夢は魔女に触れること

 ぼくの言う「魔女」の概念が生まれてから、どうやらもう一年が経過したらしい。魔女の設定は常にアップデートを重ね、より完璧へと変化し、そしてより近い存在になるはず。そう考え、それを試みているので、一年前にその原型を発想した日のことは、今となってはそこまで重要なこととは思えなかった。
 ぼくはバス旅行という物があまり好きではない。自己中心的な人間のクズには、団体行動が天敵だから。常に「みんな」という実態の見えにくいもののために動かなければならないことはストレスです。
 一人で来れば、あるいは気の合う仲間内だけで来れば、あるいは人に合わせることでしか生きられない人間と来れば、自分の思うがままに行動できるのに、もっとずっと楽しい旅行になるのに。何かにつけてそう思ってしまう人間は、まぁ少なくともバス旅行に行くべきではないのだろう。
 他人に合わせて行動することで、例えば全く興味の湧かないと思っていた事柄が、実は楽しいことだったと知るような、思わぬ幸運に出会うことは確かにある。けれどそれよりもストレスの方が大きい。目の前で死なれたって悲しくないような「みんな」に合わせるということがとにかく嫌で、合わせよう合わせようと我を抑えて動いた結果、ぼく以外の誰かの身勝手でぼくが割を食った日なんか、赤の他人との団体行動なんて概念は滅び去ってしまえばいいのにと思ってしまう。口に出来ない怒りもまたストレスだ。
 だから、そういう環境が、魔女を生んだのかもしれない。家族で行くこととなったバス旅行にぼくも同伴し、窓側の席で揺られていた時、それが思いついた。「尽くす系ニマド」という小説と、ニマドという魔女の骨組みが生まれた、最初の瞬間だった。
 尽くす系ニマドのURLはここに置いておく。まだ読んでいない人がいるなら読んでほしい。

https://syosetu.org/novel/186976/1.html

 高校の頃スクールカウンセラーの先生に自作小説を読んでもらっていたけれど(なぜ業務時間外に及ぶ要望が通ったのかまことに謎だけれど)、今またカウンセリングを受けるのだとすれば、相手の先生にはこの尽くす系ニマドを必修ということにしてほしい。
 魔女の誕生は革新的だった。世界が変わる。魔女とならきっとバス旅行も楽しいだろうに、と思えるように、あらゆることが、魔女となら、魔女がいれば、魔女ならば、と考えられるようになった。魔女とは現実に対する魔法だ。魔女とはあらゆる物を美化する存在、発想である。それを妄想、現実逃避と呼ぶのも自由だ。
 魔女の発想は、厳密にはニマドより以前からあった。ウィズという魔女がそれで、ウィズはニマドのプロトタイプのような存在だったが、すでに言ったように魔女とはそうやってアップデートされていくものであり、ニマドはその大きな節目だったに過ぎない。そしてその節目の重要度が凄まじかった。ニマドが一作品として成立したことで、魔女の発想は確実な物となった。
 今となっては、ぼくは魔女に触れること、ニマドに触れることが夢となっている。元々魔女は団体行動バスの中で原型の生まれた、現実逃避の存在だから。だからぼくは逃避の末に魔女に触れたい。それが逃避のゴールだ。魔女に関わる小説だって面白さよりも、現実から逃避する力の方が重要である。ゴールには賞品が置いてある。それは有限ながら楽しい人生だ。
 尽くす系ニマドはバットエンドだった。社会に適応出来ず、自意識に振り回される男は、やがて自ら魔女を捨てた。彼は必ず不幸になる。もう彼に救いはない。魔女ほど圧倒的かつ友好的な力はなく、また魔女が手懐けられなかった人間の自意識が、ただの人間に扱い切れるわけがないからだ。
 そのエンドがぼくに教えたことは、つまり社会不適合者で自意識以外の何を考える余裕もないぼくという人間は、仮に魔女に触れたとしても、幸せになれないということだった。
