盲目と薄氷

 これは日記です。大まかには事実と異なりません。

 

 

 

 父が仕事での飲み会を終えて、アルコールが入ったままバイクに乗り帰ってきました。コンビニでアイスとエクレア、クレープをお土産に持って帰って来てくれていました。

 父が飲酒運転をした……という事実を、ぼくは生まれてから20年と半年以上が経ったその日、初めて目にしました。父がそのようなことを行った試しは、ついその日まで、一度もなかったのです。

 今回は無事帰って来られたから良かったものの(いや良くはないけど)、事故っていたらどうするつもりだったんだ、なんで急にそんなことをしたんだと問い詰めると、「なんか今日はいけると思った」という答えともう一つ、ぼくへ言葉が返ってきました。

 

「もし俺がダメになったら、お前が頑張ってくれるだろ? お前のことなんやかんや言って信用してるよ。俺がダメになったらお前は覚醒する。今はまだ一枚カードが足りないんだ」

 

 ……まだ一年も経たないほど近い過去に、ぼくと父は喧嘩をしました。いつまでニートでいるつもりだ、せめてバイトしようとするくらいの努力を試みたらどうだ……と言う父。絶対に働かない、働いたら不幸になる、そんな風に育てた親が自分のことを棚に上げて……と好戦的なぼく。

 20年あんたが正しいと思う育て方をした結果がこれなのに、まだ自分の正しいと思うことをぼくにやらせようとするのか。その調子でこのまま「ぼくの味方」とか「ぼくの為」とかのたまい続けるなら、仕舞いには刺すぞ。ぼくが泣きながらそう言ったあたりで、父も号泣して、喉から「なんなんだよ!」と気色の悪い高音で発して、電子タバコを床に叩き付け、母に抱き縋っていました。それで決着ということで、ぼくは今もニートをしているわけです。

 いろいろ考えたらしく後日になって父は、ぼくに、

「やりたいことをやればいい。ただし家事を手伝え。そしたらあとはお前のやりたいことを助けるよ。……でも覚えておいてほしいのは、親は子どもに幸せになってほしいといつでも思っているし、今のままじゃ幸せにはなれない」

 というようなことを言ってきました。そのぼくら二人は外食店にいて、その日はぼくの誕生日で、ぼくが初めて酒を飲んだ日でした。人生初めてのビールでした。今もビールをその時のことを飲むと思い出しますし、するとなおビールがおいしいです。

 このままではダメだというのはぼくも確信していることだったので、ぼくにとってその言葉は理想がそのまま現実になったような、とても素晴らしい結果のように思えました。唯一家事さえなければ本当に完璧だったのですけど、さすがにそこで「ありがとう。でも家事は嫌だ」と言えるほどには、ぼくのバーサーカー性も極まってはいませんでした。

 しかしあれからずっと思ってはいたのです。人間がそんなに簡単に変わることができるのかと。あの言葉は、父の本心ではないのではないかと。良い親が子どもを傷つけることを避けたがるように、普通の人間は自分が傷つくことも避けるでしょう。あの言葉は、さすがに真っ赤な嘘ではなくても、純粋な本意でもなくて、「喧嘩を避けるための選択」という要素も、混ざっていたのではないか。ずっとそう考えてはいたのです。

 飲酒運転を犯した父の口から酒の力を借りて出てきた言葉を聞いて、ぼくは、やっぱりダメだと確信しました。父はまだ夢を見ています。一家の危機となるほどの一大事が起きれば、そのくらい「いざ」という時が来れば、ぼくが光に包まれて、真人間に変身すると思っているようです。

 カードが一枚足りないという部分にだけは同意できました。確かに足りないのです、大きく行動を起こすためには、自分が変身するためには、まだもう一つ何かが足りません。

 ニートの社会復帰を手伝う市の施設に勤務する職員が、ぼくに言ったことがあります。

「死ぬことって、働くのと同じくらいエネルギー使うと思うよ」

 それを聞いたギリギリ10代だった当時のぼくは、何を馬鹿なこと言っているんだろうと思っていました。だって死ねばそこで終わりだけど、働いたって次の働きが来るだろうと。終着点と道すがらを比較することがまずおかしいと。

 しかし真剣に考えてみるとあの言葉は正しかったように思えます。たしかに「その後」を考えるなら、トータルで消費するエネルギーは働いた方が大きいでしょうけど、「その瞬間」だけを見れば、死ぬことと働くことは、同じくらいエネルギーを使うことのように思えます。

 一日たりとも働きたくない。一時間たりとも働きたくない。そんなことを言っているやつには、自殺なんか到底出来やしないのです。自殺するにはせめて、誓って100時間は働いてやるけどそれが人生最後の労働だ、と言えるくらいのエネルギーは必要なのかと思います。ぼくにはそれさえありません。

