欠損少女を描くことは罪なのか

 二次創作をメインに活動する、ある絵描きの人が言っていた。
 自分はオリジナルキャラクターを作ってもすぐに飽きてしまっていたが、思えば片目が無いとか片腕が無いとか、自分の趣味に正直なキャラを作っていれば、もう少し飽きずに続けられたんじゃないか。……と。
 趣味だから、という理由で五体不満足の少女を描くことを、あなたは罪だと思うだろうか。ぼくは正直、直感的には「罪だ」と思った。そしてそれは、どちらかといえば一般的な感覚であると考えている。
 でなければ、その人はとっくに自分の趣味に忠実な、理想の欠損少女を描いてネットに公開していただろう。なぜ実際はそうしなかったのか? ぼくが考えた理由は二つ。
 本人が「それは罪だ。罪を犯すわけにはいかない」と自重した説。本人に罪の意識はなかったが、衆目に晒せば多くの人が「それは罪だ。罪を許すわけにはいかない」と考えるだろうと予見して、結局は自重した説。
 ぼくにはこの2パターン以外が思いつかなかった。口ぶりからして「オリジナルキャラクターの制作」そのものに関しては試していたようなので、やる気が出なかった説はないだろう。だから仮定として、その2つのうちどちらかが理由だったとする。
 ぼくがそうであったように、その絵描きの人も、あるいは衆目を形成する人間たちも、それなりの割合で「趣味を理由に欠損少女を描くことは罪だ」と考えているはずだ。もっと言えば「趣味が欠損少女であることは罪だ」と思っているだろう。
 そうだとしたら、けれどなぜぼくたちは、それを罪だと思うのだろう。法律に則った感覚ではないはずである。もっと本能的な感覚で、罪を認識しているように思う。
 考えた末、なぜ、に対する答えを、一つ思いついた。ぼくが思うに、その罪の意識の背景には、男女間の性的搾取の問題がある。
 男性は女性を性的に搾取してはならない……というテーマが話題にされることはしょっちゅうだ。けれども、その逆はあまり聞かない。それはなぜだろうと考えると、原因は女性が男性よりも、どう言い繕ったって弱いことだと思われた。
 女性が男性よりも強ければ、搾取という概念はあまり確立されなかったように思う。なぜかって、確立させる必要もないからだ。気に入らなければ力でねじ伏せればいい。それが出来ないどころか、むしろ自分たちが力でねじ伏せられかねないから、それを危惧して抗議をするに至るわけだ。
 これは別に女性をバカにしているわけではなくて、このことについてぼくは至極真っ当なことで、然るべき流れだと思っている。筋力にせよ社会的地位にせよ、そういう「力」がもし男女で逆だったら、今頃ぼくたち男が搾取について抗議していただろう。
 相対的に強いものと弱いものがあるから、搾取という概念が生まれて、搾取=罪という概念も生まれる。ならば「強いもの」と「弱いもの」だけでなく、「とても弱いもの」という3つ目の概念が世の中に存在していたら、どうなるだろう。
 年端もいかない少女は、成長して大人となった女性よりも弱い。五体不満足の女性は、五体満足の女性よりも弱い。相対的強さの頂点にある「何不自由ない男性」との、強弱の振れ幅が大きくなればなるほど、搾取、罪の概念、感覚も大きくなっていく。趣味で欠損少女を描くことは、数ある罪の中でもかなり重い。
 けれども、「それが自分の趣味だから」……という理由で描かれた欠損少女に対して、「それは罪だ」と言う人たちは、同じ理由で描かれた、巨乳で露出過多で性行為に積極的な女性キャラクターに対しても、同じくらい強い気持ちで「それは罪だ」と言えるだろうか。
 たぶん、言わない。というか、ぼくは言わない。それはそういうものだから好きにすればいいと思ってしまう。エロ漫画の読みすぎ、という言い回しで人を批判することはあっても、エロ漫画を作った人まで批判しようと思ったことは、ぼくは一度もない。
 じゃあなぜぼくは、欠損少女に対してだけ「見ること」ではなく「描くこと」から罪だと感じてしまうのか。エロ漫画は多くの需要に応えた物で、欠損少女はそうではないからか? けれどぼくはニッチなジャンルを批判する気もなければ、それを罪と感じることもない。境界線はどこにある?
 おそらくは、搾取の罪の重さが一定のラインを超えると、ぼくはそれを「罪だ」と感じるのだと思われる。男に都合の良い女を描くことも、安易に欠損少女を描くことも、どちらも搾取の罪を含む行為だけれど、後者の方が罪が重い。逆に言えばぼくは、罪の重さが一定ラインを超えなければ「罪だ」と認識することが出来ないようだった。
 そのラインが明確にどこへ引かれているのか、それはわからない。けれど少なくとも「安易な欠損少女はアウト」らしい。……大多数の人も、そうなんじゃないか。みんなそれぞれ自分なりの罪検知ラインを持っていて、欠損少女はそのあまりの罪の重さで、万人のラインを超えていったのではないか。
 明確なラインは法律が決める。個々人のラインの違いを議論することは、多くの場合不毛な結果を生んでしまう。だから何が正しいとか間違っているとか、そういう話ではなくて、少なくとも「これがぼくの考える(二次元やフィクションにおいて)理想の女性です」と言って描かれる欠損少女は、大多数の罪検知ラインを超えるらしい……という事実だけを確認しておきたい。
 その上で、伝えたい話がある。
 別のある絵描きの人が、事故で両腕を失った少女を描いていた。デフォルメされたかわいらしい絵柄だったけれど、薄っぺらで空っぽな長袖がゆらゆらと揺れる様子が、半ばその少女キャラクターのトレードマークと化していたようにぼくからは見えた。
 そしてその絵描きの人は、「性行為に抵抗感を持たず積極的」とか「異性からの嫌らしい目線を肯定的に捉えている」といった「エロ漫画的な、搾取とも呼べる要素」の一員として、「虐待を受けていた過去がある」を並べるような人だった。等身の低いかわいらしい絵柄からは想像し難いことだったけれど、事実そうだった。
 本人がそう名言していたわけではないが、作られるオリジナルキャラクターを見ると明らかにそうだった。「それが魅力的だから」という理由で、両腕を失った少女も作るし、虐待を受けている少女も作る。おまけにそれらは設定が詳細だった。どういう経緯で腕を失ったか、どんな虐待を受けているか、全て設定が決められていた。
 その絵描きの人のことを「度し難い」と感じる人がたくさんいることと思う。ぼくも初めて見た時は「いつか、怒られるでは済まないことになるんじゃないか」と思った。それらの「設定」は、どこかでは実際の人間にも「現実」として実在しているのだから。
 けれど、その人がある動画を上げていた。自分で描いた絵を、パラパラ漫画の要領で動かした動画だ。それはあるアニメのエンディングに出てくる、特徴的なダンスのパロディだった。
 何人かの少女たちが、パロディ元と同じように笑顔で、楽しそうに、踊りを踊っていた。その中には件の、腕のない少女もいた。他の人がバンザイをするような動きで踊る中、彼女も同じように踊っていた。揺れる袖がやはり印象的だった。彼女を含め、みんな笑顔だった。
 ぼくは、その動画に希望を感じた。写実の正反対にあるような、マスコットのような画風で描かれた腕のない少女が、五体満足な少女たちの中に混じって、みんなと同じように楽しそうに踊っている絵面を、ぼくは他に見たことがない。
 もしも世の中がもっと厳しく、万人のラインを超える罪を取り締まっていたら、その人は度し難い趣味を衆目に晒すことはしなかっただろう。けれどそうするとその世界線では、今説明したような動画も衆目に晒されはしなかったことになる。
 どっちが息苦しい世界なんだろう……そう考えてしまった。言い繕っても仕方がないので断言するけれど、ぼくは腕を失った人の気持ちが少しもわからない。だからこれから言うことはしばらく妄想になってしまうけれど、言わせてもらいたい。
 もしも、この世に存在するキャラクターが全て五体満足の世界があったとしたら。腕を失った人たちは、実在する欠損少女たちは、そんな世界に生まれるよりは、今の世界に生まれた方がいくらかマシなんじゃないか。法律に則らない「感覚での罪」を取り締まってしまったら、それで出来上がる世界は、今よりもっとディストピアに近付くんじゃないか。
 子どもが親を選べないせいで起こる不幸がある。しかし、もしも子どもが親を選べるようになったら、どうなる。不幸な子の数は減るだろう、けれどゼロにはならない。大人でさえ判断を誤ることは多々ある。仮に「生まれる前の子ども」を大人程度に賢いものとしたって、間違いなく「親を間違える」子どもは出てくるだろう。
 良かれと思って作った「子どもが親を選べる世界」では、大人が不幸な子どもに対して、「自己責任」という言葉を投げつけるディストピアが待っているんじゃないか。ぼくは時々そう考える。
 欠損少女と罪についての話も、それに似ているような気がした。多くの何かを守ろうとして、守ろうとしたものに物凄く近い、別の何かを、さらなる地獄に追いやってしまうこともあるんじゃないか。そう思えるのだ。
 度し難い物を数多く生み出す人は、良い物を一つも生み出さないなんて、そんな風に決まっているわけじゃない。100の罪を生む中で1の良さを生み出すこともあるかもしれないし、その1が、他の人には出せない唯一無二の良さである可能性だってゼロじゃない。
 誰かを慰めるために作られた欠損少女キャラクターが、あの動画で感じたような希望を与えてくれるとは、ぼくには到底思えない。趣味で描くからこそ生まれる良さがあるように思う。本人にとっての「普通」で描かれるから、「特別」にはない良さがあるように思う。直接的な言い方をするとその「良さ」は、欠損少女を登場させることについて「押しつけがましさ」がないことだった。
 乙武洋匡が年末のお笑い番組で、スターウォーズR2-D2の仮想を披露したように、「過剰な腫れ物扱いへの否定」はどうやら実在している。だとすると、「特別」ではなく「普通」が大きな意味を持つ時もある、そうに違いない。
 そうするとあの動画は、やはり希望だったように思える。そして同時に、それがいわゆる「まともな人」が作れる物とは、どうしたって思えない。
 けれども、もちろんその「1の良さ」のために、100の度し難さを全ての人が許容するべきだ……なんてことも言えるはずがない。1の良さを称えることが自由なように、100の度し難さを貶すこともまた自由だ。……じゃあどうすればいいのか、ぼくは何が言いたいのか。
 結論はこう。少なくとも「表現」に関して、人間は永遠に戦うしかない。
 どうしたって我々は、気に入らない物に対して、戦い続けるしかない。それしかない。「そんな物を描くのは罪だ」と言い続ければいい。「やかましい、俺は俺の描きたい物を描く」と中指を立ててしまえばいい。戦うしかないのだ。競走にしろ戦争にしろ、争いや戦いの中で進歩する物があるように、「表現」は戦いの中で進歩するべきだ。そして戦いの中から希望を見つけていくべきだ。
 人のあるべき姿は闘争だなんて、そんなことを言うつもりはないけれど。抑圧されたディストピアより、常に小競り合いの続く今の方がずっといい。戦うことに意味がある。独善的なエロでもゴアでもなんでも描けばいい。それを批判すればいい、擁護すればいい。それが健全だ。罪についても存分に議論、もとい言い争いを繰り返せばいい。そうすることに意味がある。
 ただ、一つだけ注意したいことがある。何を描くのも自由、何を言うのも自由だとは思うけれど、一つだけ気を付けた方がいいことがあるのだ。
 もしも全ての創作者が、常に戦いの意欲に溢れているというのなら、この注意は必要ない。無限に戦えばいいだけのことだから。けれど実際のところ、戦意は有限だ。過度に戦いを恐れる必要もないけれど、狙って争いを巻き起こすことは基本的に避けたいはず。
 作品や発言を見聞きさせる相手には、注意した方がいい。誰が見ているのか予測もつかないインターネットの海に作品を投稿することは、常に限りなく自由な行為に近いけれど、しかしある程度相手が絞れるような……例えばそう……献血ポスターとか。もし戦意が尽きているなら、回復するまでの間はああいう「少なくとも、いつもと違う客層に見られることは予測できる物」に関わることは、控えた方が身のためなのかもしれない。
 ……さて、言いたいことも言ったので、オチとして最後にこの言葉を添えて、今回の作文を締めくくることにする。
 今回例に上げた、たぶん多くの人が度し難いと思う絵描きさんたちの趣味。ぼくも直感的に「これはまずそうだ」とは思った。思ったけれども……ぼくもそういう趣味が好きだ。ぼくはたぶん、「そっち側」だと思う。

