もやい結びを習得しました

 もやい結びを習得しました。もやい結びとは何か、それはざっくり説明して、首を吊るために使える結び方です。ウィキペディアを見ながら、一人で習得しました。

 小学校を卒業する頃、母と必死で蝶々結びを練習したことがありました。中学校の上履きが、人生で初めての、避けて通れない「靴紐」という存在であることを知っていたからです。それはもう、頑張りましたよ、あの時は。

 練習当時、蝶々結びの最後の段階が、手品でも見せられているかのように、まったく理解できませんでした。最初に一番シンプルな、交差させるだけの結び方をして、それから片方で小さな輪っかを作る、そしてその輪っかをもう片方の紐で巻いて……と、そこまでは練習するまでもありませんでしたが、その次の段階が、やはり当時、手品にしか見えなかったのです。

「そして輪っかに巻いた紐を、こうやって、通す」

 と母が言う、「こうやって」が、何度見せてもらっても、何が起こっているのか、さっぱりわかりませんでした。「こうやって」って、どうやってるんだよ、って感じで。

 そこで母は、手元の動きをスローモーションにして見せてくれました。それでも当時のぼくは、まだ理解できません。どこで理解できなくなったのか、巻き戻しと再生の要領で探りました。そして、「ここだ!」というタイミングを見つけたのです。

 今通したその紐は、一体どこから、どうやって現れているんだ、わからん。どこkらって、それはもちろん、この部分がこうなって、こうでしょう。……あっ、あぁ! なるほど!

……というわけで、そこまでしてようやく、ぼくは蝶々結びを習得したのでした。苦労した分、結び方を理解した時の感動は大きく、感動が大きかった分、二度とそれを忘れることも、手間取ることもありませんでした。

 それを思えばですよ! 一人で結び方を調べて、一人で試行錯誤して、一人で習得した今日のぼくは、あの時からなんと成長したことでしょう……! 感慨深いものです。それと同時に、ぼくはあれ以来、紐の結び方について向き合ったことなど一秒たりとも有りはしなかったので、人の能力的成長とは度々、特別なことをせずとも勝手に成されるものらしいということを、過去の数多の経験に加算して、なおさら思ったのでした。

 それで、USBケーブルを使いもやい結びを完成させたぼくは、それを脚立の最上段に設置しました。冒頭の説明で察せられるとは思いますが、垂れ下がった紐で出来た穴へ、首を入れます。

 首吊りに関して、自身の身長より高い高度は必須ではない。ドアノブ、脚立、階段の手すりの柱、やりようはいくらでもある。……という話をネットで聞きかじり、いざ実践、というわけです。いわく首吊りとは、最も簡単で、最も安楽な自殺方法なのだとか。

 とはいえ、そう簡単に成功できるとは、ぼくも思いませんでした。簡単というのは比較の話で、要領の悪いぼくという人間にとってもそれが簡単である可能性は、とても信用できたものではない。

 首を通して、しかしまだ体重を紐へは預けず、友達に他愛ないLINEを返信しながら、首吊りのやり方についてさらに調べます。首吊りが安楽である理屈は、一瞬で意識を失うからなのだそうです。意識を失う要因は、頸動脈洞という場所が塞がって、そこが塞がるとまあ、なんやかんやあって、速やかに意識を失う……らしい。逆に言えばその頸動脈洞を塞ぐことに失敗すれば、ただ単に窒息するだけであり、当然その場合は、尋常ではない苦痛を伴うことになるのだという話です。

 ……ということを聞いて、失敗なんてするわけないぜ、安楽まっしぐらだな、と思えるような、自分の「要領の良さ」に自信がある人間は、もしかして自殺なんかしないのではないでしょうか……? 一瞬そんなことを考えました。率直に言って、ぼくは失敗する気しかしません。失敗する未来しか見えない。

 しかしまあ、取り返しがつく場合に限って、物は試しです。試しにぼくは、USBケーブルによる輪っかへ首を入れて、そこへ少し体重を預けてみました。……なんとなく、これが安楽というのは、あり得ない気がする。そんな直感で、すぐにやめました。

 試してみて、おお? これはなんだか、いけるんじゃないか? と思っているうちに意識が遠のき、そのまま死んでしまえれば、それは最高だと思ったのですけど、やはりそんな上手い話はありません。確証はありませんけど、しかしどうも、自分は失敗のルートを辿っていたように思えたので、迷わず引き返しました。苦痛は御免ですからね。

 それからさらに調べてみると、頸動脈洞とやらを塞ぐための方法として、そもそも首吊りでそれが塞がれるのは、首を吊る際にその形の都合上、基本的に首を斜め上から引っ張られることとなり、それが良いのだ……だとか、顎のラインに沿って縄を通すと良い……だとか、そんな情報を聞きかじることになりました。

 はい、まるで、出来る気がしません。人は首を吊れば、安楽のためとなる良い感じの形に確実になるだとか、そんな都合の良いことは考えられませんし、顎のラインというのがつまるところ、実際どの部分のことであるのかとか、何一つとして、自分が正しく理解できているという自信を、持つことが出来ません。ぼくは自分自身を、教えられたことを一度で正しく理解するなんてことは、まず出来ない人間だと見積もっています。

 一応、ドアノブの方も試してみました。が、これは単純に、家のドアノブの位置が低すぎて、話にならないような感じがしまして、もちろん中止しました。思えば脚立だって小さすぎたのです。地面から始まり一段上って、もう一段上へ足をかければ、それがもう、その脚立の頂上ですからね。ちょっと低すぎる気がします。

 かといって、少なくとも家の中には、他に首を吊れそうな場所なんてありません。なので、とりあえず今日の時点では、首吊りそのものを断念することとしました。というか、言った通り安楽を成功させられる気がしないので、もしかすると永久に断念することになるかもしれません。おお? いけるのでは? という経験をしない限り。

 結果としてぼくは聞きかじった程度の知識を得て、新たな紐の結び方を習得しただけでした。お勉強になりましたね。

さらに言うと、その後また調べたところ、紐の役割を任せるのに、USBケーブルは不安が残る……という説もあるそうです。逆に、USBで十分だと言っているサイトもあったり、やはり何も、確実なことなんて無いように思えます。

 

 

 

