もやい結びを習得しました

 もやい結びを習得しました。もやい結びとは何か、それはざっくり説明して、首を吊るために使える結び方です。ウィキペディアを見ながら、一人で習得しました。

 小学校を卒業する頃、母と必死で蝶々結びを練習したことがありました。中学校の上履きが、人生で初めての、避けて通れない「靴紐」という存在であることを知っていたからです。それはもう、頑張りましたよ、あの時は。

 練習当時、蝶々結びの最後の段階が、手品でも見せられているかのように、まったく理解できませんでした。最初に一番シンプルな、交差させるだけの結び方をして、それから片方で小さな輪っかを作る、そしてその輪っかをもう片方の紐で巻いて……と、そこまでは練習するまでもありませんでしたが、その次の段階が、やはり当時、手品にしか見えなかったのです。

「そして輪っかに巻いた紐を、こうやって、通す」

 と母が言う、「こうやって」が、何度見せてもらっても、何が起こっているのか、さっぱりわかりませんでした。「こうやって」って、どうやってるんだよ、って感じで。

 そこで母は、手元の動きをスローモーションにして見せてくれました。それでも当時のぼくは、まだ理解できません。どこで理解できなくなったのか、巻き戻しと再生の要領で探りました。そして、「ここだ!」というタイミングを見つけたのです。

 今通したその紐は、一体どこから、どうやって現れているんだ、わからん。どこkらって、それはもちろん、この部分がこうなって、こうでしょう。……あっ、あぁ! なるほど!

……というわけで、そこまでしてようやく、ぼくは蝶々結びを習得したのでした。苦労した分、結び方を理解した時の感動は大きく、感動が大きかった分、二度とそれを忘れることも、手間取ることもありませんでした。

 それを思えばですよ! 一人で結び方を調べて、一人で試行錯誤して、一人で習得した今日のぼくは、あの時からなんと成長したことでしょう……! 感慨深いものです。それと同時に、ぼくはあれ以来、紐の結び方について向き合ったことなど一秒たりとも有りはしなかったので、人の能力的成長とは度々、特別なことをせずとも勝手に成されるものらしいということを、過去の数多の経験に加算して、なおさら思ったのでした。

 それで、USBケーブルを使いもやい結びを完成させたぼくは、それを脚立の最上段に設置しました。冒頭の説明で察せられるとは思いますが、垂れ下がった紐で出来た穴へ、首を入れます。

 首吊りに関して、自身の身長より高い高度は必須ではない。ドアノブ、脚立、階段の手すりの柱、やりようはいくらでもある。……という話をネットで聞きかじり、いざ実践、というわけです。いわく首吊りとは、最も簡単で、最も安楽な自殺方法なのだとか。

 とはいえ、そう簡単に成功できるとは、ぼくも思いませんでした。簡単というのは比較の話で、要領の悪いぼくという人間にとってもそれが簡単である可能性は、とても信用できたものではない。

 首を通して、しかしまだ体重を紐へは預けず、友達に他愛ないLINEを返信しながら、首吊りのやり方についてさらに調べます。首吊りが安楽である理屈は、一瞬で意識を失うからなのだそうです。意識を失う要因は、頸動脈洞という場所が塞がって、そこが塞がるとまあ、なんやかんやあって、速やかに意識を失う……らしい。逆に言えばその頸動脈洞を塞ぐことに失敗すれば、ただ単に窒息するだけであり、当然その場合は、尋常ではない苦痛を伴うことになるのだという話です。

 ……ということを聞いて、失敗なんてするわけないぜ、安楽まっしぐらだな、と思えるような、自分の「要領の良さ」に自信がある人間は、もしかして自殺なんかしないのではないでしょうか……? 一瞬そんなことを考えました。率直に言って、ぼくは失敗する気しかしません。失敗する未来しか見えない。

 しかしまあ、取り返しがつく場合に限って、物は試しです。試しにぼくは、USBケーブルによる輪っかへ首を入れて、そこへ少し体重を預けてみました。……なんとなく、これが安楽というのは、あり得ない気がする。そんな直感で、すぐにやめました。

 試してみて、おお? これはなんだか、いけるんじゃないか? と思っているうちに意識が遠のき、そのまま死んでしまえれば、それは最高だと思ったのですけど、やはりそんな上手い話はありません。確証はありませんけど、しかしどうも、自分は失敗のルートを辿っていたように思えたので、迷わず引き返しました。苦痛は御免ですからね。

 それからさらに調べてみると、頸動脈洞とやらを塞ぐための方法として、そもそも首吊りでそれが塞がれるのは、首を吊る際にその形の都合上、基本的に首を斜め上から引っ張られることとなり、それが良いのだ……だとか、顎のラインに沿って縄を通すと良い……だとか、そんな情報を聞きかじることになりました。

 はい、まるで、出来る気がしません。人は首を吊れば、安楽のためとなる良い感じの形に確実になるだとか、そんな都合の良いことは考えられませんし、顎のラインというのがつまるところ、実際どの部分のことであるのかとか、何一つとして、自分が正しく理解できているという自信を、持つことが出来ません。ぼくは自分自身を、教えられたことを一度で正しく理解するなんてことは、まず出来ない人間だと見積もっています。

 一応、ドアノブの方も試してみました。が、これは単純に、家のドアノブの位置が低すぎて、話にならないような感じがしまして、もちろん中止しました。思えば脚立だって小さすぎたのです。地面から始まり一段上って、もう一段上へ足をかければ、それがもう、その脚立の頂上ですからね。ちょっと低すぎる気がします。

 かといって、少なくとも家の中には、他に首を吊れそうな場所なんてありません。なので、とりあえず今日の時点では、首吊りそのものを断念することとしました。というか、言った通り安楽を成功させられる気がしないので、もしかすると永久に断念することになるかもしれません。おお? いけるのでは? という経験をしない限り。

 結果としてぼくは聞きかじった程度の知識を得て、新たな紐の結び方を習得しただけでした。お勉強になりましたね。

さらに言うと、その後また調べたところ、紐の役割を任せるのに、USBケーブルは不安が残る……という説もあるそうです。逆に、USBで十分だと言っているサイトもあったり、やはり何も、確実なことなんて無いように思えます。

 

 

 

 そもそも自殺したいと思い始めたのは、ごく最近のことです。

最近急に、自分が活力を失っている気がするのです。したいことがない、と言いますか、より正確に言うなら、出来なくても構わないことが増えた、と言いますか。自分から趣味に向かう気持ちが、減ってしまった気がします。ユーチューブの良いところは、向こうからオススメを持ってきてくれることです。今はこちらから向かうだけのエネルギーが、どうも不足しているようなので、あなたへのオススメと関連動画は、とてもありがたい。

 出来なくても構わないというのは、例えばそのユーチューブであるとか、それかツイッターであるとか、それらを含むインターネット全てだとか、そういう物が遮断されたとしてもノーダメージでいられるぜ、……という意味ではありません。

 出来なくても構わないというのは、明日、事故に遭って死んだとして、悔いに残るほどの物がないという意味です。ああ、あのアニメを見たかった。あの漫画が読みたかった。あのゲームで遊びたかった。あの人ともっと遊びたかった、話したかった。インターネットをもっと楽しみたかった。……あとはなんでしょう、酒を飲みたかった、女性とエッチしたかった、とかですかね? とにかくそういう悔いの気持ちが、今の自分の中からは、まったく湧いてこない気がするのです。

 娯楽が遮断されれば、当然ダメージを受けますし、その分むしろ、死へ向かう気持ちはさらに増すでしょう。楽しくない人生に何の意味があるんでしょうか。楽しさが失われていくほど、死にたいという気持ちは強まっていくのではないでしょうか。……しかし逆に、楽しみさえあれば、生きたいという気持ちが、出てくるのかどうか、それが問題なのです。

 普通は、出てくるのではないでしょうか。少なくとも以前のぼくはそうでした。具体的には、とりあえず一番確実に記憶が残っているのは、GWを少し過ぎたあたりですかね。あの頃のぼくは、まだ死ぬわけにはいかねぇぜ、といった調子だったと記憶しています。ネットで知り合った女性(こちらにエグいほど友好的)と、六月に会う約束を控えていたからかもしれませんが。

 それに比べて、今の活力の無さ。死んでも構わないどころか、安楽ならば、むしろ死んでしまいたいくらいです。今のぼくにとって娯楽とは、活力を失った人生の中で、気を紛らわすための物であって、そういう物でしかないわけで、すすんで追いかけるような物ではないのです。そして、活力の失われた生活というのは、どういうわけか分かりませんが、ぼくにとって、自殺という選択肢がよぎるほど、好ましくない物のようです。というか、はっきり言って、なぜそこまでそうなるのかわかりませんが、すごくつらいです。つらいのです。助けてほしい。

 元々は、飛び降り自殺をするつもりでした。一度勇気を出して、えいっと飛んでしまえば、何を恐怖しようと、もう引き返すことはできない上に、おそらく痛みも一瞬であるだろうと考えた末のチョイスでした。が、この考えは、聞きかじったネットの知識で、改めざるを得なくなります。

 人間、五階程度の高さから飛び降りた場合、そこそこ生き残ってしまうそうです。生存確率は約五割だとか。本当かよ、五階って結構あるぜ……とは思いますけど、また、インターネットの情報の信用性も、首吊りとUSBの件などを踏まえて考えると、はなはだ怪しい物ですが、しかし後遺症のことを考えれば、万一にも失敗は許されません。ただでさえ魅力を感じられなくなった人生を、余計に、明確に苦痛な物に変えてたまるものですか。失敗は許されません。であるならば、飛び降りはどうすれば、確実に成功するのか。

 十四階程度の高さから飛べば、ほぼ生存例はないそうです。ぼくは、気軽に立ち寄れる場所で、それほどの高さがあり、なおかつ飛び降りることのできる場所が、一つも思い浮かびませんでした。十四階と聞いた時、ふざけんなクソが、と思いました。なんで、死ぬことに、そんな苦労をしなければいけないのかと。苦労が嫌にならないような人間が、自殺なんかするわけがないのに。

 ぼくの記憶がポンコツなだけで、そのうち「あっ、そうだ、あそこがあるじゃないか!」と思い付けば話は変わりますけど、今のところ、飛び降り自殺を実行する気はありません。むしろ、自殺を「完遂するもの」と定義した場合、飛び降り自殺は、実行不可能と言えるまであります。

 線路飛び込みは、タイミングをこちらで決められない都合上、そんなに完璧に覚悟を決めて、粛々と飛び込むことなど出来る気がしないので、これも却下です。かつては親を強く憎んでいた時代もありましたが、今はそうでもないので、残された人に発生する賠償金がやばいらしいという意味でも、やはり線路飛び込みはないでしょう。どこで死ねばどの程度の罰金が発生するのかなんて知りませんけど、電車はやばいらしいとすでに知ってしまっているのだから、その上であえて選ぶことはしません。

 入水なんかは論外です。どう考えても苦しいじゃないですか。なぜ数ある方法の中で、わざわざ苦しい物を選ばなければならないんでしょう。薬物過剰摂取による自殺は成功率が低いらしいので、それも却下。練炭などの密室密閉系も、環境が用意できないので却下。その他もろもろ、全部それぞれ様々な理由で、却下、却下、却下です。ある程度の安楽と、ほぼ確実な成功率と、ニートでも実行可能なこと。その三つを兼ね備えたまともな自殺法って、この世に存在しないんじゃないですか?

 怒りが湧いてきます。生きることも死ぬことも難しく設定されたこの世界は、やはりクソです。この怒りを、つまりはストレスを、どうにかして発散したいところですが、犯罪を犯して捕まってしまうと人生はさらに苦痛になるので、それだけはやめておこうと、肝に銘じています。

 もしかすると、多少の努力をすれば、自殺は現状でも可能なのかもしれません。首吊りは成功がどうのこうの以前に、まず吊ることのできる場所を探し見つけること。飛び降りだって、収入がないとはいえ貯金はあるのだから、電車でも何でも使って、飛び降りが容易かつ高高度な建物を探せばいいのかもしれない。……しかし、ぼくはそういう、努力らしい努力というのを、例え自殺のためであろうとしたくありません。それをするくらいならば、少なくとも今の時点では、おとなしくユーチューブを見ていた方がいい。そう思います。

 努力をしたくない。これは娯楽でも同じことです。ゲームをする時、それはまあ必要最低限の知識くらいはネットで調べますけど、トレーニングモード的な努力はしたくありません。実戦で成長したい、できなければそのゲームは諦める、といった感じです。トレモを使うのはせいぜい、文字で読んだコンボを実際に動かしてみて把握する時くらいで、そのコンボの成功率を上げるために反復練習だとか、そういうのは絶対に御免です。

 娯楽でさえそうなのに、別に楽しいわけじゃない自殺のために、努力なんか出来るわけがないのです。それに、電車を使うというのも論外です。ぼくはお金を使うことに強い抵抗感、あるいは恐怖があるので、例えその先が死という「終わり」に繋がっていようと、楽しくもないのにお金を使うなんて、ありえない、嫌で嫌で、たまったものじゃないんです。

 死んだらどうせ使えないんだから一緒じゃん、という問題ではないのです。ぼくのケチは、労働へ対する抵抗あるいは恐怖から来る物で、「労働と同じ天秤に乗っている」という意味で労働に共通している「金」という存在を、それも二度と定期的かつ十分な収入は期待できない環境で、消費することはとても恐ろしいことなのです。

それはまあ、例えばネットで知り合った女性に会うための交通費などに使ったりはしましたけど、それはそれだけ、その目的がぼくにとって魅力的だったという話です。何度でも言いますけど、自殺は、楽しくなんかありません。当然魅力的でもない。致し方なく、今の生活に嫌気がさして、やっと選択肢に入る程度の物なのです。

 だからぼくは、狭義の意味の「死にたい」には含まれません。例えば突然、ぼくにめちゃめちゃ友好的な、それでいて見た目と声も好みで、話も合うような女性が現れて、その人と金を使わず頻繁に会うことが出来るとなれば、もう自殺のことなんか完全に「そんな時期もあった」と放り捨てるでしょう。

 狭義の意味での「死にたい」は、例えばそういうあり得ないほどの幸運が降ってきて、自分に手を差し伸べてくれたとしても、「いや、もう、いいです」と手を払い除ける段階にまで、進み切ってしまった人のことを言うのではないでしょうか。ぼくはその段階には、小指の先ほども触れていない。

 だから、ぼくの言っていることやっていることは、「本物」の人からすれば、馬鹿にするな、ふざけるな、と言いたくなるようなことなのかなと思いますし、希死念慮のキの字も持たない真人間の人からすれば、ぼくのことはきっと、くだらないかまってちゃんに見えるのでしょう。

 でも、かまってちゃんの、どこがくだらないんですか? 出来心の結果でも酒に酔った勢いでも何でもいいから、死の間際人生で一番の後悔を覚えようと構わないから、何にせよ、もしもぼくが自殺を完遂させれば、そうるれば、ぼくはくだらないかまってちゃんから、もっと別の、哀れな何かに変われるのですか? それこそくだらないでしょう。

 底の底まで苦しんでいないやつに苦しみを語る資格無し……とでも言うつもりなんでしょうか。欲を言えば、もしぼくが死ぬのなら、そういうことを言う人間を、出来るだけ多く道連れにしてやりたいですね。

 空腹になれば「おなかがすいた」と言う、寝不足なら「ねむたい」と言う、それと同じですよ。精神的な何かが、不足しているから「かまってちゃん」になるんでしょう。そろそろ食べなければいよいよ命が危ない、いい加減眠らなければいよいよ命が危ない、そういう段階に至るまでは、腹が減ったとか眠たいだとか言うことは許さん、なんて言っている人間がいたら、完全にやばいやつだと思いませんか? 精神の話になった途端にそれがわからなくなる人ばかりなのは、どういうことなんでしょう。理解できません。

 毎週土日に遊ぶ友達から「ごめん今週は遊べない」と言われた時、昔はもっとショックだったはずなんです。一週間待った楽しみが失われた……! と、それなりにショックだったはず。それが今は、ふーんそうなのね、じゃあまた来週で……となって、その来週がまた遊べなくても、たぶんまだ同じような反応をします。

 ずっと昔、中学生の頃のこと、近所のカードショップでカードゲームをして遊ぼうという、毎週定番になっていた約束が、雨だから今週は中止……となっただけで、みんないったい何のために生きてるんだと、怒っていた記憶があります。

 楽しんでこその、遊んでこその人生。ショップまでは歩いてたかだか数十分。一週間に一度しかない貴重な遊びの機会を、雨を理由に捨てるなんて、どうかしている! と言えてしまうようなエネルギーが、当時の自分にはありました。それが将来こうなるとは、当時夢にも思いませんでした。雨が降ったから中止と、むしろ自分から言うようになるとは。

 ぼくは二年もしないうちに、親の仕事の都合で遠いところへ引っ越して、もう友達とは会えなくなりますけど、それを嫌だ嫌だと言って騒ぎまわる元気が、いつの間にか失われていました。つい最近、唐突に、失われた気がします。人と会話する気力もどんどんなくなっているのを感じます。間違いなく人並み以上のお喋りだったはずなんですけど。

 昔遊んでいたカードゲームの最新版に触れてみると、昔と比べて、ひどくつまらなくなった気がしましたが、それはまあ、実際ゲームとしてつまらなくなっている説を推します。それはそれでいいのですが、そんなことより、ぼくにとって一番ショックだったのは、性欲がどうも、消えたというわけではないけれども、弱まった気がするということです。

