幼稚なウサギの感想からは卒業しなければならない

※以下の本文は、映画「君の名は。」および「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」「ベイマックス」を全人類が視聴済みだという前提で書いてある物なので、それらの映画のネタバレを含んでいます。まだ見ていない方は、特にクレヨンしんちゃんベイマックスの方をまだ見ていない方は注意してください。そして体力と気力があるのならばロボとーちゃんとベイマックスをぜひ見てください。あれはいいものです。

 

 

 

ここから本文。

 

 私が小学生だった頃に、飼育小屋のウサギを見てスケッチをする授業がありました。

 私は絵を描くのが致命的に苦手です。中居正広の描いた犬を笑いながら、中居くんに対して少し罪悪感を抱くような人間です。当然、当時もスケッチなんかやりたくなかったわけです。ただ、絵に関しては向き不向きがあって、不向きな人ほどそれを気にするもの……という点は、担任の先生も理解してくれていたように思います。

 先生から渡されたプリントにはスケッチを描くための枠に囲われた空白と、その下に感想を書くための行がいくつか用意されていました。感想とは、スケッチに取り組んでみての感想のことではありませんでした。スケッチと感想はまったく完全に切り離された物でした。

 書けと言われた感想は、ウサギを見ての物です。ウサギを描いてどう思ったかではなく、ウサギを見てどう思ったのかを書け……という課題でした。

 私は複数ある行の大半を空白で無駄にして、ほんの一行「かわいかった。」とだけ書きました。当然、すんなりと先生に受け取ってもらうことはできませんでした。

 

  例えばです。例えば小学校低学年くらいの小さな子どもがノラ猫を見かけて、それを指さし一緒にいた母親に対して「ねこ、かわいいね」と言ったら、どうでしょう? もっと詳しく感想を言えやりなおしだ……とは言われないはずです。多くの場合は、そうだねかわいいねと同意してもらえるでしょう。

 それが授業になった途端に「もう少し詳しく書けない……?」と言われてしまうわけです。もちろん母親と先生は立場が別ですが、それにしても今まで一言感想を述べれば肯定されていた子どもにとって、もう少し詳しくという要求は中々に困難なものです。結局私は、「かわいかった。」の一行に何も書き足せず、最後には諦めた先生に下手くそなスケッチと下手くそな感想文を提出しました。

 もしかすると私は、その時のことを未だに根に持っているのかもしれません。

 

 

 

 さて、話は変わりますが、つい最近「君の名は。」が地上波で初めて放送されましたね。私はすでにDVDレンタルで一度見ていたのですが、地上波でも見ました。二回も見たので、堂々と言います。

 「君の名は。」はつまらない、駄作だ。あれを絶賛する人間の感性はロクなものじゃない。

 ……はい、たぶん大多数の人間を敵に回したと思います。しかし私にはどうしてもあれが面白いとは思えず、また、あれを面白いと言う人を許容することも出来ません。

 特に映画そのものではなく、それを評価する人間の何が気に入らないのかを言いましょう。「面白かった」だとか「感動した」だとか、そういった漠然とした肯定の言葉を並べる人間が、私は好きではありません。というか、はっきり言って嫌いです。漠然とした感想を並べる人間に対して、感想を述べているその瞬間にだけ憎しみさえ抱いてしまいます。もちろんその憎しみは、映画自体への嫌悪感もプラスされた結果の物ですが、それだけというわけでもありません。

 自分と違う意見を認めることは、ほとんどの人間にとって難題です。けれども私は、そのあたりについて努力はしているつもりです。

 「君の名は。」はここがこういった理由で素晴らしい、面白い、感動するのだと具体的に説明してもらえれば、それに納得するかはともかくとして、ああこの人は本当にあの映画が好きなのだなぁと、尊重しようという気持ちが多少なりとも湧いてきます。その尊重しようとする「自分の中の理性」に逆らわないように、という努力はしています。

