基本的に光よりも遅い夢

 ぼくが寝ている間に見る夢には、ある程度の法則性があるように思う。夢の内容ではなく、いつ夢を見るか、という点に法則があるように思う。

 その法則というのは、「現実の出来事や環境」などに関連している夢は、基本的にその「元となる現実」から一日以上経過してからでないと見ないのではないだろうか、という説である。いかんせん夢の話になると、どうしたって記憶が曖昧になってしまうから、あくまで仮説であるのだけれども。

 この説を思いついたのはつい最近のことで、ある平日の日の夜に友達と遊んだのだけれど、その日眠る時に見た夢は「ボロ負けする阪神。それをテレビで視聴してヤジを飛ばす自分と家族」であった。

 その阪神の夢を見た次の日、つまり友達と遊んでから一日経過したあとの夜に、今度はその友達が夢に出てきた。プライベートな話なので伏せるけれども、夢の内容もその友達と遊んだ時のことに関連していたので、「友達と遊んだ」という現実と「友達が出てくる」という夢には、ほぼ間違いなく関連性があると思われた。

 そこで気が付いたのだけれど、自分は以前日曜に、巨人にボコられる阪神を実際にテレビで家族と見ていた。つまり平日に見た阪神の夢は、日曜に体験した現実から一日以上経過した状態で見た「現実に関連する夢」だったのだ。

 思い返してみれば、例えばぼくが以前ここでの作文に書いた「鳩羽つぐの夢」なども、その日のうちに鳩羽つぐを見たわけではなく、まったく鳩羽つぐを見ていない別の日に夢を見ていた。そしてそのような「現実に関連する夢」は記憶を探れば探るほど、元となる現実から一日以上の間を置いてから、夢として現れていたように思えてくる。

 せいぜい高校時代までの記憶くらいしか探れはしないけれど、長期休みの間に夢の中に学校の先生が出てきたり、一切連絡も取らなくなっていた元カノが何のきっかけもなく突然夢に出てきたり、疎遠になった友達がやはり何の前触れもなく夢に出てきたり、ちょっと前に見たゲームの動画が元ネタになっている夢を見たり、とにかく現実が夢になるまでにラグがあったことが大量に思い出される。

 ただ、思い出せる中に一つだけ例外もあった。ゴミ収集のバイト一日目を終えたその日の夜に見た夢だ。ぼくは家にいるのになぜか作業着を着ていて、仕事でもないのになんでこんなもん着なあかんのじゃ!とそれを脱ぎ捨てると目が覚めて、実際にはかけ布団を投げ捨てていた……という夢である(脱ぎ捨てるところまでが夢、布団を投げ捨てたのは現実)。

 そのような夢を一晩で三度も見たので、つまり夜中に三度も目が覚めてしまったので、たかだか一日でこりゃダメじゃと思った当時のぼくは、翌日のバイトをばっくれたのだけれど、それはまた別の話だから置いておくことにする。

 このことから言えるのは、基本的に現実が夢になるには一日以上のラグを要するが、強烈に嫌だった体験は即日夢になるという「例外」も存在すること……なのだろうか? そのような気がするけれど断言はできない。

 ニートであるぼくにとって労働ほど嫌なことはなく、〇〇さえ得られるのなら労働にも耐えられるぜといった感じの、労働と釣り合う事柄が思いつかない。だから「例外」が発生する条件が「強烈に嫌な体験をした時」なのか、それとも「強烈に印象に残る体験をした時であり、それが自分にとって良い体験だったか悪い体験だったかは関係しない」なのか、確かめようがないところがある。だから断言はできない。

 それとまだ他にも判定に困る内容の夢がある。これは高校生どころか下手すれば中学時代に見た夢かもしれないけれど、以下のような内容の夢を見た。それは「デッキ内のコアクマンのおつかいの投入枚数を、3枚から4枚に調整した」という、当時よく遊んでいたカードゲームに関連する内容であった。

