Z指定が、魂の力を表現するマシンなら……。

※この作文は書かれてから公開の間に二か月以上が経過しています。




 数年前のアメトークで、バカリズムが要約してこのような話をしていた。

「オムニバス形式のAVが暗転した時、画面に悪魔のような顔が映った。反射した俺の顔だった」

 この話で言う「悪魔のような顔」とは、無表情のことだ。しかし悪魔と例えるからには、単なる無気力ではなく、何か迫る物のある無表情だったのだろう。
 そういう話は、少なくとも男性にとっては、いわゆる「あるある系」の笑い話だけれども。ところで次の話を聞いてほしい。風俗嬢の語る嫌な客……という、これもまたよくあるテーマの話。その一部にこんな内容があった。

「それとこれは別に嫌ではないんだけど、無表情でただ黙々と乳首をいじってくる人は、それ楽しいの……? と思ってしまう。楽しくないならやめてほしい」
 
 さて、バカリズムの話を思い出してほしい。そう、男性はエロに向き合う時、基本は無表情なのだ。画面に反射した自分の顔が、にやけていたり鼻の下が伸びていたりという話は、あまり聞いたことがない。シチュエーション自体はあるあるなのにも関わらず。
 無気力の無表情と、真剣の無表情を区別してもらえないと、「それ楽しいの……?」という感想だって出てきてしまう。しかしエロに向き合う男性が基本無表情ということは、エロに向き合う男性は基本真剣だということだ。
 手術を行う医師のように、あるいは全財産をつぎ込んだギャンブラーのように、我々男性はエロに対して真剣で、向き合う時はいつも無表情なのである。
 ……と、まぁ他の人がどうかは知らないが、ぼく個人としては冗談抜きに、エロに対して……というか性欲に対して真剣である。
 性欲には謎が多い。なぜあるのか、どこから来るのか……。そんな宇宙に想いを馳せるような謎もあるけれど、しかし、ぼくは今挙げたような内容には興味がない。もっと言うなら、そんな壮大なことを考えていられる余裕がない。
 ぼくの思う、性欲の最も厄介な謎とは、それは、満たしても幸福感がないことだ。同じ三大欲求である食欲と睡眠欲は満たし終えたあとにも満足感がある。けれど性欲だけは違う。後に残るのは賢者タイムと呼ばれる、満足感とは程遠い感覚だけ。
 実際ぼくは賢者タイムになると、いつも後悔してしまう。エロの何がそんなに魅力的だったのか、これっぽっちもわからなくなって、それに費やした時間や気力を思い返すと、それが急に恥ずかしくなってくる。一人でしていたならまだしも、相手がいた場合なんかなおさら、申し訳ないという気持ちが湧いてきて、満足どころではない。
 男はみんなエロに真剣で、当然ぼくも真剣だ。そこに来る、今まで真剣に向き合ってきた物への熱意が、突然失われる感覚。それがぼくは大嫌いだ。燃え尽きたなんて表現は間違いで、あれは「喪失」でしかない。
 賢者タイムとはよく言ったもので、それが賢くなるということなのだとは思う。本当は、性欲のままに動いている間の全てが、愚かで無駄なことなのだ。馬鹿なことをしたと、全てが終わってから気付く。賢くなる。これが他の欲求・欲望だったら、「失敗」と思うことはあっても、「無駄」なんて思うことはないだろうに。
 適度に馬鹿な方が楽しく生きられる、なんて話もあるけれど、賢者タイムになるとどうもそれが真理のような気がしてくる。そして実際、数時間あるいは数分で、自分は馬鹿に戻る。その繰り返しだ。
 お腹がいっぱいになるまで食べて、お腹が空くまで待って、またお腹いっぱい食べる。そんな食欲の無限ループには幸福感が無限に付いてくる。けれど性欲のループにはそれがない。幸福感はループ一回の道中で、毎回ゼロどころかマイナスに戻る。ぼくはそれがつらい。欲を抑えるのもつらいが、欲のままに動いてもつらいとは、どういうことなのか。どうしろというのか。
 ……ということをずっと思いながら、ぼくは性欲との付き合い方について、少しも上手な答えが出せないでいる。当然、解決策も見当つかない。何度も言うけれどぼくは性欲に真剣だ。けれど、満たしても幸せになれない欲は嫌いだ。そんな物持っていたらつらいから。だからせめてそれを、満たせない欲に変えたい。
 どうにかして酒池肉林をこの手に収めれば、それで自分は満足できるのだ……と確信したい。「どうにかして」の部分の実現が確実に不可能でも、それはそれで別にいい。欲とは大抵そういうものだから。
 今は、仮にこの世の法則をねじ曲げて理想を追いかけても、結局最後は賢者になって、幸福感を失ってしまうような気がする。きっとそうなる。そういうことが見え透いているのは、気持ちとして困るのだ。メンタルに悪い。性欲で病むなんて勘弁してほしい。
 そういうわけでぼくは最終的に、「これが実現すれば、賢者タイムなんか怖くない」と思える物を探して、妄想の世界に飛び立つことにした。もちろん、無表情で。





 一つ仮説を立てた。中途半端に欲を満たすのが良くないのであって、一度これ以上はないというほど満たしてしまえば、満足感が賢者タイムの喪失感を上回るのではないか……という説。
 そうと思ったからには、その仮説をシミュレーションしてみたいわけだけれど、そこで一つ問題が出てくる。いくつか前の記事でちょろっと話したように、ぼくの性欲は趣味が悪い。現実的に考えて、それを全て受け入れてくれる相手なんて、そんな人間はいるはずがない。
 ……というわけで、じゃあ人間を超越した存在がこの世に現れたらどうか? ぼくの性欲は底をついて、賢者タイムを克服できるのか。そう考え始めて、妄想はいきなり宇宙の彼方まで飛躍した。
 逆に言えば、本当にそれくらいでいいのだ。天地がひっくり返ろうと実現しないことでいいから、「これが揃えば」という条件を見つけたい。ぼくはそういう話をしている。
 そして、この発想から生まれたのが「魔女」だった。ぼくはその発想の一部を小説にして、ネットに投稿した。興味があれば読んでみてほしい。いや、興味がなくても気力があるなら読んでみてほしい。
 魔女とは超常的な力を持つ、女性だけの「種族」だ。そういうものとしてこの世に生まれてくる。女性しかいない種族がどうやって生まれてくるのかは、性欲について考える際どうでもいいので、適当にしか決めなかった。つまり魔女の生まれる工程は、宇宙が生まれた工程と同じくらい、人間にはまだ理解できないのである。
 魔女の出自はともかく、現実では例えば莫大な財産が得られるとか、最愛の人からの愛を受けられるとかでもなければ、性欲のはけ口にされても構わないという女性は存在しないだろう。いや、もしかすると、はけ口にされることを良しとする人なんて、どんな条件でも現れっこないのかもしれない。
 そこで、魔女を無敵の設定にした。全ての人間が何かのはけ口にされることを嫌うのは、人間が無敵ではないからである。
 人間が何をしたところで魔女に「まいった」と言わせることは出来ない。その魔女が何らかの流れで、こちらに対して友好的に接してくるようになれば、ぼくは性欲を好き放題に解放して、賢者タイムも吹き飛ばせるのではないか……と考えた結果の設定だ。性行為において「もうしたいことがない」となったことは今までにないから、それを引き起こせば何かが変わるのではないかと妄想した。
 けれど考えるうちに、その線はどうも怪しい気がしてくる。男の自分勝手な性欲や女性のモノ化について真剣に抗議する女性が「娼婦と聖母を同じ相手に求めるな」と言っていたのを見たことがあるが、仮にその二つを持ち合わせる人智を超えた存在がいたとして、じゃあその存在さえ味方に出来ればぼくは幸せになれるのか?
 もしかしたら、なれるのかもしれない。でも、なれないかもしれない。全ての性欲を魔女にぶつけたあと、賢者タイムに苦しまないという「保証」はない。苦しまずに済む「かも」なのだ。ファンタジー極まるフィクションの塊まで引っ張り出しておいて出来がそれでは、現実に生きる身としてはなおさらつらい。
 そもそも、これは自分の中だけの問題なのだ。「性欲による行動の全ては、愚かで無駄なことだ」とするのは、ぼくの意識の話でしかない。つまり社会的に見てとか客観的に見てとか、そんなことをぼくはまるで気にしていない。気にする余裕がない。
 だから現実で「性欲は悪い物じゃないよ」と言ってもらえても、状況は何も変わらない。というか実際、言ってもらえたことがある。それも女性から言われた。自分は恵まれすぎていると思う。
 しかしそれも正直、「あなたは遠くに住んでいて、ぼくと会わないからそう言えるんだ」と思った。実際に性欲を否定されなかったことで、やはり性欲の話は自意識だけの問題なのだと、改めて実感するだけのことだった。
 だとすれば「受け入れてもらう」ことは、賢者タイムの克服に限って言えば、何の役にも立たないのではないか、という話になる。ぼくは欲を受け入れてほしいわけではなくて、自分で自分の欲を受け入れたいのかもしれない。そうだとすれば魔女は、賢者タイム克服の役に立ってくれない。
 ここで今一度言うけれど、ぼくは性欲に対して真剣だ。冗談抜きで真剣、そうならざるを得ない。自分のメンタルのこととなると、人間誰しも真剣にならざるを得ない。
 「受け入れてもらう」という方向性は、賢者タイムの克服として信用できない。それを現実の経験も踏まえて実感したぼくは、次の妄想を生み出した。
 問題ないよという受け入れでダメなら、必要なんだという求められ方をしたらどうだろうか。受け入れられるのではなく、むしろ欲されれば、自分の性欲を悪く思うこともなくなるのでは? 自意識を抜け出して、強引にでもぼくの性欲へ、客観的な価値を持たせてみたらどうか。
 というわけで、次の魔女が生まれた。小説にはしていないけれど、被虐の魔女カッセロという名前は決まっている。一人目の魔女と区別するためにも、今回はその名前を使っていこうと思う。
 カッセロは二つ名から察せられる通りマゾだ。そして「負担という前提を取り除く。魔女を無敵にする」というやり方は変わっていない。一方的にぶつけられる性欲なんてものは暴力でしかないが、カッセロにとってはそれが望むところになる……という寸法である。そしてやはり我々人間は、いくら暴力を用いても、魔女を傷つけることは出来ないのだ。
 しかし、普通に考えて「エッチが好き。相手とプレイの内容は、よほどでなければ何でもいい」という女性が実在していたとして、なおかつぼくがその人と何らかの流れで知り合えたとして、じゃあ実際その人とエッチできるのかというと、それで性欲の問題を解決出来るのかというと、ノーだと思う。
 仮にの話だけれど、誰に何をされてもいいと思っている女性がいたとしても、その人はわざわざぼくにその内心を明かしはしないだろう。そうする理由がない。理由を積み重ねる必要があるなら、その間はずっと、ぼくの問題は解決しないことになる上に、他人に内心を晒すに値するそれ相応の理由を与えられるほど、ぼくが立派な人間なら、魔女なんか妄想しなくたってよかったんじゃないかと思う。
 大方、ぼくが一人で「性欲ってなんだ、どうすればいいんだ……」となっている間に、どっかの「ノリでヤっちゃった」みたいなことをする男が持っていって終わりだろう。しかしどうせ妄想なのだから、話を極限まで都合よくしたって構わないはず……。
 というわけで、カッセロには向こうから来てもらうことにした。一人目の魔女を小説にしたこともあって、物語の起点になる要素をいくらか用意しなければという意識もあった。魔女という一人の女性と知り合い、デリケートな話題に踏み込めるくらい仲を深めるまでの過程を書くとか、そんなことは興味がなさすぎて出来る気がしない。ぼくはテラスハウスの何が面白いのかわからない派の人間だ。
 そこでカッセロに、被虐以外の娯楽を理解できない……という設定を追加した。「美味しい」や「楽しい」という感覚は持っているけれど、それで「幸せ」になる感覚が分からない、幸福感を被虐以外から得られない、というキャラクターにしてみた。もしもこの世に神様がいるのなら、このくらい軽いノリで不幸な人間を生み出しているのだと思う。
 ともかくそういう設定にしたので、カッセロは被虐相手を探すのに必死だ。幸せを実感するには相手が必要で、彼女が幸せになるにはそれしかない。少しでも「この人なら」と思ったら向こうからグイグイ来る。
 ……と、そんな設定によって、物語の起点と都合の良さは同時にゲットできた。これで、自分の趣味の悪い性欲がもし「必要な物」として求められたら……というシミュレーションがようやく始まる。
 ……結論から言うと、必要とされることは、受け入れてもらうことと、大して変わらなかった。シミュレーションの結果、「むしろそれが良い」と言われたとしても、どうにも暴力を正しいと思えるような心が、自分にはないように思えた。女性に性欲をぶつけることは多かれ少なかれ、必ず暴力なのにも関わらずだ。もちろん愛し合っている仲なら別だろうけど、そんな仲を誰かと成立させられるわけもない。
 行為中は馬鹿だから何も思わないかもしれないけれど、やはりどう考えても賢者タイムになった時「相手に申し訳ないことをしてしまった」と落ち込む未来しか見えない。申し訳ないなんてとんでもない、もっとやってくれと言われても、ぼくはぼくの趣味の悪さを受け入れられる気がしない。やっぱりこれは自意識の問題で、外からの肯定や需要では解決できないのだ。
 そこで最終的にカッセロから、
「みんな自分の良心ばっか可愛がって、他人の気持ちなんか、誰も一度も考えたことないんだ」
 と、物語としてはいい感じのセリフが出てくることになって、このシミュレーションは終わった。
 二人の魔女を用いたのに結果がこうなってしまうと、性欲に底をつかせるという方向性そのものが間違っているような気がしてきた。すると、賢者タイムという物は克服できる物ではなくて、目指すべき目標はそもそも性欲を抱かないことなのでは……? と考え方が変わってくる。
 性欲なんてなければいいのに。そうは思っても、それを実現する方法がまったく見えない。フィクションの中でも見えないのだ。現実ならなおさら。
 妄想で超常的な力を使うなら、そもそもぼくの価値観や感じ方を書き換えてしまう、という手もある。けれど、書き換えられたあとの自分なんて想像できるはずもなく、それだと「こうなれば大丈夫」ということが実感出来ないので、妄想の意味がなくなってしまう。
 ならば反対に「あらゆる苦痛を感じさせない、魔女の無敵を他人に付与する」という力を持っている男がいたとして、そいつがセックスの相手を確保するため(あらゆる苦痛を感じない人間は、何かを拒否することがないという前提)にその能力を好みの女性相手に使った場合、彼が行ったことは苦痛からの永久解放という「救い」であっても、同期が利己的だから「悪」として扱われるのだろうか……?
 とか、そのように考えが脱線し始めたあたりで、ぼくは考えることをやめた。いや、やめたというよりは、行き詰ったまま、ずっと止まっている。いつかは先に進みたい。いつかは……。





