社畜72

 ぼくはソシャゲが嫌いだ。さらに言うと、ぼくは労働が嫌いだ。威張れたことではないけれど、労働に関しては嫌いすぎて、今ぼくはニートとして生きている……というか、生かされている。
 ソシャゲは労働に似ている。あの「今、やらなければならない」という急かされる感じと、一日も余さず継続することが大前提のシステム。楽しいわけでもないのにやらざるを得ないデイリーミッション……。ソシャゲ特有の様々な要素から、子どもが労働を体感したければ、キッザニアに行くよりもソシャゲをやれって感じがする。だからぼくはソシャゲが嫌いだ。ソシャゲをやっているニートは頭がおかしいくらいに思っていた。
 が、そんなぼくが最近、メギド72というゲームに手を出した。経緯としては、YouTubeを見ていた時に「スマホゲームで唯一、2019ゲーム大賞を受賞」という広告を目にして、それに釣られた形になる。
 ゲーム大賞のラインナップを見てみると、自分の好きなゲームが複数含まれていて、なおかつスマホゲームはメギド72以外一つも、どんなに有名な物だろうと一つも入っていなかった(まぁそれは広告通りなんだけれども)。それで、この賞は信用できるかもしれないと思ったのだ。
 結果メギド72からは確かに、他の有名ソシャゲとは違う部分をひしひしと感じた。ソシャゲ特有の批判されがちな部分を、どうにか改善しようという試みが感じられた。リセマラなんかしなくても初回ガチャは何度でも引き直させてやるよってシステムだとか、配布キャラがめちゃめちゃ強かったりすることだとか。
 が、メギド72も例外ではなく、どこまでいってもソシャゲはソシャゲだった。メギド72は優れたソシャゲだ。言ってみればそれは、優れた労働だ。あくまで例えだが、給料が良く、やりがいがあり、職場の人間関係は良好で、なんならちょっといい感じの雰囲気になれそうな異性の同僚がいる……週5フルタイムの労働みたいなゲームだ。
 どこまでいっても、メギド72はソシャゲらしく、労働っぽい性質を持っている。どれだけ言い繕っても純粋な娯楽ではない。「やりたくないことを、やらなければならない」という時点で、それはもはや労働だ。なぜ自ら進んで娯楽を求めていたはずなのに、その末にやりたくないことをやらなければならないのか。
 ゲームというのはやりたい時にやりたいだけやればいい(もちろん時間の許す限りだけれども)。何がスタミナだ馬鹿たれ、何が「このアイテムは特定の曜日にしか入手できないし、その入手にはスタミナを使う上、入手は確定ではなく確率で〜す」だこの野郎、何が「日曜だけは全ての曜日のアイテムを手に入れるチャンス!」だクソッタレが、そういうところだよ。「今、やらなければ」と思った瞬間、それはもう娯楽じゃない、労働だ。「やりたい」と「やらなければ」の区別がつかなくなり、ソシャゲに踊らされるオタクを哀れだとは思わないのか。
 ……と、ソシャゲアレルギーを起こしながらも、今のところ約10日、ぼくはメギド72を一日も余さず継続プレイしている。そんなことしたって間違っても社会復帰には繋がらないけれど、しかしこのメギド72というゲームは、何にも代え難い魅力に溢れていることも事実だった。でなければ今頃とっくにアンインストールしている。
 メギド72の魅力は戦闘が面白いことと、キャラやストーリーが良いことだ。しかし戦闘については個人的に、面白いものの「何にも代え難い」というほどではない。金を払えば同じくらいの面白さを持った、労働っぽさの無い別ゲームが買えるだろう。
 唯一無二な物はキャラとストーリー、それに世界観といった「設定」だ。ぶっちゃけ初めて10日のぼくでは、それらのほんの一部しか知らないのだろうけど、それでも明らかに魅力的だった。
 まずは、ざっくりとメギド72のあらすじを説明しよう。


 世界は三つに分かれていた。「悪魔の住む世界、メギドラル」「天使の住む世界、ハルマニア」そして「人間の住む世界、ヴァイガルド」。
