ザ・ハンドは削らない&四番知らずのセックス・ピストルズ

 今回の作文は、「ジョジョの奇妙な冒険」のネタバレを含みます。









 ジョジョの奇妙な冒険という漫画には、スタンドと呼ばれる異能力が多数登場する。その中でも「ザ・ハンド」は、右手で触れた物を削り取るという能力を持っている。
 ザハンドに削り取られた物は消える、どこへ消えたのかは誰にもわからない。言わば即死系の能力であり、単純な威力だけで言えば恐ろしい能力だと言えるだろう。
 ただ、ザハンドには何だかややこしい使い方がある。それは「瞬間移動」だ。例えばだけれど、ザハンドの右手で看板の一部を削り取ったとする。元々の看板が、
「立入禁止」
 だったところを、能力で「入」の部分を削り取り、
「立 禁止」
 にした。が、ザハンドの能力はこれだけでは終わらない。なぜかこの後、看板は、
「立禁止」
 になるのだ。削り取られて消えた部分を埋め合わせるかのように、看板がくっ付いたのである。
 これの応用で、何もない空間をザハンドで削り取ると、その空間が「閉じる」ことによって、瞬間移動が成立する。図にすると、
「人間   人間」
 この状態で左の人間が、真ん中の空白部分をザハンドで削り取ると、
「人間 人間  」
 となる。逆にさっきと同じ状況で、右側の人間がザハンドを使うと、
「  人間 人間」
 となる。百歩譲って「削り取った部分が閉じる」は分かるにしても、決まって能力を使用した側に、使用された側が引き寄せられるのはなぜなのだろう。
 ……と思いきや、実は別の場面では真逆のことが起こっていたりもする。ザハンドの使用者側が、相手に吸い寄せられる形での瞬間移動だ。これはどうにもおかしな感じがする。ザハンドの瞬間移動は劇中の説明通りなら、あくまでも「削り取る能力」の副次的効果であるはず。しかし実際は、任意で瞬間移動をコントロールしているように見える。
 このザハンドは初登場、敵側の能力だった。主人公がザハンドにどうやって勝ったのかというと、決着はザハンド側の自滅となっている。無闇に削り取る能力を使いすぎて、近くにあった鉢植えが閉じる空間の作用で引き寄せられ、勢いよく顔面にヒットしてしまったのである。
 鉢植えを引き寄せてしまった際の状況は、相手との距離を詰めるために繰り返し空間を削っていた……という物だった。その目的であれば、自分が相手に近寄る側の瞬間移動でもよかったわけだが、使用者は自他共に認める「頭が良くない人」なので、そのあたりは適当にやってミスったのだと思われる。
 さて、ぼくは一つ疑問に思っている。というのも、ザ・ハンドは、本当に空間を削っているのだろうか……?
 向かいに立った人間を引き寄せるために空間を削ると、その人間のさらに向こう側に置いてあった鉢植えまで引き寄せてしまった。……このことから考えて、ザハンドの空間削りによる副次効果、空間閉じワープは、能力使用者の意図しない範囲にまで効果が作用していることになる。
 なぜ、人間以外に引き寄せられたのは、鉢植えだけだったのだろう? 鉢植えがあったということは、それを置いていた台とか、家屋なども近くに存在していたはず。なぜ鉢植えだけ?
 そもそも本当に空間を削っていたとして、その空間が閉じたら、空間の総量はどうなるのだろうか。まさか減っているのか? 看板の例に例えると、
「立入禁止」→「立 禁止」→「立禁止」
 となっているので、鉢植えの例から考えると、実際には「立」より左にある物体や、「止」より右にある物体が、一緒に引き寄せられてきてもおかしくないはずなのである。
 が、そのような描写はなかった。というか普通に考えて、ザハンドの能力が使われるたびに同じ軸上にある全ての物が拳一つ分引き寄せられていたら、世界はめちゃくちゃになってしまう。
 例えば建物なんか、だるま落としのように一部分だけが引き抜かれてしまうことになる(あるいは引き抜かれる力がかかることで、破損や倒壊が起こる)。劇中でいくら空間削りを乱発しても、さすがにそんなことにはなっていなかった。
 閉じる空間の影響は、どこまで及ぶのだろうか。その説明は劇中になかった。しかし少なくともザハンドは、世界中の軸をだるま落とし風にずらすような能力ではない。削られた空間は消えたと言うけれど、何も能力を使うたびに宇宙が少し狭くなっていくとか、そんな大規模な話にはなっていないはずなのだ。
 ではなぜ、ザハンドの能力はそういう規模にならないのか。その答えは、「ザ・ハンドが「削り取る能力」ではないから」……なのではないか。だって本当に空間を削っていたとしたら、言った通り宇宙が少しずつ縮んでいくはずだ。(宇宙は常に膨張しているとか、そういうのは今回考えないことにする)
 そもそも、ただ「閉じる空間」の作用で瞬間移動しているだけのはずなのに、自分と相手のどちらが引き寄せられるか選べるというのは、やはりおかしい。そしてオマケに、能力者本人は頭が良くない。
 つまりザハンドの能力の劇中説明は、本人が自身の能力を正確に理解しておらず、大体のニュアンスを「削り取る能力」と呼んでいるだけなのではないだろうか。
 ザハンドの右手に触れた物は確かに消える。看板の文字を消すと、確かに埋め合わせるようにくっ付く。何もない場所で右手を振り抜けば、瞬間移動が出来るのも事実だ。けれどそれは「空間を削り取っているから」ではないはずだ。描写から考えるに、ザハンドはそういう能力じゃない。
 ザ・ハンドとは単純に、「右手を振り抜くこと」をトリガーとして発動する、様々な効果を複合した複雑な能力なのではないか。それを、細かいことを考えるのが苦手な能力者が、ざっくりと「削り取る能力」と呼んでいるのではないか。
 ザ・ハンドの本当の全容を理解した時、能力の新たな使い道が見つかるかもしれない。ぼくはそんなふうに考えている。




 グイード・ミスタという男が、セックス・ピストルズというスタンド……つまり異能力を持っている。
 セックス・ピストルズは「No.1」から「No.7」の、計6人(6「体」と数えるとピストルズが怒る)のチームで構成される、銃弾の妖精のような存在だ。
 スタンドとしては珍しく、スタンド自体に自我があったりする。主な能力は、実際の銃から放たれた銃弾をピストルズが蹴ることにより、その軌道を変化させること。
 ……そう、ナンバー7までいるのに、計6人だ。なぜかというと、ピストルズの中に「No.4」は存在しないためである。
 能力者であるミスタは、4という数字を毛嫌いしている。いや、もはや病的に恐れている。
「4っていうのは不吉な数字だ。4に関わると必ず悪いことが起こる。昔知り合いが4匹の子猫を引き取ったが、そのうちの1匹に目を引っかかれて失明して……」
 などと語り、とにかく「4」に関わろうとしない。運ばれてきた料理が4皿あった場合、まず他人に取らせることで3皿にしてから自分が取るなど、徹底している。
 スタンドとはそもそも精神エネルギーの具現化である。なので4嫌いのミスタが持つスタンドに、ナンバー4がいないことはある種当然のことなのだ。
 ところでミスタは劇中で一度(正確には一度どころではないが)死にかけるのだが、その際よくわからない具合に復帰している。
 敵の策にハマってしまい、彼はスタンドのパワーをほとんど失った状態で、頭に3発も銃撃を受けてしまった。そこで死亡したかと思われたが、6人いるうちのピストルズが1人だけパワーを残しており、いつもは6人1チームで動くところを、たった1人だけで3発も銃弾の威力を相殺していたため、なんとか一命を取りとめる。
 で、その後、ミスタは何事もなかったかのように元気になっていた。頭に包帯を巻くとか、そういうのは何一つなしでピンピンしていた。
 ちょうどそのエピソードのあとで、彼の仲間である主人公が回復能力に目覚めるのだけれど、だからなおさら「致命傷ではないにしても脳天に鉛玉ぶちこまれたミスタが、なんで無傷でピンピンしてるんだ……?」と視聴者は不思議に思ったものである。回復能力のくだりがなければ、バトル漫画ってそういう物だし……と思うことも出来たのだけれど。
 そこでそのことについて、多くの視聴者が「4発撃たれてたら死んでた」「4発じゃなかったからセーフだった」「やっぱ4って怖いわ」と、半ば冗談としてコメントすることが、もはやお決まりのネタとなっている。
 実際4発撃たれていたら、ピストルズ1人だけでは対処しきれずに死んでいたかもしれない。が、それは死ななかった理由だ。なぜか傷が一瞬で完治していた問題とは別だ。もちろんみんな冗談で言っているから、だったらなんだという話なのだろうけど。
 しかし、ぼくは思う。スタンドとは異能力だ。その異能力に、ナンバー4だけがいない。それと重症が瞬時に完治したことが、無関係だとは思えない。ピストルズの能力とは、自我を持ったスタンドであることと銃弾をコントロールすること以外に、まだ何か隠された物があるのではないか。
 結局、何度も死にそうな目に遭いながらも、ミスタは最終回まで生き残る。なんなら既存キャラが何人か死んでしまった、後日談スピンオフでも生き残る。かなり初期から登場していることを考えれば、生き残る力は主人公並みだ。
 ピストルズには隠された能力があるのではないか。そしてその能力とは、4を避け続ける限り、死の運命を変える能力なのではないか。それを無意識に理解しているから、ミスタは4を徹底的に避けるのではないか。
 順序が逆である可能性があるという話だ。まずミスタがひょんなことから4を嫌うようになり、それからスタンド能力に目覚める、その結果スタンドにナンバー4だけが存在しなくなる……というのではなく、逆である可能性。
 彼のスタンドは元々「4を避ければ死なない能力」であり、その能力自体は銃弾を操る能力よりも先に発現していた。それを無意識下で察知していた彼は4を徹底的に避けて、そのあとで銃弾を操る能力に目覚めた。そういうことなのではないだろうか。
 ミスタの過去エピソードにも「銃を持った大勢の相手に一人で立ち向かったが、なぜか相手の弾は一発も彼に当たらず、彼の放った弾は全て相手に致命傷を与えた」というものがある。直接言及はされないが、その時点でピストルズの能力に目覚めているのは明らかだろう。
 が、その「ピストルズの能力」とは、「銃弾を操る能力」ではなかったのではないか。発現していたのは死なない能力の方だろう。だから彼に弾は当たらなかった。そして彼の放った弾が敵に全弾命中したことは、それは単純に彼自身の射撃の腕前だった。……ということなのではないかとぼくは思っている。
 実際ミスタは劇中でも、ピストルズ抜きで曲芸のような射撃を見せている。発現していたのは死なない能力だけと考えてもおかしなことはないように思う。そしてむしろ逆に、彼に死なない能力がなかったのなら、やっぱり頭の傷が一瞬で治っているのはおかしいじゃないか。
 間違いない、ぼくはピストルズにそんな、隠された最強の能力があると信じている。だって「時を消し飛ばす」という最強能力を持ったラスボスを倒す方法が、主人公が「全てをなかったことにする」というもっと最強な能力に目覚めて倒すという物だったのだ。そのラスボスにミスタのピストルズは、銃弾を曲げるだけの雑魚能力だと罵られている。
 機転とセンスだけでは覆しきれない能力バトルの中で、ピストルズが本当にただの雑魚能力だったら、ミスタは生き残れなかったはずだ。だからあるのだ、必ず、死の運命をねじ曲げる能力が。死にかけたはずの彼がすぐ回復したことに、仲間が何の違和感も持たなかったことさえ、ピストルズの能力の内なんじゃないだろうか……?
 ……ジョジョのバトルは、全体的にかなりノリ次第な部分が大きい。ある人の言った「ジョジョの戦いは、GMを納得させたPLの勝ち」というTRPGへの例えが、ものすごく的確であるように思う。
 父がエニグマというスタンド能力について、
「恐怖した人間を紙の中に閉じ込める能力で、なんでラーメンとかコピー機とかを同じように閉じ込められるんだ。わけがわからん、設定がおかしい」
 と言っていたことがあった。ぼくはそれを聞いて、
「それは、基本は物を紙に閉じ込める能力なんでしょ。それを人間相手に使おうとすると、恐怖っていう面倒な条件が加えられるってだけで」
 と考えて、一人で納得していた。
 ジョジョTRPGに似ている。そして我々視聴者はGMであると同時にPLでもあるのだ。自分で自分を納得させなければならない。そしてそれもまた、ジョジョの楽しみ方の一つなのだと思う。
 たとえ作者に聞いたら「いや、そこまで考えてないけど」と、言われてしまったとしてもだ。受け手の数だけジョジョがある。公式の見解は正史にしか過ぎず、各々の想像は別世界、スピンオフだ。
 つまりは、これもまた二次創作なのである。ぼくは小説を書く時、いつも一次創作しかしない(というか基本的に二次創作が出来ない)けれど、今日ここでしたような話のことを思えば、二次創作を楽しむ創作者たちの気持ちもわかる気がしてくる。
 というわけでオチはないけれど、別に必要ないだろう、今回に限っては。

