そのおっさんが裏切るっていうのがまた良い

 「亜人ちゃんは語りたい」というアニメに、肌に触れた相手を能力者本人の意思に関係なく催淫してしまうサキュバスが登場していたのを見て、思ったことがある。
 アニメの内容はこうだった。サキュバスも社会的立場としては人間と同じである。しかし彼女らが普通の人間と同じように社会生活を送るには、催淫能力を封印する必要がある。だからサキュバスは出来るだけ露出の少ない格好をしたり、うっかり肌が触れかねない満員電車等は避けるようにしている……というもの。
 そこで気になったのは、サキュバスが別に顔を隠してはいなかったことだ。顔といえども肌は肌である。なぜ隠さなかったのだろうか?
 理由は二つ考えられる。一つ、よほどの間柄でなければ他人の顔に触れることなどうっかりでもあり得ないから。二つ、顔を隠して送る生活はもはや「普通の人間と同じ社会生活」ではないから。
 アニメ本編における設定的な正解はどちらだったのか。それは分からないが、そんなことはさておいて、それら二つの理由にはいずれにせよ共通する疑問がある。
 それは、理由があったとしても、それで顔を隠さずにいて怖くはないのだろうか? ということ。我々人間からすると「触れたら終わり」というのは気が気ではないシチュエーションだけれど、その不健康なスリルを「そこまでしたくていい」「それはさすがにしたくない」という理由だけで、精神的につっぱねられる物だろうか?
 仮に、催淫能力の自制に万全を期すため顔を隠すとしたら、例えばガスマスクのような顔全体を覆う物を用いることになるだろう。社会の側がそれを「サキュバスだからある程度は仕方ない」という風に許容したとすれば、臆病なサキュバスの中には、ガスマスクのような物を装着して生活する者も出てくるかもしれない。
 そこまで考えて、ぼくはバイオハザードシリーズの「ハンク」を思い出した。ハンクは常にガスマスクをつけている、バイオシリーズでも屈指の人気キャラクターだ。ガスマスクのキャラクターといえば? と聞かれれば、ハンクを連想する人も多いことだろう。
 だから、もしも社会の中に普通にサキュバスがいて、学校や職場に馴染んでいるとしたら。そしてもしもそのサキュバスが、ガスマスクをつけていたとしたら。……あだ名は十中八九「ハンク」になるだろう。たぶん、当人には聞こえないところでそう呼ばれる。
 そこまで考えて、一つ小さいネタを思いついた。短編としてそれを下に書いておく。






 ……サキュバスが人間社会に馴染んで早数十年。かつては様々な混乱を経たものの、今や人類は、隣にサキュバスが座ることのある生活に順応しきっている。……がしかし、それも今年から社会人となった彼、増田にとっては少し違った。
 増田はサキュバスに偏見など持っていない。たとえサキュバスが、肌同士で触れた相手を彼女らの意思に関係なく催淫してしまう能力を持つ種族だったとしても、今まで普通に分け隔てなく接してきた。しかしそんな増田でも少し引いてしまうような光景が、彼が今日から務める職場には座っていたのだ。
 会社の事務員の中に一人、ガスマスクを被ったサキュバスの女性がいた。顔全体を覆い隠し、容姿の欠片も察知させない特殊部隊のようなガスマスク……。その中からくぐもった声で、彼女は「秦」と名乗った。
「どう? 仕事には慣れてきた?」
 ある日の昼休み、そう声をかけてきたガスマスク女子に対して、増田は内心思う。仕事よりあなたの見た目のインパクトに慣れないんだけど……と。
 見た目のインパクト。それは例えば、今まさにその女性が自分の前に座り、ガスマスクの口部分だけをカポッと外して昼食を取り始めるようなところにあった。彼女の被っているそれはあくまでも「ガスマスク風の被り物」であり、つまり伊達であり、実際には日常生活を送りやすいように設計された独自の物となっているのだ。
 そしてその「設計」は、彼女が行ったことではない。どこかのメーカーが行ったことだ。ガスマスク風の被り物には密かな需要があり、それを作るメーカーも存在するのである。
「まあまあ……だと思います」
「お、それはよかった」
 マスクの下の微笑みは、声だけでも分かるものだった。増田も彼女のことが嫌いなわけではない。
 彼女はどんな顔をしているのだろう? 増田が人並みにそう考えていた、ちょうどその時。秦の背後を通りかかった男性社員が、思い出したかのように彼女に声をかけた。
 増田が聞いたところでは、彼は秦との同期らしい。
「あ、ハンク、例の漫画新刊出たけど読む?」
「あっ、読みたい!」
「じゃあ明日持ってくるわ」
 それだけ言って、男は胸ポケットからタバコの箱を取り出しつつ去っていった。喫煙所は外にしかない。
 秦と他の社員のそういったやり取りは、増田の前でも幾度となく行われてきた物である。そしてついに今日、そういったやり取りを見る度に彼の中に積もっていた疑問が溢れ出して、彼にある疑問を口にさせた。
「あの、秦さん」
「うん?」
