓流下りに対するサブ的な物だ。
 従来の「すごろくとミニゲーム」という関係が、カヌーモードの中で「渓流下りと協力ミニゲーム」という形となって完成されている。この「大筋とミニゲーム」の形こそがパーティゲームの一つの理想形であり、カヌーがリズムとは一線を画するところだと言えるだろう。
 ……と褒められる点の多いカヌーモードではあるが、悲しいかなこちらにも許容し難い欠点はある。その欠点とは、まず何と言ってもミニゲームの種類の少なさだ。
 渓流下りの成功を目指す際、貴重な制限時間を増やす手段であるミニゲームに挑まない選択肢はほぼ存在しないのだが、全ての風船を取得し毎度ミニゲームに挑んでいると、ゴールするまでの間に何度か同じゲームをプレイすることになってしまう。基本的に必ずそうなると言ってしまっていい。なぜならそれはランダム性の偏りで起こることではなく、単純に「全てのミニゲームがプレイ済みとなる」ことで起こる既視だから。
 そしてすでに言ったように、カヌーの良さの一つは、繰り返し遊び、以前とは別の分岐ルートを辿ることにある。すごろくを見ていれば分かるように、ただ一度遊んだだけで飽きてしまうような物は良作とは言い難く、その面でカヌーはかなり良い線を行っているのだ。しかしミニゲームの少なさがその足を引っ張っている。
 もちろんすごろくモードにおいても、10ターン中に時々同じミニゲームが発生することはある。しかしランダムの結果であるそちらとカヌーとでは何もかもが違いすぎる。カヌーにおけるミニゲームは絶対数が不足している。だから渓流下りの楽しさを求め繰り返しカヌーをプレイするうちに、じわりじわりと少しずつだけれども、協力型ミニゲームは苦行へと変わり果てていくのだ。
 ……というわけで、結局のところ発売二周年が迫る現在、我が家で行われるマリオパーティと言えば、完全にすごろくのことを指すようになってしまっている。リズムやカヌーは過去の思い出となり、もう実際に遊ばれることはない。これら二つの新モードは、あくまでも長期的な目で見るならだけれども、すごろくのマップ数問題を補う要素にはなり得なかったのだ。
 また、これは「ゲームでビリになった者が家事を手伝う」という画期的かつ素敵な罰ゲームを採用している我が家だから……あるいはぼくが野蛮な男だからかもしれないが、カヌーにはまだもう一つ問題点があった。それは今後ぼくがパーティゲームについて語る時に必ず共通するであろう、偏見についてのことだ。
 つまり結局のところ、「勝者と敗者」という構図が存在しない完全協力特化のパーティゲームは、そうでない物に比べてすぐに飽きられてしまうのではないだろうか……。
 仮にカヌーのミニゲーム数が倍になっていたとしても、我が家がすごろくと同じくらいカヌーモードを贔屓にしているような未来は、ぼくには想像できなかった。





 ……と、以上をもって、本作を遊び続けたからこそ知ることの出来たレビュー内容はおそらく全てになる。
 何やらネガティブな後味になってしまったが、キャラ性能の差がパーティゲーム的に非常に優れた物だった……ということに気付けただけでも、本作の個人的評価は前回記事当初と比べて確実に上昇している。そしてそうとなれば、今さらとはいえ本作の良さを今一度広めずにはいられない。だからこの記事を書いた。
 パーティゲームに少しでも興味のある人は、みんなマリオパーティを買えばいい。もうすぐ二年になるというのにあまり値落ちしていない、この「スーパーマリオパーティ」を。Switch唯一のマリオパーティを。
 そしてみんな祈るようになればいい。ぼくと同じように、マリオパーティの新作を、あるいはリメイクを、もしくは他のパーティゲームでもいいから、どうにか次のパーティゲーム作品を出してくださいと、皆で祈るのだ。パーティゲームに飢えるのだ。いったい何時になったら我々は、その年に発売したパーティゲームで、明日の風呂を誰が洗うべきか決められるようになるのだろうかと。
 より多くの人間が祈ればきっとそれは叶う。オカルト的パワーではなく、需要と供給……経済の力によって!
 何にせよいつかまた新作を手に取って、早計すぎるレビューと、一年後の答え合わせをしたいものだ。