あの日ぼくは虚構新聞を読んだ

 ぼくには一つ呪縛がある。それはぼくの中にある、数ある呪縛のうち、「どうでもいい物」から数えた方が早いようなくだらない物であるが、しかしぼくはこれを、いい加減に解呪しなければならない。そう思って今回の作文を書く。
 その呪縛は、他人が漢字を面白く読み間違えた時、それを笑おうとすると出てくる物だ。その呪縛は、自分が漢字を面白く読み間違えた時、それで笑わせようとすると出てくる物だ。
 この作文を、あの日の「供養」としてしまいたい。忌まわしい記憶を、単なる思い出に変えるのだ。



 漢字の誤読は時に笑いを誘う。よく母がそういう誤読をよくする。服の山を漁る、の「漁る」を「つる」と読んで、なんで服を釣ってるんだ? と言い出す時など面白かった。一番笑ったのは、「うま味を残した牛乳」といったようなフレーズのパッケージを見て、「うまあじってなに?」と聞いてきた時だった。
 ぼくも友達を笑わせたことがある。じゃがいもの産地について「じゅっしょう産」と読んだ時、「十勝(とかち)だろ!」とウケた。いや、これは本当に読みがわからなくて、間違いなく違うだろうなと思いつつも、ジュッショウと言うしかなかった情けない話なのだけれども。
 だから、例えば母が誤読をした時もそうだし、誰が誤読をしてもそうだけれど、ぼくは漢字の誤読をした人に対して「気にするなよ、ここに十勝をジュッショウと読んだ男がいるぜ」と自虐することが出来る。誤読も開き直ってしまえば持ちネタになるのだ。
 しかし、その持ちネタを思うたび、つまり漢字の誤読に自分あるいは隣り合わせた他人が遭遇した時、ぼくは思い出す。開き直ることさえできない、ネタにさえ出来ない、あの日の誤読を。
 中学生の頃だった。社会科の授業には、毎度スピーチの企画があった。授業の本題からは独立していて、授業の中でスピーチについて触れられることはない。それは各自があらかじめ自宅で新聞を切り抜いてきて、その切り抜かれた話題について、5分にも満たないスピーチを、授業の本題が始まる前の、前座のようなタイミングで行う物だった。
 もちろんそこに、休み時間を犠牲にしたりする邪悪さはなかった。50分ある授業の内、ほんの少しの時間がその企画に使われるだけだった。
クラスメイトは約30人。社会科という基本の授業が週に4~5日あったとして、スピーチで自分の番が回ってきてしまう事態は、かなりローペースに起こることだった。だから意識としては、たった一度、たった数分を、適当に乗り切ればいい、そんな気持ちだった。たかが前座、誰もそうそう気に留めない、その印象が事実だったように思う。
 さて、ここからが本題だ。落ち着いて、よく聞いてほしい。これを読む人が想像する通り、その社会科の授業にて、ぼくは自分の番のスピーチで誤読をした。何を、何と読んだか。落ち着いて聞いてほしい。

 ……ぼくは、安倍総理を、アンバイ総理と読んだ。

 ……もう一度言う。ぼくは、安倍総理を、アンバイ総理と読んだ。
 まだ言おう。ぼくは、安倍総理を、アンバイ総理と読んだのだ。
 なぜ三度も重ねて言うのか、それは切り抜かれた記事の中に、「安倍」という文字が、三度では効かないほど多く含まれていたからだ。もちろんその全てを、その時のぼくは誤読した。
 誰も、何も言わなかった。社会科の担当教師は年配の、いかにも学校の先生をやっていそうな、優しそうな男性だったのだけれども、彼はスピーチを終えて「乗り切った感」をかもしだすぼくに、しかし何も言わなかった。クラスメイトも愛想の拍手をするだけで、授業後も、その後の全ての時間でも、今この時に至るまで、誰も何も指摘してはこない。
