「3分」の読み方は。

 普通の人は「3分」を発音する時、何と読むのでしょうか。「サン「プ」ン」でしょうか。ぼくは「サン「フ」ン」です。このことについて、ぼくは自分が正しいと信じて疑いません。

 昔、父とこの件について喧嘩したことがあります。何気ない会話の中でぼくが「サンフン」と口にしたことで、父がそれを「サンプン」と訂正したことが始まりでした。

 どちらでもいいだろうと言うぼくを父は否定しました。「3分」は「サンプン」以外の何物でもないのだ、1分がイップン以外の何物でもないように。じゃあお前は、2分をニプンと読むのか……と。

 サンフンという発音は他人に違和感を抱かせる。お前が2分をプンと発音する人物に対面した時に抱くであろう違和感と同じ物を、サンフンは他人に抱かせる。意味は伝わるかもしれないが、すんなり受け入れることはできない。社会に出た時に、学校の友達や先生などとは違った立ち位置の人と関わるにあたって、そんな余計なところで不和を起こしてほしくない。……といったようなことを父は言いました。

 ぼくはそれが頭にきて、そこから喧嘩になりました。だってぼくは3分はサンフンだと思っていたのです。ぼくからすれば、間違ったことを言うやつが「俺の言うことこそ常識だ」と言ってきた風に見えたのですよ。それが身近な相手なら、そりゃあ抗戦するでしょう。

 ぼくの反論は以下のような感じでした。

「不和を起こすのは、むしろあなたのような人間だ。今、噛みついてきたのはそちらだ。違和感を抱く側が不和を起こす、改める必要があるとすればそれはそちらの側だ。あなたの言うところの、大多数を占めるサンプン派だ」

 実際これは苦しい言い訳でした。仮にサンプン派が多数派だとすれば、どちらが正しいという話ではなくて、現実問題その多数派たちとどう付き合っていくかと考えたなら、やはり少数派が合わせていくしかないわけですから。

 ぼくは自分の負けを自覚しました。けれども、それで終われないほど悔しかった。この父を、思い上がったサンプン派を、徹底的に打ちのめしてやらなければ。と、その時は確かに思いました。

 ただ結局、さすがのぼくも、そんな憎しみは一晩寝れば風化しました。なのでぼくが3分の読み方問題を本気で調べたのは、それから半年くらい経ってからのある日のことだったのです。偶然何かの拍子にその話題を思い出して、本気で調べるという名の、ググる作業に入ったわけです。

 調べ始めた時には、風化したはずの憎しみが帰ってきていたような気がします。実際に父と言い争った時のリアルタイムな物に比べれば、いくらか小さくはなっていましたけど。

 

 調べた結果、ぼくに理解できる話は以下の物だけでした。すでにネットに投稿されていた、ぼくと同じような疑問を抱いた人に対する、誰かからの回答でした。

「3分は、普通サンプンと読みます。しかし、なぜそう読むかというと、それが一番読みやすいからです。それ以上の理由はないので、本気でサンフンの方が読みやすいという人がいるなら、それはそれで別にいいのではないでしょうか」

 言ってしまえばヤフー知恵袋のやり取りなので、信用性は定かではありません。けれども、それでもショックでした。ぼくは言う側に立つ時はともかく、聞く側に回った時にはサンプン派を受け入れてやろうと思っていたのです。

 それが、普通は逆だと言われたのです。ぼくの方が、慈悲の心でもって容認「してもらう」側だと言われたのです。

 父が正しかったのか。ぼくがおかしいのか。これ以上の話は「そもそも日本語の歴史とは」みたいな難しい話が出てくるばかりで、ぼくに理解できるのは知恵袋がせいぜいでした。敗北を認めるしかありません。打ちのめしてやらなければと思った相手に、容認してもらいながら生きていくか、自分がサンプン派に変わっていくしか、もはや残された道は……。

 ……が、しかし、その時です。ぼくに革新的な閃きが降ってきました。ピタゴラスイッチの1コーナーが、1本でもニンジンの歌が、ぼくに神託を授けたのです。

 やはり自分が正しい。そう確信を得るに至った閃きが、以下の物です。

 

