人生二度目に、クレしん映画、カスカベボーイズを見て。

 たしか幼稚園の頃、まだ小学生になっていない頃だったと思います。「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ! 夕陽のカスカベボーイズ」という映画を見ました。レンタル店で借りたそれは今思えば、DVDではなくビデオテープだったのではなかろうか……。と、記憶が定かではありません。

 そんな過去から十数年、成人したぼくがその映画について憶えていたことは、以下の三つでした。

「ヒロインがかわいい」

「終盤がめちゃめちゃ面白い」

「エンディングでしんちゃんとヒロインが踊っていた。しんちゃんは身長が足りないので当然のように(不思議な力で)浮きながら踊っていた」

 ……と、ヒロインのキャラクターデザインと終盤のこと以外、ほぼ何も憶えていないことになります。しかし不思議なことに印象としては、カスカベボーイズは「とても面白い映画」だったという物なんです。終盤はいいんだけどそれ以外は……というマイナスな印象はまるでなかった。

 それどころか当時その映画を見終わった時ぼくは、一つの世界を堪能して帰ってきたかのような、とても大きな充実感を持っていたように思えます。例えるなら丸一日ディズニーランドで遊んで帰ってきた子どもの気持ちでしょうか?

 たった二時間の映像でそんな気持ちになれるなら、それはなんて素晴らしいことだろう。ぼくはもう一度その時の気持ちを思い出したくなった。だからさっき、もう一度見てきました。これからその感想を書こうと思います。

 これは映画の視聴を進める目的の文章ではないので、がっつりネタバレしていく予定です。嫌な人は引き返してください。

 

 

※以下、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ! 夕陽のカスカベボーイズ」本編のネタバレを行います。最初から最後まで全部言います。最初から、最後まで、全部言います。自己責任でお願いします。なお、ネタバレは極力正しいことを時系列順に書くつもりですが、ぼくの記憶力や理解力はポンコツなので、なんとなくのニュアンスで読むようにしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カスカベボーイズはしんのすけたち五人、春日部防衛隊が偶然、古びた無人の映画館を見つけるところから始まる。その映画館はすでに廃墟のようになっていたが、なぜか運営する人間も映画を見る客も誰一人見当たらない中で、一本の映画が上映されていた。

 しんのすけは「タダで映画が見れる!」と喜んで廃墟同然の映画館へ侵入。仲間たちも流れでそれに続くことになる。そして席に座り映画を見ていたが、しんのすけがトイレに立っている間に、映画を見ていたはずの友達4人の姿が消えた。

 すぐに4人は行方不明となったことがわかり、捜索のために今度は野原一家(シロは留守番)で映画館に行くことになる。そして野原一家はしんのすけの友達がそうであったように、映画の中の世界へと迷い込んでしまうのだった……。

 迷い込んだ映画の世界は、西部劇の世界だった。

 

 ……というのが、話のスタートになります。要するにこの映画の目的は「迷い込んだ異世界から、仲間全員で元の世界へ帰ること」であるわけです。当然「なぜ迷い込んでしまったのか」がイマイチわからない状況では、「どうすれば帰れるのか」もわからない。まずは元の世界への帰り方を探すことになります。

 しかし物語の展開される街へたどり着く前に、一家はまず少し荒野を彷徨っていく。その段階では三つの出来事が起こります。ヒロシが「照り付ける太陽がまったく動いていないこと」に気付くこと、謎の巨大ロボが打ち捨てられていたこと、岩壁に鎖で施錠された大きな木の板の扉があったこと。

 ぼくは幼少期に一度この映画を見ているので、打ち捨てられていたロボットが最終的に、ラスボスが搭乗する物として現れるのを知っていました。おぼろげな記憶にしっかり初見の楽しみを奪われて、仕方がないことだけどちょっと残念な気持ちになります。

 街に到着する野原一家。が、もう一度言うと、ぼくは幼少期にこの映画を一度見ているはずなのだけれど、街で出会う登場人物の顔を見ても「ああ、いたいたこんなやつ!」と記憶が蘇ることは基本的になかったです。まったくピンと来ない。ただしヒロインだけは例外で、印象に残っていただけのことはあってすぐ「ああ、そうそうこの子!」となりました。

