探偵ごっこがしたいわけじゃない。

 嘘を疑われた時、今のぼくに嘘をつくメリットなんてない……といくら熱心に説明しても、大抵はむしろ疑いを深められてしまう。状況に関わらず嘘はつかない、なんて主張する方が余程嘘っぽいはずなのに。
 ……ということを、時々思い知らされるけれど、そして反射的に「納得いかない」と思ってしまうけれど、実は、この現象は当然のことである。
 同じ経験をしたことがある人は、きっと大勢いるだろう。「自分のはずがないんだ」と論理的に説明すればするほど、強く疑いの目を向けられる経験を。ぼくを含めそんな経験を持つ人たちは、一つ胸に刻んでおかなければならないことがある。
 誰かを面と向かって疑っている人は、探偵ごっこがしたいわけではないのだ、ということ。普通、誰かを疑っている最中の人は、論理的推理からの「犯人はお前だ!」がしたいわけではないのだ。誰だって基本的に、人のことを疑いたくなんかない。
 ……例え話をしよう。例えば、ぼくが女性と密室で二人きりになったとする。場所はカラオケでも、どちらかの家の部屋でも、何でもいい。そこで女性が、冗談として言う。
「変なことしないでよ?」
 ここでぼくが、こう答えたらどうなる。
「しないよ。捕まりたくないからね」
 ……たぶん、いや絶対、警戒される。これこれこういう理由があるので、確実に自分はそれをしない……と主張することは、反対に言えば、その理由さえどうにかなれば話が変わってくる……ということになってしまう。
 もしも相手が全知全能で、何が嘘で何が本当なのかを確実に判別できるなら、そもそも人を疑う必要がない。何が嘘かを判別できないから疑うのだ。ということは、潔白を熱心に説明されたとしても、その説明自体が真実なのかどうか、判別する方法もないわけである。
 男女の例なら、「仮に捕まらない目処が立てば、こいつはやりかねない」とか「本当に「逮捕>変なこと」と思っているのか?」とか、疑う側は考えるわけだ。それを一つ一つ否定していこうとしたら、最終的に「いや、普通に考えてそうだろう」としか言えなくなる。自分が口にした理屈が絶対であることは、多くの場合証明できないのだ。それが真実だと確信できるのは自分だけ。…。それでは意味がない。
 人から嘘を疑われた時に「嘘をつく理由がない」と主張することもそれと同じだ。こちらはその主張が真実であることを確信しているから、そんな説明をするけれど、向こうからすればそんな説明、クソの役にも立たない話でしかない。何も主張していないことと、ほとんど同じになってしまう。
 もちろんまともな人なら、疑わしきは罰しないだろう。けれども、誰かから疑われるということは、普通に悲しい。ぼくは「熱心に説明したのに冤罪をくらうのは嫌だ」と言っているのではなくて、「熱心に説明したのに疑われるのは嫌だ」という話をしている。冤罪を避けたいわけではなく、疑いそのものを晴らしたいのだ。
 そのためには、どうすればいいのか? 答えは簡単だ。何も付け加えず、「自分は嘘を言ってない」と主張すること。それでダメな時は、どちらにせよダメだ。ただシンプルに無罪を主張する、それしかない。
 誰かを疑う人は、真摯さを求めている。出来れば疑いたくなんかないのだから、信じさせてくれることを求めている。そして疑われた側に主張の正しさを証明する方法がない以上、相手に信用してもらうためには、真摯さを見せるしかない。(もちろん、主張の正しさが証明できる場合は、証明すればいい)
 ところが、理屈で無罪を主張するぼくのようなタイプは、主張することにちょっと真剣だ。なまじ真剣なものだから、曖昧でふわふわした精神的な話をせずに、論理的に説明しようとする。
 しかしその論理とやらは、自分だけのものだ。自分以外の人間にとって、それは論理性の欠片もない物となってしまう。そもそも、信用の話をしようって時に、論理もクソもないのだ。それは元々曖昧でふわふわした、精神的な話なんだから。
 なのに精神的な話を避けようとするから、当然疑われる。疑われて当然なのだ。理屈抜きの真摯さを求める相手に、場違いな真剣さで返すからおかしくなる。コミュニケーションが成立していない。
 再び話を男女に例えると、「本当に私を愛してくれるのか」と言う相手に、「自分の年収はこれだけあるので、きっと不幸になんかしない」と返すようなもの。例え話における男の側だって、何も考えていないわけではなく真剣なのだけれども、しかし致命的に噛み合ってない。だから上手くいかない。
 本当に愛してくれるのかと問われたら、たとえその言い回しが、自分から見てどんなに嘘くさく思えても、「もちろんだよ」と言うしかないのだ。同じように、嘘を疑われた時は、「嘘なんかついてない」と言うしかないのだ。それでダメなら、どんな言葉を使おうと結局ダメなんだから、仕方がない。
 とはいえ、真摯さによる主張をそもそも「嘘くさい」と感じないタイプの人間は、ぼくのようなタイプよりも、より真摯に見えるように、自分の潔白を主張できるだろう。そういう意味で我々は不利だ。疑われやすい価値観を持ってしまっている。
 ……というわけで、ぼくと同じようなタイプの皆さん。すでに固まってしまった価値観を変えることは容易ではなく、不利を覆す方法はぼくには思いつかず、挙句の果てにこの作文にはオチがないけれど……それでも強く生きていきましょう!

おしまい。