 指摘されなかったことではなく、そもそもその誤読自体に対して、ぼくは今も「そんなことあるか?」と思うし、この話を聞いた人もそう思うだろう。確かにぼくは五教科で250点に届いた試しが無い人間だけれども、しかし反対に200点を切ったことも無く、馬鹿は馬鹿でも、致命的な馬鹿ではなかったはずだ。それがアンバイ総理って、そんな、そんなことあるか? しかし実際あの時のぼくは、安倍をアベと読むことを知らなかった。
 そんなあの時のぼくでさえ、アベ首相だとかアベ総理だとかいうフレーズを聞いたことがあって、さすがにその存在は知っていた。それがいざ、ロクに読み込んでもいない切り抜き記事を皆の前に立って読む時、「安倍……? なんだこの文字は?」となった末に選んだ発音が、アンバイだった。よくよく考えればわかることなのに、その後ろに「総理」とあるんだから、例えもっと難解で見たこともない漢字が置いてあったとしても、文脈的にそれはアベと読むんだ。……ということが、緊張と素の頭の悪さが相まってか、当時そのタイミングでは、わからなかったらしい。
 この誤読が、消し去ってしまいたい記憶になっていることには理由がある。母の「うま味=うまあじ」は笑い飛ばせるのに「安倍=アンバイ」はなぜ笑えないのか。それは世の中に誤読しても良い漢字と、絶対に誤読してはいけない漢字があるからだ。過去話題になった誤読に例えるならそれは、「云々」が読めなかったことと、「色丹」が読めなかったことのような違いがある。安倍(アンバイ)はそのあたりがまずかった。
 当時のクラスの中には、成人した今でも付き合いのある友人が数名いた。しかしその友人も、今に至るまで、ぼくに「あの時さぁ」と指摘してきたことはない。同窓会にも出たが、当然ながら、そもそもそんな話題が出なかった。
 あの時先生は、おっかなくて指摘できなかったんじゃないか。ぼくは半不登校児であったから、その日調子よく授業に出席して、その上スピーチまで行ったぼくに、その指摘をするのはおっかなかったんじゃないか。そう考えている。そしてそれは、クラスメイトだって似たような物だったのではとも思う。
 あまりにも平然と、緊張がモロに出た程度の早口の中に、アンバイ総理という音が聞こえてきても、まず何が何だかわからないはずだ。やがて何が起こっているのかを理解しても、だってそこは中学校なのだから、小学校でも幼稚園でもないのだから、そこで当然のように起こった「そのレベル」の誤読は、クラスメイトにとってもおっかないものだったんじゃないか。同じく中学時代、今でも付き合いのある友人は「半ば」を「はんば」と読んだぼくにすら、「冗談かと思った」と言って指摘してこなかったくらいだ。
 あの誤読を、みんな忘れてしまったのだろうか。30人が全員、ぼくの誤読を忘れたのか。もしかして数人くらいは、そもそも心ここにあらずで、聞いていなかったりしたのだろうか。それとも全員憶えていて、未だにおっかなくて、あるいは優しさで、付き合いのある人まで皆、ずっと黙っているのだろうか。教師と違ってクラスメイトは、黙っていることがより正しく「優しさ」であるように考えていても不思議ではない。
 あの時みんな、どう思ったんだろう。どう感じたんだろう。内心笑いをこらえていたのか、哀れみを感じていたのか。空気が凍るのを感じて青ざめていたのか。空気の凍てつきを感じていないのは、ぼくだけだったから、当時も今も何一つわからない。その時のみんなの顔を、雰囲気を、何も覚えていない。
 自分で誤読に気が付いたのは、スピーチを終えた日、家に帰ってからだった。変な名前だな、そう思ってパソコンで検索をして、ぼくは学校の怪談を読んだ時の気持ちを思い出したのだ。真実を知った時、自分が何をしたのか知った時、ぼくは一瞬、自分が世界から放り出されたように感じた。
 もしも音楽室のベートーベンが、こちらを追ってその目を動かす様を目撃してしまったら、きっとあんな気持ちなのだろう。肝は冷えた、血の気も引いた。安倍はアベと読む、そのことを、ぼくは二度と忘れないと思った。



 異世界に迷い込んだみたいだ、と例えることが、ぼくにはよくある。