 考えてみれば喧嘩というのは防御的なことです。ぼくは自分を守るために喧嘩をしています。父親を泣かせてでも自分を守ります。何としてでも守るのです。けれども自殺というのはアルバイトと同じくらい、攻撃的なことでしょう。自ら死ぬのも金を稼ぐのも攻めることなのです。ぼくには攻めのエネルギーが足りていなさすぎる。

 だから働かないし、死にません。けれども、もし何かもう一つカードが増えたら。飲酒運転で事故った父が職を失うとか、その手の「最後の一枚」が発現したら、確かにぼくは覚醒するかもしれません。覚醒して、変身するかもしれない。一回きりだけ、攻めのエネルギーを得るかもしれない。でもそれは一回きりです。今までエネルギーに枯れていたぼくが、なんで急に継続的に消費可能なほど莫大なエネルギーを得られると考えるんでしょう。理解できません。

 父はぼくの覚醒を夢見ていたので、あわよくばの気持ちで酒を飲んだままバイクに乗ったんじゃないでしょうか。いけそうな気がしたというのは、本当と嘘が半分ずつ入っていたあの言葉をその通り行動に示して守ってきてくれた父が、その精神がついに限界近くなって、ヤケを起こしたということではないでしょうか。

 お前を覚醒させて働かせるために俺は死ぬ、なんて言い出さないあたり父もマトモな人なんですけど、酒を飲むとそれが若干揺れ動く程度には限界が近い、そんな気がします。いや、何を他人事のようにと思われるかもしれませんけど、ここで「これはぼくも早く何とか変わらないと」と思えるようならニートになっていないわけじゃないですか。悲しいことですけど。

 そういう理由でもなければ、今まで善良だった人が20年経って急に飲酒運転なんてしますかね。これを黄色信号だとぼくは思っています。あの喧嘩をした日、結局ぼくらはお互いを理解することを放棄しました。父はものすごく平和的に、愛情をもって、しかし結果だけ取って言えば「もう勝手にしろ」という結論に至ったのです。

 ぼくもぼくで言った通り、その父を見てあれをしようこれをしようという気持ちは一切湧いてこなくて、大事なのは自分だけ、どうにもそうとしか生きられません。ぼくと父は相互理解を放棄しました。もう相手の心については極力見ないようにしようと、どの程度意識的かはともかく、決めたのです。

 だからぼくもここに至るまでわかっていませんでした。あの時の喧嘩で、本当の意味で解決したと言えるようなことは、何もなかったのでしょう。そのまま何も見えないフリをして、お互いに精神的盲目を装って、家族で旅行に出かけて笑いあったり、ゲームをして楽しくぎゃあぎゃあと騒いでいたのだと思います。

 ぼくはそうしたかったんです。今が楽しければそれでいい。だから父に「もう勝手にしろ」と返すしかないようなことを言い続けたんだと思います。もっと言えばぼくは、「どうすれば幸せになれるのか」を自分でもまったく見当つけられていなかったので、そうするしかなかったというのもあるんですけど。

 しかしその結果、数年先の未来より明日を幸せにするために盲目になったことで、相変わらず自分たちが薄氷の上にいるということを、見えないものだからつい忘れてしまっていました。

 オリンピックが終わって2021年が来る頃には、我が家は父の仕事の都合で遠くの土地へ引っ越します。ぼくはそれによって「会える友達」を全員失います。会える友達は、会えない友達へとランクダウンするわけです。はたして本当に「会えないけど友達」が何の問題もなく成立し続けるのか、それさえぼくははなはだ怪しいと思っていますが。遠距離恋愛は否定派なんです。

 引っ越すことでぼくは会える友達を失う。では代わりに何を得られるのかと言えば、何も得られません。今の慣れ親しんだ家と町を手放して新しいそれらを手に入れるのは、それは「得られる」物にはカウントされません。むしろ差し引きすればそれも失う物です。ぼくは今のままがいい。

 要は近い将来に、どう考えたって希望が感じられないビッグイベントが控えているというわけです。ぼくはこれが「最後のカード」なのではないかと感じています。けれども違うかもしれません。ぼくのエネルギーの無さはビッグイベントの威力を上回るかもしれない。

 しかし実際には、カードは一枚と言わずそこらじゅうに散らばっているのかもしれません。父の飲酒運転でそう考えを改めました。一枚でダメなら二枚、それでもダメならさらに……と、最悪そんな風になれば、さすがのぼくもエネルギーを得るんじゃないでしょうか。これは不吉なことですよ。

 今が幸せならそれでいい。そう思って父との喧嘩を決着させたことがもう半年以上前。いや、まだ半年と少ししか経っていない、と言った方が実際のニュアンスに忠実なのかもしれません。