夢日記、途中から見た映画。

 気付いたら映画を見ていた。すでに話はいくらか進んでいるようで(そう見えたというだけで、実はプロローグだったのかもしれないし、クライマックスだったのかもしれない)、途中から見ている自分は、なんとなくの雰囲気で話を理解するしかなかった。

 舞台は少なくとも海外。主人公の若い男はこれといった特徴がない、好意的に見れば好青年と呼ぶこともできるような出で立ちだった(以降この主人公を便宜上「A」と呼ぶ)。

 Aは、黒コートにボルサリーノ帽という、いかにも怪しい恰好をした男の案内で、森の中に建つ館にやって来たようだった。相当な距離を移動したらしく、Aの顔には若干の疲れが見える。一方怪しい男の方は、帽子が影になって顔が見えない。

 森の中の館の受付には、女がいた。職務中に酒と煙草をやるタイプの、小汚いなりをした女だった。女は主人公を見てそれなりに驚いたようだったが、Aの表情が浮かべた驚きはその数倍だった。

「こんなところで会うと思わなかったな」

 外で風が吹き、木の葉の擦れる音が館の中まで聞こえてくる。Aも彼をここへ連れてきた男も、一言も話さない。けれどもどうやら、Aと受付の女は親しい関係にあるようだった。

「好きに見ていきなよ。ヤるならお題はもらうけどね」

 顔パス同然に受付を通り抜けて、館の奥に入っていく二人。やがて遠くの方から、女の悲鳴が聞こえてくる。それに気付いたAは、悪夢を噛み潰すように険しい顔を見せた。

 やがて、いくつかの個室に繋がる通路にやって来る二人。館はホテルかカラオケに似た作りをしている。しかし個室の防音性は気休め程度の物で、悲鳴はそれぞれの個室から聞こえてきていた。

 その通路にまでやってくると、悲鳴の主が単なる女性ではなく、子供であることがわかる。何人もの子供の泣き叫ぶ声が、個室の中から通路に漏れだしている。中には助けや許しを乞う声もあった。

 個室のドアは防音性に欠けるどころか、中央にガラスがはめこまれていて、部屋の中を覗きこむことは容易だった。Aは現実を確認する。個室の中では、歳が二桁になって間もないであろう女児が、大人の男の性行為の相手をさせられていた。

 その館は受付の女が、つまりAの友人が取り仕切る売春宿だった。Aが通路に置かれていたベンチに座り込むと、怪しい男も彼の隣に腰を下ろす。そのまましばらく、Aはうつむいたままでいた。

 そこでカメラが移動して、視聴者であるぼくはそれぞれの個室で行われる様々な行為を見せられる。まずそれぞれの個室の入り口に、日本円にして数十円から数百円の金額が書かれていることが確認できた。

 ある部屋では、図体の大きい男が複数人、寄ってたかって少女を犯していた。

 ある部屋では、「前と後ろ、どっちに入れてほしい?」と、下種の笑みを浮かべた全裸の男が少女に問いかけていた。

 ある部屋では、注射器で少女に薬を打ち込む男が、自分自身もラリっていた。

 ある部屋では、薬品で喉を焼かれて声が出せない少女が、苦悶の表情を浮かべて涙を流していた。

 ある部屋では、たすけて、ゆるして、死んじゃうと少女がわめくほど興奮して、彼女の体を殴りながら犯す男がいた。

 ある部屋では、拳銃を突き付けて脅し、少女に自ら腰を振らせる男がいた。少女は股から血を流していた。

 ……散々地獄のような光景を見せられてから、視点がAのもとに戻ってくる。依然彼はうつむいたままでいる。

 そんな彼の耳に、一つ異質な声が聞こえてきた。それは拙い歌声だった。おそらくまだ男が誰も入っていない個室から、中にいる少女が歌っているのだろう。……けれど、どこからかやってきた男が個室の一つに入ると、その声はぴたりと止んでしまった。歌う少女の部屋に入った男は、薬品のような物を持っていた。

 悲鳴がこだまする暗い通路で、どれくらいの時間動かずにいたのだろう。うつむいた姿勢のまま死んだように動かなくなったA、同じく電源の切れた機械のように動きを止めた怪しい男。

 ……そこへ一人の男が新たに現れる。彼は少しの驚きを含ませた声でAに話しかけてきた。

「あれ、君もこんなところへ来るのかい?」

 顔を上げたAは、声の主を見て目を見開く。そこで入った一瞬の回想によると、Aに話しかけた男は彼の仕事仲間であり、同性のAから見ても美形で仕事もできて、なおかつ親しみやす人柄の、言ってみれば完璧なタイプの人間らしい。Aも彼のことを尊敬していたし、彼を友人のように思っていた。

 Aがわなわなと口を震わせる。男に対する返事は出てこなかった。すると男は「誰にも言いはしないよ」と笑顔で言って、個室の中へと消えていった。

 Aは思わず彼の入った個室を見る。すると彼は、中にいる少女に話しかけているようだった。

「君のために用意したんだ。喜んでもらえるかな……?」

 両腕に何かを抱えた彼がそう言うが、何を抱えているのかまでは彼の背中に隠れてしまって、Aからは一切確認できなかった。ただ確実なのは、男と対面する少女が、心の底から怯えきった顔をしていることだけ。

 魂が抜けてしまったみたいに、Aは再びベンチに座り込む。彼がどすんと落下するように腰を下ろしたので、古びたベンチの脚は大きくきしんだ。怪しい男はまたしても彼の横に、静かに腰を下ろした。

 ベンチからちょうど、一つの個室の中が見える。今度はうつむかず、光を失った目で、あるいは何かを決意したような目で、Aはその個室の中を見た。

「殺すなら殺せばいい。自分では決心がつかなかった」

 白く長い髪をした少女が、太った男にそう言っていた。彼女は他の誰とも違って、少しも怯えた様子を見せず、全てを諦めたような顔をしていた。

 しかしそんな彼女も痛みを与えられれば泣き叫び、首を絞められれば顔を赤や紫に染めてもだえている。窒息死する寸前で首から手を離された少女は、せき込みながら笑っていた。発狂した末の笑いというよりも、自分を殺しかけた男のことを嘲笑っているようだった。

 Aが突然立ち上がる。そして何の迷いもなくスタスタと彼は元来た道を歩いていく。怪しい男も無言でその背後をついてきた。二人が受付まで戻ってくると、女は何かの書面を記入しているところだった。彼女は書面に目を釘付けにして、Aの方を一瞥もせずに言った。

「おかえり。どうだった?」

 受付のあるロビーに置かれた椅子に座ったAは何も答えなかった。女は彼のそんな反応を見て、やはり書面からは目を離さないまま鼻で笑った。

 座ってうつむいたままのAは、ここではないどこかを見ているようだった。しばらくの沈黙…………相変わらず木の葉の擦れる音がよく聞こえる。

「休暇と旅行、どっちがいい」

 地獄に繋がっているとは思えないほど静まり返ったロビーに、Aの声はよく通った。

「両方!」

 女の返答にAは目を丸くする。

「……あ?」

 彼の乱暴な聞き返しで違和を感じ取ったのか、女はやっと書面から目を離し、Aを見て言った。

「ん? 昼飯の話じゃないの? ごめんよく聞いてなかった」

 それを聞いたAは、ポケットに手を突っ込んだ。

「……いや、合ってる。そうか両方だ」

 取り出された銀色のリボルバー銃。それが「カチリ」と音を発して、画面が暗転した……。

 そしてここで、夢を見ていたぼくは目を覚ます。朝の四時だった。

 

 

 

 さて、夢で見た映画の最後の暗転が、プロローグの終わりを示す物だったのか、それともその後にエンドロールが流れる予定だったのかは、結局分からず終いです。けれどそれ以前に謎が多い内容でしたよね。それについて思うことがあるので考察していきます。

 まず一番意味不明なセリフ、「休暇と旅行、どっちがいい」についてです。これ、舞台が海外ということもあって「翻訳ミス」なんじゃないかと最初は思ったんですよね。何か元の言語でなければ通じない慣用句や隠語を、翻訳班が直訳してしまったような、そんな気がしました。

 最後の展開から見て主人公Aは完全にキレちゃってますから、休暇と旅行のセリフは「死に様を選ばせてやる」か「殺すかどうかを返答で決める」のどちらかの意味があったと推測できます。で、この「死に様を選ばせる」ことについて、映画の中にちょっと思い出す要素ないですか。