 野原一家が街に着いてからすぐに、場違いなキャラが西部劇のような世界観に迷い込んだ時のあるあるパターンで有名な、「情報収集のためにバーに入ったら怖い人たちが一斉にこっちを睨みつけ絡んでくる」という展開も行われました。

 ぼくがその展開の中で嬉しかったのは、「コワモテの男に、頬でマッチを擦られるヒロシ」を見た時に、たしかにこのシーンは見たことがある! と記憶が蘇ったことです。その一瞬、幼少期の初見時に「えぇ……こわ……」と感じた時の感覚が、あったあったそんなこと! と、かなり鮮明に帰ってきました。あの頃の楽しさをもう一度……という目的で映画を見ているぼくとしては、それはすごく喜ばしいことでした。当時の自分がそのシーンを見てそんなことを思っていただなんて、映画を見なければ二度と思い出せはしなかったでしょう。

 しかしそのシーンのすぐあと、保安官の幹部となった風間くんが現れるのですが、ぼくはまたしても「そんな展開あったっけ?」となってしまいました。終盤が面白かったという印象へ忠実に、たとえ話の本筋であろうと、序盤のことはほとんど忘れているようです。逆に言えばよほど頬マッチが印象に残ったということです。子どもが映画を見た時どこが印象に残るのか、という視点で興味深いことですね。

 風間くんとの絡みを経て拳銃を持った保安官に追われた一行は偶然、幸薄そうな美少女ヒロイン「つばき」に出会い助けられます。そして彼女から「この世界にいると元いた世界の記憶をだんだん忘れていく」という事実を聞いて、今作の設定が明らかになっていくわけです。

 野原家はつばきに匿ってもらうことになりますけど、当然記憶が消えて「他人」になってしまった風間くんは仲間にならないし、再会を喜ぶことさえありません。マサオくんもネネちゃんも同じです。というかマサオくんはネネちゃんと結婚してました。まったく記憶になかったので、マジかよって感じです。

 そして最後にボーちゃんですけど、ボーちゃんだけは記憶が残ってました。謎の強キャラ臭は今作でも健在というわけです。しかし彼もしんのすけと同じように、時間が経つほどに記憶が消えていくことになる。幼稚園の先生の性格などは鮮明に憶えているのに名前だけが出てこなくなったり、しんのすけはぶりぶりざえもんの絵が書けなくなったり……。

 つばきの他にも、重要そうな人物は映画の世界に何人か現れます。「マイク」と名乗る映画オタクが協力者となったり、街を横暴に取り仕切る男……「ジャスティス」という名の知事が現れたり、「桶川」という何かの研究をしているらしい男が毎日、ジャスティスの怒りを買い馬で引きずられていたり。物語を動かす上で重要となりそうな人物が出てくるものの、話が決定的に進むことはありません。研究者桶川にいたっては日が傾かず常に晴天の昼間が続くこの世界において、決まった時間に馬で引きずられているので時計代わりの存在となっていました。

 また、そんな中「この世界には時々、外から人が入ってくる。その人たちは記憶を失って、やがてこの世界の住人になる」というような、「迷い込んだのは野原一家と春日部防衛隊だけではない」という事実が判明していったりもします。同時につばきが野原家と同じように外から来た存在であり、荒野を彷徨っていたところをジャスティスに拾われた、いわゆる孤児のような立ち位置にいることも、彼女本人の口から明かされます。(このあたりさっき見たのに記憶が曖昧で、つばきがジャスティスに拾われていたことはもっと早く明かされていたかも)。

 しかしそれ以上話が進むことはないまま、何度も桶川が引きずられる描写が入り、カレンダー代わりに壁に引いていた線も次第におびただしい数になっていく。野原一家についても、ひまわりがしんのすけのことを忘れてしまったような描写が入り、時が進むごとに状況は深刻になっていく様子が描かれます。一方で住民を弾圧するジャスティス絡みのトラブルなど様々なことが起きる中で、しんのすけはヒロインつばきと仲を深めていきます。