    エネルギーの大半を性欲に頼っていたような気がします。今もそうかもしれません。小説を書くことが特にそうでした。「尽くす系ニマド」という話でそれがいよいよ極まり、そこで燃え尽きた気はします。今となっては、小説はちっとも書ける気がしません。書きたいという気持ちさえ、過去最大に低下している気がします。

    しかし、それだけなら別に、大した問題ではないのです。小説が書けないくらいなら、文章自体はこうして書けていますし、大した問題ではないでしょう。ただいつの頃からか、具体的には思い出せませんけど、結構前から、賢者タイムになるとその途端、死にたくなる現象があるのです。

    前置きをしますが、これは真剣な話です。おかしな話に聞こえるかもしれませんけど、ぼくは射精した途端にパッと頭が切り替わって、自分の人生は非常にくだらない物で、自分は今まで数えきれないくらい、取り返しのつかない過ちを、間違いを犯してきたような気がして、このままこれ以上生きることには価値がないと思えてくるような、そんな気持ちになるのです。

 賢者タイムで死にたくなるのは草、と文面で見れば愉快な話に思えますけど、全然面白くありません、笑えません。この話は冗談抜きです。なぜかはわからないけど、しかしぼくは自分の人生に対して「自殺なんて選択肢にもならない」と錯覚することに、性欲を用いていたような気がするのです。

 その性欲が、最近弱まったのを感じます。無くなったわけじゃないのですけど、むしろまだ全然あるのですけど、なんでしょう、向かっていく活力を失ったというか、満たされないなら満たされないで、別に構わないかなという気になってきたのです。

 いや、これは「なぜか」活力が失われたという話ではないのかもしれません。理由がはっきりしているかもしれない。一時期ぼくは本当に性欲で頭がおかしくなって、それでネットで会った、男の人と、ABCで言うところのBまでしたのですけど、そういう経験がよくなかったのですかね。時々、何か漠然と、たとえそれが女性相手でも、性行為そのものに、嫌悪感のような物を感じるのです。これは以前(少なくともGW頃)ではありえないことでした。

 それか別に原因があるとすれば、同性相手とはいえ「いわゆる出会い」を行ったことになるわけで、詳しい経緯は忘れましたけど、それがきっかけでいつの間にか自分は、性病について調べていました。それがまずかったのかもしれない。

 正しい知識を仕入れることが悪いことだとは思いませんけど、しかし性病というのはどうも、どうしてあんなに、理不尽なのでしょうね? 自覚症状がないことがあるとか、キスだけでも感染するとか、自然治癒はまず無いだとか、クソみたいなことばかり書いてありますよね。人間性や社会とは別のジャンルとして存在している、この世の理不尽の極みではないでしょうか。

 高校のある時期以降のぼくにとって、エッチは救いというか、最上級の娯楽として見えていた節があります。それさえ確保できれば幸せになれる、くらいに思っていたかもしれません。賢者タイムで死にたくなるような馬鹿はそんなものでしょう。

 ところが、今となっては二つの意味で、エッチはそんなに魅力的ではなくなってしまったように感じます。まずは病気のことですね、絶対の安全がないとわかった以上、救いとまで捉えていたそこに、絶対の安心はないことが判明してしまったわけですから、この時点で非常に、魅力は失われました。

 次に、エッチで得られる快楽というのは、何もそんな、救いがどうのこうの……というレベルではないことを知ったことがあります。男の人とそういうことをしたのは、だって男女で口や舌にそう違いがあるとは思えないし、目を閉じれば同じだと思ったからでした。

 しかしそれで、快楽その物には、そこまでの魅力がないことに気が付きました。快楽はそれ単体では救いどころか、他の娯楽と比較しても、非常にくだらない物であることに気が付いたのです。

 要するにエッチの魅力とは、肉体的な「快楽」と、女性に欲情する「興奮」が合わさって、初めて成立する物だったようです。そして快楽というのは、つまらない物であれば文字通り自分の手でも得られますし、より重要なのは興奮の方である気がします。画面の中の女優や漫画の中のキャラクターなどと、目の前にいて実際に触れられる女性では、オナニーとセックスの単純な「快楽の度合い」の違い以上に、さらに、興奮の面で天と地の差がありますから。

 ただ、興奮という面については、これはこれでまた問題があります。ぼくが興奮を求めると、つまり「好きなこと」をしようとすると、それはあまり、良い行いにはならないのです。趣味が悪いのです。従って興奮というのも、仮にエッチの許可がもらえたとして、その時点で満たされることが約束された物ではありません。

 もちろん、満たされるか満たされないか、この世には二つしか可能性が存在しない、なんてことがあるわけないので、より多くを望みたくはなるものの、少しでも満たされれば、それでそれなりに満足なんですけれども。では何が問題なのかというと、なぜかぼくが最近、自身の趣味に、時々嫌悪感を抱いてしまうようになったことが、精神衛生に悪いのです。なんて醜い趣味だろう……と、最近になって、急に思うことがあります。そういう考えも今までは、性欲で塗りつぶしていたのかもしれません。

 性的な趣味を自己嫌悪することに加えて、前述の通り時々エッチそのものに嫌悪感が湧くこともあり、二重苦です。しかし考えてみれば、この自己嫌悪やエッチそのものへの嫌悪感というのも、男の人とそういうことをしてしまったのが、そもそもの原因なのではないかという気がします。

 ぼくは、貪られることの不愉快を知りました。恐怖等とは幸い無縁のまま終わりましたが、それでも、あれはどうにも不愉快ですね。自身の興奮と無縁の対象から、体を求められるというのは、ああ本当に嫌なんだなと、多少なりとも理解してしまったので、自己嫌悪含む嫌悪感というのはそこからきていて、ぼくは結局、自ら望んだその経験を原因に、精神を弱らせてしまったのでは……。

 しかし何にせよ、そういうわけで、ひどい回り道を経て、ぼくはエッチの魅力とは何なのかを再認識したつもりなのですけど、その代償が重かった。救いなんて言葉を使いたくなるくらい、エッチから得られる幸福感をぼくは神格化していた節がありますけど、再認識の過程で、神格化するほどの物ではないという、ある種当然のことに、気付いてしまったようなのです。

 快楽や興奮は、つらい気持ちを一時的に上塗りして感じなくさせてくれることはあっても、つらさそのものを根っこから取り除いてくれはしない。興奮が伴わないエッチに大した価値はないけれど、興奮が伴ったところで、やはり救いと呼ぶにはほど遠い。当たり前のことなんですけど、むしろなぜ今まで、そう思っていなかったのか意味がわからないのですけど、エッチしたって、その時だけならともかく、人生の全体までは、全然幸せになったりしないんですよ。

 まだぼくが「さあ、この楽しかった気持ちをエネルギーに変えて、また明日から頑張りましょう!」と言えるような、真人間の素質を持っていれば、エネルギーの原料をエッチに頼ったって悪くないとは思いますが、そんな素質は実際のところ、まったくぼくの中にありはしません。

 ぼくにとって楽しい気持ちというのは、あるいは興奮というのは、その瞬間のみ、嫌なこと全てを脳みそから消して見せることだけに、全てのリソースを使ってしまう物なのです。より正確に言えば、それは消しているのではなく、上塗りして一時的に見えなくしているだけで、一日二日でその上塗りは剥がれ落ち、脳みそはつらさを感じる元の状態にに戻ってしまうのですけど、何にせよわかってほしいのは、何かを頑張るためのエネルギーなんかには、変えられる余裕がまったく無いということです。

 そもそもおかしいとは思っていました。平日の苦労をなんとか乗り越えて、その分土日を楽しんで、その楽しんだ気持ちをエネルギーに変えて、また平日の苦労を乗り越えて、そしたら再びその分のエネルギーを土日で補給して……って、出来るわけないじゃないですか、そんなこと。それと同じなんですよ。

 楽しんだ分また頑張りましょうと言う人は、人間の精神に、無限機関でも見出しているんでしょうか。あるわけないんですよね、そんな物。それが出来る人は単純に、素でエネルギーを生み出す力が強いだけで、楽しみというのはあくまで触媒であって、エネルギーの素材その物ではないんですよ。だから、エネルギーを生み出す素の力がないぼくでは、いくら救いだ何だと良い思いをしたところで、それが人生全体のプラスに繋がることはないのです。

 極論、毎日何かしらのことで満足できれば、嫌なことの上に塗られた幸福が剥がれる前に、さらに上塗りをし続けられれば、一生幸せでいることは出来ると思います。エッチに限らず、ゲームでもアニメでも友達と遊ぶでも何でもいいので、とにかく上塗り出来ることを無限に途切れさせなければ、もしかすると、人生全体の幸せを手に入れられるのかもしれない。今日の上塗れるほど楽しい行為が、数年後も上塗れるほど楽しい行為である確証はないですけど、そこはまあ適宜上手いこと見つけられる前提として。

 ……って、そんなことが万に一つも実現しないことは、さすがのぼくでもわかりますけど。ただ、実現するわけがないという事実は、実現を望まない理由にはならないと、ぼくはずっと考えています。一切苦労してないのに遊んで暮らせるほどの大金が転がり込んでくるとか、異世界へ転生して何の苦労もなく全てが上手くいくとか、実現しなくたって、望む意味がないわけではないと思っています。現実逃避というのは、精神衛生のために、必要なことなのではないでしょうか。

 おそらくぼくの性欲も、その現実逃避なのだと思います。性欲がある間って馬鹿になっているので、現実逃避がすごく容易なのでしょう。逆に賢者タイムによって、一時的にその馬鹿が失われると、途端に上手く逃避できなくなるわけですけど。

 現実逃避は、言い方を変えれば、夢を見ることです。理想であり、なおかつ寝言を言っているという意味で、夢です。ぼくは最近その夢から覚めたようです。おそらく覚めた要因は、夢から安心を失ったことでしょう。すすんで見る夢には、実現が期待できない夢には、安心が必須なのです。

 仮に、仮にですよ、ぼくに体を許してくれる女性が現れたとするじゃないですか。しかもその人は意味不明なくらいお金持ちで、ぼくは「金を使うことの抵抗」からおさらば出来るとしましょう。要するに今までの価値観ならそれで、人生の全体に嫌なことがあっても、幸福感で上塗りし放題、それが救いだという認識になっていたわけです。

 それが今は、そんなあり得ないようなことが仮に実現したところで、全然安心できません。幸福感にまるで集中できないのです。エッチに絶対の安全はないと知ってしまったからでしょうか。自分がそれに伴って時々、エッチそのものに突然、一時的とはいえ嫌悪感を覚えるようになったからでしょうか。とにかく全く、幸福に集中できる気がしません。

 これはおそらく、気がしないだけだと思います。いざ目の前に触れても許される女性が現れたら、そんなことをあーだこーだ言う余裕は、今のぼくの性欲にも存在しないと思われます。ただ問題は、そんな女性現れないということです。性欲の現実逃避性というのは、現れたらいいなと考える部分にあって、内容の実現にはないのです。その考える部分から夢を失ったことが、理解できないかもしれませんけど、鼻で笑いたくなるかもしれませんけど、それでも確実に、ぼくにとっては致命的なんです。

 その上、仮にですけど、仮にエッチできる関係の人と、奇跡的に巡り合ったとして、その人がぼくだけに対してそういう姿勢である確証は無いでしょうし、仮に確証をどうにかして得られても、すでにぼくの側が、いわゆる出会いを行ってしまった以上「安全の確証がない人」でありますし、巡り合う方法はほぼ間違いなくネット経由でしょうから、仮に病気などその恐れていることが起これば、ぼくはそこで即ゲームオーバーなんですよ。夢がないとか、そういう次元の話ではありません。

 ぼくが幸福感をエネルギーに変えられるなら、それを糧にせめてバイトでも出来るのなら、別に大した問題ではないのでしょう。恐れている事態が起こり、親にネットでそのようなことをしていたのがバレたところで、金があれば、自分で料金を払うことが出来れば、ネットを切られるもクソもないし、よほどとんでもないことにならない限り、病気なんか自力で病院に行けばいいだけですから。

 だからまあ、虫が良すぎる話は通らないのです。その他の娯楽に対する活力を喪失気味なぼくが、失われず残った「エッチ」という娯楽に対する活力、そこから得られる幸福感で、嫌なことやつらい気持ちを上塗っていくには、相手を見つけるという奇跡を起こした上で、親にバレずにそれを維持しなければならないわけで、つまりそれは、不可能なんですよ。

    奇跡を一つ望むのと、二つ望むのとでは、今のままの自分が誰かと結婚することと、この国で一夫多妻制を成立させることの違いと同じくらい、どちらも厳しいことに変わりはありませんけど、しかし二つの間には、とんでもない難易度の差があるのです。

 そういうことを考え始めたあたりからでしょうかね、露骨に性欲の低下を感じました。今しているようなこの、性欲関連の話の長さなどからも察してもらえる通り、ぼくの性欲はむしろ低下して丁度良いくらいなのかもしれませんけど、しかし最後の砦とも言うべきカテゴリの活力をそれなりに失ったというのは、これもまた馬鹿みたいな話に聞こえるのでしょうけど、ぼくとしては、ものすごくショックだったのです。

 活力を失うことの何がそんなにつらくて、なぜそれだけのことで自殺なんか考え始めるのか、ぼくにもよくわかりません。一人で思い詰めるな、なんて立派な言葉(嫌味です)も聞きますし、そのあたりはもっと、いろいろな人と考えていくべきなのかもしれません。こんな内容の話を、誰かに口頭でする勇気は、なかなか湧く物ではありませんけど。今のぼくの状態では、勇気どころか気力でさえ、湧くかどうか怪しいものですけど。

 しかし、これはかまってちゃんの戯言かもしれませんけど、余裕はどんどん無くなっている気がします。死にたい気持ちは強まっています。なんだか、全て投げ出してしまいたいのです。自分の欲しい物が、何であるのかわからない。仮にわかったところで、それを得るにはそれなりの……あるいは多大な、努力や苦労が必要でしょう。それがもう、なんだか、とにかく、嫌なんです。そしてやっぱり、何が欲しいのかわからない、活力を失った現状のままでいるのも、同じくらい、嫌なんです。全てやめたいんです。なぜそう思うのかと言われると説明できないのが、かまってちゃんとして見ても情けないですけど。

 ニートは養ってもらう代わりに、洗濯と皿洗いと料理の手伝いをしなさいと言い渡されています。働くよりマシだぜ、というか、それならまだギリギリ自分にも出来るのでは、と当初は思ったものです。

 家事手伝いを言い渡されたのは、バイトをばっくれたりしていた時期を通り過ぎて、親との喧嘩の末に、ぼくは絶対に働かないと宣言してからのことなので、始まってまだ一年くらいでしょうか? 家事をやるにあたって、「よし、やるぞ」と気合を入れて取り掛かるまでにかかる、チャージタイムのような時間が、どんどん増えています。初期の頃「これでニートが出来るなら安いものだ」と思っていた気持ちはどこへやら、今はもう家事さえ、放り投げてしまいたい気持ちでいっぱいとなりました。

 初めの頃は、十時前に洗濯と朝の皿洗いを終わらせて、夕方まで自由時間を堪能してから、二十二時前後あたりまでには、夜の皿洗いも……つまり一日のノルマ全てを、終わらせていました。今は朝の皿を洗う頃には、昼をとっくに過ぎていることがデフォルトになってきました。やる気というか、エネルギーというか、何かが不足しているんです。

 料理の手伝いも、どんどんやる量が減っている気がします。要はさぼりです。母はぼくに手伝わせることより、さっさと料理を終わらせることに重きを置いているようなので、ある程度はさぼれてしまうわけですけど、時が経つごとにさぼる量が、どんどん増えている気がするのです。

    さぼれそうなことに気付いてから、さぼる量が増えたわけではありません。まずさぼることによって、常に自分は、「ああ、さぼれるんだ」と気付いているような感じです。気付いてさぼるのではなく、さぼって気付くのです。これはいつも、別に探りたいわけではないのですが、便宜上「手探りの状態」と言った方が、伝わりやすいかと思います。

    さぼろうという気持ち自体、初めの頃はなかった気がしますし、やる気というか何というか、とにかくそういう何かが、どんどん失われているのを感じます。実際、家事なんて、全てやめてしまいたいのですけど。

 夜、皿を洗っている時、この皿を次々と叩き付けて割ってしまえば、もう家事はしなくていいという話にならないだろうかと、その手のことを考えることが増えました。きっとそのルートで家事を免除されると、娯楽の方も制限されて、余計につらい気持ちになるような気がするので、実行はしませんけど。怪我とかも怖いですし。

 昨日の夜は、雨が降っていました。嫌だ、嫌だ、投げ出してしまおうか、どうしようか、どうするべきか、自分のためには、どうした方が良い……、と皿を洗っていたぼくは、両親がすでに寝てしまったことに気が付きました。どこに行くアテもないですけど、気付かれないように着替えて、外へ行ってしまおうかと考えました。そういうことを考えた時に、自分のかまってちゃん性をものすごく自覚するのですけど、ぼくは言った通りそれを悪いこととは認識していません。

 次に家出をしたらゲームとかパソコンとか、娯楽の物全て捨てるから……、そう言われているので、普通に考えて失踪のようなことはしない方が、ぼくにとって身のためです。しかし、そんなことを言っている場合ではないのでは、という気もしました。

 傍から見てぼくは、親に甘やかされて、楽しいことだけをして生きる幸せ者(ただし将来はやばい)に見えているのだと思います。親の目線から見てもそうでしょう。そう見られている以上、ここでしているような話を口頭でするか、何か異常な行動を取って見せでもしなければ、現状がぼくにとって良い方向へ動く可能性は、ゼロであるように思えます。

