Vtuberのセンシティブにまつわるセンシティブな問題。

 ぼくにとっては、ほとんど「Vtuberにじさんじ」なんだけれど、今回の話はもしかすると、にじさんじに限らずVtuber全体の問題なのかもしれない。
  Vtuberのセンシティブなイラストを描くにあたって、つまりエロ絵を描くにあたって、どの程度配慮が必要なのかという話だ。センシティブ(いわゆるエロ)についての、センシティブな(慎重さを要する)問題があるというわけだ。
 Vtuberには必ず「魂」と呼ばれる人、いわゆる中の人が存在する都合上、それは実質的に実在する生身の人間に、ジャンルで言えば三次元のアイドルに近い存在であると主張する声がある。
 少々話が逸れるが、しかしそもそも、生身の人間が関わっていないキャラクターなど、どこにもいない。アニメキャラの声は生身の人間が当てているし、漫画のキャラだって生身の人間が考えて、生み出されている。
 けれども現状、アニメや漫画のキャラに関しては、とても自由に二次創作が行われている。エロ絵も山ほど描かれている。一部に二次創作を禁止している作品、あるいは作者がいるが、それは全体からするとほんの一部だけの「例外」である。
 もしもVtuberに関して「実質的に生身の人間だから」という理屈で、エロ絵を描き堂々と公開することは悪であるとするならば、それは作者単位や作品単位の話ではなく、「アニメ」や「漫画」といったような、「Vtuber」というジャンル単位での話になる。実在する例のような「ほんの一部」とは、理屈の規模がまるで違うわけだ。
 キャラクターの構成に生身の人間が一切関わっていない例は存在しない。しかしアニメや漫画のキャラクターに「生身の人間だからエロは不適切」と言い出す人たちもいない。そういったキャラクターとVtuberの違いは、いったいどこで生まれているのだろう。
 これは、Vtuberというまったく新しいジャンルの生んだ問題である。何が問題なのかというと、Vtuberは唯一、二次元の見た目と、三次元の人格が直結しているコンテンツだということだ。
 いくら声優が魂込めて声を当てたって、その声優の人格とキャラクターの人格がイコールで結ばれることはない。影響を受けることくらいはあるかもしれないが、イコールにはほど遠い。
 いくら漫画家が小説家が、心血注いでキャラクターを作ったって、そのキャラクターは作者の人格とイコールにはならない。近くなることはあっても、イコールにはならない。寸分違わず自分とまったく同じ人格のキャラクターを描き、なおかつ物語を成立させるなんてことは、不可能のはずだ。
 しかし、Vtuberは違う。彼ら彼女らは、与えられた台本を読んでいるわけではない。大まかな流れこそ決まっていても、細かい部分はほとんどが即興だ。そういう意味では、Vtuberの配信というのは、声優のラジオに近いところがある。
 キャラクターに声を当てている時の声優は、ほとんど人格を持っていないだろう。与えられたキャラクターを演じることに徹している。アドリブだってあるのかもしれないが、それはほんの一部の例外だ。
 これがラジオでは違う。ラジオで見せる声優の人となりは、それが外行き用の仮面だろうと、本心から来ている素だろうと、その人の人格そのものだ。誰に与えられたわけでもない、その人の「生身の人格」なのだ。
 その理屈で行くと、Vtuberはほとんど生身の人格で出来ていることになる。いや、それとももしかして、これはにじさんじ限定の話なのだろうか。
 少なくともにじさんじには、運営が用意した形ばかりのキャラクター設定がある。しかし実際は、委員長だとかエルフだとか、そういう「役職」の部分だけを起用して、性格の部分は設定ガン無視の、本人の人格ほぼそのままである場合がほとんどとなっている。
 そしてそのにじさんじも、今や3桁に迫る大所帯。しかもチャンネル登録者数10万以上の配信者がゴロゴロいる。仮に生身の人格を使ったVtuberにじさんじだけだったとしても、とても「例外」として無視できた規模ではない。
 生身の人格を使うVtuberとは、具体的にどんな物か。にじさんじの代表とも呼べる一期生、月ノ美兎がその最たる例だろう。設定は清楚な委員長キャラだって言ってるのに、配信開始時の「起立! 礼!」のような申し訳程度の委員長感を出したかと思えば、次の瞬間にはムカデ人間の話をし始める。他にも、子どもの頃に雑草を食す雑草ソムリエになってた話だとか、奇天烈な内容ばかりが繰り出される。それが本人の人格でなくてなんだと言うのか。
 そんなノリの人が代表だったからか、あとに続く後輩たちの9割方は、生身の人格で立ち回るようになっていった。真剣にキャラクターをロールプレイしていると、むしろ珍しがられるほどの事態になっている。だからこそ、そうやって生身の人格が宿る存在だからこそ、エロ絵について賛否が分かれることになっているわけだ。
 仮に実在するアイドルのエロ絵を描いている人がいれば「おいおい、大丈夫かよ」とぼくも思う。キャラクターではなく、声優本人のエロ絵を描いている人がいても同じことだ。
 そういうわけなので、Vtuberは見た目が二次元だけれども、生身の人格を持った存在だから、実在するアイドル等と同じような裁定が下されるべきではないか? という意見があるのだ。……けれども、これにぼくは少し思うところがある。
 実在アイドルのエロ絵を描くと、それは当然そのアイドルの見た目が描かれることになる。人格も同時に表現として描かれるだろうが、見た目が本人に似せられることは間違いない。仮に声優のエロ絵があったとしても同じだ。本人の人格と、本人の見た目に似せられた絵が描かれることになる。
 が、Vtuberはここが違う。人格は実在する生身の本人に似せて描かれたとしても、見た目は二次元のフィクションになる。決定的に違うのはそこだ。いくらVtuberが生身の人格とそのままリンクしていたって、描かれる絵の見た目……つまり容姿に関する部分は、人格の持ち主とは似ても似つかないフィクションとなる。
 そう、Vtuberとは史上初の、フィクションの見た目と生身の人格を持つ「半ノンフィクション」の存在なのだ。そんな例は今までどこにもなかった。いや、あることにはあったが、それがここまで人気になることはなかった。
 フィクションの見た目と生身の人格を持つ過去の例としては、歌い手のアイコンや、漫画家の巻末コメント欄に載るタイプの自画像などがあった。それでエロ絵を描いた人が今までいたか? ぼくは見たことがない。絵描きたちがセンシティブな領域に入った例は、きっとVtuberが初めてだ。
 だから話がややこしくなる。エロ絵否定派の人は「Vtuberは生身の人間に等しいから」と言うが、しかし考えてもみてほしい。生身の人間は、みんな生身の見た目を晒しているじゃないか。あるいはまったく姿を晒さず、フィクションの見た目さえ用意せず忍んでいるじゃないか。
 見栄えの良いフィクションの見た目を用意しておいて、それで客を引いておいて、いざとなればいけしゃあしゃあと「生身の人間扱いしてください」というのは、ちょっと虫が良すぎると思う。自分の都合で大人と子供を使い分ける高校生みたいで、ぼくは納得がいかない。
 けれども、見栄えのいいフィクション……という部分が、オタクという生き物の悲しさを抱えているのも事実だ。
 Vtuberには前世がある。前世とは、Vtuberとしてデビューする前にネット上で行っていった、中の人の活動のことである。
 Vtuberの前世が、ゲーム実況者であるケースは多い。なぜ実況者たちはVtuberになったのか。簡単な話だ、そっちの方が多くの人に見てもらえるからに決まっている。あるいは金の話も絡むのかもしれないが、Vtuberデビューした結果、前世と比べてツイッターのフォロワー数が10倍になった人の例を知っている。少なくともにじさんじの人気Vtuberたちは、みんなそんな感じだろう。
 10倍の例として挙げたその人は元々、ぼくも何度か動画を見たことのあるゲーム実況者だった。なんならニコニコ超会議に行って、本人の姿を生で見たこともある。もちろん数字の変化には単なるVtuberパワーではなく、にじさんじというブランドの力も多大にあったのだろうけど、残酷な話だなと思った。
 Vtuberたちはオタクのことを笑っているんじゃないか。あんたたちの好きそうな「絵」を用意してやったら、途端にこれだ。単純なやつらだなぁ、と。
 実質的に、見栄えの良いフィクションを用意させてしまったのは、そんな風なオタクたちだ。ぼくを含む単純で馬鹿なオタクたちだ。そういう意味では、Vtuberというジャンルが丸ごと、オタクの愚かさを証明した負の遺産であるとも言える。
 Vtuberは生身の人間だから……なんて虫の良い話をする、識者を気取ったオタクがかなりの数現れたことも、負の遺産の一部なのかもしれない。そんな単純な話ではないのだ。まさに本来の意味でのセンシティブ、慎重さを要する問題。我々はまだ、Vtuberとエロ絵にまつわる問題について、正解を知らないはずだ。
 ただ、愚かなのはオタクだけとも限らない。にじさんじの中でも、そうでないVtuberでも、「エロ絵は望ましくない」とはっきり口にした人が何人かいる。ぼくはその人たちのことが気に食わない。
 作品単位で「エロは禁止」とされる場合、その理由は「作品の雰囲気を脅かすため」とされることがほとんどだ。エロどころか二次創作を禁止にする場合は、作品のためという理由の他、「作者である私が見たくない」という作者単位の例も見かけたことがある。
 これはあくまでぼくの観測範囲でのことだけれど、「エロは禁止。なぜなら私が見たくないから」と明言した作者、あるいは作品の代表者を、ぼくはまだ見たことがない。けれどそれで然るべきだと思っている。逆に言えば「エロを禁止するなら、二次創作そのものを禁じる」という姿勢こそ、正しいものだと思っている。
 エロは望ましくない、その他の二次創作はオーケー、理由は私がエロは見たくないから、その他の作品は見たいから。……なんてことをのたまったVtuberがいるのだ、信じられないことに。もう一度言うが、ぼくはそれが気に食わない。
 私が見たいものだけをよこせなんて、傲慢もいいところだ。全ての二次創作者が、元ネタを生み出した人(作者や、Vtuberの魂)に喜んでもらうことだけを目的に、二次創作をしているとでも思っているのか?
 望ましくない、なんて言い方をしても、そんな細かな言い換えは無駄なことだ。実際馬鹿なオタクたちには効果を成さない。厄介オタクたちは、嫌だって言ってるんだからやめなさいよと、ネットの海を泳いではイチャモンをつけにいく。
 仮にアイドルや声優その他、あらゆる生身の表現者のうち誰かが「否定的な意見は聞きたくありません」と明言したとすれば、その時も「嫌だって言ってるんだからやめなさい」とでも言うつもりなんだろうか。そうだとしたらいよいよ救えない馬鹿だ。そうでなかったとしても、二次創作だってそれと同じだと気付けない時点で相当厳しい。
 これが「否定的な意見は聞きたくない」ではなく「私は人の感想を耳に入れないようにしている」だったら、気難しい人だなとは思っても、それでその人が何も支障なく、表現者としての働きを上手くまっとうしているならば、何も文句を言うべきところはない。というか、文句の言いようがない。「二次創作は全て禁止」とすることに、人格的な問題がないというのはそういう話だ。
 しかしまぁ、オタク界隈にはおなじみの「嫌なら見るな」という理屈があるわけで。実際気に食わない人格のVtuberは見なければいいだけなので、ぼくだって何も困ってはいない。二次創作はエロ絵に限って望ましくない旨を発言をしているVtuberの数なんて、全体に比べれば例外のようなものだ。
 というか、二次創作者はそんなことでは止まらない。創作意欲はその程度じゃ止められないらしい。事実、望ましくないと言っている人たちのエロ絵だって、結局描かれている。探せばすぐ見つかる。
 最近、それを本人に観測されないため(外野に怒られないためと、本人を悲しませたくないため、両方の意味があると思われる)に、推しであるはずのVtuberツイッターでブロックした絵描きが、ちょっと話題になったくらいだ。コンテンツが大きくなればなるほど、二次創作は止められない。
 エロ絵否定派のVtuberたちはVtuberたちで、人格としては傲慢でありながらも、権利としては何も逸脱していないのでその点としても問題がない。嫌な物を嫌だと言って何が悪いと言われればそれまでだ。元々Vtuber単体に「〇〇は禁止」なんてことを強制させる力はない。言いたいことを言い、その結果どうなるのかが本人たちの責任であって、それ以上のことは何もない。
 けれどそう考えると、「自分のことに関して、やめてくれと言う権利」でさえ、実際の行動を止めるには至れないと考えると、権利の主張というのは、どうも非常に難しいことのように見える。思えば人権でさえカタログスペックを発揮しきれない場合がほとんどなのだから、当然といえばある意味当然なのだけれども。
 ところで、Vtuberとエロ絵の問題によく似たことが、他のケースでも起こっている。特撮のエロ絵だ。これは意外にも結構な数が実在する。わざわざ特撮と限定しなくても、ドラマなどのエロ絵と言った方がいいのかもしれないが、今のところぼくが観測したのは特撮のエロ絵だけだ。逆に言えば、狙って探さなくても目に入ることがあるほどメジャーらしい、ということになる。
 特撮はVtuberと真逆の話だ。生身の人格は無いが、見た目が生身の本人になっている。これについては正直、本人たちがお願いだからやめてくれと言い出しても仕方がない……という気がぼくはしている。
 というのも、所詮「絵」は「絵」だ。絵やそのまわりにある台詞等の表現から伝わる情報のうち、「見た目」と「人格」、どちらがより多く、見る側に伝わるだろうと考えれば、当然見た目だろう。
 それが絵である以上、見た目の要素が大きいことは否めない。見た目と人格のどちらかを生身にしなければならないなら、エロ絵を描かれてよりつらいのは、見た目が生身の方だと思われる。
 が、それが問題視されている場面を、少なくともぼくは見たことがない。Vtuberオタクの方が特撮オタクより多いから、ということがその理由なのだろうか? おそらく違う。そもそもどちらが多いのかなんて知らない。
 Vtuberのセンシティブを問題視する声が上がったのは、生身の人格がコンテンツとしてすぐ表に出てくるからだろう。仮に役者が「自分の演じた役で18禁絵を描くのだけは本当に勘弁してほしい」と明言したとしても、コンテンツである特撮本編だけを見ていれば、視聴者がその声を目にする機会はない。Vtuberはコンテンツだけを見ていても、中の人の主張を自ずと聞くことになる。そういう違いが影響しているのではないかと、ぼくは考えている。
 そう考えると、Vtuberには「生身の人格のコンテンツ化」によって起こる問題が多い。エロ絵については、馬鹿なオタクがはびこることと本人の声が届きにくいこと、どちらが悪いと考えるか各々の自由なところがあるが、ひとまずはそれ以外のことについて話そう。
 例えばVtuberには「魂やその前世について話すことはタブーである」という風潮がある。これはあくまで「※本人の前で」が文頭に付く風潮なのだが、たまにどこで話していても「そういう話やめろよ」と言い出す輩が湧いてくることもある。
 文頭の米印付きなら、理屈としては至極真っ当な風潮だと思う。生身の人格がむき出しだろうと、せっかくキャラクターとして楽しんでくださいと向こうが用意してきてくれているのだから、それに乗っかった方が楽しいに決まっている。おそらく、これに乗れないことを無粋という。
 しかしある話題では生身の人間云々で理論を展開しながら、別の話題ではキャラクターをキャラクターとして扱うことの大切さを説くなど、まぁオタクというのはそういうものなのだが、ぼくもそのオタクの一員だ。
 キャラクターをキャラクターとして楽しむことの大切さを否定する気はない。けれども、ぼくは魂や前世についてめちゃめちゃ興味があるし、どんどん調べるタイプだ。そしてもしも前世を知り、さらにはそれが既に知っている人物だった場合、ぼくはそのVtuberをキャラクターとしては見れなくなる。が、それでいいと思っている。
 アンチスレと呼ばれる場所の住人がよく魂の情報をリークしていることから、ぼくのようなタイプはファンどころか、むしろ限りなくアンチに近い存在なのかもしれない。けれど、冷静になってみてほしい。どう足掻いたって、美少女Vtuberを隔てた画面の向こうには、実在する女性がいるんだぞ?(もちろん例外はある。ねこます、のらきゃっと、バ美肉系列など)
 揺るぎない現実として、フィクションの見た目と生身の人格(それと声)を持つ「半ノンフィクション」と呼べる存在に、オタクたちが「かわいい〜」とか「かっこいい〜」とか「好き〜」という言葉を投げかけては、画面の向こうにいる「完全ノンフィクション」の人間が、それを半分は自分への言葉だと認識した上で、その関係を良しとしている。オタクたちが何を言っても、その現実だけは変えられない。
 一部、下ネタに寛容な女性Vtuberもいたりする。するとそれはつまり、フィクションの見た目というクッションがあるとはいえ、下ネタに寛容な女性が画面の向こうに実在していて、しかも視聴者と生配信でダイレクトにコミュニケーションを取っていることになる。
 この事実は、これはもはや、FC2のニュアンスでほぼ新手のライブチャットと呼べてしまうんじゃないか……? オタクたちは古のニコ生や萌え声生主なんかを馬鹿にするけど、やってることはそんなに変わってないんじゃないか……?
 画面の向こうに生身の女性が実在しているのに、エロの意味での「センシティブ」という言葉が流行語のように扱われ、エチエチコンロだのエロ(江戸)時代だのエッッッッッッだの、そんな風な言葉がコメント欄を平然と飛び交っている時点で、なーにが生身の人間が云々だ、馬鹿じゃねぇの? という気がしてしまう。そんなコメントの飛び交う配信主体のVtuberは、もうとっくに性的コンテンツに片足突っ込んでるんだよ。
 既存の表現者たちの焼き増しである「Vtuber」という概念を生み出したこと、あるいは存続させたことは、オタクたちの責任だ。しかしそんな焼き増しコンテンツでも、アイドルのように「箱」という概念が生まれて、Vtuber無しではあり得なかった利点も生まれている。それはいい。素晴らしいことだ。
 しかし、エロとしての二次創作が増えていくのは、それはオタクだけのせいか? これも全部、ちょっと喜びそうなことをすればすぐ数字になる、単純でちょろいオタクたちのせいなのか? 数字のためならなんでもありか……?
 Vtuberとしてデビューする時点で、あるいはにじさんじに所属するという時点で、もはやエロは嫌だとか言っていられる状況ではない節がある。そういう意味ではもう既に、にじさんじは腐りきっている。なにがてぇてぇ(尊い)だよキモオタども。とんでもない抜け穴見つけやがって。不健全コンテンツと言われても、現状では微妙に言い返せないぞ。
 もちろんわかってはいる。仮に生身の人間が顔を出せば、みんなそこまで下品なコメントはしない。一部より精鋭化したやばい変態は現れるだろうけど、今「エッッッッッ」と言っているオタクたちは、別に良識がないわけじゃないのだ。
 フィクションの見た目というクッションがあるからこそ、配信する側もいろいろ許容出来ることがあるはず。しかし視聴者側の平均も、そのクッションがあるせいで、性的にハメを外してしまっているところがある。そしてそれは二次創作にも影響する。というか、クッションのせいで二次創作がある。そのクッションがなければそもそも流行りはしなかったわけだが……。
 ……という風に、Vtuberは問題だらけのコンテンツだ。もしヒカキンレベルで一般に知れ渡ったとしても、子どもにVtuberを(あるいはにじさんじを?)見せたがる親は現れないだろう。
 しかし、面白いかどうかで言えば、Vtuberは間違いなく面白いとぼくも思う。ぼくも馬鹿なオタクの一人だ。わかっていても見た目に釣られ続けている。そうするために作られた、フィクションの見た目一つにほいほいと。不健全だったからなんだとも思う。誰に迷惑かけているわけでもないし、面白さが全てだろう。
 しかし、Vtuberというジャンルにおいて、あるいはにじさんじという箱において、「自分はファンである」と言い切ることは出来ない。かといって、「自分はアンチである」と言い切ることも出来ない。好きなVtuberは好きだ、それに間違いはない。……ひょっとすると、アンチってみんなそんな感じなのかもしれないけど。
 調べてみたら、にじさんじは現在総勢98名が所属しているらしい。秋元康プロデュースのグループ約二つ分だ。いくらなんでも多すぎる。手当り次第に増やしすぎな運営のやり方が、ぼくは気に食わない。非常に気に食わない。にじさんじ所属の中で、一度たりとも動画を見たこともなければ、名前も覚えてないような人だって確実にいる。けど、98人だぞ? さすがにぼくが悪いわけじゃない。
 Vtuberを見るのは楽しいけれど、いつかこのバブルのような状況が崩壊してしまえばいいとも思っている。こんなブーム終わってしまえばいいと。
 楽しかろうとVtuber負の遺産Vtuberがなければ、にじさんじがなければ、存在しなかっただろうキャラクターとそのイメージが、数えきれないほどある。それらの条件でなければ見れなかったであろう、面白い場面も山ほどある。既存のミュージックビデオを元ネタに、にじさんじパロディが描かれた動画を見た時なんか心が踊った。だからやっぱり、好きという気持ちは、嘘ではないんだと思う。
 けれど、今回話しきれなかった理由等も含めて、ぼくは胸を張って「素晴らしいコンテンツだ」と言う気には、どうしてもなれない。
 案外、アンチはみんなそんな感じなのかもしれない。