 そもそも自殺したいと思い始めたのは、ごく最近のことです。

最近急に、自分が活力を失っている気がするのです。したいことがない、と言いますか、より正確に言うなら、出来なくても構わないことが増えた、と言いますか。自分から趣味に向かう気持ちが、減ってしまった気がします。ユーチューブの良いところは、向こうからオススメを持ってきてくれることです。今はこちらから向かうだけのエネルギーが、どうも不足しているようなので、あなたへのオススメと関連動画は、とてもありがたい。

 出来なくても構わないというのは、例えばそのユーチューブであるとか、それかツイッターであるとか、それらを含むインターネット全てだとか、そういう物が遮断されたとしてもノーダメージでいられるぜ、……という意味ではありません。

 出来なくても構わないというのは、明日、事故に遭って死んだとして、悔いに残るほどの物がないという意味です。ああ、あのアニメを見たかった。あの漫画が読みたかった。あのゲームで遊びたかった。あの人ともっと遊びたかった、話したかった。インターネットをもっと楽しみたかった。……あとはなんでしょう、酒を飲みたかった、女性とエッチしたかった、とかですかね? とにかくそういう悔いの気持ちが、今の自分の中からは、まったく湧いてこない気がするのです。

 娯楽が遮断されれば、当然ダメージを受けますし、その分むしろ、死へ向かう気持ちはさらに増すでしょう。楽しくない人生に何の意味があるんでしょうか。楽しさが失われていくほど、死にたいという気持ちは強まっていくのではないでしょうか。……しかし逆に、楽しみさえあれば、生きたいという気持ちが、出てくるのかどうか、それが問題なのです。

 普通は、出てくるのではないでしょうか。少なくとも以前のぼくはそうでした。具体的には、とりあえず一番確実に記憶が残っているのは、GWを少し過ぎたあたりですかね。あの頃のぼくは、まだ死ぬわけにはいかねぇぜ、といった調子だったと記憶しています。ネットで知り合った女性(こちらにエグいほど友好的)と、六月に会う約束を控えていたからかもしれませんが。

 それに比べて、今の活力の無さ。死んでも構わないどころか、安楽ならば、むしろ死んでしまいたいくらいです。今のぼくにとって娯楽とは、活力を失った人生の中で、気を紛らわすための物であって、そういう物でしかないわけで、すすんで追いかけるような物ではないのです。そして、活力の失われた生活というのは、どういうわけか分かりませんが、ぼくにとって、自殺という選択肢がよぎるほど、好ましくない物のようです。というか、はっきり言って、なぜそこまでそうなるのかわかりませんが、すごくつらいです。つらいのです。助けてほしい。

 元々は、飛び降り自殺をするつもりでした。一度勇気を出して、えいっと飛んでしまえば、何を恐怖しようと、もう引き返すことはできない上に、おそらく痛みも一瞬であるだろうと考えた末のチョイスでした。が、この考えは、聞きかじったネットの知識で、改めざるを得なくなります。

 人間、五階程度の高さから飛び降りた場合、そこそこ生き残ってしまうそうです。生存確率は約五割だとか。本当かよ、五階って結構あるぜ……とは思いますけど、また、インターネットの情報の信用性も、首吊りとUSBの件などを踏まえて考えると、はなはだ怪しい物ですが、しかし後遺症のことを考えれば、万一にも失敗は許されません。ただでさえ魅力を感じられなくなった人生を、余計に、明確に苦痛な物に変えてたまるものですか。失敗は許されません。であるならば、飛び降りはどうすれば、確実に成功するのか。

 十四階程度の高さから飛べば、ほぼ生存例はないそうです。ぼくは、気軽に立ち寄れる場所で、それほどの高さがあり、なおかつ飛び降りることのできる場所が、一つも思い浮かびませんでした。十四階と聞いた時、ふざけんなクソが、と思いました。なんで、死ぬことに、そんな苦労をしなければいけないのかと。苦労が嫌にならないような人間が、自殺なんかするわけがないのに。

 ぼくの記憶がポンコツなだけで、そのうち「あっ、そうだ、あそこがあるじゃないか!」と思い付けば話は変わりますけど、今のところ、飛び降り自殺を実行する気はありません。むしろ、自殺を「完遂するもの」と定義した場合、飛び降り自殺は、実行不可能と言えるまであります。

 線路飛び込みは、タイミングをこちらで決められない都合上、そんなに完璧に覚悟を決めて、粛々と飛び込むことなど出来る気がしないので、これも却下です。かつては親を強く憎んでいた時代もありましたが、今はそうでもないので、残された人に発生する賠償金がやばいらしいという意味でも、やはり線路飛び込みはないでしょう。どこで死ねばどの程度の罰金が発生するのかなんて知りませんけど、電車はやばいらしいとすでに知ってしまっているのだから、その上であえて選ぶことはしません。

 入水なんかは論外です。どう考えても苦しいじゃないですか。なぜ数ある方法の中で、わざわざ苦しい物を選ばなければならないんでしょう。薬物過剰摂取による自殺は成功率が低いらしいので、それも却下。練炭などの密室密閉系も、環境が用意できないので却下。その他もろもろ、全部それぞれ様々な理由で、却下、却下、却下です。ある程度の安楽と、ほぼ確実な成功率と、ニートでも実行可能なこと。その三つを兼ね備えたまともな自殺法って、この世に存在しないんじゃないですか?

 怒りが湧いてきます。生きることも死ぬことも難しく設定されたこの世界は、やはりクソです。この怒りを、つまりはストレスを、どうにかして発散したいところですが、犯罪を犯して捕まってしまうと人生はさらに苦痛になるので、それだけはやめておこうと、肝に銘じています。

 もしかすると、多少の努力をすれば、自殺は現状でも可能なのかもしれません。首吊りは成功がどうのこうの以前に、まず吊ることのできる場所を探し見つけること。飛び降りだって、収入がないとはいえ貯金はあるのだから、電車でも何でも使って、飛び降りが容易かつ高高度な建物を探せばいいのかもしれない。……しかし、ぼくはそういう、努力らしい努力というのを、例え自殺のためであろうとしたくありません。それをするくらいならば、少なくとも今の時点では、おとなしくユーチューブを見ていた方がいい。そう思います。

 努力をしたくない。これは娯楽でも同じことです。ゲームをする時、それはまあ必要最低限の知識くらいはネットで調べますけど、トレーニングモード的な努力はしたくありません。実戦で成長したい、できなければそのゲームは諦める、といった感じです。トレモを使うのはせいぜい、文字で読んだコンボを実際に動かしてみて把握する時くらいで、そのコンボの成功率を上げるために反復練習だとか、そういうのは絶対に御免です。

