「エロ」と検索すれば、パンダがいた。

 性知識の歪みとは、エロ本やAV等の創作物から生まれるのだ。この世の中は、フィクションをフィクションだと理解できないような、馬鹿な男たちばかりが蔓延っている……!
 ……なんていう話が、半ば常識のように扱われている昨今。そんなことだから、表現規制という話も出てくる。フィクションをフィクションだと理解できないのなら、そもそもそのフィクション自体を無くしてしまえばいい、という流れだ。
 全ての男が賢く、なおかつ紳士であったなら、エロに対する表現規制の波は今ほど大きくなかっただろう。フィクションと現実を混同する男ばかりだから、今の流れがある。……が、しかし、その原因を全て「不健全なフィクションと、無知で馬鹿な男たち」のせいにするのは、それは違うと思う。
 そもそもなぜ男たちは正しい知識を持たず、フィクションを信じるのか。それはフィクションしか見る物がないからだ。学校でセックスの作法でも学ぶのか? そんなわけがない。ではどこで正しい知識とやらを学ぶのか。そう、そんな機会はどこにもないのだ。
 学ぶ機会がないことは、何も男に限った話ではない。しかしエロ本やAVは大抵男性向けの物で、つまり男性に有利な内容として出来ているから、それを現実と混同してしまった場合に割を食うのは、いつも女性の側なのだ。だから男の無知ほど叩かれる。
 しかし、いくら表現規制を強めたって、無知は改善されない。間違った知識を持つ状態から、何の知識も持たない状態に移行するだけで、表現規制が人を賢くすることはない。無知は無知のままだ。
 そんなやり方ではきっと、表現規制を望む人たちが考える「理想の世界」は、一向にやってこないだろう。性別に関わらず、今割を食っている人たちはきっと、引き続き不愉快かつ不都合な世界で生きることになってしまう。
 何も知らない者は、確率的に大抵失敗する。あらゆる失敗は、知っているからこそ避けられる。正しい性知識のために本当に重要なのは、不健全なフィクションの駆逐ではなく、正しい知識を学ぶ場の確立なのだ。
 話をその段階に持っていけない間は、今と同じように、みんながみんなお互いに、一生歪んだ性知識と付き合っていくしかない。
 ……なんていうのは、詭弁だ。正しい性知識を学ぶ場を用意することは、口で言うほど簡単じゃない。そんなことが出来るのなら、きっととっくにやっている。
 ぼくが高校の頃に受けた性についての授業、あるいは注意喚起の話を例に挙げる。その授業の内容には、保健体育の教科書に載っていることより、少し踏み込んだ物があった。
 クラミジアや梅毒などの、代表的な性病の名前や症状、治療法などを挙げて、結論として「危ないから、自分で責任を取れないうちは性行為をしないように」と締めくくる内容だった。……こちらも結論から言うと、その授業は、限りなく無意味に近い物だった。
 責任が取れる大人になれば、性病は危険でない物になるとでも言うのか。性行為をしなければ絶対に性病にならないというなら、そもそも最初の性病はどこからやってきたのか。責任が取れる大人とやらは、実際のところどのようにしているのか。……それら当然の疑問に何の説明もない、子供騙しの内容だ。しかしそれも、完全に無意味だったわけではない。
 実際、ぼくはそれがきっかけで、ネットでいろいろと調べた。その授業がなければ、調べようと思うことさえなかっただろう。結局性病がそもそもどこから来たのかは、一応の有力らしき説はあるものの「人類の謎」といったような扱いらしいことが知れただけで、特に生活の役には立たなかったけれど。
 それで何が問題なのかというと、その授業を受けていた時に、ぼくは「なんだかなぁ」という居心地の悪さを感じたことだ。不愉快とはいかないまでも、確かな居心地の悪さがあった。それが問題なのだ。なんとなく、人と聞くような話ではないように思えた、その感覚が大問題。
 ぼくはおそらく、そこらへんの男より性への興味が強い。なぜそう思うのかはあとで話すが、とにかく、そのような自覚を持つ男でさえ、性に関する授業に覚える感覚は「なんだかなぁ」だった。ぼくでこれなら、もっと強い抵抗を覚える人なんて五万といるだろう。
 正しい性知識を学ぶ場は必要だ。しかしそのために、生徒へ不愉快な思いをさせていいわけじゃない。そのジレンマの結果が、無難で無価値な性教育へと繋がっているのだとぼくは思っている。ちょっと踏み込んだ内容に手を出してみたって、大人の身に染み付いた無難さと無価値はそのままだ。
