キングクリムゾンはにんにくが嫌い

 ぼくは失くし物をすることが嫌いだ。そこにあるはずの物がなぜかない、ということに物凄く腹が立つ。

 普通に考えて、自分で自分の管理する場所に置いた物が、勝手に動いたりすることはないはず……なのに失くなる。これを理不尽に感じないという方がおかしい。理不尽かつ自分に不利益な目に遭えば、怒りも自然と湧いてきてしまうというものだ。

 ところで、昨日ぼくは危うく財布を失くしかけた。結局は見つかったからよかったものの、それに関してあまりにも納得できないことがあったので聞いてほしい。

 昨日は病院へ行った。すると受付で保険証を出してから問診票を書いて、問診票の提出と同時に保険証を返してもらった時には、財布がなくなっていたのだ。それはまぁ焦った。何せ自分は今から診療を受けるというのに、一気に無一文となったから。

 しかし、財布がある時突然きれいさっぱり消え去ってしまう……なんてことはあり得ない。消えたように見える財布も結局はどこかに隠れているだけなのだから、記憶をたどれば在り処がわかるはず。ぼくはそれまでの自分の経緯を遡ってみた。

 

・その1……朝、玄関で親から「病院代+ストック切れした柔軟剤の補充代=1万円」を受け取り、それを財布に入れて、財布はリュックサックの中に放り込んで家を出る。

・その2……病院到着後、受付が並んでいたことを確認した自分は時間を潰すために、ポケットからスマホを取り出す。その後受付の列が解消された頃合いを見て、スマホをリュックサックの中に放り込む。

・その3……スマホを片付けついでにリュックから財布を取り出し、そこから保険証を取り出して渡す。引き換えに問診票を受け取るが、その際受付カウンターに財布を置き忘れそうになり「あぶねっ」と財布を掴み取る。

・その4……椅子に座ってから財布をリュックの中に放り込み、問診票を記入。そのまま問診票は提出して、このタイミングで保険証が返ってくる。当然それを財布にしまおうとすると……リュックの中に財布がない!

 

 ……というのがこれまでの経緯だった。

 確実なのは、この経緯という名の「ぼくの記憶」のうち、どれかが間違っていること。そうでなければ財布は突然消えたりしない。いくつかの疑いを一つずつ解決していけば、理屈的には財布は見つかるはずだと言える。

「疑いその1……財布をリュックに入れ損ねた」

 まずこれが一番怪しい。財布をリュックに片付ける際、リュックの中に腕を突っ込んだわけではなく、放り込むようにした記憶があるからだ。

 記憶違いは「リュックの中に放り込んだ」というところで、実際は狙いを外し、財布がそこらへんに転がったのではないか。……ということで椅子の上と床を探してみたのだけれど、財布はなかった。待合室は広大というわけでもなく、見落としがあるとは思えない。

「疑いその2……受付のカウンターに置きっぱなし」

 置き忘れたところの記憶だけが正しく、それを掴んで回収した記憶が間違いな説。直前までスマホをいじっていたこともあり、「握る」という動作のみを共通点として、「スマホ」と「財布」が記憶中でごちゃ混ぜになっている可能性を考えた。

 カウンターの上を目視で確認、受付の人にも口頭で確認を取ったが、財布はない。有力説が二つも否定されて、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。

「疑いその3……リュックの中を見落としているだけ」

 そもそも財布はなくなってなどいない説。一度リュックの中の物を全て外に出してみた。……が、やはり無い。財布という物理的にそこそこ大きい物が、リュックの中をいくら探っても見つからないけど中身全部ひっくり返したら見つかりました!……なんてことになってくれるわけもないのだ。

「疑いその4……そもそも自分は財布を持ってきていない」

 疑い方もかなり苦しくなってきた。要するに自分は「経緯その1」の時点で、親とやり取りをしたあと玄関に財布を忘れてきたのではないか、という説だ。この説の場合、保険証は記憶と違い、実はスマホケースに入れていたと考えることになる。

 この説を信じるということは、「玄関で財布をリュックに入れた」「リュックから財布を取り出し、保険証を提出した」という二つの記憶が、どちらも間違いであったと考えるということだ。さすがにそんなことがあり得るのだろうか……?