 娯楽でさえそうなのに、別に楽しいわけじゃない自殺のために、努力なんか出来るわけがないのです。それに、電車を使うというのも論外です。ぼくはお金を使うことに強い抵抗感、あるいは恐怖があるので、例えその先が死という「終わり」に繋がっていようと、楽しくもないのにお金を使うなんて、ありえない、嫌で嫌で、たまったものじゃないんです。

 死んだらどうせ使えないんだから一緒じゃん、という問題ではないのです。ぼくのケチは、労働へ対する抵抗あるいは恐怖から来る物で、「労働と同じ天秤に乗っている」という意味で労働に共通している「金」という存在を、それも二度と定期的かつ十分な収入は期待できない環境で、消費することはとても恐ろしいことなのです。

それはまあ、例えばネットで知り合った女性に会うための交通費などに使ったりはしましたけど、それはそれだけ、その目的がぼくにとって魅力的だったという話です。何度でも言いますけど、自殺は、楽しくなんかありません。当然魅力的でもない。致し方なく、今の生活に嫌気がさして、やっと選択肢に入る程度の物なのです。

 だからぼくは、狭義の意味の「死にたい」には含まれません。例えば突然、ぼくにめちゃめちゃ友好的な、それでいて見た目と声も好みで、話も合うような女性が現れて、その人と金を使わず頻繁に会うことが出来るとなれば、もう自殺のことなんか完全に「そんな時期もあった」と放り捨てるでしょう。

 狭義の意味での「死にたい」は、例えばそういうあり得ないほどの幸運が降ってきて、自分に手を差し伸べてくれたとしても、「いや、もう、いいです」と手を払い除ける段階にまで、進み切ってしまった人のことを言うのではないでしょうか。ぼくはその段階には、小指の先ほども触れていない。

 だから、ぼくの言っていることやっていることは、「本物」の人からすれば、馬鹿にするな、ふざけるな、と言いたくなるようなことなのかなと思いますし、希死念慮のキの字も持たない真人間の人からすれば、ぼくのことはきっと、くだらないかまってちゃんに見えるのでしょう。

 でも、かまってちゃんの、どこがくだらないんですか? 出来心の結果でも酒に酔った勢いでも何でもいいから、死の間際人生で一番の後悔を覚えようと構わないから、何にせよ、もしもぼくが自殺を完遂させれば、そうるれば、ぼくはくだらないかまってちゃんから、もっと別の、哀れな何かに変われるのですか? それこそくだらないでしょう。

 底の底まで苦しんでいないやつに苦しみを語る資格無し……とでも言うつもりなんでしょうか。欲を言えば、もしぼくが死ぬのなら、そういうことを言う人間を、出来るだけ多く道連れにしてやりたいですね。

 空腹になれば「おなかがすいた」と言う、寝不足なら「ねむたい」と言う、それと同じですよ。精神的な何かが、不足しているから「かまってちゃん」になるんでしょう。そろそろ食べなければいよいよ命が危ない、いい加減眠らなければいよいよ命が危ない、そういう段階に至るまでは、腹が減ったとか眠たいだとか言うことは許さん、なんて言っている人間がいたら、完全にやばいやつだと思いませんか? 精神の話になった途端にそれがわからなくなる人ばかりなのは、どういうことなんでしょう。理解できません。

 毎週土日に遊ぶ友達から「ごめん今週は遊べない」と言われた時、昔はもっとショックだったはずなんです。一週間待った楽しみが失われた……! と、それなりにショックだったはず。それが今は、ふーんそうなのね、じゃあまた来週で……となって、その来週がまた遊べなくても、たぶんまだ同じような反応をします。

 ずっと昔、中学生の頃のこと、近所のカードショップでカードゲームをして遊ぼうという、毎週定番になっていた約束が、雨だから今週は中止……となっただけで、みんないったい何のために生きてるんだと、怒っていた記憶があります。

 楽しんでこその、遊んでこその人生。ショップまでは歩いてたかだか数十分。一週間に一度しかない貴重な遊びの機会を、雨を理由に捨てるなんて、どうかしている! と言えてしまうようなエネルギーが、当時の自分にはありました。それが将来こうなるとは、当時夢にも思いませんでした。雨が降ったから中止と、むしろ自分から言うようになるとは。

 ぼくは二年もしないうちに、親の仕事の都合で遠いところへ引っ越して、もう友達とは会えなくなりますけど、それを嫌だ嫌だと言って騒ぎまわる元気が、いつの間にか失われていました。つい最近、唐突に、失われた気がします。人と会話する気力もどんどんなくなっているのを感じます。間違いなく人並み以上のお喋りだったはずなんですけど。

 昔遊んでいたカードゲームの最新版に触れてみると、昔と比べて、ひどくつまらなくなった気がしましたが、それはまあ、実際ゲームとしてつまらなくなっている説を推します。それはそれでいいのですが、そんなことより、ぼくにとって一番ショックだったのは、性欲がどうも、消えたというわけではないけれども、弱まった気がするということです。

    エネルギーの大半を性欲に頼っていたような気がします。今もそうかもしれません。小説を書くことが特にそうでした。「尽くす系ニマド」という話でそれがいよいよ極まり、そこで燃え尽きた気はします。今となっては、小説はちっとも書ける気がしません。書きたいという気持ちさえ、過去最大に低下している気がします。

    しかし、それだけなら別に、大した問題ではないのです。小説が書けないくらいなら、文章自体はこうして書けていますし、大した問題ではないでしょう。ただいつの頃からか、具体的には思い出せませんけど、結構前から、賢者タイムになるとその途端、死にたくなる現象があるのです。

    前置きをしますが、これは真剣な話です。おかしな話に聞こえるかもしれませんけど、ぼくは射精した途端にパッと頭が切り替わって、自分の人生は非常にくだらない物で、自分は今まで数えきれないくらい、取り返しのつかない過ちを、間違いを犯してきたような気がして、このままこれ以上生きることには価値がないと思えてくるような、そんな気持ちになるのです。

 賢者タイムで死にたくなるのは草、と文面で見れば愉快な話に思えますけど、全然面白くありません、笑えません。この話は冗談抜きです。なぜかはわからないけど、しかしぼくは自分の人生に対して「自殺なんて選択肢にもならない」と錯覚することに、性欲を用いていたような気がするのです。

