社畜72

 ぼくはソシャゲが嫌いだ。さらに言うと、ぼくは労働が嫌いだ。威張れたことではないけれど、労働に関しては嫌いすぎて、今ぼくはニートとして生きている……というか、生かされている。
 ソシャゲは労働に似ている。あの「今、やらなければならない」という急かされる感じと、一日も余さず継続することが大前提のシステム。楽しいわけでもないのにやらざるを得ないデイリーミッション……。ソシャゲ特有の様々な要素から、子どもが労働を体感したければ、キッザニアに行くよりもソシャゲをやれって感じがする。だからぼくはソシャゲが嫌いだ。ソシャゲをやっているニートは頭がおかしいくらいに思っていた。
 が、そんなぼくが最近、メギド72というゲームに手を出した。経緯としては、YouTubeを見ていた時に「スマホゲームで唯一、2019ゲーム大賞を受賞」という広告を目にして、それに釣られた形になる。
 ゲーム大賞のラインナップを見てみると、自分の好きなゲームが複数含まれていて、なおかつスマホゲームはメギド72以外一つも、どんなに有名な物だろうと一つも入っていなかった(まぁそれは広告通りなんだけれども)。それで、この賞は信用できるかもしれないと思ったのだ。
 結果メギド72からは確かに、他の有名ソシャゲとは違う部分をひしひしと感じた。ソシャゲ特有の批判されがちな部分を、どうにか改善しようという試みが感じられた。リセマラなんかしなくても初回ガチャは何度でも引き直させてやるよってシステムだとか、配布キャラがめちゃめちゃ強かったりすることだとか。
 が、メギド72も例外ではなく、どこまでいってもソシャゲはソシャゲだった。メギド72は優れたソシャゲだ。言ってみればそれは、優れた労働だ。あくまで例えだが、給料が良く、やりがいがあり、職場の人間関係は良好で、なんならちょっといい感じの雰囲気になれそうな異性の同僚がいる……週5フルタイムの労働みたいなゲームだ。
 どこまでいっても、メギド72はソシャゲらしく、労働っぽい性質を持っている。どれだけ言い繕っても純粋な娯楽ではない。「やりたくないことを、やらなければならない」という時点で、それはもはや労働だ。なぜ自ら進んで娯楽を求めていたはずなのに、その末にやりたくないことをやらなければならないのか。
 ゲームというのはやりたい時にやりたいだけやればいい(もちろん時間の許す限りだけれども)。何がスタミナだ馬鹿たれ、何が「このアイテムは特定の曜日にしか入手できないし、その入手にはスタミナを使う上、入手は確定ではなく確率で〜す」だこの野郎、何が「日曜だけは全ての曜日のアイテムを手に入れるチャンス!」だクソッタレが、そういうところだよ。「今、やらなければ」と思った瞬間、それはもう娯楽じゃない、労働だ。「やりたい」と「やらなければ」の区別がつかなくなり、ソシャゲに踊らされるオタクを哀れだとは思わないのか。
 ……と、ソシャゲアレルギーを起こしながらも、今のところ約10日、ぼくはメギド72を一日も余さず継続プレイしている。そんなことしたって間違っても社会復帰には繋がらないけれど、しかしこのメギド72というゲームは、何にも代え難い魅力に溢れていることも事実だった。でなければ今頃とっくにアンインストールしている。
 メギド72の魅力は戦闘が面白いことと、キャラやストーリーが良いことだ。しかし戦闘については個人的に、面白いものの「何にも代え難い」というほどではない。金を払えば同じくらいの面白さを持った、労働っぽさの無い別ゲームが買えるだろう。
 唯一無二な物はキャラとストーリー、それに世界観といった「設定」だ。ぶっちゃけ初めて10日のぼくでは、それらのほんの一部しか知らないのだろうけど、それでも明らかに魅力的だった。
 まずは、ざっくりとメギド72のあらすじを説明しよう。