 幼稚園の頃、鶴も折れない自分が、たった一枚の折り紙ただそれだけを使って、柄が黒く、刀身は白い「剣」が折れてしまった記憶。
 小学生の頃、「探検だ」と言って、友達と知らない場所まで歩いて行って、そこで見つけた公園で、見知らぬ女の子と出会い意気投合して、延々とお喋りをしては笑い合い、しかし彼女の名前も聞かずに、そして別れたその日以降、当然ながらその子には一度も会わなかった記憶。
 そのような記憶は、今思い出してみると、夢だったんじゃないかと思える。あまりにも奇跡的で、なんだかロマンチックで、だからこそ、それは夢と現実が混在した、記憶違いなんじゃないかと。
 実際はそうではないはずなのだけれども、しかし高校あたりからぼくは時々、そして子どもの頃にも何度か、気付きはするけれども、一時的に夢と現実をない混ぜにしている時があるので、自信を持って「あれは現実だ」とも言えない。この微妙な感覚を、ぼくは「異世界に迷い込んだみたいだ」と例える。ぼくにとってその記憶は、とても小規模な、千と千尋の神隠しのような物なのだ。その手の記憶は、トンネルの向こうにあるような気がしてしまうのだ。
 安倍の誤読も、そのような記憶の一つになっている。というのも、スピーチの読み上げで緊張していたとはいえ、それだけの誤読をしておいて、教室の雰囲気に何も気付かなかったとか、あるいはそこに何も変化はなかっただとか、そんなことがあり得るのだろうか? 何度も何度も誤読して読み上げたのに、教師もクラスメイトも誰も指摘しない、そんなことがあり得るのだろうか? ぼくは未だに信じられない。
 あの時だけ、ぼくは何かおかしかったんじゃないか。記憶から何か抜け落ちているんじゃないか。その誤読にまつわる記憶もまた、異世界を通ってきた物に思えてしまう。しかし同時に、これは現実感を伴って、漢字の誤読に触れ合うたび、呪いの効果が現れるみたいにして、ぼくは「安倍の誤読」を思い出してしまう。そしてそのたび何度でも恐ろしくなって、その話題自体から逃げてしまう。面白い誤読があっても、それをネタにできない。いつまで経っても、安倍の誤読に向き合うことが出来なかった。この記憶はぼくにとって、自分を追尾するベートーベンの目だった。忘れてしまうしかない物と思われた。
 しかし、いい加減にしなければならない。漢字の誤読は、場合によっては間違いなく面白く、笑えるのだ。一度洒落にならない誤読をしたからといって、それらの面白さ全てを捨てることになるなんて、たまったものじゃない。そう奮い立って、今回こうして、記憶を供養しているのである。
 自分を励まそう。ぼくはあの頃から今までの人生で、幸運にもそのための材料を手に入れているのだから。
 虚構新聞という物がある。ジョークニュースを、いかにも本当のことのように書いて楽しんでいるサイトの名前だ。当然それを見る人も趣旨を理解して、そのデザイン的に精巧な「本物っぽさ」と、あからさまに馬鹿馬鹿しく嘘だったり、かと思えば一瞬本気で信じてしまいそうになる巧妙な内容に、面白さを見出しているわけだ。
 しかし、ある時これを「そういう物」だと知らずに、そこに書いてあることが真実だと思い込んでしまって、それを本物のニュースだと信じて、「これは大変だ」とSNSで触れ回ってしまった人がいた。彼あるいは彼女は、リテラシーに富んだネットの民から総スカンをくらった。虚構新聞も知らない間抜けが、触れ回る前に一度くらい検索してみれば、自分の間違いに気付けそうなものなのに……と。
しかしその中に、別の意見もあった。それはむしろ、虚構新聞を虚構と見抜けなかった人のことを、容赦なく叩く者たちへ対するバッシングだった。
