隣の罪は酸っぱいぞ

 ニートの社会復帰をサポートする市の施設があるんだけれども、そこに通っていた時期のぼくは、職員のおじさんとこんな話をしていた。

「あのー、デカいプールとかのCMで、水着のお姉さんがたくさん集まって、踊ってるやつあったじゃないですか。こう、シメジみたいな密度で集まって、がっつり露出した水着で」
「はぁ、まぁ、あったかもなぁ」
「ああいうお姉さんに囲まれたら、普通の男は「うひょー」ってなりそうじゃないですか」
「そりゃなるだろうね。俺も若けりゃなる」
「ぼくがあのビキニ集団の中に放り込まれたら、なんか、溶けちゃう気がするんですよ」
「喜びで?」
「ストレスで」
「はぁ? なんで」
「なんでと言われると、こう、なんというか、アウェー? みたいな……?」
「ふぅむ……。わからん」

 全て本心からの話だったのだけれども、その時はストレスで溶けそうという感覚を、上手く言葉で説明できなかった。
 なぜニートをサポートするための施設でそんな話をしていたのかというと、その時点のぼくはすでに二つの別なバイトを一回ずつバックレた末、「絶対に働かない」と決めていたものだから、就労の意欲さえない者には施設側も手の施しようがなかった……ということになる。
 なぜそんな状態で施設に通っていたのかというと、それはもう完全な惰性だった。バックレた二つのバイトは、どちらも施設に通い始めてから試みた物だったから、だからその勢いによる慣性のまま通い、社会復帰に不必要な会話ばかり繰り返していた。こういうのを俗に時間泥棒と言う。
 しばらくして、ついに慣性のパワーも尽き、ぼくは施設へ行かなくなった。そしてその頃のぼくは、今や恒例となった家事手伝いを始めていた。
 しかしぼくは洗濯物を干すようになって、おじさんに話した「水着のお姉さん集団の中に放り込まれたら」の話を頻繁に思い出すようになった。改めて響きだけ聞くと、パラダイスを想像してる暇があったら働けという感じだが、言ってもそれはいざ実現すると絶対そんな良い物じゃないぞ……と今でも思う。
 なぜその話を洗濯物干しながら思い出していたのか。それはまぁ、もはや言うまでもないかもしれないけれど、ずばり洗濯物の中に母の下着も含まれていたことが原因だった。
 母のだろうと誰のだろうと、女物の下着に触れるというのは、初めの頃はものすごい抵抗があった。いや、抵抗というか、「いいのか……? これはいいのか……?」と、神に問うような気持ちになっていた。ぼくくらいのダメ人間になると神にもタメ口である。
 ともかく、そうして洗濯物を干す日々を重ねながら、なんとか女物の下着に対する抵抗感を言葉にしようと、ぼくは毎朝頭をひねった。そしてある日、それっぽい表現を思いついた。
 身内の物でも他人の物でも、男が女物の下着に触れると、触れた箇所から「罪」が滲み出てくる気がする。……それがぼくの思いついた表現だった。
 しかし、罪とは一体何だ。具体的にどんな物のことなのだ。冷静に考えて、ぼくが女物の下着に触れてなぜ悪い? 盗んだわけでもあるまいに。客観的に考えて、家族が家族の洗濯物を干してなぜ悪い? 娘に嫌われる父親でもあるまいに。一体どこに罪があるっていうんだ。
 それもまたしばらく考えて、ひとまずの答えは出した。思うにここで言う罪とは、罪悪感のことだ。社会的な価値観で言う罪とか、あるいは人類の原罪であるとか、そういう物では断じてない。
 おそらくぼくにとって下着は象徴であり、それが誰の物だとか、そういうことはどうでもいいらしい。理屈ではなく、下着が自分の中で軽くタブー扱いになっている。
 子どもの頃はショッピングモールへ行った時、ゲームセンターコーナーへの最短ルートを突っ切るため、ブラ売り場を走り抜けていったものだ。それがいつからこうなったのか。
 今の年齢で一人女性の下着売り場をうろつけば不審者になる。そういう空気がぼくに象徴とか、罪悪感を植え付けたのか? それともぼくが「自分は性欲が強く、その上性的な趣味が悪い」という欠点を重々自覚しているせいで、少しでも性を意識させてくる物に向き合うと、自意識がおかしくなって罪悪感を湧かせているのか?
 自分の罪の意識がどこから来るのか、考えてみるとそれは、案外わからないことだった。しかし何にせよそれは自分の中だけの問題で、ぼくが母の下着を干しながら罪がどうのこうのと考えようと、考えなかろうと、誰もそれを気にはしないのだ。
 そしてある時、ぼくはあの職員のおじさんに、話の続きが出来ることに気が付いた。
「下着に触れると、触れた箇所から罪が滲み出るんです。下着でそれなんだから、女性の肌なんかもっとですよ。で、それで溶けるっていうことは、つまり罪ってのは酸性なんですね! あはは!」
 まさかそんな話をするためだけに、施設に赴くはずもないけれど。というか、おじさんはそんな話すっかり忘れているだろうけれど。
 酸性という言葉を使うと、いかにも下着と罪の現象は理科っぽいように思える。この世では「ぼく+女性の下着→罪悪感」という化学反応が成立しているのだ。しかしテストには出ない。
 ……ところで、ぼくはおじさんの言葉を忘れていない。あの人は若い頃、露出過多な女性の集団の中に放り込まれると「うひょー」となる側の人間だった。どう考えても、そりゃそっちの方が人生楽しいだろう!
 とはいえ、ぼくもすでに下着は克服した。罪がなんとかって本気で考えていた時期が懐かしい。あの頃は洗濯物を干す時、母の下着は出来るだけ目立たない位置に配置しなければと思うあまり、洗濯物全体の量が少なくてどうしても「目立たない位置」が生み出せなかった時、これはどうしたものかとそこそこ真剣に悩んでいたものだ。
 しかしこれは重要なことだけれど、罪というのは大抵の場合、何度か犯すうち嘘みたいに慣れてしまうものだ。触れた箇所から滲み出る罪とやらも、まったく例外ではなかった。
 つまり! 場数さえあれば、ぼくだって慣れるのだ。それが布であろうと、肌であろうと!
 問題は、女性の肌に対する場数なんか、ぼくに縁があるわけないってことだ。おじさんは生まれつき平気だったのか? それともまさか、後天的な慣れなのか……?
 ……まぁ、どちらでもいい。ぼくのような人間が持つ罪悪感とは縁がない人たちの、その慣れという感覚が先天性だろうと後天性だろうと、そんなことはどうでもいい。そんなもの、別に、羨ましくなんてないから。