 あんまり思い出したくないかもですけど、「前と後ろ、どっちに入れてほしい?」と少女に問う男。ぼくはそれを連想しました。だとするとひょっとして、Aがやろうとしていたことは意趣返しなんじゃないかな、とも考えられるようになりました。

 金さえ払えば何をしてもいい無法地帯、地獄と化している売春宿を、そうなるように仕切っているのは受付の女です(少なくともAと視聴者にはそう見えた)。少女たちにした行いを、Aは女に意趣返ししているのでは。そう考えると「休暇と旅行」のうち、「旅行」は「トリップ」と何かしら関係があるのではと考えられます。

 旅行の意味でのトリップと、薬によるトリップ状態、対応する意趣はヤク中の男です。こんな調子で「休暇」にも何か対応する物があって、それを相手に悟られないまま選択させるための質問だった……ような気がします。休暇は普通に「死」なのかもしれません。死か薬漬けかの選択。一応なんかずっと隣にいる敵なのか味方なのかもわからない怪しい男が薬とか持ってそうですし、Aは女にどちらかの罰を与えるつもりだったのかもしれません。

 そう考えると質問に対して「両方」と答えられた主人公の驚きも理解できるような気がしてきます。彼はそこで気付いたんじゃないですかね、少女たちはどちらかを選んだところで、選ばなかった一方を回避できるわけではないことを。だから「いや、合ってる。そうか両方だ」なんじゃないかと。

 ただ、それだと最後に銃を取り出した意味がわからないんですよね。殺しちゃったら薬漬けにできないけど、足を撃って身動きを封じるとかそういう意図だったんでしょうか? それにしては紛らわしし過ぎる気がしてしまう……。しかしその紛らわしさから考えると、一連の流れはプロローグだったのではとも思えてきます。暗転の後、Aの結末がどうなったのかわからないまま、別視点で物語がスタートして、どこかでAのことが絡んでくるみたいな。

 あるいは「旅行→トリップ」という考え方が間違いで、やはりそれは慣用句の翻訳ミスであり、彼は「自分の死か女の死」を選択させていた説もあります。休暇と旅行がなぜそんな意味になるのかはさっぱりですけど、目の前の悪である女をとりあえず殺すのか、友人が平気な顔で少女を食いものにする人間だと立て続けに思い知らされたAが生きることに嫌気がさすのか、というわけです。

 この説の場合、対応してくるシーンは白髪少女の「殺すなら殺せばいい。自分では決心がつかなかった」です。そのシーンだけよくわかりませんよね。何やら特別っぽい少女が実態のところ一体何だったのか、まったくわからないまま夢は終わってしまいますし。

 相手が他人にせよ自分にせよ、Aは殺しに対して決心がつかなかったのではないでしょうか。だから相手に選ばせた。そしてそうだとすると、なんだか暗転後のストーリーに白髪少女が絡んできそうですよね。どっちが正解なのかは、というか正解があるのかは、永遠に闇の中……もとい夢の中ですけれども。

 ……考察は以上です。思いついただけ書き連ねてみました。それ以上の意味はありません。

ウィッチデュエルパンプキン2というカードゲームが面白すぎる。

 前回の作文でも紹介したタイトル通りのスマホゲームですけれども、これがマジで面白いので詳しく紹介することにしました。より正確に言えば、面白いのに遊び相手がいないので宣伝することにしました。

 ウィッチデュエルパンプキン2(略称パンプキン2)は戦いながらデッキを作るカードゲームです。普通カードゲームといったら、あらかじめ作っておいたデッキを各自持ち寄って戦うものですけど、パンプキン2は違います。ほぼ手ぶらで開戦し、戦いの中でデッキを作るのです。

 まずは実際のカードを見てもらって、そこからルールを解説していこうと思います。

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 はい、まずカード下にある青い円の中の数字、これは「ゲイン」です。カードのデザインからなんとなく察せる人もいるかと思いますが、このゲームにはいわゆるマナの概念があります。マナというエネルギーを使って、クリーチャーを召還したり呪文を唱えたりするわけですね。

 このゲームのマナ(ゲーム中では魔力と呼ばれる)は、自分の手札を捨てることで得る物になっています。そしてこの「ゲイン」という数字は、捨てた時に生み出すマナの数を示しています。

 つまり画像の幽霊船長は捨ててもマナを生み出せないカード、場に出すこと専用のカードです。こういったカードとは逆に、場には出せないが大量のマナを生むカードもあります。それらを組み合わせて戦っていくわけです。

 はい、では次。右上の数字。これは「コスト」です。コストに等しい数のマナを支払うことで、そのクリーチャーを召還したり、その呪文を唱えたりすることができます。これはマジックザギャザリングやデュエルマスターズにもあるメジャーなルールですね。

 そして次です。これがこのゲーム最大の特徴、左上の数字。これは「レベル」です。冒頭で「戦いながらデッキを作る」と言った通り、プレイヤーはこの「レベル」に等しい数のマナを支払うことで、サプライという場所(いわゆる銀行のような物)からカードを買うことが出来ます。

 買ったカードは当然デッキに入るので、既存のゲームではマナを消費する行動といえば「カードを使うこと」だけですが、このゲームではもう一つ「カードを買うこと」にもマナを使うのです。これが面白いところ。

 で、残す数字は右下の物ですが、これは攻撃力と体力ですね(左が攻撃、右が体力)。これについてはマジックザギャザリングを知っているとわかりやすく、なんならシャドバでもルールを理解する下地にはちょうどいいんですけど、今回はあまり説明に絡んで来ないので詳しい解説はスルーします。

 実際のカードを見てもらう段階は終えたので、次はルールについてもっと詳しく解説していきます。

 

 

 パンプキン2は全てのプレイヤーが必ず、「黒猫」3枚と「魔力の種」5枚の、計8枚のデッキを持った状態でスタートします。何をどうしたってこのスタートは変わりません。

 黒猫とはコスト1、ゲイン0、攻撃&体力1/1のいわゆる弱小クリーチャーです。一方魔力の種は、ゲイン1……ということ以外に何のステータスも持たない、マナを生み出すためだけのカードです。

 手札を捨てると、捨てたカードのゲインに応じたマナが手に入る。つまり魔力の種を1枚捨てれば黒猫が1枚場に出せるわけですが、正直そんな弱小モンスターばかりいつまでも並べているわけにはいきません。かといってあまりにも黒猫を軽視しすぎると痛い目を見たりはしますが……。

 魔力の種がデッキに5枚もあるので、間違いなく序盤はマナが余ります。その余ったマナを使って、サプライからカードを買い戦っていくのです。そこで重要になってくるのが、サプライは自分と相手で共通の物を使うということです。

 要するにお互いが、「この試合で登場する可能性のあるカードはこいつらだ」ということを、試合開始早々に把握することになります。そしてさらに、サプライの中身はランダムで決まります。これが面白いんです。

 サプライには計18種類のカード(そのうち数種類は毎試合必ず入ってくる基礎カード)しかないので、どのカードを使っていくべきなのかという、作戦を練ることができます。

 例えば「全クリーチャーに2ダメージ与える」という呪文があるのを確認すれば、体力2以下のクリーチャーはいくら並べてもそれで一掃されてしまうから今回はあまり強くないなぁだとか、体力が多く壁役になるクリーチャーばかりが揃っていたら、これは長期戦を覚悟した方が良さそうだな、だとしたらレベルは高いけどいずれはあのカードが欲しいな……といった具合で「作戦を練る」という楽しみがあるのです。

 そして、独特なルールはそれだけにとどまりません。このゲーム、なんと自分のターンが終了するたびに、自分の手札が全て墓地へ送られます。さらには得た魔力なで、ターン終了時に全て失います。手札もマナも、温存という概念がありません。そして手札に関しては、次の自分ターン開始時に5枚引いてきます。これを繰り返していくのです。

 すると当然、マッハでデッキがなくなります。ゲーム開始時のデッキ枚数なんか8枚ですから、2ターンで場か墓地に全てのカードが行ってしまうわけです。そうなるとその後どうするのかというと、墓地にあるカードを混ぜて再びデッキにします。山札が切れた時のUNOのようなイメージでしょうか。あるいはヴァイスシュヴァルツか。

 そういうルールなので、ターン開始時の手札が必ず5枚になるということは、ゲインの大きなカードを買わなければ、一生高レベルのカードは買えないという性質があります。魔力の種がいくら増えたところで、それではレベル6以上のカードは買えないのです。もちろん毎試合必ずサプライの中にあるカードには、ゲインの数が大きいカードもあるので、そういったカードも将来を見据えて買っていくことになります。

 そんな他に類を見ないゲームテンポが魅力であるパンプキン2ですが、最終的には相手プレイヤーのライフを0にした方が勝利という、勝利条件自体はシンプルなゲームです。それがまぁものすごく面白い。

 ルールは大体説明したので、これで半分ほどでも伝わっているかは自信がありませんが、とにかく次の話へ進もうと思います。カードゲーマー向けの話になってしまうかもしれませんが、このゲームの魅力についてのことです。

 

 

 パンプキン2最大の魅力。それは、環境という概念が試合単位であること。

 普通、カードゲームには「環境」という概念があります。そっちの方が当たり前なんですけど、各々が事前に選別したカードでデッキを作り、それを持ち寄って戦うわけですから、よほどの奇跡が起こらない限り「このタイプのデッキが頭一つ抜けて強い」という物の一つや二つが必ず出てくるわけです。その「強いデッキたち」のことをまとめて環境と呼びます。

 しかしどんなカードゲームでも、あまりにも同じ環境で戦い続けるとさすがに飽きが来ます。そこで新しいカードが発売され、新しい環境が生まれて、再び新鮮な気持ちで遊べるようになる……というサイクルがカードゲーム業界で常に行われているわけです。

 その常識ともいえる流れとまったく別次元を行っているのがこのパンプキン2。ランダムで選ばれたサプライからカードを買うルールなので、「環境」が毎試合変わります。これがすごいことで、サプライの組み合わせによって単体では同じカードでも強さがまるで違ってきて、毎回新鮮な気持ちで遊べるんです。一期一会のいいところだけをもぎ取ってきたような良さがあります。

 わかる人に伝わる言い方をすると、戦略性が足されたトッキュー8やシールド戦です。そう聞くと大したことなさそうですけど、何回か遊ぶと字面では伝わらない良さに気付くと思うので試してみてください。 

 

 

 

 

 

(聞いた話では「ドミニオン」というボードゲームとカードゲームの間のようなゲームが、パンプキン2のサプライ関連に近い性質を持っているらしいのですが、完全な未プレイなので話題には出しませんでした。むしろ誰かドミニオン紹介してください)