 途中あった二人の会話シーンで、しんのすけのすごく印象的な台詞があります。印象的というのは「今のぼく」にとってであり、幼少期の記憶に残っていたわけではないです。

 マサオくんやネネちゃん、風間くんが「元の世界に帰らなくてもここでそこそこ楽しくやっている」と言い、それに「何言ってるの、帰らなくちゃ」と返してきたしんのすけ。気がかりなのはおいてきてしまった愛犬シロのこと。きっと寂しがっているだろう……。そんなような話をつばきにします。

 その話の流れで、つばきちゃんは帰りたくないのかとしんのすけが聞くと、記憶がほとんど残っていないからわからない……と返される。つばきには元の世界の記憶が他の人以上に残っておらず、もう何も覚えていないそうです。だから帰りたいとかそうでもないとか、そんな感覚さえゼロに近くなってしまっている……。

 ニュアンスだけしか覚えていませんけど、しんのすけはそこで、こんなようなことを言いました。

「つばきちゃんはきっと、元の世界ではお金持ちの家のお嬢さんだったんだと思う。大きな家に住んでて、優しいパパとママがいて、大きな犬も飼ってて、毎日綺麗な服を着てたんだよ。つばきちゃん似合いそうだもん」

 いや、なんて口説き文句だよ……! ぼくはその台詞にかなり驚かされました。最後の台詞がイケメンすぎません? 惚れてまうやろー!(チャンカワイ)って感じですよ。まあ実際はつばきがしんのすけにではなく、しんのすけがつばきに惚れてるんですけれども。

 しんのすけはお互いの記憶を失わないように、ボーちゃんと二人で、

「ボクの、好きなことは?」

「石集め!」

「正解」

「オラの好きなものは?」

「お姉さん。カッコ、女子高生以上」

「ピンポーン!」

 みたいなやり取りもしていたんですけど、途中何とはない会話の流れで、つばきちゃんとのことを心底楽しそうに話し出したしんのすけに、ボーちゃんが「惚れたな」と言うシーンがあるんですよ。しんのすけにとどまらず、ボーちゃんまでなんかかっこいい。

 それに対する、

「ボーちゃん、オラの好きなものは?」

「お姉さん。カッコ、女子高生以上」

「そうだぞ! つばきちゃんは中学生くらいでしょ? オラそんなロリコンじゃないぞ」

 という、設定上五歳児の繰り広げるわけわからん会話に笑わされもしました。しかし思えば幼少期にこの映画を見た自分は、女子中学生を「大人の女性」の次くらいに大人びたお姉さんだと思っていただろうし、ロリコンの意味なんか理解してなかったでしょうね。このシーンもまったく記憶にはなく、初見の気持ちで楽しめたのですけど、それでも今とはまったく違う感覚で同じシーンを見ていたであろう過去の自分を思うと、なんか感慨深いですね。

 ほかにも会話シーンでは、つばきちゃんとの、

「オラ、元の世界に帰ったらナナコっていう恋人がいるんだ~」

「へぇ、しんちゃんモテるんだ」

 ってシーンもなんか好きなんだけど、そろそろ話を物語の本筋に戻そうと思います。

 人間関係は深まっても物語は一切進展しない流れが続くこと数十分。ある時突然、マイク(映画オタク)とヒロシが強制労働まがいの作業を強いられながらの会話で、不意に確信に迫ります。

「この世界の太陽が動かないのは、この世界の時間が止まっているからではないか?我々が映画の中に迷い込んだのは、映画が我々を必要としているからなのでは?」

 そしてしんのすけも同じような仮説にたどり着き、大人たちが「映画はなぜ我々を必要としているのか」という話の核に答えを見いだせないところに、一つ答えを出します。

「時間が進まないのは、映画が進まないから。結末を用意すればこの映画は終わる。元の世界に帰れる!」

 結末とはもちろん、悪を打ち倒すこと。つまり弾圧者、ジャスティスを打ち倒せば、みんな元の世界に帰ることが出来るのである。そんな仮説が生まれました。

 これを聞いた、例の馬に引きずられる時計と化していた研究者、桶川が「私は今までこのために研究してきたのだ!」と、何かすごいパワーが得られるらしいパンツを五つ取り出す。そのパンツは子ども用サイズで、必然的にそれを穿き悪を打ち倒す存在は、春日部防衛隊の五人しかいないことになる。しんのすけが説得することで五人は再び「春日部防衛隊」になり、映画の世界に迷い込んだ人たちも全員が一致団結し始めます。