ボンバーマンR、それは家族で遊べる唯一のコンクエスト。

 ボンバーマンR(以下R)というニンテンドーSwitchのソフトがある。我が家(ぼく、弟、父、母の4人)が過去にボンバーマンで遊んだのは、ボンバーマンランドwii(以下wii)が唯一だった。だからボンバーマンの歴史はロクに知らない。
 しかし、wiiの頃の楽しさを求めてRを買うと、次世代機のはずなのに大幅ボリュームダウンしていてガッカリしたものだ。グラフィックの向上と引き換えに、以前は3つもあった対戦ルールが、たったの1つになっていた。
 我が家はゲームが苦手な母&弟と、実力並程度のぼく&父に大体二分されている。しかしRに残されたたった1つのルール、「最後の一人になるまで生き残れば勝ち」というバトルロワイヤルルール(勝手にそう呼んでる)では、実力差がはっきり出すぎてしまい困っていた。
 wiiにはスタールールがあった。ステージに散らばる星型の得点アイテムを拾い集め、制限時間終了時に一番多く星を持っていた人の勝ちというルールだ。バトルロワイヤルに比べると、このルールは実力差がいくらか緩やかになっていた。
 なぜスタールールなら実力差がマシになるのか。それは「爆死してもスターを吐き出してしまうだけで、また復活できる」というルールの存在が大きい。いやあえて言おう、その仕様が大きすぎる、偉大すぎる。我が家には、もはやそれが必須だった。
 バトルロワイヤルルールでは「生き残れば勝ち」、逆に言えば「一度死んだらそこで終わり」となる。厳密には復活チャンスもあるのだけれど、チャンスの期待値は渋い。一度のミスが致命傷になるので、ゲームが苦手な人には厳しいルールだった。
 しかしスタールールにおいて、我らがボンバーマンは不死身。ボンバーマンは皆、制限時間の許す限り何度でも蘇るさ。その不死身が下手っぴに嬉しい。そしてさらに「死亡するとペナルティとして、持っていた星をステージ上にばらまいてしまう」という要素がある。これがスタールールのミソだった。
 何度も死に、そして蘇ったボンバーマンは、もはやすっからかん。星など持っていやしない、カイジなら地下行き待ったなしといった状態になる。しかし、ということはつまり、他の生き残ったボンバーマンたちは、その分多くの星を蓄えていることになる。
 星に肥えたやつらの死は重い。少なくとも一度の死で、所持している星の半分は吐き出す仕様だ。すっからかんの奴らとは死の重みが違う。有利な状況であればあるほど、プレイヤーは「一発のリスク」を抱えざるを得ない仕組みになっているのだ。逆に言えば、不利な状況の人たちには常に「一発のチャンス」がある。
 この、常に逆転の可能性を残すシステムが、我が家にはピッタリだった。ぼくと父も別にゲームが超上手いわけではない。せっかく調子よく立ち回っていたのに、何度死んだかわからないへっぽこボンバーマンたちに、制限時間間近でうっかり爆殺され逆転されることもある。それが最高に面白かった。
 そのスタールールがRには無い。残されたのは(ほぼ)たった一つの命をかけたバトルロワイヤルだけ。失った物があまりにも大きい。……しかしRにもRの利点はあった。wiiと比べてステージの魅力が圧倒的に増したことだ。
 が、しかし。Rになってステージの個性が猛烈に増したのは嬉しいが、そのステージを解放するために必要な、ゲーム内通貨のレートが異様に渋かった。全然集まらない。遊んでも遊んでも集まらない。
 具体的には、一回遊んでもらえるのが300ポイントである一方、ステージ一つを出すのには4000ポイントも要求される。10連戦の激闘を超えたとしても、新ステージを一つも解放できないわけだ。ワーキングプアもいいところだろう。
 その他にR独自の物としては、特別な能力を持ったプレイアブルキャラクター……という新要素もあった。が、そもそもボンバーマンにキャラ固有の特殊能力を求めている人なんかいるのだろうか……? 格闘ゲームじゃあるまいし。
 そんなわけで、数々の理由が合わさり、ボンバーマンRはいつしか我が家で封印されていった。数あるソフトの下へと埋まっていった。……が、それを最近何かの拍子に取り出し、ちょっと遊んでみた。するとRに驚くべきことが起きていた。
 対戦ルールが増えている。一つしかなかった対戦のルールが、増えていたのだ。それはアップデートによるものだった。もはやネット環境のないゲーマーに人権はないと言わんばかりに、ルールは3つも追加されていた。そこには「クリスタル」と名を変えて、ほぼスタールールと同じ内容の物もあった。
 追加されたルールたち、クリスタル、チェックポイント、エスコートの3種類は、全てチーム戦専用の物だった。時々、我が家が3人家族だったらと想像してはぞっとする。プリンの数で争わない分ここで苦しめと言わんばかりに、ゲームは度々4人を推奨してくる。4人家族でよかった。
 さて、そういうわけで、ネット環境や人数など様々な「もしも」を想像しては震えながらも、もしもではなく「今」を見て、ぼく(とその家族)はウキウキ気分でクリスタルルールを遊び始めた。
 するとどうだ、思ったより面白くない。いや、ぶっちゃけ、限りなくつまらないに近いグレーだ。期待が大きすぎたわけではなく、普通に何かが、何かが足りなかった。
 何が足りないのか、何がダメなのか。その真相を突き止めるため、ぼくは過去作のスタールールと今作のクリスタルルールを比べて、その問題点と思われる箇所をまとめてみた。

・チーム戦になったことで爆殺対象が減少。しかもフレンドリーファイアがあるので、「自爆」に加えて「仲間の置いた爆弾で死ぬ」という、しょうもない死にパターンが増えてしまった。
・拾ったクリスタル数はチームでトータルされるものの、それとは別に「誰が、何個持っているのか」もカウントされるので、「敵チーム員」ではなく「敵チームかつクリスタルを多く持っている人」を爆殺しなければ、取られたクリスタルを奪い返すことが出来ない。
・チーム戦特有の要素として、敵を爆殺した際一時的に2vs1の構図となるので、散らばったクリスタルを拾う際有利になれる点がある。しかし同時に、スタールールにおける「漁夫の利」という醍醐味が失われている。
・以上の理由から、チーム戦としての面白みが皆無。