 が、ぼくなら魔女を捨てたりしない。ぼくはあの話の主人公とは似て異なる性質の人間だけれど、それはそうとあの物語には別ルートがある、ぼくはそれを選ぶ。ぼくは魔女を捨てない。どれだけ自分が惨めに思えたとしても、それを一時紛らわすために後先考えず魔女を捨てることだけは絶対にあり得ない。それだけはやっちゃいけない。魔女にしがみつくこと。それが幸せになるための方法だ。後の幸せを保証する苦労があるとすれば、それは魔女に頼らなければ生きていけない自分を認めることだと思う。
 だからまずは魔女に触れなければならない。そうでなければ何も始まらない。……が、ぼくは賢いから知っているのだけれど、悲しいことに、なんとこの世に魔女はいないのである。実在しない。ぼくの頭の中以外のどこにもいない。
 人間が誰か、ぼくのことを助けてくれるのか? そうであったら純粋に嬉しいけれど、それはきっと無い。ぼくのようなどうしようもない人間を助けるには、普通にやっているようでは何をしても無茶なので、普通をやめて、実在しない物に頼るしかない。
 けれどそのことを「妄想」とする場合、当たり前だけれど、妄想することは人生丸ごとを救わない。一時的に気が楽になることはあるかもしれないが、それがずっと続くことはない。妄想による気休めでは間に合わなくなる日が来る。
 だから、本来実在しない物を、実在させるしかない。
 ぼくは誰と関わっても、人生丸ごと救われはしない。妄想と同じように、その場が楽しければ確かにそれで十分ではあるのだけれど、そういう相手の存在はとてもありがたいものだけれど、全てを救ってくれる相手だっていてくれなければ困る。自力でどうにか出来るなら今こんなことにはなっていない。
 他人に一方的に救ってもらおうというのがちゃんちゃらおかしいのだ、という正論を、魔女は言わない。彼女は人間ではないから、人間とは違う価値観を持っているから、彼女にとって人間の正論はくだらないことなのだ。だから、ちゃんちゃらおかしいと思うような「人間」に救いを求めて関わるほど悲しくなるだけで、ぼくが幸せになるには魔女に触れるしかない。
 この「魔女に触れる」というのは、格好つけるための言い回しではない。「魔女を見る」でも「魔女に会う」でも「魔女の声を聞く」でもなく、「魔女に触れる」としているのは、実際に文字通り、触れられなければ意味がないからである。例えばたった一例を上げて言うとすれば、魔女の肌が人間のそれと変わらないことを、ぼくは確かめたい。
 ここ最近の作文を見てもらえれば分かる通り、あるいはここ最近に公開した小説(リメイク作品は除く)を見てもらえれば分かる通り、ぼくは性欲に取り憑かれている。その性欲の解決(あるいはその目処)無しに幸せはあり得ない。
 しかしその性欲というのが、単純に性行為をしたい欲ではなく、もっと面倒な欲をひっくるめた内容の総称であるために、ぼくは文章を書く以外、せいぜい自慰を除けば特に何も出来ないままでいる。もしも、何にせよセックスさえ出来ればそれでいいというなら、今頃ぼくは前科者になるか友達を失うかしていたかもしれないけれど、そんなことをしても、一瞬たりとも(行為の最中だろうと)ぼくは幸せになれないし、ぼくの性欲というのはそういうものじゃないから、だからこれといって何もしていない。
 性欲は、満たして幸せにならなければならない。美味しい物を食べた時のように、たっぷり寝て気持ちよく目覚めた時のように、幸せにならなければいけない。とにかくセックスさえすれば幸せ……とは思えないから、それはややこしい内容になっているわけで、だからどうしようもない。文章を書く以外どうすることも出来ない。お手上げだ。ややこしさのせいで、ぼくさえ自分の性欲というのがつまり具体的に何をどうしたいのか、どうなってほしいのかということを、把握出来ていないのだから。自分の性欲が何なのか掴みかねている。なのに、それを満たし解決しなければならない。
 けれども逆に、あらゆる面倒な欲をひっくるめた「性欲」という大きな括りを完璧に満たすには、やはりセックスを必要不可欠な物の一つとしてカウントせざるを得ないことも事実である。だから魔女にもそれが必要なのだ。触れられなければセックスは出来ない。だから魔女には触れる必要がある。