 ではどうして逆に、漠然とした感想を許せないのか。私は自分のことを完全に理解したいと常に考えていますが、これについてはまだイマイチわかりません。けれどもなんとなく、もしかしてという当てずっぽうだけれど、小学生の頃に書いたあのウサギの感想文が、あの一行を否定されたことが、ここに来てまで引きずっているのかなと。ふとそんなことを思いました。

 私自身、批判するのなら具体的にしなければらないと考えています。「君の名は。」については話題がピークに近かった頃から「そんなに面白いのか? ロクでもないやつらが持ち上げているだけじゃあないのか?」と悪意ある興味を向けていたので、私は半ば叩くために、批判するためにDVDをレンタルしてまで映画を見ました。見なければ具体的な批判は出来ないからです。

 そうして案の定、その映画は私には合いませんでした。以下、ネタバレと批判を並べます。

 

 都会暮らしの男子高校生「瀧」と田舎暮らしの女子高生「三葉」がいわゆる入れ替わり現象に遭い、そこからストーリーが進展していく……。事前に聞いていた情報で知っていることは大体それくらいでした。住む場所もまったく違う男女が入れ替わることで起こる様々な出来事を楽しむ映画なんだろうな……きっとなんやかんやあって二人は恋仲になってハッピーエンドなんだろうな……とイメージして視聴を開始します。

 で、三葉は数年前の隕石落下事故で亡くなった死者でした。瀧との入れ替わりには、タイムリープ的な要素も合わさっていました。衝撃の事実です。

 衝撃の超展開を経て、主人公二人は協力して隕石落下事故を防ごうと奮闘します。と言っても隕石を止めることはガンダムでも持ってこなければさすがに不可能なので、三葉含む村民を避難させて命だけは確保することが目的でした。

 瀧の住む時間軸では、過去である「三葉が住む隕石事故に遭う前の村」には干渉できません。なので入れ替わりのシステムをもってして二人は協力し様々な活躍を見せます。で、そこまでの過程で主人公二人は想像通り恋仲になって、結果として作戦も成功して三葉は生存します。過去が変わったことで瀧の住む時間軸にも三葉が現れ、記憶のおぼろげな二人は数年後に再会します。

 再会した瀧が「君の名は」と三葉に問うことで、タイトル回収を済ませてハッピーエンド、おしまい。映画「君の名は。」は、そんな映画でした。

 …………これ、入れ替わりのくだり必要ですか?

 意識せずとも耳に入ってくる宣伝によって、見る前から私は「君の名は。=入れ替わりの話」という認識を持っていました。当然、入れ替わりを軸にした話に期待します。

 しかし蓋を開けてみれば出てきたのはタイムリープもの。物語の中での大きな目的が過去の隕石事故を回避してのヒロイン生存である以上、入れ替わりはタイムリープに埋もれて目立ちづらい設定になってしまいます。それどころか個人的には、主人公たちの恋愛模様さえ隕石事故回避という大きな目標に半ば埋もれてしまったように感じました。私が気に食わないのはこの点です。

 

 

 ここからしばらく、私の妄想を書きます。

 例えば瀧は予知夢を見る能力者で、過去に自分が見た母親の死ぬ夢を「悪い夢だったけど夢は夢だ、現実に起こるはずがない」と何も行動を起こさなかった結果母親が夢の通りに死亡し、瀧も心に傷を負ったとして。

 それから父親の仕事の事情で引っ越した瀧は、同じく予知夢を見る能力を持ち、なおかつ瀧と同じように自分が特別な能力を有していると自覚しきれなかったせいで大切な人を失った三葉に出会います。二人は似た境遇ゆえに今まで他人には理解されなかったお互いの苦しみを共有することが出来て、そこから少しずつお互いを意識する関係になります。

 で、そこで見る隕石落下の夢。今度こそ予知された未来を変えるために二人は奮闘するも、まわりの大人たちは「何を寝ぼけたことを言っているんだ」と理解してくれない。それでも諦めずに行動して、最後には……。