 虚構新聞が虚構であると我々が知っているのは、虚構新聞がどんな物であるかを知っているからだ。虚構新聞の虚構を知る者は、決して賢さから、そのニュースの嘘を見抜いているわけではない。そのサイトがどういう物なのか、ただ知っているか否か、その違いしかない。誰だって知れば理解できることであって、そして我々は、己の賢さに由来して「虚構新聞とは何か」を知ったわけでもないはずだ。それなのにどうしてそんなに、ただ知らなかっただけの人を愚か者呼ばわり出来るのか。
 ……というような話を聞いて(実際はそんな話ができるほど賢い人なだけあって、もっと短くわかりやすくまとめて言っていたけれども)、ぼくは一つ扉が開けたような気持ちになった。考え方の扉だ。
 今までの人生、ただ何かを知らないだけの人を、どれだけ馬鹿にしてきただろう。特に自分の得意分野においてだ。知ろうともせず物を批判する人や、何度教えられても理解できない人だけを、自分は叩いてきただろうか。そんなことはなかったと思う。自分だってこれまでに何度も、ただ知らないだけの人を馬鹿にしてきたはずだった。
 しかし、知らない人には教えてあげればいいだけじゃないかと言われてみれば、まったくその通りだった。一言教えれば理解できるのなら、それで何も不備がなくなるのなら、そこには何の問題もありはしない。言われてみればそうなのに、ぼくにとってそれは、言われてみるまで少しも気付けないことだった。
 ならば、である。安倍の誤読は、そこまで重いことなのか。当時からぼくは、総理の名前がアベであるとは知っていた(阿部だとばかり思っていたが)のだし、漢字くらい、一度言われれば憶えられる。それまで知らなかったというのが、それだけ無関心だったというのが、中学生としてそこまで恥ずかしいことなのか。半不登校児が何をいまさら、という話じゃないか。国のトップがやらかしたならまだしも、半不登校の中学生が授業の中で致命的な誤読をしたからといって、それがなんだというのか。
 むしろスピーチを経て正しいことを知れたのなら、それで良かったくらいだ。授業で学んで何が悪い。……と、そう思うことにすれば、何もそんなに誤読の記憶を怖がらなくても、そのことについては、「もうあの手のことに次はないぞ」、と意識する程度で十分になる。
 こうして文章化することで、あの時のスピーチの記憶を、その呪縛を、解いてしまうことに成功した……ということにしよう。あの日のことを、必要以上に恥じるのはもうやめよう。いや、やめさせていただきたい。この記憶を単なる重大な恥として持ち続けるておくのは、はっきり言ってつらい。作文として「ネタ」にすることで、まるで全部必要なことだったんだという風な雰囲気にしてしまいたい。
 いや、中学生でアンバイ総理はやばすぎるだろ、と言ってくる人には、「言われれば一瞬で覚えられることを知っているのが、そんなに偉いのか!」と噛み付いてしまえばいい。狂犬(チワワ)になることは、今さら何も怖くなくて、面白い誤読で笑えるようになることは、いつまでもあの日のことに顔を赤らめたり、逆に青ざめたりしていることより、よほど有意義なことのように思える。
 ネットの娯楽サイト一つを知らないことと、ぼくのやらかしたことを同列に語るのは、それこそさらなる恥の上塗りをしているような気もするけれど、そうは言ってもぼくの馬鹿はどうしようもない。口車で自分の心を守るのが精一杯で、反省して心を入れ替えるだとか、そんなことが出来ていたら、今頃もっとマシな人間になっている。
 今回の作文はただ、立派な人間だって「云々」を「でんでん」と読んでしまったりするのだから、立派の対極にあるような人間が、自分の心のためにどうしても、薄々無茶を言っていると自覚しつつも「誤読くらい仕方ないじゃないか」と言いたくなったという、それだけの話なのだ。
 漢字の誤読は、二度目がなければそれでいい。そこさえ満たせれば、あとは笑い飛ばしてしまえばいい。そうするべきだ。それ以上の過度な羞恥心は、役立ってせいぜいこんな文章を生むくらいなのだから、割に合わない。