 念のため家に連絡を入れたが、案の定玄関に財布はない。そりゃそうだと思いながら、まだ残っているはずの疑いを考え出す。

「疑いその5……ポケットの中」

 一応探った。あるわけがなかった。

「疑いその6……疑いその1が成立後、誰かに拾われた」

 残る可能性はこれくらいだとしか思えなかった。リュックに入れ損ねてそこらへんに転がった財布を、ぼくが焦って何度もリュックの中を確認している間に、誰かが拾ってしまったのではないか。……が、これも実際には考えづらい。自分の記憶さえ疑わざるを得ないような人間が、他人を疑うなんてちゃんちゃらおかしい気がした。

 そう、そもそもおかしいのが、自分の記憶を疑わなければならない点だ。強烈な精神疾患を持ち合わせているわけでもないのに、自分の行動を「忘れる」ならともかく「覚え違う」なんて、そんなこと起こり得るのだろうか……?

 数々の疑いが財布を見つけられなかったことから考えても、おそらくぼくの記憶は間違っていない。なのに財布は消えた。……これだから、失くし物が嫌いなのだ。むかっ腹が立つ。理屈に合わないことが起こり、自分が不利益を被る、しかも「親から金を渡された+病院の診察直前」なんていうタイミングで。湧いてくる怒りをどうすればいいのか分からない。

 結局は親を呼んで、ひとまず診察料金を払ってもらった。そして病院を出てから改めてリュックを確認することになる。……すると見つかった。財布が、あっさりと、秒で見つかった。

 財布はどこにあったのか。その答えが、これ。

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 白いレールのような部分がリュックを開け閉めするジッパーである。財布があったのはその中ではなく、指で広げている外側のポケット部分。真ん中がボタンで留められているポケット部分の奥底に、財布は転がっていた。

 つまりぼくはジッパーの中に財布を入れたつもりが、このリュック外側ポケットに放り込んでしまっていた……ということらしい。記憶違いはそこだった、疑いその1は惜しかった。

 と、分かってしまえばしょうもない話……なんてことにはならない。これを見てほしい。

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 赤いラインが入っているのが財布で、黒いポッチが一枚目の写真でボタンの留め具があった位置である。

 サイズ感から考えて、片手間に放り込んで中に入るようにはなっていない。ボタンで引っかかってしまう。しかし実際は奥底に財布が入っていた。

 放り込んだという記憶が間違いで、実際は押し込んでいた説がある。さすがに押し込みでもすれば、外ポケット部分にも財布が入らないことはないだろう。問診票の記入という次のタスクによって、財布を片付けるというタスクに十分気が回っていなかった可能性も妥当性がある。

 が、問題はそんな気の散った状態の「片手間な作業」で、外ポケット部分に財布を押し込めたのかという点だ。ご存知の通り外ポケット真ん中の留め具はボタン、あくまでボタンだ、縫い付けられているわけじゃない。けれど財布がそこから見つかった時、確実にボタンは閉じられていた。

 二枚目の写真にあるようなサイズ感の物を、気が散った片手間で、力任せにボタンを外しながら押し込んだのではなく、きちんと工夫して綺麗に中へ納めることが出来るのか? そもそもそれが出来たとして、なぜぼくはそれを「放り込んだ」と記憶しているのか。元々ボタンは取れていて、そこに財布を放り込んだあと偶然ボタンが留まった……というのはさすがに無理がある。マジックテープじゃあるまいし。

 気が散った状態の自分、言うならば半ばオートパイロットのようになってしまった自分が、繊細な作業をしつつ記憶を大きく違えていた……なんて答えを聞いて、納得できるわけがない。そんなことあるわけがない、と思いたいからだ。

 これが事実なら、ぼくは自分の記憶に一切確信が持てなくなる。「押し込んだ」と「放り込んだ」を覚え違えたら、もう何を覚え違っても不思議ではない、記憶に確信が持てなくなってしまう。その上オートパイロット状態の自分が思っているよりも高性能となると、いよいよ「自分が何をしたか」について断言できることが何もなくなってしまう。自分の行動の全てが「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」になってしまう。冗談じゃない、そんなことあっていいはずがない。