 この段階になると、ジャスティスも動き始めます。彼とその部下たちは「映画の登場人物」であり、迷い込んできた人たちとは決定的に違う存在だったのです。自分たちが頂点となったまま時の止まった世界……楽園を終わらせてなるものかと、彼らも本気で抵抗します。「映画の中の人間」と、外の世界から来た「現実の人間」との戦いが始まるわけです。

 ちなみに五つのパンツが出てきたあたりで、「いい退屈しのぎになったよ」と、保安官の幹部だったはずの風間くんはジャスティスに裏切られ捨てられてしまっています。そりゃあ子どもが保安官を仕切るなんて馬鹿馬鹿しい話、結末はそうなって当然だろうといった感じですけど、同時にそうならなくても「ギャグアニメだし」で済むところがクレしん映画の読めなさですよね。

 ともかく、こうして「やるべきこと」が判明すると、今まで一切動かなかった太陽がその途端に少し傾いた。やはり悪を打ち倒す線が「正解」なのだと、全員が確信して士気はさらに上昇。しんちゃんの仲間たちもその流れでだんだん元の世界の記憶を取り戻し、元の世界へ戻りたい気持ちが強まっていく感じに包まれます。

 そして唯一「ジャスティス陣営の内部を知る味方」であるつばきから、「彼は立ち入り禁止区域に何かを隠している」という情報を得て、一行はそこを目指すことになるのです。

 汽車で目的地を目指す現実サイドの人間たち。時間が進んだ空はすっかり夕暮れです。その中で車両に二人きりとなったしんのすけとつばきが、こんな会話をしていました。

「つばきちゃん! 元の世界に帰れたら、オラと、オラと結婚を前提につ……つ……!」

「わたしなんかでいいの……? ナナコさんは?」

「~ッ!!!!(ナナコお姉さんを思い出してショックを受けるしんのすけ)」

 ボーちゃんの言っていた通り、結婚を前提に付き合ってくれと言い出すほどしんのすけはつばきちゃんに惚れていたようです。ナナコお姉さんのことを忘れていたのは気持ちの問題というより、「元の世界のことを忘れる」という映画の世界の作用によるものかと思われます。思い出して悶絶するしんのすけは、見てる側としてはちょっと面白かったんですけど、同じ状況に自分が立たされたらどうするんだろうな……とぼんやり考えたりもしました。

 結局付き合うとか結婚がどうこうという話はさすがに置いといて、「元の世界に戻れたら一緒に遊ぼう!」という約束を二人は交わしました。「一緒に遊ぼう」と言うしんのすけに返事をするつばきちゃんの「うん!」が力強かったのがなんかよかったです。

 そんな平和な時間も束の間、拳銃をぶっぱなしながら馬で汽車を追いかけてくる、映画サイドの人間たちと戦いが始まります。馬の足が速くて、汽車とほぼ並走状態です。しかし現実サイドには頼もしい味方が現れます。

 ちょっと前に出ていた「外から来たやつらにも、アンチ・ジャスティスはいるはずだ」という台詞が伏線扱いなのか、味方側に唐突にカッコいいガンマンたちが現れ、なんやかんや順調に汽車は進んでいくのです。急にガンマンが出てくるまで、正直そんな台詞聞き流してました。まあ伏線としては、無いよりはいい台詞でしょう。

 そうして馬に乗った保安官の部隊を撃退すると、今度は自動車に乗った追手の軍団が現れ、

みさえ「なんで西部劇に車が!?」

マイク「西部開拓の終盤には車はすでに開発済みだったんですよ。時代考証的には何の問題も」

 というような映画オタクキャラの役割を果たす会話を挟みつつ、ジャスティス本人も卓越した鞭と拳銃の腕で参戦し、戦いは激化していきます。

 その最中で、風間くんが汽車から落ちてしまい絶体絶命のピンチにさらされるが、それをしんのすけ仲間たちが救出。その友情がトリガーとなって、ついに例のパンツが効果を発揮します。その結果春日部防衛隊の五人はいわゆるスーパーマン的な、生身でなんでもありの奮闘を見せ始めました。生身で岩を砕き、銃弾をはじき返します。パンツの力ってすげー!

