チェンジ、チャレンジ、トートロジー

 世の中には「ニートの社会復帰をサポートする施設」というのがたくさんあって、ぼくも現在そこに惰性で通っている。

 なぜ惰性なのかというと、初めはバイトを始めようと通い始めたぼくも、今では働く気を綺麗すっかり失ってしまったから。施設はあくまで「サポートをする施設」なのであって、つまりは「働く意思のある者の手を取ってくれる」場所なのであって。本来、すでにぼくの通うべき場所ではないわけだ。

 ならばなぜ未だに通っているのかという話だけれど、それはぼくが「絶対に働かないからな」という意思をだいぶ前から示しているのにも関わらず、施設の職員が「わかったわかった。で、来週は〇曜日の~時でいい?」と次の予約を、職員の側から入れてくるのが理由ということになる。

 もちろんぼくには拒否権があるし、ばっくれたまま一切の連絡を無視することもできる。けれどもまあ、週に一回1時間のお喋りをするために、自転車で往復1時間未満の場所まで行くのは、別に特別断る理由が生まれることでもない。その結果の惰性だ。

 生きる理由も見当たらないが死ぬに値する理由もないので生きている人間のように、行って話すこともないが断る理由もないぼくはほぼ毎週その施設に通っている。そして「なんか面白いことあった?」みたいな話をして帰ってくる。真面目に週5くらいのペースで施設へ通って社会復帰を目指している人からすれば、ぼくは相当すべてを舐め腐ったくそ野郎に見えるのかもしれない。

 ……という話を、実際真面目に施設へ通っていた人(ぼくと同じ施設ではなく、遠方で似たような場所に通っている似たような社会的立場の人)にしてみたところ、かなりショッキングな感想をいただいた。

「それ、時間の無駄では……?」

 嫌味とかではなくて、純粋に「あなたの幸福のためにも、そんなことする時間があるなら家でプリパラでも見ていた方がいいのでは」みたいな感想だった。その感想のおかげでぼくは、ニート生活になじみすぎて「時間の無駄」という概念を失っていたことに気付いた。

 言われてみれば本当にその通りで、施設へ行ってする話といえば、ツイッターに書く価値さえ怪しまれるくだらない話がほとんどだった。それに、なんとか働く気になってもらえないかと向こうが提案してくる案だって現在ではどれも、

「ボランティアしてみたら?」

「寺を巡ってみたら?」

「海外旅行に行ってみたら?」

「九州(上記の感想をくれた人が住んでいる場所)へ行ってみたら?」

「知らない駅で降りて散歩してみたら?」

 といったヤケクソな物になっている。それはヤケクソにならざるを得ないほどやる気の欠如したぼくも悪いのだけれど、

「なんで金もらっても働きたくない人が無償で働くと思うんですか」

「寺ねぇ……。興味ないし、寺巡って働けるようになるならここに通ってる人たち全員で観光ツアーへでも行けばいいのでは? 大仏の中にハロワ開きましょう」

「日本語が通じない場所に行くと全身の穴という穴から放射能を噴射して死にます」

「九州行くのはまあいいですよ、楽しそうですし。でも、それ帰る気になります? 自腹で楽しい場所に行くのはいいとして、自腹で現実に帰ろうと思います? 失踪しますよ。させたいんですか?」

「とにかくぼくを外に出したいのはわかりました。寺から始まり海外にまで広がった話が最終的にただの散歩にまで妥協されたのには笑いますけど」

 ……などといった会話になんの意味があるのだろう。驚くべきことに、本当に言われるまでまったく気付かなかったけれど、これは正に時間の無駄以外の何物でもないのではないか。

 という話をそれとなーく施設に行った際のお喋りでもしてみたのだけれども、結局最後は「で、来週〇曜日の~時でいい?」となったので、やはり何も変わることはなかった。そもそも時間の無駄だと言ったって、その時間を削ってまで他にしたいことは何もないわけで。プリパラもガルパンも今まで通りの生活で十分視聴できるわけで。

 結局時間の無駄を削ったって、また別の方法で時間を無駄にするだけ。だからやっぱり、断る理由もない。そういうことになってしまった。将来がどうだこうだという話をされるよりもよっぽど、こっちの方が「このままではいけない」という気持ちにさせられる。

 そんな気持ちになっただけで何か行動を起こせる人間は、そもそもこんな状況に陥らないわけだが。

 

 ところで、この前お喋り(建前上は面談)に行った際に新たなヤケクソ提案シリーズが更新された。

「女装してみたら?」

 である。これはなんの脈絡もなく出てきた話ではなくて、以前にぼくが、

「美少女に生まれ変わりたいんですけど、それだけだとニートうんぬんを抜きにしても通常の生活にも支障が出そうですし、美少女と今の姿を自由に換装できるようになりたいんですよ。でもそれは不可能だとガンダムのゲームがぼくに告げているんです」

 みたいなふざけた話題を暇つぶしに出したという経緯がある。詳しくはここと同じブログ内にある「一切の苦労なく美少女になってみたい」という記事(笑)を読んでもらえれば、ぼくの施設でのお喋りに如何に意味がないのかを理解してもらえると思う。

