欠損少女を描くことは罪なのか

 二次創作をメインに活動する、ある絵描きの人が言っていた。
 自分はオリジナルキャラクターを作ってもすぐに飽きてしまっていたが、思えば片目が無いとか片腕が無いとか、自分の趣味に正直なキャラを作っていれば、もう少し飽きずに続けられたんじゃないか。……と。
 趣味だから、という理由で五体不満足の少女を描くことを、あなたは罪だと思うだろうか。ぼくは正直、直感的には「罪だ」と思った。そしてそれは、どちらかといえば一般的な感覚であると考えている。
 でなければ、その人はとっくに自分の趣味に忠実な、理想の欠損少女を描いてネットに公開していただろう。なぜ実際はそうしなかったのか? ぼくが考えた理由は二つ。
 本人が「それは罪だ。罪を犯すわけにはいかない」と自重した説。本人に罪の意識はなかったが、衆目に晒せば多くの人が「それは罪だ。罪を許すわけにはいかない」と考えるだろうと予見して、結局は自重した説。
 ぼくにはこの2パターン以外が思いつかなかった。口ぶりからして「オリジナルキャラクターの制作」そのものに関しては試していたようなので、やる気が出なかった説はないだろう。だから仮定として、その2つのうちどちらかが理由だったとする。
 ぼくがそうであったように、その絵描きの人も、あるいは衆目を形成する人間たちも、それなりの割合で「趣味を理由に欠損少女を描くことは罪だ」と考えているはずだ。もっと言えば「趣味が欠損少女であることは罪だ」と思っているだろう。
 そうだとしたら、けれどなぜぼくたちは、それを罪だと思うのだろう。法律に則った感覚ではないはずである。もっと本能的な感覚で、罪を認識しているように思う。
 考えた末、なぜ、に対する答えを、一つ思いついた。ぼくが思うに、その罪の意識の背景には、男女間の性的搾取の問題がある。
 男性は女性を性的に搾取してはならない……というテーマが話題にされることはしょっちゅうだ。けれども、その逆はあまり聞かない。それはなぜだろうと考えると、原因は女性が男性よりも、どう言い繕ったって弱いことだと思われた。
 女性が男性よりも強ければ、搾取という概念はあまり確立されなかったように思う。なぜかって、確立させる必要もないからだ。気に入らなければ力でねじ伏せればいい。それが出来ないどころか、むしろ自分たちが力でねじ伏せられかねないから、それを危惧して抗議をするに至るわけだ。
 これは別に女性をバカにしているわけではなくて、このことについてぼくは至極真っ当なことで、然るべき流れだと思っている。筋力にせよ社会的地位にせよ、そういう「力」がもし男女で逆だったら、今頃ぼくたち男が搾取について抗議していただろう。
 相対的に強いものと弱いものがあるから、搾取という概念が生まれて、搾取=罪という概念も生まれる。ならば「強いもの」と「弱いもの」だけでなく、「とても弱いもの」という3つ目の概念が世の中に存在していたら、どうなるだろう。
 年端もいかない少女は、成長して大人となった女性よりも弱い。五体不満足の女性は、五体満足の女性よりも弱い。相対的強さの頂点にある「何不自由ない男性」との、強弱の振れ幅が大きくなればなるほど、搾取、罪の概念、感覚も大きくなっていく。趣味で欠損少女を描くことは、数ある罪の中でもかなり重い。
 けれども、「それが自分の趣味だから」……という理由で描かれた欠損少女に対して、「それは罪だ」と言う人たちは、同じ理由で描かれた、巨乳で露出過多で性行為に積極的な女性キャラクターに対しても、同じくらい強い気持ちで「それは罪だ」と言えるだろうか。
 たぶん、言わない。というか、ぼくは言わない。それはそういうものだから好きにすればいいと思ってしまう。エロ漫画の読みすぎ、という言い回しで人を批判することはあっても、エロ漫画を作った人まで批判しようと思ったことは、ぼくは一度もない。
 じゃあなぜぼくは、欠損少女に対してだけ「見ること」ではなく「描くこと」から罪だと感じてしまうのか。エロ漫画は多くの需要に応えた物で、欠損少女はそうではないからか? けれどぼくはニッチなジャンルを批判する気もなければ、それを罪と感じることもない。境界線はどこにある?