 

スマホゲームアンチが書く! 最近遊んだスマホゲームレビュー。

 ぼくはスマホゲームのアンチだ。そもそも、まずスマホゲームと言って思いつくのは何か。昔ならパズドラ一択だった。そこにモンストが出てきてグラブルが出てきて、シャドバやにFGOにアズレンもコンパスも出てきて、最近ではメギドが「FGOとかの悪い部分を極限まで削った、他のスマホゲームとは違う良作!」なんて言われているけれども、それには何度か心が揺らぎそうになったけれども、ぼくはそれらのアンチだ。

 パズドラのインフレがひどい、なんて話を聞いているだけだった頃はまだよかった。転機はシャドバだった。ぼくの唯一プレイした大手のソシャゲがシャドバだ。それが人生初のスマホゲームだった。

 シャドバは、そこそこ遊んだから言えるのだけれども、あれはゴミだった。そしてそれ以来、全てのスマホゲームがそうだと信じている。つまらなくてまるで仕事みたいなデイリーミション! 次々と起こるあっけないインフレ、クソみたいなゲーム性! 基本無料の代償がそこにある。スマホゲームは買い切りゲームの素晴らしさを教えてくれる教材であって、遊びのための玩具にはなれない。

 あんな教材でお勉強するのは、ぼくはもう二度と御免である。絶世の美女が「一緒に遊ぼう?」と誘ってきても、その手のスマホゲームだけは絶対にやらない。ログボを継続するだけで一生遊んで暮らせるような金がもらえるなら……やるかもしれないけど…………とにかく! ぼくのアンチ魂は、シャドバをPC対応直後から第三弾くらいまで遊んで、もう引き返せないところまで来てしまった。もしかするとメギドは噂通り素晴らしいゲームなのかもしれないけれど、それを確かめに行こうとは思わない。

 スマホゲームはクソだ。二度とそのクソを目の当たりにしたくない。ぼくはスマホゲームに対してガラスのハートだった。正直言うけれども、楽しそうにその手の有名スマホゲームをしている人たち、ちょっとどうかしちゃってるんじゃないかな、とまで思っている。

 と、そんな風なことを考えるぼくだったけれども。大手のゲームに関しては、今も同じ感覚でいるけれども。そんな中で「スマホゲームは大手だけじゃない」ということに最近気付き始めて、いくつか遊んでみた物がある。その中で多少(あるいは猛烈に)魅力を感じた物を今回紹介していこうと思う。

 「これはスマホゲームだ」というだけで低くなったハードルと、何年もかけて固まった怨念のようなアンチ魂の混ざった様に注目してほしい。

 

 

 

☆Destroy Gunners SPα

・概要

……「アーマード・コア」で調べていたら出てきた物。ロボットを操作して自軍ベースを守りつつ、全ての敵機と敵ベースを破壊するTPSゲーム。どうせスマホでアクション系なんて操作性ゴミクズすぎて話にならないだろう、と思っていたところを、まあまあまあまあ……と思わせるくらいの面白さはあった。

 

・このゲームの良いところ

1……ライフル、ミサイル、レーザー、キャノンなど、様々な武器を搭載したロボットで戦うゲームかつそれなりに出来が良いので、男の子はとりあえず楽しい。

2……謎に高い難易度なので、クリアした時の達成感がある。

3……スタミナやログボ、デイリーの概念がない。

 

・このゲームの悪いところ

1……市販のゲームである「アサルトガンナーズ」の丸パクりであり、しかも有料版まで出ちゃってるという、権利的にやばすぎる物であること。

2……爽快感がないこと。

 

・総評

……アーマード・コアとやらを遊んでみたいとは思いつつ一度も触れたことのないぼくが、まず遊んでみて「まさか本家アーマード・コアもフロム製なだけあってこんなエグい難易度してるのか……?(ダクソ既プレイ並感)」と思うほど高難易度なゲーム。しかし何度もリベンジして学習していくうちにクリアできるようになるので、そういう意味での楽しさと達成感がある。

 問題はその高難度と、クリアするためには「決められた動きをいかに無駄なく素早く遂行できるか」が求められるので、爽快感とは無縁の作業ゲームになってしまうこと。とはいえこれはロボットといえど空を飛んだりするわけではないことと、スマホでは見た目の豪華さと操作性に限界があることが原因なのかもしれない。同じルールと難易度で、据え置きゲームの画質と演出でもって空中戦をやったら、同じ感想が出るかは定かでない。

 一番の問題は、ぼくもレビュー欄を読み進めて知ったのだけれど、マジでこのゲームが市販品の丸パクりだということ。一回「アサルトガンナーズ」の動画を見てから、このゲームをダウンロードして遊んで見てほしい。有料版まで出ていることを踏まえればドン引きすることになるはずだ。ぼくはドン引きしたし、アンストしました。

 

 

 

☆シルエット少女

・概要

……なんかオススメに出てきたゲーム。操作は画面タップでの「ジャンプ」だけというシンプルな自動横スクロール。タイトル通り操作キャラも敵も足場も全て影絵のようなデザインになっている。ちなみに主人公の少女は刀でバッサバッサと敵である妖を切り倒します。

 

・このゲームの良いところ

1……操作がシンプルなので操作性は抜群。それなのにゲームのルールが独創的で面白く、そういう意味でちょっとした感動がある。

2……見た目がそこそこスタイリッシュで楽しい。ゲーム性もそれなりに良い。

4……一区切りのプレイ時間が短いので気軽に遊べる。

 

・このゲームの悪いところ

1……同じステージを強制的に何度も繰り返し遊ばせる仕様という、スマホゲームらしいクソな要素がある。

2……ステージ間で繰り広げられるストーリーの台詞回しが致命的にダサい。

 

・総評

……操作はジャンプのみというシンプルな自動横スクロールゲーム。じゃあ敵をどうやって倒すのかというと、「同じ高さにいる敵」を操作キャラである少女が「自動で斬る」という、ちょっと斬新なゲームスタイルになっている。ジャンプ一つに「攻撃」「回避」「地形移動」と多様な意味を持たせたところは本当に面白いと思う。それがこのゲーム一番の見どころ。

 そのゲーム性から、実態は横シューティングに近く、重力のある横シューティングといったところ。この性質は他にない物だと思われるので、それだけで遊ぶ価値はある。……と、ここまでは良いところずくめのゲームなのだけれども、問題点がかなり痛い。

 このゲームでは敵を突破して長い距離を進むほど多くのポイントが手に入り、そのポイントで少女を強化していくことになるのだが、ほぼ全ステージが「その時点での能力値では突破できない物」になってしまっているのが最悪の問題点となっている。

 シューティングではありえないことだけれども、雑魚的をいくら攻撃しても倒せず、自動スクロールなのでそのまま衝突して被弾するということが多々起こる。ステージを初見でクリアすることは、仕様上おそらく絶対に出来ない物と思われる状態になっているのだ。

 画面の縦幅を覆い尽くすように雑魚的が出てくると、スクロールで敵と接触するよりも早く、自動故に決められたペースの攻撃で、その敵を少なくとも一体は撃破するしかダメージを受けずに済ませる方法がなくなってしまう。そしてその状況にはしょっちゅう直面することになる。

 その一体を撃破するために少女の強化が必須となり、強化のためのポイントを得るためには、同じステージを何度もやり直すはめになる。(わかる人にはわかるかもしれないが、このやり直しの仕様を、ぼくはJSK式と呼んでいる。そのJSK式が20以上あるステージで毎度繰り広げられるのだからたまったものじゃない)

 この「実力と無関係なやり直し」が非常にストレスで、それさえなければ神ゲーになれたかもしれないのに、やはりこれが基本無料かと感じてしまうところが本当に惜しい。事実上の強制的なやり直しをしている間は、同じ無料ならユーチューブの方が面白いという気持ちが拭えない。

 そしてもう一つ気になるのは、ステージを一つ突破するごとに入るストーリーの、台詞回しが本当に致命的にダサいことだ。あえて言うなら、下手な二次創作者が書いたキノの旅SSのような、「ああ、そういう雰囲気の作品を書きたかったんだなぁ」ということだけが伝わる、それ以外は何も受け取る物が無いような、中学生の稚拙な自作小説じみた台詞回しがどの程度目につくかは、人それぞれ個人差があることと思う。ぼくはちょっと厳しい。

 しかし、それらをまとめて考えても、無料で遊ばせてもらえるなら十分すぎるクオリティの作品かとは思う。どうやら続編が「3」まで出ていて、3では刀ではなく銃火器で戦っているようだけど、やり直しの嵐と台詞回しに耐えてぼくがそこまでたどり着けるかは定かでない。

 

 

 

☆Demons Must Die(Stickman Slasher)

・概要

……「デビルメイクライ」で調べていたら出てきたゲーム。本家DMCに「マストダイ」と名の付く難易度が恒例として設置されていること、タイトルの通り主人公は棒人間だが、使用武器が大剣と二丁拳銃であること、スタイリッシュゲージの概念があること、デビルトリガーや武器切り替えの概念もあつことから、すがすがしいほどガッツリとデビルメイクライを意識したゲームとなっている。デビルメイクライが面白いのでこのゲームも悪くはないが、高評価をする前に、最大の敵である操作性が立ちはだかる。

 

・このゲームの良いところ

1……見栄えがなかなかスタイリッシュ。2Dで無料のデビルメイクライと考えるとそこまで悪くない内容。

 

・このゲームの悪いところ

1……ステージが多すぎて信じられないくらい間延びしている。

2……クソみたいな操作性。これだからスマホゲームは……!