コナンの脳に新一はあるのか

 子どもの頭は、大人よりも明らかに小さい。ということは、中に入ってる脳みそも小さい。フィクションの世界ではよく精神や記憶はそのまま、体だけ子どもになるなんてことが起こるけれど、脳みそのサイズを子どもサイズにまで戻して、今の精神、記憶、思考力等々をキープすることは可能なのか?
 可能なのか、というか、理屈としてどうなっているんだろう。フィクションに可能か不可能かを問うことは無意味なことだけれど、理屈の説明くらいは欲しい物だ。
 例えば、人間の脳は普段一割(だっけ?)の力しか出していないというから、コナン君は通常の人間より脳を有効活用している……とか、どうだろう。
 その場合、普通より濃密に脳を稼働させているのだから、消費するエネルギーも多いはず。しかしコナン君がデスノートのL的なエネルギー補給をしてる描写は印象になく、この説は違っている可能性が高い。
 というふうに考えていって、最もらしい自分だけの裏設定を見つけよう! というのが今回の趣旨だ。いや、実はちょっと違うのだけれど、しばらくはこの話を続ける。
 仮説その2、「臓器移植を受けた時から不可解な記憶を持つようになった。臓器にも記憶が宿るのだ」という話があるので、コナン君の脳みそに入り切らなかった情報は体のどこか別の部位に保管されている説。
 これは臓器と記憶の話自体の信憑性が定かではないけれど、フィクションというのは眉唾をいかに美しく振り回せるかを競う遊びでもある。都市伝説だろうとデマだろうと、そういう話が存在している、あるいは存在していたのが重要なのであって、それ以外はどうでもいい。
 この説を推すなら、コナン君の臓器がどっかいっちゃった場合に、一緒に新一もどっかいっちゃうケースが考えられるけれど、そういう二次創作を書いてみるのも悪くないんじゃなかろうか。ちゃんとしたファンの人には見せない方がいいかもしれないが。
 仮説その3(これで最後)、そもそも思考や記憶に脳は必須ではない説。これは要するに、思考する幽霊の存在を認める説になる。
 ここは一度、幽霊の存在を認めた上で、なおかつ、幽霊とは悔恨によってプログラミングされたオートマチックな存在ではなく、生きた人間と同じように思考するものだと考えてみよう。するとつまり、思考に脳は必要ないことになる。幽霊に脳はないから。
 思考や記憶を成り立たせることに脳は必須ではない、脳とは五感を成り立たせるための装置だ。……と考えれば、体だけが小さくなった大人というのも、幽霊と同じ理屈でフィクションの中に存在して良いのかもしれない。
 コナン君の内面が工藤新一のままでいられる理由について、どれを採用するかは皆の自由だ。あるいは別の考え方を自分で生み出してもいい。そういったこともまた、作品の楽しみ方の一つなのかなと思う。人に迷惑をかけない限り、どう楽しむかは個人の自由だ。



 さて、今回なぜこんな話をしたのかというと、ぼくの作ったあるキャラクターについて疑問が湧いたからだ。
 彼女の名はニマド。ニマドは魔女である。魔女とは種族であり、人外だ。決して元々は人間……なんてことはない。
 ニマドは様々な異能を持つが、その中の一つに変身能力がある。魔女である彼女は自らの魔法で、幼女だろうと熟女だろうと、女優だろうと二次元キャラだろうと、どんな容姿にでも自分の姿を変えられるのだ。
 つまりそこでコナン君と同じ問題が発生するわけだが、ぼくはその魔女には思考する幽霊説を採用している。ニマドは生まれた瞬間には思考する幽霊であり、後々魔法で肉体を手に入れたという設定だ。
 なぜそれを採用したのかというと、そもそも魔女ニマドを作った経緯が「エロ漫画を読みながら作った」だからだ。エロ漫画みたいな内容の小説を書いてみたいなと思って、ヒロイン役として作られたのがニマドだった。
 ニマドの持つ数々の魔法は、全てエロいことをするためにある。変身も例に漏れない。要するに彼女の魅力の一つは、誰が相手であろうと好みドンピシャの容姿になれること、というわけである。
 が、一つ問題があった。仮に現実の女性が、完璧な自由度とクオリティを誇る変身能力を有していたとして、あるいは自分自身が、相手を好みの容姿に変える力を持っていたとしたら。我々は「容姿を変えてくれ(変えさせてくれ)」と言えるのか? 個人的には、ノーである。そんな失礼なことを言う勇気はない。
 しかしそれは、なぜ失礼となるのか。それは人間がみんな「本来の姿」を持っているからだ。「生まれ持った姿」を持っているからだ。それを変えてくれというのは、たとえそれが手軽に実行出来たとしてもタブーなのだ。なぜなら本来の姿とはアイデンティティであり、アイデンティティを否定することは、人の尊厳を踏みにじる行為だから。
 誰もが気軽に容姿を変えられる時代が、いつか来たのなら。その時はアイデンティティの概念も更新されているだろう。しかし今は違う。そしてニマドは、今作られたキャラクターなのだ。
 タブーを犯せば罪悪感が湧く。人外であるニマドが人間的価値の「失礼」を笑い飛ばしたとしても、人間側には罪悪感が残ってしまう。それでは意味がない。いや、不完全だ。エロ漫画のネタとして変身能力を扱うなら、この罪悪感を取り除かなければならない。絶対に。
 というわけで、ニマドに「本来の姿」を持ってもらうわけにはいかなかった。彼女のアイデンティティは精神のみでなければならなかった。必ずそうする必要があった。だから思考する幽霊説を採用したのである。彼女は、先天性の肉体を持ってはいけなかったのだ。
 で、ここからが本題になる。名探偵コナンの話を絡めるに至った、ニマドに対する疑問とはいったい何か。それは以下の通りである。
 魔女ニマドは思考に脳を必要としない。ところで、思考に脳を必要としない存在に対して、果たして洗脳は有効なのだろうか?
 エロ漫画のヒロインとして、これは非常に重要な設定である。洗脳を有効とするか無効とするかで、彼女に担当できるジャンルが増減する。
 ぼくとしては、洗脳は有効だと思っている。ニマドは五感獲得のために脳を使っているけれど、それはつまり脳と魂(思考等を司る幽霊部分をそう呼ぶ)がリンク状態にあるということだ。たとえ思考に脳を使っておらず、脳のリソースがあり余っている状態だったとしても、洗脳が文字通り脳に作用する以上、リンクしている魂もその影響からは逃れられないのではないかという考え方だ。
 これはあくまでも「洗脳は脳に作用する」「脳の機能を一部でも使用した場合、魂は脳とリンクする」という二つの前提を元にした考えである。魂にまで作用する洗脳が存在していたり、魔女が脳と魂をそれぞれ別個の物として扱えた場合には、また別な考え方をする必要が出てくる。
 ぼくの推す説でニマドに洗脳が有効である場合、彼女にかけられた洗脳を解除するシンプルな方法がある。それは彼女の肉体を殺すことだ。
 肉体が死ぬと、魂は外に放り出される。すると当然、脳とのリンクも解除される。そのリンク解除により、彼女の魂を洗脳の影響外に置けるというわけだ。洗脳が解けたなら、また改めて肉体を作ればいい。
 問題は、数多の魔法を扱う魔女を殺すなんてことは、人間が束になってかかっても不可能だということだ。……って、これ、バトル漫画の話か? 考えている途中でそう思った。
 誰かが言った、エロ漫画とバトル漫画は似ていると。どちらもエロやバトルという「見せ場」に至るまでの流れが大切だったり、思想と思想のぶつかり合いだったりする。そして今語った洗脳の話のように、なんだか設定がバトル漫画っぽくなる時もある。バトル漫画で強い能力(時間を止めるとか)が、使いようによってはエロくなるのと同じことなのかもしれない。
 エロとバトルの例は他にもある。例えば、サキュバスというとエロに強いイメージだけれど、セックスというのは使い方次第で、愛情表現から暴力にまで何にでもなる。サキュバスが例外なく全てのエロに通じているのなら、暴力にも耐性があるはずだ。
 そしてその耐性が、精神的な物だけでなく実際の力を伴っていた場合、サキュバスはバトル漫画の世界に行ってもそれなりに強いことになる。可能性は無限大だ、各々の想像力でエロとバトルを自由に行き来しよう。
 少なくともフィクションにおいて、正解が一つということはない。何なら自分で作ればいい。

