サイレンス・キリング・ユニバースの解説

 前回公開した作文タイトル「投げっぱなしアイデア提出」に載せた「あらすじ(仮)」である、「サイレンス・キリング・ユニバース」があまりにも、あまりにも投げっぱなしすぎたので、最低限の解説をしていくことにしました。
 えー、しかしながら、まず上記作品の大前提として、作文タイトル「サキュバス界は自己盲信の世界」を読んでもらわなければなりません。そこから派生している話なので。仕方なく今回はURLも貼りましょう。投げっぱなしアイデア提出と二つセットで貼っておきますね。


https://arisu15849.hatenablog.com/entry/2020/03/04/154905

https://arisu15849.hatenablog.com/entry/2020/03/27/223937



 ものすごくざっくり説明しますと「サキュバス界は自己盲信の世界」は、
サキュバスサキュバス特有の力は、本人の盲信によって発揮され、それゆえ無限の可能性を秘めているのだ」
 という内容でした。そしてなぜそう考えるに至ったのかという説明を、こいつはいったいどういう気持ちでエロ漫画を読んでいるんだ……? と思われそうな視点でもってつらつら語っていたわけですが、面白いのでぜひ読んでください。結構最近の作文です。
 というわけでサイレンス・キリング・ユニバースの真相は、サキュバスと自己盲信の関係に世界で唯一気付いてしまった人間と、同じく唯一気付いてしまったサキュバスの物語になります。
 サキュバスの力は盲信から生まれている。盲信という言葉の指す具体的なことは、「自分は出来る」と思い込むこと。サキュバスはそう思い込むことで、実際にそれが出来るようになる力を持っている。……という前提の世界の話なので、サキュバスと自己盲信の関係とは、その世界の一つのタブーになっています。それはなぜか?
 自分の力は全て盲信から湧いて出た物だ……と認識した途端、その人は盲信と永遠のお別れをしてしまうからです。「自分には出来る。なぜなら盲信を力に変えられるからだ」という思考は、もはや盲信ではありません。
 要するに、盲信は非科学的でなければならないのです。確実性に欠けていなければなりません。
「友達がビルから生身で飛び降りると、鳥のように空を飛んだ。あいつは人間だ。自分も人間だ。ということは自分も生身で空を飛べるに違いない」
 という思考が、盲信であるわけです。
 一方で、盲信から湧く力を計算に入れた思考というのは、さっきの例えだとこうなります。
「友達がビルから生身で飛び降りると、鳥のように空を飛んだ。なぜならそれは最近発見された科学的に正しい理論でもって、人は生身で空を飛ぶことが可能だと証明されたから、あいつはその理論に従って飛んだのだ。ということは自分も同じ理論に従えば生身で空を飛べるに違いない」
 ……という、伝わるでしょうか、この違い。言わば論理の濃度の問題です。決定的なボーダーラインがどこにあるのかはぼくにもわかりませんが、盲信が盲信ではなくなる一定のラインがどこかにはあります。
「自分はピーマンが苦手だ。自分は人間だ。ということは、人間はピーマンが苦手だ」
 というくらい無茶苦茶な、論理と呼べない論理でなければ、それは盲信ではないのです。「パプリカが苦手な人はきっとピーマンも苦手だろう」というくらい最もらしくなってしまうと、それはただの推測であって、盲信でも何でもなくなるのです。
 だからサキュバスと自己盲信の関係はタブーになっています。サキュバスがそれを知れば、たちまちその力を失ってしまう。一人や二人なら単なる不幸で済むけれど、全てのサキュバスが一斉にそれを知り力を失ってしまうと、もはや種族自体が滅びかねません。
 主人公の男Qは、ある常人には理解できない体験を経て、禁忌の知識に触れます。Qは初め、それがタブーだと気が付きませんでした。誰も知らないサキュバスの仕組みを知ったというだけで、それ以上のことはないと思っていたのです。
 しかし日に日にQは思考を深めていきます。まずは一つ、その知識に触れたサキュバスは、それだけで力を失うだろうということにたどり着きました。そして彼は、さらにその次の段階へと考えを巡らせて、思い至るのです。
 力を失ったサキュバスは、具体的にどうなってしまうのか。サキュバス特有の力を失うなら、例えば性欲をエネルギーとして吸い取る力は間違いなく失うだろう。失うとどうなる? エネルギーが得られず死んでしまうのか? いや、そもそも人間からすれば、そんな得体の知れないエネルギーで生きていること自体おかしい。サキュバスが力を失えば、そもそも性のエネルギーという概念自体が、力を失った個体にとっては消えてしまうのではないか?
 するとつまり、どういうことになるのかというと、それはまるで、サキュバスの人間化であるわけです。サキュバスの性に奔放な性質が、その種族由縁の物だとすれば、力を失ったサキュバスには人間並みの抵抗感や恥じらいが出てくることになる。サキュバスが力を失った結果現れる物は、何もかも人間らしさばかりじゃないか。サキュバスからサキュバスらしさを引いて残る物は、それは、きっと人間の女性だ。そうに違いない。