 その性欲が、最近弱まったのを感じます。無くなったわけじゃないのですけど、むしろまだ全然あるのですけど、なんでしょう、向かっていく活力を失ったというか、満たされないなら満たされないで、別に構わないかなという気になってきたのです。

 いや、これは「なぜか」活力が失われたという話ではないのかもしれません。理由がはっきりしているかもしれない。一時期ぼくは本当に性欲で頭がおかしくなって、それでネットで会った、男の人と、ABCで言うところのBまでしたのですけど、そういう経験がよくなかったのですかね。時々、何か漠然と、たとえそれが女性相手でも、性行為そのものに、嫌悪感のような物を感じるのです。これは以前(少なくともGW頃)ではありえないことでした。

 それか別に原因があるとすれば、同性相手とはいえ「いわゆる出会い」を行ったことになるわけで、詳しい経緯は忘れましたけど、それがきっかけでいつの間にか自分は、性病について調べていました。それがまずかったのかもしれない。

 正しい知識を仕入れることが悪いことだとは思いませんけど、しかし性病というのはどうも、どうしてあんなに、理不尽なのでしょうね? 自覚症状がないことがあるとか、キスだけでも感染するとか、自然治癒はまず無いだとか、クソみたいなことばかり書いてありますよね。人間性や社会とは別のジャンルとして存在している、この世の理不尽の極みではないでしょうか。

 高校のある時期以降のぼくにとって、エッチは救いというか、最上級の娯楽として見えていた節があります。それさえ確保できれば幸せになれる、くらいに思っていたかもしれません。賢者タイムで死にたくなるような馬鹿はそんなものでしょう。

 ところが、今となっては二つの意味で、エッチはそんなに魅力的ではなくなってしまったように感じます。まずは病気のことですね、絶対の安全がないとわかった以上、救いとまで捉えていたそこに、絶対の安心はないことが判明してしまったわけですから、この時点で非常に、魅力は失われました。

 次に、エッチで得られる快楽というのは、何もそんな、救いがどうのこうの……というレベルではないことを知ったことがあります。男の人とそういうことをしたのは、だって男女で口や舌にそう違いがあるとは思えないし、目を閉じれば同じだと思ったからでした。

 しかしそれで、快楽その物には、そこまでの魅力がないことに気が付きました。快楽はそれ単体では救いどころか、他の娯楽と比較しても、非常にくだらない物であることに気が付いたのです。

 要するにエッチの魅力とは、肉体的な「快楽」と、女性に欲情する「興奮」が合わさって、初めて成立する物だったようです。そして快楽というのは、つまらない物であれば文字通り自分の手でも得られますし、より重要なのは興奮の方である気がします。画面の中の女優や漫画の中のキャラクターなどと、目の前にいて実際に触れられる女性では、オナニーとセックスの単純な「快楽の度合い」の違い以上に、さらに、興奮の面で天と地の差がありますから。

 ただ、興奮という面については、これはこれでまた問題があります。ぼくが興奮を求めると、つまり「好きなこと」をしようとすると、それはあまり、良い行いにはならないのです。趣味が悪いのです。従って興奮というのも、仮にエッチの許可がもらえたとして、その時点で満たされることが約束された物ではありません。

 もちろん、満たされるか満たされないか、この世には二つしか可能性が存在しない、なんてことがあるわけないので、より多くを望みたくはなるものの、少しでも満たされれば、それでそれなりに満足なんですけれども。では何が問題なのかというと、なぜかぼくが最近、自身の趣味に、時々嫌悪感を抱いてしまうようになったことが、精神衛生に悪いのです。なんて醜い趣味だろう……と、最近になって、急に思うことがあります。そういう考えも今までは、性欲で塗りつぶしていたのかもしれません。

 性的な趣味を自己嫌悪することに加えて、前述の通り時々エッチそのものに嫌悪感が湧くこともあり、二重苦です。しかし考えてみれば、この自己嫌悪やエッチそのものへの嫌悪感というのも、男の人とそういうことをしてしまったのが、そもそもの原因なのではないかという気がします。

 ぼくは、貪られることの不愉快を知りました。恐怖等とは幸い無縁のまま終わりましたが、それでも、あれはどうにも不愉快ですね。自身の興奮と無縁の対象から、体を求められるというのは、ああ本当に嫌なんだなと、多少なりとも理解してしまったので、自己嫌悪含む嫌悪感というのはそこからきていて、ぼくは結局、自ら望んだその経験を原因に、精神を弱らせてしまったのでは……。

 しかし何にせよ、そういうわけで、ひどい回り道を経て、ぼくはエッチの魅力とは何なのかを再認識したつもりなのですけど、その代償が重かった。救いなんて言葉を使いたくなるくらい、エッチから得られる幸福感をぼくは神格化していた節がありますけど、再認識の過程で、神格化するほどの物ではないという、ある種当然のことに、気付いてしまったようなのです。

 快楽や興奮は、つらい気持ちを一時的に上塗りして感じなくさせてくれることはあっても、つらさそのものを根っこから取り除いてくれはしない。興奮が伴わないエッチに大した価値はないけれど、興奮が伴ったところで、やはり救いと呼ぶにはほど遠い。当たり前のことなんですけど、むしろなぜ今まで、そう思っていなかったのか意味がわからないのですけど、エッチしたって、その時だけならともかく、人生の全体までは、全然幸せになったりしないんですよ。

 まだぼくが「さあ、この楽しかった気持ちをエネルギーに変えて、また明日から頑張りましょう!」と言えるような、真人間の素質を持っていれば、エネルギーの原料をエッチに頼ったって悪くないとは思いますが、そんな素質は実際のところ、まったくぼくの中にありはしません。

 ぼくにとって楽しい気持ちというのは、あるいは興奮というのは、その瞬間のみ、嫌なこと全てを脳みそから消して見せることだけに、全てのリソースを使ってしまう物なのです。より正確に言えば、それは消しているのではなく、上塗りして一時的に見えなくしているだけで、一日二日でその上塗りは剥がれ落ち、脳みそはつらさを感じる元の状態にに戻ってしまうのですけど、何にせよわかってほしいのは、何かを頑張るためのエネルギーなんかには、変えられる余裕がまったく無いということです。

