Z指定が、魂の力を表現するマシンなら……。

※この作文は書かれてから公開の間に二か月以上が経過しています。




 数年前のアメトークで、バカリズムが要約してこのような話をしていた。

「オムニバス形式のAVが暗転した時、画面に悪魔のような顔が映った。反射した俺の顔だった」

 この話で言う「悪魔のような顔」とは、無表情のことだ。しかし悪魔と例えるからには、単なる無気力ではなく、何か迫る物のある無表情だったのだろう。
 そういう話は、少なくとも男性にとっては、いわゆる「あるある系」の笑い話だけれども。ところで次の話を聞いてほしい。風俗嬢の語る嫌な客……という、これもまたよくあるテーマの話。その一部にこんな内容があった。

「それとこれは別に嫌ではないんだけど、無表情でただ黙々と乳首をいじってくる人は、それ楽しいの……? と思ってしまう。楽しくないならやめてほしい」
 
 さて、バカリズムの話を思い出してほしい。そう、男性はエロに向き合う時、基本は無表情なのだ。画面に反射した自分の顔が、にやけていたり鼻の下が伸びていたりという話は、あまり聞いたことがない。シチュエーション自体はあるあるなのにも関わらず。
 無気力の無表情と、真剣の無表情を区別してもらえないと、「それ楽しいの……?」という感想だって出てきてしまう。しかしエロに向き合う男性が基本無表情ということは、エロに向き合う男性は基本真剣だということだ。
 手術を行う医師のように、あるいは全財産をつぎ込んだギャンブラーのように、我々男性はエロに対して真剣で、向き合う時はいつも無表情なのである。
 ……と、まぁ他の人がどうかは知らないが、ぼく個人としては冗談抜きに、エロに対して……というか性欲に対して真剣である。
 性欲には謎が多い。なぜあるのか、どこから来るのか……。そんな宇宙に想いを馳せるような謎もあるけれど、しかし、ぼくは今挙げたような内容には興味がない。もっと言うなら、そんな壮大なことを考えていられる余裕がない。
 ぼくの思う、性欲の最も厄介な謎とは、それは、満たしても幸福感がないことだ。同じ三大欲求である食欲と睡眠欲は満たし終えたあとにも満足感がある。けれど性欲だけは違う。後に残るのは賢者タイムと呼ばれる、満足感とは程遠い感覚だけ。
 実際ぼくは賢者タイムになると、いつも後悔してしまう。エロの何がそんなに魅力的だったのか、これっぽっちもわからなくなって、それに費やした時間や気力を思い返すと、それが急に恥ずかしくなってくる。一人でしていたならまだしも、相手がいた場合なんかなおさら、申し訳ないという気持ちが湧いてきて、満足どころではない。
 男はみんなエロに真剣で、当然ぼくも真剣だ。そこに来る、今まで真剣に向き合ってきた物への熱意が、突然失われる感覚。それがぼくは大嫌いだ。燃え尽きたなんて表現は間違いで、あれは「喪失」でしかない。
 賢者タイムとはよく言ったもので、それが賢くなるということなのだとは思う。本当は、性欲のままに動いている間の全てが、愚かで無駄なことなのだ。馬鹿なことをしたと、全てが終わってから気付く。賢くなる。これが他の欲求・欲望だったら、「失敗」と思うことはあっても、「無駄」なんて思うことはないだろうに。
 適度に馬鹿な方が楽しく生きられる、なんて話もあるけれど、賢者タイムになるとどうもそれが真理のような気がしてくる。そして実際、数時間あるいは数分で、自分は馬鹿に戻る。その繰り返しだ。
 お腹がいっぱいになるまで食べて、お腹が空くまで待って、またお腹いっぱい食べる。そんな食欲の無限ループには幸福感が無限に付いてくる。けれど性欲のループにはそれがない。幸福感はループ一回の道中で、毎回ゼロどころかマイナスに戻る。ぼくはそれがつらい。欲を抑えるのもつらいが、欲のままに動いてもつらいとは、どういうことなのか。どうしろというのか。
 ……ということをずっと思いながら、ぼくは性欲との付き合い方について、少しも上手な答えが出せないでいる。当然、解決策も見当つかない。何度も言うけれどぼくは性欲に真剣だ。けれど、満たしても幸せになれない欲は嫌いだ。そんな物持っていたらつらいから。だからせめてそれを、満たせない欲に変えたい。
 どうにかして酒池肉林をこの手に収めれば、それで自分は満足できるのだ……と確信したい。「どうにかして」の部分の実現が確実に不可能でも、それはそれで別にいい。欲とは大抵そういうものだから。
 今は、仮にこの世の法則をねじ曲げて理想を追いかけても、結局最後は賢者になって、幸福感を失ってしまうような気がする。きっとそうなる。そういうことが見え透いているのは、気持ちとして困るのだ。メンタルに悪い。性欲で病むなんて勘弁してほしい。
 そういうわけでぼくは最終的に、「これが実現すれば、賢者タイムなんか怖くない」と思える物を探して、妄想の世界に飛び立つことにした。もちろん、無表情で。





