自己分析と、VTuberの魅力

 突然だけど、ぼくはユーチューバーが嫌いです。ヒカキンとか、あとなんですか、水溜りボンド? フィッシャーズ? 嫌いです。名前も見たくないです。

 ただぼくも人間なので、ユーチューバー関連で楽しそうに盛り上がっている大勢の人たちを見ると、ちょっと羨ましくなります。人生楽しんだ者勝ちだ、コップ半分のジュースを「半分もある」と思える人が幸福感を得るのだと思ってるので、かなり羨ましいです。

 しかしどうにもユーチューバーは好きになれない。なぜ好きになれないのかの理由もいまいちわからない。そんな状態が続くと羨ましいが転じて、なんだかだんだん恨めしくなってきます。その頃のぼくなら、ユーチューバーを爆破するボタンを差し出されればきっと迷いなく押していたと思われます。

 そんな中、ぼくの観測範囲内にある日なんの前触れもなく、バーチャルユーチューバー……略してVTuberは現れました。革命的でした。何せ、ユーチューバーの名を冠しているのに、ぼくが見ても面白かったので。

 

 

 ぼくが初めて見たVtuberはのじゃおじでした。正式名称、バーチャルのじゃロリ狐娘ユーチューバーおじさんですね。もっと言うとねこますさんです。

 MMDみたいな美少女モデルがリアルタイムで中の人の動きに合わせつつ動き、そしておじさんの声で喋っている。たぶんこれはぼくでなくても衝撃を受けたと思います。衝撃のあまりのじゃおじに引き付けられた人と、衝撃のあまり即行で距離を取った人がいるでしょう。ぼくは引き付けられた側です。

 本当はVTuberというジャンル自体はそれよりも前にキズナアイがいたのですけど、「ぼくが初めてちゃんと見た」という意味での「初のVTuber」はのじゃおじでした。で、のじゃおじが気に入ったタイミングでちょうどよく、他にも様々なVTuberが出現し始めたので、ぼくもそれを追っていきました。輝夜月だったりシロだったりですね。

 今から思えばその人たちが出てきた時こそVTuberのブームに火が付いた瞬間だったわけですけど、とにかくぼくはのじゃおじ以外のVTuberたちも面白く感じ気に入ったので、そのあたりでどうやら自分はユーチューバーは嫌いだがVTuberは好きらしいということに気付いていきます。

 そして、比較対象が出てきたことで、いよいよぼくの中にあった謎にも一応の答えが用意されていくのでした。そこからVTuberの魅力は何なのかという話にも派生します。はい、前置き終わりです。

 

 

 VTuberをしばらく眺めていて思ったのは、まず「馴染みやすい」ということでした。アニメみたいなキャラクターが動いて喋ってという光景は、普段からオタクに属する人間としてはものすごく馴染みやすい物でした。実家のような安心感というやつです。

 対してユーチューバー、これはなぜか馴染めない。そりゃぼくはアニメをよく見ますけど、それと同じかそれ以上に人間だって見ているはずです。駅の近くをうろちょろすれば人間なんて腐るほど見れますからね。なのに、なぜ馴染めないのか。

 一つ仮説を立てました。思うにぼくは「通行人」などのまったくこちらに干渉しようとしない他人だとか、「家族」や「友達」などの特定のタイミングで面と向かって直接ぼくに、ぼくだけに干渉してくる人間には馴染みがあるのですけど、それ以外の人間にはまったく馴染みがないのでは、という説です。

 ユーチューバーは画面の向こう側で、不特定多数の視聴者がいるという前提で動画を撮っています。まったくこちらに無関心な通行人でもなければ、1体1のやりとりをする友人でもないわけです。ユーチューバーが嫌いなぼくは、おそらくこのタイプの人間に嫌悪感を覚えています。

 VTuberの良いところはキャラクターをクッションにすることで限りなく人間から遠ざかれることです。なので嫌悪感はありません。ついにぼくにもユーチューバーを楽しめる時代が来たと思いました。これからはキャラクターのクッションを挟んで、ぼくもみんなが楽しそうに見ていたユーチューバーの世界を見ていくんだ!