 要するにクリスタルルールとは、「殺しちゃいけない人」という概念が追加されたスタールールだった。そんな面倒な要素、面白いわけがない。
 仮にクリスタルが完全にチームの共有品となっていれば、爆殺すべき標的が増えると同時に、自分だけが生き延びればいいわけではないゲームとなって(ゲーム性的にどうなのかはともかく)一体感や独特な楽しみが生まれただろう。
 しかし現実は事実上の個人技だ。一人で拾い、一人で逃げればいい。味方がいくら爆散しようと勝敗には関わらない。
 一人でやればいいというのはスタールールも同じことだから、それ自体は悪いことじゃない。チーム戦でしか遊べないのに、チーム戦特有の面白みが一切ないことが問題だった。
 第三者が爆殺されて、大喜びでスターを拾いに行く様式美的な光景も消え去り、数的有利不利の概念がある関係で、スター拾いに夢中になって逆に自分が爆殺される……という様式美パターンも起こりづらくなっている。面白みがことごとく消されているのだ。
 ある種の不死となり、よつどもえになって命の代わりに得点を奪い合う。命もないのに殺し合う(言いたかっただけ)……そんなゲーム下手気味な人にもいくらか優しい「もう一つのバトルロワイヤル」だったスタールールに比べて、クリスタルルールは無駄に面倒かつ、妙なところで生ぬるい、ぼやっとしたゲームだった。
 ぼくは非常にがっかりした。四の五の言わずにスタールールを復権させてくれるだけでよかったものを……と。カービィのエアライドスマホゲームとしてリメイクされたらこんな気持ちかもしれないと思った。
 しかし、実はRに追加されたルールのうち、目玉と呼べる物はそれではなかったのだ。本題はクリスタルとは別にあった。
 チェックポイントというルールで遊んで、ぼくは驚きと感動を覚えることになる。それは一つの憧れを、ぼくの夢を叶えてくれる物だった。
 チェックポイント、それは陣取り合戦のルールだった。各所に配置された陣地を制圧することで、一定時間ごとに得点が入る仕組みだ。制圧の方法は、陣地の近くに居続けること。
 ぼくはそれとよく似たルールを知っていた。バトルフィールドというFPS(一人称視点シューティング)ゲームの、コンクエストというルールだ。あれもいくつかある陣地に近づき、居続けることで制圧して、自チームの陣地が多いほど時間ごとに勝利へ近づくルールだった。
 さらに知名度の高そうな例えを出すなら、少し違うがスプラトゥーンガチエリアがそれに近い。とにかく、そのような感じのルールが、気付けば突如ボンバーマンに実装されていた。
 ぼくは一人称視点だろうと三人称視点だろうと、シューティングが苦手だ。エイムが下手くそすぎるし、会敵すると冗談抜きで、どちらかが死ぬまでトリガーハッピーを起こしてしまう。はっきり言って向いてない。
 けれど今までの人生で、コンクエスト系のルールはシューティングゲームの中にしか見たことがなかった。だから、シューティングゲームで楽しそうに陣取り合戦している人たちを見ると、いつも羨ましくなる。自分もあんな風に楽しみたい……でも向いてないことを自覚している分野で努力するような根性もない……。
 そこに、チェックポイントルールが現れたのだ。それは単なる「ぼくでも出来るコンクエストもどき」ではない。「家族で出来るコンクエストもどき」だった。
 FPSを家族でプレイする家庭なんて、この日本に存在しているのだろうか。あれだけ知名度の高いスプラトゥーンでさえ、家族4人でそれぞれゲーム機本体とモニターを用意して遊んでいる例があるだろうか? いや、きっと無い。
 つまりコンクエスト系のルールは現実的に考えて、あるいはぼくにとって、家族で遊べる代物ではない。仮に家族で遊べるコンクエストもどきが既にこの世に存在していたとしても、ぼくはその存在を知らない。だとするとそれは、ぼくにとって存在しないこととほぼ同義だ。
 そこにボンバーマンRのチェックポイントである。コンクエストだ、自分にも出来るコンクエストだ。まぁなんとも、心が踊る……! こんなところで、こんな形で夢が叶うとは! クリスタルルールへの落胆なんか吹き飛んだ。
 しかし遊びながらも漂う一抹の不安。チェックポイントもクリスタルと同じく、何かが足りないゲームになってしまうんじゃないか。そう危惧していた。
 数分後、そこにはチェックポイントルールに熱狂する、ぼくの姿があった……!



 ……しばらく遊んでみて、わかったことがある。wiiのスタールールは我が家にとって、手放しで賞賛出来る素晴らしいルールだった。ある種完璧なルールだった。一方、チェックポイントルールも確実に面白い。かなり面白い。……けれども、まったく不満がない……というわけにもいかなかった。
 まず、チェックポイントルールの要点は、大体こんな感じだ。

・陣地に居続けることが制圧の条件、つまり制圧には「生き続けること」が必須。バトルロワイヤルほどではないにせよ、死は常に重い。
・しかし不死身でもあるので、やり直しのチャンスはいくらでもある。死ねば死ぬほど数的不利を背負う時間が増えて負けに近づくが、逆に言うとその不利は、死んだ分だけ敵を爆殺すれば取り返せる。死の重みは敵も同じだ。
・一度敵に制圧された陣地も、ゲーム開始時の「中立の陣地」と同じ要領で奪取できる。重要なのは「敵陣地に自分と敵がいた場合、自分側の制圧ゲージ(満タンになると制圧完了)が進行する」ということ。この仕様によって、陣地の所有権は目まぐるしく入れ替わる。

 ……バトルフィールドのコンクエストならば、陣地の範囲内に敵と味方が同数いた場合、制圧ゲージは敵味方共にストップする。誰かが死に、あるいはその場を離れ、どちらかの数が多くなった時、多数派となった側の制圧ゲージが進行を開始して、満タンになれば制圧完了となる。
 一方でボンバーマンは、自分が制圧対象の陣地の中に居さえすれば、敵が一緒にいようと制圧に支障はない。この仕様が醍醐味だ。頻繁に陣地の所有権が裏返るので、攻めこそが重要な激しいゲーム性となっている。
 というのも、敵を照準に収め引き金を引くことさえ出来れば確実にキルできるシューティングと比べて、時間差で起動する爆弾で動き回る敵を仕留めなければならないボンバーマンは、敵をキルすることに関して、プレイヤーの腕ではカバーしきれない難しさがある。どんなに上手くても瞬殺とはいかない。
 だからチェックポイントルールが守りに有利な物となっていたら、試合に動きが少なく盛り上がらない、非常にしょうもないゲームとなっていただろう。そうならなかったことをぼくは物凄く評価している。そして陣取り合戦というルール自体も、やはり普通に面白い。
 陣地を取るためにはそこに居続けること、つまり生き続けることが必要というのも、これまでのボンバーマンと一風変わっていて面白い。死ぬとまずいので逃げ回る、ということが出来ないのだ。チェックポイントルールにおいて、命は、あるだけでは意味が無い。命は、正しく使わなければならない。かといって死ぬことも論外だ。
 そんな「死ぬことは罪。何もせず生きても罪」という、おそらく「忙しさ」においてバトルロワイヤルを超えたと思われる新ルールは、かなり面白かった。大満足だ。しかしあえて不満点も上げようと思う。

・キャラ性能に差がある。
・ルール説明の不足。

 前者については、3種の新ルール共通のこととなっている。通常ルールにおいても「特殊能力の種類や有無」といった差はあるものの、それは設定でオフにできる上、それほど大きな物でもない。
 しかし新ルールのキャラ性能差はすさまじい。誰が優れているということではなく、「差がある」ということについて極まっている。
 まず初期能力が違う。通常ルールなら各自同じ条件で始まり、ゲーム中で拾えるアイテムにて能力値を強化していくことになるのだが、新ルールではそこから違う。そんな常識は通用しない。
 初めから爆風の大きいキャラ、爆弾をたくさん置けるキャラ、足が速いキャラ、アイテムを取って取得するはずの特殊能力を持っているキャラ……などなど、個性豊かな初期能力が設定されている。さらには「能力値」とは別に「能力上限」も決められているときたもんだ。
 全てのキャラが、大きく分けて「ゲーム開始時から強いけど、強化アイテムをあまり取得できない」と「ゲーム開始時は平凡だけど、強化アイテムでどんどん強くなる」の二つに分類されている。幸いにもまともなことに、能力値と能力上限はトレードオフの関係にあった。
 別に、そういう「差」があるからって、だから致命的につまらないというわけではない。明らかに強すぎるキャラがいるわけでもない。が、全員が平等なわけではないのだ。性能の強弱も少なからずある。
 そもそもボンバーマンに、キャラ性能を求める人がいるのか。いたとすれば、ぼくはその人とは趣味が合わない。ずいぶん前、マリオパーティ最新作におけるキャラ性能の差について、ここと同じ場所で長々と文句を垂れたこともあった。そこで今改めて言うけれど、ぼくはこの世に、キャラ性能の概念を持つべきゲームと、そうではないゲームがあると思っている。
 ボンバーマンは当然後者だ。ボンバーマンは、シンプルだからこそいいんじゃないか。むしろぼくはwiiからRになったことで、操作に必要なボタンが一つ増えたことにさえ若干否定的な立場でいるくらいだ。
 性能差というのは、格闘やシューティングなんかの、尖ったゲームにだけあればいいのだ。ああいう物はゲーム性そのものが尖っているからこそ、尖り方にバリエーションを付けた方が面白い。しかしボンバーマンマリオパーティは、ゲーム性の丸さが魅力だろう。
 丸さとはつまり、とっつきやすさのこと。性能差はその魅力を損ねるとぼくは考えている。まだマリオパーティと違って、明らかな強キャラがいないことが救いではあるが……。明らかな強キャラは、尖ったゲームでさえ褒められた物ではない。それが無いことは本当によかった。(まだ「それ」を見つけていないだけ、ということがないように祈る)
 しかし何よりも気に入らないのは、なぜ通常ルールでは「特殊能力なし」の設定が出来るのに、新ルールにはそういったON・OFF機能がないのかということだ。それさえ付けていてくれれば完璧だったのに……と、キャラ選択画面に来るたび思ってしまう。
 次の不満点は、ルール説明の不足。これは結構つらかった。問題なのは、ボーナス得点についてだ。
 チェックポイントルールでは、制限時間終了時にボーナス得点が入ることがある。が、その条件の説明が一切なく、一目見てわかる物でもなかったのだ。
 見てわかる確実なことは「自チーム陣地からボーナスが出る場合がある」ということだけ。この「場合がある」というのが曲者だ。ボーナスが出る時もあれば、出ない時もある。そこに何の差があるのか、初めはまったくわからなかった。
 まず父が最初に仮説を立てた。制限時間が尽きた時点で、最も新しく取得された陣地にのみ、ボーナスが出るのではないか……という説。しかしこれはすぐに、ボーナスの出る陣地が場合により一つだったり二つだったりしたことで、即座に否定されてしまった。二つの陣地がほぼ同時に制圧されてゲームが終わるなんて、そんなレアパターンが二度三度と出るはずがない。
 しかしその説が否定されると、ゲームプレイ中はいよいよ、ルールの把握について手詰まりとなった。まずいのは、ボーナスが「まぁいいか」では済まされないほどの高得点であること。これを把握せずして、ゲーム性も何もあったものではなかった。
 具体的には、時間経過や陣地奪取時には1点や2点がもらえるルールで、ボーナスは10点20点という具合だった。日給が1万2万という世界で、10万円のボーナスが理由も分からずもらえたり、かと思えば理由も分からずもらえなかったりした場合に、「まぁいいか」とは言えないことと同じである。
 この謎を解明するため、ぼくはyoutubeでチェックポイントルールの対戦動画を見た。正直「丸いゲーム」であるボンバーマンの対戦動画を、わざわざ上げてくれている人がいるのかは不安だったが、一応無事に見つかった。
 そしてそれを何度も見て、観察することで、一つの答えにたどり着いた。どうも、制限時間終了時に「制圧ゲージ」が出ていた陣地からは、ボーナスが出ないようだった。
 制圧ゲージとは、それが満タンになったら陣地を乗っ取れますよという印だ。当然、中立や敵陣地の近くにいるとそれが溜まる。しかし逆に言えば、というか普通に考えて、それは「最終的に溜まりきらなければ意味がない物」だとばかり思っていた。
 要するに、制限時間が来た時、敵が近くにいた陣地からはボーナスが出ない……ということらしい。たぶん、おそらく、見た感じではそのように思えた。この説まで否定されたら、今度こそもうお手上げだ。
 この説を正しいとすると、当然、これを知っているのと知らないのとでは、戦略に天地の差が生まれることになる。なのにゲーム中では、このルールについての説明が一切ない。本当に一切ない。まったく、これっぽっちもないのである。
 この際だから言うと、「陣地は近くに居続けることで制圧できる」ということさえ、説明はされなかった。我が家は「このゲームは陣取り合戦です。陣取りに成功するほど得点が入ります」という説明だけを受けて、それっぽい仮説とその実証で、ルールを把握したに過ぎない。
 あるいは、詳しいルール(百歩譲ってそう呼ぶ)は内蔵された電子説明書に書いてあるのかもしれないけれど、説明書を読まなければルールが把握できないボンバーマンを、ぼくは遊んだことがない。これはぼくがRを除くとwii一つしか遊んでいないせいだろうか……?
 何にせよ少なくとも、公式サイトと攻略wikiには、このボーナス得点についてのルールは載っていなかった。これで不満を持たない方がどうかしているとは思わないだろうか……? まるで詰めの甘いフリーゲームをプレイしているような気分だ。
 けれどそれらの不満点を除けば、チェックポイントルールのボンバーマンは素晴らしいゲームだった。だから本当に、惜しいのだ。昔みたいにキャラ性能を無くして(あるいはON・OFF機能を付けて)、ルールをちゃんと説明する。それが出来れば、それさえ出来ていれば、アップデートされたボンバーマンRは文句なしの神ゲーになれたのに。本当に惜しい。もったいない。
 チェックポイントルールに熱中するうちに、ゲーム内通貨もさすがにまとまった額が貯まってきた。まだ見ぬ個性豊かなステージの一つが、晴れて解放される日は近い。それが叶えば、それでやっと3つ目の新ステージだ。40戦以上戦って、ようやく3つ……。やり込み要素でもあるまいに!
 ともあれ、wiiと比べて明らかな強みであるステージが増えていくことで、Rの真の魅力が見えてくる……なんてこともあるのかもしれない。新ステージはバトルロワイヤルルールにしか対応していないが、もはやそれでも構わんと言えるくらいの魅力が、もしかするとそこにはあるのかもしれない。
 ……まぁそんな魅力に出会えたとしても、だとすればなおさら、ゲーム内通貨の貯まりづらさがクソなんだけどな! おとなしくチェックポイントで遊んどくわバーカバーカ。

ー完ー

キングクリムゾンはにんにくが嫌い

 ぼくは失くし物をすることが嫌いだ。そこにあるはずの物がなぜかない、ということに物凄く腹が立つ。

 普通に考えて、自分で自分の管理する場所に置いた物が、勝手に動いたりすることはないはず……なのに失くなる。これを理不尽に感じないという方がおかしい。理不尽かつ自分に不利益な目に遭えば、怒りも自然と湧いてきてしまうというものだ。

 ところで、昨日ぼくは危うく財布を失くしかけた。結局は見つかったからよかったものの、それに関してあまりにも納得できないことがあったので聞いてほしい。

 昨日は病院へ行った。すると受付で保険証を出してから問診票を書いて、問診票の提出と同時に保険証を返してもらった時には、財布がなくなっていたのだ。それはまぁ焦った。何せ自分は今から診療を受けるというのに、一気に無一文となったから。

 しかし、財布がある時突然きれいさっぱり消え去ってしまう……なんてことはあり得ない。消えたように見える財布も結局はどこかに隠れているだけなのだから、記憶をたどれば在り処がわかるはず。ぼくはそれまでの自分の経緯を遡ってみた。

 

・その1……朝、玄関で親から「病院代+ストック切れした柔軟剤の補充代=1万円」を受け取り、それを財布に入れて、財布はリュックサックの中に放り込んで家を出る。

・その2……病院到着後、受付が並んでいたことを確認した自分は時間を潰すために、ポケットからスマホを取り出す。その後受付の列が解消された頃合いを見て、スマホをリュックサックの中に放り込む。

・その3……スマホを片付けついでにリュックから財布を取り出し、そこから保険証を取り出して渡す。引き換えに問診票を受け取るが、その際受付カウンターに財布を置き忘れそうになり「あぶねっ」と財布を掴み取る。

・その4……椅子に座ってから財布をリュックの中に放り込み、問診票を記入。そのまま問診票は提出して、このタイミングで保険証が返ってくる。当然それを財布にしまおうとすると……リュックの中に財布がない!