 昔、ツイッターでエロ漫画家がこんなことを言っていた。漫画家らしく、単なる文章ではなく、コミカルな漫画での表現だった。

「なぜ漫画家の中で、エロ漫画家だけが蔑まれなければならないのだろう。あらゆるジャンルの漫画家がそうであるように、我々には我々の技術がある。それが一朝一夕で真似できる物じゃあないことは、他ジャンルの漫画家と何も変わらないのに」
 
 という感じの、必要不可欠な存在のはずなのに半ば慢性的に迫害されているようなエロ業界で働く人間による、至極真っ当な物申しだったと記憶している。しかし何もそれを書いた人はその話でキレ散らかしていたわけではなく、何なら冗談を交えながらその話をしていたくらいだった。
 その中でも印象的なジョークに「貴様にはわかるまい! この、おちんちんを通して出る力が!」という一文があった。これは「エロ漫画というのは面白いだけじゃダメ、エロいだけでもダメ。「実用的」じゃないとダメなんだ。実用的なエロ漫画がお前たちに描けるのか……!?」という内容の話であった。
 その言い回しは「貴様にはわかるまい! この、俺の体を通して出る力が!」という、Zガンダムの主人公の名言が元ネタになっている。が、その言い回しは、その漫画の中では確かにジョークだったけれど、今のぼくにとってはそうでもない。
 わざと下品な単語をチョイスして笑わせようとしてくるそのジョーク。そこで言う「力」というのが「性欲」なのだとすれば、貴様どころか、ぼく本人にも、おちんちんを通して出る力とやらが何ものなのかさっぱりわからない。確かに存在しているのに、そいつとどう向き合っていけばいいのかまったくわからない。
 三大欲求のうち、食欲と睡眠欲は、生命維持に必須の部分を司っている。何も食べなければ死ぬし、寝なくても死ぬ。けれど性欲はどうだ、しなくたって死にはしないだろう……と誰もが考える。そりゃぼくも死にはしないとは思うけれど、でもだからって、そんなに軽い物でもないんじゃないか。三大欲求に数えられるだけの何かが、そこにあるように思う。確実にある。解決しなくてはならない何かが。
 最後にもう一度言うけれど、ぼくは性欲に対して真剣だ。いつか自分の性欲との付き合い方を見つけてやる。そして幸せになるんだ。いつか必ず。
 

背負えない男

 ぼくは背中に汗をかきやすい体質なので、リュックサックを背負うことが苦手だ。誰しも単なる移動で余計な汗なんかかきたくはないだろう。
 そこである日のぼくは、リュックを前掛けしてみることにした。小学生の頃ランドセルを前掛けして、それを膨れたお腹に見立て「おなかいっぱーいwwww」とふざけていたのを思い出す。
 しかしそんな前掛けを試してみると、これが意外と悪くなかった。背中は涼しいし、やはり体の前面なら背中ほどには汗をかかないし、しかも荷物(メガネケースとかイヤホンとか)の出し入れがすごく楽だ。リュックを両肩にかけたまま荷物の出し入れが出来るなんて、リュックの前掛けは偉大な発明かもしれない。
 ……そんな風に、その時のぼくはまだ知らなかったのである。そのリュックの前掛けが、まさかあんな真実を浮き彫りにするなんて。
 その真実は衝撃的で、面白おかしくて、そして……非常にしょうもない話だった。





 ある女性のネット友達がいるのだけれど、その人は下ネタを許容できるタイプの人なので、昔ぼくはこんな話を力説していた。

「頬を若干膨らませて揉んでみると、女性の胸の感触になるっていう話があるんですけど、ぼくは最近大変なことに気が付いたんです。その話はお馬鹿な男子たちが煩悩の果てにたどり着いた、しょうもなさの新境地だとばかり思っていたんですけど、実はそうとも限らないんですよ。
 ぼくは今まで、その話を知ってる全ての男子は、二つに分けられると思ってたんです。一つは、自分の頬を揉んでから「あれ、これは結局、本物と似てるのか確かめられなくね?」と気付く人。もう一つは、その後の人生で本当に女性の胸を揉んで、答え合わせをする人です。
 その二パターンだと思っていた、けど違ったかもしれない。世の中には、先に女性の胸を揉み、あとからこの馬鹿な話を知って、ようやく自分の頬を揉むような男もいるんじゃないですか。そいつは「答え合わせ」をまったく別の意味でしてるんですよ。頬の話は、そう簡単には女性の胸に触れられない男子たちが、欲望を搾りに搾って必死に考えたことだろうに、それをそんな……。……きぃーっ!(妬みの声)
 で、そう考えてみるとさらに、何かの拍子にその話を知って、そんなこと考えてる男子がいるんだってことを把握した女性は、女性なんだから、その場で確認できるわけじゃないですか。女性はみんな、即、答え合わせですよ。そもそも更衣室の中で「ちょっと大きくなってない?」みたいなノリで他人の胸を触ってるらしい人たちが、即、答え合わせですよ!? 男子はその答え合わせが夢なのに! 不公平だ!(錯乱)」

 ……と、まとめてみるとひどいなこれはという感じだけれども、大体こんな感じの話をした記憶がある。ネット友達の女性とはかれこれ二年近い付き合いがあるけれど、この話を聞いてもらえれば分かる通り、その友好関係はひとえに向こうの寛大さで成り立っていたりする。感謝……。
 実際この時も、この練りに練られた男性の気持ち悪さの凝縮体みたいな話をされたお相手の女性は、「なるほど」と言って、どうやらその場で「答え合わせ」をしたらしかった。
 そして、そういうノリの良さ(これをノリの一言で片付けてはいけないことは分かっている)が素晴らしいと思っていた矢先、予想外の返事が飛んでくることとなる。
 彼女は、
「え、固くないですか?」
 と言った。
 これは予想外だった。だって彼女が揉んだのは、せいぜい空気を入れたほっぺたでしかない。胸の感触にはならなくても、いくらなんでも固いってことはないだろう。
 彼女に「いやそれはおかしい」と言ってみても、「頬と胸では似ても似つかぬ」という内容の返事しか返ってこない。なのでその場は、
「他にも、時速70だか80だか出した車の窓から手を出して風を感じると、その感触が胸の感触に似ているだとか、そういう話はたくさんあるみたいですよ。執念を感じますね」
 という話をしてひと段落付けた(付いたのか?)のだけれど、後から振り返ってみても、膨らませた頬を揉んで「固い」というのは非常に不可解なことだった。それとも、男子たちの編み出したしょうもない策を知って、それについての答え合わせをした世の女性たちは全員、口を揃えてそう言うものなのだろうか? だとしたら男子たちの、我々の努力はいったい……。