 フォトンとかいう大地の恵み的なエネルギーが存在したりして、現実の人間界とヴァイガルドはいろいろ違うし、現実のホモサピエンスとヴァイガルドのヴィータ(人間の意と考えて大体合ってる)もいろいろ違うけど、そういう細かいことはたぶんスルーしてもいい。
 メギドラルに住むメギド(悪魔)とハルマニアに住むハルマ(天使)は仲が悪く、大昔に一度戦争をした。その際ヴァイガルドが巻き込まれ、神々の戦いのせいで人間界は一度滅びかけてしまう。
 さすがに反省した悪魔と天使は「護界憲章」という停戦協定を結び、お互いヴァイガルドに立ち入ることを禁止した。ぼくが読み進めているストーリー段階から考えると、この護界憲章は物質的な物らしく、言葉だけではない実際の力があるらしい。メギドやハルマはどんなにヴァイガルドに立ち入りたくても、護界憲章がある限りそれが出来ないのだという話だ。
 それでしばらくの間……具体的には、実際に行われた戦争が神話としてファンタジーの領域になってしまうくらい長い時の間、ヴァイガルドのヴィータたち(つまり人間界の人間たち)は平和に暮らしていた。が、ある時メギドラルの上層部が入れ替わった。そして新しい上層部は護界憲章を破壊して、再び戦争を起こすことを目論み始める。
 トップ層の入れ替わりにより、再戦争の意向に従わない従来のメギドたちは、メギドラルから追放されてしまう。追放されたメギドたちは、人間となってヴァイガルドに送られた。
 ところで主人公の男は、なんか知らんけど「ソロモンの指輪」という、追放メギドを従えることの出来るスーパーアイテムを持っていた。しかもそのソロモンの指輪を使えば、人間となってしまったメギドに、一時的にメギドの力を取り戻させることも出来る!
 というわけで、平和派だった故に追放されてきたメギド(悪魔)たちと力を合わせ、メギドラルの送り込んでくる刺客を倒したりして、再戦争(つまり人間界の滅亡)を阻止するために頑張ろう!

 ……って感じの話。思ったより長くなってしまった。
 まずぼくは、悪魔を仲間にして戦うというコンセプトに対して、これだけ説得力のあるストーリーが用意されていたことに感心した。
 悪魔=悪いヤツというのは、実際の戦争が神話になる内に出来たイメージらしく、実際のメギドたちは人格者が多かったりする。もちろん、メギドは自由を好み、ハルマは秩序を好むという種族柄はあるけれど、どっちの種族も普通に友好的だ。この時点でちょっと面白いし、夢がある。
 まぁそれだけだと「悪魔を仲間にするってテーマに上手い物語用意したな、すごいな」で話が終わってしまうのだけれど、メギド72のすごいところは、ストーリーだけでなくキャラも抜群に魅力的なところだ。
 ぼくが真っ先に感心したのはダンタリオンというメギド。彼女はいわゆるロリババア属性だ。しかしそれは安直な属性ではなく、物語に沿ったリアリティがある。
 そもそも追放されたメギドは、ある程度成長した人間の体を得てポンと放り出される……というわけではない。追放メギドは、生まれる予定の人間(ヴィータ)の意識を乗っ取って、人間として人間の両親から生まれるのである。
 そしてメギドラルで暮らしていた頃からずっと、メギドにも人間と同じように、規模こそ違えど「年齢」がある。少年少女メギドもいるし、爺さん婆さんメギドもいるのだ。
 すると、婆さんメギドがメギドラルを追放された場合、当然婆さんの人格で、人間の赤ん坊として生まれてくることになる。ということは必然的に、人間としての幼少期はロリババアになる。
 ロリババア属性の成り立ちに、こんなに説得力がある例を、ぼくは他に知らない。現実にはありえないものを見て「そりゃ、そうなるよな」と納得できたことにぼくは感動した。これがフィクションの中のリアリティってやつだ。
 その他にも「追放メギドは「自分がメギドである自覚」を、人間として生まれてすぐに取り戻す場合と、人生の途中で取り戻す場合と、死ぬまで取り戻さない場合がある」という設定もあったりして、これがまた面白いことになる。
 自分が悪魔だったことを思い出すことなく、人間として生まれ人間として生きて、人間として死んでいくメギドもいる。途中までがっつり人間として生きてきたから、自身がメギドであることを自覚してからも、人間としての暮らしを捨てる気にはなれず苦悩するパターンもある。