 

 ……というのがこれまでの経緯だった。

 確実なのは、この経緯という名の「ぼくの記憶」のうち、どれかが間違っていること。そうでなければ財布は突然消えたりしない。いくつかの疑いを一つずつ解決していけば、理屈的には財布は見つかるはずだと言える。

「疑いその1……財布をリュックに入れ損ねた」

 まずこれが一番怪しい。財布をリュックに片付ける際、リュックの中に腕を突っ込んだわけではなく、放り込むようにした記憶があるからだ。

 記憶違いは「リュックの中に放り込んだ」というところで、実際は狙いを外し、財布がそこらへんに転がったのではないか。……ということで椅子の上と床を探してみたのだけれど、財布はなかった。待合室は広大というわけでもなく、見落としがあるとは思えない。

「疑いその2……受付のカウンターに置きっぱなし」

 置き忘れたところの記憶だけが正しく、それを掴んで回収した記憶が間違いな説。直前までスマホをいじっていたこともあり、「握る」という動作のみを共通点として、「スマホ」と「財布」が記憶中でごちゃ混ぜになっている可能性を考えた。

 カウンターの上を目視で確認、受付の人にも口頭で確認を取ったが、財布はない。有力説が二つも否定されて、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。

「疑いその3……リュックの中を見落としているだけ」

 そもそも財布はなくなってなどいない説。一度リュックの中の物を全て外に出してみた。……が、やはり無い。財布という物理的にそこそこ大きい物が、リュックの中をいくら探っても見つからないけど中身全部ひっくり返したら見つかりました!……なんてことになってくれるわけもないのだ。

「疑いその4……そもそも自分は財布を持ってきていない」

 疑い方もかなり苦しくなってきた。要するに自分は「経緯その1」の時点で、親とやり取りをしたあと玄関に財布を忘れてきたのではないか、という説だ。この説の場合、保険証は記憶と違い、実はスマホケースに入れていたと考えることになる。

 この説を信じるということは、「玄関で財布をリュックに入れた」「リュックから財布を取り出し、保険証を提出した」という二つの記憶が、どちらも間違いであったと考えるということだ。さすがにそんなことがあり得るのだろうか……?

 念のため家に連絡を入れたが、案の定玄関に財布はない。そりゃそうだと思いながら、まだ残っているはずの疑いを考え出す。

「疑いその5……ポケットの中」

 一応探った。あるわけがなかった。

「疑いその6……疑いその1が成立後、誰かに拾われた」

 残る可能性はこれくらいだとしか思えなかった。リュックに入れ損ねてそこらへんに転がった財布を、ぼくが焦って何度もリュックの中を確認している間に、誰かが拾ってしまったのではないか。……が、これも実際には考えづらい。自分の記憶さえ疑わざるを得ないような人間が、他人を疑うなんてちゃんちゃらおかしい気がした。

 そう、そもそもおかしいのが、自分の記憶を疑わなければならない点だ。強烈な精神疾患を持ち合わせているわけでもないのに、自分の行動を「忘れる」ならともかく「覚え違う」なんて、そんなこと起こり得るのだろうか……?

 数々の疑いが財布を見つけられなかったことから考えても、おそらくぼくの記憶は間違っていない。なのに財布は消えた。……これだから、失くし物が嫌いなのだ。むかっ腹が立つ。理屈に合わないことが起こり、自分が不利益を被る、しかも「親から金を渡された+病院の診察直前」なんていうタイミングで。湧いてくる怒りをどうすればいいのか分からない。

 結局は親を呼んで、ひとまず診察料金を払ってもらった。そして病院を出てから改めてリュックを確認することになる。……すると見つかった。財布が、あっさりと、秒で見つかった。

 財布はどこにあったのか。その答えが、これ。

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 白いレールのような部分がリュックを開け閉めするジッパーである。財布があったのはその中ではなく、指で広げている外側のポケット部分。真ん中がボタンで留められているポケット部分の奥底に、財布は転がっていた。

 つまりぼくはジッパーの中に財布を入れたつもりが、このリュック外側ポケットに放り込んでしまっていた……ということらしい。記憶違いはそこだった、疑いその1は惜しかった。

 と、分かってしまえばしょうもない話……なんてことにはならない。これを見てほしい。

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 赤いラインが入っているのが財布で、黒いポッチが一枚目の写真でボタンの留め具があった位置である。

 サイズ感から考えて、片手間に放り込んで中に入るようにはなっていない。ボタンで引っかかってしまう。しかし実際は奥底に財布が入っていた。

 放り込んだという記憶が間違いで、実際は押し込んでいた説がある。さすがに押し込みでもすれば、外ポケット部分にも財布が入らないことはないだろう。問診票の記入という次のタスクによって、財布を片付けるというタスクに十分気が回っていなかった可能性も妥当性がある。

 が、問題はそんな気の散った状態の「片手間な作業」で、外ポケット部分に財布を押し込めたのかという点だ。ご存知の通り外ポケット真ん中の留め具はボタン、あくまでボタンだ、縫い付けられているわけじゃない。けれど財布がそこから見つかった時、確実にボタンは閉じられていた。

 二枚目の写真にあるようなサイズ感の物を、気が散った片手間で、力任せにボタンを外しながら押し込んだのではなく、きちんと工夫して綺麗に中へ納めることが出来るのか? そもそもそれが出来たとして、なぜぼくはそれを「放り込んだ」と記憶しているのか。元々ボタンは取れていて、そこに財布を放り込んだあと偶然ボタンが留まった……というのはさすがに無理がある。マジックテープじゃあるまいし。

 気が散った状態の自分、言うならば半ばオートパイロットのようになってしまった自分が、繊細な作業をしつつ記憶を大きく違えていた……なんて答えを聞いて、納得できるわけがない。そんなことあるわけがない、と思いたいからだ。

 これが事実なら、ぼくは自分の記憶に一切確信が持てなくなる。「押し込んだ」と「放り込んだ」を覚え違えたら、もう何を覚え違っても不思議ではない、記憶に確信が持てなくなってしまう。その上オートパイロット状態の自分が思っているよりも高性能となると、いよいよ「自分が何をしたか」について断言できることが何もなくなってしまう。自分の行動の全てが「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」になってしまう。冗談じゃない、そんなことあっていいはずがない。

 しかし、これは「見つかったんだからよかったじゃん」と言ってくれた親にも言われたことだけれど、「そこに入ってたってことはそれ以外の答え無いでしょ」という話に、ぼくはまったく反論できない。無意識に上手く押し込んでいた……ということ以外、外ポケットに財布が入っていた理由を説明できない。

 結局、財布の騒動は現物が見つかったのでそれで解決……ということになったけれど、ぼくにとってこれは、手放しで喜べる話にはならなかった。

 

 

 

 ぼくが失くし物に腹を立てるのは、それが理不尽だからだ。自分の管理下において、そこにあるはずの物がない……というのは、この世の法則に反しているとさえ思う。魚が空を泳ぎ、樹木が歩いて喋るようなものだ、自分の管理下から勝手に物が消えるということは。

 この理不尽の正体がはっきりしていて、なおかつ悪質ではないのなら、まだ許せる。よく親にやられるのが「出しといたよ」というやつだ。ぼくが料理をする時に向こうは親切のつもりで、その時必要な食材を冷蔵庫の中から取り出して、台所なりテーブルの上なり、どこかしらに出しておいてくれることがある。

 けれども、ぼくにとっての失くし物は「「そこ」にあるはずの物がないこと」である。冷蔵庫に入っていたはずの食材が、冷蔵庫の中を探しても探しても見つからず、もしかしてぼくの知らないうちに使ったのかと聞くと、「出しといたよ」と言われると……正直、頭に血が上る。出しといたよじゃねーよ、余計なことすんな、という言葉を吐き出さないよう気を付けなければならない。「なんで出しちゃうかな」くらいは時々言うけれど。

 そういう例から理解してほしいのは、ぼくが嫌いなのはとにかく「そこにあるはずの物」が「そこ」にないことであって、物が消えてしまうことではない。食材の場合は結局すぐ見つかるわけで、物が消えているわけではないのだけれど、それとは関係なく腹が立つのだ。

 食材の場合、ぼくの言う「理不尽」は「親」ということになる。正体がはっきりしていて、悪意はないことがわかっているので、そこまでわかっていれば腹は立つものの、それほど大きな問題でもない。「また「出しといたよ」だな……」と察しがついたら本人に聞けばいいだけで、その都度の解決も簡単だ。問題と呼ぶほどのことじゃない。

 一方、財布の件に関して問題なのは、その理不尽正体が「自分」と判明していることだ。財布をなくしたのは「自分の無意識」や「自分の記憶違い」であって、理不尽の正体は他人ではない。おまけに、なぜそれが起こってしまうのかまでは不明ときている。

 そもそもぼくは大前提として「自分で自分の管理下に置いた物が、勝手になくなるわけがない」と考えているから失くし物を「理不尽」と呼ぶけれど、その理不尽の正体が自分ということになってしまうと、前提の方が崩れてしまう。自分で自分の管理下に置いても、他人の干渉無しで物は失くなることがある……となってしまう。

 そんなおそろしいことってあるだろうか?……というのが正直な感想だ。自分が信用できないって、そんなつらいことが他にあるだろうか。自己肯定感が低い人は「自分はダメだ。自分は出来ない」ということをある意味信用しているわけで、自分に対して自信ではなく信用がないというのは、かなりおそろしいことだとぼくは思う。

 そんな状態で今後を生きていくなんて御免だ。これからも油断した頃に度々物が消えて、なんとかそれを見つけ出せたとしても「なんでそうなったのかわからない、納得できない」+「それをやったのは自分だ」なんて事実を突きつけられ続けるのは、ぼくは御免被る。そんな理不尽と共には生きていけない。

 財布が失くなった際、病院の中でぼくは友人へ、この作文のように経緯を説明して「他に疑う余地あると思う……?」と助けを求めていた。ぼくには気が付かなかった見落としに、他人なら気が付くかもしれないと思ったのだ。最終的には友人の方としても「そんなの文章だけで分かるかよ」と言いたくなるだろう結果が残ったけれど、それはともかくその友人が言っていたことがある。

「自分は小さい頃そうやって親に教えられたから、失くし物を探す時は頭の中で「にんにくにんにく」と唱えながら探す。物を失くすのは魔女が物を隠しているからで、魔女はにんにくが嫌いらしい」

 その「魔女とにんにく」の話を聞いたリアルタイム当時では、夜に笛を吹くと蛇が出るとか、爪を切ると親の死に目に会えないとか、その手の呪術じみた話のようにしか思えなかった。

 しかしその後財布の在り処が判明すると、ぼくはその話を思い出して納得した。いかにも魔女の仕業だ、というふうに。もちろん魔女の存在を信じて、にんにく呪文の効果に期待するわけではない。ただ自分にとっての失くし物は、なるほど魔女の仕業と表現したくなるところがある……と、表現として気に入った。

 けれども魔女は自分の中にいる。時々出てきてぼくを困らせる。財布等の重要な物を隠して困らせるのもさることながら、自分の記憶に確信を持てないようにさせてくることが恐ろしい。

 しかし思い出してみると、そのようなことは今回の財布が初めてではなかった。最も印象的で、おそらく初めて記憶した「魔女の仕業」は、数年前、ぼくがアルバイトをしていた時のことだった。

 当時のぼくは、中古の服を仕分けるバイトをしていた。ぼくの所属する部署の人たちが、一般の人から売られ送られてきた服やアクセサリー等を種類ごとに仕分けて、仕分けた物を受け取った別の部署の人たちがなんやかんやして、最終的に値が付く物はネットで売られることになる。大量の服がジッパー付きの袋に入れられて倉庫内に腐るほどあり、それを地道に仕分けていく作業だった。

 中身が多くて袋がパンパンに張っている場合、ジッパーが勝手に開くことのないように、結束バンドでジッパー部分が固定されていることもあった。そしてその固定を解除するために、人数分のニッパーが作業台の上に置いてある。アクセサリーを入れるための「ジップロックの小袋」や「付箋の束」が入れられたペン立てのような物に、そのニッパーも持ち手を引っかけるようにして入れられていた。

 作業中、ある時先輩に言われた。

「あれ、ニッパーどこやったの?」

 見ると、ペン立てに引っかけているはずのニッパーがなかった。けれどその時ぼくはまだ、それを失くし物だとは認識していなかった。

 トイレなどで席を外している時もあったし、ニッパーが必要になるほど中身の詰まった袋をしばらく触っていなかったこともあって、ニッパーが消えたこと自体はそこまで不思議に思わなかった。近くで作業をしていた誰かが知らないうちにニッパーを借りて行って、今にも返しに来るのではないかと思っていた。

 けれども、仕分け終わって梱包された物(やがて次の部署へ運ばれる物)の中に、ニッパーが混入しているのではないかという話になり、一度全てひっくり返して調べることになった。

 この時ぼくは、それだけはないと確信していた。ニッパーを引っかけていたペン立てのような物は紙素材で非常に軽く、その中に入れていた物も「小さなジップロックの袋」や「付箋の束」といった軽い物しかない。仮にそこへ引っかけてあったニッパーが作業をする中で服に引っかかり、うっかり移動してしまったのだとしたら、ペン立てごと倒れるだろうと考えたのだ。

 軽い軽いペン立ては立っているし、それどころか初期位置から動いた様子もない。ニッパーほど大きな物が服に上手く引っかかって、なおかつ落っこちることなく別の場所へ混入するとか、作業中それに一切気が付かないとか、そんなことあるわけがない。……と思っていたところ、まぁお察しの通り、仕分け終えて梱包済みの袋の中からニッパーが見つかった。