 ……そんな感じで、ぼくの頭の中はいつもピンク色である。
 だからだろうか? リュックを前掛けしたぼくは、そのまま駅の階段を降りようとして、ある危険に気が付いた。……リュックが邪魔で足元が見えない!
 ぼくはそのことをツイッターに「巨乳の気持ち! 巨乳の気持ち!」と書き込み、それを例のネット友達にも見せた。なぜ見せたのかというと、お笑いとして面白いと思ったからだ。そもそも「巨乳は足元が見えない」という話は、ブラックブレットというラノベ原作のアニメにて聞いた話だけれども、「巨乳の気持ち!巨乳の気持ち!」はあまりにもお馬鹿なツイートで、また煩悩から来る邪悪さはかなり薄いように感じたので、これは笑い話だろうと判断した次第である。
 結果、これがネット友達から結構な好評だった。「そういうところ伸ばしていきましょう」と、編集部みたいなコメントをされるくらいには好評だった。そういうところっていうのがどういうところなのかは、未だに不明なままだけれども。
 下ネタだってカテゴリは「ネタ」、人を笑わせる概念であるはず。下ネタとはフグ、毒を取り除ければ美味い物。やはり笑い話からは邪悪さを取り除かなければならんな、ガハハ! と上機嫌になりつつ、しばらくぼくはリュックを前掛けし続けた。巨乳の気持ちが味わいたいわけではなく、冒頭で言った通りリュックの前掛けは非常に合理的で便利なように思えたからだ。
 が、ぼくはある日、なぜか唐突に気が付くことになる。リュックを前掛けすると、そんなことをすると、人間はとても、とてもとても、疲れるのだということに。
 前掛けすると、普通に背負った時と比べて重さが増したように感じるし、なんだか腰に悪い感じもする。猫背も悪化する。……そりゃ、そうでなけりゃ、誰も背中で背負いやしないよな。そんなことを気が付くためだけに、ぼくはなぜか数日もの時間を要したのだった。人類よ、これがバカである。
 そうしてぼくは前掛けをやめたが、しかし背中に致命的な量の汗をかくのも嫌なので、リュックを右肩だけにかけては右肩が痛くなり、左肩だけにかけては左肩が痛くなり、ええい一体どうすればいいのだ、なんで背中に汗をかきやすい体質に生まれてきてしまったんだ……と、他人から見れば至極どうでもよさそうなもがき方をしていくことになる。今でもしている。
 そしてそんなある日、これもまた、なぜか唐突に気が付いた。リュックの前掛けをやめて、非常にすっきりした自分の前面を見て、思い至った。
 あれ? もしかして本当に巨乳な人って、胸が邪魔でリュック前掛け出来ないんじゃね?
 そうなってくると「巨乳の気持ち!」の意味合いが変わってくる。あのお馬鹿な話に、さらにお馬鹿が上乗せされる。世の巨乳な人たちがあのツイートを見たなら、その時はぼくが思っていたよりも数段激しく「バカだなぁ」との感想を抱いていたことになる。つまりあの話は、ぼくが思っていたよりもさらに面白い……!
 こいつは大発見だぜ。そう喜ぶぼくは、当然ネット友達の女性にそれを報告した。好評してくれたんだもの、報告くらいする。
 ……そして、そこで寄越された返事の内容は、以下の通りだった。

「前掛けできますよ。だいぶ不格好になりますけど」

 …………ん?
 あれ……? なんだ? なんだ、その、自分のことを語るかのような返答は……。
 まさか、という思いが脳裏を駆け巡る。まさか、まさかぼくがアホなこと言っている間に、それを好評してくれた友達(女性)というのは、まさか……。
 いや、いやいやいや、それはない。きっと友達が巨乳で、その友達がリュック前掛けを試みる様子を見たことがあるのだろう。だって巨乳の人っていうのは、男性から下卑た注目をされ続けて、うんざりしているはずだ。それを笑い話にされていい気分でいられるはずがない。それはぼくだって、胸が大きい人がいたら視線を吸い寄せられる傾向にあるけれど、見られている側は不愉快極まりないだろうし、だからきっとそれは、誰か知り合いの話なんだ。
 と、困惑しすぎて、単刀直入にズバッと「え、巨乳なんですか?」と聞くまでに、数日、あるいは数週間を要したように思う。そして意を決し、いよいよ聞いたところ、ものすごくあっさりと「巨乳かはわかりませんけど、一応Fあります」との回答をもらったのだった。
 ……Fカップが巨乳じゃないなら、一体巨乳とは何なのか? 億の財産を持つ者が金持ちでなければ、一体金持ちとは何なのかって話と、まったく同じである。
 ぼくは金持ちの気持ちにせよ、巨乳の人の気持ちにせよ、ほんの少したりとも、これっぽっちも、小指の先ほどもわからないことを自覚した。





 おそらく下ネタに世界一寛容な女性であろうネット友達が、実は巨乳だったという事実を二年近く知らなかった。知る必要があるのかと言われれば確かにないのかもしれないけれど、今までいろいろな話をしてきた中で「彼女は巨乳だろうか?」なんて、そんなこと考えたこともなかったのだ。それゆえ衝撃的だった。
 そしてぼくは思い出した。あの時の、頬を膨らませて揉む話を。彼女がFカップだというのなら、その話はそりゃあ、そうなるに決まっている。どう考えたって、物理的に、頬はFカップになれない。そんなに大きく頬を膨らませられるやつがいたのなら、そいつは星のカービィである。
 前提が変わると話の意味合いも変わってしまう。頬と胸の話における「似ても似つかない」はこれで、良い言い方をするなら夢のある話になった。己の頬に触れるだけでは到底たどり着けない物が、大きいおっぱいにはあるんだぞっていう、男子にとって大きな大きな夢である。
 ただそれは、「馬鹿な男子」を「下衆な男子」に変えてしまうことも意味している。「おっぱい揉みたい」は大抵の男の望みだけれど、「巨乳の感触を確かめたい」は、その中でもちょっとピンポイントすぎるというか、お馬鹿よりも邪悪さが勝ってしまうように思う。……というのは個人的な見解ではあるけれども、けど、あの時のぼくに「面白い。そういうところ伸ばしていきましょう」と言った彼女は、はしゃぐぼくを見ていったい何を思っていたのだろう……。そう考えてしまう、仮に彼女が、本当に一ミリも気にしていなかったとしても。
 だからぼくとしては、この一連の話は「お笑い」ではなくなってしまったように思う。……けれどそれにしたって、この流れは面白かった。ネット友達との、この一連の流れは面白かった、間違いなく。
 「頬の話」から「リュックの話」まで進む間にどれくらいの時間が経ったかは覚えていないけれど、「彼女は巨乳である」という事実を知った時、ぼくは一冊の短編ミステリを読み終えたような気分になった。終盤での伏線回収と、微妙な後味の悪さがいい。よし、出版しよう。こいつは売れる!
 と、思ったからこの作文を書いたわけだけれど、書いてみるとなんとも、冷たい視線を感じる気がする。女性どころか男性からもそれを感じる。面白がってるのはぼくだけなのでは……? という気がする。
 友達と二人きりで話すことっていうのは、ちょっとした閉鎖空間だ。二人の間で噛み合った認識が、世間の認識と噛み合うかどうかは全然別の問題で、友達は下ネタに寛容だけれど、たぶん世間はそうじゃない。
 この話は面白いんだ、どうしてそれがわからないんだ……! そう叫ぶのは、こんなに女性の胸に触れたいと思っているのに、なぜ誰も触らせてくれないんだ! と叫ぶことと、そんなに変わらないのかもしれない。ぼくはそれとこれとでは全然別だと思うけれど、世間はそうでもないのかもしれない。
 文豪を思わせる巧みな表現や、軽快で面白おかしい文体で書かれた風俗レポは、みんな立派な作品という感じがするのに。どうも自分の書いた文章は、醜い物のように思えてしまう。思うに、それはたぶん、ぼくに常識がないことが原因だ。常識を持った人間が品のないことをするのと、常識のない人間が品のないことをするのでは、全然印象が変わってくるのだ。
 リュックを前掛けして「これが合理的」と一度でも本気で思った人間に、それを平然と公共の場で実行しては涼しい顔をしている人間に、そんなものあるはずがないのだ。しかも別に、巧みな表現も面白い文体も使えないし……。


※この作文は、登場人物である「ネット友達(女性)」より公開の許可を得ています。

サキュバス界は自己盲信の世界

 この前読んでたエロ漫画にサキュバスが出てきたのだけれど、そのサキュバスは家事スキルが高かった。そして、そんな彼女の手料理を食べた男(主人公)が「美味い!」と素直な感想を口にすると、サキュバスは得意げな顔で言ったのだ。
「あったりまえよ、サキュバスなんだから!」
 ……え? サキュバスってそうなの?
 と、それがきっかけで記憶が呼び起こされた。
 その昔、まだぼくが小説を100円ショップで買ってきた原稿用紙に手書きしていた時代、高校生だったぼくは文化祭準備に参加していたわけだけど、そこで何やら特殊な紙が必要になったらしかった。必要になったそれが質のいい紙なのか何なのか知らないが、ぼくにはさっぱりわからない話題だったので、沈黙のサボりを決め込むこと、空気の如し。
 が、そうしていると突然、「氷菓くん、その紙がどこに売ってるか知らない?」と聞かれることになった。聞いてきた相手は何度か話したことのある同級生だったけれど、ぼくの思ったことも口に出したことも「え、なんで俺?」だった。
 すると「よく原稿用紙で小説書いてるし、紙に詳しいのかなって」と言われ、ぼくは唖然とした。そうなのか、手書き自作小説に励むキモオタを「変人がなんかやってるぜ」くらいの認識で見ている人なら、そういう風に考えることもあるのか。と、まったく予想外の頼られ方だった。頼られたところで、紙のことなんて何もわからないので、「ばなな」の文字が似合いそうなアホの顔になって「何も分からない」と答えるしかなかったけれど。
 サキュバスだから家事が出来て料理も上手いって話は、そのくらい理屈が飛んだ話のように思えた。それは「プライベートで原稿用紙を使っているやつはきっと紙に詳しい」っていう無茶ぶり的考え方と同じじゃないか? という風に。
 けれど事実として、その漫画ではサキュバスがそういうものとして描かれていた。それで問題なく話が回っていた。とはいえぼくは創作の矛盾点を見つけることが得意ではないけれど、それでもどうせなら、「そうはならんやろ」と言うよりむしろ「なぜそうなるのか」と考えた方が楽しいんじゃないか。サキュバスだから家事が出来るなんておかしいと言うよりも、なぜサキュバスだと家事が出来るんだろうと考えた方が楽しい。
 そう思って、また長い妄想が始まった。