 ……というわけで、ですよ。何が言いたいのかと言うと、「予知夢」という一つの要素を入れるだけで、「タイムリープ」「入れ替わり」という二つの要素を削れるわけです。詰め込みなんですよ、「君の名は。」という映画は。不必要に要素を盛っているんです。

 映画というのはたった二時間のものです。小学校の授業の約2コマ分の時間という、短くはないが決して長くはない時間の中で、一つの物語を始まりから終わりまで語らなければなりません。ポンポンと様々な要素を盛り込むだけ盛り込んでも、それを消化しきれるわけではないのです。

 「君の名は。」は盛り込みすぎた結果つまらなくなった上に、宣伝に釣られた客の期待を裏切ったと私は考えます。それを面白かっただの感動しただのと言って漠然と評価し、あまつさえ世界的なヒットにしてしまったような、いわゆる大衆が私は許せません。

 肯定的な評価をする人々が各々に自分の意見を語って評価しているのならそれは仕方のないことだけれども、2回も見た10回も見たと面白かったアピールや信者アピールだけをして、何が面白かったのかを語らない。私はそんな大衆を許してはおけません。ネタバレを控えたとしても、本当に面白いと感じたのならもう少しマシな感想が言えるはずです。いや、言えるようにしなければならないのです。幼稚なウサギの感想は否定されるべきなのだから。

 私のこの考えはDVDと地上波で2回見ても何ら変化しませんでした。自分が少数派だということは、薄々感じてはいます。

 

 

 さて、一つの映画を批判したところで、では逆にお前の言う良い映画とは何なのだと言われた時のために、おすすめの映画を2本紹介することにします。ロボとーちゃんとベイマックスです。以下の話はつまるところ私からの映画の宣伝なので、興味のない人は見なくてもオーケーです。

 ロボとーちゃんは皆ご存じクレヨンしんちゃんの映画ですが、話の流れは以下の通りです。

 

 綺麗なお姉さんにつられて見覚えのない店に入った野原ひろし(野原しんのすけの父)はそこでロボットに改造されてしまいます。初めは突然のことに家族も戸惑いましたが、そのうちロボになった野原家の父、ロボとーちゃんは家族に馴染んでいきます。

 が、話が進むと衝撃の事実が判明。ロボとーちゃんは「野原ひろしとしての記憶」を植え付けられたロボットであり、オリジナルの人間である野原ひろしは別に存在していたのです。つまりロボとーちゃんから見える世界は「自分は間違いなく両親から生まれた人の子で、ひょんなことからロボットに改造されてしまった」というものなのに、実際の彼は「人の子野原ひろしの記憶を植え付けられたポッと出のロボット」ということになるわけです。

 そして、そんなロボットを作った黒幕の目的も明かされます。黒幕はいわゆる嫁の尻に敷かれたタイプの父親で、娘にも邪険にされていました。そこで昔のような父親が絶対の時代、亭主関白こそ正義だった時代を取り戻そうと、父親としての記憶を持った武力的に強力なロボットをもってして父親の威厳を取り戻そうとしていたわけです。

 最終的に巨大ロボを持ち出した黒幕ですが、激闘の末に結局はロボとーちゃん含む野原一家の抵抗に敗れます。戦いに負けた黒幕は崩壊する巨大ロボの中で最後に「全国のお父さんに愛を!」と叫びます。

 なんとか最後の戦いに勝利したものの、ロボとーちゃんは損傷が激しく、機能を停止するまで……人間で言うところの「死」に至るまで、そう多くの時間は残されていない状態になっていました。そして最後にロボと人間、二人の父親は、どちらが子どもたちの父親として、そして野原家の大黒柱として相応しいかを決める腕相撲をします。接戦の末に人間のとーちゃんに負けたロボとーちゃんは「家族を頼んだぞ……俺……」と言い残し、機能を停止。……以上で、話は大体終了となります。

