サキュバス界は自己盲信の世界

 この前読んでたエロ漫画にサキュバスが出てきたのだけれど、そのサキュバスは家事スキルが高かった。そして、そんな彼女の手料理を食べた男(主人公)が「美味い!」と素直な感想を口にすると、サキュバスは得意げな顔で言ったのだ。
「あったりまえよ、サキュバスなんだから!」
 ……え? サキュバスってそうなの?
 と、それがきっかけで記憶が呼び起こされた。
 その昔、まだぼくが小説を100円ショップで買ってきた原稿用紙に手書きしていた時代、高校生だったぼくは文化祭準備に参加していたわけだけど、そこで何やら特殊な紙が必要になったらしかった。必要になったそれが質のいい紙なのか何なのか知らないが、ぼくにはさっぱりわからない話題だったので、沈黙のサボりを決め込むこと、空気の如し。
 が、そうしていると突然、「氷菓くん、その紙がどこに売ってるか知らない?」と聞かれることになった。聞いてきた相手は何度か話したことのある同級生だったけれど、ぼくの思ったことも口に出したことも「え、なんで俺?」だった。
 すると「よく原稿用紙で小説書いてるし、紙に詳しいのかなって」と言われ、ぼくは唖然とした。そうなのか、手書き自作小説に励むキモオタを「変人がなんかやってるぜ」くらいの認識で見ている人なら、そういう風に考えることもあるのか。と、まったく予想外の頼られ方だった。頼られたところで、紙のことなんて何もわからないので、「ばなな」の文字が似合いそうなアホの顔になって「何も分からない」と答えるしかなかったけれど。
 サキュバスだから家事が出来て料理も上手いって話は、そのくらい理屈が飛んだ話のように思えた。それは「プライベートで原稿用紙を使っているやつはきっと紙に詳しい」っていう無茶ぶり的考え方と同じじゃないか? という風に。
 けれど事実として、その漫画ではサキュバスがそういうものとして描かれていた。それで問題なく話が回っていた。とはいえぼくは創作の矛盾点を見つけることが得意ではないけれど、それでもどうせなら、「そうはならんやろ」と言うよりむしろ「なぜそうなるのか」と考えた方が楽しいんじゃないか。サキュバスだから家事が出来るなんておかしいと言うよりも、なぜサキュバスだと家事が出来るんだろうと考えた方が楽しい。
 そう思って、また長い妄想が始まった。





 ある日、昼寝をしていたら夢を見た。

 とある性欲旺盛な若い男が死に、彼はあの世での審議の結果、天国行きが決定した。しかし天国への道すがら彼は思う。いくら楽園と名高い天国であっても、そこに性欲を満たす物があるとは思えない。なぜだか自分は天国行きになったが、色欲というのは罪なのではなかったか。
 穏やかな春の日のような草原で、天使や妖精が歌っているような場所。彼の想像する天国はそんな内容だった。するとそこで自分が楽しく暮らしていける気はしない。娼婦が必要とまでは言わないけれど、自分にとっての楽園に必要な物は、約束されたプライバシーと自由なインターネット環境だと思えるから。
 が、そんな彼がいざ天国に到着すると早々に、いかにも露出が激しく、それらしき角が生えた魅惑的な女性が、彼に声をかけてきた。彼はその女性を「まるでサキュバスみたいだな」と思ったけれど、実際その女性はサキュバスだった。
 実際の天国というのは、だだっ広く真っ白な場所に無数の扉が浮かぶ、異次元空間のような場所だった。そして淫靡な彼女に手を引かれるまま、彼は一つの扉をくぐる。その扉から出た先は、そこはそれなりに普通の「部屋」だった。部屋には彼より先に来たらしき何人かの男が、用意された椅子へとすでに座っていた。
 すぐに、彼はそこを「あ、待合室だ」と認識する。それは照明の雰囲気であったり、見知らぬ男たちの体現する暗黙の空気であったり、サキュバスが男の手を引いてやってきたという事実であったり、いくつか理由あっての認識だったけれど、事実彼がやってきた「そこ」は、大体そういう意味合いの場所だった。
 先客がいることも含めて、どうも自分だけが特別に招かれたわけではないらしい。彼はそう察する。そうだとすれば、天国というのは、人の望みの数だけ扉があるのかもしれない。そして自分はここに通されたのだ。
 天国の案内人が、想像していた物とはまったく異なる人物であったことを、彼はとても嬉しく思った。
「それでお兄さんは、何がしたいの?」
 聞かれ、彼がゴクリと喉をならしたあたりで、ぼくは目を覚ました。

 ……それで、ぼくは理解したのだ。サキュバスには、「あの世」と「この世」を行き来する能力があるのだと。
 性のエネルギーを吸って生きるサキュバスという種族は、どんな漫画でも大抵異界からやってくる。しかしサキュバスだけが住む世界があるのなら、いくら人間界のオスたちが性欲に塗れているとはいえ、別の世界一つ分を賄うだけの量が、はたして人間界に満ち足りているのだろうか?