 ある日、昼寝をしていたら夢を見た。

 とある性欲旺盛な若い男が死に、彼はあの世での審議の結果、天国行きが決定した。しかし天国への道すがら彼は思う。いくら楽園と名高い天国であっても、そこに性欲を満たす物があるとは思えない。なぜだか自分は天国行きになったが、色欲というのは罪なのではなかったか。
 穏やかな春の日のような草原で、天使や妖精が歌っているような場所。彼の想像する天国はそんな内容だった。するとそこで自分が楽しく暮らしていける気はしない。娼婦が必要とまでは言わないけれど、自分にとっての楽園に必要な物は、約束されたプライバシーと自由なインターネット環境だと思えるから。
 が、そんな彼がいざ天国に到着すると早々に、いかにも露出が激しく、それらしき角が生えた魅惑的な女性が、彼に声をかけてきた。彼はその女性を「まるでサキュバスみたいだな」と思ったけれど、実際その女性はサキュバスだった。
 実際の天国というのは、だだっ広く真っ白な場所に無数の扉が浮かぶ、異次元空間のような場所だった。そして淫靡な彼女に手を引かれるまま、彼は一つの扉をくぐる。その扉から出た先は、そこはそれなりに普通の「部屋」だった。部屋には彼より先に来たらしき何人かの男が、用意された椅子へとすでに座っていた。
 すぐに、彼はそこを「あ、待合室だ」と認識する。それは照明の雰囲気であったり、見知らぬ男たちの体現する暗黙の空気であったり、サキュバスが男の手を引いてやってきたという事実であったり、いくつか理由あっての認識だったけれど、事実彼がやってきた「そこ」は、大体そういう意味合いの場所だった。
 先客がいることも含めて、どうも自分だけが特別に招かれたわけではないらしい。彼はそう察する。そうだとすれば、天国というのは、人の望みの数だけ扉があるのかもしれない。そして自分はここに通されたのだ。
 天国の案内人が、想像していた物とはまったく異なる人物であったことを、彼はとても嬉しく思った。
「それでお兄さんは、何がしたいの?」
 聞かれ、彼がゴクリと喉をならしたあたりで、ぼくは目を覚ました。

 ……それで、ぼくは理解したのだ。サキュバスには、「あの世」と「この世」を行き来する能力があるのだと。
 性のエネルギーを吸って生きるサキュバスという種族は、どんな漫画でも大抵異界からやってくる。しかしサキュバスだけが住む世界があるのなら、いくら人間界のオスたちが性欲に塗れているとはいえ、別の世界一つ分を賄うだけの量が、はたして人間界に満ち足りているのだろうか?
 エロ漫画的文脈のサキュバスが登場する世界において、人間たちの性欲が枯れている様子は基本的にない。異界といえばフィクションである現実世界と同じく、みんなそれなりに欲望を持っている。サキュバスがそれを吸っているのにも関わらずだ。
 いくらなんでも、人間と同じ数のサキュバスがいたのなら、彼女らに吸い取られてなお底が見えないような無限の性欲は、普通の人間には宿らないと思う。現にサキュバスのいる世界の人間たちは、現実世界と変わらない普通の人間として描かれているのだから、特別性欲に底がないわけではないだろう。
 だとすればサキュバスは、人間より圧倒的に数が少ないのだろうか? ……そうでなければ話が成り立たないから、ぼくはずっとそうなのだろうと思っていた。しかし、もしもサキュバスが「死後の人間」からもエネルギーを摂取出来るなら、「生きている人間」とサキュバスの数は同程度か、それ以上でもおかしくない。
 そもそもサキュバスとは夢魔と呼ばれる存在である。エロに強くエロを欲するという特性を与えられたエロ漫画的文脈のサキュバスだって、夢魔としての特性を失ったわけではないだろう。つまり彼女らはエロと同じくらい夢にも精通している。
 夢には物理的な質量がない。夢とは意識だけの物だ。それを用いて自分たちに必要なエネルギーを得るということは、サキュバスたちの欲するエネルギーとは質量がない物ということになる。つまり意識だ、サキュバスの欲する物は意識、エロ漫画の中のサキュバスが欲する物は性欲という名の意識なのだ。
 死後の世界があるとするなら、そこに行った人間は肉体を失い、意識だけの存在となっている。しかし逆に言えば意識だけはあるのだから、サキュバスにとっては死後の人間……いわゆる魂そのものだって、十分すぎるほどエネルギー摂取の対象になるのである。だから死後の世界にもサキュバスは存在する。それが、サキュバスという需要が、人間の性欲という供給をオーバーしない理由に違いない。
 ……しかしそうすると、あの世にいるサキュバスというのは、エネルギーを求めて自ら肉体の死を選んだ者たちなのだろうか? ぼくは、そうではないと思っている。どんな漫画を見ても、意識を生かすために肉体を殺さなければならないような悲壮な背景を、サキュバスから感じられないかったからだ。
 では、サキュバスはどうやってあの世へ行くのだろう。そう疑問に思った時、それより先に浮かぶべき疑問がもう一つあったことをぼくは思い出す。つまりサキュバスは、夢魔は、どうやって人間に夢を見させるというのだろう? ということ。
 そんなの、どうやっても何も、「夢魔(サキュバス)だから出来る」としか言いようがない。もしかするともっと論理的な、我々人間の知性ではまだ理解しきてない理由があるのかもしれないが、我々人間が「人間とは何か」という謎を未だ完全には解き明かせていないように、サキュバスだってサキュバスとは何かという謎を、完全に解明しているわけではないのではないか。サキュバスが論理的に人間より進んだ段階にある様を示す漫画を、ぼくはまだ見たことがない。
 サキュバスは、ただサキュバスだからという理由で、人に夢を見せられる。性欲をエネルギーとして摂取することで生きられる。ならば「意識だけの世界」という意味で、「夢」と共通している「あの世」だって、サキュバスはある程度コントロール出来るはずだ。
 サキュバスは自由にあの世へ行ける。現世に戻ってくることも任意で出来る。その理由にあえて説明をつけるなら「魔力」だとか「魔法」だとか「悪魔の力」だとか、そういう言い方になるだろう。しかしそのどれも人間には理解し難く、何にしても、とにかくサキュバスにはそれが出来るのだ。
 ここで、冒頭の話に立ち返る。ある漫画のサキュバスは、自分の料理が得意なことを「サキュバスだから」と説明していた。その言葉を信じるなら、サキュバスが「サキュバスだから」を理由に出来ることは、他にもまだ無数に存在している可能性が出てくる。何せ家事は、夢やあの世や性欲と違って、実際の動きを伴う物理的なことなのに、それを「サキュバスだから」で出来るなら、サキュバスの力はまだまだ未知だ。
 サキュバスが「サキュバスだから」という理由で他に出来ることは、具体的に例えば何だろう? これは現状から察せられることだけれど、「サキュバスだから」を理由に彼女らが出来ることには、ある共通点がある。それは「エネルギー摂取に役立つ」ということだ。夢を見せることにより物理的な行為を介さず手軽に性欲を摂取する、あの世へ行くことでより多くのエネルギーへ手を伸ばす、家事をこなすことでエネルギー源との密な繋がりの確保を狙う、などなど。
 しかしその考え方をすると、性欲と家事を結びつけるほど強く「広義の意味」を認めてしまうと、サキュバスは何でも出来ることになってしまう。それだとサキュバスは、全能の存在ということになってしまう。こじつけのような理屈で全能の存在となった種族、それがサキュバスということになってしまう。
 しかし先にも言ったように、サキュバスと人間より圧倒的に優れた存在である……という描写は文献(エロ漫画)にない。サキュバスはその特有の力によって、確かに人間よりも出来ることが多いけれど、間違っても全能の神ではないはずなのだ。
 サキュバスは全能に程遠い。そういった前提で考えると、やはり鍵になるのは「意識」だ。広義にせよ狭義にせよ、サキュバスの力の行き着く先は性的エネルギーという、質量のない「意識だけの概念」になる。だから「意識」がサキュバスの謎を解く鍵なのだ。
 サキュバスは全能じゃない、適度に不完全な存在だ。ということは、人間のように個体差があると考えられる。見た目も性格も違うのだ。自分の望んだ姿を望んだだけ得られるわけでも、喜怒哀楽を超越した遥か高みの精神を有しているわけでもない。そういう意味では、サキュバスとはほとんど人間だ。
 ならば、サキュバスも人間と同じく、各々で得意不得意が違うのではないか? そしてそれは、サキュバス特有の力においても例外ではないはず。
 だとするとその差は、人間には理解できない力の中で生まれるその差は、いったい何が原因となっているのだろうか。……おそらく、その答えが意識なのだ。意識によって、サキュバスの力で出来ること、出来ないことが決まる。
 つまりサキュバスは、出来ると思ったことが出来て、出来ないと思ったことは出来ない。家事ができるサキュバスは、「サキュバスだから家事が出来る」と信じたから、家事が出来るようになったのである。意識に至る力であるサキュバスの力は、意識によってそのまま強度を変えるのだ。
 例えば我々人間は、友人が「人は、飛べると信じれば飛べるんだ」と言って生身で高所から飛び降り、そして落下することなく本当に大空を羽ばたいたとして、「ということは同じ人間である自分も、同じように「飛べる」と信じれば、やはり同じように飛べるに違いない」……という思考には、そう簡単には至れない生き物である。友人はああ言っていたし、実際に飛んでいたが、自分が真似すれば落ちて死ぬだろう……大抵そう考える。生身で空を飛ぶなんて突飛なことではなくても、自己啓発を鼻で笑う人間の数を考えれば、このあたりの傾向は察してもらえることだろう。
 「出来る」と確信することは、とても難しい。「サキュバスなんだから料理が出来る」と豪語する同族を見て、自分には無理だと考えるサキュバスもいるだろう。しかしサキュバスにおいては、「それは無理だ」と思った瞬間に、それが無理になるのだ。
 そもそも、よく「セックスとはコミュニケーションだ」と言われている通り、性は心(つまり意識)に依存した物であり、それを司るサキュバスは、種族単位で意識に依存している。性欲をエネルギーとして吸い取ることや、夢を見せることは、ほとんどの個体が生まれつき「出来る」と確信しているから出来ることなのである。それは疑いを抱くよりも前に、立って歩き、喋るようになることと同じことである。
 しかしそれも、一定のラインを過ぎると個人差が出てくる。「出来る」と心の底から信じられる者と、そうではない者。その意識の差が、そのままサキュバスとしての力の差になる。
 だから、あの世へ自由に行けるサキュバスは限られている。全てのサキュバスが肉体を殺さずあの世に行けるわけじゃない。「自分たちサキュバスは夢を操るのだから、同じ意識の世界であるあの世に関することだって、きっとコントロール出来るに違いない」と確信出来た者だけが、実際にそれを行えるのだ。それとこれとは別なんじゃないか……と自信の力を疑ってしまった者には、どうしてもそれが出来ないことになる。
 つまりサキュバスは、ポテンシャルとしては全能の存在なのだ。しかし、自身の全能を事前に確信することは至難の業であり、結果としてサキュバスは、人間に似た不完全な存在になっている。得意不得意のある生き物になっている。
 例えば、性行為とは場合によって暴力にもなる。しかし性欲をエネルギーとして摂取する自分たちサキュバスが、暴力としての性欲に対しては無防備で弱いだなんて、そんなことはあり得ない。……そう心の底から信じられたサキュバスは、暴力に対して強くなる。サキュバスがバトル漫画の世界に登場すれば、戦士というより魔術師のポジションに着くことが常だろうけれど、「自らの、種族としての暴力への耐性」を確信した個体は、その限りではないのかもしれない。単純な暴力の意味で強者となるサキュバスだって、きっとどこかにいる。
 そんな風にして彼女たちは、意識、気の持ちようで、自分たちに出来ることを変える。自分自身の意識によって自分自身の能力を定義する。……しかしそうすると、彼女らの「意識の差」はどこから来るのだろうか? ……という話は、人間が自分たちのことを解明し切れていないように……という、一度話したものと同じ答えが、現状で用意できる限界になっている。
 ともかく、現状で言えることは、サキュバスとはそういう生き物である……ということだけだ。決まった姿を持たないサキュバスも、人間の理解が及ばない高次元的な精神や思考を持つサキュバスも、性欲とは別のところからエネルギーを摂取するサキュバスも、きっとどこかにはいるのだろう。
 しかし何にせよ、サキュバスが「意識による力」を持つ種族であるのなら、何かしらの分野でサキュバス故に強力なサキュバスというのは、ある種危うい存在である……ということになる。なぜなら、強力な力を持つサキュバスほど、自身への盲信が深いということになるからだ。
 盲信は、力強いけれど危うい。何せ仮にとあるサキュバスが「自分は、生きていてはいけない存在だ」と確信してしまったら、その瞬間にそのサキュバスは死んでしまうのだから。
 サキュバスとは意識による力の種族であり、思い込みやプラシーボ効果の権化のような種族であり、そして人間とよく似た種族である。人間には扱いきれない「妄信」を、サキュバスなら完璧に扱いきれると言い切れるのだろうか? 彼女らが人間とよく似た存在に見えるうちは、それは無理なことだろうと思う。
 自らの力で身を滅ぼすサキュバスも、きっとどこかにいる。……出来ることなら、サキュバスの不完全性とポテンシャルを、そんな形で見なくても済むようにありたいものだ。