 もちろんそれは、より悪い方向へ向かってしまう可能性も生まれる賭けですが、何故こんなにつらいのかはわからなくても、しかしどうしようもなくて死ぬことを選択肢に入れるくらいなら、どうしようもなくて賭けに出るくらいのことを、先にしてみるべきではないかと思うのです。そもそも説明した通り、現状死ねる気がしませんし、もはや、実質的にはそれくらいしか、ぼくの取れる選択はないのではないかという気さえします。

 だったら口頭で話す方を選べよ、と真人間の方は言うのでしょうけど、残念なことにぼくは経験上、この話を聞いたウチの親が「なんでつらいのか考えるところから始めよう」という類の結論を出すことが、到底できない人間だということを知っているのです。

 まず言われることは「何がそんなに気に入らないんだ」でしょう。だからそれがわからないから困ってるんだろ話聞いてんのか、と喧嘩が始まることが、容易に想像できます。それは話をしたって、家出をしたって、同じことですけど、真剣に話して喧嘩が始まるのと、心配してくれる人の気持ちを馬鹿にするかのような行為の末に喧嘩が始まるのでは、後者の方がぼくは楽なような気がするんです。どうせ心で殴り合うなら、こちらから殴り始めたい、

 そもそも、「どうせくだらない喧嘩になる」という信頼性の無さを、ぼくに与えたのは親ですし、それを思えば心配させたところで、罪悪感という物はあまり湧いてきません。だから本当に、昨日、どこかへ歩いて行ってしまえばよかったのかもしれない。幸いもう二十歳ですし、補導とは無縁の身ですよ。

 ただ昨日は、仕事から帰ってきた父が「ビール買ってきたから、明日の夜一緒に飲もう」と言っていたんですよ。酒に対する、欲する活力のような物も、ぼくはそれなりに失ってしまっているので、仮に父が翌朝「ごめんあのあと一人で飲んじゃった」と言い出しても、別に全然構わないくらいの気持ちであったのですけど、しかし実際のところ、その約束がぼくを思いとどまらせました。

 そう思えば最近、買い出しに行くという両親に「何か欲しい物があるか」と聞かれて、酒が欲しいと主張することに使う精神エネルギー(ニートが酒を欲するのは重くはないが罪である)が、酒を飲みたいという気持ちを上回ってしまいました。以前なら考えられなかったことです。精神エネルギーが上回ったというより、酒を飲みたい気持ちが、その活力が、弱まりすぎたのかと思います。

    まあ実際には、何も言わなくても酒を買ってきてくれていたので、飲んだのですけど。ワインを一本ほぼ一人で飲んで、ひどく酔ったのですけど。

 酔うと、酔っている時だけは嫌なこと、つらい気持ちが、酔いで上塗りされて見えなくなります。酔いとは幸福なのかもしれません。その上心地よく眠気が来るので、あれこれ考えてしまって眠れない上につらくなるということもありません。健康上と、周囲への迷惑を考えると、あまり乱用できた手段ではありませんけど(それをするとアル中だ)、とにかく酒は、かなり良い物だと認識しています。

 それを「欲しい」とただ一言言うだけ、それも何の脈絡もなくこちらからではなく、向こうから「欲しい物は?」と聞かれている流れで、ただ一言言うだけ、それが出来ないほど、娯楽へ向かう活力が失われています。もしかしてぼくは、幸せになろうとすること、つらさから脱出しようとすることを、さぼっているのでしょうか……?

    しかし目の前に酒が来ればそれは飲む程度には、まだ活力は生き残っているようです。まあ、だからぼくは、希死念慮にとりつかれた人ではなく、ただのかまってちゃんでいられるのでしょうけど。その程度の活力さえ、完全に失われてしまったら、それはもう本当に、病院行きか、安楽がどうのこうのという話も無視して、死んでいますよ。

 結局、かまってちゃんを一度、「死なない程度の奇行」から踏みとどまらせるために必要な物なんて、酒と、明日一緒に飲もうという約束だけで、それだけで十分なようです。これが来週とか、来月の約束だとダメだったかもしれません。急速に活力を失っていることからわかる通り、ぼくにとってどうやら「一日」は非常に重いようですから、明日のことは明日のことですけど、来月のことは、永遠より近いこととしか認識できない気がします。永遠より近いことは、待ってみようという気持ちを起こす要因には、ほとんどなりません。

 この一日の重さは、あるいは一秒ごとの重さというのは、まったく真人間から理解されません。ニートはかつて、勤め始めてから十日でバイトばっくれましたが、「たった十日で」というのが真人間の認識のようです。たったと言えるような気持ではなかったから、ばっくれたわけですけど、それがわからないらしい。ぼくにとってあの十日は、体感時間で言えば、真人間の三か月分くらいはあったんじゃないかと思っています。いや、適当に言いましたけど、まあとにかく長かったのです。つらかったのです。

 高校では、月々三千五百円のお小遣い(学校を一日ずる休みするごとに、五百円減額)で生きてきたぼくにとって、バイトで得られる収入の額は、高校卒業当初、ものすごく魅力的に感じられました。ちなみに、なぜ卒業後の進路がバイトだったのかというと、進学や就職を仮に「入るところ」まで成功したとして、説明した通りの「お小遣い減額制」が採用されたことから察せられるような、その時点でのぼくの能力では、ちっともそのあとが続く気がしなかったからです。進路と呼ばれる場所へは、どこへも通える気がしませんでした。だから、バイトも週三です。一日ずつ休みながらならば、行けるだろうと思ったのです。

 フリーター生活は、月々二万円を家に入れる約束以外、一切の縛りがなかったので、週三日のフルタイムなら、ゲーム機を本体から買ってカラオケに行きまくっても、数か月もすればまた金が余るだろうと、バイト始めたてのぼくはウッキウキでした。それが十日でばっくれるくらいなので、やはりなんとも、弱るのが(真人間の感覚で言って)異様に早いです。

 七日目あたりで、もうゲームとかカラオケとかどうでもいいから、とにかく仕事をやめたいと考えていました。九日目で初めて遅刻をして、十日目でばっくれです。あからさまに弱っていくぼくに、同じ時期で入った女性(本人いわく一回り年上)に励まされたりもしたのですが、今思えばその女性の励まし方が、ぼくの人生にいくつかあるうちの「毒」の一つになってしまった気もします。

 何かしたいことはないの? それのために頑張ろうよ。そういう励まし方をされた上で、「何もないです。仕事をやめること以外」という結論をぼくは出しました。本人にも伝えました。父はぼくと真剣な話で喧嘩するたび、ぼくに対して「お前に幸せになってほしい、生まれてきてよかったと思ってほしい」と言っていましたが、そういうのが、毒である気がするのです。

 人を不幸にする言葉は、「どこかで報われた?」だと思います。我々は報われるために生きているわけではないはずなのですが、そう聞かれてしまうと突然、自分が不幸な気がしてきます。思い当たりませんか、報われなかったこと。例えばウチの親なら、長男がニートであることでしょうし、ぼくにとっては、なんでしょうね、誰もぼくの気持ちを理解してくれないことでしょうか。この文章も、報われることはないでしょう。書きながら、努めて、だからといって無意味でも無価値でもないのだ、と自分に言い聞かせなければいけません。

 やりたいことのために頑張ろう、生きるからには幸せになろう。その手の考えは、人を殺すのではないでしょうか。やりたいことがわからない時、幸せが具体的に何であるかわからない時、その言葉が毒になる気がするのです。まずい状態の人間にほど毒になりかねない言葉は、励ましの言葉として、どうなんでしょうか。

 ぼくも少し前まで、人生の目的は、幸せになることだと思っていました。しかし今のように活力を失って、つまり幸せって何なのか、自分は何がほしいのだろう、わからない……ということになってしまうと、では目的を見失った以上、人生に意味はない、価値はない、そうなってしまうような、そんな気がするのです。まさか今あるつらさの全てが、その言葉と理屈に集約されているとは、さすがに思えませんけど。

 バイト先の善人性質な、その女性は、別の励まし方として、以前勤めていた規則が厳しいバイト先の話もしてくれました。髪で耳が隠れるのもダメとか、そういう厳しいところに比べれば、ここは天国だよ……と。

 ばっくれる頃のぼくは、その理屈で幸せになれるなら、一度地獄に落ちて、しばらくしてから現世へ帰ってくれば、なんでも天国になるんじゃないかと、言い出しっぺの法則でアンタから地獄に落ちてみてくれよ、その後に同じことが言えるのかよ……と考えていたので、だからもう、なんというかメンタルが、ダメだったんですよ、完全に。

 そうしてバイトをやめて、その後ぼくが、もう一度だけ別のバイトを試みた時には、もはや二日目でばっくれた(つまり勤務したのは一日だけ)ので、それ以来、もう働かないぞと決心しましたし、それを結局貫き通しているのが現状となっています。ちなみになぜマトモにやめず、ばっくれるのかというと、言うのは二度目になりますが、説教という形にせよ何にせよ、どうせ心を殴られるのなら、まずこちらから殴りたいのです。

    二つ目のバイトは制服があったのですが、勤務たったの一日(ぼくから見ても「たったの」一日)で、なぜか家にいるのに制服を着ていて、なんでこんな物を、仕事が終わってからの時間で着なきゃならんのだ……と脱ぎ捨てた、と思ったら、それはかけ布団だった……という夢を、一晩で三回くらい見て、これはダメだとなったのです。

 他にもバイト二つ目の話だと、なんだか職場そのものにストレスが滞留しているような、目に見えない「ストレス」という名前の煙が、目に見えないから認識できるわけない(当然「煙たい」等の感覚もあるわけがない)のですけど、何か職場全体に蔓延している気がしたり、とにかく「やってられんわ、こんなこと」となったのです。勤務たったの一日ですよ。

 このストレスの煙や、労働の臭いという、なんとも言葉では説明しにくい感覚的な物が、今でもぼくには残っています。例えば、まあ当然と言えば当然なのかもしれませんが、家族旅行の流れで富岡製糸場の見学に行った時は、ものすごい労働の臭い(嗅覚に訴える感覚では断じて無い)を感じて、若干体調が悪くなったような気さえしました。体調がどうのこうのというわけではなく、ただ単にテンションが下がっただけという可能性もありますけど、ぼくにはもう自分の体調も、よくわかりません。

 不思議なことなんですけど、例えばぼくが「リンゴが食べたい。が、金がないので、リンゴを得るためには働かなければならない」という状況にあったとして、最終的に「働かない」という結論を出した時、真人間の方々は、決まって「リンゴはそれほど食べたいわけでもないんだな」と解釈するんですよね。これ、経験上本当に例外なくそうなので、非常に不可思議です。

 そこで「それだけ働きたくないのだな」と解釈してくれる人は、誰一人としていないんですよね。説明すればあるいは「なるほど」と言ってくれるのかもしれませんけど、初見でぼくの望む解釈をしてくれる人は、見たことがありません。そういうところから、真人間とは分かり合えないということを実感していきます。

 分かり合えないといえば、一つ悲しい例を見ました。首吊りについてネットで調べていた時に見た文章なのですけど、それは、自殺者の死体を処理する仕事をしている人の書いたものでした。

 仕事の経験上、誰よりも「自殺者の遺族」の現実を知っていると言って過言ではないであろうその人は、そのことについて詳しく説明したあとで、こう締めくくっていました。……あなたが自殺すれば、多くの人が悲しむのです、自殺なんかやめなさい。

 多くの人の悲しみは、一人の人間が自殺に至る気持ちより、重いのでしょうか。それは、「どちらが」と考える時点で、間違っています。「どちらが」という話ではないので、自殺する人の気持ちこそ尊重されるべきでそれ以外ありえない、と言うつもりも当然ありませんが、しかし確実に言えるのは、人の心を「どちらが」という考え方で、しかも「数」を理屈に入れて語ろうとした時点で、その人はすでに論外です。人の心を語る資格がありません。

 浅はかな人が「悲しむ人がいるからやめろ」と言えてしまうのは仕方がないかなと思いますが、自殺者の死体の処理という仕事をしていながら、その経験の後にそんなことを言えてしまうのは、とても悲しいことでした。ぼくも彼と同じ経験をすれば(働けないことはいったん忘れて)、同じような思想に変わるのでしょうか。現実に限りなく近づいた人間が、それによって人の心を語る資格を失っていくなんて、悲しすぎませんか。

 首吊りについて調べると、もう一つ目に入る物があります。さっきの話は偶然見た物ですが、こちらは確実に目に入るでしょう。名前は忘れましたけど、よく聞くあれです、死ぬ前にここへ電話して気持ちを打ち明けてみてくれ、というアレの電話番号です。

 ぼくはその手の番号に何度かかけてみたことがあるのですが、あれは、繋がりません。需要に対して供給が追い付いていないのだと思われます。それもまた悲しいことです。それがそのまま現実であると、改めて実感することになりますから、むしろあのダイヤルは繋がらなかった場合、さらに自殺の気持ちを加速させる、諸刃の剣のように思われます。

 自分を助けてくれる人は、そうそういない。助けるどころか、ともかく相談に乗ってくれる人でさえ、ちょっと探した程度では見つかるものではない。そんな当たり前のことを、ぼくを含む暗い人間たちは、あのダイヤルを見た瞬間に忘れて、そして、それが一向に繋がらないと悟った途端、忘れた現実を思い出すのです。より濃く、再認識させられるのです。

 ひどい物だなと思いましたけど、それで救える命が確かにある以上、やめればいいのにとはどう考えても言えません。難しいですね。人を救うというのは、基本的には無理な話だと考えておくべきなのかもしれません。

 この他にも最近の話だと、既にちらりとはしましたが、体調が悪いのかどうかわからない、つまり、自分は本当に体調が悪いのか、それともかまってちゃんのあまり「体調が悪い」ということにしたがっているだけなのか、自力ではどうも判断できない……だとか、そういう話はあるんですけど、文字数がそろそろ二万に達しますし、キリがないので、ここらへんでやめておこうかと思います。

 ぼくも早く、ここに書いたような気持ちを、過去の話にしてしまいたいです。この気持ちがいつまでも「最近」のこととしてぼくの中にあることは、それは勘弁していただきた。それは避けたいことです。どんな手段を用いてでも……と言える覚悟は、無いわけですけれども……。

 

 ※以上の文章は、ぼくの感じていることを、言語化することに「試みた」物であり、言語化を、完璧に成し遂げている物ではありません。ここに書かれていることは、ニュアンスで受け取ってください。ここに書かれていることが、ぼくのつらさの、全てではありません。言語化能力の不足は、ぼくだけでなく、大多数の人間に共通することかと思います。それを理由に「なるほど理解した」という「誤解」を受けることは、心外なのです。

 また、その日のうちに書き切るか、そうでなければ諦めることを予定していた本文は、予定外に二日間をかけて書かれたので、文中の「今日」とか「昨日」という言葉については、あまり気にしないようにお願いします。

盲目と薄氷

 これは日記です。大まかには事実と異なりません。

 

 

 

 父が仕事での飲み会を終えて、アルコールが入ったままバイクに乗り帰ってきました。コンビニでアイスとエクレア、クレープをお土産に持って帰って来てくれていました。

 父が飲酒運転をした……という事実を、ぼくは生まれてから20年と半年以上が経ったその日、初めて目にしました。父がそのようなことを行った試しは、ついその日まで、一度もなかったのです。

 今回は無事帰って来られたから良かったものの(いや良くはないけど)、事故っていたらどうするつもりだったんだ、なんで急にそんなことをしたんだと問い詰めると、「なんか今日はいけると思った」という答えともう一つ、ぼくへ言葉が返ってきました。

 

「もし俺がダメになったら、お前が頑張ってくれるだろ? お前のことなんやかんや言って信用してるよ。俺がダメになったらお前は覚醒する。今はまだ一枚カードが足りないんだ」

 

 ……まだ一年も経たないほど近い過去に、ぼくと父は喧嘩をしました。いつまでニートでいるつもりだ、せめてバイトしようとするくらいの努力を試みたらどうだ……と言う父。絶対に働かない、働いたら不幸になる、そんな風に育てた親が自分のことを棚に上げて……と好戦的なぼく。

 20年あんたが正しいと思う育て方をした結果がこれなのに、まだ自分の正しいと思うことをぼくにやらせようとするのか。その調子でこのまま「ぼくの味方」とか「ぼくの為」とかのたまい続けるなら、仕舞いには刺すぞ。ぼくが泣きながらそう言ったあたりで、父も号泣して、喉から「なんなんだよ!」と気色の悪い高音で発して、電子タバコを床に叩き付け、母に抱き縋っていました。それで決着ということで、ぼくは今もニートをしているわけです。

 いろいろ考えたらしく後日になって父は、ぼくに、

「やりたいことをやればいい。ただし家事を手伝え。そしたらあとはお前のやりたいことを助けるよ。……でも覚えておいてほしいのは、親は子どもに幸せになってほしいといつでも思っているし、今のままじゃ幸せにはなれない」

 というようなことを言ってきました。そのぼくら二人は外食店にいて、その日はぼくの誕生日で、ぼくが初めて酒を飲んだ日でした。人生初めてのビールでした。今もビールをその時のことを飲むと思い出しますし、するとなおビールがおいしいです。

 このままではダメだというのはぼくも確信していることだったので、ぼくにとってその言葉は理想がそのまま現実になったような、とても素晴らしい結果のように思えました。唯一家事さえなければ本当に完璧だったのですけど、さすがにそこで「ありがとう。でも家事は嫌だ」と言えるほどには、ぼくのバーサーカー性も極まってはいませんでした。