探偵ごっこがしたいわけじゃない。

 嘘を疑われた時、今のぼくに嘘をつくメリットなんてない……といくら熱心に説明しても、大抵はむしろ疑いを深められてしまう。状況に関わらず嘘はつかない、なんて主張する方が余程嘘っぽいはずなのに。
 ……ということを、時々思い知らされるけれど、そして反射的に「納得いかない」と思ってしまうけれど、実は、この現象は当然のことである。
 同じ経験をしたことがある人は、きっと大勢いるだろう。「自分のはずがないんだ」と論理的に説明すればするほど、強く疑いの目を向けられる経験を。ぼくを含めそんな経験を持つ人たちは、一つ胸に刻んでおかなければならないことがある。
 誰かを面と向かって疑っている人は、探偵ごっこがしたいわけではないのだ、ということ。普通、誰かを疑っている最中の人は、論理的推理からの「犯人はお前だ!」がしたいわけではないのだ。誰だって基本的に、人のことを疑いたくなんかない。
 ……例え話をしよう。例えば、ぼくが女性と密室で二人きりになったとする。場所はカラオケでも、どちらかの家の部屋でも、何でもいい。そこで女性が、冗談として言う。
「変なことしないでよ?」
 ここでぼくが、こう答えたらどうなる。
「しないよ。捕まりたくないからね」
 ……たぶん、いや絶対、警戒される。これこれこういう理由があるので、確実に自分はそれをしない……と主張することは、反対に言えば、その理由さえどうにかなれば話が変わってくる……ということになってしまう。
 もしも相手が全知全能で、何が嘘で何が本当なのかを確実に判別できるなら、そもそも人を疑う必要がない。何が嘘かを判別できないから疑うのだ。ということは、潔白を熱心に説明されたとしても、その説明自体が真実なのかどうか、判別する方法もないわけである。
 男女の例なら、「仮に捕まらない目処が立てば、こいつはやりかねない」とか「本当に「逮捕>変なこと」と思っているのか?」とか、疑う側は考えるわけだ。それを一つ一つ否定していこうとしたら、最終的に「いや、普通に考えてそうだろう」としか言えなくなる。自分が口にした理屈が絶対であることは、多くの場合証明できないのだ。それが真実だと確信できるのは自分だけ。…。それでは意味がない。
 人から嘘を疑われた時に「嘘をつく理由がない」と主張することもそれと同じだ。こちらはその主張が真実であることを確信しているから、そんな説明をするけれど、向こうからすればそんな説明、クソの役にも立たない話でしかない。何も主張していないことと、ほとんど同じになってしまう。
 もちろんまともな人なら、疑わしきは罰しないだろう。けれども、誰かから疑われるということは、普通に悲しい。ぼくは「熱心に説明したのに冤罪をくらうのは嫌だ」と言っているのではなくて、「熱心に説明したのに疑われるのは嫌だ」という話をしている。冤罪を避けたいわけではなく、疑いそのものを晴らしたいのだ。
 そのためには、どうすればいいのか? 答えは簡単だ。何も付け加えず、「自分は嘘を言ってない」と主張すること。それでダメな時は、どちらにせよダメだ。ただシンプルに無罪を主張する、それしかない。
 誰かを疑う人は、真摯さを求めている。出来れば疑いたくなんかないのだから、信じさせてくれることを求めている。そして疑われた側に主張の正しさを証明する方法がない以上、相手に信用してもらうためには、真摯さを見せるしかない。(もちろん、主張の正しさが証明できる場合は、証明すればいい)
 ところが、理屈で無罪を主張するぼくのようなタイプは、主張することにちょっと真剣だ。なまじ真剣なものだから、曖昧でふわふわした精神的な話をせずに、論理的に説明しようとする。
 しかしその論理とやらは、自分だけのものだ。自分以外の人間にとって、それは論理性の欠片もない物となってしまう。そもそも、信用の話をしようって時に、論理もクソもないのだ。それは元々曖昧でふわふわした、精神的な話なんだから。
 なのに精神的な話を避けようとするから、当然疑われる。疑われて当然なのだ。理屈抜きの真摯さを求める相手に、場違いな真剣さで返すからおかしくなる。コミュニケーションが成立していない。
 再び話を男女に例えると、「本当に私を愛してくれるのか」と言う相手に、「自分の年収はこれだけあるので、きっと不幸になんかしない」と返すようなもの。例え話における男の側だって、何も考えていないわけではなく真剣なのだけれども、しかし致命的に噛み合ってない。だから上手くいかない。
 本当に愛してくれるのかと問われたら、たとえその言い回しが、自分から見てどんなに嘘くさく思えても、「もちろんだよ」と言うしかないのだ。同じように、嘘を疑われた時は、「嘘なんかついてない」と言うしかないのだ。それでダメなら、どんな言葉を使おうと結局ダメなんだから、仕方がない。
 とはいえ、真摯さによる主張をそもそも「嘘くさい」と感じないタイプの人間は、ぼくのようなタイプよりも、より真摯に見えるように、自分の潔白を主張できるだろう。そういう意味で我々は不利だ。疑われやすい価値観を持ってしまっている。
 ……というわけで、ぼくと同じようなタイプの皆さん。すでに固まってしまった価値観を変えることは容易ではなく、不利を覆す方法はぼくには思いつかず、挙句の果てにこの作文にはオチがないけれど……それでも強く生きていきましょう!

おしまい。

社畜72

 ぼくはソシャゲが嫌いだ。さらに言うと、ぼくは労働が嫌いだ。威張れたことではないけれど、労働に関しては嫌いすぎて、今ぼくはニートとして生きている……というか、生かされている。
 ソシャゲは労働に似ている。あの「今、やらなければならない」という急かされる感じと、一日も余さず継続することが大前提のシステム。楽しいわけでもないのにやらざるを得ないデイリーミッション……。ソシャゲ特有の様々な要素から、子どもが労働を体感したければ、キッザニアに行くよりもソシャゲをやれって感じがする。だからぼくはソシャゲが嫌いだ。ソシャゲをやっているニートは頭がおかしいくらいに思っていた。
 が、そんなぼくが最近、メギド72というゲームに手を出した。経緯としては、YouTubeを見ていた時に「スマホゲームで唯一、2019ゲーム大賞を受賞」という広告を目にして、それに釣られた形になる。
 ゲーム大賞のラインナップを見てみると、自分の好きなゲームが複数含まれていて、なおかつスマホゲームはメギド72以外一つも、どんなに有名な物だろうと一つも入っていなかった(まぁそれは広告通りなんだけれども)。それで、この賞は信用できるかもしれないと思ったのだ。
 結果メギド72からは確かに、他の有名ソシャゲとは違う部分をひしひしと感じた。ソシャゲ特有の批判されがちな部分を、どうにか改善しようという試みが感じられた。リセマラなんかしなくても初回ガチャは何度でも引き直させてやるよってシステムだとか、配布キャラがめちゃめちゃ強かったりすることだとか。
 が、メギド72も例外ではなく、どこまでいってもソシャゲはソシャゲだった。メギド72は優れたソシャゲだ。言ってみればそれは、優れた労働だ。あくまで例えだが、給料が良く、やりがいがあり、職場の人間関係は良好で、なんならちょっといい感じの雰囲気になれそうな異性の同僚がいる……週5フルタイムの労働みたいなゲームだ。
 どこまでいっても、メギド72はソシャゲらしく、労働っぽい性質を持っている。どれだけ言い繕っても純粋な娯楽ではない。「やりたくないことを、やらなければならない」という時点で、それはもはや労働だ。なぜ自ら進んで娯楽を求めていたはずなのに、その末にやりたくないことをやらなければならないのか。
 ゲームというのはやりたい時にやりたいだけやればいい(もちろん時間の許す限りだけれども)。何がスタミナだ馬鹿たれ、何が「このアイテムは特定の曜日にしか入手できないし、その入手にはスタミナを使う上、入手は確定ではなく確率で〜す」だこの野郎、何が「日曜だけは全ての曜日のアイテムを手に入れるチャンス!」だクソッタレが、そういうところだよ。「今、やらなければ」と思った瞬間、それはもう娯楽じゃない、労働だ。「やりたい」と「やらなければ」の区別がつかなくなり、ソシャゲに踊らされるオタクを哀れだとは思わないのか。
 ……と、ソシャゲアレルギーを起こしながらも、今のところ約10日、ぼくはメギド72を一日も余さず継続プレイしている。そんなことしたって間違っても社会復帰には繋がらないけれど、しかしこのメギド72というゲームは、何にも代え難い魅力に溢れていることも事実だった。でなければ今頃とっくにアンインストールしている。
 メギド72の魅力は戦闘が面白いことと、キャラやストーリーが良いことだ。しかし戦闘については個人的に、面白いものの「何にも代え難い」というほどではない。金を払えば同じくらいの面白さを持った、労働っぽさの無い別ゲームが買えるだろう。
 唯一無二な物はキャラとストーリー、それに世界観といった「設定」だ。ぶっちゃけ初めて10日のぼくでは、それらのほんの一部しか知らないのだろうけど、それでも明らかに魅力的だった。
 まずは、ざっくりとメギド72のあらすじを説明しよう。


 世界は三つに分かれていた。「悪魔の住む世界、メギドラル」「天使の住む世界、ハルマニア」そして「人間の住む世界、ヴァイガルド」。
 フォトンとかいう大地の恵み的なエネルギーが存在したりして、現実の人間界とヴァイガルドはいろいろ違うし、現実のホモサピエンスとヴァイガルドのヴィータ(人間の意と考えて大体合ってる)もいろいろ違うけど、そういう細かいことはたぶんスルーしてもいい。
 メギドラルに住むメギド(悪魔)とハルマニアに住むハルマ(天使)は仲が悪く、大昔に一度戦争をした。その際ヴァイガルドが巻き込まれ、神々の戦いのせいで人間界は一度滅びかけてしまう。
 さすがに反省した悪魔と天使は「護界憲章」という停戦協定を結び、お互いヴァイガルドに立ち入ることを禁止した。ぼくが読み進めているストーリー段階から考えると、この護界憲章は物質的な物らしく、言葉だけではない実際の力があるらしい。メギドやハルマはどんなにヴァイガルドに立ち入りたくても、護界憲章がある限りそれが出来ないのだという話だ。
 それでしばらくの間……具体的には、実際に行われた戦争が神話としてファンタジーの領域になってしまうくらい長い時の間、ヴァイガルドのヴィータたち(つまり人間界の人間たち)は平和に暮らしていた。が、ある時メギドラルの上層部が入れ替わった。そして新しい上層部は護界憲章を破壊して、再び戦争を起こすことを目論み始める。
 トップ層の入れ替わりにより、再戦争の意向に従わない従来のメギドたちは、メギドラルから追放されてしまう。追放されたメギドたちは、人間となってヴァイガルドに送られた。
 ところで主人公の男は、なんか知らんけど「ソロモンの指輪」という、追放メギドを従えることの出来るスーパーアイテムを持っていた。しかもそのソロモンの指輪を使えば、人間となってしまったメギドに、一時的にメギドの力を取り戻させることも出来る!
 というわけで、平和派だった故に追放されてきたメギド(悪魔)たちと力を合わせ、メギドラルの送り込んでくる刺客を倒したりして、再戦争(つまり人間界の滅亡)を阻止するために頑張ろう!