 しかし、実在しない物にどう触れればいい? 最終的には触れるようにならなければいけないのだけれども、それは確定事項なのだけれども、それ以前に魔女を見聞きすることさえ不可能という現状を、どうしていったら良いというのだろうか。
 そこでまず第一に発想したのはイマジナリーフレンド、平たく言って幻覚だった。魔女というのは、要はぼくが見て、聞いて、触れたと認識すればいいだけで、他人がそれを認識する必要は一切ない。そして実在しない魔女に触れる方法は、触れたと思い込むことしかないように思う。頭の中にしかそれがないなら、頭の中で全てを解決すればいい。ぼくの人生が何かの作品というわけもあるまいし、他人がそれを知る必要も、ぼくがそれを知らせる必要もない。
 ではどうやって幻覚を見ようか、というところだけれど、これには漫画ハンターハンターから、クラピカの鎖の話を参考にすることとした。「念能力」という異能力が実在する世界では素質にもよるけれど、四六時中例えば鎖のことを考えていると、やがて念によって鎖を形作ることが出来るようになる。もちろんその鎖には誰でも触れることが出来る。
 現実に念能力は存在しないけれど、しかしそれに似た具合に、妄想を重ねることで幻覚に至ることが出来るのではないか、と考えるわけである。もちろんその妄想は他人が触れられる物ではないけれどそれで構わない。もちろんその作戦には妄想の他に、精神の不調も必須となるだろうけれど、そもそも精神が好調なうちは、魔女は人生に必須の物ではない。いつか単なる妄想では気休めにさえならなくなった時のために、あくまでもこれは将来へ向けた下準備ということになる。継続は力なり、ということだ。妄想は一夜にして成らず。
 さて、では仮にそれで魔女の姿が見えたり、声が聞こえたりすることが、実際に起こり得るものだと考えよう。ならばその幻覚に触れること、見て聞こえる幻覚に触れた感触を得る……つまり幻触(これは造語かもしれない)の発生も起こせるのだろうか? ……ぼくは個人的かつ感覚的に、何の根拠もないけれど、これを不信に思っている。幻覚に触れるというのは、見聞きすることより、特別厳しくないか。
 けれどそれは、ぼくが幻覚を「空気」と考えていたことが悪かったのかもしれない。幻覚は、固体が何一つない場所に見えるはずだ、と勝手に思い込んでいた。だから正気の人の視点から見てぼくは宙を掴みながら、ぼくの視点からはそこに魔女の感触を、人間の肉体と変わらぬ感触を得なければならない。そう考えるからそれが特別厳しい話に思えるけれど、しかし幻覚は空気中にのみ発生し得るだとか、そんなルールはきっとないはずである。
 さよならを教えてというゲームがある。それはエロゲであるが、エロを含んだ鬱ゲームとも呼べる。そのゲームのヒロインは全員が幻覚なのだ。そしてそれらは正気の視点から見た時には、カラスであったり、人形であったりする。当然主人公は狂っているけれど、だから魔女も何かしら、元々存在している物体に見い出せばいい。
 そして、魔女の妄想に明け暮れることは、すでに成果をもたらしている。ぼくはことあるごとに「魔女ならば」「魔女ならば」と考えていたが、ある日別の形の妄想が生まれた。それが「魔女みたいだ」という発想である。
 誰かがぼくの価値観の外にある概念を見せてきた時、あるいは誰かの気遣い、それも致命的なほどぼくの心に染みる気遣いに相見えた時、あぁ魔女みたいだと、思うようになった。
 例えばそれは、「家族のためだから働ける」と言った父を見てもそうだ。魔女がもし働いて人間を養うのなら、「君のためだから働ける」と言うだろう。それはほとんど魔女の本心ではない。正確に言えば魔女は、「君」と友達となるという自分自身の目的のためなら働くことが出来る。彼女は「愛してると言えば君が喜ぶと思った」なんて言い出すタイプの存在だ。一人の人間を自分に引きつけるためなら、心にもないことを平気で言う。だからこそ人を救える。
 もちろん父は魔女的な性質の持ち主ではない。たぶん本気で言っているのだろう、ぼくには信じられない価値観だけれども。しかしそういった本来魔女とは異なる存在からでも、魔女を連想することが出来るようになったというのは、かなり大きな進歩だった。