 ……とワクワクしていたところで、この理屈のおかしなところに気づきます。当たり前と言えば当たり前な話で、不特定多数に向かって自分を発信している人間はユーチューバーだけじゃないんですよね。テレビの芸能人とかまさにそれです。

 けれどもぼくは、芸能人には大して嫌悪感がありません。おかしい、この部分に説明をつけないと、ユーチューバーがなぜ嫌いなのかという話が振り出しに戻ってしまう。

 そういうわけでぼくはまた新たな説を考えだします。そんなことをしているうちに、純粋にVTuberを楽しもうとする心は、もしかするとどこかへ飛んで行っていたのかもしれません。

 

 

 キャラクターなら人間味をあまり感じないのでセーフ。ユーチューバーは人間味をモロに感じるのでアウト。だとすると、芸能人がセーフな理由も、やはり人間味を感じづらいからなのでは。咄嗟に考えたその説は、ほとんど正解だったと思っています。

 要するに芸能人というのは人間の姿形をしているけれど、テレビの中でそれぞれがそれぞれのキャラクターを演じているのであって、その人の人間性は全然別のところにあるからセーフなのでは……という話です。まぁ、ニュース以外のテレビに映る芸能人が、すべてキャラを演じているのかという点については、イエスともノーとも証明できないわけですけど。

 証明できないのにセーフということは、ぼくの中で重要なのは「キャラを演じていること」ではないということです。「「キャラを演じている」ように見える」ことが、どうやらぼくが嫌悪感を抱かないための条件っぽいです。芸能人はこれをクリアしていると思います。逆に、ユーチューバーはこの点をクリアしていません。

 キャラクターを感じない、人間性を感じる……ということは、良く言えばそれは「ありのままのその人たちを見ることができる」ということだと思います。けれども悪く言えば、たぶんそれは「素人くさい」という表現になるのだと思います。

 ぼくは後者の捉え方でしかユーチューバーを見れないようなので、ユーチューバーが嫌いなのです。そういえば文化祭で生徒が演じる類の、劇やお笑いなんかもあんまり好きじゃなかったなぁ。納得です。

 ……というところまでぼくの自己分析が進んだところで、世には新たなタイプのVTuberたちが現れ始めました。にじさんじ勢です。その人たちは、キャラクターの見た目を貫通する人間味を、素人くさい喋りを持っていました。

 

 

 初めに月ノ美兎を見た時の衝撃は忘れません。わーい新しいVTuberだー……と動画を開いた瞬間に「げっ」と嫌悪感を覚えました。

 その声、その喋り方、すべてが「普通の人」です。人間味の塊が、キャラクターという「皮」を貫通してぼくを襲いました。彼女の人気がぐんぐん上昇していく様を見て、VTuberは終わったと思いました。せっかくの魅力である、人間味をやわらげるクッション性が失われたように思えたわけですから、終わったというのは「ユーチューバーと同じになった」という意味です。

 どうせみんなそうなるんだ。VTuberたちも、一緒に同じ感覚で楽しんでいると思っていたコメント欄やツイッターの人たちも、ぼくには理解できない場所にいって楽しそうにしているところだけ見せてくるんだ。ちくしょう、全員くたばれ。そう思っていた時期も一瞬だけありました。その後に出てきた樋口楓なんか絶対に見るものかよ、てやんでい、ちくしょうめー……くらい思ってました。

 しかし、初めの頃に「流行の最先端」だったのじゃおじは動画を上げなくなり、輝夜月も初見殺しの成分が強かったのかだんだん勢いがなくなってきたと感じ、シロはどんどんぼくの興味の湧かないゲームを実況していく。……時代を感じました。

 そう、時代からは逃れられないのです。デュエルマスターズが超次元ゾーンから逃れられなかったように、遊戯王がシンクロやエクシーズやその他もろもろから逃れられなかったように、その業界の情報を追う限りは、最先端は嫌でも目に入ってきます。

 何度も何度も目にするうちに、何度も目にするだけの時間が経つうちに、ぼくの二度と見るもんかという決心も揺らぎます。

 そしてそんな時に、異形のVTuberが現れました。異形と言っても見た目が風変りだったわけではありません、動画自体が異質だったのです。

 彼の名はケリン、ヤミクモケリン。他のVTuberが軒並み5分以上、10分以上の動画を上げる中、基本長くても3分程度の動画を上げるダークエルフのVTuber。その短い動画時間が「まぁ見てみるか」という気にさせてくれました。