「ハンクっていうその、あだ名? って、なんでハンクなんですか?」
 そのあだ名は、増田が入社した頃にはすでに定着していた物だった。彼は自らの観察力を頼りに「どうやら男性ばかりがそのあだ名を呼んでいるようだ」と気付きはしたものの、そこから先のことが分からなかった。
 一方で、秦はマスクの向こうでキョトンとする。そしてすぐに悪戯っぽい声で答えた。
「ググってみなよ、ハンクって」
 なるほど、何か元ネタがあるのか! 間抜けなことに今までその線へ発想が至らなかった増田は、すぐにスマホを取り出して検索してみた。すると……。
「ふっ」
 思わず笑ってしまった。目の前の女性が被っている物とそっくりなガスマスクを被ったキャラクターの画像が表示されたからだ。一発であだ名の由来を理解した。
バイオハザードのキャラクター? なんですね」
「そうだよ。増田くんはゲームとかしないの?」
「いや、しなくはないんですけど……。バイオハザードはあれですね、たまにテレビでやってた実写版を見たことがあるくらいです」
「そうなんだ。珍しい」
「かもですね」
 増田にも自覚はあった。彼はゲーマーの中でも相当な偏食家なのだ。
 そんな彼は、元ネタを理解したことで、秦と周囲の人間の距離感を改めて理解できた気がした。常に甘味を口にしている人間をLと呼ぶような、とても気さくで近しい心の距離を、そのあだ名が通っていることから感じ取った。
 感じ取って、それで彼は、その手のあだ名を快く受け入れられる感性の持ち主にならば、前々から抱えていたもう一つの疑問を投げかけてしまっても平気なのではないかと考えた。
 ……その考えは、しかし油断だった。
「秦さんって」
「うん?」
「なんでガスマスクを被ってるんですか?」
 今の時代に、サキュバスの催淫能力を知らない人間はいない。肌に触れた相手を催淫してしまうサキュバスたちは、平穏な社会生活を送るために極力肌を隠して生活している。そのことは増田も理解しているが……。
 いくら肌を隠した方がいいとはいえ、顔まで隠すサキュバスは見たことがない。そういう意味での質問だった。
 秦はそれを聞かれ慣れていたのだろうか? あらかじめ用意してあったかのような返事が、マスクの向こうから声になって差し出される。
「逆に増田くんは、他のサキュバスはなんで顔を隠さないんだと思う? うっかり触っちゃったら大変なことになるっていうのにさ」
 軽やかな質問返しに、増田は少し考えこむ。とはいえ、答えを見つけるまでにそう時間はかからなかった。
「……うっかりなんて起こらないから、とかですか? 異性の顔に触れるようなことは偶然でも絶対ないっていうか……」
「そうかもね。ってことは、答えは一つだ」
「え?」
「私はそれを信じてないんだよ。うっかり顔に触れることは、あると思ってる」
「……なるほど」
「納得してないでしょ?」
「いや」
 反射的に否定するものの、実際納得は出来ていなかった。大抵の男性がそうであるように、異性の顔に「うっかり」で触れてしまった覚えなど、増田にも一度としてなかったのである。
 しかし秦は、自分にガスマスクの件を質問してきた人間のそういったリアクションさえ、とっくに予測済みであるようだった。話慣れた様子で彼女は過去を語り始める。
「経験則なんだよ」
「はあ」
「高校生の頃、文化祭準備の居残りで、同じクラスの男子と作業に勤しんでいたことがあってね。夕暮れの、空き教室みたいなところでやっていて、二人きりで、時間的に校舎内にはロクに人が残ってなくて。……で、うっかりその男子と私の肌が触れちゃったんだ。私も、たぶん向こうも結構疲れていて、ぼーっとしてたらハサミを渡す時にうっかり手が……って感じで」
「手ですか」
「そう、手。……で、正気じゃなくなった向こうが私のことを押し倒してきた。私に出来ることといえばダメ元で「誰か助けて!!」って叫ぶことだけだったから、その時はもうダメだと思ったよ。……でもちゃんと助けは来た。職員室まで声が届いたみたいで、強そうな男の先生が駆けつけてくれた」
「おぉ……。助けが来たからよかったですけど、ひやっとする話ですね、それは」
「いや、それがさ、助けに来てくれた先生が、私に覆いかぶさった男子を引き剥がそうとして、その勢いで私の顔に触れちゃったんだよね。手がこう、ガッって感じで……」
「…………」
「だからそれ以降、万が一に備えてこうして顔を隠しているってわけ」
「……なるほど」
 増田は後悔した。彼は人のトラウマを掘り返したかったわけではないが、ではしかし、どのような答えが返ってくることを期待していたのかというと、そんなことはまるで全く何も考えていなかったのだから、その浅はかさを後悔した。
 催淫されたクラスメイト一人に襲われるだけでも一大事なのに、そこへ大人の男が追加されたらどうなるのか……想像したくもない。けれどそんな話をあくまでも軽快に話す秦の表情は、ガスマスクの下に隠れて口元しか見えずにいる。……声の調子だけで表情が分かるなんて、本当だろうか?