 世界は三つに分かれていた。「悪魔の住む世界、メギドラル」「天使の住む世界、ハルマニア」そして「人間の住む世界、ヴァイガルド」。
 フォトンとかいう大地の恵み的なエネルギーが存在したりして、現実の人間界とヴァイガルドはいろいろ違うし、現実のホモサピエンスとヴァイガルドのヴィータ(人間の意と考えて大体合ってる)もいろいろ違うけど、そういう細かいことはたぶんスルーしてもいい。
 メギドラルに住むメギド(悪魔)とハルマニアに住むハルマ(天使)は仲が悪く、大昔に一度戦争をした。その際ヴァイガルドが巻き込まれ、神々の戦いのせいで人間界は一度滅びかけてしまう。
 さすがに反省した悪魔と天使は「護界憲章」という停戦協定を結び、お互いヴァイガルドに立ち入ることを禁止した。ぼくが読み進めているストーリー段階から考えると、この護界憲章は物質的な物らしく、言葉だけではない実際の力があるらしい。メギドやハルマはどんなにヴァイガルドに立ち入りたくても、護界憲章がある限りそれが出来ないのだという話だ。
 それでしばらくの間……具体的には、実際に行われた戦争が神話としてファンタジーの領域になってしまうくらい長い時の間、ヴァイガルドのヴィータたち(つまり人間界の人間たち)は平和に暮らしていた。が、ある時メギドラルの上層部が入れ替わった。そして新しい上層部は護界憲章を破壊して、再び戦争を起こすことを目論み始める。
 トップ層の入れ替わりにより、再戦争の意向に従わない従来のメギドたちは、メギドラルから追放されてしまう。追放されたメギドたちは、人間となってヴァイガルドに送られた。
 ところで主人公の男は、なんか知らんけど「ソロモンの指輪」という、追放メギドを従えることの出来るスーパーアイテムを持っていた。しかもそのソロモンの指輪を使えば、人間となってしまったメギドに、一時的にメギドの力を取り戻させることも出来る!
 というわけで、平和派だった故に追放されてきたメギド(悪魔)たちと力を合わせ、メギドラルの送り込んでくる刺客を倒したりして、再戦争(つまり人間界の滅亡)を阻止するために頑張ろう!

 ……って感じの話。思ったより長くなってしまった。
 まずぼくは、悪魔を仲間にして戦うというコンセプトに対して、これだけ説得力のあるストーリーが用意されていたことに感心した。
 悪魔=悪いヤツというのは、実際の戦争が神話になる内に出来たイメージらしく、実際のメギドたちは人格者が多かったりする。もちろん、メギドは自由を好み、ハルマは秩序を好むという種族柄はあるけれど、どっちの種族も普通に友好的だ。この時点でちょっと面白いし、夢がある。
 まぁそれだけだと「悪魔を仲間にするってテーマに上手い物語用意したな、すごいな」で話が終わってしまうのだけれど、メギド72のすごいところは、ストーリーだけでなくキャラも抜群に魅力的なところだ。
 ぼくが真っ先に感心したのはダンタリオンというメギド。彼女はいわゆるロリババア属性だ。しかしそれは安直な属性ではなく、物語に沿ったリアリティがある。
 そもそも追放されたメギドは、ある程度成長した人間の体を得てポンと放り出される……というわけではない。追放メギドは、生まれる予定の人間(ヴィータ)の意識を乗っ取って、人間として人間の両親から生まれるのである。
 そしてメギドラルで暮らしていた頃からずっと、メギドにも人間と同じように、規模こそ違えど「年齢」がある。少年少女メギドもいるし、爺さん婆さんメギドもいるのだ。
 すると、婆さんメギドがメギドラルを追放された場合、当然婆さんの人格で、人間の赤ん坊として生まれてくることになる。ということは必然的に、人間としての幼少期はロリババアになる。
 ロリババア属性の成り立ちに、こんなに説得力がある例を、ぼくは他に知らない。現実にはありえないものを見て「そりゃ、そうなるよな」と納得できたことにぼくは感動した。これがフィクションの中のリアリティってやつだ。
 その他にも「追放メギドは「自分がメギドである自覚」を、人間として生まれてすぐに取り戻す場合と、人生の途中で取り戻す場合と、死ぬまで取り戻さない場合がある」という設定もあったりして、これがまた面白いことになる。