 最近ぼくはもう、この生活が楽しいとは思わなくなりました。インターネット、ゲーム、漫画、アニメ、小説、その他もろもろ。娯楽に対して「これは面白い」と思うことはあっても、この生活そのものが楽しいと思うことは、もうほとんどなくなってしまいました。それがなぜなのかはわからないけれど、事実としてぼくの「楽しさ、充実感」を認識する機能は、劣化しているように思われます。

 そして、思えばかわいそうなんです。ぼくはぼくが悪いとは少しも思いませんけど、むしろ父の自業自得だとさえ思っていますけど、同年代の余所の「父親」から「ウチの息子は今こんなことをやっている」という話を聞かされるぼくの父は、かわいそうです。

 幸せな未来を夢見て子どもを生んで、得た結果がこれというのは、かわいそうなんですよ。幸せな未来というのは、子どもを生めば自動的に手に入る物ではないのだから、父に落ち度がなかったなんて考え方をぼくは絶対に認めませんけど、それはそれとして、かわいそうなものはかわいそうなんですよ。

 幸せになる方法がわからず、ついに今日明日の楽しさも感じられなくなってきて、死にたいとまではいかなくても、こんなことなら生まれて来ない方がよかったんじゃないかと考える時、幸せじゃないのは自分だけじゃないことを思い出します。自分だけじゃないどころか、すぐ近くにいるんです。ぼくがこんな風になっていることそれ自体が不幸な人が、ぼく以外にもいるんです。

 じゃあやっぱり自分をかわいそうと思うのと似たように、かわいそうだって思うじゃないですか。ぼくだけが悪いわけでも、親だけが悪いわけでもないけど、かわいそうなものはかわいそうなんですよ。自分が償わなければとはまったく思わないけれど、このかわいそうという感覚を表現するために使える言葉を、ぼくは罪悪感しか持っていません。

 最近、家事さえ本気でやりたくなくなってきました。これでニートが出来るならおいしいものだと取り組んでいた半年前から一転して、家事もかなり労働に近くなってきました。一日一時間程度の家事でさえダメになるほど、ぼくにはエネルギーがないようです。

 漠然と「楽しくない」と感じるとつらいものです。常に「楽しくない」と感じるのはつらいものです。じゃあ生きていない方がいいじゃないかと思えてきます。もちろんまだ、引っ越しを嫌だと感じる程度に「悔い」がありますし、何より死そのものというよりも「死の瞬間」のことはめちゃくちゃ怖いですし、「よし、もう死のう」という結論には至りませんけど、それでもつらいものはつらいです。

 このつらさを、真剣に嫌になってきた家事で繋ぎ止めているのかと思うと、なおのこと全部放り捨てたくなります。このつらさを繋ぎ止めておかなければ、もっと大きなつらさに直面することがわかっているから、実際にはそう簡単に捨てたりしませんけど、でも本当になんだか、足りないカードはあと一枚だけだという感じがするのです。

 働きたくないと言うと、みんなそうだと言う真人間の人たち。ならどうしてみんな働けているんですか。どうしてその生活で生きていけるんですか。あなたたちも、あとカードが一枚あれば、その生活をやめるのですか。

 ぼくはただもう、楽しいことだけをしていたい。面白い物を面白いと感じるなら、常に面白い物を見てそれだけを感じればいいんです。そうしたい。それができないならやっぱり、生まれて来ない方がよかったのかもしれないと、思ってしまいます。だからダメ人間で、だからニートなんでしょう。

 そして、しかしもうぼくからは、面白い物を探すということをするエネルギーすら、失われていっていることを感じます。娯楽に手を伸ばすことが、段々と、下手になっていることを感じます。漫画が来たらすぐ読んで、アニメは手当たり次第面白いかどうかを確かめて、なんてエネルギーはもうありません。文章を書くエネルギーはあっても、小説を書くことはしなくなりました。友達との遊びも、大した楽しみと思わなくなりました。急遽中止になっても、痛くも痒くもない。この先、もっともっとエネルギーは失われていくのでは。そんな予感がします。

 もしかして生まれて来なければよかった系の人? 小学校の頃、不登校児をやっていたぼくにそう言ってきた先生がいます。ぼくは迷わずノーと答えました。本心でした。あの頃のことを考えると悲しくなります。時系列ではなく、気持ちだけあの頃に戻りたいです。

 さて、しかしそんなことを言っていてもキリがないですし、言っていたって何も救われないので、今回の作文はこれで終わりにしようと思います。最後にオチとして、だからなんだって話をしておきましょう。

……父がお土産に持って帰ってきれくれた、アイスやその他のスイーツたち。それらは特に何の変哲もなく、とてもおいしかったです。