 

・総評

……2Dで結構なクオリティのデビルメイクライっぽいゲームが出来るぞ! という意味ではなかなか良質なゲーム。問題は操作性を除くと、二つ目の武器を手に入れてから「状況によって武器を使い分けること」や「二種の武器を使ったコンボ」という面白さが生まれるのに、そこに辿りつくまでに30ステージくらいかかること。長すぎる上に、それぞれのステージが差別化されているとも感じられず、正直眠くなった。

 二つ目の武器を手に入れて「このゲーム始まったな感」がようやく得られても、それまでの30ステージで感じた操作性の悪さは一切消えない。妙な硬直が要所にあるせい(空中から着地する少し前に発生する一切操作できない時間など、その他様々妙な硬直がある)か、押したはずのボタンが押せていないということがしょっしゅう起こる。しかもボタンの二度押しで別のアクションが出たりするので、動くまで押せばいいというわけにもいかない絶妙なイライラ感。これは実際に遊んでもらって体感してもらうしかない。

 一番どうにかしてほしいのは、自キャラも敵キャラも、密着状態の相手には攻撃を当てられないという当たり判定の仕様。一度重なってしまうと徒歩で離れた方が被弾することになるが、これは回避行動がたまに操作ミスで出ないというイライラ要素と合わさってまあまあのストレスになる。スタイリッシュとは……。

 しかしそれを補ってあまりあるようなないような面白さが存在しているのも事実。なんというか、とりあえず全クリするまでは遊んでみるつもりだけど、人に進めようとは思わないゲームだ。

 

 

 

☆ウィッチデュエルパンプキン2

・概要

……「クラシックデュエマのアプリが出る!?」と調べていたら見つけた物。試合中にデッキを作るという独創的なカードゲーム。MTGをベースにしているところはあるものの、全体的にオリジナリティに溢れていて、なおかつちゃんと面白く、そしてデイリーミッションやガチャがないという、信じられないくらいしっかりしたゲーム。有料でも売れると思う。ただ、最大の問題点は、プレイ人口の過疎だった。

 

・このゲームの良いところ

1……オリジナルのルールでちゃんと面白いカードゲームが遊べるという、奇跡みたいな物がここにある。カードゲーム好きな人はマジで一回触ってみた方がいい。

2……ガチャなどの面倒な概念がなく、初めからちゃんと「まともに」遊べる。(ただし、これがずっと前からそうなのかはわからない)

 

・このゲームの悪いところ

1……圧倒的過疎。人間と対戦できた試し無し。ただしルームマッチはあるようなので、お願いだから誰か一緒に遊んでください。

 

・総評

……試合中にデッキを作りながら戦うという、他に類を見ないルールのカードゲーム。そしてそれがちゃんと面白いという奇跡。ちょっと感動したのと同時に、既存のルールをパクりまくってなんとか自分でカードゲーム作れないかと考えているのが恥ずかしくなってきた。

 とにかく一度触れば「ちゃんと面白い」という感覚がわかると思うので、カードゲーマーの人には一度遊んでみてほしい。というかそうしてもらわないと、過疎すぎて実質CPU戦専用のゲームになってしまっている。そしてそうなってくると痛いのが、正しさに限界が見えるCPUのプレイングということになってくる。

 過疎については本当にマジで誰か助けてほしい。ウィッチデュエルパンプキン2というタイトルのこのゲーム、1がどこにあるのかぼくは知らないけど、ぼくが知らないなら誰も知らないんじゃないかと思えるくらい、とにかく人と当たらない。

 過疎以外の問題を上げるとすれば、ゲームを始めた瞬間から「30万DL記念」として30万ポイントをもらえたのだが(なんでそんなにDLされてて過疎なんだ)、

 

※※※(公開後の追記……ごめん、30万DL記念じゃなくて、3周年記念だった(記憶力とかそういうレベルじゃねぇ)。そりゃ三年も経ってたらインディーズだと人も減るかもね……)

 

このゲームはガチャが存在せず、カード1枚ずつを狙い撃ちでアンロックするシステムとなっていて、その際にかかる費用は数千ポイント単位であるのに対して、CPU戦一回で手に入るポイントはたったの200ポイントであること。DL記念が配られる以前からこのゲームが神ゲーだったのかどうかは、かなり疑問が残る。過去の話に意味があるのかはわからないけれども。

 もしかしたら対人戦ではもっと多くのポイントが得られるのかもしれないし、しっかりゲーム性を理解してからカードをアンロックすれば「どれを使うと面白いゲームになるのか」もわかっているはずだし、30万もポイントあったら結構なカードが使えるし、何よりチュートリアルで聞いた話だと、対人戦は「それぞれのデッキを持つのではなく、持ち寄ったカードで一緒に遊ぶ」というボードゲームに近い形となっているらしいので、ぼくはそこに期待している。一度も対人戦できたことないけど。

 なんとかして友達をルームマッチに引きずり込まなければ。そう思わせてくるゲームになっている。あとはもう、対人戦をやったら思ったより面白くなかった、というパターンだけが怖い。

(言っても仕方ないことだけれども、このゲームは完全にアナログでも通用する内容のルールや効果なので、ボードゲームみたいな感じで物質として売り出してほしい。本当にそのくらい出来がいいように思える)

 

 

 

☆UNOtcg

・概要

……「TCG」で調べていたら出てきた物。東方プロジェクトを題材とした、それぞれのカードが別々の効果を持ったウノのゲーム。デッキを組むという概念があったり、色が五色になっていたり多色カードがあったり、キャラ毎に特殊スキルがあったりと、明らかに普通のウノではないが、実のところこのゲームには……必勝法が存在する……!(ライアーゲーム並感)(なお、対人戦は存在しません)

 

・このゲームの良いところ

1……TCGとUNOの融合という、カードゲーマーの夢みたいなことをやってくれている。

2……対人戦がないが、必勝法が存在してしまっている以上、むしろそれが良い点になっている。その必勝法に気が付くまでの道のりが、このゲームの楽しみなのだ。

 

・このゲームの悪いところ

1……一戦が異様に長い。一回負けると本気で萎えるくらい長い。

 

・総評

……多色カードを採用したところで、全五色と化したウノはなかなか上がれない。しかもそれぞれのカードが効果を持っていて、結構な頻度でそれは妨害効果であるため、手札が全然減らない。「全員手札が4枚になるように引く」とかいう効果が平然と存在している世紀末だから。

 ウノとカードゲームの融合という夢のようなテーマだけれども、ゲームバランスを保つのはなかなか難しい。自分がカードを作らされたとしても良バランスにする自信はないので文句は言えず、むしろ試みを讃えたいくらいの気持ちになる、そんなゲーム。一戦が長すぎるので、そのうち少しでも勝率を高める方法をガチで考えるようになる。そしていつかたどり着くだろう、このゲームの必勝法に。もしかすると、このゲームの強キャラにも気が付くかもしれない。

 その必勝法で今まで苦戦した相手をボコボコのボコにして、それで得た金を使いカードをコンプリートした時、一つの小説を読み切ったような達成感と共に、自分がこのゲームを結構楽しんでいたことに気が付くだろう。

 もうこれ以上遊ぶ要素はないのに、まだアンストできないでいる。そんなゲーム。

 

 

 

ALTER EGO

・概要

……なんかオススメに出てきた物。性格診断ノベルゲームという、一風変わったテーマの作品。ゲームとしては放置ゲーに属する、ほぼ選択肢を選ぶだけのゲーム。メンタルが暗めな人におすすめな内容。遊ぶうちに名作文学がちょっと知れたりする。夜中にテレビでCMが流れていてびびった。

 

・このゲームの良いところ

1……多少なりとも心に闇がある人には雰囲気が合うかもしれない。ぼくは好きだった。

2……文学作品に興味を持つきっかけになるかもしれないこと。人間失格を読んだきっかけはこのゲームでした。

 

・このゲームの悪いところ

1……このタイプのゲームをよく放置ゲーなんて言うけれども、そもそもジャンル全体に言えることで、はたしてこれをゲームと呼べるのか怪しいこと。

 

・総評

……面白い面白くないではなく、合う合わないのゲーム。性格診断の精度はかなりあるようにも思えるが、そもそもこのゲームを続けるようなタイプの人間というのがある程度しぼれるような気がすることと、占い師的なやり口がぬぐいきれない点もある。

 例えばぼくはこのゲームに「あなたは自分の心を守るために、周囲への攻撃性を持っている」と言われて、すごいぞズバリ当ててきたなと思ったものの、よく考えてみれば自分の心を守ろうとしていない人なんてほとんどいないだろうし、攻撃することで守るのか壁を作ることで守るのか逃走することで守るのか……とある程度限られた選択肢の中から正しい物を選ぶのは、質問を重ねればそうそう難しいことでもないような気もしてくる。

 プレイすることを時間の無駄とはないけれど、ものすごく価値のあることだとも思えない。このゲームがぼくにもたらした最大の功績は、人間失格に興味を持たせたことだった。……なんともまぁ語りにくいゲームである。

 

 

 

☆漂流少女

・概要

……友達に勧められた物。地球の大半が水没して、人類のほとんどがいなくなった世界で、イカダに乗った少女が釣りをするゲーム。かわいらしい絵柄や、緊張感の欠片もない地の文などほんわかした雰囲気の作品だが、それにとどまらず巨大なホットドッグ型の魚が釣れたりと、ポストアポカリプスの概念を揺さぶる内容になっている。ゲームジャンルは放置かつ連打ゲーム。

 

・このゲームの良いところ

1……作品内の全てが可愛らしく癒される。それと上記のような独創的デザインの数々。

2……ながらプレイに適した緩いゲーム性。進行するごとにその色はさらに強まる。

3……中断できないタイミングがかなり少ないゲームなので、ちょっとした時間つぶしに最適。

 

・このゲームの悪いところ

1……良いところの2と背中合わせなことだけれど、新たな魚が釣れるようになるまでの「レベル上げ期間」がひたすら単調なこと。

2……デイリーミッションじみた概念があること。

 

・総評

……独特な世界観でひたすらボタンを連打して魚を釣るゲーム。精神的に疲れていて何も考えたくない時や、難しいゲームはちょっと……という時に没頭するにはその緩いゲーム性ちょうどよかったりする。

 問題は一定時間ごとにポイントを得られる施設的なシステムがあること。これがデイリーじみていて、時間の間隔が短いおかげで「全部回収しよう」という気は初めから起きないのが救いだが、だんだん面倒になってくることは避けられない。

 そしてそのデイリーじみたシステムに追われて、単調な連打によるレベル上げのための釣りにも飽きが見え始め、素敵に見えた世界観も後半に行くにつれて、ゲームに進行ペースが落ちていき変化が起こらなくなってくると、「緩いゲーム」という魅力であったはずの部分に、だんだん嫌気がさしてくる時が来るかもしれない。ぼくはそうだった。

 そうなった時はどうすればいいのか? 気分転換とかいいんじゃないかな。例えばほら、ウィッチデュエルパンプキン2をやってみるとかさ……。

 マジレスすると、世界観の魅力一本で押しているようなゲームだから、もうちょっとテンポが良いとよかったかなという印象。でもいつかまた、メンタルが死んだ時はお世話になるかもしれないからね……。

 話は逸れるけど、このゲームをぼくに紹介した友達は、ぼくの十倍くらいレベルを上げている。友達には何かこう、適性みたいな物があるんじゃないか……? と思わずにはいられない。もしかするとそれがニートとの差なのか……?