 これについて「危ないからマジ気を付けてね」と言われたくらいでそこまで怒られたわけではない……という話をすると「信じられないくらい優しい職場だ」との感想を返されることが多い。実際信じられないくらい優しい職場だったとは思う。けれどぼくはあの時の自分が、一ミリも「悪いことをした」と感じていなかったことを覚えている。あの時のぼくにとって……いや今のぼくにとっても、あのニッパーは勝手に消えた物なのだ。

 あれから数年経って、病院で財布を失くした時、「あのニッパーだ」と思った。あり得ないと思ったことが起こる、そこにあるはずの物が勝手に消える。そしてやはり、最終結果を見せられても納得できない。「あ、そういえば!」「そうか、あの時!」という気付きや思い出しは、結果を見せられてもまるで自分に訪れない。「ほら、お前がやったんだ」と見せられても言われても、何度でも言うけれどそれは「勝手に消えた物」なのだ。

 魔女が消した、本気でそう思う。さらに、魔女がもしも「物を消す」のではなく「記憶を消す」ことをしていた場合、心当たりはまだ増える。

 一週間近く覚えていた約束を、約束の当日ど忘れする。帰ったら連絡するねと言って別れた相手に連絡することを、徒歩十分未満の道のりで忘れる。その他にも人の誕生日を覚えるのが苦手とか……いや何なら、駐輪場で番号を確認してから精算機まで歩くまでの間に、その番号を忘れたこともある。

 ホラー気味な話なら、友人から借りた本を失くして、いくら探しても見つからず「ごめん……!新しく買うから……」と謝ったところ、「何言ってんだよ、返してくれたじゃん」とその場で現物を見せられたこともあった。そのような例の数々から考えて、どうやらぼくは時々、深刻に様々なことを忘れるらしい。

 自分の記憶していることの「内容の確かさ」はともかく、そもそも「記憶する能力」が低いことは数年前から明らかだった。これが「数年前から記憶力が落ちた」のか「記憶力の低さを数年前にようやく自覚した」のか、どちらなのかはわからない。

 忘れると覚え違うでは大きな違いがある。駐輪場を例えに出すなら、番号を丸っきり忘れてしまうのが「忘れる」で、正しいと思って間違った番号を入力するのが「覚え違う」だ。忘れることについては自覚があったが、財布を失くした件で、ぼくは覚え違うことについてもポンコツなのかもしれないと思い始めることになった。

 心外なのは「興味がないから覚えないのだ」と言われることである。確かにぼくは妙なところで無駄に良い記憶力を発揮することもあるので、他人からすると記憶力の差が興味の差に見えるのだろう。けれど違う、どうもぼくはエピソードを記憶する力だけが優秀らしい。

 つまり「面白い話」を覚える力だけが高くて、その他がダメなのだ。「面白い話」ばかり覚えているから、興味の差が記憶力の差に見えてしまう。しかし考えてみてほしい、自分の自転車を回収するための番号に、興味がないなんてことあり得るか……? もちろん駐輪番号も人の誕生日も、努めて意識すれば覚えることはできる。だからといって皆が皆、日常のちょっとしたことを、努めて意識することによって覚えているとは思えないのだけれども。

 そこで、連想したのはキングクリムゾンだった。ジョジョの奇妙な冒険という漫画に、キングクリムゾンという名前の異能力が出てくる。それは「自分以外の人間が「キングクリムゾン発動中に起こった出来事」を認識できなくなる」という内容の物で、その能力を使用された側からの視点でもってキングクリムゾンは「時を飛ばす能力」と呼ばれていた。

 財布を失くした時は、まさにそのキングクリムゾンに被弾したような気持ちだった。ニッパーを失くした時も今思えばそうだ、時が消し飛んだような感覚だ。「物を失くした」という結果だけが残って、過程がまったく自分の中に残らない。現実を生きているはずなのに、異能力をくらっている気分なのだ。

 これははたして、よくあることなのだろうか。世の中の他人たちは、みんな時々キングクリムゾンをくらっているのだろうか。普通は失くし物が見つかった時、「あーそうだった!」と思うんじゃないのか。「なんで?」とはならないんじゃないか。そう考えてしまう。

 細かい記憶はしょっちゅう消える。何なら覚え違いも起こす。それが原因で仕事をミスすることもあれば財布を失くすこともある。……本当にみんな同じ条件で生きているのだろうか? ぼくは非常に疑わしく思っている。

 時を飛ばす魔女の力から逃れる方法は、呪術じみた「にんにく」以外まだ何一つ考案さえされていない。強いて言えば「常に油断しないこと」だろうか。……世の人間の大多数が、そうしているとは思えないけれど。

 みんな特に気を付けなくても、物も記憶も消えないんじゃないか。そう考えると、それ自体すごく腹が立つのだった。だってそれこそ、ぼくへの理不尽以外の何物でもない。

欠損少女を描くことは罪なのか

 二次創作をメインに活動する、ある絵描きの人が言っていた。
 自分はオリジナルキャラクターを作ってもすぐに飽きてしまっていたが、思えば片目が無いとか片腕が無いとか、自分の趣味に正直なキャラを作っていれば、もう少し飽きずに続けられたんじゃないか。……と。
 趣味だから、という理由で五体不満足の少女を描くことを、あなたは罪だと思うだろうか。ぼくは正直、直感的には「罪だ」と思った。そしてそれは、どちらかといえば一般的な感覚であると考えている。
 でなければ、その人はとっくに自分の趣味に忠実な、理想の欠損少女を描いてネットに公開していただろう。なぜ実際はそうしなかったのか? ぼくが考えた理由は二つ。
 本人が「それは罪だ。罪を犯すわけにはいかない」と自重した説。本人に罪の意識はなかったが、衆目に晒せば多くの人が「それは罪だ。罪を許すわけにはいかない」と考えるだろうと予見して、結局は自重した説。
 ぼくにはこの2パターン以外が思いつかなかった。口ぶりからして「オリジナルキャラクターの制作」そのものに関しては試していたようなので、やる気が出なかった説はないだろう。だから仮定として、その2つのうちどちらかが理由だったとする。
 ぼくがそうであったように、その絵描きの人も、あるいは衆目を形成する人間たちも、それなりの割合で「趣味を理由に欠損少女を描くことは罪だ」と考えているはずだ。もっと言えば「趣味が欠損少女であることは罪だ」と思っているだろう。
 そうだとしたら、けれどなぜぼくたちは、それを罪だと思うのだろう。法律に則った感覚ではないはずである。もっと本能的な感覚で、罪を認識しているように思う。
 考えた末、なぜ、に対する答えを、一つ思いついた。ぼくが思うに、その罪の意識の背景には、男女間の性的搾取の問題がある。
 男性は女性を性的に搾取してはならない……というテーマが話題にされることはしょっちゅうだ。けれども、その逆はあまり聞かない。それはなぜだろうと考えると、原因は女性が男性よりも、どう言い繕ったって弱いことだと思われた。
 女性が男性よりも強ければ、搾取という概念はあまり確立されなかったように思う。なぜかって、確立させる必要もないからだ。気に入らなければ力でねじ伏せればいい。それが出来ないどころか、むしろ自分たちが力でねじ伏せられかねないから、それを危惧して抗議をするに至るわけだ。
 これは別に女性をバカにしているわけではなくて、このことについてぼくは至極真っ当なことで、然るべき流れだと思っている。筋力にせよ社会的地位にせよ、そういう「力」がもし男女で逆だったら、今頃ぼくたち男が搾取について抗議していただろう。
 相対的に強いものと弱いものがあるから、搾取という概念が生まれて、搾取=罪という概念も生まれる。ならば「強いもの」と「弱いもの」だけでなく、「とても弱いもの」という3つ目の概念が世の中に存在していたら、どうなるだろう。
 年端もいかない少女は、成長して大人となった女性よりも弱い。五体不満足の女性は、五体満足の女性よりも弱い。相対的強さの頂点にある「何不自由ない男性」との、強弱の振れ幅が大きくなればなるほど、搾取、罪の概念、感覚も大きくなっていく。趣味で欠損少女を描くことは、数ある罪の中でもかなり重い。
 けれども、「それが自分の趣味だから」……という理由で描かれた欠損少女に対して、「それは罪だ」と言う人たちは、同じ理由で描かれた、巨乳で露出過多で性行為に積極的な女性キャラクターに対しても、同じくらい強い気持ちで「それは罪だ」と言えるだろうか。
 たぶん、言わない。というか、ぼくは言わない。それはそういうものだから好きにすればいいと思ってしまう。エロ漫画の読みすぎ、という言い回しで人を批判することはあっても、エロ漫画を作った人まで批判しようと思ったことは、ぼくは一度もない。
 じゃあなぜぼくは、欠損少女に対してだけ「見ること」ではなく「描くこと」から罪だと感じてしまうのか。エロ漫画は多くの需要に応えた物で、欠損少女はそうではないからか? けれどぼくはニッチなジャンルを批判する気もなければ、それを罪と感じることもない。境界線はどこにある?
 おそらくは、搾取の罪の重さが一定のラインを超えると、ぼくはそれを「罪だ」と感じるのだと思われる。男に都合の良い女を描くことも、安易に欠損少女を描くことも、どちらも搾取の罪を含む行為だけれど、後者の方が罪が重い。逆に言えばぼくは、罪の重さが一定ラインを超えなければ「罪だ」と認識することが出来ないようだった。
 そのラインが明確にどこへ引かれているのか、それはわからない。けれど少なくとも「安易な欠損少女はアウト」らしい。……大多数の人も、そうなんじゃないか。みんなそれぞれ自分なりの罪検知ラインを持っていて、欠損少女はそのあまりの罪の重さで、万人のラインを超えていったのではないか。
 明確なラインは法律が決める。個々人のラインの違いを議論することは、多くの場合不毛な結果を生んでしまう。だから何が正しいとか間違っているとか、そういう話ではなくて、少なくとも「これがぼくの考える(二次元やフィクションにおいて)理想の女性です」と言って描かれる欠損少女は、大多数の罪検知ラインを超えるらしい……という事実だけを確認しておきたい。
 その上で、伝えたい話がある。
 別のある絵描きの人が、事故で両腕を失った少女を描いていた。デフォルメされたかわいらしい絵柄だったけれど、薄っぺらで空っぽな長袖がゆらゆらと揺れる様子が、半ばその少女キャラクターのトレードマークと化していたようにぼくからは見えた。
 そしてその絵描きの人は、「性行為に抵抗感を持たず積極的」とか「異性からの嫌らしい目線を肯定的に捉えている」といった「エロ漫画的な、搾取とも呼べる要素」の一員として、「虐待を受けていた過去がある」を並べるような人だった。等身の低いかわいらしい絵柄からは想像し難いことだったけれど、事実そうだった。
 本人がそう名言していたわけではないが、作られるオリジナルキャラクターを見ると明らかにそうだった。「それが魅力的だから」という理由で、両腕を失った少女も作るし、虐待を受けている少女も作る。おまけにそれらは設定が詳細だった。どういう経緯で腕を失ったか、どんな虐待を受けているか、全て設定が決められていた。
 その絵描きの人のことを「度し難い」と感じる人がたくさんいることと思う。ぼくも初めて見た時は「いつか、怒られるでは済まないことになるんじゃないか」と思った。それらの「設定」は、どこかでは実際の人間にも「現実」として実在しているのだから。
 けれど、その人がある動画を上げていた。自分で描いた絵を、パラパラ漫画の要領で動かした動画だ。それはあるアニメのエンディングに出てくる、特徴的なダンスのパロディだった。
 何人かの少女たちが、パロディ元と同じように笑顔で、楽しそうに、踊りを踊っていた。その中には件の、腕のない少女もいた。他の人がバンザイをするような動きで踊る中、彼女も同じように踊っていた。揺れる袖がやはり印象的だった。彼女を含め、みんな笑顔だった。
 ぼくは、その動画に希望を感じた。写実の正反対にあるような、マスコットのような画風で描かれた腕のない少女が、五体満足な少女たちの中に混じって、みんなと同じように楽しそうに踊っている絵面を、ぼくは他に見たことがない。
 もしも世の中がもっと厳しく、万人のラインを超える罪を取り締まっていたら、その人は度し難い趣味を衆目に晒すことはしなかっただろう。けれどそうするとその世界線では、今説明したような動画も衆目に晒されはしなかったことになる。
 どっちが息苦しい世界なんだろう……そう考えてしまった。言い繕っても仕方がないので断言するけれど、ぼくは腕を失った人の気持ちが少しもわからない。だからこれから言うことはしばらく妄想になってしまうけれど、言わせてもらいたい。
 もしも、この世に存在するキャラクターが全て五体満足の世界があったとしたら。腕を失った人たちは、実在する欠損少女たちは、そんな世界に生まれるよりは、今の世界に生まれた方がいくらかマシなんじゃないか。法律に則らない「感覚での罪」を取り締まってしまったら、それで出来上がる世界は、今よりもっとディストピアに近付くんじゃないか。
 子どもが親を選べないせいで起こる不幸がある。しかし、もしも子どもが親を選べるようになったら、どうなる。不幸な子の数は減るだろう、けれどゼロにはならない。大人でさえ判断を誤ることは多々ある。仮に「生まれる前の子ども」を大人程度に賢いものとしたって、間違いなく「親を間違える」子どもは出てくるだろう。
 良かれと思って作った「子どもが親を選べる世界」では、大人が不幸な子どもに対して、「自己責任」という言葉を投げつけるディストピアが待っているんじゃないか。ぼくは時々そう考える。
 欠損少女と罪についての話も、それに似ているような気がした。多くの何かを守ろうとして、守ろうとしたものに物凄く近い、別の何かを、さらなる地獄に追いやってしまうこともあるんじゃないか。そう思えるのだ。
 度し難い物を数多く生み出す人は、良い物を一つも生み出さないなんて、そんな風に決まっているわけじゃない。100の罪を生む中で1の良さを生み出すこともあるかもしれないし、その1が、他の人には出せない唯一無二の良さである可能性だってゼロじゃない。
 誰かを慰めるために作られた欠損少女キャラクターが、あの動画で感じたような希望を与えてくれるとは、ぼくには到底思えない。趣味で描くからこそ生まれる良さがあるように思う。本人にとっての「普通」で描かれるから、「特別」にはない良さがあるように思う。直接的な言い方をするとその「良さ」は、欠損少女を登場させることについて「押しつけがましさ」がないことだった。
 乙武洋匡が年末のお笑い番組で、スターウォーズR2-D2の仮想を披露したように、「過剰な腫れ物扱いへの否定」はどうやら実在している。だとすると、「特別」ではなく「普通」が大きな意味を持つ時もある、そうに違いない。
 そうするとあの動画は、やはり希望だったように思える。そして同時に、それがいわゆる「まともな人」が作れる物とは、どうしたって思えない。
 けれども、もちろんその「1の良さ」のために、100の度し難さを全ての人が許容するべきだ……なんてことも言えるはずがない。1の良さを称えることが自由なように、100の度し難さを貶すこともまた自由だ。……じゃあどうすればいいのか、ぼくは何が言いたいのか。
 結論はこう。少なくとも「表現」に関して、人間は永遠に戦うしかない。
 どうしたって我々は、気に入らない物に対して、戦い続けるしかない。それしかない。「そんな物を描くのは罪だ」と言い続ければいい。「やかましい、俺は俺の描きたい物を描く」と中指を立ててしまえばいい。戦うしかないのだ。競走にしろ戦争にしろ、争いや戦いの中で進歩する物があるように、「表現」は戦いの中で進歩するべきだ。そして戦いの中から希望を見つけていくべきだ。
 人のあるべき姿は闘争だなんて、そんなことを言うつもりはないけれど。抑圧されたディストピアより、常に小競り合いの続く今の方がずっといい。戦うことに意味がある。独善的なエロでもゴアでもなんでも描けばいい。それを批判すればいい、擁護すればいい。それが健全だ。罪についても存分に議論、もとい言い争いを繰り返せばいい。そうすることに意味がある。
 ただ、一つだけ注意したいことがある。何を描くのも自由、何を言うのも自由だとは思うけれど、一つだけ気を付けた方がいいことがあるのだ。
 もしも全ての創作者が、常に戦いの意欲に溢れているというのなら、この注意は必要ない。無限に戦えばいいだけのことだから。けれど実際のところ、戦意は有限だ。過度に戦いを恐れる必要もないけれど、狙って争いを巻き起こすことは基本的に避けたいはず。
 作品や発言を見聞きさせる相手には、注意した方がいい。誰が見ているのか予測もつかないインターネットの海に作品を投稿することは、常に限りなく自由な行為に近いけれど、しかしある程度相手が絞れるような……例えばそう……献血ポスターとか。もし戦意が尽きているなら、回復するまでの間はああいう「少なくとも、いつもと違う客層に見られることは予測できる物」に関わることは、控えた方が身のためなのかもしれない。
 ……さて、言いたいことも言ったので、オチとして最後にこの言葉を添えて、今回の作文を締めくくることにする。
 今回例に上げた、たぶん多くの人が度し難いと思う絵描きさんたちの趣味。ぼくも直感的に「これはまずそうだ」とは思った。思ったけれども……ぼくもそういう趣味が好きだ。ぼくはたぶん、「そっち側」だと思う。