 ……って感じの話。思ったより長くなってしまった。
 まずぼくは、悪魔を仲間にして戦うというコンセプトに対して、これだけ説得力のあるストーリーが用意されていたことに感心した。
 悪魔=悪いヤツというのは、実際の戦争が神話になる内に出来たイメージらしく、実際のメギドたちは人格者が多かったりする。もちろん、メギドは自由を好み、ハルマは秩序を好むという種族柄はあるけれど、どっちの種族も普通に友好的だ。この時点でちょっと面白いし、夢がある。
 まぁそれだけだと「悪魔を仲間にするってテーマに上手い物語用意したな、すごいな」で話が終わってしまうのだけれど、メギド72のすごいところは、ストーリーだけでなくキャラも抜群に魅力的なところだ。
 ぼくが真っ先に感心したのはダンタリオンというメギド。彼女はいわゆるロリババア属性だ。しかしそれは安直な属性ではなく、物語に沿ったリアリティがある。
 そもそも追放されたメギドは、ある程度成長した人間の体を得てポンと放り出される……というわけではない。追放メギドは、生まれる予定の人間(ヴィータ)の意識を乗っ取って、人間として人間の両親から生まれるのである。
 そしてメギドラルで暮らしていた頃からずっと、メギドにも人間と同じように、規模こそ違えど「年齢」がある。少年少女メギドもいるし、爺さん婆さんメギドもいるのだ。
 すると、婆さんメギドがメギドラルを追放された場合、当然婆さんの人格で、人間の赤ん坊として生まれてくることになる。ということは必然的に、人間としての幼少期はロリババアになる。
 ロリババア属性の成り立ちに、こんなに説得力がある例を、ぼくは他に知らない。現実にはありえないものを見て「そりゃ、そうなるよな」と納得できたことにぼくは感動した。これがフィクションの中のリアリティってやつだ。
 その他にも「追放メギドは「自分がメギドである自覚」を、人間として生まれてすぐに取り戻す場合と、人生の途中で取り戻す場合と、死ぬまで取り戻さない場合がある」という設定もあったりして、これがまた面白いことになる。
 自分が悪魔だったことを思い出すことなく、人間として生まれ人間として生きて、人間として死んでいくメギドもいる。途中までがっつり人間として生きてきたから、自身がメギドであることを自覚してからも、人間としての暮らしを捨てる気にはなれず苦悩するパターンもある。
 とにかくメギド72というゲームの「設定」は、「設定」そのものに対して真摯だ。徹底している。自分たちの作った世界観にどこまでも忠実だ。だから「そりゃ、そうなるよな」がそこかしこにある。ゲームがどうかという話の前に、まず世界観が魅力的なのだ。
 追放されるまでもなく自ら膨大なエネルギーを費やして、人間として人間界にやって来たメギドもいる。追放がどうとか戦争がどうとかどうでもよくて、料理にしか興味が無いメギドもいる。人格者揃いの中で普通に人間のクズみたいなメギドもいれば、厳ついヤンキーの見た目をしながら作中一二を争う善人なメギドもいる。ウェディングドレス姿で両手には刃物という出で立ちのメギドもいれば、露出等のあからさまな要素が無い「サキュバス」というメギドもいる。唯一無二な魅力を持つキャラクターがわんさかいるのだ。
 ……それらの魅力のせいで、ぼくは10日以上、ソシャゲアレルギーを起こしつつも、アンインストールが出来ずにいる。衝動的にアンストしてしまいたくなる時が何度もあったが、というか今でもあるが、その度に思いとどまっている。まだ読んでいないストーリーがあり、まだ見ていないキャラクターがいて、それらがきっと魅力的だろうと確信しているからだ。
 たぶん本来、労働ってそういうものなんだろう、とぼくは思うようになった。様々な不満に「クソがよ」「そういうところなんだよ」と愚痴を垂れながら、辞めちまおうかなと思うんだけれども、実際に辞めることはしない。愚痴は本心からのものだけれど、辞めてしまいたいという気持ちは本物だけれど、しかしそれと釣り合うくらい、確かな魅力があるから辞めはしない。そういう感覚で、みんな働いているのかなと。
 魅力っていうのが金銭なのか、やりがいなのか、人間関係なのか、それとも真っ当な社会人という肩書きなのかは、人それぞれだろう。けれど何かしら、「本気で嫌なこと」に釣り合う「魅力」があるから、事実みんな働き続けている。でなければとっくに辞めているはずだ。ソシャゲも労働も。
 ぼくが初めてバイトした時のことを思い出す。給料のことを考えて、今まで手が出せなかったあれもこれも、全部手に入れられると、ウキウキ気分で働いた初日だった。
 仕事をやめられるなら、今まで手が出せなかった物なんて何一ついらないと思って、実際に辞めた勤務10日目だった。
 メギド72をプレイしてみても「何がそんなに魅力的なんだ? まったく理解できない」と思ってアンインストールした人が、どこかにきっといるだろう。その人から見たメギド72が、ぼくから見た労働だ。
 洗濯して、皿洗って、夕飯の手伝いをしているだけで、無課金ソシャゲをやって、ネットで作文が書けるぼくは、ただ単に恵まれすぎていて「労働の魅力」を感知出来なくなってしまっただけなんだと思う。けれども、なんやかんや言いながら働いている「真っ当な人たち」が、ぼくのメギド72へ対することと同じくらい、労働やその周辺の事柄に魅力を感じているなら、それはものすごく恨めしいことだ。ちょっとした憎しみが湧く。
 「働きたくない」と言うと、「みんなそうだ」と言い返される。じゃあなんで実際、みんな働いているんだって話だろう。もしもみんな、本当にぼくと同じくらい働きたくなかったら、みんなぼくと同じように労働を拒否するはずだろう。そうなっていないということは、真っ当な人たちは、大して働きたくないとは思っちゃいないんだ。こっちの気持ちも分からずに、分かったようなつもりで、分かったようなことを言ってくる。自分たちが多数派だという自負があるからそうするんだろ、クソが。
 ……と、ずっと思っていた。けれど違ったのかもしれない。みんな本当に、ぼくと同じくらい働きたくないのかもしれない。けれどぼくと違って、労働に捨てきれない魅力を感じているから、働き続けているのかもしれない。ぼくだけその魅力を感知出来ていないだけなのかもしれない。
 そんな風にまた、娯楽から何かを知った気になるニートなのだった。

良ければ結婚を前提に、文字化け契約書を交わしてください。

 極黒のブリュンヒルデという、ちょっと癖の強い漫画がある。それはかつてヤングジャンプで連載していた完結済み作品であり、アニメ化もしている。
 そのブリュンヒルデの中に、要約してこのようなことを言う男キャラがいた。

「恋人になるってことはセックスするってことだ。恋人とだけして、友達とはしない行為とは何だ? セックスしかないだろう。恋人になるってことはセックスするってことだ」

 そのキャラは別に悪役ではなかった。むしろいいやつだった。ちょっと粗暴で高圧的なところがあるけれど、弱者をいじめるような人間ではなく、むしろなんやかんや言って困ってる人を助けてくれるようなやつだった。
 だから余計に、その恋愛観が際立つ。そしてその台詞を見た当時高校生だったぼくは、「恋人になる=セックスをする」ということを「正しい」と認めてしまうと、自分の恋愛観がダメになってしまう気がした。
 恋人=セックスなんて、そんなことはない! ……と言い返すためには、では恋人になるとはつまりどういうことなのか、こちらも具体的に主張しなければならない。今までぼんやりアバウトに考えていたことに、きっちり結論を用意するべき時が妙なタイミングで来てしまった
 「恋人=セックス」という理屈を明確に否定できなければ、今後ぼくの言う「恋人がほしい」という旨の発言全てが、「セックス相手がほしい」という意味に変形してしまう。すると万が一ぼくが、惹かれた相手に告白したくなった時、その「言葉の意味の変形」に自分自身が耐えられなくなってしまう。恋人になってもいないのに、あなたとセックスしたいですとはっきり口にする覚悟が、ぼくにはない。
 今思えば、ぼくが誰かに告白するというそのシチュエーション自体が杞憂だったが、それについては今回考えないことにする。重要なのは、この件について、ぼくが自分なりの結論を導き出せたということだ。
 恋人になるというのは、付き合うことというのは、具体的にどういうことなのか。ぼくはその結論を、「文字化けした契約書」と言い表すことにしている。
 そもそも恋人関係とは、契約関係の一つだ。結構などで生まれる法的な意味での契約とは別な、メンタル的意味の契約が、「恋人」という概念の本体だとぼくは思っている。
 例えば冒頭の漫画キャラが言っていた通り、デートというものは、行動そのものだけを見れば、そこに何ら特別性はない。男女が二人で買い物なり何なりへ行くことは、友達関係であっても十分あり得ることだと言える。でなければ、男女が二人きりで出かければそれは恋人である、なんてふざけた理屈が通ってしまう。それはあり得ないだろう。
 友達同士のお出かけや遊びが、恋人同士になればデートと呼ばれることになる。しかし呼び方を変えたところで、行動そのものに違いは生まれない。大切なのは、そこに関連してくる気持ちだ。恋愛とは、気持ちの問題だ。
 そういう意味で、「デートだと思えばデート」という理屈も、あながち間違いではない。恋愛を恋愛たらしめている物は全て精神的な物であり、物理的な行動ではないからだ。
 恋人=セックスもここで否定される。そもそも、恋人でなくてもセックスする人はする。仕事でする人から、金のやり取りも無しにプライベートでする人だっているだろう。しかし本人が「恋人ではない」と言えば、それはその通りなのだ。法的なルールが介入する場合はさておき、行動がどうであろうと気持ちが「違う」と言えば、それは恋愛ではない。
 そのように、恋愛が精神的な物である以上、「恋人になる」ということも精神的な物であり、それ以上でもそれ以下でもない。何をしたのかではなく、何を思ったのかが恋愛の定義だ。
 しかし、何を思えば恋愛と認識されるのかは、人それぞれ違いがある。セックスの話から繋げると、よく「性行為を拒否したら、相手のことを好きじゃないから拒否したんだと思われそうで、本当は嫌なのに断れない」みたいな話を聞くけれど、その場合少なくとも、その話をしている本人は「性行為をしたいという気持ちは、恋愛の定義に含まれない」としているわけだ。
 もしも本当に性行為の拒否を理由に「恋人として」嫌われるなら、逆に相手の方は「性行為をしたいという気持ちは、恋愛の定義に含まれる」と考えている……ということになる。そういった違いが、恋愛の定義の個人差だ。恋愛とは気持ちの問題なのだから、個人差があるのはむしろ当然だと言えるだろう。
 そして「恋人」という概念は、この定義をお互いに向け合い、許容し合う関係のことを言う。「私と付き合ってください」という言葉は、「私の恋愛の定義と、それをあなたに向けることを許容してください」という意味だ。
 が、しかし、実際はそこで問題が起こる。我々はほとんどの場合、その「恋愛の定義」が具体的に何なのか、ロクに確認もせず告白して、ロクに確認もせず返事をしてしまう。意中の相手に想いを伝える時に、自分の恋愛の定義を語り始める人間はごくごく少数派だろう。
 気持ちを完璧に言語化できる人間は、ごく僅かしかいない。ぼくだって完璧には程遠い。今しているこの話だって、漫画をきっかけに何日も悩んで、ようやく捻り出した結論だ。漫画を読んでいなければ、考えもしなかったかもしれない。
 何のきっかけにも出会わず、あるいはモチベーションが湧く時が来ず、恋愛とは何か恋人とは何かなんてことは、ふんわりアバウトにしか考えてない人がきっと圧倒的多数だろう。だからほとんどの場合で、定義が何だとか、そういう細かい話はしない。好きだとか、愛してるだとか言うけれど、それがつまり何を意味しているのかまでは話さない。
 恋愛の定義、それはつまり、相手に求めることのリストだ。あるいは、自分がするべきだと思い込んでいることのリストだ。「あなたは私と付き合いたいと言うが、具体的に私に何を求めているのか?」という旨の言葉を、告白を受けての返しに使う人はいないだろう。大抵は相手の人となりや今までの関係性などから考えて、つまり相手の恋愛の定義をアバウトに予想して、返事をすることになる。
 もちろん恋人とは相互の関係なので、相手を受け入れるかだけではなく、逆に自分が相手に受け入れてほしいと思うかどうかも、返事の答えに関わってくる。この人に受け入れてもらったって何も嬉しくない……と思う相手とは、誰しも恋人になろうとはしないだろう。
 が、そういうことを考えると話が入り組み、ややこしくなってきてしまうので、今回は告白を受けた側が「相手の恋愛の定義次第では、付き合うこともやぶさかではない」と思っていると仮定して話を進める。実際の言い回しっぽくすると、「本当に自分のことを大切にしてくれるなら付き合ってもいい」と思っている状況……と仮定する。
 さて、ここまで書いたような考えでもって、ぼくは「恋人という概念」を「契約」だと思っている。そして説明した通り、その契約における定義、つまり契約条件は、基本的にお互いロクに把握しないまま、イエスorノーの返事をすることになる。
 それが「文字化けした契約書」だ。我々は誰かと恋人になる時、読めない契約書に判を押している。一部が読める場合や、読めはしなくてもなんとなくニュアンスは把握できる場合があるかもしれないが、その全容を完璧に把握した上で判を押すケースは、無いと言ってしまっていいだろう。
 そしてその文字化けは、契約関係を続けていくうちに、段々と「読める文字」に修正されていく。付き合いを重ねることで、少しずつ相手のことがわかっていく……というのがそれだ。
 少しずつ、相手の恋愛の定義がわかってくる。付き合ってくださいという言葉が、相手の中で具体的に何を意味していたのかを、知ることになる。文字化けした契約書の文字が、全て本来の姿に修正された時、判を押したことに後悔していなければ円満だ。逆にそうでなければ、別れることになったりもするだろう。
 しかしどちらにせよ、基本的に誰も契約書の存在に気付かない。円満に関係を続けようが別れようが、ほとんどの人は契約書の存在に気が付かないままだ。全てを無意識の内に処理している。恋愛の定義と、その契約という仕組みを、ほとんどの人が明確には察知せず、勘と雰囲気で立ち回っている。
 ぼくはこの仕組みをもっと多くの人が認知すれば、恋愛で傷つく人が減るのではないかと思っている。自分や相手の恋愛の定義を確認することは、誰と付き合いたいかを考える際に、すごく重要なことだと思うのだけれど……。
 一つ問題があるとすれば、ほとんどの人が恋愛の定義の中に「少なくともこちらに向けて、定義が何だ契約が何だと、クソみたいな理屈をこねくり回さないこと」を含ませていることだろうか。
 相手に定義を尋ねた瞬間その人は、その相手の定義に則って弾かれることになる。しかし恋人という契約は、元々そういうものなのだ。