 

 

 

 ……というわけで以上、遊んだスマホゲームのレビューでした。こうして見てみるとぼくが嫌いなスマホゲームというのはつまり、ガチャ要素を中心とした典型的なソシャゲだったようですね。いや、他にも群馬RPGみたいなやつとか、初めて三十分くらいで飽きた物もあったけれど。

 典型的なソシャゲが嫌いだとすると、やはりメギドには恐ろしくて触れられない。結構重要な部分のストーリーがイベント終わってからだよ読めないのなんとかしてください、みたいな話をしている人を見かけて「やっぱり絶対触らないでおこう……」となったりしていたのは、きっと正しかったんだ。

 毛嫌いしていたスマホゲームにもちょっと手を出してみたりしているあたりから、ニートの生活が段々と、少しずつだけど確実に追い込まれていることを感じる気がしますけど、全然まだまだ元気です。次回の作文にご期待ください。

夢日記、笑いと涙が止まらなくなる話。

 その夢の自分は、どうやら頭がおかしくなったようだった。陳腐な言い方をすると、その夢の自分は、心の中で何か、糸が切れたようだった。

 夢の始まりは日の落ちた時間帯の自宅だった。夕食時、自分は父に何か嫌なことを言われた。詳しい内容は忘れたが、元々自分はずっと、父のそんなような真人間の理屈が大嫌いなんだ、と思ったことだけは覚えている。

 それでキレた自分は、目の前にある皿を次々と床に投げつけて割り、皿から落ちてベチャベチャと散乱した食べ物を、拳でぐちゃぐちゃにすり潰した。むかつくんだよ、むかつくんだよ……!! と叫びながら、泣いていた。涙の熱さと、頬を伝っていく液体の感触がリアルだった。

 暴れながら、泣き叫んだ冷静の欠片もない声ではあるものの、自分は「何がどうむかつくのか」を、父に説明しようとしていた。そこで一度時が飛ぶ。

 夢の続きは、どうやら父と喧嘩してから一晩が過ぎた時点から始まったようだった。居心地の悪い空気が残った以外は、いつもの日常に戻ったような雰囲気。しかしその中で、自分の様子だけがおかしかった。

 何か喋るたび、笑いか涙が勝手に出てくる。面白くも悲しくもない時にも、馬鹿馬鹿しくもなく腹が立つ時わけでもない時にも、口を開けば必ず笑いか涙が出た。それもその笑いはバラエティ番組を見て爆笑する時のような大きな笑いで、その涙はぼろぼろと次から次へと溢れる涙だ。

 それが喧嘩から一晩経っても一向に治らず、自分でもこれは我ながら、何かがイカれちまったっぽいぞ、と思った。そしてそれと同時に、テンションが上がっていた。なんというか、面白くなってきたぜ、という気持ちだった。もし本当に自分がイカれてしまったなら、「第三者の他人たち」という圧倒的多数が、自分と父のどちらを悪者扱いするか、そう考えると笑いと涙が止まらないことは、自分にとって良いことだった。

 そうしてまた時が飛ぶ。気が付くと自分は、灰色の曇り空の下、見上げても頂上が見えないような高層ビルに囲まれた、都会の真ん中みたいな場所に立っていた。そこには安そうな白い椅子と、安っぽさを取り繕うみたいな、不自然に高級感のあるクロスをかけられたテーブルが山ほど並べられていて、即席の宴会場のようになっていた。たぶんあれからまた、一晩かそれ以上の時が過ぎたのだと思われる。

 どうやらそれは親族で集まる何かしらのイベントのようだった。遥か遠くに住んでいるはずの親戚一同が、全員そこに揃っていたからそう思った。しかしそれとは別に、この場面まで来ると自分は、もはや口を開かずとも笑ったり泣いたりしていて、足取りも酔っ払いみたいにふらふらしていた。酒は一滴も飲まずに、「親戚の集まりか……」などと考えながら見て回っているだけで、自分は泣きながら笑って、ふらふらおぼつかない足取りの異常者になってしまうわけだ。

 ビル群に囲まれる青空宴会場には、親戚が全員揃っていたので、父の妹もいた。なぜか彼女はドレスのような豪華で派手な服を着ていた。それに驚いて彼女の名前を疑問形で呼ぶと、

「なにその、「いたの?」みたいな。ずっとおったやん。自分が良い時だけ~」

 と言われた。自分が良い時だけというのは、「自分の都合が良い時だけこっちに構いやがって」という意味だ。それを瞬時に理解できた自分は、もしかすると時が飛んでいる間に、彼女に愛想のない態度でも取っていたのかもしれない。

 宴会場の端に、ビニールハウスみたいに濁った透明の素材で出来た小屋があった。しかしその素材はビニールそのものではなく、もっと固くて丈夫そうだった。それも合わさって、その小屋が目に入った瞬間、なんだあれ……? と興味を引かれることになる。

 小屋の中は薄暗く、そこには父方の祖父と、見知らぬ老いた男が数人、家の中の食卓みたいなテーブルを囲んで座っていた。年配の……という表現さえ当てはまらない、見知らぬ老人の中に祖父が混じって、宴会感の欠片もない日常そのものの品々を食べている。その光景はなんだか気味が悪く、それを見た自分はなぜか、「ここの人たちは宴会から隔離されている」ということを、すでに知っているようだった。

 そしてそれが自然だと何の疑いもなく思って、不満を抱くこともなく、自分はその小屋の中のメンバーに混じって席に着いた。不満はなくとも、こうなっては自分も終わりだな、と考えていたことだけは覚えている。

 何かに対する不満ばかりを言っているじいさんたちを、ゲラゲラ笑ったりボロボロ泣いたりしながら眺めていた。話の内容は単語一つ分も頭に入ってこなかったけれど、なぜかその状況をつまらないとは思わなかった。話の内容に笑って泣いてするのではなく、そんな話は全然関係なくて、ただ自分が何もしなくても笑って泣くようになったこと自体を、まわりの状況と一切関係なく面白がっていたように思う。ある意味、自分は小屋の中からさらに隔離されていた。

 ふと気が付くと、見知らぬ子どもが怯えたような顔をして、小屋の出入り口からこちらを見ていた。その行為はその子どもが叱られるに値することだと、なぜか自分はすでに知っていた。

 やがてじいさんたちも、誰か追い払え、出入り口に近いお前がやれ、と騒ぎ始める。出入り口に近かった自分は、薄く透けた素材の白いカーテンがかかっているのを見つけて、自分とその周囲の人の背中を巻き込んで、子どもから見えないように包んで隠した。

 見られなければいいだけなのだから、わざわざ席を立って出入り口を閉めに行く必要はない、これで怒られたらキレ返そうと思いながらやったことだ。その結果怒られることはなかったので、何事もなかったかのようにまた隔離小屋の中では、不満の言い合い合戦が再開されたのだった。

 自分は用意された品をほとんど食べることなく、むしろ笑って泣いてする勢いで少しぶちまけたような気さえするけれども、とにかく小屋の外へと出た。するとなぜか会場に、中学の同級生が来ていた。その人は女性で、自分と目が合った。

 かつての同級生は自分と同じように大人になっていて、それを見て自分は同窓会に出た経験を思い出した。するとなぜか、これは親戚の集まりだと思っていたのが間違いだったのか、周りから中学校時代の話題ばかりが聞こえてくる。

 仲が良いわけでも悪いわけでもなかった同じクラスの男子が実は当時、悪い意味で妙な家庭環境の中にいたらしいとか、聞きたくもない話題が周りから聞こえてくる。そして目の前には、これまた仲が良くも悪くもなかったかつての同級生、なおかつ女子がいる。

 彼女に話しかけられた自分は、相変わらずの笑いが「あははフは」と止まらず、まずい、どう取り繕う、と焦っていた。その時涙は出ていなかったように思う。

 焦れば焦るほど、視界はふらふらと揺れてどこを見ているのかわからなくなり、揺れる中にパッと白が見えて、それが曇り空の灰色か、テーブルクロスの白かわからなくなっていた。

 ついに涙も出てきた。大粒の涙がボロボロ落ちて、声は明らかな涙声になる。自分は「ははは」と笑い、よろけてテーブルに掴まったりしながら、これをどう説明しようかと、自分でもよく理屈のわからない本当のことを話すべきかと、迷っていた。

 しかし同時に、これは隔離小屋の中にいた時からそうだったけれど、なんだか訳もなく愉快な、おかしな気分にもなっていた。別に目の前の同級生女子に引かれても、別に気にならないかもしれないと思った。そのくらい何かが楽しかった。

 だとすると、自分の笑いは少なくともこの時、理屈のわからない勝手に湧いて出る物ではなかったのかもしれない。後々になって考えれば、なぜか「すでに知っていた」ということが多い夢の中、酒を飲んでいないという夢の中の認識さえ、時が飛んでいる以上信用できない。自分はハイになっていた。

 その女子が、

「もうそんなに酔ってるのw」

 と、おかしそうに笑って言った。自分は、いや~どうもねぇ、みたいな返事をした。酒を飲んだ覚えはやはり無いのだけれども、その場を丸く収めるために、ここぞとばかりに相手の話に乗っかったのだ。

 それで、すぐに逃げた。じゃあまた、みたいなことを言って彼女から離れた。笑ったり泣いたり、ふらふらして、転びそうになりながら。

 その時、ビルの外壁に埋め込まれた大型モニターから、「どんな時も~♪ どんな時も~♪」と槇原敬之の歌声が聞こえてきた。歌番組が映っているのだ、とモニターの方を見ずに思ったけれど、曲が聞こえてきたのはその部分だけで、以降が流れることはなかったので、CMだったのかもしれない。

 ぼくはすぐにスマホを取り出して、気持ちは昂りながら、なぜかこの時だけ笑いも涙もふらつきも消え去って、ツイッターを開いた。

 どんな時もどんな時も、僕が一番好きでいる人は君だけだから……なんて言える人はすごいなぁ、自分はその時一番都合がいい人を、その都度好きになってしまうよ。……というツイートをしようとして、歌詞の語呂がまるで合わないことに気が付き、自分が歌詞をど忘れしていることを知った。

 どう頑張っても正しい歌詞が思い出せず、ビルのモニターではずっと「どんな時も~♪」という部分だけがループしているような気がしたけれども、思えば自分は一度もモニターの方に目を向けなかった。本当にその歌に関する何かが映っていたのか、夢の中のことでは確認のしようがない。