 ……で、ぼくが今回の作文で結局何を言いたかったのかと言うと、最終的な主張はこれだ。
 サキュバスという概念を、シコって終わりのエロ漫画だけに留めておくのは勿体なさすぎる! エロ漫画的文脈としてのサキュバスは、エロいことが主題ではない、真面目なドラマとしても扱えるはずなのだ。サキュバスほどではなくとも人間だって、「意識」に振り回される生き物なのだから、そこのところを上手く料理すれば、面白い物語が作れるはず。そうに違いない……。
 が、ぼくにはその具体的な形がわからない。思い浮かばない。「サキュバスという種族の特徴」という設定を考えることは出来ても、それを物語に仕立て上げることが出来ない。出来ないのだ……、少なくとも、今のところは。
 それが悔しくて今回の作文を書いた。誰かがこの設定に影響を受けて面白い物を書いてくれれば、それはそれで(それが自分ではなかったことが若干気に入らないかもしれないが)良いことだろうし、いつかぼくが面白い物を書けたのなら、その時は、この頃から考えてたネタなんだぜと、今日のこの作文を掘り起こすだろう。そのために書いた。
 ただ願わくば、エロとしてもドラマとしても完成されたサキュバス題材の漫画を発見して、それで満足して終わりたいような気もする。創作は労力的にコスパの悪い娯楽だから、他人のおこぼれに預かれるならそれも良い。他人の創作を見たから自分は同じことが出来なくなるというわけでもないのだし、むしろ他人の創作は見ることが出来た方がいいに決まっている。
 きっと創作をしている人たちは、みんな何かしらの形で似たような思いを抱えていて、それが叶わないから自分で書くのだろうけれど。ぼくもいつかそう出来るといいな……。

黒い雷を一目でわかるようにしろ

 ぼくは関東に住んでいるが、ネットで知り合った友達は福岡県に住んでいる。今年のバレンタイン、彼女からLINEギフトにてチョコが送られてきた。
 受け取れる店はローソンのみ。商品名はブラックサンダー。その商品のキャッチコピーは「一目で義理とわかるチョコ」である。ちなみに値段は三十円。
 日頃の移動経路に、なんとローソンは三軒も建っている。ぼくはすぐにそのうちの一軒へ向かった。そしてお菓子コーナーを舐めまわすように見回しブラックサンダーを探す。
 ……が、無い。何度見てもない。お安いチョコを探せば探すだけ、ぼくの視界にはスニッカーズが入ってくる。ブラックサンダーはない。
 諦めて帰ろうとした時、バレンタイン特設コーナーを見つけた。まさかとは思いつつ探すと、まぁさすがに置いていなかった。お前ら先週までこの世に存在していたか? というような見たこともないチョコたちが並んでいるだけだ。
 いや、そうか、レジ横に置いてあるのか! そう思い立ち見に行くも、しかしブラックサンダーはどこにもなかった。今度こそ諦めて次の店へ向かう。ぼくの知っているローソンは三軒もあるのだ。無敵だ。
 ……で、三軒ともどこにも置いてなかった。もしかしてだけど、ブラックサンダーはお菓子コーナーでもチョコ特設コーナーでもレジ横でもなく、どこか別の場所に置いてあるのか? そう思って店中見て回ったが、見当たらなかった。三軒全てだ。
 探すたび探すたび、探した分だけ何度も何度も、ぼくの視界にはスニッカーズが映り込んできた。一度も食べたことのないスニッカーズが、なんだか嫌いになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで……ってやつはこれか、と思った。
 しかしそれはそうと、ぼくは物を探すのが苦手だ。本屋に行って、この本はどこに置いてありますか? と店員に画像を見せれば、要約して「あんたの目の前だよ」と言われたことは一度や二度ではない。
 ぼくはブラックサンダーを無限に見落としているのかもしれない。一番いいのは店員に尋ねることだ。どこにあるのかもわからない新たなローソンを探して自転車で走り回るのは無謀が過ぎるし、三十円のチョコのために公共交通機関を使うなんて本末転倒だから。
 けれども、……けれども! ローソンは、コンビニは、今か今かと声をかける相手に飢えた店員の跋扈する、電化製品店や洋服屋ではない。膨大な在庫に対して検索機も置かれていない本屋でもない。暇そうな店員がうろうろしている余裕あり気な喫茶店でもない。
 そこで何か? ぼくは、こう聞くのか? この店に、ブラックサンダーはありますか、って。店員は「なんだこいつ……」と思うだろう。だがそれはこっちの台詞だ、なんだこの店は……! なんで一目で義理とわかるチョコが、一目でわかる場所に置いてないんだよ!!
 思えばぼくの目的は本来、LINEギフトを受け取った時点で終わっている。チョコを送ってもらったという事実が大事なのであって、チョコ本体は単なる市販のブラックサンダーでしかない。
 だから例えば、もしもバレンタインデーが生魚を送り合う風習の日であったとして、女の子からイワシ一匹受け取ったぼくが帰り道、野良猫にそのイワシを取られたとしても、それはそんなに悲しむようなことじゃない。
 だからLINEギフトのバーコードを使えないまま終わっても、それはそんなに悲しいことじゃないはず。ブラックサンダーは事の本質ではない。物品に囚われるな、形のない物の価値に気付け……!
 アンラッキーだったな、そう思って終わらせればいい話なのだ。……という結末に出来れば良いのだけれど、しかし、ぼくは金の亡者だった。行きつけのカードゲームショップになぜか駄菓子が売っていた学生時代、友達がみんな帰りに駄菓子を買う中、食べたい物があったって意地でも何も買わないのがぼくだった。
 店員に聞く勇気はない。自力で探し出す当てもない。おまけに「まぁいいや」と思える度量もない。けれど、チョコをもらえたことは純粋に嬉しいから、悪いのはローソンだ。ローソンだけだ。許せねぇ、スニッカーズばっか置きやがって。黒い雷に焼かれてしまえ!!
 ……と、そんなふうに怒り狂うぼくは、しかし福岡の友人の顔も知らないのだった。声なら知ってるぞ。
 