 しかしあれからずっと思ってはいたのです。人間がそんなに簡単に変わることができるのかと。あの言葉は、父の本心ではないのではないかと。良い親が子どもを傷つけることを避けたがるように、普通の人間は自分が傷つくことも避けるでしょう。あの言葉は、さすがに真っ赤な嘘ではなくても、純粋な本意でもなくて、「喧嘩を避けるための選択」という要素も、混ざっていたのではないか。ずっとそう考えてはいたのです。

 飲酒運転を犯した父の口から酒の力を借りて出てきた言葉を聞いて、ぼくは、やっぱりダメだと確信しました。父はまだ夢を見ています。一家の危機となるほどの一大事が起きれば、そのくらい「いざ」という時が来れば、ぼくが光に包まれて、真人間に変身すると思っているようです。

 カードが一枚足りないという部分にだけは同意できました。確かに足りないのです、大きく行動を起こすためには、自分が変身するためには、まだもう一つ何かが足りません。

 ニートの社会復帰を手伝う市の施設に勤務する職員が、ぼくに言ったことがあります。

「死ぬことって、働くのと同じくらいエネルギー使うと思うよ」

 それを聞いたギリギリ10代だった当時のぼくは、何を馬鹿なこと言っているんだろうと思っていました。だって死ねばそこで終わりだけど、働いたって次の働きが来るだろうと。終着点と道すがらを比較することがまずおかしいと。

 しかし真剣に考えてみるとあの言葉は正しかったように思えます。たしかに「その後」を考えるなら、トータルで消費するエネルギーは働いた方が大きいでしょうけど、「その瞬間」だけを見れば、死ぬことと働くことは、同じくらいエネルギーを使うことのように思えます。

 一日たりとも働きたくない。一時間たりとも働きたくない。そんなことを言っているやつには、自殺なんか到底出来やしないのです。自殺するにはせめて、誓って100時間は働いてやるけどそれが人生最後の労働だ、と言えるくらいのエネルギーは必要なのかと思います。ぼくにはそれさえありません。

 考えてみれば喧嘩というのは防御的なことです。ぼくは自分を守るために喧嘩をしています。父親を泣かせてでも自分を守ります。何としてでも守るのです。けれども自殺というのはアルバイトと同じくらい、攻撃的なことでしょう。自ら死ぬのも金を稼ぐのも攻めることなのです。ぼくには攻めのエネルギーが足りていなさすぎる。

 だから働かないし、死にません。けれども、もし何かもう一つカードが増えたら。飲酒運転で事故った父が職を失うとか、その手の「最後の一枚」が発現したら、確かにぼくは覚醒するかもしれません。覚醒して、変身するかもしれない。一回きりだけ、攻めのエネルギーを得るかもしれない。でもそれは一回きりです。今までエネルギーに枯れていたぼくが、なんで急に継続的に消費可能なほど莫大なエネルギーを得られると考えるんでしょう。理解できません。

 父はぼくの覚醒を夢見ていたので、あわよくばの気持ちで酒を飲んだままバイクに乗ったんじゃないでしょうか。いけそうな気がしたというのは、本当と嘘が半分ずつ入っていたあの言葉をその通り行動に示して守ってきてくれた父が、その精神がついに限界近くなって、ヤケを起こしたということではないでしょうか。

 お前を覚醒させて働かせるために俺は死ぬ、なんて言い出さないあたり父もマトモな人なんですけど、酒を飲むとそれが若干揺れ動く程度には限界が近い、そんな気がします。いや、何を他人事のようにと思われるかもしれませんけど、ここで「これはぼくも早く何とか変わらないと」と思えるようならニートになっていないわけじゃないですか。悲しいことですけど。

 そういう理由でもなければ、今まで善良だった人が20年経って急に飲酒運転なんてしますかね。これを黄色信号だとぼくは思っています。あの喧嘩をした日、結局ぼくらはお互いを理解することを放棄しました。父はものすごく平和的に、愛情をもって、しかし結果だけ取って言えば「もう勝手にしろ」という結論に至ったのです。

 ぼくもぼくで言った通り、その父を見てあれをしようこれをしようという気持ちは一切湧いてこなくて、大事なのは自分だけ、どうにもそうとしか生きられません。ぼくと父は相互理解を放棄しました。もう相手の心については極力見ないようにしようと、どの程度意識的かはともかく、決めたのです。

 だからぼくもここに至るまでわかっていませんでした。あの時の喧嘩で、本当の意味で解決したと言えるようなことは、何もなかったのでしょう。そのまま何も見えないフリをして、お互いに精神的盲目を装って、家族で旅行に出かけて笑いあったり、ゲームをして楽しくぎゃあぎゃあと騒いでいたのだと思います。

 ぼくはそうしたかったんです。今が楽しければそれでいい。だから父に「もう勝手にしろ」と返すしかないようなことを言い続けたんだと思います。もっと言えばぼくは、「どうすれば幸せになれるのか」を自分でもまったく見当つけられていなかったので、そうするしかなかったというのもあるんですけど。

 しかしその結果、数年先の未来より明日を幸せにするために盲目になったことで、相変わらず自分たちが薄氷の上にいるということを、見えないものだからつい忘れてしまっていました。

 オリンピックが終わって2021年が来る頃には、我が家は父の仕事の都合で遠くの土地へ引っ越します。ぼくはそれによって「会える友達」を全員失います。会える友達は、会えない友達へとランクダウンするわけです。はたして本当に「会えないけど友達」が何の問題もなく成立し続けるのか、それさえぼくははなはだ怪しいと思っていますが。遠距離恋愛は否定派なんです。

 引っ越すことでぼくは会える友達を失う。では代わりに何を得られるのかと言えば、何も得られません。今の慣れ親しんだ家と町を手放して新しいそれらを手に入れるのは、それは「得られる」物にはカウントされません。むしろ差し引きすればそれも失う物です。ぼくは今のままがいい。

 要は近い将来に、どう考えたって希望が感じられないビッグイベントが控えているというわけです。ぼくはこれが「最後のカード」なのではないかと感じています。けれども違うかもしれません。ぼくのエネルギーの無さはビッグイベントの威力を上回るかもしれない。

 しかし実際には、カードは一枚と言わずそこらじゅうに散らばっているのかもしれません。父の飲酒運転でそう考えを改めました。一枚でダメなら二枚、それでもダメならさらに……と、最悪そんな風になれば、さすがのぼくもエネルギーを得るんじゃないでしょうか。これは不吉なことですよ。

 今が幸せならそれでいい。そう思って父との喧嘩を決着させたことがもう半年以上前。いや、まだ半年と少ししか経っていない、と言った方が実際のニュアンスに忠実なのかもしれません。

 最近ぼくはもう、この生活が楽しいとは思わなくなりました。インターネット、ゲーム、漫画、アニメ、小説、その他もろもろ。娯楽に対して「これは面白い」と思うことはあっても、この生活そのものが楽しいと思うことは、もうほとんどなくなってしまいました。それがなぜなのかはわからないけれど、事実としてぼくの「楽しさ、充実感」を認識する機能は、劣化しているように思われます。

 そして、思えばかわいそうなんです。ぼくはぼくが悪いとは少しも思いませんけど、むしろ父の自業自得だとさえ思っていますけど、同年代の余所の「父親」から「ウチの息子は今こんなことをやっている」という話を聞かされるぼくの父は、かわいそうです。

 幸せな未来を夢見て子どもを生んで、得た結果がこれというのは、かわいそうなんですよ。幸せな未来というのは、子どもを生めば自動的に手に入る物ではないのだから、父に落ち度がなかったなんて考え方をぼくは絶対に認めませんけど、それはそれとして、かわいそうなものはかわいそうなんですよ。

 幸せになる方法がわからず、ついに今日明日の楽しさも感じられなくなってきて、死にたいとまではいかなくても、こんなことなら生まれて来ない方がよかったんじゃないかと考える時、幸せじゃないのは自分だけじゃないことを思い出します。自分だけじゃないどころか、すぐ近くにいるんです。ぼくがこんな風になっていることそれ自体が不幸な人が、ぼく以外にもいるんです。

 じゃあやっぱり自分をかわいそうと思うのと似たように、かわいそうだって思うじゃないですか。ぼくだけが悪いわけでも、親だけが悪いわけでもないけど、かわいそうなものはかわいそうなんですよ。自分が償わなければとはまったく思わないけれど、このかわいそうという感覚を表現するために使える言葉を、ぼくは罪悪感しか持っていません。

 最近、家事さえ本気でやりたくなくなってきました。これでニートが出来るならおいしいものだと取り組んでいた半年前から一転して、家事もかなり労働に近くなってきました。一日一時間程度の家事でさえダメになるほど、ぼくにはエネルギーがないようです。

 漠然と「楽しくない」と感じるとつらいものです。常に「楽しくない」と感じるのはつらいものです。じゃあ生きていない方がいいじゃないかと思えてきます。もちろんまだ、引っ越しを嫌だと感じる程度に「悔い」がありますし、何より死そのものというよりも「死の瞬間」のことはめちゃくちゃ怖いですし、「よし、もう死のう」という結論には至りませんけど、それでもつらいものはつらいです。

 このつらさを、真剣に嫌になってきた家事で繋ぎ止めているのかと思うと、なおのこと全部放り捨てたくなります。このつらさを繋ぎ止めておかなければ、もっと大きなつらさに直面することがわかっているから、実際にはそう簡単に捨てたりしませんけど、でも本当になんだか、足りないカードはあと一枚だけだという感じがするのです。

 働きたくないと言うと、みんなそうだと言う真人間の人たち。ならどうしてみんな働けているんですか。どうしてその生活で生きていけるんですか。あなたたちも、あとカードが一枚あれば、その生活をやめるのですか。

 ぼくはただもう、楽しいことだけをしていたい。面白い物を面白いと感じるなら、常に面白い物を見てそれだけを感じればいいんです。そうしたい。それができないならやっぱり、生まれて来ない方がよかったのかもしれないと、思ってしまいます。だからダメ人間で、だからニートなんでしょう。

 そして、しかしもうぼくからは、面白い物を探すということをするエネルギーすら、失われていっていることを感じます。娯楽に手を伸ばすことが、段々と、下手になっていることを感じます。漫画が来たらすぐ読んで、アニメは手当たり次第面白いかどうかを確かめて、なんてエネルギーはもうありません。文章を書くエネルギーはあっても、小説を書くことはしなくなりました。友達との遊びも、大した楽しみと思わなくなりました。急遽中止になっても、痛くも痒くもない。この先、もっともっとエネルギーは失われていくのでは。そんな予感がします。

 もしかして生まれて来なければよかった系の人? 小学校の頃、不登校児をやっていたぼくにそう言ってきた先生がいます。ぼくは迷わずノーと答えました。本心でした。あの頃のことを考えると悲しくなります。時系列ではなく、気持ちだけあの頃に戻りたいです。

 さて、しかしそんなことを言っていてもキリがないですし、言っていたって何も救われないので、今回の作文はこれで終わりにしようと思います。最後にオチとして、だからなんだって話をしておきましょう。

……父がお土産に持って帰ってきれくれた、アイスやその他のスイーツたち。それらは特に何の変哲もなく、とてもおいしかったです。

 

人生二度目に、クレしん映画、カスカベボーイズを見て。

 たしか幼稚園の頃、まだ小学生になっていない頃だったと思います。「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ! 夕陽のカスカベボーイズ」という映画を見ました。レンタル店で借りたそれは今思えば、DVDではなくビデオテープだったのではなかろうか……。と、記憶が定かではありません。

 そんな過去から十数年、成人したぼくがその映画について憶えていたことは、以下の三つでした。

「ヒロインがかわいい」

「終盤がめちゃめちゃ面白い」

「エンディングでしんちゃんとヒロインが踊っていた。しんちゃんは身長が足りないので当然のように(不思議な力で)浮きながら踊っていた」

 ……と、ヒロインのキャラクターデザインと終盤のこと以外、ほぼ何も憶えていないことになります。しかし不思議なことに印象としては、カスカベボーイズは「とても面白い映画」だったという物なんです。終盤はいいんだけどそれ以外は……というマイナスな印象はまるでなかった。

 それどころか当時その映画を見終わった時ぼくは、一つの世界を堪能して帰ってきたかのような、とても大きな充実感を持っていたように思えます。例えるなら丸一日ディズニーランドで遊んで帰ってきた子どもの気持ちでしょうか?

 たった二時間の映像でそんな気持ちになれるなら、それはなんて素晴らしいことだろう。ぼくはもう一度その時の気持ちを思い出したくなった。だからさっき、もう一度見てきました。これからその感想を書こうと思います。

 これは映画の視聴を進める目的の文章ではないので、がっつりネタバレしていく予定です。嫌な人は引き返してください。

 

 

※以下、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ! 夕陽のカスカベボーイズ」本編のネタバレを行います。最初から最後まで全部言います。最初から、最後まで、全部言います。自己責任でお願いします。なお、ネタバレは極力正しいことを時系列順に書くつもりですが、ぼくの記憶力や理解力はポンコツなので、なんとなくのニュアンスで読むようにしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カスカベボーイズはしんのすけたち五人、春日部防衛隊が偶然、古びた無人の映画館を見つけるところから始まる。その映画館はすでに廃墟のようになっていたが、なぜか運営する人間も映画を見る客も誰一人見当たらない中で、一本の映画が上映されていた。

 しんのすけは「タダで映画が見れる!」と喜んで廃墟同然の映画館へ侵入。仲間たちも流れでそれに続くことになる。そして席に座り映画を見ていたが、しんのすけがトイレに立っている間に、映画を見ていたはずの友達4人の姿が消えた。

 すぐに4人は行方不明となったことがわかり、捜索のために今度は野原一家(シロは留守番)で映画館に行くことになる。そして野原一家はしんのすけの友達がそうであったように、映画の中の世界へと迷い込んでしまうのだった……。

 迷い込んだ映画の世界は、西部劇の世界だった。

 

 ……というのが、話のスタートになります。要するにこの映画の目的は「迷い込んだ異世界から、仲間全員で元の世界へ帰ること」であるわけです。当然「なぜ迷い込んでしまったのか」がイマイチわからない状況では、「どうすれば帰れるのか」もわからない。まずは元の世界への帰り方を探すことになります。

 しかし物語の展開される街へたどり着く前に、一家はまず少し荒野を彷徨っていく。その段階では三つの出来事が起こります。ヒロシが「照り付ける太陽がまったく動いていないこと」に気付くこと、謎の巨大ロボが打ち捨てられていたこと、岩壁に鎖で施錠された大きな木の板の扉があったこと。

 ぼくは幼少期に一度この映画を見ているので、打ち捨てられていたロボットが最終的に、ラスボスが搭乗する物として現れるのを知っていました。おぼろげな記憶にしっかり初見の楽しみを奪われて、仕方がないことだけどちょっと残念な気持ちになります。

 街に到着する野原一家。が、もう一度言うと、ぼくは幼少期にこの映画を一度見ているはずなのだけれど、街で出会う登場人物の顔を見ても「ああ、いたいたこんなやつ!」と記憶が蘇ることは基本的になかったです。まったくピンと来ない。ただしヒロインだけは例外で、印象に残っていただけのことはあってすぐ「ああ、そうそうこの子!」となりました。

 野原一家が街に着いてからすぐに、場違いなキャラが西部劇のような世界観に迷い込んだ時のあるあるパターンで有名な、「情報収集のためにバーに入ったら怖い人たちが一斉にこっちを睨みつけ絡んでくる」という展開も行われました。

 ぼくがその展開の中で嬉しかったのは、「コワモテの男に、頬でマッチを擦られるヒロシ」を見た時に、たしかにこのシーンは見たことがある! と記憶が蘇ったことです。その一瞬、幼少期の初見時に「えぇ……こわ……」と感じた時の感覚が、あったあったそんなこと! と、かなり鮮明に帰ってきました。あの頃の楽しさをもう一度……という目的で映画を見ているぼくとしては、それはすごく喜ばしいことでした。当時の自分がそのシーンを見てそんなことを思っていただなんて、映画を見なければ二度と思い出せはしなかったでしょう。

 しかしそのシーンのすぐあと、保安官の幹部となった風間くんが現れるのですが、ぼくはまたしても「そんな展開あったっけ?」となってしまいました。終盤が面白かったという印象へ忠実に、たとえ話の本筋であろうと、序盤のことはほとんど忘れているようです。逆に言えばよほど頬マッチが印象に残ったということです。子どもが映画を見た時どこが印象に残るのか、という視点で興味深いことですね。

 風間くんとの絡みを経て拳銃を持った保安官に追われた一行は偶然、幸薄そうな美少女ヒロイン「つばき」に出会い助けられます。そして彼女から「この世界にいると元いた世界の記憶をだんだん忘れていく」という事実を聞いて、今作の設定が明らかになっていくわけです。

 野原家はつばきに匿ってもらうことになりますけど、当然記憶が消えて「他人」になってしまった風間くんは仲間にならないし、再会を喜ぶことさえありません。マサオくんもネネちゃんも同じです。というかマサオくんはネネちゃんと結婚してました。まったく記憶になかったので、マジかよって感じです。

 そして最後にボーちゃんですけど、ボーちゃんだけは記憶が残ってました。謎の強キャラ臭は今作でも健在というわけです。しかし彼もしんのすけと同じように、時間が経つほどに記憶が消えていくことになる。幼稚園の先生の性格などは鮮明に憶えているのに名前だけが出てこなくなったり、しんのすけはぶりぶりざえもんの絵が書けなくなったり……。