 エロ漫画的文脈のサキュバスが登場する世界において、人間たちの性欲が枯れている様子は基本的にない。異界といえばフィクションである現実世界と同じく、みんなそれなりに欲望を持っている。サキュバスがそれを吸っているのにも関わらずだ。
 いくらなんでも、人間と同じ数のサキュバスがいたのなら、彼女らに吸い取られてなお底が見えないような無限の性欲は、普通の人間には宿らないと思う。現にサキュバスのいる世界の人間たちは、現実世界と変わらない普通の人間として描かれているのだから、特別性欲に底がないわけではないだろう。
 だとすればサキュバスは、人間より圧倒的に数が少ないのだろうか? ……そうでなければ話が成り立たないから、ぼくはずっとそうなのだろうと思っていた。しかし、もしもサキュバスが「死後の人間」からもエネルギーを摂取出来るなら、「生きている人間」とサキュバスの数は同程度か、それ以上でもおかしくない。
 そもそもサキュバスとは夢魔と呼ばれる存在である。エロに強くエロを欲するという特性を与えられたエロ漫画的文脈のサキュバスだって、夢魔としての特性を失ったわけではないだろう。つまり彼女らはエロと同じくらい夢にも精通している。
 夢には物理的な質量がない。夢とは意識だけの物だ。それを用いて自分たちに必要なエネルギーを得るということは、サキュバスたちの欲するエネルギーとは質量がない物ということになる。つまり意識だ、サキュバスの欲する物は意識、エロ漫画の中のサキュバスが欲する物は性欲という名の意識なのだ。
 死後の世界があるとするなら、そこに行った人間は肉体を失い、意識だけの存在となっている。しかし逆に言えば意識だけはあるのだから、サキュバスにとっては死後の人間……いわゆる魂そのものだって、十分すぎるほどエネルギー摂取の対象になるのである。だから死後の世界にもサキュバスは存在する。それが、サキュバスという需要が、人間の性欲という供給をオーバーしない理由に違いない。
 ……しかしそうすると、あの世にいるサキュバスというのは、エネルギーを求めて自ら肉体の死を選んだ者たちなのだろうか? ぼくは、そうではないと思っている。どんな漫画を見ても、意識を生かすために肉体を殺さなければならないような悲壮な背景を、サキュバスから感じられないかったからだ。
 では、サキュバスはどうやってあの世へ行くのだろう。そう疑問に思った時、それより先に浮かぶべき疑問がもう一つあったことをぼくは思い出す。つまりサキュバスは、夢魔は、どうやって人間に夢を見させるというのだろう? ということ。
 そんなの、どうやっても何も、「夢魔(サキュバス)だから出来る」としか言いようがない。もしかするともっと論理的な、我々人間の知性ではまだ理解しきてない理由があるのかもしれないが、我々人間が「人間とは何か」という謎を未だ完全には解き明かせていないように、サキュバスだってサキュバスとは何かという謎を、完全に解明しているわけではないのではないか。サキュバスが論理的に人間より進んだ段階にある様を示す漫画を、ぼくはまだ見たことがない。
 サキュバスは、ただサキュバスだからという理由で、人に夢を見せられる。性欲をエネルギーとして摂取することで生きられる。ならば「意識だけの世界」という意味で、「夢」と共通している「あの世」だって、サキュバスはある程度コントロール出来るはずだ。
 サキュバスは自由にあの世へ行ける。現世に戻ってくることも任意で出来る。その理由にあえて説明をつけるなら「魔力」だとか「魔法」だとか「悪魔の力」だとか、そういう言い方になるだろう。しかしそのどれも人間には理解し難く、何にしても、とにかくサキュバスにはそれが出来るのだ。
 ここで、冒頭の話に立ち返る。ある漫画のサキュバスは、自分の料理が得意なことを「サキュバスだから」と説明していた。その言葉を信じるなら、サキュバスが「サキュバスだから」を理由に出来ることは、他にもまだ無数に存在している可能性が出てくる。何せ家事は、夢やあの世や性欲と違って、実際の動きを伴う物理的なことなのに、それを「サキュバスだから」で出来るなら、サキュバスの力はまだまだ未知だ。
