良ければ結婚を前提に、文字化け契約書を交わしてください。

 極黒のブリュンヒルデという、ちょっと癖の強い漫画がある。それはかつてヤングジャンプで連載していた完結済み作品であり、アニメ化もしている。
 そのブリュンヒルデの中に、要約してこのようなことを言う男キャラがいた。

「恋人になるってことはセックスするってことだ。恋人とだけして、友達とはしない行為とは何だ? セックスしかないだろう。恋人になるってことはセックスするってことだ」

 そのキャラは別に悪役ではなかった。むしろいいやつだった。ちょっと粗暴で高圧的なところがあるけれど、弱者をいじめるような人間ではなく、むしろなんやかんや言って困ってる人を助けてくれるようなやつだった。
 だから余計に、その恋愛観が際立つ。そしてその台詞を見た当時高校生だったぼくは、「恋人になる=セックスをする」ということを「正しい」と認めてしまうと、自分の恋愛観がダメになってしまう気がした。
 恋人=セックスなんて、そんなことはない! ……と言い返すためには、では恋人になるとはつまりどういうことなのか、こちらも具体的に主張しなければならない。今までぼんやりアバウトに考えていたことに、きっちり結論を用意するべき時が妙なタイミングで来てしまった
 「恋人=セックス」という理屈を明確に否定できなければ、今後ぼくの言う「恋人がほしい」という旨の発言全てが、「セックス相手がほしい」という意味に変形してしまう。すると万が一ぼくが、惹かれた相手に告白したくなった時、その「言葉の意味の変形」に自分自身が耐えられなくなってしまう。恋人になってもいないのに、あなたとセックスしたいですとはっきり口にする覚悟が、ぼくにはない。
 今思えば、ぼくが誰かに告白するというそのシチュエーション自体が杞憂だったが、それについては今回考えないことにする。重要なのは、この件について、ぼくが自分なりの結論を導き出せたということだ。
 恋人になるというのは、付き合うことというのは、具体的にどういうことなのか。ぼくはその結論を、「文字化けした契約書」と言い表すことにしている。
 そもそも恋人関係とは、契約関係の一つだ。結構などで生まれる法的な意味での契約とは別な、メンタル的意味の契約が、「恋人」という概念の本体だとぼくは思っている。
 例えば冒頭の漫画キャラが言っていた通り、デートというものは、行動そのものだけを見れば、そこに何ら特別性はない。男女が二人で買い物なり何なりへ行くことは、友達関係であっても十分あり得ることだと言える。でなければ、男女が二人きりで出かければそれは恋人である、なんてふざけた理屈が通ってしまう。それはあり得ないだろう。
 友達同士のお出かけや遊びが、恋人同士になればデートと呼ばれることになる。しかし呼び方を変えたところで、行動そのものに違いは生まれない。大切なのは、そこに関連してくる気持ちだ。恋愛とは、気持ちの問題だ。
 そういう意味で、「デートだと思えばデート」という理屈も、あながち間違いではない。恋愛を恋愛たらしめている物は全て精神的な物であり、物理的な行動ではないからだ。
 恋人=セックスもここで否定される。そもそも、恋人でなくてもセックスする人はする。仕事でする人から、金のやり取りも無しにプライベートでする人だっているだろう。しかし本人が「恋人ではない」と言えば、それはその通りなのだ。法的なルールが介入する場合はさておき、行動がどうであろうと気持ちが「違う」と言えば、それは恋愛ではない。
 そのように、恋愛が精神的な物である以上、「恋人になる」ということも精神的な物であり、それ以上でもそれ以下でもない。何をしたのかではなく、何を思ったのかが恋愛の定義だ。
 しかし、何を思えば恋愛と認識されるのかは、人それぞれ違いがある。セックスの話から繋げると、よく「性行為を拒否したら、相手のことを好きじゃないから拒否したんだと思われそうで、本当は嫌なのに断れない」みたいな話を聞くけれど、その場合少なくとも、その話をしている本人は「性行為をしたいという気持ちは、恋愛の定義に含まれない」としているわけだ。
 もしも本当に性行為の拒否を理由に「恋人として」嫌われるなら、逆に相手の方は「性行為をしたいという気持ちは、恋愛の定義に含まれる」と考えている……ということになる。そういった違いが、恋愛の定義の個人差だ。恋愛とは気持ちの問題なのだから、個人差があるのはむしろ当然だと言えるだろう。
 そして「恋人」という概念は、この定義をお互いに向け合い、許容し合う関係のことを言う。「私と付き合ってください」という言葉は、「私の恋愛の定義と、それをあなたに向けることを許容してください」という意味だ。
 が、しかし、実際はそこで問題が起こる。我々はほとんどの場合、その「恋愛の定義」が具体的に何なのか、ロクに確認もせず告白して、ロクに確認もせず返事をしてしまう。意中の相手に想いを伝える時に、自分の恋愛の定義を語り始める人間はごくごく少数派だろう。