 つばきの他にも、重要そうな人物は映画の世界に何人か現れます。「マイク」と名乗る映画オタクが協力者となったり、街を横暴に取り仕切る男……「ジャスティス」という名の知事が現れたり、「桶川」という何かの研究をしているらしい男が毎日、ジャスティスの怒りを買い馬で引きずられていたり。物語を動かす上で重要となりそうな人物が出てくるものの、話が決定的に進むことはありません。研究者桶川にいたっては日が傾かず常に晴天の昼間が続くこの世界において、決まった時間に馬で引きずられているので時計代わりの存在となっていました。

 また、そんな中「この世界には時々、外から人が入ってくる。その人たちは記憶を失って、やがてこの世界の住人になる」というような、「迷い込んだのは野原一家と春日部防衛隊だけではない」という事実が判明していったりもします。同時につばきが野原家と同じように外から来た存在であり、荒野を彷徨っていたところをジャスティスに拾われた、いわゆる孤児のような立ち位置にいることも、彼女本人の口から明かされます。(このあたりさっき見たのに記憶が曖昧で、つばきがジャスティスに拾われていたことはもっと早く明かされていたかも)。

 しかしそれ以上話が進むことはないまま、何度も桶川が引きずられる描写が入り、カレンダー代わりに壁に引いていた線も次第におびただしい数になっていく。野原一家についても、ひまわりがしんのすけのことを忘れてしまったような描写が入り、時が進むごとに状況は深刻になっていく様子が描かれます。一方で住民を弾圧するジャスティス絡みのトラブルなど様々なことが起きる中で、しんのすけはヒロインつばきと仲を深めていきます。

 途中あった二人の会話シーンで、しんのすけのすごく印象的な台詞があります。印象的というのは「今のぼく」にとってであり、幼少期の記憶に残っていたわけではないです。

 マサオくんやネネちゃん、風間くんが「元の世界に帰らなくてもここでそこそこ楽しくやっている」と言い、それに「何言ってるの、帰らなくちゃ」と返してきたしんのすけ。気がかりなのはおいてきてしまった愛犬シロのこと。きっと寂しがっているだろう……。そんなような話をつばきにします。

 その話の流れで、つばきちゃんは帰りたくないのかとしんのすけが聞くと、記憶がほとんど残っていないからわからない……と返される。つばきには元の世界の記憶が他の人以上に残っておらず、もう何も覚えていないそうです。だから帰りたいとかそうでもないとか、そんな感覚さえゼロに近くなってしまっている……。

 ニュアンスだけしか覚えていませんけど、しんのすけはそこで、こんなようなことを言いました。

「つばきちゃんはきっと、元の世界ではお金持ちの家のお嬢さんだったんだと思う。大きな家に住んでて、優しいパパとママがいて、大きな犬も飼ってて、毎日綺麗な服を着てたんだよ。つばきちゃん似合いそうだもん」

 いや、なんて口説き文句だよ……! ぼくはその台詞にかなり驚かされました。最後の台詞がイケメンすぎません? 惚れてまうやろー!(チャンカワイ)って感じですよ。まあ実際はつばきがしんのすけにではなく、しんのすけがつばきに惚れてるんですけれども。

 しんのすけはお互いの記憶を失わないように、ボーちゃんと二人で、

「ボクの、好きなことは?」

「石集め!」

「正解」

「オラの好きなものは?」

「お姉さん。カッコ、女子高生以上」

「ピンポーン!」

 みたいなやり取りもしていたんですけど、途中何とはない会話の流れで、つばきちゃんとのことを心底楽しそうに話し出したしんのすけに、ボーちゃんが「惚れたな」と言うシーンがあるんですよ。しんのすけにとどまらず、ボーちゃんまでなんかかっこいい。

 それに対する、

「ボーちゃん、オラの好きなものは?」

「お姉さん。カッコ、女子高生以上」

「そうだぞ! つばきちゃんは中学生くらいでしょ? オラそんなロリコンじゃないぞ」

 という、設定上五歳児の繰り広げるわけわからん会話に笑わされもしました。しかし思えば幼少期にこの映画を見た自分は、女子中学生を「大人の女性」の次くらいに大人びたお姉さんだと思っていただろうし、ロリコンの意味なんか理解してなかったでしょうね。このシーンもまったく記憶にはなく、初見の気持ちで楽しめたのですけど、それでも今とはまったく違う感覚で同じシーンを見ていたであろう過去の自分を思うと、なんか感慨深いですね。

 ほかにも会話シーンでは、つばきちゃんとの、

「オラ、元の世界に帰ったらナナコっていう恋人がいるんだ~」

「へぇ、しんちゃんモテるんだ」

 ってシーンもなんか好きなんだけど、そろそろ話を物語の本筋に戻そうと思います。

 人間関係は深まっても物語は一切進展しない流れが続くこと数十分。ある時突然、マイク(映画オタク)とヒロシが強制労働まがいの作業を強いられながらの会話で、不意に確信に迫ります。

「この世界の太陽が動かないのは、この世界の時間が止まっているからではないか?我々が映画の中に迷い込んだのは、映画が我々を必要としているからなのでは?」

 そしてしんのすけも同じような仮説にたどり着き、大人たちが「映画はなぜ我々を必要としているのか」という話の核に答えを見いだせないところに、一つ答えを出します。

「時間が進まないのは、映画が進まないから。結末を用意すればこの映画は終わる。元の世界に帰れる!」

 結末とはもちろん、悪を打ち倒すこと。つまり弾圧者、ジャスティスを打ち倒せば、みんな元の世界に帰ることが出来るのである。そんな仮説が生まれました。

 これを聞いた、例の馬に引きずられる時計と化していた研究者、桶川が「私は今までこのために研究してきたのだ!」と、何かすごいパワーが得られるらしいパンツを五つ取り出す。そのパンツは子ども用サイズで、必然的にそれを穿き悪を打ち倒す存在は、春日部防衛隊の五人しかいないことになる。しんのすけが説得することで五人は再び「春日部防衛隊」になり、映画の世界に迷い込んだ人たちも全員が一致団結し始めます。

 この段階になると、ジャスティスも動き始めます。彼とその部下たちは「映画の登場人物」であり、迷い込んできた人たちとは決定的に違う存在だったのです。自分たちが頂点となったまま時の止まった世界……楽園を終わらせてなるものかと、彼らも本気で抵抗します。「映画の中の人間」と、外の世界から来た「現実の人間」との戦いが始まるわけです。

 ちなみに五つのパンツが出てきたあたりで、「いい退屈しのぎになったよ」と、保安官の幹部だったはずの風間くんはジャスティスに裏切られ捨てられてしまっています。そりゃあ子どもが保安官を仕切るなんて馬鹿馬鹿しい話、結末はそうなって当然だろうといった感じですけど、同時にそうならなくても「ギャグアニメだし」で済むところがクレしん映画の読めなさですよね。

 ともかく、こうして「やるべきこと」が判明すると、今まで一切動かなかった太陽がその途端に少し傾いた。やはり悪を打ち倒す線が「正解」なのだと、全員が確信して士気はさらに上昇。しんちゃんの仲間たちもその流れでだんだん元の世界の記憶を取り戻し、元の世界へ戻りたい気持ちが強まっていく感じに包まれます。

 そして唯一「ジャスティス陣営の内部を知る味方」であるつばきから、「彼は立ち入り禁止区域に何かを隠している」という情報を得て、一行はそこを目指すことになるのです。

 汽車で目的地を目指す現実サイドの人間たち。時間が進んだ空はすっかり夕暮れです。その中で車両に二人きりとなったしんのすけとつばきが、こんな会話をしていました。

「つばきちゃん! 元の世界に帰れたら、オラと、オラと結婚を前提につ……つ……!」

「わたしなんかでいいの……? ナナコさんは?」

「~ッ!!!!(ナナコお姉さんを思い出してショックを受けるしんのすけ)」

 ボーちゃんの言っていた通り、結婚を前提に付き合ってくれと言い出すほどしんのすけはつばきちゃんに惚れていたようです。ナナコお姉さんのことを忘れていたのは気持ちの問題というより、「元の世界のことを忘れる」という映画の世界の作用によるものかと思われます。思い出して悶絶するしんのすけは、見てる側としてはちょっと面白かったんですけど、同じ状況に自分が立たされたらどうするんだろうな……とぼんやり考えたりもしました。

 結局付き合うとか結婚がどうこうという話はさすがに置いといて、「元の世界に戻れたら一緒に遊ぼう!」という約束を二人は交わしました。「一緒に遊ぼう」と言うしんのすけに返事をするつばきちゃんの「うん!」が力強かったのがなんかよかったです。

 そんな平和な時間も束の間、拳銃をぶっぱなしながら馬で汽車を追いかけてくる、映画サイドの人間たちと戦いが始まります。馬の足が速くて、汽車とほぼ並走状態です。しかし現実サイドには頼もしい味方が現れます。

 ちょっと前に出ていた「外から来たやつらにも、アンチ・ジャスティスはいるはずだ」という台詞が伏線扱いなのか、味方側に唐突にカッコいいガンマンたちが現れ、なんやかんや順調に汽車は進んでいくのです。急にガンマンが出てくるまで、正直そんな台詞聞き流してました。まあ伏線としては、無いよりはいい台詞でしょう。

 そうして馬に乗った保安官の部隊を撃退すると、今度は自動車に乗った追手の軍団が現れ、

みさえ「なんで西部劇に車が!?」

マイク「西部開拓の終盤には車はすでに開発済みだったんですよ。時代考証的には何の問題も」

 というような映画オタクキャラの役割を果たす会話を挟みつつ、ジャスティス本人も卓越した鞭と拳銃の腕で参戦し、戦いは激化していきます。

 その最中で、風間くんが汽車から落ちてしまい絶体絶命のピンチにさらされるが、それをしんのすけ仲間たちが救出。その友情がトリガーとなって、ついに例のパンツが効果を発揮します。その結果春日部防衛隊の五人はいわゆるスーパーマン的な、生身でなんでもありの奮闘を見せ始めました。生身で岩を砕き、銃弾をはじき返します。パンツの力ってすげー!

 そういうわけで、いよいよ車と機関銃を持ってしても勝てないと悟ると、ジャスティスは一人で車に乗りどこかへと行ってしまいます。まあこの時点でぼくは「あ、ロボット来るぞ」とわかってしまったわけで、その頃にはこの「映画の世界」も終盤ということで、空には星が輝き、夜になっていました。

 そして記憶通りに実際、巨大ロボがガシャンガシャンと走ってきました。めっちゃでかい。めっちゃ早い。一瞬で汽車に追いついてきます。

 しかもそのロボ、目からマシンガン撃ったり乳首からダイナマイト打ち出して来たりむちゃくちゃしてきます。そこまではぼくの記憶にもなかったです。しんのすけたちもスーパーパワーで対抗するけど、若干ロボの方がパワー勝ちしている様子でした。

 そしてそのロボに搭乗するジャスティスが、汽車の中につばきの姿を見つけます。全てに合点がいったようなジャスティス。お前が話したのか……! と、巨大ロボの腕でつばきを捕獲。そのシーンを見て改めて思いましたけど、巨大ロボの手に握られて人質のようになるヒロインのことは、ぼくの記憶にかなり強く残っていたようです。完全に記憶通りのシーンでした。

 ジャスティスは「あいつらに「わたしが話したことは全てデマだ」と言え、でなければ殺す」と脅し始めて、絵に描いたような悪役っぷりを発揮します。そして相手の機嫌を損ねれば今にも握りつぶされてしまいそうなつばきは……「目的の場所まであと少しです! がんばって!」と叫んだ。

 怒りに任せて彼女を地面に叩き付けるようにして投げ捨てるジャスティス。……それを間一髪でしんのすけが受け止める! 惚れた男と、あとパンツのパワーは伊達じゃない。

 だが相変わらず戦いは防戦一方。桶川は「おかしい、もっとパワーが出るはずなのに」とつぶやく。それを聞いてここ一番の力を出そうとする春日部防衛隊だが、合言葉が思い出せない。「春日部防衛隊、ファイヤー!」という合言葉が、映画の世界に長くいすぎたせいで思い出せないのです。そのせいでパワーが出ない……!

 この期に及んで「春日部防衛隊……なんだっけ……」と、「ファイヤー」に似てたり似てなかったりする単語を次々叫ぶギャグ(「ストレンジャー!」「レンジャー!」「インターセプター!」)を入れてくるのがクレしん映画のいいところだなって感じで、その部分も強く記憶に残っていました。

 ただ、子どもの頃に見た時は、もっと「クライマックス感」を感じていたように思うのですけど、そこはぼくも悪い意味で大人になってしまったようです。高揚感はありませんでした。

 そんなこんなでいろいろあって、なんとか春日部防衛隊は「ファイヤー!」という合言葉を思い出しました。すると五人は覚醒、一撃でロボを撃墜するのだった……。

 というわけでボスは倒した、ヒロインも助けた。やることは全てやり終えて、そしてついに目的の場所へ。目的の場所とは、それは初めに見た、岩壁の施錠された扉のことでした。

 ジャスティスはしぶとくついてきて、やめろおおおー!と抵抗するものの、その扉からは眩く輝く「四角い光の塊」が、施錠の鎖を突き破りあふれだす。あふれ出た光は空に上ると変形していって、やがってあるものを形作っていった。

 ここまでたどり着いた全員が見た、それは……、

 

 お わ り

 

 輝くその三文字をもって、この「映画の世界」は結末を迎えました。

 

 

 

 元いた世界の映画館に帰ってきた人々。映画館はなぜか廃墟のような様子ではなくなり小奇麗になっていたけれど、そんなことはどうでもよくて、みんなそれぞれ帰還を喜びました。

 しかし、しんのすけだけは違った。

「つばきちゃんがいない……! つばきちゃーん! どこ行ったんだー!」

 いくら呼んでもつばきは現れない。野原家や、防衛隊の面々は察し始める。つばきちゃんは、映画の中の人物だったのです。

 気持ちはわかるけど……と、もう帰ろう……と、しんのすけを説得する面々。

「嫌だぞ! 一緒に遊ぶって約束したんだぞ。つばきちゃんに会えないなら、オラ映画の中に帰る!」

 そう言ってスクリーンにダイブするしんのすけだが、当然それはただの幕で、映画の中に入ることなんてできない。しんのすけは落ち込み、立ち直れないのか、幕に弾き返されて倒れたまま、一向に起き上がろうとしない。

 そこに聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。シロだ。しんのすけはその声に駆け寄る。映画館までシロが迎えに来ていたのだ。シロにじゃれつかれて、「なんだー、オラがいなくて寂しかったの?」とじゃれ返すしんのすけ。「帰ろう」、ヒロシにそう言われて、今度こそしんのすけとその仲間は、家路につくのであった……。

 カスカベボーイズという映画の本編は、それにて終了である。

 

 

 

 一度目からかなりの年月を空けての、二度目の視聴。ぼくは「こんな酷で悲しい話だったっけ……?」と若干唖然となりました。

 「この世界でもいい」と言う仲間を「帰らなきゃ」と一番強く説得し続けたしんのすけが、最後に「映画の世界に帰る」と叫ぶなんて、なかなかパンチの効いた結末だと思います。

 それも「保安官の幹部」「結婚生活」という物を捨てた他の仲間たちは、「そもそも幹部を下ろされた」「結婚言うてもあんたら元の世界では幼稚園児でしょ……」という諦めどころやツッコミどころを持っていたのに、しんのすけが捨てた物は、すごくリアルで、諦め難いものです。

 さすがにその絶望に呑まれて終わるわけではなく、愛犬をきっかけに元の世界の大切さを思い出して、つばきちゃんがいない悲しさは残るけど、たくさんの幸せがある元の世界に帰っていく……という結末にしたのは、文句なしに納得のいくところでしたけれども……。

 それにしても小さい頃に見たこの映画は、そんな悲しい話だったなんて印象一切なかったのです。むしろハッピーエンドの印象がありました。だから衝撃的でした。初見の楽しみは限りなくないはずだった今作で、かなり初見並みの威力に近い揺さぶりをメンタルに受けました。一本完結の映画ですし、なんやかんやつばきちゃんと離れ離れになるのだろうなぁとは思ってましたけど、こんな悲しい別れ方だとは知らなかったのです。そんな記憶ありませんでした。

 たしかに今作は、見方によってはハッピーエンドだとも言えるでしょう。けれど本当にあれだけ友情を、あるいはそれ以上のものを築いた二人があっさり永遠の別れを突き付けられるなんて。その後のつばきちゃんがどうなったのか、その後なんて概念がそもそも映画の中の人間にあるのかなんてことも何一つわからないまま、それでおしまいなんて、なかなかあんまりな話だと思います。

 そうして唖然とするままに、エンディングが流れ始めました。記憶の通り、しんのすけがつばきちゃんと手を繋いで、仲良さそうに踊っている。しんのすけはやはり身長の関係で、物理的に浮いていました。でも、それがなんかいいんですよね。何がいいのか言語化できないけど……。エモいってやつはこういうことを言うんだと思います。

 そのエンディングまで見終わって、今度こそ本当に映画はおしまい。クレしん映画愛好家の中で「ワーストで五本の指に入るつまらなさ」と評判な、三分ポッキリという別のクレしん映画のCMが流れて、DVDはメニュー画面に戻りました。

 

 結果の話になりますけど、ぼくは「あの頃の楽しい気持ちをもう一度」という目的を、果たすことができませんでした。そんな物帰ってきません。完全に、復元できなところまで失われたようです。