 結果として新たな境地を見ました。彼は声と喋り方こそ人間味に溢れているのですが、扱うテーマによってキャラクター性を強めることでクッションの役割をしっかり果たしていたのです。「例のアレ」の擬人化と言われていると言えば、わかる人にはわかるでしょう。偶然そのキャラクター性というかギャグセンスがぼくの好みだったことも大きいです。

 彼の動画を見てまだまだVTuberも終わってないなと思ったぼくは、さらに先に進もうとします。ケリンがエルフ繋がりということで(あと中の人もたぶん素で)好んでいる「エルフのえる」というVTuberがいることを彼の動画中で知ったので、ぼくはエルフのえるの動画を見に向かったのです。

 そして目的の動画(ダイジェスト動画だった)を再生した瞬間に、いつかの感覚を思い出しました。エルフのえる……こいつは……こいつは……にじさんじ勢だ……!

 

 

 素人くさい喋りとは何か、それは台本なしの即興で行っている喋りのことなのではないか。にじさんじ勢の動画をもう一度見始めて、ぼくはしみじみそう思いました。輝夜月やシロは(ゲーム実況以外は)台本をもってプロが喋ってる感が出ていたので、実際にそうであるかどうかに関わらず、その時点でぼくは普通にそれを見ることができました。にじさんじの人たちはそれの真逆というわけです。

 しかし二度目となると耐性もついているもの。嫌だなぁとは思いつつも、ぼくはその動画を見続けました。そして動画の途中で一つの感想を抱きました。

 

 あ、ぼくこの人の声と喋り好きだわ。

 

 その時のなんとも言葉にし難い、直感的に「あ、好き」となる感覚。ニコ生で好みの配信者を見つけた時のような、好みのゲーム実況者を見つけた時のような、この感覚。

 そうです、ぼくはとても重大なことを忘れていたのです。ぼくにもニコ生やゲーム実況を見ていた時期があったのに、それを忘れていました。喋りが多少素人くさいからなんだ、人類はアニメっぽい皮がなくたって声だけで「キャラクター性」を生み出すことができる。VTuberは、配信者は伊達じゃない! 素人くささと人間味はイコールでないことを思い出したのだ。

 思えばユーチューバーというのはほとんどの人が顔出しをしていて、良くて顔をマスクで隠す程度の人たちの集まりでした。しかしゲーム実況者や生放送などの配信者は違います、基本的に顔を出しません、体さえ見せません。「声」だけだから、それ以外の人間味を隠しているから、声でキャラクター性を作ることができるのです。

 そうしてキャラを作ってからなら、その後に顔出しをしてもそれは「キャラの顔」であって「生の人間」にはなりません。その顔のままでいつものキャラを演じている(ように見える)限り、その人に人間くささは生まれないとぼくは捉えます。順序が大切なのです。

 ……というわけで、芸能人と一部の企業系VTuber以外にも面白い人たちはたくさんいるのだということに気付いたぼくは、とりあえずえるさんの動画を追うことにしました。せっかくだしダイジェスト動画ではなく元の動画を……と。

 そこでようやく気が付きました。編集者が別にいて、台本や企画を考えてくれる人も別にいる企業系VTuberと違い、素人が個人でやるVTuberは動画を上げることがとてつもなく大変なことなのだと。そしてその結果、動画ではなく生放送とそのアーカイブを活動の主とするのが主流となりつつあることに。

 えるさんの動画を探せば、再生時間が1時間超えだという動画が出てくるわ出てくるわ。テレビドラマがCM込みで1時間なことを考えると、CM無し1時間の動画というのはどちらかといえばほぼ映画です。劇場版VTuberです。それを見るためには、なかなか心の準備が必要になります。

 ヒカキンから始まった本場の、生の人間のユーチューバーはそんな長い動画ほぼ上げないでしょう。VTuberは、バーチャルであるが故にユーチューバーからはどんどん離れていっていたのです。VTuberの流行の最先端であるにじさんじは、もはやユーチューバーではなくなっていたのです。

 そもそもよく見てみれば、にじさんじの公式サイトでは「バーチャルライバー」という言葉が使われていました。VTuberの流行がにじさんじに移ったのではなく、VTuberの流行がすでにバーチャルライバーに移りつつあったのです。VTuberは終わった、というのはあながち間違いでもなくなってきているのです。