プリズムビッカーに気付いた日

 最近の我が家は週一でツタヤに行く。が、当時のぼくは、ツタヤに対する興味を失っていた。
 あの頃……つまりTLのオタクの盛り上がりに背中を押され、プリパラ(女児向けアイドルアニメ)を初めて視聴してから数ヶ月経った頃。プリパラの全話をレンタルDVDで見終えたぼくは、抜け殻のようになっていた。ツタヤに求める物は漫画の新刊だけとなり、つまりほとんどの場合、行っても借りる物がなかった。
 毎週欠かさずプリパラを借りていた頃のことを思えば、毎週の楽しみが一つ消えて、味気ない生活になってしまった。しかしそんなぼくと違って、プリパラ終了後も、弟は自分の見たいアニメを借り続けていく。
 ……いいなぁ、そんなに見たい物が置いてあって。この店にはアニメ「ゆるゆり」も、ドラマ「ケイゾク」も置いていないのに、お前の欲しい物は置いてあるのか。そう心の中で愚痴る。やがてぼくはツタヤに行く回数が減り、留守番の回数が増えた。
 かつて、ガルパンを借りて見た頃があった。リーガルハイを借りて見た頃があった。その頃は毎週のツタヤが楽しみだった。別にDVDでなくてもいい、ジョジョの単行本を次々借りていた頃も楽しかった。だから今も、何か、何かないのか……?
 そう悩むこと数ヶ月。同じくTLのオタクの盛り上がりから、プリキュアでも借りてみるかと思った日もあった。けれどイマイチ乗り気になれなかった。プリパラより遥かに数が多いからだ。しかし他に興味のある物もない……。だが気乗りしない……。
 そんな中、YouTubeのおすすめ動画に、仮面ライダーゼロワンの無料1話が表示された。しかしぼくは仮面ライダーに興味がなかった。子どもの頃は特撮ならウルトラマン派だった。だがそのウルトラマンも、大人になるにつれて面白さを理解できなくなってしまった。
 しかし、ゼロワン無料1話はおすすめ動画に何度も表示される。何度も何度も何度も何度も……。それをスルーしながらも、ぼくにはいろいろと思い出すことがあった。例えば、今は関係の切れたかつてのネット友達が、なんだか仮面ライダーの話をしていたなぁ……だとか。
 好きなユーチューバーが一人、仮面ライダーに突然どハマりしていたこともあった。ぼくはまるで興味がなかったので、どハマりしている様子がTLに流れてくることを少々うっとうしく思っていた記憶がある。大人の財力で変身ベルトなどを集める様子を、バカなのかと思っていたものだ。
 しかし、今なのかもしれない……そう思った。かつての友人を見ても、好みのユーチューバーを見ても、今まで自分は仮面ライダーに興味を向けなかった。そう、ちゃんと見たことさえなかったのだ。そして今こそが、見てみる機会ってやつなのかもしれない。そう思った。
 嫌うなら見て嫌え、叩くなら見て叩け。思えばその精神で、「君の名は。」だって見たじゃないか。ならば仮面ライダーも見るべきで、そのタイミングは今だ。ツタヤを持て余した、今しかない……!
 ということで、まずは無料公開されているゼロワンの一話を見た。しつこいおすすめをようやく受け入れた。
 ……そしてぼくは週末、ツタヤの特撮コーナーへ向かった。そしてプリキュアに負けず劣らずの、ライダーの山に相見える
 小学生の頃一度だけ、偶然チャンネルが合っていた流れで、仮面ライダーを丸々一話見たことがあった。それは仮面ライダーダブルだった。
 一話を初めから終わりまで見た当時のぼくは、来週も見てみようとは思わなかった。けれど今思えば、途中でチャンネルを変えたり、テレビから離れることをしなかった程度には、面白かったのではないか。
 レンタルしてきた仮面ライダーダブル。サイクロン!ジョーカー!の響きだけ妙に有名な作品……という認識だったそれを、ぼくは視聴した。
 そしてそれから、毎週ツタヤへ行くのが楽しみで仕方なくなった。それが今年の、お盆以降の話だったように記憶している。



 そうか、これが、この気持ちが……! と仮面ライダーにどハマりしたぼくは、ダブルを最終回まで見たら、次はエグゼイドを見始める。年代の流れで言えば次はオーズなのだけれど、ぼくはその流れに沿う気がなかった。
 調べてみたところ、どうやら全てのライダーが良い評価を受けているわけではないらしく、またその中でダブルは、平成ライダーの最高傑作と呼ばれる作品の一つらしかった。だからぼくは、評価の高い作品から選りすぐって見ていくことに決めた。
 人気の作品の中でもエグゼイドは「宝生永夢ゥ!」という台詞や、それに関わる一連の流れが何やらネットで流行っていたり、死亡しても気の抜けた音楽と共に、土管から復活するライダーが話題になったりしていた。なぜそんなに流行っていたのか、本編を見て今こそ確かめてやろうというわけだ。
 で、エグゼイドも面白かった。次はドライブを見ようと思っている。けれど鎧武やオーズやビルドやファイズも気になる。ぼくの仮面ライダー生活はまだ始まったばかりだ。もちろん現在放送中のゼロワンも毎週楽しみにしている。
 ……そして、2020年の正月。我が家は父方の祖父の家に挨拶へ行った。父には親戚が多いのだけれど、祖父の家の2階の一室は、孫たちが置いていったオモチャで溢れかえっている。その部屋は半ばガラクタ置き場のような状態だ。ぼくはこれまでにもう何度も、孫世代も大きくなってきたしそろそろ捨てたらどうかと話していた。
 が、しかし。今になって思えばそのガラクタの中に、そういえばプリズムビッカーらしき物が置いてあったような気がしてきた。
 プリズムビッカーとは、仮面ライダーダブルが使用する武器だ。ガイアメモリ(変身ベルトに装着するアイテム)を盾に複数取り付け、その盾に剣を収めることで剣にエネルギーを付与するその武器は、発想がモンハンのチャージアックスに似ている。
 だがダブルが放送されたのは10年前だ。菅田将暉のデビュー作として今でもテレビで話題に上がることはあるけれど、しかし10年も前だ。チャージアックスが初登場したモンハン4より、さらに前の時代だ。プリズムビッカーは時代を先取りした面白いアイテムだったけれど、いくらなんでもそれがガラクタ山に、10年も残っているのか?
 そう思いダメ元で漁ってみると、……あった。プリズムビッカーの、盾の部分だけがあった。そしてそれは、ぼくが何年も何年も、盆と正月に祖父の家を訪れるたび、ガラクタという認識で視界に入れていた物だった。
 それを今日初めて、仮面ライダーの武器だと認識した。これはすごいことだ。祖父は10年間これを捨てずにいて、そしてぼくがつい最近になって、その「ガラクタ」が何であるのかを知ったのだ。今年の夏頃のぼくは間違いなく、同じ物を単なるガラクタだとしか見ていなかった。
 もしも10年前それを置いて行った誰かが成長して、昔見ていた仮面ライダーのことを忘れていたら、これが何物なのかわかるのは現在ぼくだけだ。半年前はライダーに微塵も興味を示さなかったぼくだけだ。それが10年越しだぞ? これはもう、ちょっとした奇跡だろう。
 しかも、掘り出し物はほかにもあった。変身ベルトだ。ダブルの変身ベルトがあった。ゼロワンの変身ベルトが5000円以上することを知ったぼくは、自分は一生変身ベルトと無縁の人生を送るだろうと悟ったけれど、それがまさか、こんなところで機会にめぐまれるなんて。ちょっと前までは、全部捨ててしまえばいいと思っていたのに。
 それはもうベルトを腰に巻いた。それはもうガイアメモリを装着した。電池は当然切れていて音はしなかったし、今新しい電池を入れたところでちゃんと動くのか、乱雑に扱われた10年物ともなると怪しく思うが、しかしベルトのギミック自体はちゃんと動いた。ちゃんと問題なく、本編で見た通りガチャガチャ動かせる。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと!! めっちゃ面白い物見つけたんだけど!!!!」
 ぼくは2階のガラクタ山の部屋を出て、大興奮で階段を駆け下りた。階下の祖父、祖母、父、母、弟のいる部屋へと駆け込んだ。もちろんベルトを巻いたままで。
 そしてそこで「じゃじゃーん!」と、ひとしきりはしゃいだあと、母に言われた。
「ベルトを満面の笑みで見せられた時、真剣に引いてしまいそうだった」
 興味なさげな弟以外、多かれ少なかれ、その場の全員が引いていた。
 12月に誕生日を迎えて、ぼくは現在、21歳だ。