 今作は映画の世界に入って、そこから帰ってくる話でしたけど、昔のぼくはそれを見て本当に、一つの別世界を見て、そしてそれを堪能して帰ってきた気持ちになっていたんです。「つらいこともあったけど、それを乗り越えてハッピーエンドだ…………と思いきや……」という「映画の中のしんちゃんの結末」とは違って、つらさなんて感じないただ楽しいだけの時間だったけれど。その時はぼくも、大きな冒険を終えたような気分だったんです。

 もうそんな感覚は帰ってこないんだなと思いました。映画を冒険だと思えるほどのめりこんで楽しむことはもう出来ない。映画のことは「冒険する世界」ではなく、「人の作った作品」としか見れません。

 だから途中まで「つまらなくはないけど、なかなか話進まないな」とか思うし、映画がテーマの話に映画オタクが出てきたら「何か重要な役割があるんだろうな」と思うし、何かを研究している人が馬に引きずられていたら「あいつがキーなんだろうな」とか「いつになったらあの人と関わって話進めるんだ……?」って思ってしまうんですよ。

 その上さらに巨大ロボとか、春日部防衛隊の合言葉ネタとかもおぼろげな記憶とはいえ知ってる状態で見ましたからね。もういろんな意味で、「昔見た一度目」の、あの時の楽しさは帰ってこないんです。夜空を背景に最後の戦いが繰り広げられた時、夢の中にいるみたいな、物凄いわくわくを感じてたはずなんだけどなぁ……。

 今でも、眠っている間に夢を見る時だけ、すごくわくわくすることがあります。夢ですから、明らかにフィクションである世界観に「それが現実だ」と思って迷い込んでいるので、それはもう楽しいんですよ。楽しい夢を見てから起きた時、なんて素晴らしい体験をしたんだろうって気持ちになります。それが映画で欲しかった。でも無理らしい。映画と違って夢は狙って見れた物ではないし、困った。

 ぼくは大人になったので、あの頃は「3Dピンボール」と「スパイダソリティア」と「ギャラリオン」のためだけに存在しているように見えたパソコンを使って、カスカベボーイズの評判を調べられるようになりました。それで数日前、今日映画を見るより先に、こんな感想を見かけていました。

「カスカベボーイズのヒロインは、クレしんらしからぬ可愛さがある」

 その感想を見た時は、記憶を辿るとたしかに、今作のヒロインだけ強烈に印象に残ってたので、らしからぬ=異様な可愛さがあったのはその通りだろうと思っていました。

 けれど実際に映画を見てみると、それには別の意味もあるんじゃないかという気がしてきます。たしかにヒロインのつばきちゃんは他作品にないタイプの可愛さを持ったヒロインなんですけど、その「らしからぬ部分」は要するに、「別の世界の住人」という意味で、意図して作られたデザインなんじゃないかなという気がしたのです。

 思えばジャスティスに拾われたと言っていた彼女の話は、それはもちろん単なる偶然とも見られるけど、結末を知ってから思えば「物語を進めるため、そういう設定のキャラとして用意されていた」のではないかと考えられます。彼女がジャスティスの隠していた物を教えてくれなければ、ではそこに向かおうという流れは作れないはずですから。

 そんなふうに、あとになって思えば「映画の中の人物らしさ」を多く持っているヒロインでした。「ヒロイン」という存在そのものがそうなのです。彼女は我々視聴者から見てではなく、しんのすけから見た「ヒロイン」だったのでしょう。ヒロインは用意されている、主人公を助ける発明者も用意されている。しかし肝心の主人公がいない。それが「結末を求めて人を引きずり込む映画」だったということでしょう。

 当然ながら幼少期の自分にそんなことを考える能力はなく、今一度見直したところでそれに気が付けた点は、もう一度見てよかったと言える明確なところです。

 単なるハッピーエンドじゃない今作の、悲しさの部分をより理解できたので、それはとてもよかった。どうせ「人の作った作品」としてしか映画を見れないなら、いっそ理解を重要視したいですからね。

 最後に、この文章を書いている最中に見た動画に付いていた印象的なコメントを一つ取り上げて、今回の作文を終わりにしたいと思います。今作のエンディング映像の動画についていたコメントです。

「しんちゃんにとって初恋はナナコお姉さんだけど、初めての本気の恋はつばきちゃんだと思う」

 ……なおさら悲しくなりました。だからというわけではないですけど、ぼくは冷たい人間なので、映画で涙なんか出ません。けど、もしかしたらこれが、映画の感想における「泣ける」って感覚なのかなとは思います。

 以上です。

 

白い煙が手を振り見送る

 GWの連休に入る前の話になりますけど、桜の花びらが窓に染みついて(しかもたくさん)、電車が止まったんですよ。聞いてはいたけどまさか本当に止まるとは思ってなくて、ちょっと落ち込んだようなムカついたような感じがしたので、鉄板の中の水を投げ捨てました。沸騰していたのか定かでないです。

 自分が死ぬことと、自分以外の人が死ぬことは、無限に距離を取るという意味ではどちらも同じことなんですけど、そう割り切れたものじゃないですよね。戦争は小学校からずっとそうですし、花の茎を描く時に、虫と木を見分けなければならないのもそうです。

 プラスチックでもビニールでもなんでもいいですけど、それを丸めると、二日後どうなるか知ってますか? ぼくがちょくちょく人間相手に好意を抱くのを、それをもってして人間が好きと言うのは、ちょっと雑な考え方じゃないかと思うんですよね。色で言えば青、音で言えば揚げ物の、景色で言えば四駅以上離れた感じ。

 田んぼの中に何かが見えた……CDだ。しかし聞く前に流れていって、行方知れず。寝たら忘れるような、でもたまに思い出すような、微妙に嫌な記憶になってしまった。次は気を付けようと思うけど、それこそそんなこと頭から抜け落ちて、また同じこと考えるんですよ。それでいいのか、いつか取り返しがつかなくなるのか、誰に聞けばわかるんでしょうね。蛙ではないのは確かですけど。

 定規といえば3つあります。たまに三角定規で別の物があると思いますけど、それはいったん忘れて。で、どれが布団に似ているかというと、誰もが1mだと答えるでしょう。でもぼくは思うんですよ。磁石と嗅覚ってどこにいったんですか……? 有無を言わさずって感じの、そういうの嫌いなんですよ。

 マイナスにいくら進んでもプラスは近づかないし、むしろ遠ざかるじゃないですか。気を付けないと人間は不幸になります。それどころかもう一生。そういう人のことを真剣に考えるのは、ぼくはそれは医者か、ガラスか、でなければせいぜい何でしょう、薬かイチゴ? そのくらいかなと、そのくらいだと考えて、実行もします。簡単ですよ。引き返す、目をそらす、時計を見る。終わりです。

 じゃあ引きちぎってみろよって話でしょ。実際やってみたら懐かしい気持ちになりますよ、なんといってもロウソクのにおいですし。しばらく待つと手元のゲームが少し進んで、早く帰ることができる日はタオルを持ちましょうね。一週間が何日なのかまだ知らないので。

 砂漠から砂粒を見つけたってつまりどういうことかと、ぼくはまだ上手く説明できないんですけど、ダンボールを燃やすことに似ているかもしれません。お願いだからそれで伝わってほしいです。でもダメなんですよね、時速がもう少しズレてくれないと、迎えに行けない。

基本的に光よりも遅い夢

 ぼくが寝ている間に見る夢には、ある程度の法則性があるように思う。夢の内容ではなく、いつ夢を見るか、という点に法則があるように思う。

 その法則というのは、「現実の出来事や環境」などに関連している夢は、基本的にその「元となる現実」から一日以上経過してからでないと見ないのではないだろうか、という説である。いかんせん夢の話になると、どうしたって記憶が曖昧になってしまうから、あくまで仮説であるのだけれども。

 この説を思いついたのはつい最近のことで、ある平日の日の夜に友達と遊んだのだけれど、その日眠る時に見た夢は「ボロ負けする阪神。それをテレビで視聴してヤジを飛ばす自分と家族」であった。

 その阪神の夢を見た次の日、つまり友達と遊んでから一日経過したあとの夜に、今度はその友達が夢に出てきた。プライベートな話なので伏せるけれども、夢の内容もその友達と遊んだ時のことに関連していたので、「友達と遊んだ」という現実と「友達が出てくる」という夢には、ほぼ間違いなく関連性があると思われた。

 そこで気が付いたのだけれど、自分は以前日曜に、巨人にボコられる阪神を実際にテレビで家族と見ていた。つまり平日に見た阪神の夢は、日曜に体験した現実から一日以上経過した状態で見た「現実に関連する夢」だったのだ。

 思い返してみれば、例えばぼくが以前ここでの作文に書いた「鳩羽つぐの夢」なども、その日のうちに鳩羽つぐを見たわけではなく、まったく鳩羽つぐを見ていない別の日に夢を見ていた。そしてそのような「現実に関連する夢」は記憶を探れば探るほど、元となる現実から一日以上の間を置いてから、夢として現れていたように思えてくる。

 せいぜい高校時代までの記憶くらいしか探れはしないけれど、長期休みの間に夢の中に学校の先生が出てきたり、一切連絡も取らなくなっていた元カノが何のきっかけもなく突然夢に出てきたり、疎遠になった友達がやはり何の前触れもなく夢に出てきたり、ちょっと前に見たゲームの動画が元ネタになっている夢を見たり、とにかく現実が夢になるまでにラグがあったことが大量に思い出される。

 ただ、思い出せる中に一つだけ例外もあった。ゴミ収集のバイト一日目を終えたその日の夜に見た夢だ。ぼくは家にいるのになぜか作業着を着ていて、仕事でもないのになんでこんなもん着なあかんのじゃ!とそれを脱ぎ捨てると目が覚めて、実際にはかけ布団を投げ捨てていた……という夢である(脱ぎ捨てるところまでが夢、布団を投げ捨てたのは現実)。

 そのような夢を一晩で三度も見たので、つまり夜中に三度も目が覚めてしまったので、たかだか一日でこりゃダメじゃと思った当時のぼくは、翌日のバイトをばっくれたのだけれど、それはまた別の話だから置いておくことにする。

 このことから言えるのは、基本的に現実が夢になるには一日以上のラグを要するが、強烈に嫌だった体験は即日夢になるという「例外」も存在すること……なのだろうか? そのような気がするけれど断言はできない。

 ニートであるぼくにとって労働ほど嫌なことはなく、〇〇さえ得られるのなら労働にも耐えられるぜといった感じの、労働と釣り合う事柄が思いつかない。だから「例外」が発生する条件が「強烈に嫌な体験をした時」なのか、それとも「強烈に印象に残る体験をした時であり、それが自分にとって良い体験だったか悪い体験だったかは関係しない」なのか、確かめようがないところがある。だから断言はできない。

 それとまだ他にも判定に困る内容の夢がある。これは高校生どころか下手すれば中学時代に見た夢かもしれないけれど、以下のような内容の夢を見た。それは「デッキ内のコアクマンのおつかいの投入枚数を、3枚から4枚に調整した」という、当時よく遊んでいたカードゲームに関連する内容であった。

 その地味で身近で現実くさい夢に当時のぼくの脳みそは混乱させられて、実際に現実の方で「4枚も入れてるのにおつかい全然引かないんだけど! ……あれっ!? 3枚しか入ってない!」と夢と現実がごっちゃになった結果生まれる害に踊らされていたりしたのだけれど、夢の法則性の話をする上で重要なのはそこではない。

 要するに当時のぼくにとってそのカードゲームは「毎日触れる日課」のような遊びであったわけだ。何が言いたいのかというと、毎日触れている現実が夢になった場合、それが「即日夢化した現実」なのか「以前の現実が夢化した物」なのか区別がつかないのである。

 少なくとも「強烈な印象」が即日の夢化には必要だとする考えも、このあたりの曖昧さがあるので何とも断言しがたいことになってしまっている。そして「夢に法則性があるのでは?」という考えを余計に不確かな物とする要素はまだある。

 そもそも当然ながら全ての夢が現実に関連しているわけではなく、人物や場所(二次元を含む)や人間関係や世界の常識など、その他諸々一切の要素がまったく現実に関連していない夢だってあるわけである。現実に関連した夢に法則性があると仮定するとしたら、それら現実と無関係な夢についてはどういう判断を下せばいいのだろう?

 例えば昔見た夢の中に「自分は見知らぬ外国人(言葉は通じる)と一緒に白いボートに乗って無人島に漂流。島を探索するが生活感の無い古びた白い家屋しか見つからず、脱出の当てがまったくないまま日が沈む。辺りが真っ暗になるとすぐ、鬱蒼と木々の茂る山の中に突然、不自然に存在している上に稼働している上りのエスカレーターを発見する。それを登ってみるとその先にある山の頂上からは、自分たちの漂流してきた地点から山を越えた、島の向こう側の景色……キラキラと輝く夜景が見下ろせた」という内容の物がある。

 こじつけるのならテレビで外国人を一切見ない日はそう多くないし、テレビで見る外国人というと俳優である確率は高いので、このような物語として面白そうな、映画のような夢を見る理由になるのかもしれない。無人島という舞台も、鉄腕ダッシュを理由として語っていいならそれで事足りる。

 しかしそんな「言えなくもない理由」を元に夢を現実と関連付けていたら、全ての夢が現実に関連した夢扱いになってしまう。どこまでが現実に関連した夢で、どこからが現実とは無関係な夢なのか。そもそも現実と無関係な夢なんて存在するのだろうか、疑問は絶えない。

 ぼく自身の曖昧な感性で「現実と無関係な夢」と判断した夢は、現実と関連しないことそれ自体を理由に、よほど面白い内容である場合以外は大抵すぐに忘れてしまう傾向にある。ぼくは記憶を探れる範囲で「現実が夢化する際のラグ」を語ったけれども、そもそも全ての夢は多かれ少なかれ現実に関連しているのだという考え方をする場合、忘れてしまった夢が大量にある以上、データ不足すぎて法則も何も語れたものではない。

 ぼくの曖昧な感性が都合の良い部分だけを拾って夢化のラグを語りたがっているだけなのか、「現実と夢の関連性の濃度」と「夢化のラグ」に何か関係があるのか、そもそも初めからこの話に意味など一切ないのか、何とも断言できない。手詰まりである。

 かといって、結論がある話しかしてはいけないだとか、役に立たない話は無価値であるとか、ぼくはそのような考え方を肯定し切る気になれない人間なので、手詰まりなら手詰まりで別に構わないと思っている。この先何か進展があれば儲けもの、といった程度のことだ。夢のことに本気も本気で全力をもって真剣になれるほど、現実に余裕があるわけでも、研究熱心であるわけでも、メルヘンであるわけでも、気が違っているわけでもないのである。

 自分が見た面白い夢の話をするという目的は、すでに達成されている。

 

 

 

スイッチ版マリパ、サイコロ一覧

 今回はスイッチ版マリオパーティの作文に対するおまけです。初見プレイ時から月日が(一か月くらい)流れて、計4人いる隠しキャラも全員出したということで、それぞれのキャラ固有のサイコロを紹介しようというだけの内容です。その後ちょっと余談もあります。

 なお、「コインを増減させる出目」を持つサイコロを使うキャラに関しては、それぞれの出目を「+1」「-2」というようにコインの増減額で表記します。-1は1マス戻る効果ではなくコインを1枚失う効果であり、マスを進む力としては0と同等だということを忘れないようにしてください。

 

 

 

・強キャラ

クッパ

出目→「-3」「-3」「1」「8」「9」「10」

……今作屈指の強キャラ。ダントツで一番強い。通常のサイコロの出目を合計した数値(前に進む力)が21であるのに対して、クッパのサイコロの合計は28となっていて、出目の平均は通常の3.5に対して4.5を超える有り様である。

 前に進めば進むほどスターやショップやジュゲムというチェックポイント式の重要な要素を利用できる今作のシステム上、とりあえず振り続ければ確率的に通常サイコロよりも多く進めるこのキャラのサイコロは極めて強力。

 代償としてコインを3枚失う可能性を持っているが、今作での出目「0」は「進まない」ではなく「その場に再度停止する」という扱いなので、足元が青マス(コイン3枚入手の効果)ならコインの手持ち枚数は減ることがなく、足元がアイテムマスならコイン3枚と引き換えに新たにアイテムを得ることができるので、「出目の平均がとてつもなく大きい」という明らかに強力な強みに対して、代償が軽すぎて釣り合っていないと言わざるを得ない。

 明らかに強すぎる性能だが「8」「9」「10」のどれかが出なければ意味がない以上半分の確率で不発もあるため、不発込みで確率的に圧倒的な強キャラとはいえ、運が悪ければ不発だけが何度も連続で起こる可能性はある。

 また「今、2以上を出さなければスターが他人に取られる」などの状況が巡ってくることもそれなりにあるので、現実的に考えて毎ターン常にこのサイコロを振る振ることはできない。その二点が、運(とミニゲームの強さ)次第でキャラ性能をひっくり返せるのが、キャラ性能のバランスが微妙な今作の救い。というかそれこそが運と実力の合わさったすごろくの魅力。

 

ワリオ

出目→「-2」「-2」「6」「6」「6」「6」

……出目の合計が24の強キャラ。前に進むことが強い今作において、出目の合計が21を超えている時点でもう強い。クッパに比べると合計値と、ここぞという場面一回で出せる出目の最大値で大きく劣るが、数字が安定していることが強み。

 前に進むほど有利になる今作においても、前回の作文で強力だと散々書いた要素である「仲間」を得るための仲間マスに止まるなど、ピンポイントな出目が必要になる場面がある。ワリオは七割近い確率で6を出せるので、6マス先に止まりたいマスがある時にはクッパよりも強みを発揮することになる。

 その他にもクッパと違い「1」の出目がないため、絶対に1だけは出したくない場面でも活躍できるなどの特徴がある。……が、それらの強みはあくまでクッパと比べた際のことであり、それだけ独自の強みを持ちながら、そもそも出目の合計が大きい時点で大体のキャラよりも強いことを忘れてはいけない。

 

テレサ

出目→「-2」「-2」「5」「5」「7」「7」

……ワリオの亜種。合計値も失う可能性のあるコインの枚数もワリオと同じだが、数字がバラけたことでピンポイントの安定性を失っている。しかしその代わり最大値が7となっているので、進める数が6マス以下では意味がないという状況で強みを発揮できる。ワリオとどちらが強いと言い切ることはできないが、どちらにせよ合計値が大きいのでやはり強力。

 ただし、「合計値の大きさ」「最大値の大きさ」双方においてクッパが最強であることを忘れてはいけない。

 

 

・並キャラ

「マリオ」

出目→「1」「3」「3」「3」「5」「6」

……平凡オブザ平凡、弱キャラ一歩手前の主人公。合計値も最大値も通常サイコロと変わらず、ただ3が出やすいだけの内容。3が出やすいことと、2と4が出ないことを利用できる場面はそこそこあると思われるが、クッパに比べて主人公がこれかよというガッカリ感はぬぐえない。ワリオにも性能負けしている始末。

 後に続々と紹介するキャラを見てから改めて考えると分かるがとにかく個性がなく、強みも大した質ではなく、貧乏だけど器用とまでは言えない感じの人となっている。主人公なのに……。

 

ルイージ

出目→「1」「1」「1」「5」「6」「7」

……ほんの少し個性が出た平凡。1が多く弱そうに見えるが合計値は21なので、確率上は前に進み続ける力は通常サイコロと同じ。兄貴との最大の違いは最大値が7であること。通常サイコロはご存知の通り6までしか出せないので、それでは絶対に困るのだという場面でワンチャンス賭けることができる。7が出る確率は二割を切ってるけれど、それでも兄貴のような確率0とは天と地の差がある。無いよりマシってやつだ!