 ところで、そう考えると、冒頭の漫画の台詞もちょっと見え方が変わってくる。
 恋人になるってことはセックスするってことだ、という理屈は、恋人という概念の本質を言い表す物としては不正確だ。しかしその台詞は同時に、そのキャラ自身の恋愛の定義の説明にもなっている。
 その台詞を、恋人関係の本質について話した物ではなく、ただ単に自分の恋愛の定義を語っただけの物として捉えれば、何もおかしなところはないのである。「俺は、恋人になるってことはセックスすること……だと思っている」という意味なら、ごく自然な主張なのだ。
 そういう捉え方をするなら、彼は貴重な「恋愛の定義を初めから明確に提示する人」である、彼の持ってくる契約書には、文字化けしている部分が普通よりずっと少ないことになる。
 それを踏まえてみるとやっぱり、契約書が初めから読める文字で書いてあるという特徴は、恋愛において何の強みにもならない場合がほとんどのように思う。

「うのとれ!」というゲームをたぶん100戦くらい遊んだ。

 UNOとTCG(トレーディングカードゲーム)を融合させたスマホゲームアプリ、それが「うのとれ!」だ。

 カードゲームであるからにはそれぞれのカードにイラストがあるわけだが、その題材は東方projectとなっている。アプリのアイコンは魂魄妖夢だ。

 UNOとTCGの融合とはつまりどういうことなのか。その意味するところは、まず自分でデッキを組むというシステムにある。デッキを組むということは、もうその時点で「これは単なるウノではないぞ……」というオーラを放っている。全ての人類はそのオーラに惹かれる人と、嫌厭する人とに二分されるだろう。

 そしてカードゲームをするからには、それぞれのカードに「効果」が設定されている。通常のウノではスキップ、リバース、ワイルド、ドロー2、ドロー4くらいが「効果」と呼べる物だけれど、うのとれ!には全てのカードに効果がある。ただ数字と色が書いてあるだけの、何の効果もないカードは存在しない。

 すると当然、ゲームは混乱を極めることになる。想像してみてほしい、ウノのカード一枚一枚に、それぞれ別の効果が設定されていることを。洪水のような情報量に、初見では何も把握しきれないだろう。TCGオーラに惹かれた人たちは、ここで再びふるいにかけられてしまう。

 しかもこの「うのとれ!」は、ウノとしては一戦がめちゃめちゃ長い。スーパー長い、ウルトラ長い。そうなってしまう理由は後述するが、とにかくゲームをインストールしたばかりの序盤は「勝たなければカードが買えない」+「一戦がめちゃめちゃ長い」→「何度か連続で負けると心が折れる」という流れになりやすい……と思われる。折れなかったからぼくは今この作文を書いているわけで、ぼく以外のうのとれ!プレイヤーをぼくは知らないけれど。

 そしてそんな「うのとれ!」には、さらなる問題点がある。それは「対人戦の機能がない」ということ。対戦相手は永遠にCPUだ。そしてインストールを試みる際目に入ると思うのだが、このゲームはすでに、これ以上の開発が放棄されてしまっている。もう一度言うが、正真正銘、対戦相手は永遠にCP‘Uだ。

 数々の困難を乗り越えても、友達と遊び盛り上がることはできない。けれどタイトルから察してもらえる通り、ぼくはこのゲームを、全てのカードゲーム好きにおすすめしたい。いくら対人戦が出来ようと、開発がどんどん進もうと、シャドバやゼノンザードのようなクソゲーをやってる場合じゃない。うのとれ!をやれ。うのとれ!の中にある、人類の可能性を見ろ。

 ぼくはこのゲームに、実物のUNOでドロー4を直撃させられながら「爆アドォ!」とか言って騒いでる、カードゲーマーたちの夢を見たよ。

 

 

 

 うのとれ!ってこんなゲームだぜのコーナー。まずは通常のUNOと同じところから紹介。

 

・手札は7枚からスタート。誰よりも早く全ての手札を使い切った人の勝ち! ただし通常のUNOと違って、同じ数字のカード複数枚を一気に出すことは出来ないので注意。

・同じ色か、同じ数字のカードを場に出せる。ウノって言い忘れるとペナルティがある等々、基本ルールは通常のウノと同じだ!

・ただし、一戦で試合が終わるとは限らない。勝者には決着がついた時点で、「他プレイヤーの手札の総数」に等しい点数が与えられるぞ。この点数が15点以上貯まった人が、その試合の勝者となる! 逆に15点貯まるまでは、延々と再戦を繰り返すってわけだ。よくわからんけど、たぶん公式の競技ルール的なやつもそんな感じなんでしょ(適当)。

 

 点数については「他人の手札は増やしつつ自分はあがる」なんてことが狙って出来るなら、そりゃ点数のルール無しのノーマルなウノでも苦労しないじゃないって話なので、いったん忘れてもらって構わない。

 要するにうのとれ!も基本ルールは通常のUNOと大差ない。しかし逆に言えば、基本ルール以外は何もかもが違うので、次はそれを紹介していく。

 

・「色」は全部で5色。赤、青、緑、白に加えて、通常のUNOにはない黒がある。また、色を持たない「無色」も存在したり、複数の色を持つ多色カードもある。デュエルマスターズみたいだね。

・「スペル」という特殊能力の概念がある。その内容は選択したキャラ毎に異なり、基本的に一戦に一回しか使えない。一度「あがり」が出てから点数が足りずに再戦する時は、スペルの使用権も復活する。

・デッキ切れの概念がある。通常のUNOと違いそれぞれのプレイヤーが自分のデッキを持ち寄って戦うので、当然誰かのデッキだけ先になくなることもある。デッキが0枚の状態でパスするなどしてカードを引こうとすると、その時点で強制敗北になるから気を付けよう。

・各カードの能力がバリエーション豊か。場に出した時に発動する効果以外にも、手札から表にして「公開」することで発揮される効果や、条件を満たすと山札から飛び出してきて発動される効果、デジタルカードゲームの特権である「カードを書き換える」系の効果もあるぞ!(手札や山札の中にあるカードの色を変えたり、効果を無効化したりできる。ワクワクしない?)

 

 と、通常のUNOとの違いは大体そんな感じ。一番大きいのは色についてだろう。色が一つ増えるだけで、格段にカードが出しにくくなる。一戦が長くなりやすい原因の一つはそれだ。

 一戦長期化の原因はもう一つあって、このゲームにはドロー系のカードが妙に多い。妙にというか、ウノをやる中で全てのカードに効果を与えるとなると、どうしてもそうならざるを得なかったのだと思われる。しかしこの「5色+ドロー系多数」によって、一戦の長さが初心者の……つまりかつてのぼくの心を折りにきた。

 けれどこのゲームには、それを乗り越えるだけの価値がある。カードが集まってくるにつれて出来ることが増えていって、UNOとTCGの融合が、奇跡的に成功していることを実感できるようになる。そして慣れれば慣れるほど、効率的に試合を回せるようにもなってくる。そうなってくると俄然面白くなるのだ。

 面白くなりすぎて、ぼくは作文タイトルの通りだ。延々CPUと戯れてしまっている。何がそんなに魅力的なのかと言われても、この魅力はたぶんカードゲームが好きな人にしかわからない。ものすごくカードゲームっぽいのだ、うのとれ!というゲームは。

 ゲーム性はTCGらしさに満ちているけれど、対人戦がない以上、このゲームの楽しみ方自体は、おそらくRPGに近い。「ぼくはこういうところを面白いと感じる」という話をしてしまうと、それはRPGのストーリーをネタバレしてしまうような意味を持ってしまう。

 が、ぼくは知っている。どうせこれを読んで「へぇー、いっちょインストールしてみるか!」となる人はいない。そもそもこれを読む人がごく僅か、下手すればゼロだ。そのごく少数の初見の楽しみ、自分で考え開拓していく楽しみを奪ってでも、ぼくはこの話がしたい……!

 少しでもうのとれ!に興味を持ってくれた人は、ここで引き返してインストールしてみることをおすすめする。ここから先を読むのは、心が折れてからでも遅くないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず、このゲームの必勝法から教えよう。心が折れた人はこれを目指してほしい。

 散々話した通り、5色&妨害多数のこのゲームでは、まともに手札を使い切ってあがることが難しい。もちろん不可能ではないし、その気になれば正攻法でもかなりの勝率を出せることに後々ぼくは気が付いたが、それよりも先に見つけた必勝法はこうだった。

 自分があがれないのなら、他人をあがらせないまま、全員潰してしまえばいい。このゲームには山札切れによる敗北があるのだ。「ドローさせる効果」とは、相手のあがりを妨害する意味ともう一つ、山札を削る意味も持っている……!

 そんな「おい、UNOやれよ」と言われそうなデッキ破壊デッキ、それがぼくが「うのとれ!」の中で一番初めに見つけた必勝法だった。

 相手全員のデッキを破壊し尽くすためのコンボパーツとして、以下のカードが必要になる。

 

・「河城みとり

……赤の3。手札のこれが公開状態なら、相手はパスする時山札2枚破棄。

・「イビルアイΣ」

……黒の6。手札のこれが公開状態なら、相手はパスする時もう1枚引く。

 

 この二枚を使って、相手が場に出せるカードを持たずパスする時に、計4枚のカードを山札から消費するようにする。パスの重みが自分の四倍になるのだから、これが決まれば大抵自分より先に相手全員の山札が尽きる。

 公開状態にするためのコンボパーツには、主に以下の四種類を採用している。

 

・「リグル・ナイトバグ

……緑の1。自分の手札を全て公開し緑の枚数が2枚以上なら1枚破棄。

・「河城にとり

……青の3。自分の手札を全て公開し青の枚数だけ相手の山札を破棄。

「夢子」

……赤の5。自分の手札を全て公開しそれらに赤色を追加する。

・「霊鳥路空

……赤の6。自分の手札を全て公開し赤の枚数分だけ相手はカードを引く。

 

 うのとれ!は全てのカードが最大1枚までしかデッキに入れらず、30枚デッキで戦うゲームなので、この四種類、計4枚を採用することになった。

 一番上の緑、リグルは本来「手札が相手にバレるかわりに、1枚捨ててあがりに近づける」というカードなのかもしれないが、もっぱらコンボパーツとして使っている。他にも手札を公開できるカードはいくつかあるのだが、リグルは万が一コンボ計画が破綻した際に、少しでも通常のあがりに近づけるという理由で採用している。

 次の青、にとりは見たまんまだ。デッキ破壊のコンボを準備しながら、デッキ破壊を行ってくれて一石二鳥だ。ただ、青のカードには山札破棄の効果が多く、山札破棄は相手のあがりを遅らせる意味を持てない以上、単純なドローの下位互換になっている。そのため青のカードは採用枚数が少なめで、にとりの効果も後半は使えればラッキーという物になっている。手札に青が1枚もない時でも、前述のメインパーツ2枚を公開できるタイミングならガンガン使っていこう。