 気持ちを完璧に言語化できる人間は、ごく僅かしかいない。ぼくだって完璧には程遠い。今しているこの話だって、漫画をきっかけに何日も悩んで、ようやく捻り出した結論だ。漫画を読んでいなければ、考えもしなかったかもしれない。
 何のきっかけにも出会わず、あるいはモチベーションが湧く時が来ず、恋愛とは何か恋人とは何かなんてことは、ふんわりアバウトにしか考えてない人がきっと圧倒的多数だろう。だからほとんどの場合で、定義が何だとか、そういう細かい話はしない。好きだとか、愛してるだとか言うけれど、それがつまり何を意味しているのかまでは話さない。
 恋愛の定義、それはつまり、相手に求めることのリストだ。あるいは、自分がするべきだと思い込んでいることのリストだ。「あなたは私と付き合いたいと言うが、具体的に私に何を求めているのか?」という旨の言葉を、告白を受けての返しに使う人はいないだろう。大抵は相手の人となりや今までの関係性などから考えて、つまり相手の恋愛の定義をアバウトに予想して、返事をすることになる。
 もちろん恋人とは相互の関係なので、相手を受け入れるかだけではなく、逆に自分が相手に受け入れてほしいと思うかどうかも、返事の答えに関わってくる。この人に受け入れてもらったって何も嬉しくない……と思う相手とは、誰しも恋人になろうとはしないだろう。
 が、そういうことを考えると話が入り組み、ややこしくなってきてしまうので、今回は告白を受けた側が「相手の恋愛の定義次第では、付き合うこともやぶさかではない」と思っていると仮定して話を進める。実際の言い回しっぽくすると、「本当に自分のことを大切にしてくれるなら付き合ってもいい」と思っている状況……と仮定する。
 さて、ここまで書いたような考えでもって、ぼくは「恋人という概念」を「契約」だと思っている。そして説明した通り、その契約における定義、つまり契約条件は、基本的にお互いロクに把握しないまま、イエスorノーの返事をすることになる。
 それが「文字化けした契約書」だ。我々は誰かと恋人になる時、読めない契約書に判を押している。一部が読める場合や、読めはしなくてもなんとなくニュアンスは把握できる場合があるかもしれないが、その全容を完璧に把握した上で判を押すケースは、無いと言ってしまっていいだろう。
 そしてその文字化けは、契約関係を続けていくうちに、段々と「読める文字」に修正されていく。付き合いを重ねることで、少しずつ相手のことがわかっていく……というのがそれだ。
 少しずつ、相手の恋愛の定義がわかってくる。付き合ってくださいという言葉が、相手の中で具体的に何を意味していたのかを、知ることになる。文字化けした契約書の文字が、全て本来の姿に修正された時、判を押したことに後悔していなければ円満だ。逆にそうでなければ、別れることになったりもするだろう。
 しかしどちらにせよ、基本的に誰も契約書の存在に気付かない。円満に関係を続けようが別れようが、ほとんどの人は契約書の存在に気が付かないままだ。全てを無意識の内に処理している。恋愛の定義と、その契約という仕組みを、ほとんどの人が明確には察知せず、勘と雰囲気で立ち回っている。
 ぼくはこの仕組みをもっと多くの人が認知すれば、恋愛で傷つく人が減るのではないかと思っている。自分や相手の恋愛の定義を確認することは、誰と付き合いたいかを考える際に、すごく重要なことだと思うのだけれど……。
 一つ問題があるとすれば、ほとんどの人が恋愛の定義の中に「少なくともこちらに向けて、定義が何だ契約が何だと、クソみたいな理屈をこねくり回さないこと」を含ませていることだろうか。
 相手に定義を尋ねた瞬間その人は、その相手の定義に則って弾かれることになる。しかし恋人という契約は、元々そういうものなのだ。



 ところで、そう考えると、冒頭の漫画の台詞もちょっと見え方が変わってくる。
 恋人になるってことはセックスするってことだ、という理屈は、恋人という概念の本質を言い表す物としては不正確だ。しかしその台詞は同時に、そのキャラ自身の恋愛の定義の説明にもなっている。
 その台詞を、恋人関係の本質について話した物ではなく、ただ単に自分の恋愛の定義を語っただけの物として捉えれば、何もおかしなところはないのである。「俺は、恋人になるってことはセックスすること……だと思っている」という意味なら、ごく自然な主張なのだ。
 そういう捉え方をするなら、彼は貴重な「恋愛の定義を初めから明確に提示する人」である、彼の持ってくる契約書には、文字化けしている部分が普通よりずっと少ないことになる。
 それを踏まえてみるとやっぱり、契約書が初めから読める文字で書いてあるという特徴は、恋愛において何の強みにもならない場合がほとんどのように思う。