 ……と書けば兄貴よりも強そうに聞こえるけれど、そうとも言い切れずしっかり欠点はある。兄貴と比べた時の欠点は、向こうが「3以上を出せばいい」場面で八割を超える確率で振れるのに対して、こっちはその手の「通常サイコロより「成功」の確率を上げる」場面が一切ないこと。

 そしてこれは全キャラ通して言えることだけれど、通常サイコロより大きい数字を出すだけならクッパが一番強いことを忘れてはいけない。

 

ワルイージ

出目→「-3」「1」「3」「5」「7」「7」

……独特な出目のキャラ。合計値21で最大値7であるルイージよりも最大値の面が一つ多い代わりに、出目0かつコイン没収の「-3」を持っている。2・4・6と通常サイコロにある出目が三つも入っていないので、目当ての数を出したい時よりも、特定の数を避けたい時に使う機会が多いかもしれない。ルイージのようにワンチャンスに賭ける場面で7が二面あることでより勝率が高まっている。

 などなど、評価できる点はいくつかあるが、キャラ全体を通しても捉えどころがなく独特なサイコロとなっている。何より重要なのは結局のところ合計値が21なので、独特だろうと何だろうと、強キャラでも弱キャラでもない正真正銘の並キャラだということである。

 そしてこれは並キャラ全員に言えることだけれど、改めて言うなら並キャラは、勝つためのキャラ選びをする時に強キャラ三人衆を蹴ってまで選ぶ理由を何一つ持っていない。いくら出目に個性があってもそれを忘れてはいけない。

 

ディディーコング

出目→「+2」「0」「0」「7」「7」「7」

……隠しキャラのおさるさん。合計値は21なので前に進み続ける力は通常サイコロと同程度しか期待できず、7を出すことに特化したサイコロという位置づけ。と言っても確率は半々なので、他のキャラより特化しているというだけであって、ほぼ必ず出せるとはどう贔屓目に見ても言えない性能になっている。

 おまけのようにコインプラス2の面があるけれど、コインプラスの面は前回の作文のチョロプーの下りで説明した通り「0よりマシだけど1より弱い」という物なので、本当におまけと言った感じ。ぶっちゃけ出目が「0」三つでも評価は変わらない。

 

カロン

出目→「1」「1」「1」「6」「6」「6」

……いさぎよい出目を持った隠しキャラの骨。通常サイコロの最小値か最大値のどちらかを半々の確率で出すぜ、という単純なキャラ。合計値は21なので前に進み続けるためにこのサイコロを振り続けても意味はなく、このキャラのサイコロは他の用途で使うことになる。

 1か6を出したい時に活躍することに加えて、2~5を出したくない時にも使えるので使用機会はそれなりにある。また、前に進み続ける「継続の力」はないけれど、6が三面もあることで「ここ一番で通常サイコロの最大値6を出す」という「瞬発力」で優れているキャラだと言える。

 ただしこのキャラの強みのほとんどは、ワリオがより高いレベルで持っていることを忘れてはいけない。悲しいかなほぼワリオの下位互換。そして「半分の確率で大きな目を出す」という芸当は、よりハイレベルな領域ですでにクッパが行っているという事実もさらなる悲しみを誘う。強キャラがいるのなら並キャラでは価値がないという、対戦ゲームの世知辛さを一番分かりやすく表したキャラかもしれない。

 

「ヘイホー」

出目→「0」「4」「4」「4」「4」「4」

……超極端な出目のキャラ。ほぼ4出すサイコロを持っている。ピンポイントで数字を狙える強みと、通常サイコロに存在する出目の多くを含まないことの強みはこれまでに説明した通り。このキャラの特徴はピンポイント性が全キャラの中でトップであることと、それと引き換えに合計値が20しかないこと。振り続ければ確率上、通常サイコロを振り続けるよりも少ない数しか進めないことになる。

 総じて特徴的で個性はあるけど強くはない、かといって弱いというほどでもない、並キャラ界のアクセントとなるキャラである。出目が平凡で強さも平凡という単調なキャラばかりではせっかく作ったキャラ性能の概念そのものにきてしまうので、こういうキャラの存在は強いかどうか以前にゲームにとって大切だ。

 

「デイジー

出目→「3」「3」「3」「3」「4」「4」

……ヘイホーの亜種。数字がバラけた代わりに0が消えて、とりあえず確実に進めるようになった。ヘイホーと同じく合計値20はしかない。二面に減ったとはいえ通常サイコロに比べればやはり4を出したい場面で振るべき性能となっており、それに関しての精度がヘイホーに大きく劣る代わりに、こっちは3もピンポイントで狙えるようになっている。というか面の数からしてむしろそっちが本命。

 総評としては0を恐れて器用貧乏となってしまったヘイホーといった具合だけれども、4を狙う時しかお呼びがかからなかったヘイホーよりも振るべき場面が多く訪れるので「キャラを使っている感」がより多く得られて、結果として目的の数字が出るかどうか以前の、今作初の要素となる「キャラ固有サイコロを使う楽しみ」がより多くある。楽しいのは大事だ。

 ただしその楽しさは、とりあえず振っとけば強い強キャラ三人衆がデフォルトで備えていることを忘れてはいけない。

 

ドンキーコング

出目→「+5」「0」「0」「0」「10」「10」

……スーパーワンチャンス隠しキャラゴリラ。10を出すかその場にとどまるか、二つに一つの漢のサイコロ。合計値としては20なのでより多く進み続けるために振る物ではないが、ゲーム中で一番瞬発力に優れた性能になっている。

 ショップやジュゲムと違ってスターは一つ取るたびに場所が変わるので「他者より先に、他者より早く、他者より前へ」が求められる場面は意外とあり、通常サイコロでのんびりしていたら結構な確率で他人に取られる……という距離でワンチャンス振る機会はそこそこある。ただしあくまでワンチャンス(失敗率の方が高い)なので、明らかに強いというわけではない。

 また、大きな出目を持つほぼ全ての並キャラが「その長所はクッパでいいじゃん」と言われる中で、このゴリラだけは10の二面という唯一無二の個性を持っている。10を出さなければいけない場面での成功率なら誰にも負けない。クッパにさえ負けない。

 ただし9でもいいとなるとクッパに並ばれ、8でもいいとなると追い越される。0を出す確率の方が大きいリスクを背負ってでも10ピンポイントを狙う必要がある場面って、いったいどれくらいあるんだろう……(遠い目)

 

「プンプン」

出目→「0」「3」「3」「3」「3」「8」

……プレイアブルの中でぶっちぎりにマイナーな隠しキャラ。3を出しやすい、最大値8を狙えるなど、長所はある。しかし並キャラの中だけで見ても(ここ重要)、特定の数字の出しやすさならヘイホーが、最大値のワンチャンスならドンキーがより高い性能のサイコロを持っている環境において、長所がそれだけでは器用貧乏と言わざるを得ない。

 振れる場面が多い代わりに個々の場面で目的の数字を出す「成功」の率は低い、ある意味「キャラ固有サイコロを使う楽しみ」に全てを捧げたキャラと言える。そういう意味ではデイジーに似ている。まったく違った出目のキャラと本質が似る珍しい例。

 

 

・弱キャラ

「ピーチ」

出目→「0」「2」「4」「4」「4」「6」

……マリオが弱キャラ一歩手前ならその嫁はもっと弱かった。4の出しやすさでヘイホーに劣り、必ず前に進めるという利点もなく、期待値だけは20と通常サイコロを下回っている。他キャラと比較して強い部分が一つもない。

 

ヨッシー

出目→「0」「1」「3」「3」「5」「7」

……合計値が異様に低い恐竜。7が一面あるという点でルイージと同じであり、特徴と呼べる特徴はそれくらいの物なのに、なぜか合計値が19しかない悲劇のキャラ。単純に無個性で弱いとか、かわいそうすぎる。

 

「ノコノコ」

出目→「1」「1」「2」「3」「3」「10」

……残念なカメ。小さい数字ばかりと見せかけてワンチャンス10が出る……という個性にしたかったのはわかるけれど、10を出すならゴリラがいるので、こいつはゴリラと違い0がないことを活かしていかなければならないことになる。

 が、そうなってくると中途半端にバラけた数字が苦しく、何かを避けるにしてもどこかを狙って止まるにしてもイマイチ信用できない。特に「4~6先のマスに止まりたくない」場面でそれを避ける目的で使うと、10以外の目が出れば結局次のターンそれらのマスを通常サイコロで普通に超えなきゃならなくなるなど、望ましい結果を出せる可能性が明らかに低く、総じて残念性能と言わざるを得ない。

 おまけに、なぜか合計値も20しかない。せめて21にしてくれればいいのに、振るだけで確率上損をするのは痛い。

 

クッパジュニア

出目→「1」「1」「1」「4」「4」「9」

……父親にはまだまだ及ばないジュニア。最大値9が目を引き、その横にそこそこの出目4が二面並ぶが、他が1しかないので合計値は20としょぼい。そして何度も言うように最大値を狙う目的なら全キャラ通して言えば父であるクッパが、並キャラまでを見てもドンキーがいるので、存在意義としてこの出目9だけでやっていくのは厳しい。

 最大値を外した場合の出目がそこそこ偏ってくれているおかげで最大値が1劣るもののノコノコよりは使いやすい場面が多く、クッパと言うよりはノコノコの亜種と言えるのかもしれない。父の背中は大きく、そしてまだまだ遠いのだ。

 

 

「チョロプー」

出目→「+1」「2」「3」「4」「5」「6」

……我が家で最も早く発見された弱キャラのモグラ。たった一枚のコインなんかどうでもよくて、1が出ないことがこのキャラの強みになるわけだけれども、特定の数字を出さずに通常サイコロ並みの前に進む力を持ったキャラなら腐るほどいる。合計値20のモグラがそれらに勝る点はたったのコイン一枚。いくらコインに価値があるとはいえ、一枚では限りなく無に近い。

 

ハンマーブロス

出目→「+3」「1」「1」「5」「5」「5」

……5が出やすい、ただそれだけのキャラ。同じ確率で6を出せるカロンに勝る点はコイン三枚、劣る点は合計値が悪い意味で驚きの17ということ。合計値が21を下回る時点で強キャラとの間に越えられない壁があるというのに、その中でも最弱の17である。どう考えてもコイン三枚じゃ釣り合ってない。

 そうなったから評価が変わるというわけではないけれど、ドンキーでさえコインプラスの一面は「+5」だったんだから、このキャラも五枚くらいくれてもいいんでねーの?

 

クリボー

出目→「+2」「+2」「3」「4」「5」「6」

……チョロプーの亜種。コインを得られる確率と、得られる枚数そのものが強化されたかわりに、合計値は18になってしまった。ジュゲムの手前など、この場に留まってコインを貯めたい場面は確かに時々あるものの、それはあくまで時々である。大きな数字を出して進みたい時の方が圧倒的に多い。

 また今作の出目0の仕様と、毎ターン終わりに行われるミニゲームの結果次第でコインがもらえることから、その場でコインを貯めたい時はコインプラスの出目ではなく「0」で十分なことが多い。

 そこを考えるとこのキャラはミニゲームで勝ちづらい人向けの性能をしているのかもしれない。だからなんだという話ではあるものの、存在価値が見いだせることは弱キャラ界において結構貴重だ。

 

ロゼッタ

出目→「+2」「+2」「2」「3」「4」「8」

……クリボーの亜種。最大値8を手に入れた代わりに合計値はさらに下がって17と、ハンマーブロスと二人仲良くワースト1位。ただしそもそもクリボーのサイコロを振る機会なんてそう多くはないので、最大値のワンチャンスを狙える分こっちの方が合計値は低くても強いかもしれない。あくまで弱キャラであるクリボーと比べて、だけれども。

 

 

 ……と、そんな感じで、今作には計20人のキャラクターがいます。

 紹介した通り大体のことは強キャラ三人衆が最もハイクオリティにこなせてしまうので、性能のバランスという点ではイマイチな今作だけれども、それでもそもそも「追加の固有サイコロでキャラ性能を生む」という新たな試みで、20個とかなり多数な、それでいて個性豊かなサイコロを考え出したことは称賛に値すると思います。(一部、ピーチやヨッシーのような意味不明な物がいるのが残念だけど)

 しかし、それでもあえて性能とバランスの面だけを見て話をするなら、今作の固有サイコロのバランスが悪くなってしまった原因は、強キャラ三人衆が全員コインマイナスの面を備えていることから「コインの増減の価値を重く見積もりすぎた」ことだとわかります。

 コインマイナスの価値を重く見積もりすぎた結果「重いデメリットがあるから合計値が大きくてもいいか」と強キャラ三人衆が生まれ、弱キャラについてもクリボーハンマーブロスのようなキャラガ「大きなメリットがあるから合計値が低くてもいいか」という流れで生まれてしまったように見えます。

 けれども実際のところ、「せいぜい数枚のコイン」が「大きく進める可能性」以上に重い価値を持つことはありませんでした。仮に強キャラたちが一面でもいいので、コインを10枚以上失うデメリットを持っていたら、振ることを躊躇するサイコロになり「確率的に強すぎる」から「ハイリスクハイリターン」になれていたかもしれません。

 コインを得る効果を持つ弱キャラたちはもっと深刻で、改善しようと思うとゲームシステムそのものを変える必要が出てくると思います。というのも、コインだけあっても前に進めなければそのコインを有効に使うことができないので、合計値が低くコインが増える可能性のあるサイコロは、ちょっとやそっとコインの増える幅を大きくしたところで強くはならないからです。

 強キャラのサイコロはコインマイナスの値を大きくすれば、「進んだはいいけどコインがなくて何もできない」という状態を生み出すリスクになるので、それで今よりはマシになるでしょう。しかしコインプラス系の弱キャラはそもそも進みにくい以上、コインをより多く与えても大して意味がない。

 以前にマリパ8はどうすればマシになるのか、という話をした時にも同じことを言いましたが、今回の件もこれを解決する方法は「通販システム」だと思います。要するにショップに行かなくてもアイテムをその場で買えるシステムです。今作はそれを採用しておくべきだったのでは、という気がします。

 コインを得れば進まなくてもその場で「一応使える」ようにしておけば、出目が小さすぎてまったく使い時が来ないという状況を無くせるので、コイン系の弱キャラを救済できると思うのです。

 と言ってもショップとまったく同じ条件で買えるようにしてしまうと、コインを稼いだ人がサイコロの出目に関係なくガンガン有利になっていくような、実力重視に偏ったゲーム性になってしまうので、これも前に言った時と同じように何かしらデメリットを付けるべきです。あくまでその場で使えるコインは「一応使える」でなくてはなりません。

 具体的には、ショップで普通に買うより割高とか、通販らしく届くまでターンを要するとかでしょうか。コインを支払ってから実際に手元に来るまでにラグがあるとか、時代に沿って生まれた新たな試みっぽくて面白そうですけど、どうなんでしょうか? もちろんそれだけだと結局手に入る分普通に強いから、割高であることは大前提ですけど。

 難しいのは割高というのを「どれくらい高くするのか」ということです。今作がサイコロの件でコインの価値の重さを見誤ったように、結局そこの調整を誤ればあまり良い出来とは言えないゲームが生まれてしまうに決まっています。そしてどう調整すれば面白くなるのかなんて、ぼくにはわかりません。言うだけなら簡単ってやつですね。

 しかし通販システムを採用すれば、コインプラス系弱キャラを救済できる可能性が生まれると同時に、ショップという「進むほど優位になる要因」を相対的に弱体化できるので、強キャラ三人衆たちの力も下がることになりますし、やっぱり丁度いい調整になる気がするんですよね。

 それもまた「見誤り」なのかもしれませんけど、とにかく次作でもキャラ固有サイコロを出すなら、そのあたり調整を入れて欲しく思います。ただし調整するにしてもその時、間違ってもコイン増減の出目の存在そのものを消すというようなことはしてほしくないです。

 コイン系の調整に難があるからといって、出目にコインの増減を使うことを禁止してしまうと、ピーチやヨッシーのような意味不明な無個性弱キャラがさらに増えてきてしまいそうですもんね。そんなことになるくらいならキャラ数を減らすか、やっぱりマリオパーティはキャラ性能無しの方針でってことにする方がいいと思います。

 ……以上、おまけでした!

