チェンジ、チャレンジ、トートロジー

 世の中には「ニートの社会復帰をサポートする施設」がたくさんあって、ぼくも現在そこに惰性で通っている。

 なぜ惰性なのかというと、それはぼくがすっかり「働く気力」を失ってしまったから。初めは、

「進学も就職もぼくには無理だ」

 と親に告げていろいろあった末の高校卒業後、人生初バイトを始めるとっかかりを作ろうとその施設へ通い始めたぼくも、今では働く気力を綺麗さっぱり失ってしまった。

 現状、初バイトの勤務十日目にてばっくれた身としての感想は、とても、とても働きたくない……その一言に尽きる。そして、施設はあくまでも「働くサポートをする場所」であって、つまりは「働く意思のある者の手を取ってくれる場所」なのであって。だから本来、そこはすでにぼくの通うべき場所ではなかったりする。

 ではなぜ未だに通っているのかというと、それはぼくが「絶対に働かないからな」という意思をかなり前から示しているのにも関わらず、施設の職員が、

「わかったわかった。で、来週は〇曜日の~時でいい?」

 と、次の予約を向こうから入れてくるからだった。

 もちろんぼくには拒否権があるし、ばっくれたまま一切の連絡を無視することもできる。けれどまあ、週に一回1時間のお喋りをするために、自転車で往復1時間未満程度の距離を移動するのは、別に特別断る理由が生まれるほどつらいことでもない。……というわけで、惰性による「通い」が発生した。

 働く気のない人間が「働きたい人をサポートするための施設」へ通って何を話すのかと言えば、それは「最近なんか面白いことあった?」という類の、いわゆる世間話しかなかった。ぼくは毎週毎週、隣駅まで赴いては、世間話をして帰ってくるのだ。

 真面目に週5くらいのペースで施設へ通って勉強して、真剣に社会復帰を目指している人からすれば、ぼくのような人間は目障りで仕方がないのではないか。行くたびにそう思っていたけれど、思ったところで行動を改めないところがニートらしい。

 ……という話を、実際に真面目にその類の施設へ通っていたネットの友人(ぼくと同じ施設ではなく、遠方で似たような場所に通っている似たような社会的立場の人)に話してみたところ、かなりショッキングな感想をもらうことになった。

「それ、時間の無駄では……?」

 嫌味とかではなく、純粋に「あなたの幸福のためにも、そんなことをする時間があるなら家でプリパラでも見ていた方がいいのでは……?」という趣旨の感想だった。

 その感想のおかげで、ぼくは自分がニート生活になじみすぎて「時間の無駄」という概念を失っていたことに気が付くことになった。

 言われてみれば本当にその友人の言う通りで、ぼくがわざわざ施設へ行ってする話といえば、ツイッターに書きこむ価値さえ疑わしいような、くだらない内容がほとんどだった。それに、なんとか働く気になってはもらえないかと向こうが提案してくる案だって、現在ではどれも、

「ボランティアしてみたら?」

「寺を巡ってみたら?」

「海外旅行に行ってみたら?」

「九州(上記の感想をくれた友人が住んでいる場所)へ行ってみたら?」

「知らない駅で降りて散歩してみたら?」

 といったヤケクソな物になっている。それはヤケクソにならざるを得ないほどやる気の欠如したぼくも悪いのだけれど、

「どうして金もらっても働きたくない人間が、無償で働くと思うんですか……?」

「寺ね……。寺には興味がないし、寺を巡って働けるようになるなら、ここに通っている人たち全員で観光ツアーへでも行けばいいんじゃないですか? 大仏の中にハロワを開きましょう」

「日本語が通じない場所へ行くことの苦行は労働のそれと同じなんですよ。何が筆記体だよクソが」

「九州行くのはまあいいですよ、楽しそうですし。でも、それ帰りたくなくなりません? 自腹で楽しい場所に行くのはいいとして、自腹で現実に帰ろうとは思えないじゃないですか。失踪しますよ」

「とにかくぼくを外に出したいのは分かるんですけど、寺から始まり海外にまで広がった話が、最終的にただの散歩にまで妥協されるのも面白いですね。もう一押ししてグーグルアースくらいまで妥協してください」

 ……というような会話が延々続くだけでは、そこに何か意味があるとは思えない。なぜか言われるまでまったく気が付かなかったけれど、本当に「時間の無駄」以外の何物でもない物が、毎週毎週ずっとそこにあったのだ。

