Vtuberのセンシティブにまつわるセンシティブな問題。

 ぼくにとっては、ほとんど「Vtuberにじさんじ」なんだけれど、今回の話はもしかすると、にじさんじに限らずVtuber全体の問題なのかもしれない。
  Vtuberのセンシティブなイラストを描くにあたって、つまりエロ絵を描くにあたって、どの程度配慮が必要なのかという話だ。センシティブ(いわゆるエロ)についての、センシティブな(慎重さを要する)問題があるというわけだ。
 Vtuberには必ず「魂」と呼ばれる人、いわゆる中の人が存在する都合上、それは実質的に実在する生身の人間に、ジャンルで言えば三次元のアイドルに近い存在であると主張する声がある。
 少々話が逸れるが、しかしそもそも、生身の人間が関わっていないキャラクターなど、どこにもいない。アニメキャラの声は生身の人間が当てているし、漫画のキャラだって生身の人間が考えて、生み出されている。
 けれども現状、アニメや漫画のキャラに関しては、とても自由に二次創作が行われている。エロ絵も山ほど描かれている。一部に二次創作を禁止している作品、あるいは作者がいるが、それは全体からするとほんの一部だけの「例外」である。
 もしもVtuberに関して「実質的に生身の人間だから」という理屈で、エロ絵を描き堂々と公開することは悪であるとするならば、それは作者単位や作品単位の話ではなく、「アニメ」や「漫画」といったような、「Vtuber」というジャンル単位での話になる。実在する例のような「ほんの一部」とは、理屈の規模がまるで違うわけだ。
 キャラクターの構成に生身の人間が一切関わっていない例は存在しない。しかしアニメや漫画のキャラクターに「生身の人間だからエロは不適切」と言い出す人たちもいない。そういったキャラクターとVtuberの違いは、いったいどこで生まれているのだろう。
 これは、Vtuberというまったく新しいジャンルの生んだ問題である。何が問題なのかというと、Vtuberは唯一、二次元の見た目と、三次元の人格が直結しているコンテンツだということだ。
 いくら声優が魂込めて声を当てたって、その声優の人格とキャラクターの人格がイコールで結ばれることはない。影響を受けることくらいはあるかもしれないが、イコールにはほど遠い。
 いくら漫画家が小説家が、心血注いでキャラクターを作ったって、そのキャラクターは作者の人格とイコールにはならない。近くなることはあっても、イコールにはならない。寸分違わず自分とまったく同じ人格のキャラクターを描き、なおかつ物語を成立させるなんてことは、不可能のはずだ。
 しかし、Vtuberは違う。彼ら彼女らは、与えられた台本を読んでいるわけではない。大まかな流れこそ決まっていても、細かい部分はほとんどが即興だ。そういう意味では、Vtuberの配信というのは、声優のラジオに近いところがある。
 キャラクターに声を当てている時の声優は、ほとんど人格を持っていないだろう。与えられたキャラクターを演じることに徹している。アドリブだってあるのかもしれないが、それはほんの一部の例外だ。
 これがラジオでは違う。ラジオで見せる声優の人となりは、それが外行き用の仮面だろうと、本心から来ている素だろうと、その人の人格そのものだ。誰に与えられたわけでもない、その人の「生身の人格」なのだ。
 その理屈で行くと、Vtuberはほとんど生身の人格で出来ていることになる。いや、それとももしかして、これはにじさんじ限定の話なのだろうか。
 少なくともにじさんじには、運営が用意した形ばかりのキャラクター設定がある。しかし実際は、委員長だとかエルフだとか、そういう「役職」の部分だけを起用して、性格の部分は設定ガン無視の、本人の人格ほぼそのままである場合がほとんどとなっている。
 そしてそのにじさんじも、今や3桁に迫る大所帯。しかもチャンネル登録者数10万以上の配信者がゴロゴロいる。仮に生身の人格を使ったVtuberにじさんじだけだったとしても、とても「例外」として無視できた規模ではない。
 生身の人格を使うVtuberとは、具体的にどんな物か。にじさんじの代表とも呼べる一期生、月ノ美兎がその最たる例だろう。設定は清楚な委員長キャラだって言ってるのに、配信開始時の「起立! 礼!」のような申し訳程度の委員長感を出したかと思えば、次の瞬間にはムカデ人間の話をし始める。他にも、子どもの頃に雑草を食す雑草ソムリエになってた話だとか、奇天烈な内容ばかりが繰り出される。それが本人の人格でなくてなんだと言うのか。