夢日記、途中から見た映画。

 気付いたら映画を見ていた。すでに話はいくらか進んでいるようで(そう見えたというだけで、実はプロローグだったのかもしれないし、クライマックスだったのかもしれない)、途中から見ている自分は、なんとなくの雰囲気で話を理解するしかなかった。

 舞台は少なくとも海外。主人公の若い男はこれといった特徴がない、好意的に見れば好青年と呼ぶこともできるような出で立ちだった(以降この主人公を便宜上「A」と呼ぶ)。

 Aは、黒コートにボルサリーノ帽という、いかにも怪しい恰好をした男の案内で、森の中に建つ館にやって来たようだった。相当な距離を移動したらしく、Aの顔には若干の疲れが見える。一方怪しい男の方は、帽子が影になって顔が見えない。

 森の中の館の受付には、女がいた。職務中に酒と煙草をやるタイプの、小汚いなりをした女だった。女は主人公を見てそれなりに驚いたようだったが、Aの表情が浮かべた驚きはその数倍だった。

「こんなところで会うと思わなかったな」

 外で風が吹き、木の葉の擦れる音が館の中まで聞こえてくる。Aも彼をここへ連れてきた男も、一言も話さない。けれどもどうやら、Aと受付の女は親しい関係にあるようだった。

「好きに見ていきなよ。ヤるならお題はもらうけどね」

 顔パス同然に受付を通り抜けて、館の奥に入っていく二人。やがて遠くの方から、女の悲鳴が聞こえてくる。それに気付いたAは、悪夢を噛み潰すように険しい顔を見せた。

 やがて、いくつかの個室に繋がる通路にやって来る二人。館はホテルかカラオケに似た作りをしている。しかし個室の防音性は気休め程度の物で、悲鳴はそれぞれの個室から聞こえてきていた。

 その通路にまでやってくると、悲鳴の主が単なる女性ではなく、子供であることがわかる。何人もの子供の泣き叫ぶ声が、個室の中から通路に漏れだしている。中には助けや許しを乞う声もあった。

 個室のドアは防音性に欠けるどころか、中央にガラスがはめこまれていて、部屋の中を覗きこむことは容易だった。Aは現実を確認する。個室の中では、歳が二桁になって間もないであろう女児が、大人の男の性行為の相手をさせられていた。

 その館は受付の女が、つまりAの友人が取り仕切る売春宿だった。Aが通路に置かれていたベンチに座り込むと、怪しい男も彼の隣に腰を下ろす。そのまましばらく、Aはうつむいたままでいた。

 そこでカメラが移動して、視聴者であるぼくはそれぞれの個室で行われる様々な行為を見せられる。まずそれぞれの個室の入り口に、日本円にして数十円から数百円の金額が書かれていることが確認できた。

 ある部屋では、図体の大きい男が複数人、寄ってたかって少女を犯していた。

 ある部屋では、「前と後ろ、どっちに入れてほしい?」と、下種の笑みを浮かべた全裸の男が少女に問いかけていた。

 ある部屋では、注射器で少女に薬を打ち込む男が、自分自身もラリっていた。

 ある部屋では、薬品で喉を焼かれて声が出せない少女が、苦悶の表情を浮かべて涙を流していた。

 ある部屋では、たすけて、ゆるして、死んじゃうと少女がわめくほど興奮して、彼女の体を殴りながら犯す男がいた。

 ある部屋では、拳銃を突き付けて脅し、少女に自ら腰を振らせる男がいた。少女は股から血を流していた。

 ……散々地獄のような光景を見せられてから、視点がAのもとに戻ってくる。依然彼はうつむいたままでいる。

 そんな彼の耳に、一つ異質な声が聞こえてきた。それは拙い歌声だった。おそらくまだ男が誰も入っていない個室から、中にいる少女が歌っているのだろう。……けれど、どこからかやってきた男が個室の一つに入ると、その声はぴたりと止んでしまった。歌う少女の部屋に入った男は、薬品のような物を持っていた。

 悲鳴がこだまする暗い通路で、どれくらいの時間動かずにいたのだろう。うつむいた姿勢のまま死んだように動かなくなったA、同じく電源の切れた機械のように動きを止めた怪しい男。

 ……そこへ一人の男が新たに現れる。彼は少しの驚きを含ませた声でAに話しかけてきた。

「あれ、君もこんなところへ来るのかい?」

 顔を上げたAは、声の主を見て目を見開く。そこで入った一瞬の回想によると、Aに話しかけた男は彼の仕事仲間であり、同性のAから見ても美形で仕事もできて、なおかつ親しみやす人柄の、言ってみれば完璧なタイプの人間らしい。Aも彼のことを尊敬していたし、彼を友人のように思っていた。

 Aがわなわなと口を震わせる。男に対する返事は出てこなかった。すると男は「誰にも言いはしないよ」と笑顔で言って、個室の中へと消えていった。

 Aは思わず彼の入った個室を見る。すると彼は、中にいる少女に話しかけているようだった。

「君のために用意したんだ。喜んでもらえるかな……?」

 両腕に何かを抱えた彼がそう言うが、何を抱えているのかまでは彼の背中に隠れてしまって、Aからは一切確認できなかった。ただ確実なのは、男と対面する少女が、心の底から怯えきった顔をしていることだけ。

 魂が抜けてしまったみたいに、Aは再びベンチに座り込む。彼がどすんと落下するように腰を下ろしたので、古びたベンチの脚は大きくきしんだ。怪しい男はまたしても彼の横に、静かに腰を下ろした。

 ベンチからちょうど、一つの個室の中が見える。今度はうつむかず、光を失った目で、あるいは何かを決意したような目で、Aはその個室の中を見た。

「殺すなら殺せばいい。自分では決心がつかなかった」

 白く長い髪をした少女が、太った男にそう言っていた。彼女は他の誰とも違って、少しも怯えた様子を見せず、全てを諦めたような顔をしていた。

 しかしそんな彼女も痛みを与えられれば泣き叫び、首を絞められれば顔を赤や紫に染めてもだえている。窒息死する寸前で首から手を離された少女は、せき込みながら笑っていた。発狂した末の笑いというよりも、自分を殺しかけた男のことを嘲笑っているようだった。

 Aが突然立ち上がる。そして何の迷いもなくスタスタと彼は元来た道を歩いていく。怪しい男も無言でその背後をついてきた。二人が受付まで戻ってくると、女は何かの書面を記入しているところだった。彼女は書面に目を釘付けにして、Aの方を一瞥もせずに言った。

「おかえり。どうだった?」

 受付のあるロビーに置かれた椅子に座ったAは何も答えなかった。女は彼のそんな反応を見て、やはり書面からは目を離さないまま鼻で笑った。

 座ってうつむいたままのAは、ここではないどこかを見ているようだった。しばらくの沈黙…………相変わらず木の葉の擦れる音がよく聞こえる。

「休暇と旅行、どっちがいい」

 地獄に繋がっているとは思えないほど静まり返ったロビーに、Aの声はよく通った。

「両方!」

 女の返答にAは目を丸くする。

「……あ?」

 彼の乱暴な聞き返しで違和を感じ取ったのか、女はやっと書面から目を離し、Aを見て言った。

「ん? 昼飯の話じゃないの? ごめんよく聞いてなかった」

 それを聞いたAは、ポケットに手を突っ込んだ。

「……いや、合ってる。そうか両方だ」

 取り出された銀色のリボルバー銃。それが「カチリ」と音を発して、画面が暗転した……。

 そしてここで、夢を見ていたぼくは目を覚ます。朝の四時だった。

 

 

 

 さて、夢で見た映画の最後の暗転が、プロローグの終わりを示す物だったのか、それともその後にエンドロールが流れる予定だったのかは、結局分からず終いです。けれどそれ以前に謎が多い内容でしたよね。それについて思うことがあるので考察していきます。

 まず一番意味不明なセリフ、「休暇と旅行、どっちがいい」についてです。これ、舞台が海外ということもあって「翻訳ミス」なんじゃないかと最初は思ったんですよね。何か元の言語でなければ通じない慣用句や隠語を、翻訳班が直訳してしまったような、そんな気がしました。

 最後の展開から見て主人公Aは完全にキレちゃってますから、休暇と旅行のセリフは「死に様を選ばせてやる」か「殺すかどうかを返答で決める」のどちらかの意味があったと推測できます。で、この「死に様を選ばせる」ことについて、映画の中にちょっと思い出す要素ないですか。

 あんまり思い出したくないかもですけど、「前と後ろ、どっちに入れてほしい?」と少女に問う男。ぼくはそれを連想しました。だとするとひょっとして、Aがやろうとしていたことは意趣返しなんじゃないかな、とも考えられるようになりました。

 金さえ払えば何をしてもいい無法地帯、地獄と化している売春宿を、そうなるように仕切っているのは受付の女です(少なくともAと視聴者にはそう見えた)。少女たちにした行いを、Aは女に意趣返ししているのでは。そう考えると「休暇と旅行」のうち、「旅行」は「トリップ」と何かしら関係があるのではと考えられます。

 旅行の意味でのトリップと、薬によるトリップ状態、対応する意趣はヤク中の男です。こんな調子で「休暇」にも何か対応する物があって、それを相手に悟られないまま選択させるための質問だった……ような気がします。休暇は普通に「死」なのかもしれません。死か薬漬けかの選択。一応なんかずっと隣にいる敵なのか味方なのかもわからない怪しい男が薬とか持ってそうですし、Aは女にどちらかの罰を与えるつもりだったのかもしれません。

 そう考えると質問に対して「両方」と答えられた主人公の驚きも理解できるような気がしてきます。彼はそこで気付いたんじゃないですかね、少女たちはどちらかを選んだところで、選ばなかった一方を回避できるわけではないことを。だから「いや、合ってる。そうか両方だ」なんじゃないかと。

 ただ、それだと最後に銃を取り出した意味がわからないんですよね。殺しちゃったら薬漬けにできないけど、足を撃って身動きを封じるとかそういう意図だったんでしょうか? それにしては紛らわしし過ぎる気がしてしまう……。しかしその紛らわしさから考えると、一連の流れはプロローグだったのではとも思えてきます。暗転の後、Aの結末がどうなったのかわからないまま、別視点で物語がスタートして、どこかでAのことが絡んでくるみたいな。

 あるいは「旅行→トリップ」という考え方が間違いで、やはりそれは慣用句の翻訳ミスであり、彼は「自分の死か女の死」を選択させていた説もあります。休暇と旅行がなぜそんな意味になるのかはさっぱりですけど、目の前の悪である女をとりあえず殺すのか、友人が平気な顔で少女を食いものにする人間だと立て続けに思い知らされたAが生きることに嫌気がさすのか、というわけです。

 この説の場合、対応してくるシーンは白髪少女の「殺すなら殺せばいい。自分では決心がつかなかった」です。そのシーンだけよくわかりませんよね。何やら特別っぽい少女が実態のところ一体何だったのか、まったくわからないまま夢は終わってしまいますし。

 相手が他人にせよ自分にせよ、Aは殺しに対して決心がつかなかったのではないでしょうか。だから相手に選ばせた。そしてそうだとすると、なんだか暗転後のストーリーに白髪少女が絡んできそうですよね。どっちが正解なのかは、というか正解があるのかは、永遠に闇の中……もとい夢の中ですけれども。

 ……考察は以上です。思いついただけ書き連ねてみました。それ以上の意味はありません。

ウィッチデュエルパンプキン2というカードゲームが面白すぎる。

 前回の作文でも紹介したタイトル通りのスマホゲームですけれども、これがマジで面白いので詳しく紹介することにしました。より正確に言えば、面白いのに遊び相手がいないので宣伝することにしました。