 けれどもぼくは、みんなが楽しんでいたユーチューバーをぼくも楽しんでみたかったのであって、ライバーとやらを楽しみたいわけじゃあないのです。

 大体1時間のラジオみたいな放送の中に、面白い部分がどれだけあるというのですか。ダイジェスト動画は大体10分くらいのものです。面白い部分だけを残して削れば、それくらい短くなるのです。それを1時間も、いくら暇だからって見ていられるわけがない。そんな強靭な精神力はないんです。だから暇しているんです。

 にじさんじ勢については、目に入って関心を持ったダイジェスト動画を見るだけでいいや。ぼくはそう決めました。それでやっぱり充分楽しかったので、自分ではこれが正解だと思っています。

 エルフのえるモノマネまとめを見てみてくださいよ。サムネの時点で10分以上ある再生時間を見て、そんな長い間モノマネやって面白いわけないだろってところからぼくも入りました。10分全部面白かったです、見てよかったと思いましたよ。それで十分なんです。そういうのだけ見ていればいいんです。

 

 

 その後もいろいろなにじさんじ勢のダイジェスト動画を見ました。それぞれ、キャラの皮を生み出した人が想定していた物とは明らかに違うと思われる物になってこそいたけれども、それでも魅力を持った確固たるキャラクターを築いていてくれて楽しく見れました。特に、ロリ系のキャラクターの中の人は声自体もアニメっぽく人間味が薄くてよかったです。

 さぁ、いよいよ慣れてきた。そうとなれば、にじさんじブームの火付け役にリベンジする時だろう。ぼくは再びサブカル委員長の、月ノ美兎の動画(これも当然ダイジェスト)に挑みました。今ならきっと楽しく見れるはず……!

 そしてぼくは、むかし友人から聞いた話を思い出しました。

「ウチのお母さん、人生で最初に食べたメロンの味がすっごい薄くて、全然味がしなかったんだって。それ以降、一回もメロン食べずにメロン嫌いを自称してるんだよ。メロンは甘いのにね」

 月ノ美兎のその声は、改めて聞いてもやはり人間でした。キャラの皮を貫通し、声だけで独自のキャラクター性を構築することもない、声と喋りだけでも感じ取れる、ただの生の人間でした。初めて見たにじさんじの動画がエルフのえるであったなら、ぼくはダイジェスト動画を漁る段階までもっと早くたどり着いていたのかもしれません。

 まさかそんな、そんな強い人間味ってあるかよ。アニメキャラの皮を被ってまだ人間のにおいしかしない? そんな馬鹿な。現実を受け入れられなくて、ぼくは月ノ美兎のラジオ、通称みとらじのアーカイブも見ました。2時間くらいの物です。フルで見ました。

 余計に嫌いになりました。怒りを覚えました。

 あれを面白いと言う人がいることが許せません。でも、そういう人は多いです。「現実を受け入れられない」と言ったのは「にじさんじに慣れたぼくが面白いと感じないはずがない」という意味もあったけれど、「面白いと言っている人がたくさんいるからぼくがおかしいのかもしれない」という意味も大いにありました。でも、ぼくからすれば、やっぱりおかしいのはぼく以外の人たちです。

 みとらじは話題にリアリティがありすぎました。学生時代に体験したバイトの話とか、もうそのまま人間じゃないですか。

 それもただ話すだけじゃないんです。「こういうバイトしたことあるんだー」程度の話ならいいですよ。そこからさらに、そこで体験したエピソードなんかを詳しく語り始めるんです。話すなんてもんじゃない、語るんですよ。アニメのキャラみたいな皮を被っているのに、そんなリアルな話を、いかにも生の人間っぽい声で、何分もかけて詳しく語るんです。

 それはもうVTuberへの冒涜ですよ。バーチャルのYoutuberじゃなくてバーチャルのライバーだろうと関係ない、バーチャルの魅力をすべて打ち消し、バーチャルの皮をかぶったフリをして「ユーチューバー」をやっているのです。生の人間がやる、あのユーチューバーを。じゃあ、もう、ユーチューバーやれよって話になるでしょう? 顔を出したくなければそうしろ、顔以外も見せたくなければそうしろ、バーチャルの皮を被るな。いい加減にしてくれ。