 自分が悪魔だったことを思い出すことなく、人間として生まれ人間として生きて、人間として死んでいくメギドもいる。途中までがっつり人間として生きてきたから、自身がメギドであることを自覚してからも、人間としての暮らしを捨てる気にはなれず苦悩するパターンもある。
 とにかくメギド72というゲームの「設定」は、「設定」そのものに対して真摯だ。徹底している。自分たちの作った世界観にどこまでも忠実だ。だから「そりゃ、そうなるよな」がそこかしこにある。ゲームがどうかという話の前に、まず世界観が魅力的なのだ。
 追放されるまでもなく自ら膨大なエネルギーを費やして、人間として人間界にやって来たメギドもいる。追放がどうとか戦争がどうとかどうでもよくて、料理にしか興味が無いメギドもいる。人格者揃いの中で普通に人間のクズみたいなメギドもいれば、厳ついヤンキーの見た目をしながら作中一二を争う善人なメギドもいる。ウェディングドレス姿で両手には刃物という出で立ちのメギドもいれば、露出等のあからさまな要素が無い「サキュバス」というメギドもいる。唯一無二な魅力を持つキャラクターがわんさかいるのだ。
 ……それらの魅力のせいで、ぼくは10日以上、ソシャゲアレルギーを起こしつつも、アンインストールが出来ずにいる。衝動的にアンストしてしまいたくなる時が何度もあったが、というか今でもあるが、その度に思いとどまっている。まだ読んでいないストーリーがあり、まだ見ていないキャラクターがいて、それらがきっと魅力的だろうと確信しているからだ。
 たぶん本来、労働ってそういうものなんだろう、とぼくは思うようになった。様々な不満に「クソがよ」「そういうところなんだよ」と愚痴を垂れながら、辞めちまおうかなと思うんだけれども、実際に辞めることはしない。愚痴は本心からのものだけれど、辞めてしまいたいという気持ちは本物だけれど、しかしそれと釣り合うくらい、確かな魅力があるから辞めはしない。そういう感覚で、みんな働いているのかなと。
 魅力っていうのが金銭なのか、やりがいなのか、人間関係なのか、それとも真っ当な社会人という肩書きなのかは、人それぞれだろう。けれど何かしら、「本気で嫌なこと」に釣り合う「魅力」があるから、事実みんな働き続けている。でなければとっくに辞めているはずだ。ソシャゲも労働も。
 ぼくが初めてバイトした時のことを思い出す。給料のことを考えて、今まで手が出せなかったあれもこれも、全部手に入れられると、ウキウキ気分で働いた初日だった。
 仕事をやめられるなら、今まで手が出せなかった物なんて何一ついらないと思って、実際に辞めた勤務10日目だった。
 メギド72をプレイしてみても「何がそんなに魅力的なんだ? まったく理解できない」と思ってアンインストールした人が、どこかにきっといるだろう。その人から見たメギド72が、ぼくから見た労働だ。
 洗濯して、皿洗って、夕飯の手伝いをしているだけで、無課金ソシャゲをやって、ネットで作文が書けるぼくは、ただ単に恵まれすぎていて「労働の魅力」を感知出来なくなってしまっただけなんだと思う。けれども、なんやかんや言いながら働いている「真っ当な人たち」が、ぼくのメギド72へ対することと同じくらい、労働やその周辺の事柄に魅力を感じているなら、それはものすごく恨めしいことだ。ちょっとした憎しみが湧く。
 「働きたくない」と言うと、「みんなそうだ」と言い返される。じゃあなんで実際、みんな働いているんだって話だろう。もしもみんな、本当にぼくと同じくらい働きたくなかったら、みんなぼくと同じように労働を拒否するはずだろう。そうなっていないということは、真っ当な人たちは、大して働きたくないとは思っちゃいないんだ。こっちの気持ちも分からずに、分かったようなつもりで、分かったようなことを言ってくる。自分たちが多数派だという自負があるからそうするんだろ、クソが。
 ……と、ずっと思っていた。けれど違ったのかもしれない。みんな本当に、ぼくと同じくらい働きたくないのかもしれない。けれどぼくと違って、労働に捨てきれない魅力を感じているから、働き続けているのかもしれない。ぼくだけその魅力を感知出来ていないだけなのかもしれない。
 そんな風にまた、娯楽から何かを知った気になるニートなのだった。