 しかし、これは「見つかったんだからよかったじゃん」と言ってくれた親にも言われたことだけれど、「そこに入ってたってことはそれ以外の答え無いでしょ」という話に、ぼくはまったく反論できない。無意識に上手く押し込んでいた……ということ以外、外ポケットに財布が入っていた理由を説明できない。

 結局、財布の騒動は現物が見つかったのでそれで解決……ということになったけれど、ぼくにとってこれは、手放しで喜べる話にはならなかった。

 

 

 

 ぼくが失くし物に腹を立てるのは、それが理不尽だからだ。自分の管理下において、そこにあるはずの物がない……というのは、この世の法則に反しているとさえ思う。魚が空を泳ぎ、樹木が歩いて喋るようなものだ、自分の管理下から勝手に物が消えるということは。

 この理不尽の正体がはっきりしていて、なおかつ悪質ではないのなら、まだ許せる。よく親にやられるのが「出しといたよ」というやつだ。ぼくが料理をする時に向こうは親切のつもりで、その時必要な食材を冷蔵庫の中から取り出して、台所なりテーブルの上なり、どこかしらに出しておいてくれることがある。

 けれども、ぼくにとっての失くし物は「「そこ」にあるはずの物がないこと」である。冷蔵庫に入っていたはずの食材が、冷蔵庫の中を探しても探しても見つからず、もしかしてぼくの知らないうちに使ったのかと聞くと、「出しといたよ」と言われると……正直、頭に血が上る。出しといたよじゃねーよ、余計なことすんな、という言葉を吐き出さないよう気を付けなければならない。「なんで出しちゃうかな」くらいは時々言うけれど。

 そういう例から理解してほしいのは、ぼくが嫌いなのはとにかく「そこにあるはずの物」が「そこ」にないことであって、物が消えてしまうことではない。食材の場合は結局すぐ見つかるわけで、物が消えているわけではないのだけれど、それとは関係なく腹が立つのだ。

 食材の場合、ぼくの言う「理不尽」は「親」ということになる。正体がはっきりしていて、悪意はないことがわかっているので、そこまでわかっていれば腹は立つものの、それほど大きな問題でもない。「また「出しといたよ」だな……」と察しがついたら本人に聞けばいいだけで、その都度の解決も簡単だ。問題と呼ぶほどのことじゃない。

 一方、財布の件に関して問題なのは、その理不尽正体が「自分」と判明していることだ。財布をなくしたのは「自分の無意識」や「自分の記憶違い」であって、理不尽の正体は他人ではない。おまけに、なぜそれが起こってしまうのかまでは不明ときている。

 そもそもぼくは大前提として「自分で自分の管理下に置いた物が、勝手になくなるわけがない」と考えているから失くし物を「理不尽」と呼ぶけれど、その理不尽の正体が自分ということになってしまうと、前提の方が崩れてしまう。自分で自分の管理下に置いても、他人の干渉無しで物は失くなることがある……となってしまう。

 そんなおそろしいことってあるだろうか?……というのが正直な感想だ。自分が信用できないって、そんなつらいことが他にあるだろうか。自己肯定感が低い人は「自分はダメだ。自分は出来ない」ということをある意味信用しているわけで、自分に対して自信ではなく信用がないというのは、かなりおそろしいことだとぼくは思う。

 そんな状態で今後を生きていくなんて御免だ。これからも油断した頃に度々物が消えて、なんとかそれを見つけ出せたとしても「なんでそうなったのかわからない、納得できない」+「それをやったのは自分だ」なんて事実を突きつけられ続けるのは、ぼくは御免被る。そんな理不尽と共には生きていけない。

 財布が失くなった際、病院の中でぼくは友人へ、この作文のように経緯を説明して「他に疑う余地あると思う……?」と助けを求めていた。ぼくには気が付かなかった見落としに、他人なら気が付くかもしれないと思ったのだ。最終的には友人の方としても「そんなの文章だけで分かるかよ」と言いたくなるだろう結果が残ったけれど、それはともかくその友人が言っていたことがある。

「自分は小さい頃そうやって親に教えられたから、失くし物を探す時は頭の中で「にんにくにんにく」と唱えながら探す。物を失くすのは魔女が物を隠しているからで、魔女はにんにくが嫌いらしい」