 増田は、次に口にするべき言葉を見つけられなくなった。
「で、それからハンクって呼ばれるようになったってわけ」
「なるほど。……嫌なこと聞いてしまってすみません」
「え、全然? ハンク呼びのおかげで、高校時代の苦い思い出にもオチがついたし。だから話慣れてたでしょ私」
「オチ?」
「そう。サンドイッチになっちまったよ、バイオハザードだけに! ってね」
「……え?」
「あぁごめん、通じないんだった」
 それは初代バイオハザードの名シーンを元にした笑えない冗談だったけれど、元ネタを知らない増田には別の意味で笑えない物だった。
 そしてそんな増田はその後、不用意な質問をしてしまった軽薄さの代償として、不可抗力とはいえ教え子に手を出してしまった教師の末路と、その件に関する秦の罪悪感についてを聞かされることになるのだった……。

 - fin -






 ……はい、ということで、そんな感じのネタを思いついたよって話でした。
 我ながら、元ネタを知らない人には本当に通じない話だったと思う。だからここからはその元ネタを解説していくことにする。
 初代バイオハザードには、数々の即死トラップが仕掛けられているのだけれど、その中の一つ「吊り天井の部屋」が今回の短編の元ネタ。その吊り天井の部屋というのは読んで字の如く、うっかり仕掛けを作動させると天井が段々下がってきて潰される……そして部屋の扉も開かなくなる! 出られない! 死ぬ! という物。
 初代バイオは主人公の性別を選択出来るのだけれど、女主人公でプレイした時だけ、仲間の頼りになるおっさんがそんな吊り天井の部屋から助け出してくれるというイベントが起こる。そして間一髪部屋から脱出した主人公に、恩人であるおっさんからかけられる言葉がこれ。
「危うくサンドイッチになるところだったな」
 この台詞回しが妙に印象に残ったので、初代バイオの地味な名シーンとしてプレイヤーの間では有名になっているのだ。
 催淫を防ぐために肌を隠すが顔は隠さないサキュバス、完全に顔を隠せる物といえばガスマスク、ガスマスクといえばバイオハザードのハンク、バイオハザードといえば……という連想ゲームでその「サンドイッチ」を下ネタに出来ることに気付いた時、我ながらクソ馬鹿だけど天才だと思った。
 しかも個人的には、サキュバスバイオハザードの相性の良さにはまだまだ可能性が眠っていると思っている。サキュバスの別名が「夢魔」であることと、初代バイオのEDが本編の作風に見合わない明るい調子で、
「夢で終わらせない〜♪」
 と歌っていることとかも、きっと創作に使える関連性だと思う。
 特に、一定条件を満たすとED映像が死亡シーン集になるという通称「残虐エンド」のことを思えば、明るい歌の裏でグロテスクな映像が淡々と流れていくことと、さっきの短編にもあったような「笑えない冗談」の性質が噛み合うだろうし、笑えない冗談とサキュバス系創作は相性がいい。……という風に、とにかく何かしらの可能性はあると思われる。
 ぼくが今回思いついたのはここまでだけれど、独自の閃きを持った誰かに、ぜひサキュバス×バイオハザードの創作をしてみてほしいなと思う。触れただけで意思に関わらず催淫してしまう能力の性質はほぼ「感染」と形容できるだろうし、絶対にバイオハザードとの相性はいいはずだから。……というか、すでにどこかに面白い話が存在しているなら、ぼくにもそれを教えてほしい。
 以上、小説というほどでもない短編の公開でした。