 ……という話をそれとな〜く、施設に行った際の世間話の一環として職員の人に言ってみたのだけれども、結局最後は「で、来週〇曜日の~時でいい?」と次の予約を取る流れになったので、何かが変わるということは全くなかった。

 そもそも時間の無駄だと言ったって、その無駄な時間を削ってまで他にしたいことがあるのかといえば、なにもない。プリパラもガルパンも今まで通りの生活で十分視聴できるし、他にしたいことは思いつかない。無駄を削るにしても、ぼくは今一つモチベーションに欠けていた。無気力だ。

 時間の無駄を削ったって、結局また別の方法で時間を無駄にするだけ。だからやっぱり、世間話を断る理由もない。そういう結論になってしまった。しかしその結論が有意義だとも思えなかった。将来がどうのこうのという話をされるよりもよっぽど、こっちの方が「このままではいけない」という気持ちにさせられる。

 そんな気持ちになっただけで何か行動を起こせる人間は、そもそもこんな状況に陥らないのだけれども。……とにかくそういうわけで、惰性の期間は長引いていった。 

 

 ……ところで、この前の世間話(建前上は面談)に行った際に、新たなヤケクソ提案シリーズが更新されたのだけれど、それは、

「女装してみたら?」

 という物だった。

 説明すると、さすがにその「女装」というキーワードは何の脈絡もなく出てきた物ではない。そこには以前のぼくが、

「美少女に生まれ変わりたいんですけど、それだけだとニート云々を抜きにしても通常の生活に支障が出そうですし、美少女と今の姿を自由に換装できるようになりたいんですよね。でもそれは不可能だとガンダムのゲームがぼくに告げているんです」

 というふざけた話題を暇つぶしに出した……という経緯があった。詳しくはこのブログ内にある「一切の苦労なく美少女になってみたい」という別記事を読んでもらえれば、ぼくの施設でのお喋りにどれほど意味がなかったのかを確認してもらえることと思う。

 ……まあそれはともかく。そんな経緯をもって放たれた「女装してみたら?」という提案は、明らかに今までのヤケクソ提案にも共通する「ある理論」によって職員の口から出ているということが察せられた。

 つまり、

「行動から変えれば心も変わるはず」

 という理論のもと、職員のおじさんは世間話の一環として、ぼくに様々な提案をしてくるのだと考えられる。逆にそうでなければ、そんな提案をする意味が分からないから。

 それが分かっているから、ぼくは真面目に取り合わない。女装の話にだって、本当なら今までと同じように「そんな行動力がある人はニートにならないんですよ」と返すところだったのだけれど、しかしいろいろとタイムリーなこともあり、今回ばかりはちょっとだけ話を広げることになった。

「いや、時代はバーチャルですよ。女装よりも美少女の二次元モデルを、声を手に入れるのです」

 といった具合に、思わず話を広げてしまった。話を広げたくなるほど画期的な勢いをもって、その当時インターネットの世は、まさに大バ美肉時代だったのである。

 その話題はそのまま魔王マグロナというバーチャルユーチューバーの話に移行した。そして興味がない人にとっては非常にどうでもいい話を経由したあと、とにかく最終的に出た結論としては、

「バーチャル美少女になるのは金がかかる。それは女装も同じだ。そしてどちらも金銭的な問題だけではなく、技術的な問題まである。働いて金を得てからそれらの趣味を叶えるならまだしも、働く気力を得るためにそれらを叶えるというのは、金を稼ぐための行為を実行するために金を稼がなければならない……という時点で破綻している」

 と、いつも通りの「だから何もしない」という着地点に収まっていった。……そこでぼくは、そのやり取りを経て改めて思うことがあった。

 施設にしろ個人にしろ、仕事にしろプライベートにしろ、良心にしろ義務感にしろ、ニートが社会復帰をするための手助けをしてあげようとする「真っ当な生き方をしている人たち」に共通して何かがおかしいのは、

ニートの社会復帰には自己の変化が必要である→なら社会復帰をするには自己を変化させるしかあるまい。」

 という至極当たり前なことを、大真面目な顔をして言うことだ。

 寺だの、海外だの、国内旅行だの、女装だのバーチャル美少女だの、そんなことを「よーし、やるぞ!」の意気込みでできる人は、そもそもニートになんかなっていないのではないか。仮に一瞬なってしまったとしても、すぐに復帰するのではないか。