 その「魔女とにんにく」の話を聞いたリアルタイム当時では、夜に笛を吹くと蛇が出るとか、爪を切ると親の死に目に会えないとか、その手の呪術じみた話のようにしか思えなかった。

 しかしその後財布の在り処が判明すると、ぼくはその話を思い出して納得した。いかにも魔女の仕業だ、というふうに。もちろん魔女の存在を信じて、にんにく呪文の効果に期待するわけではない。ただ自分にとっての失くし物は、なるほど魔女の仕業と表現したくなるところがある……と、表現として気に入った。

 けれども魔女は自分の中にいる。時々出てきてぼくを困らせる。財布等の重要な物を隠して困らせるのもさることながら、自分の記憶に確信を持てないようにさせてくることが恐ろしい。

 しかし思い出してみると、そのようなことは今回の財布が初めてではなかった。最も印象的で、おそらく初めて記憶した「魔女の仕業」は、数年前、ぼくがアルバイトをしていた時のことだった。

 当時のぼくは、中古の服を仕分けるバイトをしていた。ぼくの所属する部署の人たちが、一般の人から売られ送られてきた服やアクセサリー等を種類ごとに仕分けて、仕分けた物を受け取った別の部署の人たちがなんやかんやして、最終的に値が付く物はネットで売られることになる。大量の服がジッパー付きの袋に入れられて倉庫内に腐るほどあり、それを地道に仕分けていく作業だった。

 中身が多くて袋がパンパンに張っている場合、ジッパーが勝手に開くことのないように、結束バンドでジッパー部分が固定されていることもあった。そしてその固定を解除するために、人数分のニッパーが作業台の上に置いてある。アクセサリーを入れるための「ジップロックの小袋」や「付箋の束」が入れられたペン立てのような物に、そのニッパーも持ち手を引っかけるようにして入れられていた。

 作業中、ある時先輩に言われた。

「あれ、ニッパーどこやったの?」

 見ると、ペン立てに引っかけているはずのニッパーがなかった。けれどその時ぼくはまだ、それを失くし物だとは認識していなかった。

 トイレなどで席を外している時もあったし、ニッパーが必要になるほど中身の詰まった袋をしばらく触っていなかったこともあって、ニッパーが消えたこと自体はそこまで不思議に思わなかった。近くで作業をしていた誰かが知らないうちにニッパーを借りて行って、今にも返しに来るのではないかと思っていた。

 けれども、仕分け終わって梱包された物(やがて次の部署へ運ばれる物)の中に、ニッパーが混入しているのではないかという話になり、一度全てひっくり返して調べることになった。

 この時ぼくは、それだけはないと確信していた。ニッパーを引っかけていたペン立てのような物は紙素材で非常に軽く、その中に入れていた物も「小さなジップロックの袋」や「付箋の束」といった軽い物しかない。仮にそこへ引っかけてあったニッパーが作業をする中で服に引っかかり、うっかり移動してしまったのだとしたら、ペン立てごと倒れるだろうと考えたのだ。

 軽い軽いペン立ては立っているし、それどころか初期位置から動いた様子もない。ニッパーほど大きな物が服に上手く引っかかって、なおかつ落っこちることなく別の場所へ混入するとか、作業中それに一切気が付かないとか、そんなことあるわけがない。……と思っていたところ、まぁお察しの通り、仕分け終えて梱包済みの袋の中からニッパーが見つかった。

 これについて「危ないからマジ気を付けてね」と言われたくらいでそこまで怒られたわけではない……という話をすると「信じられないくらい優しい職場だ」との感想を返されることが多い。実際信じられないくらい優しい職場だったとは思う。けれどぼくはあの時の自分が、一ミリも「悪いことをした」と感じていなかったことを覚えている。あの時のぼくにとって……いや今のぼくにとっても、あのニッパーは勝手に消えた物なのだ。

 あれから数年経って、病院で財布を失くした時、「あのニッパーだ」と思った。あり得ないと思ったことが起こる、そこにあるはずの物が勝手に消える。そしてやはり、最終結果を見せられても納得できない。「あ、そういえば!」「そうか、あの時!」という気付きや思い出しは、結果を見せられてもまるで自分に訪れない。「ほら、お前がやったんだ」と見せられても言われても、何度でも言うけれどそれは「勝手に消えた物」なのだ。