 次の赤、夢子はコンボパーツの公開ついでに、全ての手札に赤を足してくれる。要するに赤以外のカードは全て多色となるのだ。場への出しやすさが跳ね上がり、ほとんどのカード(現在紹介している四種類も)が場に出した際に効果を発揮するので、コンボ成立後の詰めを有利に行えるようになる。

 さらにその次の赤、お空ちゃんは公開ついでに、ドロー強制という名のデッキ破壊を行ってくれる。あがりを遅らせてくれる上に、そのまま仕留められればデッキ切れで脱落時の手札枚数が、そのまま勝者へ入るポイントになるので、大量得点により一発で試合を終わらせられる可能性もある。

 ……と、このようなギミックをメインに、その他様々なカードでメインの動きをサポートしながら、デッキ破壊による勝利を狙っていくことになる。なぜ単純なデッキ破壊効果やドロー系効果を使わず、わざわざ手札公開という手間を挟むのかというと、そこには深い理由がある。

 この「うのとれ!」というゲームにおいて、テキスト上に「相手」と書いてあった場合、それは基本的に「自分の次の順番の人」を指している。相手全員という意味ではないのだ。相手は2枚ドローすると書いてあった場合、自分の前隣の一人だけが2枚引くことになる。

 必ず四人で対戦するこのゲームには「相手(前隣の人)」「相手全員」の他にもう一つ「対面」という目標指定もあるが、とにかく重要なのは、ほとんどのカード効果が単体にしか及ばないということだ。こっちが必死こいてたった一人のデッキを破壊していたら、残る二人が漁夫の利を得るに決まっている。

 そこで初めに挙げた2枚のカードである。テキスト上は「相手」と書いてあるものの、それらのカードはなぜか効果が全体に作用する。手札公開さえ済ませてしまえば、自分以外の全員がパスするたびにすごい勢いで山札を消費していくのだ。

 これはカードのデザイン上「自分以外のパスした人は」という文章が文字量の関係で入りきらず、「相手はパスする時」と書かざるを得なかったのだと思う。(画像は実際のゲーム画面)。

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 対人戦のない閉じた環境だからこそ、そういうところを読み取り把握していくことを、「面白さ」と呼べないこともないだろう。

 とにかく何にせよ、デッキ破壊を勝ち筋にするなら、最初に挙げた2枚のコンボパーツは必須だ。逆にそのコンボさえ成立させられれば、このゲームはあがらなくても勝てる。まともにUNOをせずにUNOで勝てるのだ。これに一人黙々と遊ぶ中で気付いた時、ここまで折れずに続けてよかったと思った。ぼくがこのゲームを好きになったのはそこからだと思う。

 そしてこのゲームの面白いところは、メタカードが存在しているところにある。UNOで行うデッキ破壊という、言ってしまえば邪道のクソゲー戦法に対して、対策となるカードが多数存在しているのだ。カードゲーマーがしょっちゅう口にする「メタ」という概念が、うのとれ!にはきっちり存在している。

 その「ちゃんとカードゲームになってる感」を紹介するために、デッキ破壊デッキに対するメタカードを何枚か挙げてみようと思う。

 

・「八尺さま」

……黒の3。誰かが脱落しているなら相手は山札を全て破棄。

・「ルナサ・プリズムリバー

……黒の4。全員の公開されている手札を全て非公開にする。

・「多々良小傘

……青と緑の2。全員、手札を全て山札に戻し同数引き直す。

・「八雲紫

……青と黒の7。自分と相手の山札を全て交換。

・「ワーハクタク」

……無色の7。相手全員の手札全ての効果を消して公開させる。

 

 まずは八尺さまから解説。テキスト上の「脱落」というのはもちろん、デッキ切れで負けが確定した人のことだ。一人でも脱落者がいた場合、八尺さまが出てきた途端、その前隣の人は山札が全部消し飛ぶことになる。

 コンボを成立させて流れに乗り、勝った気になっていたら突然後ろの人から八尺さまが飛んできて即死……なんてことが起こりかねない。というか何度かあった。がっつりデッキ破壊をメタっていると言えるカードの1枚だ。

 次のルナサは、手札公開へ対するメタになっている。デッキ破壊以外にも手札効果という手間を挟んで発動する効果はあるのだが、手札公開系の最強戦法はおそらくデッキ破壊なので、もっぱらそのメタになっている。対象範囲が「全員」なので、何らかの効果で公開させられた自分の手札を非公開に戻し、ゲームを通常のUNOに戻すという意味合いも持っている。

 手札を公開するためのカードは、例えばぼくが使っているデッキだと30枚中の4枚が全てなので、一度ルナサで戻されるだけで結構つらい場合も多い。八尺さまのような致死級の威力はないが、後ろ隣以外からも飛んでくるという恐ろしさがある。

 その次の小傘は多色であり、場に出ているカードが青でも緑でも出てくる。そして手札の引き直しという効果はつまり、公開した手札を非公開に戻すという意味でもある。小傘の強力なところは、既に揃えていたパーツさえデッキに戻される可能性があることだ。ぶっちゃけルナサの上位互換だと思う。

 その次、八雲紫は、これはこれで別のクソゲーメーカーである。お互いの手札を交換させるカードは他TCGでもちょくちょく見かけるが、デッキを丸ごと交換するのは前代未聞だろう。コンボパーツを引き切る前に、後ろ隣からこいつを投げられると、もはやプランは崩壊、普通のUNOをやらざるを得なくなる。しかも八雲紫は多色だから場に出てきやすい。

 デッキを組んでUNOをやるという楽しみを頭から否定していくようなとんでもカードだけれど、その絶妙なところは「投げたからって勝てるとは限らない」というところだ。デッキを入れ替えたって負ける時は負けるし、入れ替えられた方だって勝つ時は勝つ。この「クソゲーメーカーではあってもぶっ壊れではない」ということと、出てくるタイミングが遅ければ遅いほど効力が弱くなることが、30分の1でしかデッキに入れられないゲーム性とほどよく噛み合っている。というかそもそも、UNOっていうゲームは元から運ゲーなんだから、TCGと融合したってこのくらいダイナミックなカードもあっていいのだ。

 そして最後のワーハクタク、こいつもクソゲーメーカーである。自分だけ何の被害も受けずに、他人の手札を公開するわ、その上で効果を消すわ、「俺だけ有利なUNOやろうぜ」と地で言っていくカードになっている。これを出されてそのまま負けると、非常にしょうもない気持ちになること請け合いだ。

 が、このワーハクタクにもほど良いバランス調整がされている。それは無色だということだ。無色というのは「いつでも場に出せるが、逆にどんなカードでも上に出されてしまう、相手が色を選択するワイルドカードのような物」……ではない! 否だ、断じてそんな物ではないのだ。ぼくも初めの頃はそれに驚かされた。

 無色というのは「無色カード、あるいは数字の同じ有色カードの上にしか出せず、出たあとは全てのカードを乗せられてしまう物」なのである。死ぬほど出しづらく、出したら出したで隣の人に好きなカードを出されてしまう。そんな扱いづらい代物が無色であり、だからこそ無色には派手で強力な効果を持つカードが多い。

 ワーハクタクが場に出せるのは、場に出ているカードが無色の時か、7の時だけ。青でも緑でも2でも出せる小傘と比べると出しやすさが段違いになっている。なかなか出せずに手札で腐り続け、出せた時には手遅れ……なんてこともある。だから許せるカードなのだ。

 ……というように、うのとれ!というゲーム、すごくちゃんとカードゲームになっている。インディーズゲームにありがちな、最強戦法を見つけてしまえばそれでおしまい、今までの苦労が馬鹿馬鹿しくなってしまう……というパターンではないのだ。ぼくはそこに感動した。

 ただ、これで対人戦をやるとどうなるのか、未知数なところはある。CPUに対する手札公開と、人間に対する手札公開では、きっと意味が違ってくるだろう。CPUはあらかじめ設定されたデッキを握っているだけで、たまたま各種メタカードを使っているにすぎないが、デッキ構築の段階から人間が入るとどうなるのか、まったく予想できない。

 万が一うのとれ!が対人戦に対応したとしても、その時このゲームが面白い物になれる保証は、どこにもないように思う。けれどそれがいい。対人機能さえあればと嘆くわけではなく、「どうなるかわからないけど、対人戦やってみたいなぁ」と思いながら、ひたすらCPUと戦う。それが良い。非常に良い。絶妙な引きこもり仕様だ。

 さらにこのゲームが素晴らしいのは、やりこみ要素があるということだ。だいぶ前に「キャラ毎に内容の異なる、スペルという概念がある」と言ったけれど、そのスペルは、キャラ一人につき一種類ではない。初めは50%から始まる好感度が、そのキャラを使って勝つたびに10刻みで増えていく。そして100%に達したとき、隠されし第二のスペルが解放されるのだ……!

 で、そのキャラが全員で、24人いる。ぼくがタイトルの通りこのゲームを遊びまくっているのは、その第二のスペル解放のためである。単なるやりこみではなく、解放していくことで当然新たな面白みも出てくるのだから、こんなに素晴らしいことはない。それと単純に第二のスペルがどんな内容になるのか気になる、好奇心をつついてくる面白さもある。

 せっかくなので、デッキ破壊デッキと相性の良いキャラを何人か紹介しておこう。

 

・「魂魄妖夢

……ほとんどのキャラが「UNOに勝つ」ことでアンロックされる隠しキャラに設定されている本作の、貴重な初期キャラ。

 第一スペルは「相手のUNO宣言を打ち消す」効果。これにより強制的にウノ言い忘れのペナルティを与え、2枚ドローさせた上で、その時に相手が出したカードの効果を消す。コンボ成立前や、デッキを破壊し尽くす前にあがられてしまうことを防ぎ、なおかつデッキ削り2枚の効果も成す。そんな悪くない能力だ。

 第二スペルは「誰かがあがる時、それを打ち消しカードを2枚引かせる」効果。UNO宣言打ち消しによるカード効果無効化能力を失ったかわりに、あがる見込みのない状態でとりあえず宣言するUNOに惑わされず、確実にあがりを妨害することが出来るようになっている。……まぁ正直、第一スペルと大差ない。

 

・「封獣ぬえ

……中盤でアンロックされるキャラ。第一スペルは「相手全員はカードを1枚引く」というシンプルな効果。小規模とはいえ確実に全員のあがりを妨害出来て、合計で3枚の山札を削ってくれる。

 しかし第二スペルを解放すると、このキャラの神髄が発揮されることになる。第二スペルは「相手全員は手札を全て破棄しカードを4枚引く」という効果になる。

 強制的に全員の手札を4枚にすることであがりを阻止できるが、重要なのはそこではない。このスペルは、確実に合計12枚の山札を削る効果なのだ。一部の「スペルの使用権を復活させる」系の効果を持つカードを用いれば、スペルだけで24枚も削れることになる。しかもちゃんとあがりも妨害できる。デッキ破壊デッキを使うにあたって、超有力候補のうちの一人だ。

 ……というかこの第二スペルはさすがにちょっと、通常のUNOやらせる気がなさすぎる気がする。バランス調整するとしたらここだろう。

 

・「大妖精」

……ぬえより後にアンロックされるキャラ。第一スペルは「全員カードを2枚引く」効果。全員のあがり妨害、6枚の山札削りに加えて、こちらはぬえと違い序盤に打つことで、自分のコンボパーツ集めをサポートしてくれる能力になっている。

 第二スペルはシンプルに「全員カードを3枚引く」という物。使い方は第一と同じだ。このスペルもまた通常のUNOをやらせる気がなさすぎると共に、こういうやつらが初めの方で言った「一戦の長期化」の原因を担っていたりする。