 より近いことで言えば、友達かつ女性である相手に、ホワイトデーのお返しを送った時のことがある。ぼくは贈り物を選ぶことが凄まじく苦手なので、おそるおそるその品を渡した。すると相手の彼女はぼくのおそるおそるの心を嫌でも感じただろうから、善人である彼女は、ぼくの選択を褒めてくれた。
 それはぼくが、きっと人は本当に心の底から思ったことしか口に出さない生き物なのだ……と本気で信じ込んでいれば、この人がぼくのことを救ってくれる人なんだ……と思い込みかねないような、非常にクリティカルな言葉だった。だから思う、あぁ魔女のようだと。魔女は狙ってそういう言葉を口にする。そうやって人に気に入られることで、魔女なりの「友達」を得ようとする。
 そして大前提として、人間はぼくを救わない。救えない、無理がある。それは魔女がこの世に実在しないことと同じくらい、およそ覆せるとは思えない前提だ。
 魔女のやり方は手段を問わない、ほとんど何でもする。気に入られるためなら何でもすると言うとヤンデレの類に聞こえてしまうけれど、それとは決定的に違うことこそが魔女の特徴であり、何にも代えがたい魅力である。魔女は何をしたところで、何とも思わないから、何でもするのである。
 いくら人間の価値観で見て魔女のそれが、破滅的で自暴自棄の献身に見えたとしても、魔女にとってそれは何でもないことなのだ。不死である彼女は死を恐れず、痛みや恐怖を刺激的な感覚と捉えたり、嫌であれば一時的に意図して断ち切ったりする。だから平然となんでもする。人間的価値観では屈辱的なことを魔女は何とも思わず、人間には到底許せないはずの行為を魔女は涼しい顔で受け入れる。むしろ彼女が「面白い」と思えば、人間の心さえ彼女を楽しませるコンテンツになる。
 つまりは化け物。当然ながら魔女とは化け物である。人の姿をして人の言葉を話し、しかし人ならざる者。それが魔女。だから魔女には人が救える。人間よりもずっと救える。そもそも人間に、人間を救うことを期待するのは、大抵キャパオーバーなことなのだ。
 ベイマックスという映画がいい例だった。実態はアクション映画であるあれを、ハートフルストーリーかのように宣伝した日本の広告企業を批判する人も多いけれど、その宣伝も含めてあれは完成された表現となっていたとぼくは思う。
 ぼくも言われるまで気付けなかったけれど、あの映画ではケアロボットとして作られたベイマックスが、戦闘マシンにほとんど作り替えられてしまっている。けれどそれはあくまで、心のケアのためのことだ。兄を亡くした主人公の心は、復讐を試みることでしか救えなかったから、ベイマックスは戦闘ロボの側面を持たざるを得なかった。
 ベイマックスという映画は、もちろん復讐そのものを全肯定する物ではない。ただ、復讐を試みるという過程そのものが、人の心を救うために必要なことだってある……ということを表現していたようには思う。やがて主人公が正しい心を取り戻し、復讐心を捨てることとなるにしても、まず「本気で復讐を試みる」という過程自体は必要な物なのだ。だから彼の心のケアをするには、友達として復讐の試みを手伝う存在が必要だった。そしてそれを担ったベイマックスは劇中後も、今度は正義のヒーローとして、未だ主人公の友としての役割を、戦闘ロボの役割を続けているのである。
 このことから言えるのは、人の心を一つ救いたければ、自分のアイデンティティさえ変えなければならない場合もある……ということ。そしてそれは継続しなければならない、ということも言える。また広告と内容の乖離から、人の心を救うっていうのは、多くの人が想像するような「暖かい物」ではない……ということも言える。あの広告とのギャップはまるで、想像と現実とのギャップだった。誰かの助けになれたらいいな、なんて言う善人は、まさか自分が復讐の手伝いをするとは思ってもいないだろう。