 引かれることがつらかったのか、温度差がつらかったのか。はっきりとはわからないけれど、こんなに悲しい気持ちになったのは久しぶりだと思った。思い思いに「ドン引きだわ」を言い換える大人たちに、「なんでだよ!」と笑いながら応える時、悲しい気持ちで笑ったのはいつぶりだろうとも思った。
 特に母から引かれたのがつらい。母はボーダーラインだった。ぼくがプリパラを見ても「面白いの……?」と言うくらいで、何ならぼくがカラオケでプリパラの曲を歌ったって、内心引いていたとしても、それをそのまま口に出すことはなかった。仮面ライダーにハマりすぎて「ツタヤが週一では足りない」と言い出すぼくを、母は暖かい目(あるいは生暖かい目)で見守ってくれたのに。
 その母にはっきり、引いたと言われた。むしろ今までこそガチで引いていたから、恐ろしくて口にも出せなくて、今回が軽めの引きだったから言葉にされた……という可能性も無いことはない。そうだったとして、ぼくの気持ちが楽になるわけではないけれど。
 ぼくは「母」に引かれたくなかったのではない。さっきも言った通り、心の広い母は、「客観的なボーダーライン」なのだ。そこからNGが出たという事実がキツかった。
 父は別にいい、プリパラにも引いていたから。プリパラを初めて見た時と、プリパラの主人公が小学生だと知った時の二度引いていた。同じ男で、昭和と平成の違いはあれどライダーファンであるはずという話は確かにあるが、それでも母に直接「引くわ」と言われたことの方が余程の衝撃だった。
 大人がオモチャで遊んでなんで悪い。……と言うのは簡単だけれど、しかしぼくも鏡は見なかった。変身ベルトを付けた状態での鏡は、恐ろしくて見られなかった。
 ライダーに変身する俳優は皆イケメンで、ぼくは自分の顔やその他の容姿が好きでないというのはあるけれど、しかし理由はそれだけでもなかったように思う。みんなが「引くわ」というのも、実際のところぼくだって一理ある。
 けれどさっき言った通り、その変身ベルトとの出会いは奇跡だ。だってぼくはまだ過去のライダーを二作しか見ていないのに、10年も前の作品なのに、それがドンピシャで、タイムカプセルのように置いてあった。全ての経緯を振り返っても、奇跡としか言いようがない。
 突然のことと見た目のインパクトで、親たちにはそれがわからなかったのかもしれない。一晩過ぎれば、向こうだって「一理ある」と思ってくれるようになるかもしれない。……というのはさすがに楽観的すぎるというか、世界を自分の都合に良く見すぎているか。
 あとから思うと、「変身やってよ。動画に撮ってお前の友達に送ろうw」と言い出した父に、
「いや、サイクロンが右だったか左だったか忘れたし、最後ガチャンってやるの意外と難しいし、いろいろ調べて練習してからじゃないと」
 と返したのは、さすがにキモすぎたような気もする。「嫌だよ、上手くできない」と言うだけでよかったのに……。そこは反省している。
 ところで父が話題に出した「友達」とは、ぼくの数少ない友達の中でも、唯一の女子を指す(ネット友達を含めば唯一ではない)。彼女は小中学校を共に過ごした言わば幼なじみで、現在は心理系の女子大生をやっている。そんな彼女をここでは「A」と呼ぶことにしよう。
 ぼくはAに、LINEで今回の件を報告した。変身ベルトではしゃいだら引かれたことと、そっちに動画を送る話題が出たこと。そして報告のあと、こうも聞いてみた。もしも現場にいればAも引いていたのか?
 返事は要約してこうだった。
「皆の前で「変身!」とかやってたら引いていた。けど個人的に動画は大歓迎だ。ぜひとも送ってほしい」
 ぼくと友達でいられるくらいだから、Aは心の広い人だ。けれどぼくは、同じくらい心の広いはずの母からもらった、ついさっきのリアクションを忘れていたらしい。やはり人間、都合の悪いことほどよく忘れる。
 事実としては、ぼくは「変身!」をやらなかった。しかしそれは言った通り、上手くできる自信がなかったからだ。決して「21歳がこの状況で、それはさすがに……」と思ったからではない。そして「個人的には歓迎」と言うAが重視しているのは、まさにその「この状況で」に関する部分だろう。
 彼女はぼくと違って真人間だ。適切に空気を読むことの出来る人間だ。だから「その状況でやったのか」を気にするんじゃないか? だとすれば、ぼくは精神的には彼女のNGを踏んだことになる。
 結果として「していない」のだから良いじゃないか……とは、ぼくには思えなかった。サイクロンのガイアメモリを左右どちらに取り付けるべきか、あの場で自信を持って断言出来れば、ぼくは間違いなく「変身!」をしていた。
 ところで、昼ご飯としておせちを食べながら、ぼくは父に聞いてみた。
「ぼくの持ってきた物が変身ベルトじゃなくて、ロビンマスクの兜だったら、それでも引いたのか。それとも一緒に盛り上がったのか」
 父は昭和ライダーも好きだが、キン肉マンも好きだ。あとZZくらいまでのガンダムも好きだけれど、ともかく例として、キン肉マンロビンマスクを出した。ロビンマスクとは、フルフェイスかつ西洋風の兜を常時身につけているキャラクターだ。
「いや、ロビンマスクなら俺もテンション上がった」
 聞いてみてから、顔が隠れているのが重要なのかと思って、質問を変えた。
「じゃあ、初代ライダーのベルトだったら?」
「うーん…………それも盛り上がってたな」
 むちゃくちゃだ、と思った。これはひどい話だ、とも思った。
 要するに父は、いい歳した男(あるいは息子)が、父が興味のない子どものオモチャではしゃいでいたら引くけれど、もしもそれが、父が興味のあるオモチャだったなら、一転して一緒にはしゃぐと言うのだ。
 もっと言うと、はしゃぐぼくを見て「もしもあれが、俺の好きな〇〇だったら」と置き換えて考えることが、父には出来なかったということになる。
 まぁ、人間なんてそんなものとは知っているつもりだったけれど。知ってはいても、つらいものだった。
 そして思い浮かべるのは、友人Aのこと。大学生である現在もジャポニカ学習帳を愛用していて、それを親にバッシングされた際ぼくに「私がおかしいと思う?」と聞いてきた友人A。好きなミュージシャンの顔が大きくプリントされたシャツを着ることもある友人A。そのAも父と同じように、仮面ライダーに興味がないから、ぼくに引くっていうのか。
 ぼくは個人の趣味や価値観の多様性に、そこそこの理解を示す立場であるつもりだ。けれどそれはぼくの器の小ささから考えるに、ただ幸運なだけなのだと思う。「自分は違う」と思い込んでいるだけだ。現に過去、仮面ライダーにどハマりしていた人のことを「バカなのか……?」と思っていた。
 ぼくという人間は、ぼくにとって度し難い価値観の持ち主に、未だに会ったことがないのだ。一度たりともそういう相手とは、腕を伸ばせば届く距離では対面することなく生きてきた。運良くそれが出来た、それだけのことだ。しかしまぁ、そうだとしても、21歳が変身ベルトではしゃぐことは、そんなに悪いことなのか。
 いや、わかっている。ぼくが大学生であったり、正社員とまで行かずともせめてフリーターでありさえすれば、もう少し印象は変わったのだろう。現在、父のコネにて週二回一時間のバイトはしているけれど、それを「働いている」と呼ぶのにはかなり無理がある。ぼくは実生活の中で、これ以上「限りなく黒に近いグレー」という言葉が似合う状態を知らない。
 印象は理屈じゃない。もしもぼくが一流大学に通っていたり、大企業に務めていたりすれば、今日と同じく変身ベルトではしゃいだとしても、皆の反応は違った物になっていたはずだ。それともそれは、あり得ない仮定に夢を見すぎているのか? 大金があれば幸せになれるに決まっている、というような考え方をするみたいに。
 けれどぼくはやっぱり、父が子どもみたいにはしゃぐのを見たとしても、友人が客観的に見てレアな趣味を持っていたとしても、立派に家族を養っているからとか、大学とバイトによる多忙な日々に耐えているからとか、そういう理由で「良し」としているつもりはない。すべて、決して悪いことではないから、良しとしているつもりだ。
 ……と、言ってみても。いくらそれらしいことを言ってみても、ぼくがツタヤにて怒涛の勢いで仮面ライダーを借りる時、その費用が父の稼ぎから出ている事実は変わらない。いや違う、そうか、たぶん考え方がズレているのだ。生き様がご立派だと見方が変わるんじゃなくて、生き様がボーダーラインを下回ると、悪い意味で見方が変わるんだ。
 そう考えた時に、思い出すことがある。仮面ライダーダブルの決め台詞だ。あの台詞は今回の件を鑑みても、どちらかといえばやはり、ぼくに向けられる方が正しいように思えてしまう。その台詞は、

「さぁ、お前の罪を数えろ。」

 ダブルの放送当時からずっと、ぼくは半不登校だった。そして今に至っては黒いグレー、ニートだ。親には死ぬほど迷惑をかけている。





 ……大晦日の夜、あるいは元旦の朝。調子に乗って飲み食いしすぎて、グロッキー状態になったまま眠ったぼくは、縁起が悪いことに悪夢を見た。ぼく一人だけが、ヒステリーな声を出しては、家族に何かを怒り続ける夢だった。
 変身ベルトをガラクタの山から発見した時、あんな夢は何も関係なくて、ぼくは今年も幸運なのだと思った。……で、実際ぼくは幸運だ。次は仮面ライダードライブをレンタルしてもらう。たぶんダブルやエグゼイドと同じで、全12巻だろう。
 考えてみればさ、変身ベルトではしゃぐ自由と同じくらい、他人の行動に引く自由もあるんだよね。別に「お前は間違っている」と言われたわけじゃないんだから、そんなに悲しまなくてもいいのに。
 けど、それでも悲しかった。