 おそらくは、搾取の罪の重さが一定のラインを超えると、ぼくはそれを「罪だ」と感じるのだと思われる。男に都合の良い女を描くことも、安易に欠損少女を描くことも、どちらも搾取の罪を含む行為だけれど、後者の方が罪が重い。逆に言えばぼくは、罪の重さが一定ラインを超えなければ「罪だ」と認識することが出来ないようだった。
 そのラインが明確にどこへ引かれているのか、それはわからない。けれど少なくとも「安易な欠損少女はアウト」らしい。……大多数の人も、そうなんじゃないか。みんなそれぞれ自分なりの罪検知ラインを持っていて、欠損少女はそのあまりの罪の重さで、万人のラインを超えていったのではないか。
 明確なラインは法律が決める。個々人のラインの違いを議論することは、多くの場合不毛な結果を生んでしまう。だから何が正しいとか間違っているとか、そういう話ではなくて、少なくとも「これがぼくの考える(二次元やフィクションにおいて)理想の女性です」と言って描かれる欠損少女は、大多数の罪検知ラインを超えるらしい……という事実だけを確認しておきたい。
 その上で、伝えたい話がある。
 別のある絵描きの人が、事故で両腕を失った少女を描いていた。デフォルメされたかわいらしい絵柄だったけれど、薄っぺらで空っぽな長袖がゆらゆらと揺れる様子が、半ばその少女キャラクターのトレードマークと化していたようにぼくからは見えた。
 そしてその絵描きの人は、「性行為に抵抗感を持たず積極的」とか「異性からの嫌らしい目線を肯定的に捉えている」といった「エロ漫画的な、搾取とも呼べる要素」の一員として、「虐待を受けていた過去がある」を並べるような人だった。等身の低いかわいらしい絵柄からは想像し難いことだったけれど、事実そうだった。
 本人がそう名言していたわけではないが、作られるオリジナルキャラクターを見ると明らかにそうだった。「それが魅力的だから」という理由で、両腕を失った少女も作るし、虐待を受けている少女も作る。おまけにそれらは設定が詳細だった。どういう経緯で腕を失ったか、どんな虐待を受けているか、全て設定が決められていた。
 その絵描きの人のことを「度し難い」と感じる人がたくさんいることと思う。ぼくも初めて見た時は「いつか、怒られるでは済まないことになるんじゃないか」と思った。それらの「設定」は、どこかでは実際の人間にも「現実」として実在しているのだから。
 けれど、その人がある動画を上げていた。自分で描いた絵を、パラパラ漫画の要領で動かした動画だ。それはあるアニメのエンディングに出てくる、特徴的なダンスのパロディだった。
 何人かの少女たちが、パロディ元と同じように笑顔で、楽しそうに、踊りを踊っていた。その中には件の、腕のない少女もいた。他の人がバンザイをするような動きで踊る中、彼女も同じように踊っていた。揺れる袖がやはり印象的だった。彼女を含め、みんな笑顔だった。
 ぼくは、その動画に希望を感じた。写実の正反対にあるような、マスコットのような画風で描かれた腕のない少女が、五体満足な少女たちの中に混じって、みんなと同じように楽しそうに踊っている絵面を、ぼくは他に見たことがない。
 もしも世の中がもっと厳しく、万人のラインを超える罪を取り締まっていたら、その人は度し難い趣味を衆目に晒すことはしなかっただろう。けれどそうするとその世界線では、今説明したような動画も衆目に晒されはしなかったことになる。
 どっちが息苦しい世界なんだろう……そう考えてしまった。言い繕っても仕方がないので断言するけれど、ぼくは腕を失った人の気持ちが少しもわからない。だからこれから言うことはしばらく妄想になってしまうけれど、言わせてもらいたい。
 もしも、この世に存在するキャラクターが全て五体満足の世界があったとしたら。腕を失った人たちは、実在する欠損少女たちは、そんな世界に生まれるよりは、今の世界に生まれた方がいくらかマシなんじゃないか。法律に則らない「感覚での罪」を取り締まってしまったら、それで出来上がる世界は、今よりもっとディストピアに近付くんじゃないか。