 ともかく、その「女装してみたら?」という提案は、もちろん「行動から変えれば心も変わるはず」という理論から来ている。普段ならぼくもいつも通り「それができる人間はニートにならない」と返すところだったけれども、今回はちょっとだけ話が広がった。

「いや、時代はバーチャルですよ。女装よりも美少女の二次元モデルを、声を手に入れるのです」

 といった具合に。ここでもし、この日記を読んでいる人が「時間の無駄」というキーワードを思い出したのなら、それは正しい連想である。

 その話題はそのままマグロナちゃんというバーチャルユーチューバーの話に移行したわけだけれども、とにかく最終的に出た結論としては、

「バーチャル美少女になるのは金がかかる。女装も同じ。そしてどちらも技術的な問題まである。働いて金を得てからそれらの趣味を叶えるならまだしも、働く気力を得るためにそれらを叶えるというのは、金を稼ぐための行為を実行するために金を稼がなければならない……という時点で破綻している」

 といつも通りの着地になった。収穫ゼロである。

 これらのやり取りを経て改めて思うのだけれど、ニートが社会復帰をするためのサポートをしてくれようとする人たちの中で何かがおかしいのは、

「社会復帰には自己の変化が必要→じゃあ自己を変化させるしかあるまい=自己の変化には自己の変化が必要」

 という至極当たり前なことを言うばかりで、まともな手助けをしてくれる人が誰もいないことだ。少なくともぼくの視点からはそのように見える。

 寺だの、海外だの、国内旅行だの、女装だのバーチャル美少女だの、そんなことを「よーし、やるぞ!」の意気込みでできる人は、そもそもニートにはなっていないのではないか。一瞬なってしまったとしても、すぐに復帰するのではないか。

 根っからニートの精神に染まった人間にとって、社会復帰とは自分自身を変化させることであり、社会復帰=自己変化であるにも関わらず、それを行うためには自己変化を起こせと周囲の人間から言われる。社会復帰がしたいのなら、社会復帰をすればいいのに……と言われているのと同じことである。そんな意地の悪い言い方をするくらいなら、お手上げだと、はっきり言った方がいくらかマシだ。

 ミカンは放っておけば勝手に腐る。腐ったミカンを元の新鮮な状態に戻せたらそれは奇々怪々な魔法だ。心も同じである。腐らせた責任はぼくにもあるのかもしれないけれど、人として生きたければ独学で魔法を現して見せろと言うのは、あんまりひどいのではないか。

「そもそも皆は、ぼくが真っ当に働き、自立して生きられるようになった状態をゴールだと思っているようだけれど、違いますからね。ぼくのゴールはぼくが幸せになることであって、幸せと真っ当な生活がイコールで結ばれていないから、働きたくないって言ってるんですよ」

 なんて話もしたけれど、その後はまた来週いつ話すかの予定を入れられるわけで、ぼくは施設側が何をしたいのかまったく理解できない。しかし、ひょっとするとそれは向こうも同じなのかもしれない。ぼくが何をしたいのか、どうしたいのか、理解していないのかもしれない。施設だけじゃなくて、あらゆる大人も同じように。

 ……ぼくが何をしたいのかなんてぼくにもわからないので、その答えを求められても困るのだが。

 そこで提案がある。聞きかじった話だけれど、「AはAである」といったような言い回しをトートロジーと言うらしい。ニートをなんとか浄化したい大人たちはそろそろ、そのトートロジーをやめてみてはいかがだろうか。

 働きたくない。しかし働かなければ生きていけない。働けるようになるためには、つまり生きるためには変わらなければならない。変わるためには挑戦しなければならない。……なんて、まさか働くことが挑戦ではないなんて、思っているわけでもないだろうに。

 

 

※追記

 この記事を書いたあと、6月20日付近にぼくが「ここ来る意味あります?」としつこく話した結果、次に施設へ行く予定の日は7月末にまで大きく飛んだ。

 その日には他に、ぼくから、

「どうも全てが面白くない。熱中できると思った物を見つけては、数日から数週で飽きてしまう。毎日やりたいゲームや見たいアニメがあった学生時代の心を返してほしい」

 という話をしたところ、返された言葉が、

「楽しいと感じることを価値観から変えればいいのでは? 例えば働いてばかりの人が何もすることがない休日をもらえば、その日君が「退屈だ」と思うタイミングでその人は「幸せだ」と思うでしょう。価値観を変えればいい」

 というものだったので、6月25日現在の感情に従う場合、ぼくは正直7月末の予定の日にも施設へは行かないと思う。

 要するに施設の相談員はぼくの口から「幸せだ」という言葉が聞ければいいという話だった。口というのは、ぼくの心を声に変換する器官でしかない。間違っても心そのものではない。しかし相談員は「ぼくの口」から「幸せだ」という言葉が聞ければいいらしい。もしかすると全ての大人がそう考えているからこそ、ぼくに働けと言うのかもしれない。

 一度死ねというのだ。心を一度殺し、新たな心で口から「幸せだ」と言えという。それで満足らしい。もしそれが実現する日が来たとすれば、その時には現在のぼくは死んでいる。

 だったら別に、誰かの心を殺して、その人がぼくを養うことで「幸せだ」と口にできるようにしてやったらいいのではないか。そういう話だと思う。