 ウィッチデュエルパンプキン2(略称パンプキン2)は戦いながらデッキを作るカードゲームです。普通カードゲームといったら、あらかじめ作っておいたデッキを各自持ち寄って戦うものですけど、パンプキン2は違います。ほぼ手ぶらで開戦し、戦いの中でデッキを作るのです。

 まずは実際のカードを見てもらって、そこからルールを解説していこうと思います。

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 はい、まずカード下にある青い円の中の数字、これは「ゲイン」です。カードのデザインからなんとなく察せる人もいるかと思いますが、このゲームにはいわゆるマナの概念があります。マナというエネルギーを使って、クリーチャーを召還したり呪文を唱えたりするわけですね。

 このゲームのマナ(ゲーム中では魔力と呼ばれる)は、自分の手札を捨てることで得る物になっています。そしてこの「ゲイン」という数字は、捨てた時に生み出すマナの数を示しています。

 つまり画像の幽霊船長は捨ててもマナを生み出せないカード、場に出すこと専用のカードです。こういったカードとは逆に、場には出せないが大量のマナを生むカードもあります。それらを組み合わせて戦っていくわけです。

 はい、では次。右上の数字。これは「コスト」です。コストに等しい数のマナを支払うことで、そのクリーチャーを召還したり、その呪文を唱えたりすることができます。これはマジックザギャザリングやデュエルマスターズにもあるメジャーなルールですね。

 そして次です。これがこのゲーム最大の特徴、左上の数字。これは「レベル」です。冒頭で「戦いながらデッキを作る」と言った通り、プレイヤーはこの「レベル」に等しい数のマナを支払うことで、サプライという場所(いわゆる銀行のような物)からカードを買うことが出来ます。

 買ったカードは当然デッキに入るので、既存のゲームではマナを消費する行動といえば「カードを使うこと」だけですが、このゲームではもう一つ「カードを買うこと」にもマナを使うのです。これが面白いところ。

 で、残す数字は右下の物ですが、これは攻撃力と体力ですね(左が攻撃、右が体力)。これについてはマジックザギャザリングを知っているとわかりやすく、なんならシャドバでもルールを理解する下地にはちょうどいいんですけど、今回はあまり説明に絡んで来ないので詳しい解説はスルーします。

 実際のカードを見てもらう段階は終えたので、次はルールについてもっと詳しく解説していきます。

 

 

 パンプキン2は全てのプレイヤーが必ず、「黒猫」3枚と「魔力の種」5枚の、計8枚のデッキを持った状態でスタートします。何をどうしたってこのスタートは変わりません。

 黒猫とはコスト1、ゲイン0、攻撃&体力1/1のいわゆる弱小クリーチャーです。一方魔力の種は、ゲイン1……ということ以外に何のステータスも持たない、マナを生み出すためだけのカードです。

 手札を捨てると、捨てたカードのゲインに応じたマナが手に入る。つまり魔力の種を1枚捨てれば黒猫が1枚場に出せるわけですが、正直そんな弱小モンスターばかりいつまでも並べているわけにはいきません。かといってあまりにも黒猫を軽視しすぎると痛い目を見たりはしますが……。

 魔力の種がデッキに5枚もあるので、間違いなく序盤はマナが余ります。その余ったマナを使って、サプライからカードを買い戦っていくのです。そこで重要になってくるのが、サプライは自分と相手で共通の物を使うということです。

 要するにお互いが、「この試合で登場する可能性のあるカードはこいつらだ」ということを、試合開始早々に把握することになります。そしてさらに、サプライの中身はランダムで決まります。これが面白いんです。

 サプライには計18種類のカード(そのうち数種類は毎試合必ず入ってくる基礎カード)しかないので、どのカードを使っていくべきなのかという、作戦を練ることができます。

 例えば「全クリーチャーに2ダメージ与える」という呪文があるのを確認すれば、体力2以下のクリーチャーはいくら並べてもそれで一掃されてしまうから今回はあまり強くないなぁだとか、体力が多く壁役になるクリーチャーばかりが揃っていたら、これは長期戦を覚悟した方が良さそうだな、だとしたらレベルは高いけどいずれはあのカードが欲しいな……といった具合で「作戦を練る」という楽しみがあるのです。

 そして、独特なルールはそれだけにとどまりません。このゲーム、なんと自分のターンが終了するたびに、自分の手札が全て墓地へ送られます。さらには得た魔力なで、ターン終了時に全て失います。手札もマナも、温存という概念がありません。そして手札に関しては、次の自分ターン開始時に5枚引いてきます。これを繰り返していくのです。

 すると当然、マッハでデッキがなくなります。ゲーム開始時のデッキ枚数なんか8枚ですから、2ターンで場か墓地に全てのカードが行ってしまうわけです。そうなるとその後どうするのかというと、墓地にあるカードを混ぜて再びデッキにします。山札が切れた時のUNOのようなイメージでしょうか。あるいはヴァイスシュヴァルツか。

 そういうルールなので、ターン開始時の手札が必ず5枚になるということは、ゲインの大きなカードを買わなければ、一生高レベルのカードは買えないという性質があります。魔力の種がいくら増えたところで、それではレベル6以上のカードは買えないのです。もちろん毎試合必ずサプライの中にあるカードには、ゲインの数が大きいカードもあるので、そういったカードも将来を見据えて買っていくことになります。

 そんな他に類を見ないゲームテンポが魅力であるパンプキン2ですが、最終的には相手プレイヤーのライフを0にした方が勝利という、勝利条件自体はシンプルなゲームです。それがまぁものすごく面白い。

 ルールは大体説明したので、これで半分ほどでも伝わっているかは自信がありませんが、とにかく次の話へ進もうと思います。カードゲーマー向けの話になってしまうかもしれませんが、このゲームの魅力についてのことです。

 

 

 パンプキン2最大の魅力。それは、環境という概念が試合単位であること。

 普通、カードゲームには「環境」という概念があります。そっちの方が当たり前なんですけど、各々が事前に選別したカードでデッキを作り、それを持ち寄って戦うわけですから、よほどの奇跡が起こらない限り「このタイプのデッキが頭一つ抜けて強い」という物の一つや二つが必ず出てくるわけです。その「強いデッキたち」のことをまとめて環境と呼びます。

 しかしどんなカードゲームでも、あまりにも同じ環境で戦い続けるとさすがに飽きが来ます。そこで新しいカードが発売され、新しい環境が生まれて、再び新鮮な気持ちで遊べるようになる……というサイクルがカードゲーム業界で常に行われているわけです。

 その常識ともいえる流れとまったく別次元を行っているのがこのパンプキン2。ランダムで選ばれたサプライからカードを買うルールなので、「環境」が毎試合変わります。これがすごいことで、サプライの組み合わせによって単体では同じカードでも強さがまるで違ってきて、毎回新鮮な気持ちで遊べるんです。一期一会のいいところだけをもぎ取ってきたような良さがあります。

 わかる人に伝わる言い方をすると、戦略性が足されたトッキュー8やシールド戦です。そう聞くと大したことなさそうですけど、何回か遊ぶと字面では伝わらない良さに気付くと思うので試してみてください。 

 

 

 

 

 

(聞いた話では「ドミニオン」というボードゲームとカードゲームの間のようなゲームが、パンプキン2のサプライ関連に近い性質を持っているらしいのですが、完全な未プレイなので話題には出しませんでした。むしろ誰かドミニオン紹介してください)

 

スマホゲームアンチが書く! 最近遊んだスマホゲームレビュー。

 ぼくはスマホゲームのアンチだ。そもそも、まずスマホゲームと言って思いつくのは何か。昔ならパズドラ一択だった。そこにモンストが出てきてグラブルが出てきて、シャドバやにFGOにアズレンもコンパスも出てきて、最近ではメギドが「FGOとかの悪い部分を極限まで削った、他のスマホゲームとは違う良作!」なんて言われているけれども、それには何度か心が揺らぎそうになったけれども、ぼくはそれらのアンチだ。

 パズドラのインフレがひどい、なんて話を聞いているだけだった頃はまだよかった。転機はシャドバだった。ぼくの唯一プレイした大手のソシャゲがシャドバだ。それが人生初のスマホゲームだった。

 シャドバは、そこそこ遊んだから言えるのだけれども、あれはゴミだった。そしてそれ以来、全てのスマホゲームがそうだと信じている。つまらなくてまるで仕事みたいなデイリーミション! 次々と起こるあっけないインフレ、クソみたいなゲーム性! 基本無料の代償がそこにある。スマホゲームは買い切りゲームの素晴らしさを教えてくれる教材であって、遊びのための玩具にはなれない。

 あんな教材でお勉強するのは、ぼくはもう二度と御免である。絶世の美女が「一緒に遊ぼう?」と誘ってきても、その手のスマホゲームだけは絶対にやらない。ログボを継続するだけで一生遊んで暮らせるような金がもらえるなら……やるかもしれないけど…………とにかく! ぼくのアンチ魂は、シャドバをPC対応直後から第三弾くらいまで遊んで、もう引き返せないところまで来てしまった。もしかするとメギドは噂通り素晴らしいゲームなのかもしれないけれど、それを確かめに行こうとは思わない。

 スマホゲームはクソだ。二度とそのクソを目の当たりにしたくない。ぼくはスマホゲームに対してガラスのハートだった。正直言うけれども、楽しそうにその手の有名スマホゲームをしている人たち、ちょっとどうかしちゃってるんじゃないかな、とまで思っている。

 と、そんな風なことを考えるぼくだったけれども。大手のゲームに関しては、今も同じ感覚でいるけれども。そんな中で「スマホゲームは大手だけじゃない」ということに最近気付き始めて、いくつか遊んでみた物がある。その中で多少(あるいは猛烈に)魅力を感じた物を今回紹介していこうと思う。

 「これはスマホゲームだ」というだけで低くなったハードルと、何年もかけて固まった怨念のようなアンチ魂の混ざった様に注目してほしい。

 

 

 

☆Destroy Gunners SPα

・概要

……「アーマード・コア」で調べていたら出てきた物。ロボットを操作して自軍ベースを守りつつ、全ての敵機と敵ベースを破壊するTPSゲーム。どうせスマホでアクション系なんて操作性ゴミクズすぎて話にならないだろう、と思っていたところを、まあまあまあまあ……と思わせるくらいの面白さはあった。

 

・このゲームの良いところ

1……ライフル、ミサイル、レーザー、キャノンなど、様々な武器を搭載したロボットで戦うゲームかつそれなりに出来が良いので、男の子はとりあえず楽しい。

2……謎に高い難易度なので、クリアした時の達成感がある。

3……スタミナやログボ、デイリーの概念がない。

 

・このゲームの悪いところ

1……市販のゲームである「アサルトガンナーズ」の丸パクりであり、しかも有料版まで出ちゃってるという、権利的にやばすぎる物であること。

2……爽快感がないこと。

 

・総評

……アーマード・コアとやらを遊んでみたいとは思いつつ一度も触れたことのないぼくが、まず遊んでみて「まさか本家アーマード・コアもフロム製なだけあってこんなエグい難易度してるのか……?(ダクソ既プレイ並感)」と思うほど高難易度なゲーム。しかし何度もリベンジして学習していくうちにクリアできるようになるので、そういう意味での楽しさと達成感がある。

 問題はその高難度と、クリアするためには「決められた動きをいかに無駄なく素早く遂行できるか」が求められるので、爽快感とは無縁の作業ゲームになってしまうこと。とはいえこれはロボットといえど空を飛んだりするわけではないことと、スマホでは見た目の豪華さと操作性に限界があることが原因なのかもしれない。同じルールと難易度で、据え置きゲームの画質と演出でもって空中戦をやったら、同じ感想が出るかは定かでない。

 一番の問題は、ぼくもレビュー欄を読み進めて知ったのだけれど、マジでこのゲームが市販品の丸パクりだということ。一回「アサルトガンナーズ」の動画を見てから、このゲームをダウンロードして遊んで見てほしい。有料版まで出ていることを踏まえればドン引きすることになるはずだ。ぼくはドン引きしたし、アンストしました。

 

 

 

☆シルエット少女

・概要

……なんかオススメに出てきたゲーム。操作は画面タップでの「ジャンプ」だけというシンプルな自動横スクロール。タイトル通り操作キャラも敵も足場も全て影絵のようなデザインになっている。ちなみに主人公の少女は刀でバッサバッサと敵である妖を切り倒します。

 

・このゲームの良いところ

1……操作がシンプルなので操作性は抜群。それなのにゲームのルールが独創的で面白く、そういう意味でちょっとした感動がある。

2……見た目がそこそこスタイリッシュで楽しい。ゲーム性もそれなりに良い。

4……一区切りのプレイ時間が短いので気軽に遊べる。

 

・このゲームの悪いところ

1……同じステージを強制的に何度も繰り返し遊ばせる仕様という、スマホゲームらしいクソな要素がある。

2……ステージ間で繰り広げられるストーリーの台詞回しが致命的にダサい。

 

・総評

……操作はジャンプのみというシンプルな自動横スクロールゲーム。じゃあ敵をどうやって倒すのかというと、「同じ高さにいる敵」を操作キャラである少女が「自動で斬る」という、ちょっと斬新なゲームスタイルになっている。ジャンプ一つに「攻撃」「回避」「地形移動」と多様な意味を持たせたところは本当に面白いと思う。それがこのゲーム一番の見どころ。

 そのゲーム性から、実態は横シューティングに近く、重力のある横シューティングといったところ。この性質は他にない物だと思われるので、それだけで遊ぶ価値はある。……と、ここまでは良いところずくめのゲームなのだけれども、問題点がかなり痛い。

 このゲームでは敵を突破して長い距離を進むほど多くのポイントが手に入り、そのポイントで少女を強化していくことになるのだが、ほぼ全ステージが「その時点での能力値では突破できない物」になってしまっているのが最悪の問題点となっている。

 シューティングではありえないことだけれども、雑魚的をいくら攻撃しても倒せず、自動スクロールなのでそのまま衝突して被弾するということが多々起こる。ステージを初見でクリアすることは、仕様上おそらく絶対に出来ない物と思われる状態になっているのだ。

 画面の縦幅を覆い尽くすように雑魚的が出てくると、スクロールで敵と接触するよりも早く、自動故に決められたペースの攻撃で、その敵を少なくとも一体は撃破するしかダメージを受けずに済ませる方法がなくなってしまう。そしてその状況にはしょっちゅう直面することになる。