 

・「ルーミア

……ぬえと大妖精の間でアンロックされるキャラ。第一スペルは「相手全員の山札を見て黒のカードを2枚ずつ選び破棄」という効果。黒には先ほど紹介したような、デッキ破壊デッキへのメタカードが多数所属しているので、それをピンポイントで落としつつ山札削りを最大6枚行えるのは大きい。

 ただし弱点も多い。あがりを妨害する力が一切なく、初手に握られたカードは落とせず、打った時点で相手のデッキに黒がない場合は空打ちになってしまう。ただしそれでもメタカードをピンポイントで抜ける効果は魅力的なので、やはりぬえと大妖精のパワーがおかしいのだと思う。

 第二スペルは「相手全員の山札を見て黒のカードを2枚ずつ選び引かせる」という効果。普通に考えればあがり妨害が出来るようになって喜ぶべきなのだが、引かせてしまうのでメタカードを落とす役割を失っている。第一と第二、どちらを使うかは好みによるところがある。ただカード効果で使用権を増やして二度目を打つつもりなら、第一の方にしておかないとほぼ確実に相手にメタカードを渡すことになってしまう。

 

・「小悪魔」

……大妖精よりあとにアンロックされるキャラ。第一スペルは「手札を1枚選んで破棄し山札の上から3枚見て1枚を引く」という効果。つまり手札1枚と山札の上から3枚までのどれかを交換できる。コンボパーツを集める際に役立つ他、万が一デッキ破壊プランを放棄する場合は、通常のあがりをサポートしてくれる意味合いも持つ。

 ぼくが思わず笑ってしまったのは第二スペルの方だ。その効果は「場のカードの数字を4に変える」という物。いや、今まで正統派進化みたいな流れがあったのに、なんでそんな効果になったんだよ。

 要するにいつでも一度だけ4のカードを確実に出せる効果なわけだが、紹介した通り、デッキ破壊のメインギミックに4は無い。第二スペルの方は、まったく違ったデッキで役に立つのかもしれないが、専用デッキを組むほど派手な効果でもないので困ったものだ。どうしてこうなった。

 

・「パチュリー・ノーレッジ

……小悪魔よりあとにアンロックされるキャラ。第一スペルは「自分の山札の無色カード全てに緑色を追加する」効果。出しづらい故に強力な効果を持つ無色カードを、全て有色に変えてしまおうというダイナミックかつ夢のある効果だ。専用デッキを組む価値がある。

 このパチュリーを使うことで「ワーハクタクを出される前に、むしろこっちから出す」というようなことが狙える。また、無色の中には、

 

・「奏こころ」

……無色の7。自分以外はこれの上に無色のカードしか出せない。

 

 というカードが存在しているので、これを緑にすることで「無色は無色か同じ数字の上にしか出せない」というルールと合わさり、「自分以外はこれの上に7以外のカードを出せない」という強力なロック効果が実現する。これをデッキ破壊コンボ成立後に出すと、相手にパスを強制させ、自分もパスを続けることで、誰かが7を引くまで相手全員の山札が一生自分の4倍のペースで吹き飛んでいくことになる。

 その他にも様々な有力無色を気軽にデッキに入れられるようになり、他キャラとかなり異なった面白味と強さを持ったプレイが可能になる。個性ナンバーワンのキャラだと言えるだろう。

 欠点は、初手に引いてしまった無色カードに色をつけられないこと。初めにカードが配られ、その後にスペル発動を宣言するルールになっている以上仕方がない。また、何らかの効果でスペル発動を封じられると、途端にデッキが無色だらけで厳しくなってしまう。またあがりの妨害や、直接的な山札削りも出来ない。

 しかし第二スペルは「自分の手札と山札の無色カード全てにランダムに色を追加」という効果になっている。これによって第二スペルさえ解放してしまえば、第一の欠点をほとんど克服出来てしまう。スペル単体で妨害や山札削りを成立させられない弱点はそのままだが、全キャラで一番夢のある人だと思う。

 

 ……というような感じだ。初めの頃はぬえを使って「勝てる、勝てるぞぉ!」とそれまでの鬱憤を晴らしていたが、最近はむしろ他キャラの第二スペル解放を兼ねて、ぬえと大妖精を使わずどこまでやれるか試している。イカれた性能のキャラがいるなら、プレイヤー側で自重すればいいだけなのだ。しかもCPUとしか戦えないし。

 もちろん戦法をデッキ破壊から通常のUNOに変えれば、相性の良いキャラも全く別なものになっていく。そういった面白さがあるので、長々と遊んでしまうわけだ。正直キャラ性能の差はかなり激しいが、単純な優劣ではない個性が豊かなので全然楽しめる。

 そういうキャラ性能の面も併せて考えると、やはり対人戦がいざ実現すればクソゲーが始まってしまうのでは……という気がするけれど、開発を放棄されたゲームに今以上を期待することは何もない。そういうところはかえって気楽でよかった。

 

 ……され、ぼくの書きたいことはこれで大体終わりである。本当はデッキ破壊デッキの採用カードを一枚ずつ解説したいけれど、さすがにここではやめておく。やるとしても別の作文として書く。

 付き合いのような気持ちでここまで読んでくれた人がいるなら、ありがとうとしか言いようがない。ぼくはその人に敬意を表する。たぶん内容はほとんど伝わっていないと思うけど、このゲームをおすすめしたいという気持ちだけは伝わったと思う。ぜひインストールしてみてほしい。

 仮に自分が、思い描いた通りのゲームが作れる能力を持っていたとしても、UNOを元にしてこんなにちゃんとしたカードゲームを作れる気が少しもしない。うのとれ!を作った人は天才だと思う。インストールしてもらって、その感覚を共有したい……!

 はい、本当に以上です。また別の作文で会いましょう。

 

 おしまい。

「エロ」と検索すれば、パンダがいた。

 性知識の歪みとは、エロ本やAV等の創作物から生まれるのだ。この世の中は、フィクションをフィクションだと理解できないような、馬鹿な男たちばかりが蔓延っている……!
 ……なんていう話が、半ば常識のように扱われている昨今。そんなことだから、表現規制という話も出てくる。フィクションをフィクションだと理解できないのなら、そもそもそのフィクション自体を無くしてしまえばいい、という流れだ。
 全ての男が賢く、なおかつ紳士であったなら、エロに対する表現規制の波は今ほど大きくなかっただろう。フィクションと現実を混同する男ばかりだから、今の流れがある。……が、しかし、その原因を全て「不健全なフィクションと、無知で馬鹿な男たち」のせいにするのは、それは違うと思う。
 そもそもなぜ男たちは正しい知識を持たず、フィクションを信じるのか。それはフィクションしか見る物がないからだ。学校でセックスの作法でも学ぶのか? そんなわけがない。ではどこで正しい知識とやらを学ぶのか。そう、そんな機会はどこにもないのだ。
 学ぶ機会がないことは、何も男に限った話ではない。しかしエロ本やAVは大抵男性向けの物で、つまり男性に有利な内容として出来ているから、それを現実と混同してしまった場合に割を食うのは、いつも女性の側なのだ。だから男の無知ほど叩かれる。
 しかし、いくら表現規制を強めたって、無知は改善されない。間違った知識を持つ状態から、何の知識も持たない状態に移行するだけで、表現規制が人を賢くすることはない。無知は無知のままだ。
 そんなやり方ではきっと、表現規制を望む人たちが考える「理想の世界」は、一向にやってこないだろう。性別に関わらず、今割を食っている人たちはきっと、引き続き不愉快かつ不都合な世界で生きることになってしまう。
 何も知らない者は、確率的に大抵失敗する。あらゆる失敗は、知っているからこそ避けられる。正しい性知識のために本当に重要なのは、不健全なフィクションの駆逐ではなく、正しい知識を学ぶ場の確立なのだ。
 話をその段階に持っていけない間は、今と同じように、みんながみんなお互いに、一生歪んだ性知識と付き合っていくしかない。
 ……なんていうのは、詭弁だ。正しい性知識を学ぶ場を用意することは、口で言うほど簡単じゃない。そんなことが出来るのなら、きっととっくにやっている。
 ぼくが高校の頃に受けた性についての授業、あるいは注意喚起の話を例に挙げる。その授業の内容には、保健体育の教科書に載っていることより、少し踏み込んだ物があった。
 クラミジアや梅毒などの、代表的な性病の名前や症状、治療法などを挙げて、結論として「危ないから、自分で責任を取れないうちは性行為をしないように」と締めくくる内容だった。……こちらも結論から言うと、その授業は、限りなく無意味に近い物だった。
 責任が取れる大人になれば、性病は危険でない物になるとでも言うのか。性行為をしなければ絶対に性病にならないというなら、そもそも最初の性病はどこからやってきたのか。責任が取れる大人とやらは、実際のところどのようにしているのか。……それら当然の疑問に何の説明もない、子供騙しの内容だ。しかしそれも、完全に無意味だったわけではない。
 実際、ぼくはそれがきっかけで、ネットでいろいろと調べた。その授業がなければ、調べようと思うことさえなかっただろう。結局性病がそもそもどこから来たのかは、一応の有力らしき説はあるものの「人類の謎」といったような扱いらしいことが知れただけで、特に生活の役には立たなかったけれど。
 それで何が問題なのかというと、その授業を受けていた時に、ぼくは「なんだかなぁ」という居心地の悪さを感じたことだ。不愉快とはいかないまでも、確かな居心地の悪さがあった。それが問題なのだ。なんとなく、人と聞くような話ではないように思えた、その感覚が大問題。
 ぼくはおそらく、そこらへんの男より性への興味が強い。なぜそう思うのかはあとで話すが、とにかく、そのような自覚を持つ男でさえ、性に関する授業に覚える感覚は「なんだかなぁ」だった。ぼくでこれなら、もっと強い抵抗を覚える人なんて五万といるだろう。
 正しい性知識を学ぶ場は必要だ。しかしそのために、生徒へ不愉快な思いをさせていいわけじゃない。そのジレンマの結果が、無難で無価値な性教育へと繋がっているのだとぼくは思っている。ちょっと踏み込んだ内容に手を出してみたって、大人の身に染み付いた無難さと無価値はそのままだ。
 そしてこのジレンマの解決策が、ぼくにはまったく思い浮かばない。教室というパブリックな場面で教わるのが嫌なら、プライベートな場面で学べるように教材なり何なりを渡せばいいのか? いったい何割の生徒が、それを真面目に見てくれるのだろう。読書感想文を真剣に書く生徒の数と、いい勝負になるんじゃないか。
 ほぼ全ての生徒に、不愉快な思いを極力させず、なおかつ有意義で正しい性知識を学ばせること。これは至難の技だ。どうすればそれが可能になるのか、ぼくにはさっぱりわからず、たぶん誰にもわからない。だからこそ現状の有り様だ。少なくともしばらくの間は、ほとんどの子どもが、性知識に乏しいまま歳を取って、やがて大人と呼ばれるようになるだろう。
 ただ歳を取るだけでは、精神的どころか、知識的にも成長なんかしないのに。