 一つ仮説を立てた。中途半端に欲を満たすのが良くないのであって、一度これ以上はないというほど満たしてしまえば、満足感が賢者タイムの喪失感を上回るのではないか……という説。
 そうと思ったからには、その仮説をシミュレーションしてみたいわけだけれど、そこで一つ問題が出てくる。いくつか前の記事でちょろっと話したように、ぼくの性欲は趣味が悪い。現実的に考えて、それを全て受け入れてくれる相手なんて、そんな人間はいるはずがない。
 ……というわけで、じゃあ人間を超越した存在がこの世に現れたらどうか? ぼくの性欲は底をついて、賢者タイムを克服できるのか。そう考え始めて、妄想はいきなり宇宙の彼方まで飛躍した。
 逆に言えば、本当にそれくらいでいいのだ。天地がひっくり返ろうと実現しないことでいいから、「これが揃えば」という条件を見つけたい。ぼくはそういう話をしている。
 そして、この発想から生まれたのが「魔女」だった。ぼくはその発想の一部を小説にして、ネットに投稿した。興味があれば読んでみてほしい。いや、興味がなくても気力があるなら読んでみてほしい。
 魔女とは超常的な力を持つ、女性だけの「種族」だ。そういうものとしてこの世に生まれてくる。女性しかいない種族がどうやって生まれてくるのかは、性欲について考える際どうでもいいので、適当にしか決めなかった。つまり魔女の生まれる工程は、宇宙が生まれた工程と同じくらい、人間にはまだ理解できないのである。
 魔女の出自はともかく、現実では例えば莫大な財産が得られるとか、最愛の人からの愛を受けられるとかでもなければ、性欲のはけ口にされても構わないという女性は存在しないだろう。いや、もしかすると、はけ口にされることを良しとする人なんて、どんな条件でも現れっこないのかもしれない。
 そこで、魔女を無敵の設定にした。全ての人間が何かのはけ口にされることを嫌うのは、人間が無敵ではないからである。
 人間が何をしたところで魔女に「まいった」と言わせることは出来ない。その魔女が何らかの流れで、こちらに対して友好的に接してくるようになれば、ぼくは性欲を好き放題に解放して、賢者タイムも吹き飛ばせるのではないか……と考えた結果の設定だ。性行為において「もうしたいことがない」となったことは今までにないから、それを引き起こせば何かが変わるのではないかと妄想した。
 けれど考えるうちに、その線はどうも怪しい気がしてくる。男の自分勝手な性欲や女性のモノ化について真剣に抗議する女性が「娼婦と聖母を同じ相手に求めるな」と言っていたのを見たことがあるが、仮にその二つを持ち合わせる人智を超えた存在がいたとして、じゃあその存在さえ味方に出来ればぼくは幸せになれるのか?
 もしかしたら、なれるのかもしれない。でも、なれないかもしれない。全ての性欲を魔女にぶつけたあと、賢者タイムに苦しまないという「保証」はない。苦しまずに済む「かも」なのだ。ファンタジー極まるフィクションの塊まで引っ張り出しておいて出来がそれでは、現実に生きる身としてはなおさらつらい。
 そもそも、これは自分の中だけの問題なのだ。「性欲による行動の全ては、愚かで無駄なことだ」とするのは、ぼくの意識の話でしかない。つまり社会的に見てとか客観的に見てとか、そんなことをぼくはまるで気にしていない。気にする余裕がない。
 だから現実で「性欲は悪い物じゃないよ」と言ってもらえても、状況は何も変わらない。というか実際、言ってもらえたことがある。それも女性から言われた。自分は恵まれすぎていると思う。
 しかしそれも正直、「あなたは遠くに住んでいて、ぼくと会わないからそう言えるんだ」と思った。実際に性欲を否定されなかったことで、やはり性欲の話は自意識だけの問題なのだと、改めて実感するだけのことだった。
 だとすれば「受け入れてもらう」ことは、賢者タイムの克服に限って言えば、何の役にも立たないのではないか、という話になる。ぼくは欲を受け入れてほしいわけではなくて、自分で自分の欲を受け入れたいのかもしれない。そうだとすれば魔女は、賢者タイム克服の役に立ってくれない。
 ここで今一度言うけれど、ぼくは性欲に対して真剣だ。冗談抜きで真剣、そうならざるを得ない。自分のメンタルのこととなると、人間誰しも真剣にならざるを得ない。
 「受け入れてもらう」という方向性は、賢者タイムの克服として信用できない。それを現実の経験も踏まえて実感したぼくは、次の妄想を生み出した。
 問題ないよという受け入れでダメなら、必要なんだという求められ方をしたらどうだろうか。受け入れられるのではなく、むしろ欲されれば、自分の性欲を悪く思うこともなくなるのでは? 自意識を抜け出して、強引にでもぼくの性欲へ、客観的な価値を持たせてみたらどうか。
 というわけで、次の魔女が生まれた。小説にはしていないけれど、被虐の魔女カッセロという名前は決まっている。一人目の魔女と区別するためにも、今回はその名前を使っていこうと思う。