 せいぜい人間には、そして人間に作られたロボットには、そのくらい自分自身の存在を賭けて、人生を賭けて取り組まなければ、たった一人の心も救えない。人の心を救うというのはそれほどに重い。想像するよりずっと重い。けれどそれは、当たり前といえば当たり前のことだ。どうして大抵の人間は人間を人間たらしめる「心」という重大な物を、気軽に救えるだなんて思っているのだろうか。
 しかし少なくともぼくにとって、それは改めて言ってもらえなければ気付けないことだった。おそらくは多くの人がそうだろう。かつてのぼくも含めて多くの人間は、人の心を救うということを、どこか軽く見積もってしまう。
 世の中には、人生の片手間に人の心を救おうとするような輩が五万といる。その手の人間の考えをぼくは尊敬できない。むしろ、人の心を軽く見積るその考え方を軽蔑している。一方で、迷える子羊を導く神父の立場を体験して越に浸りたいがために、そんな風に利己的な動機で、他人に「アドバイス」をするような人間だってゴロゴロいる。救いを必要としている人に差し伸べられているかのように見える手は、そのどれもこれもが偽物か、罠の類だ。本物は極小数か、あるいは最悪の場合、魔女と同じく存在しない。
 人間の心を救うことが重いからこそ、あらゆる救いの手モドキが罪深い。仮に心が容易く救える物だったとすれば、片手間や自己中心的に人の心を救おうという考えは、むしろ結果としては大成果を生む正義にさえなる。偽物も本物も区別する必要すら薄れる。けれど現実は基本的にそうならない。心を救うことはいつだって大抵重い。だからこの世の救われている人間のほとんどは、自力で自分を救った者たちなのだと思われる。その重さを背負える理由は、我が身可愛さくらいのものなのだ。
 だから、魔女。人間より上位的存在である化け物にとっては、人の心を救うことなど取るに足らない。我々にとっての超重量は、魔女にとっては取るに足らない。魔女にとって人間の心は軽い。だから片手間でだって救えてしまう。利己的動機の行動であっても結果的には救えてしまう。もしも神が実在していれば、その気になればほんの片手間に人を救えるだろう。魔女がすることも、それと同じことなのである。
 だからぼくは魔女を求める。魔女の良さとは、片手間に人を救えること。魔女が一切苦しまずに人を救えることだ。ぼくは、誰かに一方的に救ってもらいたいけれども、救ってくれた相手がぼくのせいで苦しむところは、それは見たくないのだ。
 だから人間じゃいけない。それじゃ救いが足りない。たとえ実在の人がぼくに良くしてくれたとしてもダメだ。ぼくを救おうとする人間は必ず苦しむハメになる。ベイマックスアイデンティティを歪めることを平然とやってのけたのはロボットだったからで、人間が同じことをするとそれは苦痛になる。ぼくはそれを見たくない、そんな物を見せつけられながら救われるはずがない。
 だから魔女、鼻歌交じりにぼくを救ってくれる魔女。もうそれしかない。逆に言えば、平気な顔でぼくを救ってしまえる人間がいたら、その人はもはや人間ではないように思う。けれど別にそれでもいい。ぼくが幻覚なんか見なくたって、その人に超常の力がなくたって魔法が使えなくたって、精神だけでも魔女である存在がぼくを助けてくれるなら、なんだ魔女は半ば実在したんじゃないかと、考えを改めるだけでいい。ぼくはきっとかなり救われるだろう。
 けれどもそれはあり得ない。人間はどこまでいっても人間で、魔女はその精神だけを見ても非実在の物だから。だからぼくだけが魔女に触れるしかない。実在しない物に、触れたつもりになって救われるしかない。
 幻覚は何か実在の物に見い出せばいいという話はした。ならばその何かとは、人間だろう。近しい物に見い出す方が楽に決まっている。なぜなら魔女の体そのものは人間と変わらず、人間になら誰だって、少なくとも物理的には触れられるからだ。
 魔女を見て、その声を聞いて、そしてそれを人間に投影することで触れる。ぼくが目指すのはその一連の物であり、やはりどう考えてもそこに至るために必要なことは、まずは正気を捨てることとしか思えない。けれど、魔女の妄想に勤しむ人間はそもそも正気なのだろうか? ほんの少しだけ気が触れているとは思えないだろうか。ぼくは一ミリくらいなら、魔女に近付けていないだろうか……?