 魔女が消した、本気でそう思う。さらに、魔女がもしも「物を消す」のではなく「記憶を消す」ことをしていた場合、心当たりはまだ増える。

 一週間近く覚えていた約束を、約束の当日ど忘れする。帰ったら連絡するねと言って別れた相手に連絡することを、徒歩十分未満の道のりで忘れる。その他にも人の誕生日を覚えるのが苦手とか……いや何なら、駐輪場で番号を確認してから精算機まで歩くまでの間に、その番号を忘れたこともある。

 ホラー気味な話なら、友人から借りた本を失くして、いくら探しても見つからず「ごめん……!新しく買うから……」と謝ったところ、「何言ってんだよ、返してくれたじゃん」とその場で現物を見せられたこともあった。そのような例の数々から考えて、どうやらぼくは時々、深刻に様々なことを忘れるらしい。

 自分の記憶していることの「内容の確かさ」はともかく、そもそも「記憶する能力」が低いことは数年前から明らかだった。これが「数年前から記憶力が落ちた」のか「記憶力の低さを数年前にようやく自覚した」のか、どちらなのかはわからない。

 忘れると覚え違うでは大きな違いがある。駐輪場を例えに出すなら、番号を丸っきり忘れてしまうのが「忘れる」で、正しいと思って間違った番号を入力するのが「覚え違う」だ。忘れることについては自覚があったが、財布を失くした件で、ぼくは覚え違うことについてもポンコツなのかもしれないと思い始めることになった。

 心外なのは「興味がないから覚えないのだ」と言われることである。確かにぼくは妙なところで無駄に良い記憶力を発揮することもあるので、他人からすると記憶力の差が興味の差に見えるのだろう。けれど違う、どうもぼくはエピソードを記憶する力だけが優秀らしい。

 つまり「面白い話」を覚える力だけが高くて、その他がダメなのだ。「面白い話」ばかり覚えているから、興味の差が記憶力の差に見えてしまう。しかし考えてみてほしい、自分の自転車を回収するための番号に、興味がないなんてことあり得るか……? もちろん駐輪番号も人の誕生日も、努めて意識すれば覚えることはできる。だからといって皆が皆、日常のちょっとしたことを、努めて意識することによって覚えているとは思えないのだけれども。

 そこで、連想したのはキングクリムゾンだった。ジョジョの奇妙な冒険という漫画に、キングクリムゾンという名前の異能力が出てくる。それは「自分以外の人間が「キングクリムゾン発動中に起こった出来事」を認識できなくなる」という内容の物で、その能力を使用された側からの視点でもってキングクリムゾンは「時を飛ばす能力」と呼ばれていた。

 財布を失くした時は、まさにそのキングクリムゾンに被弾したような気持ちだった。ニッパーを失くした時も今思えばそうだ、時が消し飛んだような感覚だ。「物を失くした」という結果だけが残って、過程がまったく自分の中に残らない。現実を生きているはずなのに、異能力をくらっている気分なのだ。

 これははたして、よくあることなのだろうか。世の中の他人たちは、みんな時々キングクリムゾンをくらっているのだろうか。普通は失くし物が見つかった時、「あーそうだった!」と思うんじゃないのか。「なんで?」とはならないんじゃないか。そう考えてしまう。

 細かい記憶はしょっちゅう消える。何なら覚え違いも起こす。それが原因で仕事をミスすることもあれば財布を失くすこともある。……本当にみんな同じ条件で生きているのだろうか? ぼくは非常に疑わしく思っている。

 時を飛ばす魔女の力から逃れる方法は、呪術じみた「にんにく」以外まだ何一つ考案さえされていない。強いて言えば「常に油断しないこと」だろうか。……世の人間の大多数が、そうしているとは思えないけれど。

 みんな特に気を付けなくても、物も記憶も消えないんじゃないか。そう考えると、それ自体すごく腹が立つのだった。だってそれこそ、ぼくへの理不尽以外の何物でもない。