 そういうわけで、いよいよ車と機関銃を持ってしても勝てないと悟ると、ジャスティスは一人で車に乗りどこかへと行ってしまいます。まあこの時点でぼくは「あ、ロボット来るぞ」とわかってしまったわけで、その頃にはこの「映画の世界」も終盤ということで、空には星が輝き、夜になっていました。

 そして記憶通りに実際、巨大ロボがガシャンガシャンと走ってきました。めっちゃでかい。めっちゃ早い。一瞬で汽車に追いついてきます。

 しかもそのロボ、目からマシンガン撃ったり乳首からダイナマイト打ち出して来たりむちゃくちゃしてきます。そこまではぼくの記憶にもなかったです。しんのすけたちもスーパーパワーで対抗するけど、若干ロボの方がパワー勝ちしている様子でした。

 そしてそのロボに搭乗するジャスティスが、汽車の中につばきの姿を見つけます。全てに合点がいったようなジャスティス。お前が話したのか……! と、巨大ロボの腕でつばきを捕獲。そのシーンを見て改めて思いましたけど、巨大ロボの手に握られて人質のようになるヒロインのことは、ぼくの記憶にかなり強く残っていたようです。完全に記憶通りのシーンでした。

 ジャスティスは「あいつらに「わたしが話したことは全てデマだ」と言え、でなければ殺す」と脅し始めて、絵に描いたような悪役っぷりを発揮します。そして相手の機嫌を損ねれば今にも握りつぶされてしまいそうなつばきは……「目的の場所まであと少しです! がんばって!」と叫んだ。

 怒りに任せて彼女を地面に叩き付けるようにして投げ捨てるジャスティス。……それを間一髪でしんのすけが受け止める! 惚れた男と、あとパンツのパワーは伊達じゃない。

 だが相変わらず戦いは防戦一方。桶川は「おかしい、もっとパワーが出るはずなのに」とつぶやく。それを聞いてここ一番の力を出そうとする春日部防衛隊だが、合言葉が思い出せない。「春日部防衛隊、ファイヤー!」という合言葉が、映画の世界に長くいすぎたせいで思い出せないのです。そのせいでパワーが出ない……!

 この期に及んで「春日部防衛隊……なんだっけ……」と、「ファイヤー」に似てたり似てなかったりする単語を次々叫ぶギャグ(「ストレンジャー!」「レンジャー!」「インターセプター!」)を入れてくるのがクレしん映画のいいところだなって感じで、その部分も強く記憶に残っていました。

 ただ、子どもの頃に見た時は、もっと「クライマックス感」を感じていたように思うのですけど、そこはぼくも悪い意味で大人になってしまったようです。高揚感はありませんでした。

 そんなこんなでいろいろあって、なんとか春日部防衛隊は「ファイヤー!」という合言葉を思い出しました。すると五人は覚醒、一撃でロボを撃墜するのだった……。

 というわけでボスは倒した、ヒロインも助けた。やることは全てやり終えて、そしてついに目的の場所へ。目的の場所とは、それは初めに見た、岩壁の施錠された扉のことでした。

 ジャスティスはしぶとくついてきて、やめろおおおー!と抵抗するものの、その扉からは眩く輝く「四角い光の塊」が、施錠の鎖を突き破りあふれだす。あふれ出た光は空に上ると変形していって、やがってあるものを形作っていった。

 ここまでたどり着いた全員が見た、それは……、

 

 お わ り

 

 輝くその三文字をもって、この「映画の世界」は結末を迎えました。

 

 

 

 元いた世界の映画館に帰ってきた人々。映画館はなぜか廃墟のような様子ではなくなり小奇麗になっていたけれど、そんなことはどうでもよくて、みんなそれぞれ帰還を喜びました。