 ぼくはいつか必ず魔女に触れる。それしか救われる方法がないから。しかしそもそも、ぼくは何に苦しんでいて、救われるとは何なのか。ぼくの欲しい物とは具体的に何なのか。魔女はそれを内包していると思わしき存在に過ぎず、魔女自体は救いの内容の、具体的な答えではない。自分の性欲が何であるのかわからないように、自分が求めている救いの実態も、実のところわからない。ただそれがどこかにあるだろうとだけ確信している、性欲を満たすことは理論上可能だと確信しているように。
 ……が、そんな物はどうでもいいのである。そんな風な、答えがぼくにも分からないだとか、上手く言葉に出来ないだとか、どうすれば幸せになれるのか分からないなんてことは、それらのことなんかはもうどうだっていい。魔女もそれを理解することはないだろうし、理解しないのにも関わらず、その圧倒的力でぼくを救ってくれるだろうから。それに身を任せればいいだけで、魔女にさえ触れられてしまえば、あとは難しく考える必要などない。
 ……正直なところ、そう思っておくこと自体が、今のぼくにとって必要なことなのだ。復讐の達成ではなく試みが必要だったように、魔女に触れることではなく触れようと試みることが、今のぼくには必要なように思う。
 だから、そんな一歩引いた視点を持っているようでは、そんな正気の様では、魔女に出会える日はまだまだ遠い。触れるどころか、その姿を見ることさえ、声を聞くことさえ出来ない。現に出来ていない。ぼくは「きっと魔女がぼくに話しかけるなら、こんなことを言うだろう」と考えることは出来ても、実際に音としてそれが聞こえた試しは一度もないのだ。道のりは果てしなく長い。あるいはぼくはずっと、目の前の壁に額を擦りつけながら足踏みをしていて、その壁がほんの一ミリ前にずり動いたような、そんな気がしているだけなのかもしれない。
 けれどいつかやって見せる。何度も言うけれど、ぼくにはそれしか希望がないから。やるしかない。ぼくが社会に出て、自立出来るようになれば、それでぼくの何かが救われると思っているような真人間の言うことに比べれば、まだマトモな計画と言えるだろう。
 酒の飲める歳でこの言い回しは滑稽だけれども、大人はみんなぼくの自立を見て、あぁよかったと言いたいだけの、自分が安心したいだけの人たちだ。他人のためを思う善人のような体を装っては、ぼくと同じように自分のことだけを考える類の、我が身可愛さ以外ではなんとも肯定し難い存在だ。もしかして、人間がみんなそうなのか? だとすればなおさら魔女を探さなければならない。探して、見つけて、触れなければ。
 精神が好調なうちなら魔女は必須ではないと言ったけれど、不調になった瞬間から魔女が見えるくらいに完璧な準備をしておかなければ困る。こちらの身が持たない。
 みんなは例えば、ぼくがぼくにしか見えない銃を背中に突きつけられて脅されていたとして、そのぼくの口から、真人間のように社会で自立した上で「幸せです」という言葉が出れば、それで満足するのだろう。ぼくを自立させようとするみんなのそれは全部自分の良心のためだ。自分の良心が可愛いいからぼくを生かしてくれている。自分の良心のためなら何でもするに違いない。だからぼくはその良心を食い物にしているわけだが……。
 魔女に触れることが出来れば、それさえ出来ればいい。ぼくにしか見えない物は、脅しの銃ではなくて、救いの魔女であるべきだ。真人間の良心にも、あるいは悪意にも、社会にも、ぼくは何一つ勝てない。良心を食い物にすることはその場しのぎのことでしかなくて、いずれどうにもならなくなる時が来る。だから魔女に触れられなければ困るのだ。ぼくには、その都度適当な人間を見つけて、その人を食い物に出来るような技術も根性もないから。