 

 さて、ロボとーちゃんの何が素晴らしいか。それはテーマの一貫性です。

 初めから最後まで、この映画は「父親とは何か、家族のあり方とは何か」というテーマを貫いています。もしも自分の父親が、もしくは夫が突然ロボットになって帰ってきたら。もしも自分はどうやら本物ではなくロボットらしいと自覚させられたら。我々人間はその時どうするのか……という、テーマに沿った話が展開していくわけです。

 さらには黒幕の主張も同じく「父親が軽視される現代は間違っている」という、家族のあり方を問いかけるストーリーの根本的なパーツそのものになっているわけです。ただのやられ役としての悪役ではなく、話の根幹を成す存在となっているのです。

 その上さらに素晴らしいのは、この二時間で綴られたテーマについて、主人公たちではなく悪役が答えを出したことです。「全国のお父さんに愛を」と、武力的な、暴力的かつ威圧的な解決を謀っていた黒幕が、最後には「愛」という言葉を持ち出すのです。「私は間違っていないはずなのに!」というような独善的な捨て台詞ではなく、「愛」を持ち出してきたのです。ここにこめられた意味は大きいでしょう。

 誰が考えても一家を養う父親が軽視されることは間違いであると理解できるのと同時に、だからといってその威厳を暴力的に取り戻すことが間違いであることも理解できるはずです。ではどうすればいいのかという問いに黒幕が、正義の味方ではなく悪役が、もしくは「父親」という概念その物の味方が「愛」という答えを出した。これは重要なことです。

 家族との関係について悩むことは珍しいことではないでしょう。それを暴力的な、理性的とは程遠い手段で解決したいと考えることもあるかもしれません。しかし我々人間は本来、そんな風に悪に染まろうとした時でさえ、きっと答えを知っているのです。本当に必要なのは力ではないと知っているはずなのです。ロボとーちゃんの黒幕は、最後にそれを示してくれたのだと、私は思います。

 また、これは悲しい話でもあります。なにせ同時にこの黒幕は、我々は答えを心のどこかで知りながら、それでも悪に染まらざるを得ない時があると示したのですから。愛されたいと口にすることがどれだけ覚悟のいることなのかを、黒幕の「断末魔としてでなければ言えなかった」という部分から我々は読み取るべきでしょう。

 ……というように、このような深い話をたったの二時間にまとめるためにこそ、テーマの一貫性というものは必須なのです。ロボとーちゃんは要素をしぼり、それを貫くことの大切さを教えてくれました。

 また、魅力的なのは黒幕、つまりは敵だけではありません。最後に「家族を頼んだぞ」と言って機能を停止したロボットの覚悟も、我々は推して知るべきです。

 例えば自分の意識が突然途絶えて、病院のベッドで目を覚まし「自分は事故に遭ったのだ」ということを自覚したとしましょう。さらに、事故によって腕なり脚なり、何でも良いのですがとにかく体の一部分を失っていたとしましょう。ロボットになった場合は、なる前よりも強くなっていたのでこの例えは少々不適切ですが、つまりは突然自分の体が今までと比べて著しく変化していたら……という話だと捉えてください。

 体の一部を失えば生活にも支障をきたし、それを支える家族も始めはそれに戸惑うでしょう。しかし段々とお互いにそのことにも慣れていき、元通りの家族として馴染めるようになっていくはずです。

 ようやく元通りの形に戻れた、馴染めた。そう安心した矢先に、五体満足の「自分」が目の前に立っていたら。そいつが「俺が本物だ、お前は偽物だ」と主張し始めたら。我々は、きっとそれを受け入れられないでしょう。