 ……と、ぼく個人としては思ってしまいます。たださすがにここまできて「ぼくが、ぼくだけが正しいんだよ!」と喚き散らすほど狂っちゃいないので、こういう思考に至った時にぼくも気が付きました。

 VTuberの魅力は人間味をやわらげることだ、そのためのクッションになってくれることだ。そう思っている人はたぶん少数派で、ざっくりと「そう思っているのはぼくだけだ」と言ってしまって差し支えないくらいには、同じ考えの人はほぼほぼいないのではないでしょうか。たぶん、この考え方で間違っていないと思います。

 だからみんな、初めてにじさんじという今までと異なった形のVTuber(バーチャルライバー)が出てきても普通に受け入れていた。だからみんな月ノ美兎を面白いと言う。ほとんど全ての人にとって面白さが優先順位の1なのであって、人間味がどうとかいうのは、2の次3の次のどうだっていいことなのだ。

 よく考えたら、そりゃあVTuberブームの初期はオタク系の人たちが「俺たちにとって面白いユーチューバーが来た」と集まっていたかもしれないけれど、その中に元々ユーチューバーも普通に楽しんでいた人がいなかったという保証もないわけで。というか、確率的にたぶんそれなりにいたと思う。

 ユーチューバーを見ないオタクは単純にそれをつまらないと感じていたからで、嫌悪感だとかそんなものは理由の第一ではなかったのだ。ぼくはそう結論付けました。

 そうだと思わなければ月ノ美兎が人気であることに納得できない。ぼくはVTuberブームが始まった時に「ぼくと似たようなタイプの人たちは大勢これを好んでいる」と勝手に思い込んでいた。仲間がたくさんいると勝手に思っていた。その仲間とやらと話したことなんてないのに、見えない仲間を感じていた。

 みとらじを見たあとは、見えない仲間が全部、見えない敵になっていました。結局ユーチューバーを楽しむ人たちの輪の中に、VTuberを経由して行くことはできなかったけれど。それでもVTuberを楽しむ人たちの輪の中には入れたと思っていたのに。仲間入りしたと思っていたのはぼくだけで、初めから全然違う価値観でぼくだけ別の場所にいた……。

 そもそも、何が「ぼくみたいなタイプの人たちがVTuberを好んでいる」だよ。そこからしておかしかったんだ。みんなちゃんと働いてちゃんと生きてるんだよ、ニートと同じタイプの人間がそう多くいると思うなよ。

 ……とりあえず今後は、リアリティの無い物を、人間味が薄くてキャラクター性の強い物を可能な限り選んで、ダイジェスト動画を見ていこうと思います。

 

 

 ところで、原初のVTuberたるキズナアイですが、実はぼくは彼女のこともあまり好きではありません。動画が多すぎるからです。

 例えばシロの動画ならゲーム実況が多いので、サムネで興味の湧くゲームを見つけて見てみればいい。けれどもキズナアイの動画は、実況などとは別の領域で、自分のネタで動画を作っている物(例えば体力測定のやつとか)が多いので、それが自分にとって興味のあるものなのかをサムネやタイトルから予測しづらいのです。そして数が多いせいで片っ端から当たることもできない。

 好みに合わない動画は見たくないです。それは普通でしょう? でも好みの動画が見分けづらい。ジャンルが広すぎる。そういうところが、ユーチューバーだなって感じがして嫌いです。一見さんお断り感、もしくは、自分たちの動画を全肯定してくれない人お断りの感が強いんですよね。ミライアカリも似たようなものです。

 え、キズナアイはゲーム実況もやってる? ……見ましたけどね、あれはね、ゲームの腕が人に見せてもいいところまで達してないでしょ。

 ……と、そういうわけで、ぼくは学びました。文句ばかり言っている人は、文句を言っているそのジャンルにおいては、楽しそうにしている人たちの仲間になんか入れてはもらえないのです。入れたと思ったのならそれは上っ面だけのもので、本質の部分で考えれば錯覚です。よく覚えておきましょう。初めからそうと分かっていれば多少マシなので。

 

 

※追記

 月ノ美兎もキャラの皮は好きなので、中の人がキャラクター性を発揮してる時は好きです。「俺もうね逃げる」とかのサブカル系キャラだったり、「わたくしで隠さなきゃ」みたいな名言は良い。ただリアルの話持ってくるのは本当に許せぬ。ムカデ人間でギリギリ。