 そんなノリの人が代表だったからか、あとに続く後輩たちの9割方は、生身の人格で立ち回るようになっていった。真剣にキャラクターをロールプレイしていると、むしろ珍しがられるほどの事態になっている。だからこそ、そうやって生身の人格が宿る存在だからこそ、エロ絵について賛否が分かれることになっているわけだ。
 仮に実在するアイドルのエロ絵を描いている人がいれば「おいおい、大丈夫かよ」とぼくも思う。キャラクターではなく、声優本人のエロ絵を描いている人がいても同じことだ。
 そういうわけなので、Vtuberは見た目が二次元だけれども、生身の人格を持った存在だから、実在するアイドル等と同じような裁定が下されるべきではないか? という意見があるのだ。……けれども、これにぼくは少し思うところがある。
 実在アイドルのエロ絵を描くと、それは当然そのアイドルの見た目が描かれることになる。人格も同時に表現として描かれるだろうが、見た目が本人に似せられることは間違いない。仮に声優のエロ絵があったとしても同じだ。本人の人格と、本人の見た目に似せられた絵が描かれることになる。
 が、Vtuberはここが違う。人格は実在する生身の本人に似せて描かれたとしても、見た目は二次元のフィクションになる。決定的に違うのはそこだ。いくらVtuberが生身の人格とそのままリンクしていたって、描かれる絵の見た目……つまり容姿に関する部分は、人格の持ち主とは似ても似つかないフィクションとなる。
 そう、Vtuberとは史上初の、フィクションの見た目と生身の人格を持つ「半ノンフィクション」の存在なのだ。そんな例は今までどこにもなかった。いや、あることにはあったが、それがここまで人気になることはなかった。
 フィクションの見た目と生身の人格を持つ過去の例としては、歌い手のアイコンや、漫画家の巻末コメント欄に載るタイプの自画像などがあった。それでエロ絵を描いた人が今までいたか? ぼくは見たことがない。絵描きたちがセンシティブな領域に入った例は、きっとVtuberが初めてだ。
 だから話がややこしくなる。エロ絵否定派の人は「Vtuberは生身の人間に等しいから」と言うが、しかし考えてもみてほしい。生身の人間は、みんな生身の見た目を晒しているじゃないか。あるいはまったく姿を晒さず、フィクションの見た目さえ用意せず忍んでいるじゃないか。
 見栄えの良いフィクションの見た目を用意しておいて、それで客を引いておいて、いざとなればいけしゃあしゃあと「生身の人間扱いしてください」というのは、ちょっと虫が良すぎると思う。自分の都合で大人と子供を使い分ける高校生みたいで、ぼくは納得がいかない。
 けれども、見栄えのいいフィクション……という部分が、オタクという生き物の悲しさを抱えているのも事実だ。
 Vtuberには前世がある。前世とは、Vtuberとしてデビューする前にネット上で行っていった、中の人の活動のことである。
 Vtuberの前世が、ゲーム実況者であるケースは多い。なぜ実況者たちはVtuberになったのか。簡単な話だ、そっちの方が多くの人に見てもらえるからに決まっている。あるいは金の話も絡むのかもしれないが、Vtuberデビューした結果、前世と比べてツイッターのフォロワー数が10倍になった人の例を知っている。少なくともにじさんじの人気Vtuberたちは、みんなそんな感じだろう。
 10倍の例として挙げたその人は元々、ぼくも何度か動画を見たことのあるゲーム実況者だった。なんならニコニコ超会議に行って、本人の姿を生で見たこともある。もちろん数字の変化には単なるVtuberパワーではなく、にじさんじというブランドの力も多大にあったのだろうけど、残酷な話だなと思った。
 Vtuberたちはオタクのことを笑っているんじゃないか。あんたたちの好きそうな「絵」を用意してやったら、途端にこれだ。単純なやつらだなぁ、と。
 実質的に、見栄えの良いフィクションを用意させてしまったのは、そんな風なオタクたちだ。ぼくを含む単純で馬鹿なオタクたちだ。そういう意味では、Vtuberというジャンルが丸ごと、オタクの愚かさを証明した負の遺産であるとも言える。