 そもそもおかしいとは思っていました。平日の苦労をなんとか乗り越えて、その分土日を楽しんで、その楽しんだ気持ちをエネルギーに変えて、また平日の苦労を乗り越えて、そしたら再びその分のエネルギーを土日で補給して……って、出来るわけないじゃないですか、そんなこと。それと同じなんですよ。

 楽しんだ分また頑張りましょうと言う人は、人間の精神に、無限機関でも見出しているんでしょうか。あるわけないんですよね、そんな物。それが出来る人は単純に、素でエネルギーを生み出す力が強いだけで、楽しみというのはあくまで触媒であって、エネルギーの素材その物ではないんですよ。だから、エネルギーを生み出す素の力がないぼくでは、いくら救いだ何だと良い思いをしたところで、それが人生全体のプラスに繋がることはないのです。

 極論、毎日何かしらのことで満足できれば、嫌なことの上に塗られた幸福が剥がれる前に、さらに上塗りをし続けられれば、一生幸せでいることは出来ると思います。エッチに限らず、ゲームでもアニメでも友達と遊ぶでも何でもいいので、とにかく上塗り出来ることを無限に途切れさせなければ、もしかすると、人生全体の幸せを手に入れられるのかもしれない。今日の上塗れるほど楽しい行為が、数年後も上塗れるほど楽しい行為である確証はないですけど、そこはまあ適宜上手いこと見つけられる前提として。

 ……って、そんなことが万に一つも実現しないことは、さすがのぼくでもわかりますけど。ただ、実現するわけがないという事実は、実現を望まない理由にはならないと、ぼくはずっと考えています。一切苦労してないのに遊んで暮らせるほどの大金が転がり込んでくるとか、異世界へ転生して何の苦労もなく全てが上手くいくとか、実現しなくたって、望む意味がないわけではないと思っています。現実逃避というのは、精神衛生のために、必要なことなのではないでしょうか。

 おそらくぼくの性欲も、その現実逃避なのだと思います。性欲がある間って馬鹿になっているので、現実逃避がすごく容易なのでしょう。逆に賢者タイムによって、一時的にその馬鹿が失われると、途端に上手く逃避できなくなるわけですけど。

 現実逃避は、言い方を変えれば、夢を見ることです。理想であり、なおかつ寝言を言っているという意味で、夢です。ぼくは最近その夢から覚めたようです。おそらく覚めた要因は、夢から安心を失ったことでしょう。すすんで見る夢には、実現が期待できない夢には、安心が必須なのです。

 仮に、仮にですよ、ぼくに体を許してくれる女性が現れたとするじゃないですか。しかもその人は意味不明なくらいお金持ちで、ぼくは「金を使うことの抵抗」からおさらば出来るとしましょう。要するに今までの価値観ならそれで、人生の全体に嫌なことがあっても、幸福感で上塗りし放題、それが救いだという認識になっていたわけです。

 それが今は、そんなあり得ないようなことが仮に実現したところで、全然安心できません。幸福感にまるで集中できないのです。エッチに絶対の安全はないと知ってしまったからでしょうか。自分がそれに伴って時々、エッチそのものに突然、一時的とはいえ嫌悪感を覚えるようになったからでしょうか。とにかく全く、幸福に集中できる気がしません。

 これはおそらく、気がしないだけだと思います。いざ目の前に触れても許される女性が現れたら、そんなことをあーだこーだ言う余裕は、今のぼくの性欲にも存在しないと思われます。ただ問題は、そんな女性現れないということです。性欲の現実逃避性というのは、現れたらいいなと考える部分にあって、内容の実現にはないのです。その考える部分から夢を失ったことが、理解できないかもしれませんけど、鼻で笑いたくなるかもしれませんけど、それでも確実に、ぼくにとっては致命的なんです。

 その上、仮にですけど、仮にエッチできる関係の人と、奇跡的に巡り合ったとして、その人がぼくだけに対してそういう姿勢である確証は無いでしょうし、仮に確証をどうにかして得られても、すでにぼくの側が、いわゆる出会いを行ってしまった以上「安全の確証がない人」でありますし、巡り合う方法はほぼ間違いなくネット経由でしょうから、仮に病気などその恐れていることが起これば、ぼくはそこで即ゲームオーバーなんですよ。夢がないとか、そういう次元の話ではありません。

 ぼくが幸福感をエネルギーに変えられるなら、それを糧にせめてバイトでも出来るのなら、別に大した問題ではないのでしょう。恐れている事態が起こり、親にネットでそのようなことをしていたのがバレたところで、金があれば、自分で料金を払うことが出来れば、ネットを切られるもクソもないし、よほどとんでもないことにならない限り、病気なんか自力で病院に行けばいいだけですから。

 だからまあ、虫が良すぎる話は通らないのです。その他の娯楽に対する活力を喪失気味なぼくが、失われず残った「エッチ」という娯楽に対する活力、そこから得られる幸福感で、嫌なことやつらい気持ちを上塗っていくには、相手を見つけるという奇跡を起こした上で、親にバレずにそれを維持しなければならないわけで、つまりそれは、不可能なんですよ。

    奇跡を一つ望むのと、二つ望むのとでは、今のままの自分が誰かと結婚することと、この国で一夫多妻制を成立させることの違いと同じくらい、どちらも厳しいことに変わりはありませんけど、しかし二つの間には、とんでもない難易度の差があるのです。

 そういうことを考え始めたあたりからでしょうかね、露骨に性欲の低下を感じました。今しているようなこの、性欲関連の話の長さなどからも察してもらえる通り、ぼくの性欲はむしろ低下して丁度良いくらいなのかもしれませんけど、しかし最後の砦とも言うべきカテゴリの活力をそれなりに失ったというのは、これもまた馬鹿みたいな話に聞こえるのでしょうけど、ぼくとしては、ものすごくショックだったのです。

 活力を失うことの何がそんなにつらくて、なぜそれだけのことで自殺なんか考え始めるのか、ぼくにもよくわかりません。一人で思い詰めるな、なんて立派な言葉(嫌味です)も聞きますし、そのあたりはもっと、いろいろな人と考えていくべきなのかもしれません。こんな内容の話を、誰かに口頭でする勇気は、なかなか湧く物ではありませんけど。今のぼくの状態では、勇気どころか気力でさえ、湧くかどうか怪しいものですけど。