 「ロボットだから」という理由で初めは家族とすれ違ったロボとーちゃんの気持ちは、それに似た物ではないでしょうか。やっとロボットの体を持った父親として、そう「父親」として家族に馴染むことができたのに、人間としての自分が突然目の前に現れるのです。上に書いた例え話での「五体満足な自分」と同じくらい、「ロボットだから」という理由で始めは家族に否定までされたロボットにとって、記憶の中では「数日前の自分」である「人間の自分」に出会い、そいつから「お前は偽物だ」と言われたら。そんなもの、受け入れられるわけがありません。

 当然ロボとーちゃんだって初めは現実を受け入れようとしませんでした。もしかすると、最後までそうだったのかもしれません。しかし、彼は最後に「家族を頼んだ」と人間の自分に言って、息を引き取ったのです。その言葉を口にするまで彼が何を感じて何を考えて、機能を停止する瞬間までどういった思いで生きたのか。想像するだけで恐ろしい運命を押し付けられたのにも関わらず、立派に生きた父親のことを、我々は尊敬しなければならないでしょう。

 それを押し付けるのはあまりにも酷な話になるけれど、もしかすると理想論むき出しで語るのならば「理想の父親」というものは、最後に「家族を頼んだ」と言えるロボとーちゃんのような存在なのかもしれません。

 ……と、家族のあり方というテーマを貫いたこの映画は、そのテーマを一方向だけから見た場合の「父親としてのあり方」についても表現し、それらを創作された物語が物語のゴールとしてたどり着く感動、つまりは面白さにまで結びつけているのです。なぜロボとーちゃんが世界に名を轟かさず、「君の名は。」が轟かせていったのか、私にはわかりません。漠然とした感想ばかりをこぼす大衆はこのことについての罪を背負っていると思います。個人的な意見ですが、そう思います。

 

 

 次に、ベイマックスです。これは宣伝で体感8割くらいの内容を見せたと思われる「アナ雪」に対して、宣伝でのイメージと内容がまるで違った映画です。そういう意味では「君の名は。」に似た部分があるのですが、私はこちらは面白いと感じました。なぜそう感じたのかを、もともと言語化する能力が高いわけでもないながら必死に言葉にしてみたいと思います。

 ベイマックスのストーリーはおおまかに以下の通りです。

 

 主人公のヒロは兄に似てロボット制作に秀でた、いわゆる天才少年です。ヒロは個人的にも尊敬している、兄の大学で教授を務めるキャラバンなる人物に認めてもらおうと自作の画期的な、無数の集合体となって力を発揮する小型ロボット「マイクロボット」を制作します。

 しかし、そのマイクロボットを披露する会場で大規模な火事が発生。ヒロとその兄は建物から無事脱出できましたが、キャラバン教授はまだ建物の中。教授を助けようとヒロの兄は弟の静止を無視して建物へと戻り、その直後に大爆発が発生。兄は帰らぬ人となりました。

 心に傷を負ったヒロのもとに、兄が最後に制作したロボットである「ベイマックス」が現れます。人の心身をケアするために作られたベイマックスはヒロを立ち直らせようとしますが上手くいきません。そんな中で、偶然ヒロの手元に一つだけ残っていたマイクロボットがおかしな反応を見せます。集合体となって初めて力を発揮するそのロボットは、自動的に他の個体と近づくために吸い寄せられるような反応を見せる場合があるのです。

 つまり、まだどこかで他のマイクロボットが現存していることになります。火事の際に失われてしまったと思っていた自分のロボットが、どこかにまだ存在している。ヒロはマイクロボットの現状がどうなっているのかを確かめようとし始めました。

 結果として彼は、仮面で顔を隠したいかにも怪しげな人物が、マイクロボットを量産していることを知ります。なんだかキナ臭くなってきました。火事で失われたはずのロボットを量産する謎の男。あの火事と謎の男は何か関係があるのではないか、ヒロはそう勘ぐって男の正体を追うことにします。