 サキュバスが「サキュバスだから」という理由で他に出来ることは、具体的に例えば何だろう? これは現状から察せられることだけれど、「サキュバスだから」を理由に彼女らが出来ることには、ある共通点がある。それは「エネルギー摂取に役立つ」ということだ。夢を見せることにより物理的な行為を介さず手軽に性欲を摂取する、あの世へ行くことでより多くのエネルギーへ手を伸ばす、家事をこなすことでエネルギー源との密な繋がりの確保を狙う、などなど。
 しかしその考え方をすると、性欲と家事を結びつけるほど強く「広義の意味」を認めてしまうと、サキュバスは何でも出来ることになってしまう。それだとサキュバスは、全能の存在ということになってしまう。こじつけのような理屈で全能の存在となった種族、それがサキュバスということになってしまう。
 しかし先にも言ったように、サキュバスと人間より圧倒的に優れた存在である……という描写は文献(エロ漫画)にない。サキュバスはその特有の力によって、確かに人間よりも出来ることが多いけれど、間違っても全能の神ではないはずなのだ。
 サキュバスは全能に程遠い。そういった前提で考えると、やはり鍵になるのは「意識」だ。広義にせよ狭義にせよ、サキュバスの力の行き着く先は性的エネルギーという、質量のない「意識だけの概念」になる。だから「意識」がサキュバスの謎を解く鍵なのだ。
 サキュバスは全能じゃない、適度に不完全な存在だ。ということは、人間のように個体差があると考えられる。見た目も性格も違うのだ。自分の望んだ姿を望んだだけ得られるわけでも、喜怒哀楽を超越した遥か高みの精神を有しているわけでもない。そういう意味では、サキュバスとはほとんど人間だ。
 ならば、サキュバスも人間と同じく、各々で得意不得意が違うのではないか? そしてそれは、サキュバス特有の力においても例外ではないはず。
 だとするとその差は、人間には理解できない力の中で生まれるその差は、いったい何が原因となっているのだろうか。……おそらく、その答えが意識なのだ。意識によって、サキュバスの力で出来ること、出来ないことが決まる。
 つまりサキュバスは、出来ると思ったことが出来て、出来ないと思ったことは出来ない。家事ができるサキュバスは、「サキュバスだから家事が出来る」と信じたから、家事が出来るようになったのである。意識に至る力であるサキュバスの力は、意識によってそのまま強度を変えるのだ。
 例えば我々人間は、友人が「人は、飛べると信じれば飛べるんだ」と言って生身で高所から飛び降り、そして落下することなく本当に大空を羽ばたいたとして、「ということは同じ人間である自分も、同じように「飛べる」と信じれば、やはり同じように飛べるに違いない」……という思考には、そう簡単には至れない生き物である。友人はああ言っていたし、実際に飛んでいたが、自分が真似すれば落ちて死ぬだろう……大抵そう考える。生身で空を飛ぶなんて突飛なことではなくても、自己啓発を鼻で笑う人間の数を考えれば、このあたりの傾向は察してもらえることだろう。
 「出来る」と確信することは、とても難しい。「サキュバスなんだから料理が出来る」と豪語する同族を見て、自分には無理だと考えるサキュバスもいるだろう。しかしサキュバスにおいては、「それは無理だ」と思った瞬間に、それが無理になるのだ。
 そもそも、よく「セックスとはコミュニケーションだ」と言われている通り、性は心(つまり意識)に依存した物であり、それを司るサキュバスは、種族単位で意識に依存している。性欲をエネルギーとして吸い取ることや、夢を見せることは、ほとんどの個体が生まれつき「出来る」と確信しているから出来ることなのである。それは疑いを抱くよりも前に、立って歩き、喋るようになることと同じことである。
 しかしそれも、一定のラインを過ぎると個人差が出てくる。「出来る」と心の底から信じられる者と、そうではない者。その意識の差が、そのままサキュバスとしての力の差になる。
 だから、あの世へ自由に行けるサキュバスは限られている。全てのサキュバスが肉体を殺さずあの世に行けるわけじゃない。「自分たちサキュバスは夢を操るのだから、同じ意識の世界であるあの世に関することだって、きっとコントロール出来るに違いない」と確信出来た者だけが、実際にそれを行えるのだ。それとこれとは別なんじゃないか……と自信の力を疑ってしまった者には、どうしてもそれが出来ないことになる。