 時間の単位である「分」は、「フン」と「プン」二通りの読み方をします。一分ならプンですし、二分ならフンです。

 この時、「プン」と読む可能性のある物は、以下に挙げる物たちだけになります。

「1分=イップン」

「6分=ロップン」

「8分=ハップン」

「10=ジュップン(ジップン)」

 一方、「フン」と読む可能性のある物は、残りの物たちになります。

「2分=ニフン」

「4分=ヨンフン」

「5分=ゴフン」

「7分=ナナフン」

「9分=キュウフン」

 さて、こうして2パターンに分けた時に、3分はどちらに属するでしょうか。

 重要なのは、3分をサンプンと読もうがサンフンと読もうが、そこに「ッ」は登場しないことです。プン読みのリストを見てください、すべてに「ッ」が含まれているでしょう。一方、フン読みのリストに「ッ」は一つも含まれていません。

 3分は、この法則に従うのなら絶対にフン読みなのです。 

 

 ……この「ッ」の法則に気づいた時、ぼくはもう本当に、法律で裁けない悪を滅ぼした気分になりました。何をどう考えたって3分はフン読みだろうと主張するための材料を手に入れたのです。

 この材料を跳ね除ける主張を、父はきっと持っていないでしょう。なぜなら父は「それが普通だから」の一つ覚えで、「なぜ普通なのか」という具体的な根拠を何一つ出せないからです。まさか日本語の歴史が、なんて話をしてくるはずもありません。

 勝ちを確信しました。大きな態度で我が物顔して間違ったことを「常識」だと騙る巨悪を、ぼくが大逆転劇の末に打ち滅ぼす時が来たのです。謝らせてやるとまでは言わないけれど、父にぼくが正しかったことを証明してやる……! そう意気込んでいました。

 満を持して、父に上の根拠でもってサンフン派が正しいことを主張します。どうだっ……と、してやったりな風に。

 父から帰ってきた返事は一言だけでした。

「何の話してんの?」

 ぼくがネット検索に乗り出すまでの半年、閃きを得るまでの半年の間に、父はすっかりこの話題について忘れていました。それほど父にとっては、多忙な社会人にとっては、人の親にとっては、これはどうでもいい話だったのです。

 あれを喧嘩だと認識していたのも、ぼくだけだったのかもしれません。やり場のない怒りを抱えたまま、この話は「時効」にて決着しました。

 

 

 最近久しぶりに、スマートフォンをスマフォと略する人を見かけました。そんな時に、ぼくは3分の読み方問題を思い出すのです。3分問題が初めに現れた時から、もう三年以上経っていると思います。

 略称というのは短く読みやすくするためにあるのであって、言葉として正しいかどうかというのは二の次だとぼくは捉えています。スマホという略称に「「スマートフォン」のどこに「ホ」があるんだよ!」と言い出す人は、略称の本質を見失った憐れな人だと思っていました。

 しかし憐れに思うことには、スマフォよりもスマホの方が言いやすいというぼくの価値観が前提にありました。略称というのは、短く読みやすくするためにある。スマホよりもスマフォの方が、本気で言いやすい人もいるのではないか……? 3分の読み方問題との深い関連性をここに感じます。

 スマフォ派の人にとって今のぼくは、3分問題の時にぼくが見た父のような人物に映っているのではないか。スマホ派が多数は気取るなよ……と、自分たちを迫害する憎しみの対象として。

 そしてスマフォ派の人たちが、鬼の首を取ったようにこう主張したら。

スマートフォンという言葉の中に「ホ」は存在しない。よって、略称として正しい物はスマフォである。これに異を唱えるのならば、原型となる言葉の中に本来存在しない文字が使われる略称の例をスマホ以外に挙げてみろ」

 もしそんな主張をする人が現れたのなら、その人は「ッ」が云々と主張していた時のぼくと同じです。

 ぼくは、なんて馬鹿なことをしていたのだろうと、その時やっと気付きました。

 例えば我々が「カップラーメンは3分で完成します」と口にする時、我々が伝えたいことは「カップラーメンは3分で完成すること」のはずです。決して「自分は「3分」を正しく発音できます」ということではないはずです。

 言葉はコミュニケーションツールなのです。クイズの問題ではありません。意味が伝わっているのに「その発音は間違っている」と糾弾するようなことは愚かなことなのです。本質を見失っています。その上余計な争いを生んでいます。