 という風に、Qは段々と自分の論理を確かにしていきます。そしてやがては気付いてしまうのです。仮説の通り、力を失ったサキュバスが人間になるのなら、そうだとすれば、いやまさか、まさかではあるが、サキュバスという生物その物が全て、元々は人間だったのではないか……? ということに。
 それは、およそ世界でたった一人、自分しか知らない知識。自分しか知らない仮説。あるいは、自分しか知らない真実。それも、世界のあり方を変えかねない真実。その重さは計り知れない。
 だからその知識の深みに達したQは、その時点でいくらか気が触れていたのかもしれません。
 彼は何の迷いもなく相棒のサキュバス、エルフェールにタブーを吹き込みました。すると彼女はその場で瞬く間に力を失ってしまう。魔の者であることを示す角や羽根や尻尾が消え、恥じらいと抵抗感がやって来るのです。そして彼女は、今までサキュバスとして振る舞い、それにふさわしい生き方をしてきた人生を振り返って、言いようのない絶望を得ました。もうお嫁に行けないだとか、そんなものを通り越して、自分はもはや、人であって人ではないのだと……。
 過去の記憶は洪水のように蘇り、彼女の脳を乱暴に揺さぶって、狂人として叫び出してしまいそうな逃避欲を伴いながら、終わりの見えない嘔吐感を引き起こす。……しかし、しかし彼女は踏みとどまりました。発狂には至らなかったのです。男の性欲に触れるため、今振り返ってみればおぞましい行為をしてきた過去、それをどうにか飲み込んだのです。
 それが出来たのは、隣にいるQが、自分を人間として扱うからでした。サキュバスから人間への変化という世界で初めての事象を体験しながら、人間とサキュバスが「適材適所」の合言葉で区別される世界に一人きりで放り出されていれば、彼女は間違いなく気を違えていたでしょう。
 彼女は唯一真実を知る相棒、Qの存在で正気の中に踏みとどまりました。が、Qが彼女のことを人間であると正しく認識したのは、当然といえば当然のことです。Qは自らの仮説を一部証明したのですから。
 それでもまだ、サキュバスの起源が人間であったのかについては、現時点では不明なままとなっているわけですが。……けれど、Qは皮肉にも、禁忌の知識をもって、盲信の領域に踏み込んでいました。
 サキュバスは元々人間だ、間違いない。そう考えた彼は、世界に自分の得た知識を広めようと考えます。エルフェールはそれを全力で止めようとする。もしもそんなことが実行されたら、ほとんどの「元サキュバス」たちは正気でいられないだろうから。
 彼女らのほとんどはすでに、サキュバスとしては高待遇の立場を確立しています。性の仕事に就いている者もそうでない者も、サキュバスとしての欲求を満たすため、喜びを得るための立場を、何かしらの方法で得ているのです。なぜならそれを得ることが簡単だから。例えば一人暮らしの男性の家に尋ねていって、こう言ってしまえばいいのです。「エッチなことしましょう? どんなことでもするから……」
 サキュバスにとっての高待遇は往々にして、人間らしく扱われることとは異なります。そして社会はすでに、そんなサキュバスという存在を前提とした物になっているのです。サキュバスがある日一斉に人間らしい心を持つなんてこと、夢にも思っていないわけです。
 サキュバスの人間化と発狂。それは世界の終わりさえ意味しかねません。すでに世界はサキュバスと人間が共存した社会となっているから。それもサキュバスの数が増えて、彼女らはとっくに、社会を構成する大きな歯車となっているのだから。そのサキュバスという種族その物が消えて、代わりに残るものが狂人となると、ありとあらゆる国で社会の崩壊し、世界の終わりに至ることもあり得るのです。
 Qは、世界を終わらせかねない力を持ってしまった。そしてそのQは今や盲信の徒。サキュバスと違い人間である彼の盲信は、何の力も持ち合わせていない。けれど彼は叫ぶのです。
「ようやく人間は取り戻されるんだ! 二つの種族に割れた人間は、やっと一つに戻れるんだ! これは運命だ! 一つに戻る、完全になる運命!」
 ……しかし、ただその知識以外、Qは非力な人間でした。相棒として、タブーに触れるまでのQを隣で見続けたエルフェールは、彼に信頼されていたのです。彼の無防備を、彼女だけが触れられたのです。
 やむなくQを殺害した元サキュバスは、その後自ら命を断ちました。人間となった自分にとっての、唯一の理解者を失ったから、彼女にはそうする以外選択肢がなかったのです。
 彼女は遺書として、こんな文面を残していきました。丸く、柔らかで、綺麗な文字でした。
「Qは狂ってしまった。けれど彼の言うことも分からないわけじゃない。この世界の、何が正気なのだろう。誰も私やQと同じことを考えませんように」
 こうしてある男の得た、彼方よりの深遠なる知識は再び眠りにつき、二人は狂人として、わずかな間だけ名を残しました。 
 ー完ー