 そしてこのジレンマの解決策が、ぼくにはまったく思い浮かばない。教室というパブリックな場面で教わるのが嫌なら、プライベートな場面で学べるように教材なり何なりを渡せばいいのか? いったい何割の生徒が、それを真面目に見てくれるのだろう。読書感想文を真剣に書く生徒の数と、いい勝負になるんじゃないか。
 ほぼ全ての生徒に、不愉快な思いを極力させず、なおかつ有意義で正しい性知識を学ばせること。これは至難の技だ。どうすればそれが可能になるのか、ぼくにはさっぱりわからず、たぶん誰にもわからない。だからこそ現状の有り様だ。少なくともしばらくの間は、ほとんどの子どもが、性知識に乏しいまま歳を取って、やがて大人と呼ばれるようになるだろう。
 ただ歳を取るだけでは、精神的どころか、知識的にも成長なんかしないのに。



 ……ここからは、ぼく個人の話になる。ぼくは、フィクションを見ることで間違った性知識が身についてしまう、という考え方に否定的でいる。
 ぼくがエロ本を読んだのは、小学四年生くらいの時だったと思う。それはエロ本というよりも、父の買った青年漫画雑誌だったのだが、内容の過激さとしては、エロ本と言って差し支えない物まで載っていた。
 初めてそれを見た時は、何がなにやらわからなかった。何せ漫画には色がなく、そして色々なことがボカしてある。大抵のエロ漫画は、すでに事の真実を知っている人向けの描写だらけだ。
 だから当初、精液のことをおしっこだと思って見ていたし、おちんちんをお尻の穴に入れているのだとも思っていた。そもそも当時のぼくは女性器の存在さえ知らず、漫画からそれを把握することも出来なかった。女性の下半身には、自分の下半身から男性らしさを失わせただけの、ツルツルとした平面があるのだとばかり思っていた。
 そうやって、エロ漫画というある種のカルチャーショックを受けたぼくが、やがてネットでエロ動画を見初めたのも、たしか小学四年生くらいの時だ。両親とも家にいないことが多いので、ローマ字さえ覚えてしまえば「エロ」で検索をかけることは容易だった。
 ぼくは忘れないだろう、それで出てきた「エログちゃんねるニュース」というサイトのことを。サイトのトップには、なぜかパンダがいた。背景と同じ色の、ピンク色のパンダだ。気になる人は今からでも見に行ってみればいい。
 そこには、膨大な数のエロ動画があった。子どもにでもそれとわかる企画モノ、子どもからすればリアルに見えたレイプ物、今思えばマニアックな内容の物や、アニメやゲームなんかもあった。
 そのエロサイトをきっかけに、ひょんなことから「VIPPERな俺」というまとめサイトへ辿り着き、ぼくのオタク人生が猛烈に加速したこともあったが、その話はとりあえず置いておこう。当時そのまとめサイトを「ブイアイピーピーイーアールな俺」と読んでいた話も置いておく。
 ともかく、そのエログちゃんねるニュースというサイトでエロ動画を見ていくうちに、ぼくは賢くなっていった。「何やら白い液体がある」とか「穴が……二つある……?」とか、最低限の知識を得ていったのだ。
 けれどぼくは一度も、性的な用語について、単語でググって意味を調べることはしなかった。セックス、フェラ、ザーメン、マンコ。それらの単語が何を指しているのか、関連性だけで把握していった。
 セックスという単語が指している物は、おそらくこれのことだろう……という風に推測していく。そしてその推測たちは、あとになって思えば、全てが正解だった。それはそうだ、聞いたこともなかった単語たちに指されたものは全てが特徴的で、難しいことなど何もなかった。
 やがて、エロ本もネットで無数に見れることを知ったぼくは、それらを次々見ていった。ネットで無料で見れたということは、動画にせよ漫画にせよ、そのほとんどが法的に限りなく黒い物だったが、それについては許してほしい。
 とにかく、そうやっていろいろな動画や漫画を見た。どの単語が何を指すのか、関連性のみで把握していったので、初見の単語については、それを見て内容を察し避けるということが出来なかった。だからこう、マニアックな物にもたくさん当たった。
 そういう経験が、性癖を歪めるに至ったんじゃないのかと言われれば、それについてはちょっと反論しづらい。そうかもしれない……となってしまう。けれども、そういう経験が間違った性知識に繋がったかというと、それも違うと思う。
 無造作に選んだ、膨大な数の人間の顔を、全て合成していくと、最終的には無難で、どちらかといえば美しい顔になるらしい。フィクションから学ぶ性知識についても、それと同じことが言えるのではないか……とぼくは思っている。