 カッセロは二つ名から察せられる通りマゾだ。そして「負担という前提を取り除く。魔女を無敵にする」というやり方は変わっていない。一方的にぶつけられる性欲なんてものは暴力でしかないが、カッセロにとってはそれが望むところになる……という寸法である。そしてやはり我々人間は、いくら暴力を用いても、魔女を傷つけることは出来ないのだ。
 しかし、普通に考えて「エッチが好き。相手とプレイの内容は、よほどでなければ何でもいい」という女性が実在していたとして、なおかつぼくがその人と何らかの流れで知り合えたとして、じゃあ実際その人とエッチできるのかというと、それで性欲の問題を解決出来るのかというと、ノーだと思う。
 仮にの話だけれど、誰に何をされてもいいと思っている女性がいたとしても、その人はわざわざぼくにその内心を明かしはしないだろう。そうする理由がない。理由を積み重ねる必要があるなら、その間はずっと、ぼくの問題は解決しないことになる上に、他人に内心を晒すに値するそれ相応の理由を与えられるほど、ぼくが立派な人間なら、魔女なんか妄想しなくたってよかったんじゃないかと思う。
 大方、ぼくが一人で「性欲ってなんだ、どうすればいいんだ……」となっている間に、どっかの「ノリでヤっちゃった」みたいなことをする男が持っていって終わりだろう。しかしどうせ妄想なのだから、話を極限まで都合よくしたって構わないはず……。
 というわけで、カッセロには向こうから来てもらうことにした。一人目の魔女を小説にしたこともあって、物語の起点になる要素をいくらか用意しなければという意識もあった。魔女という一人の女性と知り合い、デリケートな話題に踏み込めるくらい仲を深めるまでの過程を書くとか、そんなことは興味がなさすぎて出来る気がしない。ぼくはテラスハウスの何が面白いのかわからない派の人間だ。
 そこでカッセロに、被虐以外の娯楽を理解できない……という設定を追加した。「美味しい」や「楽しい」という感覚は持っているけれど、それで「幸せ」になる感覚が分からない、幸福感を被虐以外から得られない、というキャラクターにしてみた。もしもこの世に神様がいるのなら、このくらい軽いノリで不幸な人間を生み出しているのだと思う。
 ともかくそういう設定にしたので、カッセロは被虐相手を探すのに必死だ。幸せを実感するには相手が必要で、彼女が幸せになるにはそれしかない。少しでも「この人なら」と思ったら向こうからグイグイ来る。
 ……と、そんな設定によって、物語の起点と都合の良さは同時にゲットできた。これで、自分の趣味の悪い性欲がもし「必要な物」として求められたら……というシミュレーションがようやく始まる。
 ……結論から言うと、必要とされることは、受け入れてもらうことと、大して変わらなかった。シミュレーションの結果、「むしろそれが良い」と言われたとしても、どうにも暴力を正しいと思えるような心が、自分にはないように思えた。女性に性欲をぶつけることは多かれ少なかれ、必ず暴力なのにも関わらずだ。もちろん愛し合っている仲なら別だろうけど、そんな仲を誰かと成立させられるわけもない。
 行為中は馬鹿だから何も思わないかもしれないけれど、やはりどう考えても賢者タイムになった時「相手に申し訳ないことをしてしまった」と落ち込む未来しか見えない。申し訳ないなんてとんでもない、もっとやってくれと言われても、ぼくはぼくの趣味の悪さを受け入れられる気がしない。やっぱりこれは自意識の問題で、外からの肯定や需要では解決できないのだ。
 そこで最終的にカッセロから、
「みんな自分の良心ばっか可愛がって、他人の気持ちなんか、誰も一度も考えたことないんだ」
 と、物語としてはいい感じのセリフが出てくることになって、このシミュレーションは終わった。
 二人の魔女を用いたのに結果がこうなってしまうと、性欲に底をつかせるという方向性そのものが間違っているような気がしてきた。すると、賢者タイムという物は克服できる物ではなくて、目指すべき目標はそもそも性欲を抱かないことなのでは……? と考え方が変わってくる。
 性欲なんてなければいいのに。そうは思っても、それを実現する方法がまったく見えない。フィクションの中でも見えないのだ。現実ならなおさら。
 妄想で超常的な力を使うなら、そもそもぼくの価値観や感じ方を書き換えてしまう、という手もある。けれど、書き換えられたあとの自分なんて想像できるはずもなく、それだと「こうなれば大丈夫」ということが実感出来ないので、妄想の意味がなくなってしまう。
 ならば反対に「あらゆる苦痛を感じさせない、魔女の無敵を他人に付与する」という力を持っている男がいたとして、そいつがセックスの相手を確保するため(あらゆる苦痛を感じない人間は、何かを拒否することがないという前提)にその能力を好みの女性相手に使った場合、彼が行ったことは苦痛からの永久解放という「救い」であっても、同期が利己的だから「悪」として扱われるのだろうか……?
 とか、そのように考えが脱線し始めたあたりで、ぼくは考えることをやめた。いや、やめたというよりは、行き詰ったまま、ずっと止まっている。いつかは先に進みたい。いつかは……。