 しかし、しんのすけだけは違った。

「つばきちゃんがいない……! つばきちゃーん! どこ行ったんだー!」

 いくら呼んでもつばきは現れない。野原家や、防衛隊の面々は察し始める。つばきちゃんは、映画の中の人物だったのです。

 気持ちはわかるけど……と、もう帰ろう……と、しんのすけを説得する面々。

「嫌だぞ! 一緒に遊ぶって約束したんだぞ。つばきちゃんに会えないなら、オラ映画の中に帰る!」

 そう言ってスクリーンにダイブするしんのすけだが、当然それはただの幕で、映画の中に入ることなんてできない。しんのすけは落ち込み、立ち直れないのか、幕に弾き返されて倒れたまま、一向に起き上がろうとしない。

 そこに聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。シロだ。しんのすけはその声に駆け寄る。映画館までシロが迎えに来ていたのだ。シロにじゃれつかれて、「なんだー、オラがいなくて寂しかったの?」とじゃれ返すしんのすけ。「帰ろう」、ヒロシにそう言われて、今度こそしんのすけとその仲間は、家路につくのであった……。

 カスカベボーイズという映画の本編は、それにて終了である。

 

 

 

 一度目からかなりの年月を空けての、二度目の視聴。ぼくは「こんな酷で悲しい話だったっけ……?」と若干唖然となりました。

 「この世界でもいい」と言う仲間を「帰らなきゃ」と一番強く説得し続けたしんのすけが、最後に「映画の世界に帰る」と叫ぶなんて、なかなかパンチの効いた結末だと思います。

 それも「保安官の幹部」「結婚生活」という物を捨てた他の仲間たちは、「そもそも幹部を下ろされた」「結婚言うてもあんたら元の世界では幼稚園児でしょ……」という諦めどころやツッコミどころを持っていたのに、しんのすけが捨てた物は、すごくリアルで、諦め難いものです。

 さすがにその絶望に呑まれて終わるわけではなく、愛犬をきっかけに元の世界の大切さを思い出して、つばきちゃんがいない悲しさは残るけど、たくさんの幸せがある元の世界に帰っていく……という結末にしたのは、文句なしに納得のいくところでしたけれども……。

 それにしても小さい頃に見たこの映画は、そんな悲しい話だったなんて印象一切なかったのです。むしろハッピーエンドの印象がありました。だから衝撃的でした。初見の楽しみは限りなくないはずだった今作で、かなり初見並みの威力に近い揺さぶりをメンタルに受けました。一本完結の映画ですし、なんやかんやつばきちゃんと離れ離れになるのだろうなぁとは思ってましたけど、こんな悲しい別れ方だとは知らなかったのです。そんな記憶ありませんでした。

 たしかに今作は、見方によってはハッピーエンドだとも言えるでしょう。けれど本当にあれだけ友情を、あるいはそれ以上のものを築いた二人があっさり永遠の別れを突き付けられるなんて。その後のつばきちゃんがどうなったのか、その後なんて概念がそもそも映画の中の人間にあるのかなんてことも何一つわからないまま、それでおしまいなんて、なかなかあんまりな話だと思います。

 そうして唖然とするままに、エンディングが流れ始めました。記憶の通り、しんのすけがつばきちゃんと手を繋いで、仲良さそうに踊っている。しんのすけはやはり身長の関係で、物理的に浮いていました。でも、それがなんかいいんですよね。何がいいのか言語化できないけど……。エモいってやつはこういうことを言うんだと思います。

 そのエンディングまで見終わって、今度こそ本当に映画はおしまい。クレしん映画愛好家の中で「ワーストで五本の指に入るつまらなさ」と評判な、三分ポッキリという別のクレしん映画のCMが流れて、DVDはメニュー画面に戻りました。

 

 結果の話になりますけど、ぼくは「あの頃の楽しい気持ちをもう一度」という目的を、果たすことができませんでした。そんな物帰ってきません。完全に、復元できなところまで失われたようです。

 今作は映画の世界に入って、そこから帰ってくる話でしたけど、昔のぼくはそれを見て本当に、一つの別世界を見て、そしてそれを堪能して帰ってきた気持ちになっていたんです。「つらいこともあったけど、それを乗り越えてハッピーエンドだ…………と思いきや……」という「映画の中のしんちゃんの結末」とは違って、つらさなんて感じないただ楽しいだけの時間だったけれど。その時はぼくも、大きな冒険を終えたような気分だったんです。