 ……というのが、サイレンス・キリング・ユニバースの「起」と「結」です。そしてこれだけが全てです。
 そろそろタイトルをいちいち言うのも長ったらしいので説明しますが、このタイトルの由来は「サ」イレンス「キ」リング「ユ」ニ「バ」ー「ス」……サキユバス……つまりサキュバスです。
 何より真っ先にやりたかったことは、「投げっぱなしアイデア提出」に書いた通りの、以下の会話文を書くことでした。

「あのねぇ! どんなにいい思いをさせてもらっても! 一回きりで終わってしまったら、残るのは思い出じゃなく未練だけでしょう!?」

 これはぼくの心の叫びです。それ自体は幸運なことに、ごく稀にぼくに対して思わせぶりなことを言う女性がいます。それに対するぼくの叫びがこれです。
 ただそれを書きたかったがために、あらゆる設定を動員しました。どうせくだらない話だ、タイトルは適当にしようと思って、雑に思い浮かんだ英単語による上記のタイトルを採用。そしてユニバース、大宇宙という響きから思い出したのが、ブラッドボーンというゲームに登場する、とある文章。

「宇宙は空にある。「聖歌隊」」

 これを連想して、ブラッドボーン丸パクリ、ひいてはクトゥルフの世界観丸パクリ(そして凡庸極まる劣化)の設定が出来上がったわけです。
 上記の筆者が冷たい視線を感じるような心の叫びから、サキュバスと人間が共存する世界設定の説明に入る流れは、しょうもない動機のわりには上手くやった方ではないかと思います。タイトルにしたって、サイレンス(沈黙)のためにキリング(殺害)してますし、いい感じじゃないですか?
 それとこれは普段から考えていたことなのですが、まともに人間らしい心を持ち無闇な性行為に抵抗感のある女性……なおかつ特定の相手がいない女性は、心はそのままに、ある日突然サキュバスのように性行為を頻繁に繰り返さなければ飢えて死んでしまう体になってしまったら、正気ではいられないと思うんですよね。そんな妄想も役に立ったので、個人的には供養の意味で満足です。言ってしまうなら、一つの小説作品として完成させられれば文句なしだったんですけどね……。
 サキユバスが小説に出来なかった理由は大きく二つあります。一つ、Qとエルフェールが信頼関係を築く過程が思い浮かばなかったこと(他案も大抵の場合、そういった過程が浮かばず書けず終いになる)。二つ、そもそも禁断の知識にQがなぜアクセス出来たのか、その設定が思いつかなかったこと。
 要するに、作品としての深みを持たせられなかったので、これはあらすじにしかなれなかったのです。特に禁断の知識まわりの設定はまいりました。「過程」と違ってまったく思いつかないわけではないのに、上手くいかなかったからです。
 いっそパクリ元に忠実な方針で行くなら、知識は人間より(そしてサキュバスより)上位的な存在が握っているべきでしょう。それは例えば神ですが、じゃあなぜQはその知識に触れられたのか。その設定がこれっぽっちも思いつきません。なので投げっぱなしアイデア提出では、それっぽいことを匂わせておいてぶん投げました。書いた人そこまで考えてないです。
 そんな調子では神とやらが具体的にどんな存在なのかも決められない。そんなように様々な理由あって、サキユバスは投げっぱなしにされたのでした。着想がしょうもないわりに悪くない展開の広がりが起きたと思ったんですけどね……、パクリであることに目をつむれば。いや残念です。
 ともあれ、これで今度こそボツネタの供養は終わりました。過去には違った形でボツネタ(過程不足から設定の不備投げっぱなしまで)を供養したこともあるので、宣伝がてらそっちのURLも乗っけておきますね。

https://syosetu.org/novel/210899/

 供養その物が、物語の過程の一部にもなり得るという、リサイクル精神を学ばされる経験でした。
 以上です。お疲れ様でした。