 兄の友達であった大学のメンバーたちと友達になり、彼らもしくは彼女らを仲間にしつつヒロが謎の男を追う冒険は進んでいきます。さらにマイクロボットは戦闘に用いても強力なロボットなので、対抗手段としてヒロはケアロボット……つまりは現代で例えるのなら介護ロボットに近い存在であるベイマックスを、ロケットパンチまで出せる戦闘用のロボに改造して作り替えてしまいます。

 そしてついに、仮面の男の正体にたどり着くのです。仮面の男の正体は、キャラハン教授でした。彼は炎に包まれる建物の中で、避難したヒロが放ったらかしにしていたマイクロボットを利用して生き残っていたのです。

 兄は教授を助けにいったのに、教授は自分だけを助けた。それに激高したヒロはベイマックスのリミッターを外しキャラハン教授の殺害を試みますが、これは失敗に終わり逃げられてしまいます。

 その後仲間たちに復讐はやめようと説得されたヒロは、キャラハン教授がなぜマイクロボットを量産しているのかの答えも知ります。教授は極秘に行われた空間転移装置の実験で起こった事故により実の娘を失っており、その実験を取り仕切っていたクレイという人物にマイクロボットを使った復讐を試みていたのです。もちろんその復讐の手法は、ひどく暴力的なものになるでしょう。

  仲間から説得を受けたヒロの目的は教授を止めることに切り替わりました。亡くなった兄だって復讐を望んではいないでしょうし、むしろ人の心身をケアするロボットを作っていた兄の意思を考えれば、復讐にのまれてしまった教授を止めようとするのはきっと正しいことでしょう。

 結果として戦いに勝利し、ヒロたちは教授を止めることには成功します。が、ヒロとベイマックスはクレイが再び稼働させた空間転移装置に飲み込まれて異空間に入ってしまいます。そしてその異空間の中で、死んだと思われていたキャラハン教授の娘が生きていたことを知り、救助します。

 しかし、ベイマックスが無事に異空間から帰ることはありませんでした。異空間内での事故によってベイマックスは満足に動けない状態になり、最後の力を振り絞ってロケットパンチに使うはずだった腕を飛ばす機能を使い、ヒロと教授の娘だけは異空間の外へと突き飛ばしたのです。

 兄を失い、今度はベイマックスまで失った。悲しみにくれるヒロは、最後に飛ばされたベイマックスの腕の、その握られた拳の中にある物を発見します。それはベイマックスに内蔵されていたチップでした。ヒロはそこから情報を読み取り、最後には自分でベイマックスを開発し直してハッピーエンド……という展開で話は終わります。

 

 ……いや、長いですね。上手くはしょって伝えることができませんでした、すみません。

 まあ、それはともかくとしてです。宣伝では「なんだか和む見た目のケアロボットと、心に傷を負った少年とのハートフルストーリー」みたいなイメージを伝えてきておいて、蓋を開ければバトル展開がもりもりでしたって感じの映画でした。

 CMでもベイマックスに戦闘用の鎧を着せているシーンはありましたが、まさか仲間を集めて黒幕とバトルする展開になるとは思いませんでした。ほとんどの人がそうだと思います。アナ雪に例えるなら、エルザが魔法を駆使して悪役と派手な戦いを繰り広げるイメージです。これは衝撃でした。

 さて、なぜ宣伝からの裏切りを見せたベイマックスを、私は面白いと感じたのか。これにもやはり、テーマの一貫性があったからだと感じます。

 ネットで見かけた意見に、ベイマックスは後味の悪い話だという主張がありました。兄がケアロボットとして作ったロボを戦闘マシンへと改造したことについても、結局は異空間に取り残されたままのベイマックス「1号」についても、後味が悪いというのです。

 確かに見方によってはそういった感想が出るでしょう。しかし私はこれを「人を救うことの重さ」の表現だったと考えます。ベイマックスは全体を通してそれを貫いたのではないでしょうか。