 しかし、これはかまってちゃんの戯言かもしれませんけど、余裕はどんどん無くなっている気がします。死にたい気持ちは強まっています。なんだか、全て投げ出してしまいたいのです。自分の欲しい物が、何であるのかわからない。仮にわかったところで、それを得るにはそれなりの……あるいは多大な、努力や苦労が必要でしょう。それがもう、なんだか、とにかく、嫌なんです。そしてやっぱり、何が欲しいのかわからない、活力を失った現状のままでいるのも、同じくらい、嫌なんです。全てやめたいんです。なぜそう思うのかと言われると説明できないのが、かまってちゃんとして見ても情けないですけど。

 ニートは養ってもらう代わりに、洗濯と皿洗いと料理の手伝いをしなさいと言い渡されています。働くよりマシだぜ、というか、それならまだギリギリ自分にも出来るのでは、と当初は思ったものです。

 家事手伝いを言い渡されたのは、バイトをばっくれたりしていた時期を通り過ぎて、親との喧嘩の末に、ぼくは絶対に働かないと宣言してからのことなので、始まってまだ一年くらいでしょうか? 家事をやるにあたって、「よし、やるぞ」と気合を入れて取り掛かるまでにかかる、チャージタイムのような時間が、どんどん増えています。初期の頃「これでニートが出来るなら安いものだ」と思っていた気持ちはどこへやら、今はもう家事さえ、放り投げてしまいたい気持ちでいっぱいとなりました。

 初めの頃は、十時前に洗濯と朝の皿洗いを終わらせて、夕方まで自由時間を堪能してから、二十二時前後あたりまでには、夜の皿洗いも……つまり一日のノルマ全てを、終わらせていました。今は朝の皿を洗う頃には、昼をとっくに過ぎていることがデフォルトになってきました。やる気というか、エネルギーというか、何かが不足しているんです。

 料理の手伝いも、どんどんやる量が減っている気がします。要はさぼりです。母はぼくに手伝わせることより、さっさと料理を終わらせることに重きを置いているようなので、ある程度はさぼれてしまうわけですけど、時が経つごとにさぼる量が、どんどん増えている気がするのです。

    さぼれそうなことに気付いてから、さぼる量が増えたわけではありません。まずさぼることによって、常に自分は、「ああ、さぼれるんだ」と気付いているような感じです。気付いてさぼるのではなく、さぼって気付くのです。これはいつも、別に探りたいわけではないのですが、便宜上「手探りの状態」と言った方が、伝わりやすいかと思います。

    さぼろうという気持ち自体、初めの頃はなかった気がしますし、やる気というか何というか、とにかくそういう何かが、どんどん失われているのを感じます。実際、家事なんて、全てやめてしまいたいのですけど。

 夜、皿を洗っている時、この皿を次々と叩き付けて割ってしまえば、もう家事はしなくていいという話にならないだろうかと、その手のことを考えることが増えました。きっとそのルートで家事を免除されると、娯楽の方も制限されて、余計につらい気持ちになるような気がするので、実行はしませんけど。怪我とかも怖いですし。

 昨日の夜は、雨が降っていました。嫌だ、嫌だ、投げ出してしまおうか、どうしようか、どうするべきか、自分のためには、どうした方が良い……、と皿を洗っていたぼくは、両親がすでに寝てしまったことに気が付きました。どこに行くアテもないですけど、気付かれないように着替えて、外へ行ってしまおうかと考えました。そういうことを考えた時に、自分のかまってちゃん性をものすごく自覚するのですけど、ぼくは言った通りそれを悪いこととは認識していません。

 次に家出をしたらゲームとかパソコンとか、娯楽の物全て捨てるから……、そう言われているので、普通に考えて失踪のようなことはしない方が、ぼくにとって身のためです。しかし、そんなことを言っている場合ではないのでは、という気もしました。

 傍から見てぼくは、親に甘やかされて、楽しいことだけをして生きる幸せ者(ただし将来はやばい)に見えているのだと思います。親の目線から見てもそうでしょう。そう見られている以上、ここでしているような話を口頭でするか、何か異常な行動を取って見せでもしなければ、現状がぼくにとって良い方向へ動く可能性は、ゼロであるように思えます。

 もちろんそれは、より悪い方向へ向かってしまう可能性も生まれる賭けですが、何故こんなにつらいのかはわからなくても、しかしどうしようもなくて死ぬことを選択肢に入れるくらいなら、どうしようもなくて賭けに出るくらいのことを、先にしてみるべきではないかと思うのです。そもそも説明した通り、現状死ねる気がしませんし、もはや、実質的にはそれくらいしか、ぼくの取れる選択はないのではないかという気さえします。

 だったら口頭で話す方を選べよ、と真人間の方は言うのでしょうけど、残念なことにぼくは経験上、この話を聞いたウチの親が「なんでつらいのか考えるところから始めよう」という類の結論を出すことが、到底できない人間だということを知っているのです。

 まず言われることは「何がそんなに気に入らないんだ」でしょう。だからそれがわからないから困ってるんだろ話聞いてんのか、と喧嘩が始まることが、容易に想像できます。それは話をしたって、家出をしたって、同じことですけど、真剣に話して喧嘩が始まるのと、心配してくれる人の気持ちを馬鹿にするかのような行為の末に喧嘩が始まるのでは、後者の方がぼくは楽なような気がするんです。どうせ心で殴り合うなら、こちらから殴り始めたい、

 そもそも、「どうせくだらない喧嘩になる」という信頼性の無さを、ぼくに与えたのは親ですし、それを思えば心配させたところで、罪悪感という物はあまり湧いてきません。だから本当に、昨日、どこかへ歩いて行ってしまえばよかったのかもしれない。幸いもう二十歳ですし、補導とは無縁の身ですよ。

 ただ昨日は、仕事から帰ってきた父が「ビール買ってきたから、明日の夜一緒に飲もう」と言っていたんですよ。酒に対する、欲する活力のような物も、ぼくはそれなりに失ってしまっているので、仮に父が翌朝「ごめんあのあと一人で飲んじゃった」と言い出しても、別に全然構わないくらいの気持ちであったのですけど、しかし実際のところ、その約束がぼくを思いとどまらせました。

 そう思えば最近、買い出しに行くという両親に「何か欲しい物があるか」と聞かれて、酒が欲しいと主張することに使う精神エネルギー(ニートが酒を欲するのは重くはないが罪である)が、酒を飲みたいという気持ちを上回ってしまいました。以前なら考えられなかったことです。精神エネルギーが上回ったというより、酒を飲みたい気持ちが、その活力が、弱まりすぎたのかと思います。