 これは挨拶も同じことです。微妙な時間帯に「こんにちは」と挨拶したことを「この時間帯は「おはようございます」でしょう」と訂正する人は、挨拶が何のためにあるのかを見失っています。挨拶は円滑なコミュニケーションのためにあるはずです、お互いが気分よく過ごすためにあるはずです。相手の挨拶への訂正は余計であるどころか、挨拶の本来の意義を損なうことにさえなります。

 我々は、言葉のクイズ大会を無意味に開始してはならないのです。それはまったく無駄であるか、もしくはコミュニケーションの障害となるからです。ようやくそのことにぼくも気が付きました。父はもちろん全ての人はぼくのサンフンを訂正するべきではないし、ぼくもまた誰かのスマフォを訂正するべきではないのです。

 しかし、そう結論付けると新たな問題が発生します。ぼくは、そして全ての人は、果たして2分をニプンと発音する人のことを、何の違和感もなしに受け入れられるのでしょうか。

 状況を問わず3分を必ずスリーミニッツと発音する日本生まれ日本人の場合でもなんでも、とにかく違和感を覚えそうな発音をする人がいた時のことを想像してみてください。その人になぜその発音をするのかと聞くと「言いやすいから」と返ってきます。我々は、その人のことを他の人に対するのと同じように受け入れることができるでしょうか。

 ぼくなら、そんな人とはあまり関わりたくないと思います。変な人に関わって良いことがあるケースは、悪いことがあるケースの何百分の一の確率だと思っているからです。この考えに賛同する人が全人口の何パーセントいるのかは分かりませんが、そう少なくないのではないでしょうか。

 おそらく我々が言葉を聞く時、その意味がすべて正しく伝わっている前提で、我々が感じることは3パターンに分かれるのです。

「違和感なく受け入れられる」

「違和感はあるが受け入れられる」

「違和感があって受け入れられない」

 3分の読み方問題は、せいぜい2番目の「違和感はあるが受け入れられる」話だったのだと思います。少なくともぼくにとってはそうでした。父にとっては1番目の受け入れられない物だったのかもしれません。

 相手から飛んできた言葉が、この3パターンのうちどこにカテゴリ分けされるかは個人差があります。より多くを受け入れられる人もいれば、受け入れられない物が多い人もいるでしょう。そしてその「受け入れられない」がお互いで一致しなかった時に、我々は争いを起こす場合があるのです。

 要するに、我々には言葉の価値観の相性が存在するのです。その相性が食い違ってしまえば最後、どんな理屈を並べて何が正しいのかを証明したつもりになったところで、お互いに分かり合うことはできないのです。

 だって考えてみればぼくだって、仮に「2分」の学問的に正しい読み方が実は「ニプン」であるという事実が存在していてそれを知ったとしても、その後も2分をニプンとは絶対に一生読みません。誰でもそうでしょう? 正しいと分かれば、どんなに違和感があっても正しいことに従う人なんて、ほとんどいないはずです。

 正しさを証明することは、言葉の違和感を語るにあたって何の価値もないことなのです。そして正しさが無意味であることが判明しているのに、言葉の違和感についての相性の悪さを解決してくれる他の物を、ぼくは何一つ知りません。諦めるしかないのだと思います。

 誰か一人の発するすべての言葉に違和感を抱くことなんてないでしょう。相性の悪さが露呈するのは極々限られた場合のみです。もしかすると、相性の悪さが見えないまま一生を終えられるような相手だって見つかるかもしれません。確率の話だけで言えば、これはそれほど些細なことなのです。だからこそ、諦めるしかないという結論に至ったとしても、少なくともぼくはギリギリ納得することができます。

 絶対に人と分かり合えない部分が僅かとはいえ確実にあるなどという事実は、何千何百という人間と密接に関わるわけではない我々にとって、きっとそんなに悲観することではないのです。仮にテレパシーを使ってでさえ人間が分かり合えないとしても、それはそれほど問題視することではないのです。それが問題として自分の前に立ちはだかることなんて稀でしょうから。

 ただ、自分の親との間にその些細な問題が発生したことを、ぼくが受け入れられなかったというだけで。