 子どもが親を選べないせいで起こる不幸がある。しかし、もしも子どもが親を選べるようになったら、どうなる。不幸な子の数は減るだろう、けれどゼロにはならない。大人でさえ判断を誤ることは多々ある。仮に「生まれる前の子ども」を大人程度に賢いものとしたって、間違いなく「親を間違える」子どもは出てくるだろう。
 良かれと思って作った「子どもが親を選べる世界」では、大人が不幸な子どもに対して、「自己責任」という言葉を投げつけるディストピアが待っているんじゃないか。ぼくは時々そう考える。
 欠損少女と罪についての話も、それに似ているような気がした。多くの何かを守ろうとして、守ろうとしたものに物凄く近い、別の何かを、さらなる地獄に追いやってしまうこともあるんじゃないか。そう思えるのだ。
 度し難い物を数多く生み出す人は、良い物を一つも生み出さないなんて、そんな風に決まっているわけじゃない。100の罪を生む中で1の良さを生み出すこともあるかもしれないし、その1が、他の人には出せない唯一無二の良さである可能性だってゼロじゃない。
 誰かを慰めるために作られた欠損少女キャラクターが、あの動画で感じたような希望を与えてくれるとは、ぼくには到底思えない。趣味で描くからこそ生まれる良さがあるように思う。本人にとっての「普通」で描かれるから、「特別」にはない良さがあるように思う。直接的な言い方をするとその「良さ」は、欠損少女を登場させることについて「押しつけがましさ」がないことだった。
 乙武洋匡が年末のお笑い番組で、スターウォーズR2-D2の仮想を披露したように、「過剰な腫れ物扱いへの否定」はどうやら実在している。だとすると、「特別」ではなく「普通」が大きな意味を持つ時もある、そうに違いない。
 そうするとあの動画は、やはり希望だったように思える。そして同時に、それがいわゆる「まともな人」が作れる物とは、どうしたって思えない。
 けれども、もちろんその「1の良さ」のために、100の度し難さを全ての人が許容するべきだ……なんてことも言えるはずがない。1の良さを称えることが自由なように、100の度し難さを貶すこともまた自由だ。……じゃあどうすればいいのか、ぼくは何が言いたいのか。
 結論はこう。少なくとも「表現」に関して、人間は永遠に戦うしかない。
 どうしたって我々は、気に入らない物に対して、戦い続けるしかない。それしかない。「そんな物を描くのは罪だ」と言い続ければいい。「やかましい、俺は俺の描きたい物を描く」と中指を立ててしまえばいい。戦うしかないのだ。競走にしろ戦争にしろ、争いや戦いの中で進歩する物があるように、「表現」は戦いの中で進歩するべきだ。そして戦いの中から希望を見つけていくべきだ。
 人のあるべき姿は闘争だなんて、そんなことを言うつもりはないけれど。抑圧されたディストピアより、常に小競り合いの続く今の方がずっといい。戦うことに意味がある。独善的なエロでもゴアでもなんでも描けばいい。それを批判すればいい、擁護すればいい。それが健全だ。罪についても存分に議論、もとい言い争いを繰り返せばいい。そうすることに意味がある。
 ただ、一つだけ注意したいことがある。何を描くのも自由、何を言うのも自由だとは思うけれど、一つだけ気を付けた方がいいことがあるのだ。
 もしも全ての創作者が、常に戦いの意欲に溢れているというのなら、この注意は必要ない。無限に戦えばいいだけのことだから。けれど実際のところ、戦意は有限だ。過度に戦いを恐れる必要もないけれど、狙って争いを巻き起こすことは基本的に避けたいはず。
 作品や発言を見聞きさせる相手には、注意した方がいい。誰が見ているのか予測もつかないインターネットの海に作品を投稿することは、常に限りなく自由な行為に近いけれど、しかしある程度相手が絞れるような……例えばそう……献血ポスターとか。もし戦意が尽きているなら、回復するまでの間はああいう「少なくとも、いつもと違う客層に見られることは予測できる物」に関わることは、控えた方が身のためなのかもしれない。
 ……さて、言いたいことも言ったので、オチとして最後にこの言葉を添えて、今回の作文を締めくくることにする。
 今回例に上げた、たぶん多くの人が度し難いと思う絵描きさんたちの趣味。ぼくも直感的に「これはまずそうだ」とは思った。思ったけれども……ぼくもそういう趣味が好きだ。ぼくはたぶん、「そっち側」だと思う。