 昔、ツイッターでエロ漫画家がこんなことを言っていた。漫画家らしく、単なる文章ではなく、コミカルな漫画での表現だった。

「なぜ漫画家の中で、エロ漫画家だけが蔑まれなければならないのだろう。あらゆるジャンルの漫画家がそうであるように、我々には我々の技術がある。それが一朝一夕で真似できる物じゃあないことは、他ジャンルの漫画家と何も変わらないのに」
 
 という感じの、必要不可欠な存在のはずなのに半ば慢性的に迫害されているようなエロ業界で働く人間による、至極真っ当な物申しだったと記憶している。しかし何もそれを書いた人はその話でキレ散らかしていたわけではなく、何なら冗談を交えながらその話をしていたくらいだった。
 その中でも印象的なジョークに「貴様にはわかるまい! この、おちんちんを通して出る力が!」という一文があった。これは「エロ漫画というのは面白いだけじゃダメ、エロいだけでもダメ。「実用的」じゃないとダメなんだ。実用的なエロ漫画がお前たちに描けるのか……!?」という内容の話であった。
 その言い回しは「貴様にはわかるまい! この、俺の体を通して出る力が!」という、Zガンダムの主人公の名言が元ネタになっている。が、その言い回しは、その漫画の中では確かにジョークだったけれど、今のぼくにとってはそうでもない。
 わざと下品な単語をチョイスして笑わせようとしてくるそのジョーク。そこで言う「力」というのが「性欲」なのだとすれば、貴様どころか、ぼく本人にも、おちんちんを通して出る力とやらが何ものなのかさっぱりわからない。確かに存在しているのに、そいつとどう向き合っていけばいいのかまったくわからない。
 三大欲求のうち、食欲と睡眠欲は、生命維持に必須の部分を司っている。何も食べなければ死ぬし、寝なくても死ぬ。けれど性欲はどうだ、しなくたって死にはしないだろう……と誰もが考える。そりゃぼくも死にはしないとは思うけれど、でもだからって、そんなに軽い物でもないんじゃないか。三大欲求に数えられるだけの何かが、そこにあるように思う。確実にある。解決しなくてはならない何かが。
 最後にもう一度言うけれど、ぼくは性欲に対して真剣だ。いつか自分の性欲との付き合い方を見つけてやる。そして幸せになるんだ。いつか必ず。