 手当り次第に見れば見るほど、何が現実的で何がフィクション特有なのか、だんだんと真実に近づいていけるはずなのだ。観測範囲を偏らせなければ、人間は「中間」を見つけることが出来るのではないか。そしてその中間こそが、限りなく真実に近いのではないだろうか。
 両極端な内容を何度も見ていけば「どちらかが、あるいはどちらも現実的ではない」ということが、そのうち感覚でわかってくる。生々しく、現実に忠実であることを魅力としたフィクションだってそれなりの数があり、それを読んで得る知識はそこまで突飛な物じゃない。
 とにかく豊富なジャンルで、数を見ること。そうするうちにバランス感覚が身につき、性知識は自ずと現実へ近づいていく。もちろんそれは頭でっかちな知識でしかないのだけれど、初めてエロ本を見たぼくのような「何も知らない」や、偏った知識でフィクションと現実の区別がつかなくなることよりは、いくらかマシなように思える。
 フィクションの利点は多様性だ。多様だからこそ、かえって現実が見えてくる。表現規制なんかもってのほかなんじゃないか、とさえ思えるくらいに。フィクションも使い用なのではないかと思える。
 もちろん、エロに関するあらゆる創作が、全て現実に則していたら。教材としては、それほど優秀な物もないだろう。だけども現実的に考えて、創作がそんな扱いを受ける世界は来ない。それでは致命的につまらないからだ。創作という概念そのものがつまらない物になれば、その概念ごと消滅しかねない。
 面白くあること、それを通して現実が見えること。より良い世界のためには、その二点を必ず満たさなければならない。そこで重要なのが多様性なのだ。ぼくから見れば表現規制とは、誰も幸せになれない道への第一歩のように思える。
 正しい知識を学ぶ機会がないのなら、その機会を用意することが難しいなら、単語の意味を推測するみたいに、正しい知識を推測していくしかないのではないか。推測するためには材料が必要だ。ぼくは自分の辿った道が、ある種一つの正解のような気がしている。
 それに、インターネットは広大だ。興味さえあれば、いろいろなことを知ることができる。ほぼノンフィクションと呼べるようなエロ動画や、生々しいほどの現実が文章化した物まで、興味を持って探せばいつか見つかる。例えば、風俗嬢が今まで一番嫌だったプレイを挙げるスレとか。
 興味のままにいろいろ見ていくと、やがてエロから少し視野を広げた、性の話に繋がっていく。ぼくは、中絶の具体的な方法について書かれた文章を読んだことがあった。それは別に、医学的な物ではない。
 男の中のクソ共は、薬でも飲んでスッと中絶が終わるとでも思っているのかもしれないが、実際はこのような方法で行われているんだ、女性の心身への負担を考えろボケが、といった感じの憎しみ混じりの内容を読んだのだった。
 そういう文章に、エロについて探求していれば、そのうち出会う。エロへの探求は性の話に繋がって、そういうノンフィクションの文章に出会う時が来る。
 すると、彼氏が出来てわかったとか、被災しての避難所生活でわかったとか、いろいろなシチュエーションで「男ってこんなに無知なのか……」と失望する女性の話も、どこかしらで見つけて読むことになる。そういうことが何度も起こり、そのたびほんの少し賢くなっていく。
 それらの話は、ネットの海を泳ぎ回らなければ一生知れない内容ばかりだ。あるいは、身をもって知った時にはすでに手遅れである物ばかりだ。フィクションで興味を持つところから入っていけば、いつかそういうノンフィクションに目が向くこともある。そういう意味でも、フィクションから魅力を失わせることは、無知な男を減らす試みの、致命的な邪魔をしてしまうのではないか。
 ……という主張が、実際のところどの程度正しいのか、ぼくは自信が持てない。自分の経験を理由に主張をするなら、自分が多数派でなければ意味が無いんじゃないかと思う。けれどもぼくは、我ながら多数派には程遠いように見える。
 きっとみんな、ぼくのように暇なわけじゃない。現実を察知できるほどの数フィクションを見るなんてことは、ロクに学校も行かない引きこもりにしか出来ないことだったのかもしれない。
 読んだエロ本の中でも、ネットでエロを漁るにあたって、一日たりとも忘れたことがない物がある。漫画そのものというより、その中の台詞が一つだけ、ものすごく印象に残っている。せっかくなので、その一文を下に載せておくことにした。