スイッチ版マリパが初見の印象より実際は面白かった話

 ↓前回までのあらすじ↓

arisu15849.hatenablog.com

 

 というわけで、スイッチマリパ(正式名スーパーマリオパーティ)は、観測時期をマリパ8発売から現在までに絞ると過去最悪の出来なのではないか、という説をぼくは前回書きました。

 これを撤回します。

 前回「あくまで一回しかプレイしてない感想だけれど」と前置きしていたわけですけれども、しばらく新作マリオパーティをプレイしてみたところ、あの初見の時の感想は、まったく的外れで役に立たない物だったことが判明しました。

 以下、プレイしていくうちに発覚した要素を挙げながら、マリパ新作は初見時の印象よりずっと面白いゲームだったことを説明していきます。

 

 

☆初見時は知らなかった要素

その1 ジュゲム

……各マップに設置されているシステム。チェックポイント式(停止ではなく通過で発動する)のイベントになっていて、その名の通りジュゲム(マリオカートでコースアウトした時に連れ戻してくれるアイツ)が現れてプレイヤーをサポートしてくれる。

 具体的にジュゲムがやってくれるサポートは以下の二つ。

・無料で指定した相手からコインを10枚前後奪ってきてくれる

・30コイン支払うことで指定した相手からスターを1つ奪ってきてくれる

 

その2 無し

……ありません。その1で以上です。

 

 

 ……というわけです。プレイを続けるうちに明らかになった要素はすごろくモードに限って言えば、隠しキャラのキャラ固有サイコロ以外はこれしかありませんでした。ジュゲムしかありませんでした。

 しかしこれが重要なのです。死ぬほど重要です。今作のゲーム性は、ジュゲムがあるのと無いのとでは天と地の差ができます。月とすっぽんです。今この文章を書いてるニート20歳と、広瀬すず20歳くらいの違いがあります。

 そもそも前回ぼくが「今作のすごろくはゲーム性がゴミカスうんちっち」と言っていたのは、過去作に比べてプレイヤー全体に供給されるコインは増えたのに、勝敗に直接結びつく要素であるスターを取るためのコインが非常に安くなっていたからです。それによってコインは余り、余ることでコインの価値は軽くなり、コインの価値が軽いせいでミニゲームの価値まで軽くなり、結果としてミニゲームの勝利がすごろくの勝利にまったく繋がらない、重度の運ゲーが完成していると思ったからです。

 しかし、その感想はジュゲムの存在を知らなかった頃の話です。ジュゲムがいるとなれば、30コインでライバルからスターを強奪できるとなれば、話は180度変わってきます。

 「奪う」というのは「得る」よりも強いです。マリオパーティのすごろくが自身のスター獲得数最高記録を目指すゲームではなく、他人より1つでも多くのスターを獲得して勝利することが目的のゲームである限り、奪うは得るよりも絶対に強力です。

 他人から奪おうと、自力で得ようと、「自分のスター」は「1つだけ増える」ということに変わりありません。しかし「奪った人」と「奪われた人」の間では差が2つ開くor縮まることになります。1位を狙うにせよビリを回避するにせよ、適切な相手から奪うという行為は、実質ほぼスター2つ分の価値があるのです。

 自分より1つ多い相手から奪えば1の差をつけて逆転、自分より2つ多い相手から奪えば同点に、自分より1つ少ない相手から奪えば差を1から3へと一気に広げることができる。スターを奪う、それも自分で指定した相手から確実に奪うというのは、単純に自力でスターを得ることよりも大きな成果を成します。

 しかしそれでもジュゲムでスターを奪取するには30コインが必要なので、一見すると「奪うことが実質スター2つ分の成果を成しても、スター1つ10コインの相場では割に合わない」という風に見えるかもしれません。が、割に合わないとか、全然そんなことはないのです。

 このゲームで「とにかく前に進むこと」が強いのは、コインをいくら持っていても目的地にたどり着かなければスターを取得できないことが理由です。例え30コインを持っていても、スターのある場所に三回行かなければそのコインを全てスターに変えることはできません。しかしそうしてマップを走り回るうちにコインはさらに貯まりますし、何より10ターンしかない試合の間で、自分が三回もスターに止まれる状況は中々の幸運です。そう頻繁にあることではないでしょう。

 実際ジュゲムを発見する前の試合では結局スターに変えられなかったコインが山ほど余りました。そんな環境においてジュゲムは実質的に「割高である代わりに、一括でスターを2つ買えるシステム」なのです。30コインのうち20コインはスターの代金、残る10コインは損をしているのではなく、それで「目的地に行くまでの時間」を買っているのです。

 とにかく前に進むことが強いゲームにおいて「実質的に前に進んだと言える効果」はとても強力で、10コインでそれが買えるなら安い物でしょう。ジュゲムは余り安いコインを上手く勝利に結びつけながら処理する強力なシステムであり、これ無しで今作のすごろくは成立しません。

 しかし、初見時のぼくはこのジュゲムの存在をまったく知りませんでした。縛りプレイをしながら遊んでいたような物です。そりゃクソゲーにも見えます。けれども実際は、今作のマリオパーティのすごろくはクソゲーなんかじゃありませんでした。今作のすごろくは、ジュゲムを前提にゲームバランスが作られていたのです。

 ジュゲムの判明によりコインは価値を取り戻し、それに従ってミニゲームも価値を取り戻し、サイコロの運とミニゲームの実力が混ざり合って勝敗につながる楽しい楽しいマリオパーティが帰ってきました。

 いや、それは初めからここにあったのです。ぼくが気が付けなかっただけで、ジュゲムも、青い鳥も、初めからここにいたのです。マリオパーティ万歳!

 

 

 ……と、完全なハッピーエンドになってくれればぼくも嬉しかったんですけど、実際のところはそうもいきません。諸悪の根源であるコインの価値の死が幻覚だったことを見破ったので今作マリパクソゲーを脱出しましたが、じゃあ良作なのかと言われると、ちょっと首をひねりたくなる要素がいくつかあります。

 以下、それについて話していきます。

 

☆今作の問題点

その1 キャラ性能

……今作はキャラが常に固有の特殊サイコロを持っているので、マリパ史上でおそらく初めて、キャラごとの強さに差が出ています。そして前回の作文で話したテレサなどの強キャラの存在も確認されています。

 キャラ性能に差が出ると、ゲームが始まった瞬間から不平等な状況でスタートすることになり、すごろくにおいてこれは無視できないことです。少しくらいの差なら楽しめなくもないですが、無視できないくらい大きな差が生まれると、さすがに厳しくなってきます。(ドラえもんひみつ道具王決定戦がそうであったように)

 プレイを続けたことで隠しキャラも全員出てきて、ゲーム中に登場する全てのキャラ固有サイコロの出目が判明したので、まずはここで今作の強キャラの定義と具体例について説明しておこうと思います。

 まず定義の方ですが、このゲームはサイコロの出目が大きいほど強いゲームなので、強キャラは「通常サイコロより出目の平均が大きいキャラ」とします。通常サイコロの全ての面の出目を合計した数値は21なので、これよりも合計値が高いキャラが強キャラです。今作には三人います。

 まず前回言った通りのテレサ、合計値24です。続いてワリオが同じく24で、テレサと並び同率2位となっています。

 問題は唯一かつダントツの一位、クッパです。その合計値はなんと28。出目の平均にすると、通常サイコロが3.5のところをクッパは4.6以上。クッパサイコロを振り続ける限り、その出目は強キャラ以外のキャラと比べると確率的に常に1多くなるということになります。強すぎです。

 あれほど「追加で1~2のサイコロを振ってくれる仲間システムが強い」と言っていたのに、クッパだけは開始早々に1しか出ないサイコロを振ってくれる仲間を連れているに近い状態にあるのです。もう一度言いますけど、強すぎます。

 一応これら強キャラの共通点として「コインを没収される出目(進めるマスは0)がある」ことが上げられるので、制作側としてはそのデメリットで均衡を取ったつもりだったのでしょう。しかし今作は「出目0は進まないのではなく、もう一度足元のマスに停止する」という仕様になっているので、青マス(コイン3枚がもらえる効果)やアイテムマスの上に立ちながら強キャラが固有のサイコロを振れば、そこまで大きな損失なく、他者より多くのマスを進むチャンスが得られることになります。

 正直言ってここのバランスはクソです。一番強いクッパでさえコイン没収のデメリットはたったの3コインなので、足元が青マスなら相殺できる程度という極めて軽いペナルティしかありません。このペナルティが敗北に繋がるケースは、固有のサイコロでより多く進んだことが勝利に繋がるケースよりずっと少ないでしょう。

 またキャラ性能という概念が生まれることの常で、勝つことを第一に考えた時に、強キャラ以外を使う価値がまったくなくなってしまう問題も、今作はしっかりと持ってしまっています。〇〇を使うならクッパでいいじゃん、ワリオでいいじゃん、テレサでいいじゃんとなってしまいます。

 マリオパーティは四人で遊ぶゲームなので、せめて強キャラが四人いてくれればまだよかったのですけど、いやそれもダントツ強いクッパがいるからダメか……という感じです。キャラ固有のサイコロがあること自体は確かに新鮮で楽しいのですが、ゲームバランスの出来だけで見れば、無駄に過去作より劣ってしまったと言わざるを得ません。

 ただ、どれだけ言っても所詮はサイコロなので、いくら確率が有利だろうと運が絡みます。クッパだって100回使えば100回誰よりも多く進めるというわけではないので、そこが救いとなってドラえもんの時のようなことにはなっておらず、向こうに比べれば今作はキャラ性能の差込みでもまだ全然楽しいです。

 繰り返します、ゲームバランスに多少の難はありますが、それでも今作は楽しいです。

 

その2 マップの質と数

……まず、今作にはマップが4つしかありません。ルールが似通っている過去作のマリパ8では6つ、ルールに大きなテコ入れがあったその次のマリパ9では6つ+おまけが1つ、自作マリパ10で5つに減ったものの、wii時代までの過去作を見ると「4つ」というのはあり得ませんでした。

 今作をすごろく単体のゲームとして見ると、恐ろしいほどのボリューム不足です。ぼくも実際マップ4つではさすがにすぐ飽きました。10の時点で1つ減ったことで若干のボリューム不足を感じつつ悲しんでいたのに、今作のこれは大きな問題点だと思います。

 さらにつらいことに、4つのマップのうち1つの質が明らかに悪いです。どういうことかというと、1マップだけジュゲムがチェックポイント式ではないのです。挙句に「ジュゲムが出るマス」はそのマップにはありません。「ジュゲムが出る「可能性のある」マス」だけがあります。頑張って止まったあと、運に身を任せなければなりません。しかもそのマスは「チェックポイント式のジュゲムだって1つしかなかったでしょ?」と言わんばかりにマップ中たった1つです。

 ジュゲムを前提に今作のゲームバランスが作られていることは話した通りなので、ジュゲムの確定どころがないマップではまともに戦えません。しかもそのマップは地形が大きく二つに分かれていて、特定のマス(ワープ効果のマス)に止まらなければそれを行き来できない仕様なのに、各所であるイベントがプレイヤー全体でとはいえ「〇〇回目に停止(あるいは通過)した時に効果発動」という物が多いというおまけ付きです。

 そんなイベントを設置されても、ただでさえワープマスに上手く止まらなければいくら大きな出目を出しても思い通りに動けない状況なのに、そうそう起動できるわけがないです。挙句の果てになぜか、一回止まっただけでスタート地点まで戻されるイベントマスはきっちり設置されています。動きの不自由さは最高潮です。

 ただでさえジュゲムを使おうと思ったら(ランダム要素を考えないとしても)しっかり狙ったマスに停止しなきゃいけないのに、そんな状況で他の複数回停止しなきゃ成立しないイベントが発動するわけがないんです。このマップだけ制作者は馬鹿なんじゃないかという気がしてなりません。

 正直、そのマップだけダントツで全っ然面白くないです。ジュゲムが半分不在なこととイベントが全然起こらないことで、バランスが悪ければ楽しくさえないクソゲーになっています。ある意味理屈通りなので「ちゃんとクソゲーになっている」と言える状況ですが、そんなの証明されても全然嬉しくないです。

 しかもそれが4つしかないマップのうちの貴重な1つなので救えません。今作のマップは実質3つです。すごろくだけで見た場合、とてもフルプライスの代物とは思えません。

 たださっきのキャラ性能の差の話と同じで、こちらにも擁護点があります。今作はすごろくが貧弱な代わりに、その他のモードが充実しているのです。すごろくとミニゲームのフリープレイの他に、マリパ9でサッカーとボウリング、10でバトミントンと来ていた恒例のおまけモードが今作では野球盤としてしっかり受け継がれている上で、なんとそこからさらに別の大きなモードが2つ用意されているのです。

 CMでも映っていた「川下りモード」と「ほぼリズム天国モード」(当然どちらも正式名ではない)の出来はなかなかで、すごろく以外にこれほど大きな別モードが搭載されているのは初めてです。それを思えばすごろくのボリュームがいつもより少なかったのも、まあそれなりに納得できます。

 ただ。今回はすごろくの話に絞って書いているので詳しくは書きませんが、上記の2モード自体にもそれなりの問題点があることは事実です。それとマリオパーティといえばすごろくというイメージが過去作から続いているので、追加した新要素のために大本命のすごろくをボリュームダウンしていいのかと言われると、少なくともぼくとしてはあまり肯定的にはなれません。

 ……という感じで問題点は拭いきれませんが、キャラ性能の話の時と同じで、それでも総じて楽しいゲームだと言えます。前回の作文に書いたような「過去最悪」ということはないと思います。すごろくがしっかりしてないせいで「過去最高」にもなれないのが悲しいです。

 

その3 テンポが劣悪

……これが今作の最大の悲しみかもしれません。

 キャラ性能の差はプレイヤー全員が自重すれば解決、ミニゲームを苦手とする人が強キャラを使うなどすればむしろ良い物となる可能性がありました。マップの数が少ないこととその上で1つのマップがクソゲーになっていることも、逆に言えば他のマップなら少ないとはいえ確実に楽しめるということです。

 しかしこの「テンポが悪い」という点だけは、すごろくを遊ぶ限りどうやっても付いて回る問題です。回避不能、見て見ぬふりができない要素なのです。

 具体的には、まずスターの移動がクソ遅いです。マリパ8では一度たどり着くたびにスターが別の地点へ移動する場合単純なワープで移動していましたが、今作ではキノピコが風船で毎回毎回ゆ~~~くりと次の地点へ移動して、それからそこにスターが出現します。めっちゃ遅いです。

 次に、何回遊ぼうとキノピオが解説を入れてくるという点です。今作を何度繰り返し遊ぼうと、同じマップを何度繰り返し走り回ろうと、キノピオは必ず、

「今手に入れたアイテムを使ってみませんか?」

「スティックを横に倒すとサイコロを(通常とキャラ固有で)入れ替えられますよ!」

 などのアドバイスを入れてきます。そしてマップを見ようかと思ったら、

「このマップはこういう特徴があります。こう動くのがおすすめです!」

 という話を毎回突っ込んできます。しかもさっきまでのアドバイスと違って、マップを開いた時のアドバイスボタンを1~2回押したくらいでは終わってくれません。

 これが何度遊ぼうと条件を満たすたびに毎回入ります。というか普通に遊んでいたら毎回条件を満たします。「うん、知ってる」という情報がひたすら入ってきてテンポを阻害するのはなかなかのストレスです。

 せっかくマップ開始時に「このマップは初めてですか?」と聞くのだから、そこの返答次第で以降アドバイスを入れるかどうかくらい変えてくれればいいのに、この劣悪テンポは非常に残念です。擁護できません。

 また、誰かがスターを手に入れるたびにいちいち長いムービーが入るのもテンポを悪くしている要因の一つになっています。ムービー中に現在の順位表などが公開されますけど、そんなのわざわざ見せられなくても把握できますし、何よりさっき言った通りスターの移動がクソ遅いことと合わさってしまっているので、スター関連のテンポが本当に悪いです。

 もう一度言いますけど、これらテンポの問題については擁護できる点がありません。だからといって即座にクソゲー認定するほど重大なことでもないのですけどね。

 問題点はこれで以上です。

 

 

・結論

 スイッチ版マリパはすごろくが思ったより良いゲームバランスになっていて、なおかつ8の頃のようなこともなくちゃんとミニゲームが楽しく、操作しやすいです。さらに新たな試みですごろくとは別なモードがいろいろ入っていて、新しい面白さが開拓されていたのも確かです。当然ながら前回の作文での感想は撤回します。

 しかしそれでもやっぱり問題点は多いので、これは前回言った通り、次回作が神ゲーになることを祈ります。次回作を作文で褒めちぎる日がとても待ち遠しいですね!

 

 ↓一年越しの続き↓

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