 その一体を撃破するために少女の強化が必須となり、強化のためのポイントを得るためには、同じステージを何度もやり直すはめになる。(わかる人にはわかるかもしれないが、このやり直しの仕様を、ぼくはJSK式と呼んでいる。そのJSK式が20以上あるステージで毎度繰り広げられるのだからたまったものじゃない)

 この「実力と無関係なやり直し」が非常にストレスで、それさえなければ神ゲーになれたかもしれないのに、やはりこれが基本無料かと感じてしまうところが本当に惜しい。事実上の強制的なやり直しをしている間は、同じ無料ならユーチューブの方が面白いという気持ちが拭えない。

 そしてもう一つ気になるのは、ステージを一つ突破するごとに入るストーリーの、台詞回しが本当に致命的にダサいことだ。あえて言うなら、下手な二次創作者が書いたキノの旅SSのような、「ああ、そういう雰囲気の作品を書きたかったんだなぁ」ということだけが伝わる、それ以外は何も受け取る物が無いような、中学生の稚拙な自作小説じみた台詞回しがどの程度目につくかは、人それぞれ個人差があることと思う。ぼくはちょっと厳しい。

 しかし、それらをまとめて考えても、無料で遊ばせてもらえるなら十分すぎるクオリティの作品かとは思う。どうやら続編が「3」まで出ていて、3では刀ではなく銃火器で戦っているようだけど、やり直しの嵐と台詞回しに耐えてぼくがそこまでたどり着けるかは定かでない。

 

 

 

☆Demons Must Die(Stickman Slasher)

・概要

……「デビルメイクライ」で調べていたら出てきたゲーム。本家DMCに「マストダイ」と名の付く難易度が恒例として設置されていること、タイトルの通り主人公は棒人間だが、使用武器が大剣と二丁拳銃であること、スタイリッシュゲージの概念があること、デビルトリガーや武器切り替えの概念もあつことから、すがすがしいほどガッツリとデビルメイクライを意識したゲームとなっている。デビルメイクライが面白いのでこのゲームも悪くはないが、高評価をする前に、最大の敵である操作性が立ちはだかる。

 

・このゲームの良いところ

1……見栄えがなかなかスタイリッシュ。2Dで無料のデビルメイクライと考えるとそこまで悪くない内容。

 

・このゲームの悪いところ

1……ステージが多すぎて信じられないくらい間延びしている。

2……クソみたいな操作性。これだからスマホゲームは……!

 

・総評

……2Dで結構なクオリティのデビルメイクライっぽいゲームが出来るぞ! という意味ではなかなか良質なゲーム。問題は操作性を除くと、二つ目の武器を手に入れてから「状況によって武器を使い分けること」や「二種の武器を使ったコンボ」という面白さが生まれるのに、そこに辿りつくまでに30ステージくらいかかること。長すぎる上に、それぞれのステージが差別化されているとも感じられず、正直眠くなった。

 二つ目の武器を手に入れて「このゲーム始まったな感」がようやく得られても、それまでの30ステージで感じた操作性の悪さは一切消えない。妙な硬直が要所にあるせい(空中から着地する少し前に発生する一切操作できない時間など、その他様々妙な硬直がある)か、押したはずのボタンが押せていないということがしょっしゅう起こる。しかもボタンの二度押しで別のアクションが出たりするので、動くまで押せばいいというわけにもいかない絶妙なイライラ感。これは実際に遊んでもらって体感してもらうしかない。

 一番どうにかしてほしいのは、自キャラも敵キャラも、密着状態の相手には攻撃を当てられないという当たり判定の仕様。一度重なってしまうと徒歩で離れた方が被弾することになるが、これは回避行動がたまに操作ミスで出ないというイライラ要素と合わさってまあまあのストレスになる。スタイリッシュとは……。

 しかしそれを補ってあまりあるようなないような面白さが存在しているのも事実。なんというか、とりあえず全クリするまでは遊んでみるつもりだけど、人に進めようとは思わないゲームだ。

 

 

 

☆ウィッチデュエルパンプキン2

・概要

……「クラシックデュエマのアプリが出る!?」と調べていたら見つけた物。試合中にデッキを作るという独創的なカードゲーム。MTGをベースにしているところはあるものの、全体的にオリジナリティに溢れていて、なおかつちゃんと面白く、そしてデイリーミッションやガチャがないという、信じられないくらいしっかりしたゲーム。有料でも売れると思う。ただ、最大の問題点は、プレイ人口の過疎だった。

 

・このゲームの良いところ

1……オリジナルのルールでちゃんと面白いカードゲームが遊べるという、奇跡みたいな物がここにある。カードゲーム好きな人はマジで一回触ってみた方がいい。

2……ガチャなどの面倒な概念がなく、初めからちゃんと「まともに」遊べる。(ただし、これがずっと前からそうなのかはわからない)

 

・このゲームの悪いところ

1……圧倒的過疎。人間と対戦できた試し無し。ただしルームマッチはあるようなので、お願いだから誰か一緒に遊んでください。

 

・総評

……試合中にデッキを作りながら戦うという、他に類を見ないルールのカードゲーム。そしてそれがちゃんと面白いという奇跡。ちょっと感動したのと同時に、既存のルールをパクりまくってなんとか自分でカードゲーム作れないかと考えているのが恥ずかしくなってきた。

 とにかく一度触れば「ちゃんと面白い」という感覚がわかると思うので、カードゲーマーの人には一度遊んでみてほしい。というかそうしてもらわないと、過疎すぎて実質CPU戦専用のゲームになってしまっている。そしてそうなってくると痛いのが、正しさに限界が見えるCPUのプレイングということになってくる。

 過疎については本当にマジで誰か助けてほしい。ウィッチデュエルパンプキン2というタイトルのこのゲーム、1がどこにあるのかぼくは知らないけど、ぼくが知らないなら誰も知らないんじゃないかと思えるくらい、とにかく人と当たらない。

 過疎以外の問題を上げるとすれば、ゲームを始めた瞬間から「30万DL記念」として30万ポイントをもらえたのだが(なんでそんなにDLされてて過疎なんだ)、

 

※※※(公開後の追記……ごめん、30万DL記念じゃなくて、3周年記念だった(記憶力とかそういうレベルじゃねぇ)。そりゃ三年も経ってたらインディーズだと人も減るかもね……)

 

このゲームはガチャが存在せず、カード1枚ずつを狙い撃ちでアンロックするシステムとなっていて、その際にかかる費用は数千ポイント単位であるのに対して、CPU戦一回で手に入るポイントはたったの200ポイントであること。DL記念が配られる以前からこのゲームが神ゲーだったのかどうかは、かなり疑問が残る。過去の話に意味があるのかはわからないけれども。

 もしかしたら対人戦ではもっと多くのポイントが得られるのかもしれないし、しっかりゲーム性を理解してからカードをアンロックすれば「どれを使うと面白いゲームになるのか」もわかっているはずだし、30万もポイントあったら結構なカードが使えるし、何よりチュートリアルで聞いた話だと、対人戦は「それぞれのデッキを持つのではなく、持ち寄ったカードで一緒に遊ぶ」というボードゲームに近い形となっているらしいので、ぼくはそこに期待している。一度も対人戦できたことないけど。

 なんとかして友達をルームマッチに引きずり込まなければ。そう思わせてくるゲームになっている。あとはもう、対人戦をやったら思ったより面白くなかった、というパターンだけが怖い。

(言っても仕方ないことだけれども、このゲームは完全にアナログでも通用する内容のルールや効果なので、ボードゲームみたいな感じで物質として売り出してほしい。本当にそのくらい出来がいいように思える)

 

 

 

☆UNOtcg

・概要

……「TCG」で調べていたら出てきた物。東方プロジェクトを題材とした、それぞれのカードが別々の効果を持ったウノのゲーム。デッキを組むという概念があったり、色が五色になっていたり多色カードがあったり、キャラ毎に特殊スキルがあったりと、明らかに普通のウノではないが、実のところこのゲームには……必勝法が存在する……!(ライアーゲーム並感)(なお、対人戦は存在しません)

 

・このゲームの良いところ

1……TCGとUNOの融合という、カードゲーマーの夢みたいなことをやってくれている。

2……対人戦がないが、必勝法が存在してしまっている以上、むしろそれが良い点になっている。その必勝法に気が付くまでの道のりが、このゲームの楽しみなのだ。

 

・このゲームの悪いところ

1……一戦が異様に長い。一回負けると本気で萎えるくらい長い。

 

・総評

……多色カードを採用したところで、全五色と化したウノはなかなか上がれない。しかもそれぞれのカードが効果を持っていて、結構な頻度でそれは妨害効果であるため、手札が全然減らない。「全員手札が4枚になるように引く」とかいう効果が平然と存在している世紀末だから。

 ウノとカードゲームの融合という夢のようなテーマだけれども、ゲームバランスを保つのはなかなか難しい。自分がカードを作らされたとしても良バランスにする自信はないので文句は言えず、むしろ試みを讃えたいくらいの気持ちになる、そんなゲーム。一戦が長すぎるので、そのうち少しでも勝率を高める方法をガチで考えるようになる。そしていつかたどり着くだろう、このゲームの必勝法に。もしかすると、このゲームの強キャラにも気が付くかもしれない。

 その必勝法で今まで苦戦した相手をボコボコのボコにして、それで得た金を使いカードをコンプリートした時、一つの小説を読み切ったような達成感と共に、自分がこのゲームを結構楽しんでいたことに気が付くだろう。

 もうこれ以上遊ぶ要素はないのに、まだアンストできないでいる。そんなゲーム。

 

 

 

ALTER EGO

・概要

……なんかオススメに出てきた物。性格診断ノベルゲームという、一風変わったテーマの作品。ゲームとしては放置ゲーに属する、ほぼ選択肢を選ぶだけのゲーム。メンタルが暗めな人におすすめな内容。遊ぶうちに名作文学がちょっと知れたりする。夜中にテレビでCMが流れていてびびった。

 

・このゲームの良いところ

1……多少なりとも心に闇がある人には雰囲気が合うかもしれない。ぼくは好きだった。

2……文学作品に興味を持つきっかけになるかもしれないこと。人間失格を読んだきっかけはこのゲームでした。

 

・このゲームの悪いところ

1……このタイプのゲームをよく放置ゲーなんて言うけれども、そもそもジャンル全体に言えることで、はたしてこれをゲームと呼べるのか怪しいこと。

 

・総評

……面白い面白くないではなく、合う合わないのゲーム。性格診断の精度はかなりあるようにも思えるが、そもそもこのゲームを続けるようなタイプの人間というのがある程度しぼれるような気がすることと、占い師的なやり口がぬぐいきれない点もある。

 例えばぼくはこのゲームに「あなたは自分の心を守るために、周囲への攻撃性を持っている」と言われて、すごいぞズバリ当ててきたなと思ったものの、よく考えてみれば自分の心を守ろうとしていない人なんてほとんどいないだろうし、攻撃することで守るのか壁を作ることで守るのか逃走することで守るのか……とある程度限られた選択肢の中から正しい物を選ぶのは、質問を重ねればそうそう難しいことでもないような気もしてくる。

 プレイすることを時間の無駄とはないけれど、ものすごく価値のあることだとも思えない。このゲームがぼくにもたらした最大の功績は、人間失格に興味を持たせたことだった。……なんともまぁ語りにくいゲームである。

 

 

 

☆漂流少女

・概要

……友達に勧められた物。地球の大半が水没して、人類のほとんどがいなくなった世界で、イカダに乗った少女が釣りをするゲーム。かわいらしい絵柄や、緊張感の欠片もない地の文などほんわかした雰囲気の作品だが、それにとどまらず巨大なホットドッグ型の魚が釣れたりと、ポストアポカリプスの概念を揺さぶる内容になっている。ゲームジャンルは放置かつ連打ゲーム。

 

・このゲームの良いところ

1……作品内の全てが可愛らしく癒される。それと上記のような独創的デザインの数々。

2……ながらプレイに適した緩いゲーム性。進行するごとにその色はさらに強まる。

3……中断できないタイミングがかなり少ないゲームなので、ちょっとした時間つぶしに最適。

 

・このゲームの悪いところ

1……良いところの2と背中合わせなことだけれど、新たな魚が釣れるようになるまでの「レベル上げ期間」がひたすら単調なこと。

2……デイリーミッションじみた概念があること。

 

・総評

……独特な世界観でひたすらボタンを連打して魚を釣るゲーム。精神的に疲れていて何も考えたくない時や、難しいゲームはちょっと……という時に没頭するにはその緩いゲーム性ちょうどよかったりする。

 問題は一定時間ごとにポイントを得られる施設的なシステムがあること。これがデイリーじみていて、時間の間隔が短いおかげで「全部回収しよう」という気は初めから起きないのが救いだが、だんだん面倒になってくることは避けられない。

 そしてそのデイリーじみたシステムに追われて、単調な連打によるレベル上げのための釣りにも飽きが見え始め、素敵に見えた世界観も後半に行くにつれて、ゲームに進行ペースが落ちていき変化が起こらなくなってくると、「緩いゲーム」という魅力であったはずの部分に、だんだん嫌気がさしてくる時が来るかもしれない。ぼくはそうだった。

 そうなった時はどうすればいいのか? 気分転換とかいいんじゃないかな。例えばほら、ウィッチデュエルパンプキン2をやってみるとかさ……。

 マジレスすると、世界観の魅力一本で押しているようなゲームだから、もうちょっとテンポが良いとよかったかなという印象。でもいつかまた、メンタルが死んだ時はお世話になるかもしれないからね……。

 話は逸れるけど、このゲームをぼくに紹介した友達は、ぼくの十倍くらいレベルを上げている。友達には何かこう、適性みたいな物があるんじゃないか……? と思わずにはいられない。もしかするとそれがニートとの差なのか……?

 

 

 

 ……というわけで以上、遊んだスマホゲームのレビューでした。こうして見てみるとぼくが嫌いなスマホゲームというのはつまり、ガチャ要素を中心とした典型的なソシャゲだったようですね。いや、他にも群馬RPGみたいなやつとか、初めて三十分くらいで飽きた物もあったけれど。

 典型的なソシャゲが嫌いだとすると、やはりメギドには恐ろしくて触れられない。結構重要な部分のストーリーがイベント終わってからだよ読めないのなんとかしてください、みたいな話をしている人を見かけて「やっぱり絶対触らないでおこう……」となったりしていたのは、きっと正しかったんだ。

 毛嫌いしていたスマホゲームにもちょっと手を出してみたりしているあたりから、ニートの生活が段々と、少しずつだけど確実に追い込まれていることを感じる気がしますけど、全然まだまだ元気です。次回の作文にご期待ください。