「みんな働いてる時間だよ」

 ……やはり正しい性知識を学ぶことは、それを不愉快な思いなどせず、そしてまともに生きながら学ぶというのは、どうしても難しいことなのかもしれない。
 それにぼくは結局、あの日の授業で聞くまで、性病という概念に具体的にはたどり着けなかった。「性行為が原因でかかる病気があるらしい」ということくらいしか、思うままにネットの海を泳ぐだけでは把握しきれなかった。
 他にも、実際にやってみるまでわからなかったことは当然山ほどあった。しかしその「実際」を全ての人が体験するのは、おそらく不可能だろう。というか、不可能でなければ困る。主に倫理的に。
 何にせよ、少なくともエロや性に関して、あらゆる知識の調達法は、実践には遠く及ばない。ぼくの辿った「フィクションを数多く見る」という手法も、知識の調達法としては不完全だということだ。だからといって、何もしないよりマシなことに違いはないけれど。最善策でもない。
 いつか誰もが性に関して、正しい知識を持つようになる日が来るのだろうか。……そんな世界は、それこそフィクションの中でしかあり得そうにない。現状を見るに、そうとしか思えなかった。
 結局、実践以外では誰も、何も教えてくれないにほとんど等しい。顔を合わせる大人たちは、子どもたちのことを思えば、むしろ教えたくても教えられないのだろうけど。
 身の回りの大人も、画面の中のピンク色をしたパンダも、少しのことしか教えてくれない。だからみんな知らないことだらけ。ここはそういう世界だ。
 ……ぼくは最近、過激なプレイの危険性について、ちょくちょく知識を得ている。それも興味の行き着く先だった。けれど、初めてエロサイトを見てから、もう何年経った? 「あなたは18歳以上ですか?」の問いに、胸を張ってYESをクリックできるようになってから、さらに数年。今では飲酒も出来てしまう。
 そして、そんな今になってようやく、フィクションの危険性を理解してきたところがある。極論だが、動画撮影が終了したあとに出演者が死亡していたって、動画を見るだけではそれを我々は察知できない。
 何が安全で何が危険なのかを知るためには、コンテンツをただ見るだけではなく、そこからもう一歩踏み込んだ想像力と、ネットの力を駆使して正しい知識を得るための行動力その他が必要になる。……しかし、それが難しいことも確かだった。それは長い月日をかけたという事実でもって、ぼくが自分で証明してしまっている。
 だからといって、表現規制に賛成するようになったわけではない。何度も言うが、それは論外だ。何の解決にもならない、自暴自棄的な行為でしかないように思う。
 このあいだにじさんじの切り抜きを見ていた時に偶然、嘔吐を繰り返すことによる後遺症についてを知った。ツイッターで流れてきた漫画でも似たような知識を得た。知識は本当に、どこから来るかわからない。けれどその知識もまた、創作の多様性と、それへの興味が合わさって得られた物だ。
 けれどそうやって、隠しアイテムを探すようなやり方ではいけない気がする。最悪、自分に必要な知識を集めきる前に、寿命が来るのではないかという気がしてくる。
 誰かが天才的なアイデアで、この国の性教育をより良く、素晴らしい物へと変えてくれればいいのに……。と、どうもこの話は「それが出来れば苦労はしない」という内容ばかりになってしまうらしい。
 さて、そろそろオチを付けて、今回の作文を締めくくることにする。これが会話なら、オチがなくても価値のある例が山ほどあるのに、文章ではオチがないと宙ぶらりんな感じがしてしまうので困る。
 オチは、性癖の成り立ちについての話だ。ほとんどの人は性癖を、特に醜い性癖のことを「見てきた物の影響」で生まれると思っているんじゃないか。しかしぼくは、そうとも限らないことを知っている。
 数年前、我が家のPCが買い換えられたあとのこと。化石のように眠っている旧PCから、ぼくは父が保存したエロ動画(サンプル動画)を発掘した。驚いたのは、そこで目撃した性癖には、ぼくへの遺伝がそれなりに感じられたことだ。
 この世の性癖には、先天性と後天性があるんじゃないか……? そんな仮説を想像するに至った経緯も、興味があるから辿れたこと……つってね!

おしまい。





この作文は、こちらの記事がきっかけになって書きました。勝手に紹介していいのか分かりませんけど、せっかくなのでURL貼っておきます。
https://www.845blog.com/entry/2019/11/10/191111