 Vtuberは生身の人間だから……なんて虫の良い話をする、識者を気取ったオタクがかなりの数現れたことも、負の遺産の一部なのかもしれない。そんな単純な話ではないのだ。まさに本来の意味でのセンシティブ、慎重さを要する問題。我々はまだ、Vtuberとエロ絵にまつわる問題について、正解を知らないはずだ。
 ただ、愚かなのはオタクだけとも限らない。にじさんじの中でも、そうでないVtuberでも、「エロ絵は望ましくない」とはっきり口にした人が何人かいる。ぼくはその人たちのことが気に食わない。
 作品単位で「エロは禁止」とされる場合、その理由は「作品の雰囲気を脅かすため」とされることがほとんどだ。エロどころか二次創作を禁止にする場合は、作品のためという理由の他、「作者である私が見たくない」という作者単位の例も見かけたことがある。
 これはあくまでぼくの観測範囲でのことだけれど、「エロは禁止。なぜなら私が見たくないから」と明言した作者、あるいは作品の代表者を、ぼくはまだ見たことがない。けれどそれで然るべきだと思っている。逆に言えば「エロを禁止するなら、二次創作そのものを禁じる」という姿勢こそ、正しいものだと思っている。
 エロは望ましくない、その他の二次創作はオーケー、理由は私がエロは見たくないから、その他の作品は見たいから。……なんてことをのたまったVtuberがいるのだ、信じられないことに。もう一度言うが、ぼくはそれが気に食わない。
 私が見たいものだけをよこせなんて、傲慢もいいところだ。全ての二次創作者が、元ネタを生み出した人(作者や、Vtuberの魂)に喜んでもらうことだけを目的に、二次創作をしているとでも思っているのか?
 望ましくない、なんて言い方をしても、そんな細かな言い換えは無駄なことだ。実際馬鹿なオタクたちには効果を成さない。厄介オタクたちは、嫌だって言ってるんだからやめなさいよと、ネットの海を泳いではイチャモンをつけにいく。
 仮にアイドルや声優その他、あらゆる生身の表現者のうち誰かが「否定的な意見は聞きたくありません」と明言したとすれば、その時も「嫌だって言ってるんだからやめなさい」とでも言うつもりなんだろうか。そうだとしたらいよいよ救えない馬鹿だ。そうでなかったとしても、二次創作だってそれと同じだと気付けない時点で相当厳しい。
 これが「否定的な意見は聞きたくない」ではなく「私は人の感想を耳に入れないようにしている」だったら、気難しい人だなとは思っても、それでその人が何も支障なく、表現者としての働きを上手くまっとうしているならば、何も文句を言うべきところはない。というか、文句の言いようがない。「二次創作は全て禁止」とすることに、人格的な問題がないというのはそういう話だ。
 しかしまぁ、オタク界隈にはおなじみの「嫌なら見るな」という理屈があるわけで。実際気に食わない人格のVtuberは見なければいいだけなので、ぼくだって何も困ってはいない。二次創作はエロ絵に限って望ましくない旨を発言をしているVtuberの数なんて、全体に比べれば例外のようなものだ。
 というか、二次創作者はそんなことでは止まらない。創作意欲はその程度じゃ止められないらしい。事実、望ましくないと言っている人たちのエロ絵だって、結局描かれている。探せばすぐ見つかる。
 最近、それを本人に観測されないため(外野に怒られないためと、本人を悲しませたくないため、両方の意味があると思われる)に、推しであるはずのVtuberツイッターでブロックした絵描きが、ちょっと話題になったくらいだ。コンテンツが大きくなればなるほど、二次創作は止められない。
 エロ絵否定派のVtuberたちはVtuberたちで、人格としては傲慢でありながらも、権利としては何も逸脱していないのでその点としても問題がない。嫌な物を嫌だと言って何が悪いと言われればそれまでだ。元々Vtuber単体に「〇〇は禁止」なんてことを強制させる力はない。言いたいことを言い、その結果どうなるのかが本人たちの責任であって、それ以上のことは何もない。
 けれどそう考えると、「自分のことに関して、やめてくれと言う権利」でさえ、実際の行動を止めるには至れないと考えると、権利の主張というのは、どうも非常に難しいことのように見える。思えば人権でさえカタログスペックを発揮しきれない場合がほとんどなのだから、当然といえばある意味当然なのだけれども。
 ところで、Vtuberとエロ絵の問題によく似たことが、他のケースでも起こっている。特撮のエロ絵だ。これは意外にも結構な数が実在する。わざわざ特撮と限定しなくても、ドラマなどのエロ絵と言った方がいいのかもしれないが、今のところぼくが観測したのは特撮のエロ絵だけだ。逆に言えば、狙って探さなくても目に入ることがあるほどメジャーらしい、ということになる。