 ループする曲に気が引かれるせいで、なおさら正しい歌詞は思い出せない。やがて思い出せないことにイラだちを覚え始めて、それがどんどん加速して、イライラして、イライラして……。

 顔が歪むくらい強く歯を食いしばったところで、目が覚めた。

 

 

 

 夢の感想……感情から切り離された笑いと涙を体験できる面白い夢だった。特に泣くことなんか滅多にないので、貴重な感覚だったように思う。

夢日記、見世物みたいな話。

 歯医者だったのか、クリーニング出しだったのか。何かしらの予定を終えて、自分は最寄り駅のすぐ近くにいた。空は淡い色の夕暮れ。家に帰ろうかという時、自転車に跨りながら、ふとスマホを取り出して、予定リストを見た。すると、まだ一行だけ予定が残っていた。

 今まさに終えた予定とは別に、自分にはもう一つだけ、近いうちにやらなければならないことがあるようだった。見ると、「〇〇(隣駅の名前)の病院」とだけ書かれている。自分はその予定を忘れていたのでこれは全くの偶然だったけれども、しかしせっかく駅まで来たのだから、残る一つの予定も今日済ませてしまおうという考えが浮かび、自分は自転車を置いて迷いなくそれを実行に移した。

 迷いなく実行したのは、歯医者にせよクリーニングにせよ、必要な金を親に渡されていて、その金の余った分で、もう一つの予定「病院」も済ませられると思ったからだろう。後々改めて考えてみると、自分のタイミングで行った時にハイハイと対応してくれる病院なんかあるはずないのに、そこが夢らしいところだった。

 改札を抜けるところまでは普通だった。しかしホームにまで行くと、明らかにおかしい。ホームの数が多すぎる。自分にとっての最寄り駅はそんなに大きな駅ではないはずだったけれど、そのホームと線路の多さは、むしろ目的地である隣駅の様子に似ていた。

 そして最悪なことに、自分が「よし、この機会にやってしまおう」と意気込んだ時に限って、電車は止まっていた。改札を抜けた以上引き返すという手も無く、「線路内でトラブルが発生したため……」などのアナウンスを聞きながら、車両のドアが来る予定の地点に立って、ひたすらに待つ浪費の時間。立ちながら、この経験はいつか自分に、「今やってしまおう」というような、アクティブな判断を躊躇わせる負の経験になってしまうんじゃないか、などと考えていた。

 十分程度か、それよりも長くか。少なくとも三十分には間違いなく達していない間を待つと、自分が立っているホームの崖の下、線路内から駅員がこちら側に上がってきた。彼は、灰と黒の縞々模様をした猫を抱えていた。

 なるほど、線路内のトラブルとは猫が侵入していたことだったのか、と納得したのは、後々考えると夢ならではのことだった。猫を抱えた駅員に、改札の方から別の駅員がすぐに駆けつけてくる。線路内から現れた駅員は、抱える猫を駆け付けた彼に渡して、

「殺処分で」

 と言った。

 ギョッと目を見開くようなショックというか、ギュッと心臓を捕まれるような背筋の凍えというか。そんな物を感じた瞬間には、電車がやってきていた。猫のことはいったん忘れて、自分はその車両に乗り込む。

 隣駅に行くだけのはずなのに、電車に乗っている時間は、三駅分くらいあったように思う。通るはずもない地下の路線を通っていたような気もする。けれども最終的には、難なく目的地に到着した。改札を抜けて外へ出ると、自転車置き場が絶望的なほどみっちり埋まっていたのを見た。

 その自転車置き場に沿うように歩いていくと、景色がいつの間にか、母校の中学校の近辺のようになっていた。そんな景色が隣駅にあるわけがない、「迷子だ」とすぐに理解した。当然、病院の場所を調べるべくスマホを取り出す。

 しかし、そこまで来てようやく自分は、「あれ、そもそも病院ってなんだ?」という部分に気が回ったのだった。親知らずを抜くために離れた場所にある大きな病院へ行く予定はあったが、それは再来月のこと。それ以外に病院へ対する心当たりはない。

 予定リストに書かれていた病院名を検索してみる。すると出てきた画像には、異様に豪華な建物があった。それなりの階層がある巨大な病院の、その中心部分全てを吹き抜けにした大きな中庭があって、まるで植物園みたいな、多様な緑に溢れたその庭を存分に楽しめるように、建物の内側を向いた壁は全面ガラス張りだった。

 なんだこれは、こんな場所に心当たりなんかあるはずがない。一度行って忘れる場所とは思えない。この病院は何の病院だ。そう思ってさらに調べていくと、答えはすぐに見つかった。

 堂々としたフォントで書かれた病院の名前と、その下にある、口コミ評価を表す横並びの星形との間に、小さな文字で「精神科」と書かれていた。

 馬鹿馬鹿しい。自分は予定リストからその病院を消してからスマホをしまいこみ、夕暮れ空がずいぶん濃い色になったことを感じながら、相変わらず少しの隙間もない自転車置き場を横目に歩き、あるはずのない高架下を潜りつつ、駅にたどり着いた自分は電車に乗って家に帰った。電車に揺られながら「ちょっとまずそうだな」と予感した通り、家に着くと、帰りが遅いことを母に叱られた。

 

 

 

 夢の感想……自分がダメ人間に見えるのは心の病のせいだと言い張って病院へ行き、健常者だと診断されて肩を落としながら帰ってくる人間みたいな夢だった。戒めとしていきましょう。

あの日ぼくは虚構新聞を読んだ

 ぼくには一つ呪縛がある。それはぼくの中にある、数ある呪縛のうち、「どうでもいい物」から数えた方が早いようなくだらない物であるが、しかしぼくはこれを、いい加減に解呪しなければならない。そう思って今回の作文を書く。
 その呪縛は、他人が漢字を面白く読み間違えた時、それを笑おうとすると出てくる物だ。その呪縛は、自分が漢字を面白く読み間違えた時、それで笑わせようとすると出てくる物だ。
 この作文を、あの日の「供養」としてしまいたい。忌まわしい記憶を、単なる思い出に変えるのだ。



 漢字の誤読は時に笑いを誘う。よく母がそういう誤読をよくする。服の山を漁る、の「漁る」を「つる」と読んで、なんで服を釣ってるんだ? と言い出す時など面白かった。一番笑ったのは、「うま味を残した牛乳」といったようなフレーズのパッケージを見て、「うまあじってなに?」と聞いてきた時だった。
 ぼくも友達を笑わせたことがある。じゃがいもの産地について「じゅっしょう産」と読んだ時、「十勝(とかち)だろ!」とウケた。いや、これは本当に読みがわからなくて、間違いなく違うだろうなと思いつつも、ジュッショウと言うしかなかった情けない話なのだけれども。
 だから、例えば母が誤読をした時もそうだし、誰が誤読をしてもそうだけれど、ぼくは漢字の誤読をした人に対して「気にするなよ、ここに十勝をジュッショウと読んだ男がいるぜ」と自虐することが出来る。誤読も開き直ってしまえば持ちネタになるのだ。
 しかし、その持ちネタを思うたび、つまり漢字の誤読に自分あるいは隣り合わせた他人が遭遇した時、ぼくは思い出す。開き直ることさえできない、ネタにさえ出来ない、あの日の誤読を。
 中学生の頃だった。社会科の授業には、毎度スピーチの企画があった。授業の本題からは独立していて、授業の中でスピーチについて触れられることはない。それは各自があらかじめ自宅で新聞を切り抜いてきて、その切り抜かれた話題について、5分にも満たないスピーチを、授業の本題が始まる前の、前座のようなタイミングで行う物だった。
 もちろんそこに、休み時間を犠牲にしたりする邪悪さはなかった。50分ある授業の内、ほんの少しの時間がその企画に使われるだけだった。
クラスメイトは約30人。社会科という基本の授業が週に4~5日あったとして、スピーチで自分の番が回ってきてしまう事態は、かなりローペースに起こることだった。だから意識としては、たった一度、たった数分を、適当に乗り切ればいい、そんな気持ちだった。たかが前座、誰もそうそう気に留めない、その印象が事実だったように思う。
 さて、ここからが本題だ。落ち着いて、よく聞いてほしい。これを読む人が想像する通り、その社会科の授業にて、ぼくは自分の番のスピーチで誤読をした。何を、何と読んだか。落ち着いて聞いてほしい。