    まあ実際には、何も言わなくても酒を買ってきてくれていたので、飲んだのですけど。ワインを一本ほぼ一人で飲んで、ひどく酔ったのですけど。

 酔うと、酔っている時だけは嫌なこと、つらい気持ちが、酔いで上塗りされて見えなくなります。酔いとは幸福なのかもしれません。その上心地よく眠気が来るので、あれこれ考えてしまって眠れない上につらくなるということもありません。健康上と、周囲への迷惑を考えると、あまり乱用できた手段ではありませんけど(それをするとアル中だ)、とにかく酒は、かなり良い物だと認識しています。

 それを「欲しい」とただ一言言うだけ、それも何の脈絡もなくこちらからではなく、向こうから「欲しい物は?」と聞かれている流れで、ただ一言言うだけ、それが出来ないほど、娯楽へ向かう活力が失われています。もしかしてぼくは、幸せになろうとすること、つらさから脱出しようとすることを、さぼっているのでしょうか……?

    しかし目の前に酒が来ればそれは飲む程度には、まだ活力は生き残っているようです。まあ、だからぼくは、希死念慮にとりつかれた人ではなく、ただのかまってちゃんでいられるのでしょうけど。その程度の活力さえ、完全に失われてしまったら、それはもう本当に、病院行きか、安楽がどうのこうのという話も無視して、死んでいますよ。

 結局、かまってちゃんを一度、「死なない程度の奇行」から踏みとどまらせるために必要な物なんて、酒と、明日一緒に飲もうという約束だけで、それだけで十分なようです。これが来週とか、来月の約束だとダメだったかもしれません。急速に活力を失っていることからわかる通り、ぼくにとってどうやら「一日」は非常に重いようですから、明日のことは明日のことですけど、来月のことは、永遠より近いこととしか認識できない気がします。永遠より近いことは、待ってみようという気持ちを起こす要因には、ほとんどなりません。

 この一日の重さは、あるいは一秒ごとの重さというのは、まったく真人間から理解されません。ニートはかつて、勤め始めてから十日でバイトばっくれましたが、「たった十日で」というのが真人間の認識のようです。たったと言えるような気持ではなかったから、ばっくれたわけですけど、それがわからないらしい。ぼくにとってあの十日は、体感時間で言えば、真人間の三か月分くらいはあったんじゃないかと思っています。いや、適当に言いましたけど、まあとにかく長かったのです。つらかったのです。

 高校では、月々三千五百円のお小遣い(学校を一日ずる休みするごとに、五百円減額)で生きてきたぼくにとって、バイトで得られる収入の額は、高校卒業当初、ものすごく魅力的に感じられました。ちなみに、なぜ卒業後の進路がバイトだったのかというと、進学や就職を仮に「入るところ」まで成功したとして、説明した通りの「お小遣い減額制」が採用されたことから察せられるような、その時点でのぼくの能力では、ちっともそのあとが続く気がしなかったからです。進路と呼ばれる場所へは、どこへも通える気がしませんでした。だから、バイトも週三です。一日ずつ休みながらならば、行けるだろうと思ったのです。

 フリーター生活は、月々二万円を家に入れる約束以外、一切の縛りがなかったので、週三日のフルタイムなら、ゲーム機を本体から買ってカラオケに行きまくっても、数か月もすればまた金が余るだろうと、バイト始めたてのぼくはウッキウキでした。それが十日でばっくれるくらいなので、やはりなんとも、弱るのが(真人間の感覚で言って)異様に早いです。

 七日目あたりで、もうゲームとかカラオケとかどうでもいいから、とにかく仕事をやめたいと考えていました。九日目で初めて遅刻をして、十日目でばっくれです。あからさまに弱っていくぼくに、同じ時期で入った女性(本人いわく一回り年上)に励まされたりもしたのですが、今思えばその女性の励まし方が、ぼくの人生にいくつかあるうちの「毒」の一つになってしまった気もします。

 何かしたいことはないの? それのために頑張ろうよ。そういう励まし方をされた上で、「何もないです。仕事をやめること以外」という結論をぼくは出しました。本人にも伝えました。父はぼくと真剣な話で喧嘩するたび、ぼくに対して「お前に幸せになってほしい、生まれてきてよかったと思ってほしい」と言っていましたが、そういうのが、毒である気がするのです。

 人を不幸にする言葉は、「どこかで報われた?」だと思います。我々は報われるために生きているわけではないはずなのですが、そう聞かれてしまうと突然、自分が不幸な気がしてきます。思い当たりませんか、報われなかったこと。例えばウチの親なら、長男がニートであることでしょうし、ぼくにとっては、なんでしょうね、誰もぼくの気持ちを理解してくれないことでしょうか。この文章も、報われることはないでしょう。書きながら、努めて、だからといって無意味でも無価値でもないのだ、と自分に言い聞かせなければいけません。

 やりたいことのために頑張ろう、生きるからには幸せになろう。その手の考えは、人を殺すのではないでしょうか。やりたいことがわからない時、幸せが具体的に何であるかわからない時、その言葉が毒になる気がするのです。まずい状態の人間にほど毒になりかねない言葉は、励ましの言葉として、どうなんでしょうか。

 ぼくも少し前まで、人生の目的は、幸せになることだと思っていました。しかし今のように活力を失って、つまり幸せって何なのか、自分は何がほしいのだろう、わからない……ということになってしまうと、では目的を見失った以上、人生に意味はない、価値はない、そうなってしまうような、そんな気がするのです。まさか今あるつらさの全てが、その言葉と理屈に集約されているとは、さすがに思えませんけど。

 バイト先の善人性質な、その女性は、別の励まし方として、以前勤めていた規則が厳しいバイト先の話もしてくれました。髪で耳が隠れるのもダメとか、そういう厳しいところに比べれば、ここは天国だよ……と。

 ばっくれる頃のぼくは、その理屈で幸せになれるなら、一度地獄に落ちて、しばらくしてから現世へ帰ってくれば、なんでも天国になるんじゃないかと、言い出しっぺの法則でアンタから地獄に落ちてみてくれよ、その後に同じことが言えるのかよ……と考えていたので、だからもう、なんというかメンタルが、ダメだったんですよ、完全に。