 その地味で身近で現実くさい夢に当時のぼくの脳みそは混乱させられて、実際に現実の方で「4枚も入れてるのにおつかい全然引かないんだけど! ……あれっ!? 3枚しか入ってない!」と夢と現実がごっちゃになった結果生まれる害に踊らされていたりしたのだけれど、夢の法則性の話をする上で重要なのはそこではない。

 要するに当時のぼくにとってそのカードゲームは「毎日触れる日課」のような遊びであったわけだ。何が言いたいのかというと、毎日触れている現実が夢になった場合、それが「即日夢化した現実」なのか「以前の現実が夢化した物」なのか区別がつかないのである。

 少なくとも「強烈な印象」が即日の夢化には必要だとする考えも、このあたりの曖昧さがあるので何とも断言しがたいことになってしまっている。そして「夢に法則性があるのでは?」という考えを余計に不確かな物とする要素はまだある。

 そもそも当然ながら全ての夢が現実に関連しているわけではなく、人物や場所(二次元を含む)や人間関係や世界の常識など、その他諸々一切の要素がまったく現実に関連していない夢だってあるわけである。現実に関連した夢に法則性があると仮定するとしたら、それら現実と無関係な夢についてはどういう判断を下せばいいのだろう?

 例えば昔見た夢の中に「自分は見知らぬ外国人(言葉は通じる)と一緒に白いボートに乗って無人島に漂流。島を探索するが生活感の無い古びた白い家屋しか見つからず、脱出の当てがまったくないまま日が沈む。辺りが真っ暗になるとすぐ、鬱蒼と木々の茂る山の中に突然、不自然に存在している上に稼働している上りのエスカレーターを発見する。それを登ってみるとその先にある山の頂上からは、自分たちの漂流してきた地点から山を越えた、島の向こう側の景色……キラキラと輝く夜景が見下ろせた」という内容の物がある。

 こじつけるのならテレビで外国人を一切見ない日はそう多くないし、テレビで見る外国人というと俳優である確率は高いので、このような物語として面白そうな、映画のような夢を見る理由になるのかもしれない。無人島という舞台も、鉄腕ダッシュを理由として語っていいならそれで事足りる。

 しかしそんな「言えなくもない理由」を元に夢を現実と関連付けていたら、全ての夢が現実に関連した夢扱いになってしまう。どこまでが現実に関連した夢で、どこからが現実とは無関係な夢なのか。そもそも現実と無関係な夢なんて存在するのだろうか、疑問は絶えない。

 ぼく自身の曖昧な感性で「現実と無関係な夢」と判断した夢は、現実と関連しないことそれ自体を理由に、よほど面白い内容である場合以外は大抵すぐに忘れてしまう傾向にある。ぼくは記憶を探れる範囲で「現実が夢化する際のラグ」を語ったけれども、そもそも全ての夢は多かれ少なかれ現実に関連しているのだという考え方をする場合、忘れてしまった夢が大量にある以上、データ不足すぎて法則も何も語れたものではない。

 ぼくの曖昧な感性が都合の良い部分だけを拾って夢化のラグを語りたがっているだけなのか、「現実と夢の関連性の濃度」と「夢化のラグ」に何か関係があるのか、そもそも初めからこの話に意味など一切ないのか、何とも断言できない。手詰まりである。

 かといって、結論がある話しかしてはいけないだとか、役に立たない話は無価値であるとか、ぼくはそのような考え方を肯定し切る気になれない人間なので、手詰まりなら手詰まりで別に構わないと思っている。この先何か進展があれば儲けもの、といった程度のことだ。夢のことに本気も本気で全力をもって真剣になれるほど、現実に余裕があるわけでも、研究熱心であるわけでも、メルヘンであるわけでも、気が違っているわけでもないのである。

 自分が見た面白い夢の話をするという目的は、すでに達成されている。