 ……ここからは、ぼく個人の話になる。ぼくは、フィクションを見ることで間違った性知識が身についてしまう、という考え方に否定的でいる。
 ぼくがエロ本を読んだのは、小学四年生くらいの時だったと思う。それはエロ本というよりも、父の買った青年漫画雑誌だったのだが、内容の過激さとしては、エロ本と言って差し支えない物まで載っていた。
 初めてそれを見た時は、何がなにやらわからなかった。何せ漫画には色がなく、そして色々なことがボカしてある。大抵のエロ漫画は、すでに事の真実を知っている人向けの描写だらけだ。
 だから当初、精液のことをおしっこだと思って見ていたし、おちんちんをお尻の穴に入れているのだとも思っていた。そもそも当時のぼくは女性器の存在さえ知らず、漫画からそれを把握することも出来なかった。女性の下半身には、自分の下半身から男性らしさを失わせただけの、ツルツルとした平面があるのだとばかり思っていた。
 そうやって、エロ漫画というある種のカルチャーショックを受けたぼくが、やがてネットでエロ動画を見初めたのも、たしか小学四年生くらいの時だ。両親とも家にいないことが多いので、ローマ字さえ覚えてしまえば「エロ」で検索をかけることは容易だった。
 ぼくは忘れないだろう、それで出てきた「エログちゃんねるニュース」というサイトのことを。サイトのトップには、なぜかパンダがいた。背景と同じ色の、ピンク色のパンダだ。気になる人は今からでも見に行ってみればいい。
 そこには、膨大な数のエロ動画があった。子どもにでもそれとわかる企画モノ、子どもからすればリアルに見えたレイプ物、今思えばマニアックな内容の物や、アニメやゲームなんかもあった。
 そのエロサイトをきっかけに、ひょんなことから「VIPPERな俺」というまとめサイトへ辿り着き、ぼくのオタク人生が猛烈に加速したこともあったが、その話はとりあえず置いておこう。当時そのまとめサイトを「ブイアイピーピーイーアールな俺」と読んでいた話も置いておく。
 ともかく、そのエログちゃんねるニュースというサイトでエロ動画を見ていくうちに、ぼくは賢くなっていった。「何やら白い液体がある」とか「穴が……二つある……?」とか、最低限の知識を得ていったのだ。
 けれどぼくは一度も、性的な用語について、単語でググって意味を調べることはしなかった。セックス、フェラ、ザーメン、マンコ。それらの単語が何を指しているのか、関連性だけで把握していった。
 セックスという単語が指している物は、おそらくこれのことだろう……という風に推測していく。そしてその推測たちは、あとになって思えば、全てが正解だった。それはそうだ、聞いたこともなかった単語たちに指されたものは全てが特徴的で、難しいことなど何もなかった。
 やがて、エロ本もネットで無数に見れることを知ったぼくは、それらを次々見ていった。ネットで無料で見れたということは、動画にせよ漫画にせよ、そのほとんどが法的に限りなく黒い物だったが、それについては許してほしい。
 とにかく、そうやっていろいろな動画や漫画を見た。どの単語が何を指すのか、関連性のみで把握していったので、初見の単語については、それを見て内容を察し避けるということが出来なかった。だからこう、マニアックな物にもたくさん当たった。
 そういう経験が、性癖を歪めるに至ったんじゃないのかと言われれば、それについてはちょっと反論しづらい。そうかもしれない……となってしまう。けれども、そういう経験が間違った性知識に繋がったかというと、それも違うと思う。
 無造作に選んだ、膨大な数の人間の顔を、全て合成していくと、最終的には無難で、どちらかといえば美しい顔になるらしい。フィクションから学ぶ性知識についても、それと同じことが言えるのではないか……とぼくは思っている。
 手当り次第に見れば見るほど、何が現実的で何がフィクション特有なのか、だんだんと真実に近づいていけるはずなのだ。観測範囲を偏らせなければ、人間は「中間」を見つけることが出来るのではないか。そしてその中間こそが、限りなく真実に近いのではないだろうか。
 両極端な内容を何度も見ていけば「どちらかが、あるいはどちらも現実的ではない」ということが、そのうち感覚でわかってくる。生々しく、現実に忠実であることを魅力としたフィクションだってそれなりの数があり、それを読んで得る知識はそこまで突飛な物じゃない。
 とにかく豊富なジャンルで、数を見ること。そうするうちにバランス感覚が身につき、性知識は自ずと現実へ近づいていく。もちろんそれは頭でっかちな知識でしかないのだけれど、初めてエロ本を見たぼくのような「何も知らない」や、偏った知識でフィクションと現実の区別がつかなくなることよりは、いくらかマシなように思える。
 フィクションの利点は多様性だ。多様だからこそ、かえって現実が見えてくる。表現規制なんかもってのほかなんじゃないか、とさえ思えるくらいに。フィクションも使い用なのではないかと思える。
 もちろん、エロに関するあらゆる創作が、全て現実に則していたら。教材としては、それほど優秀な物もないだろう。だけども現実的に考えて、創作がそんな扱いを受ける世界は来ない。それでは致命的につまらないからだ。創作という概念そのものがつまらない物になれば、その概念ごと消滅しかねない。
 面白くあること、それを通して現実が見えること。より良い世界のためには、その二点を必ず満たさなければならない。そこで重要なのが多様性なのだ。ぼくから見れば表現規制とは、誰も幸せになれない道への第一歩のように思える。
 正しい知識を学ぶ機会がないのなら、その機会を用意することが難しいなら、単語の意味を推測するみたいに、正しい知識を推測していくしかないのではないか。推測するためには材料が必要だ。ぼくは自分の辿った道が、ある種一つの正解のような気がしている。
 それに、インターネットは広大だ。興味さえあれば、いろいろなことを知ることができる。ほぼノンフィクションと呼べるようなエロ動画や、生々しいほどの現実が文章化した物まで、興味を持って探せばいつか見つかる。例えば、風俗嬢が今まで一番嫌だったプレイを挙げるスレとか。
 興味のままにいろいろ見ていくと、やがてエロから少し視野を広げた、性の話に繋がっていく。ぼくは、中絶の具体的な方法について書かれた文章を読んだことがあった。それは別に、医学的な物ではない。
 男の中のクソ共は、薬でも飲んでスッと中絶が終わるとでも思っているのかもしれないが、実際はこのような方法で行われているんだ、女性の心身への負担を考えろボケが、といった感じの憎しみ混じりの内容を読んだのだった。
 そういう文章に、エロについて探求していれば、そのうち出会う。エロへの探求は性の話に繋がって、そういうノンフィクションの文章に出会う時が来る。
 すると、彼氏が出来てわかったとか、被災しての避難所生活でわかったとか、いろいろなシチュエーションで「男ってこんなに無知なのか……」と失望する女性の話も、どこかしらで見つけて読むことになる。そういうことが何度も起こり、そのたびほんの少し賢くなっていく。
 それらの話は、ネットの海を泳ぎ回らなければ一生知れない内容ばかりだ。あるいは、身をもって知った時にはすでに手遅れである物ばかりだ。フィクションで興味を持つところから入っていけば、いつかそういうノンフィクションに目が向くこともある。そういう意味でも、フィクションから魅力を失わせることは、無知な男を減らす試みの、致命的な邪魔をしてしまうのではないか。
 ……という主張が、実際のところどの程度正しいのか、ぼくは自信が持てない。自分の経験を理由に主張をするなら、自分が多数派でなければ意味が無いんじゃないかと思う。けれどもぼくは、我ながら多数派には程遠いように見える。
 きっとみんな、ぼくのように暇なわけじゃない。現実を察知できるほどの数フィクションを見るなんてことは、ロクに学校も行かない引きこもりにしか出来ないことだったのかもしれない。
 読んだエロ本の中でも、ネットでエロを漁るにあたって、一日たりとも忘れたことがない物がある。漫画そのものというより、その中の台詞が一つだけ、ものすごく印象に残っている。せっかくなので、その一文を下に載せておくことにした。

「みんな働いてる時間だよ」

 ……やはり正しい性知識を学ぶことは、それを不愉快な思いなどせず、そしてまともに生きながら学ぶというのは、どうしても難しいことなのかもしれない。
 それにぼくは結局、あの日の授業で聞くまで、性病という概念に具体的にはたどり着けなかった。「性行為が原因でかかる病気があるらしい」ということくらいしか、思うままにネットの海を泳ぐだけでは把握しきれなかった。
 他にも、実際にやってみるまでわからなかったことは当然山ほどあった。しかしその「実際」を全ての人が体験するのは、おそらく不可能だろう。というか、不可能でなければ困る。主に倫理的に。
 何にせよ、少なくともエロや性に関して、あらゆる知識の調達法は、実践には遠く及ばない。ぼくの辿った「フィクションを数多く見る」という手法も、知識の調達法としては不完全だということだ。だからといって、何もしないよりマシなことに違いはないけれど。最善策でもない。
 いつか誰もが性に関して、正しい知識を持つようになる日が来るのだろうか。……そんな世界は、それこそフィクションの中でしかあり得そうにない。現状を見るに、そうとしか思えなかった。
 結局、実践以外では誰も、何も教えてくれないにほとんど等しい。顔を合わせる大人たちは、子どもたちのことを思えば、むしろ教えたくても教えられないのだろうけど。
 身の回りの大人も、画面の中のピンク色をしたパンダも、少しのことしか教えてくれない。だからみんな知らないことだらけ。ここはそういう世界だ。
 ……ぼくは最近、過激なプレイの危険性について、ちょくちょく知識を得ている。それも興味の行き着く先だった。けれど、初めてエロサイトを見てから、もう何年経った? 「あなたは18歳以上ですか?」の問いに、胸を張ってYESをクリックできるようになってから、さらに数年。今では飲酒も出来てしまう。
 そして、そんな今になってようやく、フィクションの危険性を理解してきたところがある。極論だが、動画撮影が終了したあとに出演者が死亡していたって、動画を見るだけではそれを我々は察知できない。
 何が安全で何が危険なのかを知るためには、コンテンツをただ見るだけではなく、そこからもう一歩踏み込んだ想像力と、ネットの力を駆使して正しい知識を得るための行動力その他が必要になる。……しかし、それが難しいことも確かだった。それは長い月日をかけたという事実でもって、ぼくが自分で証明してしまっている。
 だからといって、表現規制に賛成するようになったわけではない。何度も言うが、それは論外だ。何の解決にもならない、自暴自棄的な行為でしかないように思う。
 このあいだにじさんじの切り抜きを見ていた時に偶然、嘔吐を繰り返すことによる後遺症についてを知った。ツイッターで流れてきた漫画でも似たような知識を得た。知識は本当に、どこから来るかわからない。けれどその知識もまた、創作の多様性と、それへの興味が合わさって得られた物だ。
 けれどそうやって、隠しアイテムを探すようなやり方ではいけない気がする。最悪、自分に必要な知識を集めきる前に、寿命が来るのではないかという気がしてくる。
 誰かが天才的なアイデアで、この国の性教育をより良く、素晴らしい物へと変えてくれればいいのに……。と、どうもこの話は「それが出来れば苦労はしない」という内容ばかりになってしまうらしい。
 さて、そろそろオチを付けて、今回の作文を締めくくることにする。これが会話なら、オチがなくても価値のある例が山ほどあるのに、文章ではオチがないと宙ぶらりんな感じがしてしまうので困る。
 オチは、性癖の成り立ちについての話だ。ほとんどの人は性癖を、特に醜い性癖のことを「見てきた物の影響」で生まれると思っているんじゃないか。しかしぼくは、そうとも限らないことを知っている。
 数年前、我が家のPCが買い換えられたあとのこと。化石のように眠っている旧PCから、ぼくは父が保存したエロ動画(サンプル動画)を発掘した。驚いたのは、そこで目撃した性癖には、ぼくへの遺伝がそれなりに感じられたことだ。
 この世の性癖には、先天性と後天性があるんじゃないか……? そんな仮説を想像するに至った経緯も、興味があるから辿れたこと……つってね!

おしまい。





この作文は、こちらの記事がきっかけになって書きました。勝手に紹介していいのか分かりませんけど、せっかくなのでURL貼っておきます。
https://www.845blog.com/entry/2019/11/10/191111