 根っからニートの精神に染まった人間にとって、社会復帰とは自分自身を変化させることと同義になってしまう。だから「社会復帰=自己変化」であるのに、「社会復帰を行う」ためには、「自己変化を起こせ」と周囲の人間から言われる。ぼくはそれをおかしいと思った。

 上っ面の形が何であれそんなアドバイスでは、社会復帰がしたいのなら社会復帰をすればいいのに……と言われていることと同じである。そんな意地の悪い言い方をするくらいなら、お手上げだと、はっきり言ってくれた方がいくらかマシだ。

 施設にて、

「そもそも皆は、ぼくが真っ当に働き、自立して生きられるようになることをゴールだと思っているようだけれど、違いますからね。ぼくのゴールはぼくが幸せになることであって、幸せと真っ当な生活がイコールで結ばれていないから、働きたくないって言ってるんですよ」

 なんて話もしたけれど、その話の後はまた、来週いつ話すかの予約を入れられるだけで、何も変わることはなかった。

 施設側が何を考えているのか、ぼくには分からない。ぼく自身、自分が何をしたいのかもはっきりとは分からない。けれど少なくとも、社会復帰のために自己変化を求めることは、論理が破綻していると感じた。

 聞きかじった話、「AはAである」といったような言い回しを「トートロジー」と呼ぶらしい。ニートをなんとか浄化したい大人たちにはいい加減、そのトートロジーをやめてほしい。しょうもない世間話を繰り返した末、なぜか急に、そんなことを思った。

 働きたくない。しかし働かなければ生きていけない。働きたくない気持ちを和らげるため……つまり生きるためには、自分が変わらなければならない。自分が変わるためには、今までと違うことに挑戦しなければならない。

 ……なんて、まさか「働くこと=挑戦」であることに気が付かない人間なんて、いるわけもないのに。

 働くためには働くことが必要だ。そんなことを言われても、困るだけで、何もありがたくない。そう思った途端、世間話に本気で嫌気がさしてきた。

 

 

※追記

 この記事を書いたあと、6月20日付近にぼくが「ここ来る意味あります?」としつこく話した結果、次に施設へ行く予定日は7月末にまで大きく飛んだ。

 その日には他に、ぼくから、

「どうも全部が面白くない。熱中できると思った物を見つけては、数日から数週で飽きてしまう。毎日やりたいゲームや見たいアニメがあった学生時代の心を返してほしい。興味が持続しない」

 という話をしたところ、返された言葉が、

「楽しいと感じることを、価値観から変えていけばいいのでは? 例えば仕事に追われて働いてばかりいる人が、何もすることのない休日をもらえば、その日君が「退屈だ」と思うタイミングで、その人は「幸せだ」と思うでしょう。楽しさや幸せを多く感じたければ、価値観を変えればいい」

 というものだったので、6月25日現在の感情に従う場合、ぼくは7月末の予定日に施設へは行かないことを選ぶだろう。

 要するに施設の相談員は、ぼくの口から「幸せだ」という言葉が聞ければいいと思っているらしかった。

 口というのは、ぼくの心を声に変換する器官でしかなく、間違っても「心その物」ではない。しかし相談員は「ぼくの口」から「幸せだ」という言葉が聞ければ、それで良いらしかった。もしかすると全ての大人がそう考えているからこそ、ぼくに働けと言うのかもしれない。

 仕事に追われることで、今まで退屈としか思わなかった時間を幸せと感じるようになる。そんなことを「良い事」だと捉えるような、そんな人たちにとっては極論、誰かがぼくを脅して、ぼくが自立した素振りを見せながら「幸せだ」と言わされてしまえば、それで満足なのかもしれない。

 仕事に忙しい人は、本来退屈な物を、忙しさに脅されて幸せだと言っているのだとぼくは思う。考えてみれば分かる話だろう。腹が減っていた方が飯は旨く感じるけれど、いつも腹を空かせている人といつも腹が満ちている人、どちらが幸せ者なのか。

 人の価値観を意図的に変えることが許されるなら、だったら別に、ぼくが誰かを脅して、その人がぼくを養うことで「幸せだ」と言えるようにしてやっても良いのではないか。そうすればぼくも労働から解放されて、望み通りこの口から「幸せだ」と言うことが出来るだろう。

 幸せになりたければ価値観を変えろというのは、そういう話だと思う。人の価値観を意図的に変えようとすることは「悪」だ。……こんな世間話をするくらいなら家でアニメでも見ていた方が有意義だという指摘は、本当だった。