 そうしてバイトをやめて、その後ぼくが、もう一度だけ別のバイトを試みた時には、もはや二日目でばっくれた(つまり勤務したのは一日だけ)ので、それ以来、もう働かないぞと決心しましたし、それを結局貫き通しているのが現状となっています。ちなみになぜマトモにやめず、ばっくれるのかというと、言うのは二度目になりますが、説教という形にせよ何にせよ、どうせ心を殴られるのなら、まずこちらから殴りたいのです。

    二つ目のバイトは制服があったのですが、勤務たったの一日(ぼくから見ても「たったの」一日)で、なぜか家にいるのに制服を着ていて、なんでこんな物を、仕事が終わってからの時間で着なきゃならんのだ……と脱ぎ捨てた、と思ったら、それはかけ布団だった……という夢を、一晩で三回くらい見て、これはダメだとなったのです。

 他にもバイト二つ目の話だと、なんだか職場そのものにストレスが滞留しているような、目に見えない「ストレス」という名前の煙が、目に見えないから認識できるわけない(当然「煙たい」等の感覚もあるわけがない)のですけど、何か職場全体に蔓延している気がしたり、とにかく「やってられんわ、こんなこと」となったのです。勤務たったの一日ですよ。

 このストレスの煙や、労働の臭いという、なんとも言葉では説明しにくい感覚的な物が、今でもぼくには残っています。例えば、まあ当然と言えば当然なのかもしれませんが、家族旅行の流れで富岡製糸場の見学に行った時は、ものすごい労働の臭い(嗅覚に訴える感覚では断じて無い)を感じて、若干体調が悪くなったような気さえしました。体調がどうのこうのというわけではなく、ただ単にテンションが下がっただけという可能性もありますけど、ぼくにはもう自分の体調も、よくわかりません。

 不思議なことなんですけど、例えばぼくが「リンゴが食べたい。が、金がないので、リンゴを得るためには働かなければならない」という状況にあったとして、最終的に「働かない」という結論を出した時、真人間の方々は、決まって「リンゴはそれほど食べたいわけでもないんだな」と解釈するんですよね。これ、経験上本当に例外なくそうなので、非常に不可思議です。

 そこで「それだけ働きたくないのだな」と解釈してくれる人は、誰一人としていないんですよね。説明すればあるいは「なるほど」と言ってくれるのかもしれませんけど、初見でぼくの望む解釈をしてくれる人は、見たことがありません。そういうところから、真人間とは分かり合えないということを実感していきます。

 分かり合えないといえば、一つ悲しい例を見ました。首吊りについてネットで調べていた時に見た文章なのですけど、それは、自殺者の死体を処理する仕事をしている人の書いたものでした。

 仕事の経験上、誰よりも「自殺者の遺族」の現実を知っていると言って過言ではないであろうその人は、そのことについて詳しく説明したあとで、こう締めくくっていました。……あなたが自殺すれば、多くの人が悲しむのです、自殺なんかやめなさい。

 多くの人の悲しみは、一人の人間が自殺に至る気持ちより、重いのでしょうか。それは、「どちらが」と考える時点で、間違っています。「どちらが」という話ではないので、自殺する人の気持ちこそ尊重されるべきでそれ以外ありえない、と言うつもりも当然ありませんが、しかし確実に言えるのは、人の心を「どちらが」という考え方で、しかも「数」を理屈に入れて語ろうとした時点で、その人はすでに論外です。人の心を語る資格がありません。

 浅はかな人が「悲しむ人がいるからやめろ」と言えてしまうのは仕方がないかなと思いますが、自殺者の死体の処理という仕事をしていながら、その経験の後にそんなことを言えてしまうのは、とても悲しいことでした。ぼくも彼と同じ経験をすれば(働けないことはいったん忘れて)、同じような思想に変わるのでしょうか。現実に限りなく近づいた人間が、それによって人の心を語る資格を失っていくなんて、悲しすぎませんか。

 首吊りについて調べると、もう一つ目に入る物があります。さっきの話は偶然見た物ですが、こちらは確実に目に入るでしょう。名前は忘れましたけど、よく聞くあれです、死ぬ前にここへ電話して気持ちを打ち明けてみてくれ、というアレの電話番号です。

 ぼくはその手の番号に何度かかけてみたことがあるのですが、あれは、繋がりません。需要に対して供給が追い付いていないのだと思われます。それもまた悲しいことです。それがそのまま現実であると、改めて実感することになりますから、むしろあのダイヤルは繋がらなかった場合、さらに自殺の気持ちを加速させる、諸刃の剣のように思われます。

 自分を助けてくれる人は、そうそういない。助けるどころか、ともかく相談に乗ってくれる人でさえ、ちょっと探した程度では見つかるものではない。そんな当たり前のことを、ぼくを含む暗い人間たちは、あのダイヤルを見た瞬間に忘れて、そして、それが一向に繋がらないと悟った途端、忘れた現実を思い出すのです。より濃く、再認識させられるのです。

 ひどい物だなと思いましたけど、それで救える命が確かにある以上、やめればいいのにとはどう考えても言えません。難しいですね。人を救うというのは、基本的には無理な話だと考えておくべきなのかもしれません。

 この他にも最近の話だと、既にちらりとはしましたが、体調が悪いのかどうかわからない、つまり、自分は本当に体調が悪いのか、それともかまってちゃんのあまり「体調が悪い」ということにしたがっているだけなのか、自力ではどうも判断できない……だとか、そういう話はあるんですけど、文字数がそろそろ二万に達しますし、キリがないので、ここらへんでやめておこうかと思います。

 ぼくも早く、ここに書いたような気持ちを、過去の話にしてしまいたいです。この気持ちがいつまでも「最近」のこととしてぼくの中にあることは、それは勘弁していただきた。それは避けたいことです。どんな手段を用いてでも……と言える覚悟は、無いわけですけれども……。

 

 ※以上の文章は、ぼくの感じていることを、言語化することに「試みた」物であり、言語化を、完璧に成し遂げている物ではありません。ここに書かれていることは、ニュアンスで受け取ってください。ここに書かれていることが、ぼくのつらさの、全てではありません。言語化能力の不足は、ぼくだけでなく、大多数の人間に共通することかと思います。それを理由に「なるほど理解した」という「誤解」を受けることは、心外なのです。

 また、その日のうちに書き切るか、そうでなければ諦めることを予定していた本文は、予定外に二日間をかけて書かれたので、文中の「今日」とか「昨日」という言葉については、あまり気にしないようにお願いします。