氷菓くんは鳥頭

 父が大学の同窓会へ行く。ぼくの父はバスケのスポーツ推薦で大学へ行った人なのだけれど、同窓会にも当時の体育会的縦社会が色濃く残っているらしい。
 ちなみにぼくがバスケにおいて、下を見ながら真っ直ぐ進むドリブルしか出来ないのは、まったく同じ特性を持つ母の遺伝子によるものだと思われる。母は野球で空振りする時、強振のパワプロくんみたいに一回転する。そっちはぼくに遺伝しなかった。
 さて、同窓会ではみんな酒を飲むわけで、もちろん父も飲む。つまり車では現地へ向かえないわけだけれど、父にとってそれはすごく嫌なことだった。父は普段から、コンビニに向かうのでさえ車を使う人なのだ。
 そこで立てられた作戦はこうだ。父がぼくを後ろに乗せ、自転車で駅まで二人乗りをする。そして飲み帰りの父が自転車どころではないくらいベロベロに酔っ払っていた場合を考えて、なおかつ駐輪代をケチるために、駅で別れたあとぼくがその自転車に乗って家に帰る。自転車回収班導入作戦だ。
 ぼくが車の免許を持っていないからそういう作戦になる。そしてぼくは自転車の二人乗りが出来ないから、自転車の運転は必ず父だ。
 ……忘れもしない、高校生の頃の記憶。当時の彼女(人生最初で最後かも)と、どちらからともなく「二人乗りやってみようぜ!」と言い出したことがあった。別に、ちょっと家の前の直線を走るだけのつもりだった。なんかこう、ノリで。
 その時は当然ぼくが運転する段取りで、いざサドルに座り、ペダルを漕ごうとした。すると……うっ!? あ、頭がッ! 自転車……彼女……二人乗り……????? フタリノリ、アブナイ、オレ、ヤラナイ、ゼッタイ!
 ……とにかく、ぼくは絶対二人乗りの運転なんかしない。歩いた方が早いのに、目を閉じて歩くより危ないからだ。好きな女性のタイプは、自転車の二人乗りが出来ない男を許せる人です。……おかしいよね、米なら荷台に積んでも問題ないのにさ。
 いや、話が脱線してしまった。まぁとにかくそういうわけで、ぼくは父の漕ぐ自転車の後ろの荷台部分に座り、レッツらゴーと最寄り駅へ向かったのだった。
 が、痛い。足が痛い。足というか、股関節というか、付け根というか、とにかくそういう部分が痛い。昨日やったリングフィットアドベンチャーのダメージが溜まっているところに、絶妙にピンポイントな揺れと衝撃が来る。
 なんと言っても、そもそも自転車の後ろの荷台は、人が乗る場所じゃない! 慣れないちほーでの暮らしは、寿命を縮めるのです。
 そうこう言いながら走るうち、カラガラァーン! と何かが落ちる音がした。それなりの質量がアスファルトに落ちたようだった。
「あっ、アイコス!」
 父が叫ぶ。落ちたのは、父がポケットに入れていた電子タバコ本体だった。拾ってきてくれと言われて、一時停止した自転車から分離する氷菓くん。ゲッターチェンジって感じだ。
 電子タバコ本体を拾って渡すと、「あれ、ゴム落ちてなかった?」と言われた。父のアイコスは蓋の部分が壊れていて、ヘアゴムで抑えないと勝手に開きかねないのだ。
 道路でヘアゴムを探すのはなかなかの難易度だぜ……。あまり見つかる気がしないながらも地面に目を凝らしていると、背後から、
「あ、あった。ゴムだけポケットに」
 との通達があった。なんでだよ、なんでそんな器用にゴムだけポケットに。
 さてヘアゴムを本体に取り付けて、気を取り直し再出発する。父に頼まれて、二度目がないようにアイコスはぼくのポケットへ入れた。
 しかし走って一分も経たないうちに、今度はカサーっと何かが落ちる。とても軽い音で、一瞬視界に映ったそれは見覚えのある色をしていた。電子タバコ本体に刺して使う、タバコの入っている箱だった。それも二つ。それも未開封
 再び分離だゲッターチェンジ。拾って自分のポケットに入れる。もうポケットに入れてる物はないのかと聞くと、ないらしかった。
 走りながら、父が言った。
「このポケット浅いのかな」
「さぁ」
「それか俺が太りすぎたのかな」
「それは……恐ろしい可能性に気付いてしまいましたね……」
 あながち否めないところがつらい。
 とはいえその後は落下物もなく、比較的安全なサイクリングが実現された。ここらへん新しい家ばっかりだなーとか、あの家デカいなーいいなーとか、家の話ばかりしていた。何せ道中目に入る物が家しかないのだ。
 家族総出で車を洗っている家庭を、二件三件と見かけた。我が家はまだ大掃除をしていない。明日は我が身かと思うと、大変そうだなぁとか言っている場合ではなかった。洗車そっちのけで、水流のほとばしるホースで遊ぶ小さなキミ。ぼくはキミになりたい。
 と、そんな平穏の中、ある時行く手に強烈な段差が現れた。と言っても、ぼくからは父の背中しか見えていなかったので、段差があると気付いたのは、それに被弾した瞬間だった。
 ガタッガタンッ! と2HITコンボ。足の付け根が「リングフィット!」と叫んでいた。ぼくはぼくで、敵の必殺技をくらった悟空みたいな叫び声を上げた。うわぁぁぁーッ!! ……いや、さすがにそこまではリアクションしてないか。盛ったわ。
 その後ぼくたちは、信号がないわりに交通量モリモリな横断歩道や、よろよろ歩きなのになぜか道のど真ん中を行くおじいちゃんを切り抜け、なんとか駅までたどり着いたのだった。
 家ばかりの景色から一変、駅に近付けばパチンコ屋が見え、コンビニが見え、薬局が見え、本屋が見え、そして大量の飲み屋が見えた。同じ居酒屋がいつもバイトを募集している。まったく、いつ見ても募集しやがって。彼女募集中の男みたいな店だ。まぁ大体の店はいつも募集してるけど。そして大体の男もいつも募集してるだろ。
「ありがとな、助かった」
 爽やかにそう言って、自転車をぼくに預けた父は、駅の改札へと消えていく。去り際に父は、同窓会の集合場所を大雑把にしか把握出来ていないけれど、まぁ友達に任せれば大丈夫かと言っていた。争えない血を感じた。
 ところでその同窓会は30人近くが集まる中、メンバー内の女子は元マネージャーの一人だけらしい。どんな空間なんだろう……。
 何にせよ、ぼくに残る役目は家に帰ることだけだ。今来た道を引き返し帰り道とするべく、機首(?)を180度反転させて、ぼくは自転車に跨った。……なんだか、父の声が聞こえた気がした。気のせいかなと思ったけれど、父の声と聞き間違えそうな他の音もここにはない。しかしもしも聞き間違いでなかったのなら、父はぼくに何の用があるんだろう?
「……あっ!」
 思わず声が出た。これは悟空と違ってマジで出た。道行く人が近くに何人もいたけれど、意外と誰もこっちを見てこなかった。
 とにかく父を追いかけなければ! 一歩目を踏み出したところで、父の方からこちらへやってきた。半笑いで曲がり角から飛び出してきた。ぼくも笑う。
「ちょっと!!」
「タバコ!!」
(ここでRADWIMPS的な音楽が流れる)
 ……今度こそ、父は無事旅立っていったのだった。ぼくは去年似たような形で母を駅に見送って、
「言われてた地図、帰ったらLINEで送るね!」
 と言い残し、帰宅した頃には地図のことを綺麗さっぱり忘れていたというエピソードを思い出しながら、徐行運転で帰った。
 忘れていたことを思い出した時の、あのサーッと熱や音が消えていく感じと、同時に来るイラだちは覚えているのに。どうしてこうも同じような過ちを繰り返すのだろう。
 気が抜けているからだとよく言われる。しかし普通の人が、常に気を張っているとはどうにも思えない。だから、ぼくに出来ることは一つだけなのだ。自転車に一人で、一人で乗って帰ること。ただそれだけなのだ。
 やっぱり足の付け根が痛かった。

隣の罪は酸っぱいぞ

 ニートの社会復帰をサポートする市の施設があるんだけれども、そこに通っていた時期のぼくは、職員のおじさんとこんな話をしていた。

「あのー、デカいプールとかのCMで、水着のお姉さんがたくさん集まって、踊ってるやつあったじゃないですか。こう、シメジみたいな密度で集まって、がっつり露出した水着で」
「はぁ、まぁ、あったかもなぁ」
「ああいうお姉さんに囲まれたら、普通の男は「うひょー」ってなりそうじゃないですか」
「そりゃなるだろうね。俺も若けりゃなる」
「ぼくがあのビキニ集団の中に放り込まれたら、なんか、溶けちゃう気がするんですよ」
「喜びで?」
「ストレスで」
「はぁ? なんで」
「なんでと言われると、こう、なんというか、アウェー? みたいな……?」
「ふぅむ……。わからん」

 全て本心からの話だったのだけれども、その時はストレスで溶けそうという感覚を、上手く言葉で説明できなかった。
 なぜニートをサポートするための施設でそんな話をしていたのかというと、その時点のぼくはすでに二つの別なバイトを一回ずつバックレた末、「絶対に働かない」と決めていたものだから、就労の意欲さえない者には施設側も手の施しようがなかった……ということになる。
 なぜそんな状態で施設に通っていたのかというと、それはもう完全な惰性だった。バックレた二つのバイトは、どちらも施設に通い始めてから試みた物だったから、だからその勢いによる慣性のまま通い、社会復帰に不必要な会話ばかり繰り返していた。こういうのを俗に時間泥棒と言う。
 しばらくして、ついに慣性のパワーも尽き、ぼくは施設へ行かなくなった。そしてその頃のぼくは、今や恒例となった家事手伝いを始めていた。
 しかしぼくは洗濯物を干すようになって、おじさんに話した「水着のお姉さん集団の中に放り込まれたら」の話を頻繁に思い出すようになった。改めて響きだけ聞くと、パラダイスを想像してる暇があったら働けという感じだが、言ってもそれはいざ実現すると絶対そんな良い物じゃないぞ……と今でも思う。
 なぜその話を洗濯物干しながら思い出していたのか。それはまぁ、もはや言うまでもないかもしれないけれど、ずばり洗濯物の中に母の下着も含まれていたことが原因だった。
 母のだろうと誰のだろうと、女物の下着に触れるというのは、初めの頃はものすごい抵抗があった。いや、抵抗というか、「いいのか……? これはいいのか……?」と、神に問うような気持ちになっていた。ぼくくらいのダメ人間になると神にもタメ口である。
 ともかく、そうして洗濯物を干す日々を重ねながら、なんとか女物の下着に対する抵抗感を言葉にしようと、ぼくは毎朝頭をひねった。そしてある日、それっぽい表現を思いついた。
 身内の物でも他人の物でも、男が女物の下着に触れると、触れた箇所から「罪」が滲み出てくる気がする。……それがぼくの思いついた表現だった。
 しかし、罪とは一体何だ。具体的にどんな物のことなのだ。冷静に考えて、ぼくが女物の下着に触れてなぜ悪い? 盗んだわけでもあるまいに。客観的に考えて、家族が家族の洗濯物を干してなぜ悪い? 娘に嫌われる父親でもあるまいに。一体どこに罪があるっていうんだ。
 それもまたしばらく考えて、ひとまずの答えは出した。思うにここで言う罪とは、罪悪感のことだ。社会的な価値観で言う罪とか、あるいは人類の原罪であるとか、そういう物では断じてない。
 おそらくぼくにとって下着は象徴であり、それが誰の物だとか、そういうことはどうでもいいらしい。理屈ではなく、下着が自分の中で軽くタブー扱いになっている。
 子どもの頃はショッピングモールへ行った時、ゲームセンターコーナーへの最短ルートを突っ切るため、ブラ売り場を走り抜けていったものだ。それがいつからこうなったのか。
 今の年齢で一人女性の下着売り場をうろつけば不審者になる。そういう空気がぼくに象徴とか、罪悪感を植え付けたのか? それともぼくが「自分は性欲が強く、その上性的な趣味が悪い」という欠点を重々自覚しているせいで、少しでも性を意識させてくる物に向き合うと、自意識がおかしくなって罪悪感を湧かせているのか?
 自分の罪の意識がどこから来るのか、考えてみるとそれは、案外わからないことだった。しかし何にせよそれは自分の中だけの問題で、ぼくが母の下着を干しながら罪がどうのこうのと考えようと、考えなかろうと、誰もそれを気にはしないのだ。
 そしてある時、ぼくはあの職員のおじさんに、話の続きが出来ることに気が付いた。
「下着に触れると、触れた箇所から罪が滲み出るんです。下着でそれなんだから、女性の肌なんかもっとですよ。で、それで溶けるっていうことは、つまり罪ってのは酸性なんですね! あはは!」
 まさかそんな話をするためだけに、施設に赴くはずもないけれど。というか、おじさんはそんな話すっかり忘れているだろうけれど。
 酸性という言葉を使うと、いかにも下着と罪の現象は理科っぽいように思える。この世では「ぼく+女性の下着→罪悪感」という化学反応が成立しているのだ。しかしテストには出ない。
 ……ところで、ぼくはおじさんの言葉を忘れていない。あの人は若い頃、露出過多な女性の集団の中に放り込まれると「うひょー」となる側の人間だった。どう考えても、そりゃそっちの方が人生楽しいだろう!
 とはいえ、ぼくもすでに下着は克服した。罪がなんとかって本気で考えていた時期が懐かしい。あの頃は洗濯物を干す時、母の下着は出来るだけ目立たない位置に配置しなければと思うあまり、洗濯物全体の量が少なくてどうしても「目立たない位置」が生み出せなかった時、これはどうしたものかとそこそこ真剣に悩んでいたものだ。
 しかしこれは重要なことだけれど、罪というのは大抵の場合、何度か犯すうち嘘みたいに慣れてしまうものだ。触れた箇所から滲み出る罪とやらも、まったく例外ではなかった。
 つまり! 場数さえあれば、ぼくだって慣れるのだ。それが布であろうと、肌であろうと!
 問題は、女性の肌に対する場数なんか、ぼくに縁があるわけないってことだ。おじさんは生まれつき平気だったのか? それともまさか、後天的な慣れなのか……?
 ……まぁ、どちらでもいい。ぼくのような人間が持つ罪悪感とは縁がない人たちの、その慣れという感覚が先天性だろうと後天性だろうと、そんなことはどうでもいい。そんなもの、別に、羨ましくなんてないから。