 兄を亡くし悲しみにくれる少年の心をケアする、つまりは救うというのは、生半可なことではないのです。ベイマックスはケアロボットという生まれ持った本来の自分を捻じ曲げてでも、戦闘ロボになってみせなければヒロの心を救うことはできなかったのでしょう。これを成し遂げたベイマックスは立派ですし、もはや聖人と言える領域に達しています。一人の人間の心を救うには、それだけのことが要求されるのです。

 軽々しく人の悩みを聞こうとして、思いついた言葉を投げかけては、自分はそれに対して何も責任を負わない。そんな無責任な偽善者の対極にあるのがベイマックスなのだと思います。そして異空間に取り残されたベイマックスは、聖人の末路を示しているようにも感じられます。

 人を救うっていうのはそういうことだ。覚悟が必要で、なおかつ報われるとは限らないことなのだ。我々はこの映画から、それを学んで自分を戒めるべきなのです。軽々しく人を救えると思ってはいけないのです。ベイマックスはバトル展開を通しつつも、そういった内面的な、精神的なテーマを貫いていました。

 一方、「君の名は。」は何を貫いたのでしょうか。恋愛について貫いたと言うには、あまりに描写が少なかったように思います。それをリアルだと言うこともできるのでしょうけど、リアリティは必ずしも作品の面白さに繋がるわけではありません。誰か一般人の日記を垂れ流したところで面白くはないことと同じです。

 映画に限らず「物語」という手段を用いる創作全般は、別に何か必ずメッセージ性を持っていなければならないわけではありません。ただ爽快、ただかっこいい、ただかわいい、ただ美しい、もしくはストーリー自体の巧妙さに感心する。そんな創作ももちろん有りでしょう。

 しかし、「君の名は。」は多くの要素を盛り込み、そのどれにも特化しませんでした。器用貧乏だったのです。そして器用貧乏にならないためには、おそらくは一貫したテーマが必要なのです。ベイマックスは一貫したテーマがあったからこそ、人の心を救うというストーリーと、バトル漫画的な展開を上手く共存させることが出来たのだと思います。

 

 

 ……と、ここまで書いてきましたが、私は重要なことを一つ言い忘れています。それは、ロボとーちゃんは「父親」を主観とした物語であり、ベイマックスは「バトル」を主な展開とした物語であったということです。要するに、両方ともどちらかと言うなら男性向けなのです。

 一方「君の名は。」の方は、SF的要素などがゴチャゴチャしていてわかりにくいですが、エンディングを主人公とヒロインが再会する場面にしたからには、主題は「恋愛」だったのではないでしょうか。そうだとすれば、あの映画は女性向けだったと、やや苦しいながらも言えることになります。

  そうすると、私は男ですので、男として男目線の男性向け贔屓な意見を言っている……ということがあるのかもしれません。これはなかなか自覚できるものではないですし、実際自覚していませんけれど。自覚していない物は存在しないことにする、なんてことはさすがに出来ません。

 もしかすると「君の名は。」には女性にしか理解できない魅力があり、またロボとーちゃんやベイマックスには、女性にしか理解できない欠点があるのかもしれません。もしそんな物が本当に存在するとすれば、まだ今の私ではそれを認識することはできませんが、だからといって文句を言うことはありません。価値観の多様性を否定するつもりはないからです。

 ですから、「君の名は。」が好きな女性が、もしも私のような男と対面してしまったのなら、その時には「男の子だからわからないんだね、かわいそうに」と言っておけば良いと思います。そうすれば私のような否定派からは言い返す手段がなくなりますし、何よりそれは、価値観の多様性を認めるという大切なことに繋がる台詞になるわけですから、悪いことなしです。

 ただ私にはどうしても、あの映画を支持している人たちの大半は、そんなところまで考えてはいない気がするのです。みんなきっと小学生の頃の自分に戻って、映画というウサギを見ているのでしょう。だとすればやはり私はその人らとは関わりたくありません。子どもは嫌いなんです。