 とにかくメギド72というゲームの「設定」は、「設定」そのものに対して真摯だ。徹底している。自分たちの作った世界観にどこまでも忠実だ。だから「そりゃ、そうなるよな」がそこかしこにある。ゲームがどうかという話の前に、まず世界観が魅力的なのだ。
 追放されるまでもなく自ら膨大なエネルギーを費やして、人間として人間界にやって来たメギドもいる。追放がどうとか戦争がどうとかどうでもよくて、料理にしか興味が無いメギドもいる。人格者揃いの中で普通に人間のクズみたいなメギドもいれば、厳ついヤンキーの見た目をしながら作中一二を争う善人なメギドもいる。ウェディングドレス姿で両手には刃物という出で立ちのメギドもいれば、露出等のあからさまな要素が無い「サキュバス」というメギドもいる。唯一無二な魅力を持つキャラクターがわんさかいるのだ。
 ……それらの魅力のせいで、ぼくは10日以上、ソシャゲアレルギーを起こしつつも、アンインストールが出来ずにいる。衝動的にアンストしてしまいたくなる時が何度もあったが、というか今でもあるが、その度に思いとどまっている。まだ読んでいないストーリーがあり、まだ見ていないキャラクターがいて、それらがきっと魅力的だろうと確信しているからだ。
 たぶん本来、労働ってそういうものなんだろう、とぼくは思うようになった。様々な不満に「クソがよ」「そういうところなんだよ」と愚痴を垂れながら、辞めちまおうかなと思うんだけれども、実際に辞めることはしない。愚痴は本心からのものだけれど、辞めてしまいたいという気持ちは本物だけれど、しかしそれと釣り合うくらい、確かな魅力があるから辞めはしない。そういう感覚で、みんな働いているのかなと。
 魅力っていうのが金銭なのか、やりがいなのか、人間関係なのか、それとも真っ当な社会人という肩書きなのかは、人それぞれだろう。けれど何かしら、「本気で嫌なこと」に釣り合う「魅力」があるから、事実みんな働き続けている。でなければとっくに辞めているはずだ。ソシャゲも労働も。
 ぼくが初めてバイトした時のことを思い出す。給料のことを考えて、今まで手が出せなかったあれもこれも、全部手に入れられると、ウキウキ気分で働いた初日だった。
 仕事をやめられるなら、今まで手が出せなかった物なんて何一ついらないと思って、実際に辞めた勤務10日目だった。
 メギド72をプレイしてみても「何がそんなに魅力的なんだ? まったく理解できない」と思ってアンインストールした人が、どこかにきっといるだろう。その人から見たメギド72が、ぼくから見た労働だ。
 洗濯して、皿洗って、夕飯の手伝いをしているだけで、無課金ソシャゲをやって、ネットで作文が書けるぼくは、ただ単に恵まれすぎていて「労働の魅力」を感知出来なくなってしまっただけなんだと思う。けれども、なんやかんや言いながら働いている「真っ当な人たち」が、ぼくのメギド72へ対することと同じくらい、労働やその周辺の事柄に魅力を感じているなら、それはものすごく恨めしいことだ。ちょっとした憎しみが湧く。
 「働きたくない」と言うと、「みんなそうだ」と言い返される。じゃあなんで実際、みんな働いているんだって話だろう。もしもみんな、本当にぼくと同じくらい働きたくなかったら、みんなぼくと同じように労働を拒否するはずだろう。そうなっていないということは、真っ当な人たちは、大して働きたくないとは思っちゃいないんだ。こっちの気持ちも分からずに、分かったようなつもりで、分かったようなことを言ってくる。自分たちが多数派だという自負があるからそうするんだろ、クソが。
 ……と、ずっと思っていた。けれど違ったのかもしれない。みんな本当に、ぼくと同じくらい働きたくないのかもしれない。けれどぼくと違って、労働に捨てきれない魅力を感じているから、働き続けているのかもしれない。ぼくだけその魅力を感知出来ていないだけなのかもしれない。
 そんな風にまた、娯楽から何かを知った気になるニートなのだった。