 特撮はVtuberと真逆の話だ。生身の人格は無いが、見た目が生身の本人になっている。これについては正直、本人たちがお願いだからやめてくれと言い出しても仕方がない……という気がぼくはしている。
 というのも、所詮「絵」は「絵」だ。絵やそのまわりにある台詞等の表現から伝わる情報のうち、「見た目」と「人格」、どちらがより多く、見る側に伝わるだろうと考えれば、当然見た目だろう。
 それが絵である以上、見た目の要素が大きいことは否めない。見た目と人格のどちらかを生身にしなければならないなら、エロ絵を描かれてよりつらいのは、見た目が生身の方だと思われる。
 が、それが問題視されている場面を、少なくともぼくは見たことがない。Vtuberオタクの方が特撮オタクより多いから、ということがその理由なのだろうか? おそらく違う。そもそもどちらが多いのかなんて知らない。
 Vtuberのセンシティブを問題視する声が上がったのは、生身の人格がコンテンツとしてすぐ表に出てくるからだろう。仮に役者が「自分の演じた役で18禁絵を描くのだけは本当に勘弁してほしい」と明言したとしても、コンテンツである特撮本編だけを見ていれば、視聴者がその声を目にする機会はない。Vtuberはコンテンツだけを見ていても、中の人の主張を自ずと聞くことになる。そういう違いが影響しているのではないかと、ぼくは考えている。
 そう考えると、Vtuberには「生身の人格のコンテンツ化」によって起こる問題が多い。エロ絵については、馬鹿なオタクがはびこることと本人の声が届きにくいこと、どちらが悪いと考えるか各々の自由なところがあるが、ひとまずはそれ以外のことについて話そう。
 例えばVtuberには「魂やその前世について話すことはタブーである」という風潮がある。これはあくまで「※本人の前で」が文頭に付く風潮なのだが、たまにどこで話していても「そういう話やめろよ」と言い出す輩が湧いてくることもある。
 文頭の米印付きなら、理屈としては至極真っ当な風潮だと思う。生身の人格がむき出しだろうと、せっかくキャラクターとして楽しんでくださいと向こうが用意してきてくれているのだから、それに乗っかった方が楽しいに決まっている。おそらく、これに乗れないことを無粋という。
 しかしある話題では生身の人間云々で理論を展開しながら、別の話題ではキャラクターをキャラクターとして扱うことの大切さを説くなど、まぁオタクというのはそういうものなのだが、ぼくもそのオタクの一員だ。
 キャラクターをキャラクターとして楽しむことの大切さを否定する気はない。けれども、ぼくは魂や前世についてめちゃめちゃ興味があるし、どんどん調べるタイプだ。そしてもしも前世を知り、さらにはそれが既に知っている人物だった場合、ぼくはそのVtuberをキャラクターとしては見れなくなる。が、それでいいと思っている。
 アンチスレと呼ばれる場所の住人がよく魂の情報をリークしていることから、ぼくのようなタイプはファンどころか、むしろ限りなくアンチに近い存在なのかもしれない。けれど、冷静になってみてほしい。どう足掻いたって、美少女Vtuberを隔てた画面の向こうには、実在する女性がいるんだぞ?(もちろん例外はある。ねこます、のらきゃっと、バ美肉系列など)
 揺るぎない現実として、フィクションの見た目と生身の人格(それと声)を持つ「半ノンフィクション」と呼べる存在に、オタクたちが「かわいい〜」とか「かっこいい〜」とか「好き〜」という言葉を投げかけては、画面の向こうにいる「完全ノンフィクション」の人間が、それを半分は自分への言葉だと認識した上で、その関係を良しとしている。オタクたちが何を言っても、その現実だけは変えられない。
 一部、下ネタに寛容な女性Vtuberもいたりする。するとそれはつまり、フィクションの見た目というクッションがあるとはいえ、下ネタに寛容な女性が画面の向こうに実在していて、しかも視聴者と生配信でダイレクトにコミュニケーションを取っていることになる。
 この事実は、これはもはや、FC2のニュアンスでほぼ新手のライブチャットと呼べてしまうんじゃないか……? オタクたちは古のニコ生や萌え声生主なんかを馬鹿にするけど、やってることはそんなに変わってないんじゃないか……?