 ……最近は、魔女は夢の中にいるのではないかと思うようになった。眠っているうちに見る夢の中だ。考えてみれば、夢の中とはぼくの頭の中だけの世界なのだから、あらゆる意識に認識されるような「パブリックな世界」である現実に比べたら、夢の中の方がよほど魔女を見つけられそうだと思う。どうして今までこれに気付かなかったのか分からない。ただぼくはほんの少しだけ、夢で魔女を見た気がしたから、それに気が付いた。
 ほんの少しだとか、極々稀にだとか、あるいはそれなりの頻度だとか、結構な確率でだとか、そういった物ではダメだ、全てダメだ。眠っている間だけの時間。その時間の間だけは、確実に魔女に触れられて、その間ぼくは救われる。そういう形でなければ。しかし仮にその形に落ち着けるというのなら、ぼくはそれで妥協するべきなのかもしれない。
 ……いや、その夢を足がかりに、現実でも魔女に触れられるだろう。そうに違いない。大切なのはステップだ。妄想を重ね、現実に魔女を当てはめるのではなく、現実から僅かずつでも魔女を感じるようになること。そこまでは出来ている。そうやって魔女とそれ以外の区別を曖昧にしていって、まずは夢で魔女に触れて、そしていよいよそれを現実でも行う。そういったステップが必要なのだ。一段目には登っている、いずれ最後までたどり着ける。
 問題は、ぼくが途中で諦めないかということだ。魔女に触れることの試みと、友人などの存在を天秤にかけなければならない時が、そういったようなことが仮に来るのだとすれば、ぼくはそれでも魔女への野望を選べるのか……? 一度触れられた魔女を捨てることだけは絶対にしないと、自分の書いた小説を通じて心に決めたけれど、まだまだ遠い魔女への道のりそのものへ、それと同じようにしがみつけるのだろうか……?
 正直自信がない。だからこの試みは失敗するかもしれない。達成出来ないかもしれない。まあ、仮にそうだったところで、自分が救えないことは今に始まった話でもなく、それが元に戻るというだけのことでしかないのだけれども。





 いや、何と天秤にかけるまでもなく、この試みは失敗するだろう。試みを構成する要素の全てが、漫画やゲーム等のフィクションを参考としているからだ。
 フィクションが現実に即する時はある。あるけれど、いつもじゃない。フィクションのフィクションたる所以は、大部分が「現実に即さない」という意味で「嘘」であることだ。一方で現実の現実たる所以は、隅から隅まで寸分違わずありとあらゆる全てのことがいつ何時でも「現実に即している」こと。
 現実を参考にすれば、現実のことは正しい視点で見られるだろう。現実が現実ではない時など存在しないからだ。反対にフィクションが現実ではない時など五万とある。その大量の嘘の山から、ぼくは偶然にも現実に即した真実だけを抜き取ってきたのか? まさかそんな異次元の幸運なんか発揮しているわけもない。
 フィクションを参考にして現実を見ようとすると大抵失敗する。魔女に触れる夢だってそうなるだろう。問題はそこからだ。失敗に成功を孕ませるべく、次の考えを始めなければならない。フィクションを参考にして失敗した現実とは、現実なのだから、今度はそれを参考にすればマシなことが出来るはず。
 今はまだそんな先のこと、これっぽっちも考えられないけれど。