 もうそんな感覚は帰ってこないんだなと思いました。映画を冒険だと思えるほどのめりこんで楽しむことはもう出来ない。映画のことは「冒険する世界」ではなく、「人の作った作品」としか見れません。

 だから途中まで「つまらなくはないけど、なかなか話進まないな」とか思うし、映画がテーマの話に映画オタクが出てきたら「何か重要な役割があるんだろうな」と思うし、何かを研究している人が馬に引きずられていたら「あいつがキーなんだろうな」とか「いつになったらあの人と関わって話進めるんだ……?」って思ってしまうんですよ。

 その上さらに巨大ロボとか、春日部防衛隊の合言葉ネタとかもおぼろげな記憶とはいえ知ってる状態で見ましたからね。もういろんな意味で、「昔見た一度目」の、あの時の楽しさは帰ってこないんです。夜空を背景に最後の戦いが繰り広げられた時、夢の中にいるみたいな、物凄いわくわくを感じてたはずなんだけどなぁ……。

 今でも、眠っている間に夢を見る時だけ、すごくわくわくすることがあります。夢ですから、明らかにフィクションである世界観に「それが現実だ」と思って迷い込んでいるので、それはもう楽しいんですよ。楽しい夢を見てから起きた時、なんて素晴らしい体験をしたんだろうって気持ちになります。それが映画で欲しかった。でも無理らしい。映画と違って夢は狙って見れた物ではないし、困った。

 ぼくは大人になったので、あの頃は「3Dピンボール」と「スパイダソリティア」と「ギャラリオン」のためだけに存在しているように見えたパソコンを使って、カスカベボーイズの評判を調べられるようになりました。それで数日前、今日映画を見るより先に、こんな感想を見かけていました。

「カスカベボーイズのヒロインは、クレしんらしからぬ可愛さがある」

 その感想を見た時は、記憶を辿るとたしかに、今作のヒロインだけ強烈に印象に残ってたので、らしからぬ=異様な可愛さがあったのはその通りだろうと思っていました。

 けれど実際に映画を見てみると、それには別の意味もあるんじゃないかという気がしてきます。たしかにヒロインのつばきちゃんは他作品にないタイプの可愛さを持ったヒロインなんですけど、その「らしからぬ部分」は要するに、「別の世界の住人」という意味で、意図して作られたデザインなんじゃないかなという気がしたのです。

 思えばジャスティスに拾われたと言っていた彼女の話は、それはもちろん単なる偶然とも見られるけど、結末を知ってから思えば「物語を進めるため、そういう設定のキャラとして用意されていた」のではないかと考えられます。彼女がジャスティスの隠していた物を教えてくれなければ、ではそこに向かおうという流れは作れないはずですから。

 そんなふうに、あとになって思えば「映画の中の人物らしさ」を多く持っているヒロインでした。「ヒロイン」という存在そのものがそうなのです。彼女は我々視聴者から見てではなく、しんのすけから見た「ヒロイン」だったのでしょう。ヒロインは用意されている、主人公を助ける発明者も用意されている。しかし肝心の主人公がいない。それが「結末を求めて人を引きずり込む映画」だったということでしょう。

 当然ながら幼少期の自分にそんなことを考える能力はなく、今一度見直したところでそれに気が付けた点は、もう一度見てよかったと言える明確なところです。

 単なるハッピーエンドじゃない今作の、悲しさの部分をより理解できたので、それはとてもよかった。どうせ「人の作った作品」としてしか映画を見れないなら、いっそ理解を重要視したいですからね。

 最後に、この文章を書いている最中に見た動画に付いていた印象的なコメントを一つ取り上げて、今回の作文を終わりにしたいと思います。今作のエンディング映像の動画についていたコメントです。

「しんちゃんにとって初恋はナナコお姉さんだけど、初めての本気の恋はつばきちゃんだと思う」

 ……なおさら悲しくなりました。だからというわけではないですけど、ぼくは冷たい人間なので、映画で涙なんか出ません。けど、もしかしたらこれが、映画の感想における「泣ける」って感覚なのかなとは思います。

 以上です。