 ……ぼくは、安倍総理を、アンバイ総理と読んだ。

 ……もう一度言う。ぼくは、安倍総理を、アンバイ総理と読んだ。
 まだ言おう。ぼくは、安倍総理を、アンバイ総理と読んだのだ。
 なぜ三度も重ねて言うのか、それは切り抜かれた記事の中に、「安倍」という文字が、三度では効かないほど多く含まれていたからだ。もちろんその全てを、その時のぼくは誤読した。
 誰も、何も言わなかった。社会科の担当教師は年配の、いかにも学校の先生をやっていそうな、優しそうな男性だったのだけれども、彼はスピーチを終えて「乗り切った感」をかもしだすぼくに、しかし何も言わなかった。クラスメイトも愛想の拍手をするだけで、授業後も、その後の全ての時間でも、今この時に至るまで、誰も何も指摘してはこない。
 指摘されなかったことではなく、そもそもその誤読自体に対して、ぼくは今も「そんなことあるか?」と思うし、この話を聞いた人もそう思うだろう。確かにぼくは五教科で250点に届いた試しが無い人間だけれども、しかし反対に200点を切ったことも無く、馬鹿は馬鹿でも、致命的な馬鹿ではなかったはずだ。それがアンバイ総理って、そんな、そんなことあるか? しかし実際あの時のぼくは、安倍をアベと読むことを知らなかった。
 そんなあの時のぼくでさえ、アベ首相だとかアベ総理だとかいうフレーズを聞いたことがあって、さすがにその存在は知っていた。それがいざ、ロクに読み込んでもいない切り抜き記事を皆の前に立って読む時、「安倍……? なんだこの文字は?」となった末に選んだ発音が、アンバイだった。よくよく考えればわかることなのに、その後ろに「総理」とあるんだから、例えもっと難解で見たこともない漢字が置いてあったとしても、文脈的にそれはアベと読むんだ。……ということが、緊張と素の頭の悪さが相まってか、当時そのタイミングでは、わからなかったらしい。
 この誤読が、消し去ってしまいたい記憶になっていることには理由がある。母の「うま味=うまあじ」は笑い飛ばせるのに「安倍=アンバイ」はなぜ笑えないのか。それは世の中に誤読しても良い漢字と、絶対に誤読してはいけない漢字があるからだ。過去話題になった誤読に例えるならそれは、「云々」が読めなかったことと、「色丹」が読めなかったことのような違いがある。安倍(アンバイ)はそのあたりがまずかった。
 当時のクラスの中には、成人した今でも付き合いのある友人が数名いた。しかしその友人も、今に至るまで、ぼくに「あの時さぁ」と指摘してきたことはない。同窓会にも出たが、当然ながら、そもそもそんな話題が出なかった。
 あの時先生は、おっかなくて指摘できなかったんじゃないか。ぼくは半不登校児であったから、その日調子よく授業に出席して、その上スピーチまで行ったぼくに、その指摘をするのはおっかなかったんじゃないか。そう考えている。そしてそれは、クラスメイトだって似たような物だったのではとも思う。
 あまりにも平然と、緊張がモロに出た程度の早口の中に、アンバイ総理という音が聞こえてきても、まず何が何だかわからないはずだ。やがて何が起こっているのかを理解しても、だってそこは中学校なのだから、小学校でも幼稚園でもないのだから、そこで当然のように起こった「そのレベル」の誤読は、クラスメイトにとってもおっかないものだったんじゃないか。同じく中学時代、今でも付き合いのある友人は「半ば」を「はんば」と読んだぼくにすら、「冗談かと思った」と言って指摘してこなかったくらいだ。
 あの誤読を、みんな忘れてしまったのだろうか。30人が全員、ぼくの誤読を忘れたのか。もしかして数人くらいは、そもそも心ここにあらずで、聞いていなかったりしたのだろうか。それとも全員憶えていて、未だにおっかなくて、あるいは優しさで、付き合いのある人まで皆、ずっと黙っているのだろうか。教師と違ってクラスメイトは、黙っていることがより正しく「優しさ」であるように考えていても不思議ではない。
 あの時みんな、どう思ったんだろう。どう感じたんだろう。内心笑いをこらえていたのか、哀れみを感じていたのか。空気が凍るのを感じて青ざめていたのか。空気の凍てつきを感じていないのは、ぼくだけだったから、当時も今も何一つわからない。その時のみんなの顔を、雰囲気を、何も覚えていない。
 自分で誤読に気が付いたのは、スピーチを終えた日、家に帰ってからだった。変な名前だな、そう思ってパソコンで検索をして、ぼくは学校の怪談を読んだ時の気持ちを思い出したのだ。真実を知った時、自分が何をしたのか知った時、ぼくは一瞬、自分が世界から放り出されたように感じた。
 もしも音楽室のベートーベンが、こちらを追ってその目を動かす様を目撃してしまったら、きっとあんな気持ちなのだろう。肝は冷えた、血の気も引いた。安倍はアベと読む、そのことを、ぼくは二度と忘れないと思った。



 異世界に迷い込んだみたいだ、と例えることが、ぼくにはよくある。
 幼稚園の頃、鶴も折れない自分が、たった一枚の折り紙ただそれだけを使って、柄が黒く、刀身は白い「剣」が折れてしまった記憶。
 小学生の頃、「探検だ」と言って、友達と知らない場所まで歩いて行って、そこで見つけた公園で、見知らぬ女の子と出会い意気投合して、延々とお喋りをしては笑い合い、しかし彼女の名前も聞かずに、そして別れたその日以降、当然ながらその子には一度も会わなかった記憶。
 そのような記憶は、今思い出してみると、夢だったんじゃないかと思える。あまりにも奇跡的で、なんだかロマンチックで、だからこそ、それは夢と現実が混在した、記憶違いなんじゃないかと。
 実際はそうではないはずなのだけれども、しかし高校あたりからぼくは時々、そして子どもの頃にも何度か、気付きはするけれども、一時的に夢と現実をない混ぜにしている時があるので、自信を持って「あれは現実だ」とも言えない。この微妙な感覚を、ぼくは「異世界に迷い込んだみたいだ」と例える。ぼくにとってその記憶は、とても小規模な、千と千尋の神隠しのような物なのだ。その手の記憶は、トンネルの向こうにあるような気がしてしまうのだ。
 安倍の誤読も、そのような記憶の一つになっている。というのも、スピーチの読み上げで緊張していたとはいえ、それだけの誤読をしておいて、教室の雰囲気に何も気付かなかったとか、あるいはそこに何も変化はなかっただとか、そんなことがあり得るのだろうか? 何度も何度も誤読して読み上げたのに、教師もクラスメイトも誰も指摘しない、そんなことがあり得るのだろうか? ぼくは未だに信じられない。
 あの時だけ、ぼくは何かおかしかったんじゃないか。記憶から何か抜け落ちているんじゃないか。その誤読にまつわる記憶もまた、異世界を通ってきた物に思えてしまう。しかし同時に、これは現実感を伴って、漢字の誤読に触れ合うたび、呪いの効果が現れるみたいにして、ぼくは「安倍の誤読」を思い出してしまう。そしてそのたび何度でも恐ろしくなって、その話題自体から逃げてしまう。面白い誤読があっても、それをネタにできない。いつまで経っても、安倍の誤読に向き合うことが出来なかった。この記憶はぼくにとって、自分を追尾するベートーベンの目だった。忘れてしまうしかない物と思われた。
 しかし、いい加減にしなければならない。漢字の誤読は、場合によっては間違いなく面白く、笑えるのだ。一度洒落にならない誤読をしたからといって、それらの面白さ全てを捨てることになるなんて、たまったものじゃない。そう奮い立って、今回こうして、記憶を供養しているのである。
 自分を励まそう。ぼくはあの頃から今までの人生で、幸運にもそのための材料を手に入れているのだから。
 虚構新聞という物がある。ジョークニュースを、いかにも本当のことのように書いて楽しんでいるサイトの名前だ。当然それを見る人も趣旨を理解して、そのデザイン的に精巧な「本物っぽさ」と、あからさまに馬鹿馬鹿しく嘘だったり、かと思えば一瞬本気で信じてしまいそうになる巧妙な内容に、面白さを見出しているわけだ。
 しかし、ある時これを「そういう物」だと知らずに、そこに書いてあることが真実だと思い込んでしまって、それを本物のニュースだと信じて、「これは大変だ」とSNSで触れ回ってしまった人がいた。彼あるいは彼女は、リテラシーに富んだネットの民から総スカンをくらった。虚構新聞も知らない間抜けが、触れ回る前に一度くらい検索してみれば、自分の間違いに気付けそうなものなのに……と。
しかしその中に、別の意見もあった。それはむしろ、虚構新聞を虚構と見抜けなかった人のことを、容赦なく叩く者たちへ対するバッシングだった。
 虚構新聞が虚構であると我々が知っているのは、虚構新聞がどんな物であるかを知っているからだ。虚構新聞の虚構を知る者は、決して賢さから、そのニュースの嘘を見抜いているわけではない。そのサイトがどういう物なのか、ただ知っているか否か、その違いしかない。誰だって知れば理解できることであって、そして我々は、己の賢さに由来して「虚構新聞とは何か」を知ったわけでもないはずだ。それなのにどうしてそんなに、ただ知らなかっただけの人を愚か者呼ばわり出来るのか。
 ……というような話を聞いて(実際はそんな話ができるほど賢い人なだけあって、もっと短くわかりやすくまとめて言っていたけれども)、ぼくは一つ扉が開けたような気持ちになった。考え方の扉だ。
 今までの人生、ただ何かを知らないだけの人を、どれだけ馬鹿にしてきただろう。特に自分の得意分野においてだ。知ろうともせず物を批判する人や、何度教えられても理解できない人だけを、自分は叩いてきただろうか。そんなことはなかったと思う。自分だってこれまでに何度も、ただ知らないだけの人を馬鹿にしてきたはずだった。
 しかし、知らない人には教えてあげればいいだけじゃないかと言われてみれば、まったくその通りだった。一言教えれば理解できるのなら、それで何も不備がなくなるのなら、そこには何の問題もありはしない。言われてみればそうなのに、ぼくにとってそれは、言われてみるまで少しも気付けないことだった。
 ならば、である。安倍の誤読は、そこまで重いことなのか。当時からぼくは、総理の名前がアベであるとは知っていた(阿部だとばかり思っていたが)のだし、漢字くらい、一度言われれば憶えられる。それまで知らなかったというのが、それだけ無関心だったというのが、中学生としてそこまで恥ずかしいことなのか。半不登校児が何をいまさら、という話じゃないか。国のトップがやらかしたならまだしも、半不登校の中学生が授業の中で致命的な誤読をしたからといって、それがなんだというのか。
 むしろスピーチを経て正しいことを知れたのなら、それで良かったくらいだ。授業で学んで何が悪い。……と、そう思うことにすれば、何もそんなに誤読の記憶を怖がらなくても、そのことについては、「もうあの手のことに次はないぞ」、と意識する程度で十分になる。
 こうして文章化することで、あの時のスピーチの記憶を、その呪縛を、解いてしまうことに成功した……ということにしよう。あの日のことを、必要以上に恥じるのはもうやめよう。いや、やめさせていただきたい。この記憶を単なる重大な恥として持ち続けるておくのは、はっきり言ってつらい。作文として「ネタ」にすることで、まるで全部必要なことだったんだという風な雰囲気にしてしまいたい。
 いや、中学生でアンバイ総理はやばすぎるだろ、と言ってくる人には、「言われれば一瞬で覚えられることを知っているのが、そんなに偉いのか!」と噛み付いてしまえばいい。狂犬(チワワ)になることは、今さら何も怖くなくて、面白い誤読で笑えるようになることは、いつまでもあの日のことに顔を赤らめたり、逆に青ざめたりしていることより、よほど有意義なことのように思える。
 ネットの娯楽サイト一つを知らないことと、ぼくのやらかしたことを同列に語るのは、それこそさらなる恥の上塗りをしているような気もするけれど、そうは言ってもぼくの馬鹿はどうしようもない。口車で自分の心を守るのが精一杯で、反省して心を入れ替えるだとか、そんなことが出来ていたら、今頃もっとマシな人間になっている。
 今回の作文はただ、立派な人間だって「云々」を「でんでん」と読んでしまったりするのだから、立派の対極にあるような人間が、自分の心のためにどうしても、薄々無茶を言っていると自覚しつつも「誤読くらい仕方ないじゃないか」と言いたくなったという、それだけの話なのだ。
 漢字の誤読は、二度目がなければそれでいい。そこさえ満たせれば、あとは笑い飛ばしてしまえばいい。そうするべきだ。それ以上の過度な羞恥心は、役立ってせいぜいこんな文章を生むくらいなのだから、割に合わない。