 画面の向こうに生身の女性が実在しているのに、エロの意味での「センシティブ」という言葉が流行語のように扱われ、エチエチコンロだのエロ(江戸)時代だのエッッッッッッだの、そんな風な言葉がコメント欄を平然と飛び交っている時点で、なーにが生身の人間が云々だ、馬鹿じゃねぇの? という気がしてしまう。そんなコメントの飛び交う配信主体のVtuberは、もうとっくに性的コンテンツに片足突っ込んでるんだよ。
 既存の表現者たちの焼き増しである「Vtuber」という概念を生み出したこと、あるいは存続させたことは、オタクたちの責任だ。しかしそんな焼き増しコンテンツでも、アイドルのように「箱」という概念が生まれて、Vtuber無しではあり得なかった利点も生まれている。それはいい。素晴らしいことだ。
 しかし、エロとしての二次創作が増えていくのは、それはオタクだけのせいか? これも全部、ちょっと喜びそうなことをすればすぐ数字になる、単純でちょろいオタクたちのせいなのか? 数字のためならなんでもありか……?
 Vtuberとしてデビューする時点で、あるいはにじさんじに所属するという時点で、もはやエロは嫌だとか言っていられる状況ではない節がある。そういう意味ではもう既に、にじさんじは腐りきっている。なにがてぇてぇ(尊い)だよキモオタども。とんでもない抜け穴見つけやがって。不健全コンテンツと言われても、現状では微妙に言い返せないぞ。
 もちろんわかってはいる。仮に生身の人間が顔を出せば、みんなそこまで下品なコメントはしない。一部より精鋭化したやばい変態は現れるだろうけど、今「エッッッッッ」と言っているオタクたちは、別に良識がないわけじゃないのだ。
 フィクションの見た目というクッションがあるからこそ、配信する側もいろいろ許容出来ることがあるはず。しかし視聴者側の平均も、そのクッションがあるせいで、性的にハメを外してしまっているところがある。そしてそれは二次創作にも影響する。というか、クッションのせいで二次創作がある。そのクッションがなければそもそも流行りはしなかったわけだが……。
 ……という風に、Vtuberは問題だらけのコンテンツだ。もしヒカキンレベルで一般に知れ渡ったとしても、子どもにVtuberを(あるいはにじさんじを?)見せたがる親は現れないだろう。
 しかし、面白いかどうかで言えば、Vtuberは間違いなく面白いとぼくも思う。ぼくも馬鹿なオタクの一人だ。わかっていても見た目に釣られ続けている。そうするために作られた、フィクションの見た目一つにほいほいと。不健全だったからなんだとも思う。誰に迷惑かけているわけでもないし、面白さが全てだろう。
 しかし、Vtuberというジャンルにおいて、あるいはにじさんじという箱において、「自分はファンである」と言い切ることは出来ない。かといって、「自分はアンチである」と言い切ることも出来ない。好きなVtuberは好きだ、それに間違いはない。……ひょっとすると、アンチってみんなそんな感じなのかもしれないけど。
 調べてみたら、にじさんじは現在総勢98名が所属しているらしい。秋元康プロデュースのグループ約二つ分だ。いくらなんでも多すぎる。手当り次第に増やしすぎな運営のやり方が、ぼくは気に食わない。非常に気に食わない。にじさんじ所属の中で、一度たりとも動画を見たこともなければ、名前も覚えてないような人だって確実にいる。けど、98人だぞ? さすがにぼくが悪いわけじゃない。
 Vtuberを見るのは楽しいけれど、いつかこのバブルのような状況が崩壊してしまえばいいとも思っている。こんなブーム終わってしまえばいいと。
 楽しかろうとVtuber負の遺産Vtuberがなければ、にじさんじがなければ、存在しなかっただろうキャラクターとそのイメージが、数えきれないほどある。それらの条件でなければ見れなかったであろう、面白い場面も山ほどある。既存のミュージックビデオを元ネタに、にじさんじパロディが描かれた動画を見た時なんか心が踊った。だからやっぱり、好きという気持ちは、嘘ではないんだと思う。
 けれど、今回話しきれなかった理由等も含めて、ぼくは胸を張って「素晴らしいコンテンツだ」と言う気には、どうしてもなれない。
 案外、アンチはみんなそんな感じなのかもしれない。