 つまりサキュバスは、ポテンシャルとしては全能の存在なのだ。しかし、自身の全能を事前に確信することは至難の業であり、結果としてサキュバスは、人間に似た不完全な存在になっている。得意不得意のある生き物になっている。
 例えば、性行為とは場合によって暴力にもなる。しかし性欲をエネルギーとして摂取する自分たちサキュバスが、暴力としての性欲に対しては無防備で弱いだなんて、そんなことはあり得ない。……そう心の底から信じられたサキュバスは、暴力に対して強くなる。サキュバスがバトル漫画の世界に登場すれば、戦士というより魔術師のポジションに着くことが常だろうけれど、「自らの、種族としての暴力への耐性」を確信した個体は、その限りではないのかもしれない。単純な暴力の意味で強者となるサキュバスだって、きっとどこかにいる。
 そんな風にして彼女たちは、意識、気の持ちようで、自分たちに出来ることを変える。自分自身の意識によって自分自身の能力を定義する。……しかしそうすると、彼女らの「意識の差」はどこから来るのだろうか? ……という話は、人間が自分たちのことを解明し切れていないように……という、一度話したものと同じ答えが、現状で用意できる限界になっている。
 ともかく、現状で言えることは、サキュバスとはそういう生き物である……ということだけだ。決まった姿を持たないサキュバスも、人間の理解が及ばない高次元的な精神や思考を持つサキュバスも、性欲とは別のところからエネルギーを摂取するサキュバスも、きっとどこかにはいるのだろう。
 しかし何にせよ、サキュバスが「意識による力」を持つ種族であるのなら、何かしらの分野でサキュバス故に強力なサキュバスというのは、ある種危うい存在である……ということになる。なぜなら、強力な力を持つサキュバスほど、自身への盲信が深いということになるからだ。
 盲信は、力強いけれど危うい。何せ仮にとあるサキュバスが「自分は、生きていてはいけない存在だ」と確信してしまったら、その瞬間にそのサキュバスは死んでしまうのだから。
 サキュバスとは意識による力の種族であり、思い込みやプラシーボ効果の権化のような種族であり、そして人間とよく似た種族である。人間には扱いきれない「妄信」を、サキュバスなら完璧に扱いきれると言い切れるのだろうか? 彼女らが人間とよく似た存在に見えるうちは、それは無理なことだろうと思う。
 自らの力で身を滅ぼすサキュバスも、きっとどこかにいる。……出来ることなら、サキュバスの不完全性とポテンシャルを、そんな形で見なくても済むようにありたいものだ。





 ……で、ぼくが今回の作文で結局何を言いたかったのかと言うと、最終的な主張はこれだ。
 サキュバスという概念を、シコって終わりのエロ漫画だけに留めておくのは勿体なさすぎる! エロ漫画的文脈としてのサキュバスは、エロいことが主題ではない、真面目なドラマとしても扱えるはずなのだ。サキュバスほどではなくとも人間だって、「意識」に振り回される生き物なのだから、そこのところを上手く料理すれば、面白い物語が作れるはず。そうに違いない……。
 が、ぼくにはその具体的な形がわからない。思い浮かばない。「サキュバスという種族の特徴」という設定を考えることは出来ても、それを物語に仕立て上げることが出来ない。出来ないのだ……、少なくとも、今のところは。
 それが悔しくて今回の作文を書いた。誰かがこの設定に影響を受けて面白い物を書いてくれれば、それはそれで(それが自分ではなかったことが若干気に入らないかもしれないが)良いことだろうし、いつかぼくが面白い物を書けたのなら、その時は、この頃から考えてたネタなんだぜと、今日のこの作文を掘り起こすだろう。そのために書いた。
 ただ願わくば、エロとしてもドラマとしても完成されたサキュバス題材の漫画を発見して、それで満足して終わりたいような気もする。創作は労力的にコスパの悪い娯楽だから、他人のおこぼれに預かれるならそれも良い。他人の創作を見たから自分は同じことが出来なくなるというわけでもないのだし、むしろ他人の創作は見ることが出来た方がいいに決まっている。
 きっと創作をしている人たちは、みんな何かしらの形で似たような思いを抱えていて、それが叶わないから自分で書くのだろうけれど。ぼくもいつかそう出来るといいな……。