良ければ結婚を前提に、文字化け契約書を交わしてください。

 極黒のブリュンヒルデという、ちょっと癖の強い漫画がある。それはかつてヤングジャンプで連載していた完結済み作品であり、アニメ化もしている。
 そのブリュンヒルデの中に、要約してこのようなことを言う男キャラがいた。

「恋人になるってことはセックスするってことだ。恋人とだけして、友達とはしない行為とは何だ? セックスしかないだろう。恋人になるってことはセックスするってことだ」

 そのキャラは別に悪役ではなかった。むしろいいやつだった。ちょっと粗暴で高圧的なところがあるけれど、弱者をいじめるような人間ではなく、むしろなんやかんや言って困ってる人を助けてくれるようなやつだった。
 だから余計に、その恋愛観が際立つ。そしてその台詞を見た当時高校生だったぼくは、「恋人になる=セックスをする」ということを「正しい」と認めてしまうと、自分の恋愛観がダメになってしまう気がした。
 恋人=セックスなんて、そんなことはない! ……と言い返すためには、では恋人になるとはつまりどういうことなのか、こちらも具体的に主張しなければならない。今までぼんやりアバウトに考えていたことに、きっちり結論を用意するべき時が妙なタイミングで来てしまった
 「恋人=セックス」という理屈を明確に否定できなければ、今後ぼくの言う「恋人がほしい」という旨の発言全てが、「セックス相手がほしい」という意味に変形してしまう。すると万が一ぼくが、惹かれた相手に告白したくなった時、その「言葉の意味の変形」に自分自身が耐えられなくなってしまう。恋人になってもいないのに、あなたとセックスしたいですとはっきり口にする覚悟が、ぼくにはない。
 今思えば、ぼくが誰かに告白するというそのシチュエーション自体が杞憂だったが、それについては今回考えないことにする。重要なのは、この件について、ぼくが自分なりの結論を導き出せたということだ。
 恋人になるというのは、付き合うことというのは、具体的にどういうことなのか。ぼくはその結論を、「文字化けした契約書」と言い表すことにしている。
 そもそも恋人関係とは、契約関係の一つだ。結構などで生まれる法的な意味での契約とは別な、メンタル的意味の契約が、「恋人」という概念の本体だとぼくは思っている。
 例えば冒頭の漫画キャラが言っていた通り、デートというものは、行動そのものだけを見れば、そこに何ら特別性はない。男女が二人で買い物なり何なりへ行くことは、友達関係であっても十分あり得ることだと言える。でなければ、男女が二人きりで出かければそれは恋人である、なんてふざけた理屈が通ってしまう。それはあり得ないだろう。
 友達同士のお出かけや遊びが、恋人同士になればデートと呼ばれることになる。しかし呼び方を変えたところで、行動そのものに違いは生まれない。大切なのは、そこに関連してくる気持ちだ。恋愛とは、気持ちの問題だ。
 そういう意味で、「デートだと思えばデート」という理屈も、あながち間違いではない。恋愛を恋愛たらしめている物は全て精神的な物であり、物理的な行動ではないからだ。
 恋人=セックスもここで否定される。そもそも、恋人でなくてもセックスする人はする。仕事でする人から、金のやり取りも無しにプライベートでする人だっているだろう。しかし本人が「恋人ではない」と言えば、それはその通りなのだ。法的なルールが介入する場合はさておき、行動がどうであろうと気持ちが「違う」と言えば、それは恋愛ではない。
 そのように、恋愛が精神的な物である以上、「恋人になる」ということも精神的な物であり、それ以上でもそれ以下でもない。何をしたのかではなく、何を思ったのかが恋愛の定義だ。
 しかし、何を思えば恋愛と認識されるのかは、人それぞれ違いがある。セックスの話から繋げると、よく「性行為を拒否したら、相手のことを好きじゃないから拒否したんだと思われそうで、本当は嫌なのに断れない」みたいな話を聞くけれど、その場合少なくとも、その話をしている本人は「性行為をしたいという気持ちは、恋愛の定義に含まれない」としているわけだ。
 もしも本当に性行為の拒否を理由に「恋人として」嫌われるなら、逆に相手の方は「性行為をしたいという気持ちは、恋愛の定義に含まれる」と考えている……ということになる。そういった違いが、恋愛の定義の個人差だ。恋愛とは気持ちの問題なのだから、個人差があるのはむしろ当然だと言えるだろう。
 そして「恋人」という概念は、この定義をお互いに向け合い、許容し合う関係のことを言う。「私と付き合ってください」という言葉は、「私の恋愛の定義と、それをあなたに向けることを許容してください」という意味だ。
 が、しかし、実際はそこで問題が起こる。我々はほとんどの場合、その「恋愛の定義」が具体的に何なのか、ロクに確認もせず告白して、ロクに確認もせず返事をしてしまう。意中の相手に想いを伝える時に、自分の恋愛の定義を語り始める人間はごくごく少数派だろう。
 気持ちを完璧に言語化できる人間は、ごく僅かしかいない。ぼくだって完璧には程遠い。今しているこの話だって、漫画をきっかけに何日も悩んで、ようやく捻り出した結論だ。漫画を読んでいなければ、考えもしなかったかもしれない。
 何のきっかけにも出会わず、あるいはモチベーションが湧く時が来ず、恋愛とは何か恋人とは何かなんてことは、ふんわりアバウトにしか考えてない人がきっと圧倒的多数だろう。だからほとんどの場合で、定義が何だとか、そういう細かい話はしない。好きだとか、愛してるだとか言うけれど、それがつまり何を意味しているのかまでは話さない。
 恋愛の定義、それはつまり、相手に求めることのリストだ。あるいは、自分がするべきだと思い込んでいることのリストだ。「あなたは私と付き合いたいと言うが、具体的に私に何を求めているのか?」という旨の言葉を、告白を受けての返しに使う人はいないだろう。大抵は相手の人となりや今までの関係性などから考えて、つまり相手の恋愛の定義をアバウトに予想して、返事をすることになる。
 もちろん恋人とは相互の関係なので、相手を受け入れるかだけではなく、逆に自分が相手に受け入れてほしいと思うかどうかも、返事の答えに関わってくる。この人に受け入れてもらったって何も嬉しくない……と思う相手とは、誰しも恋人になろうとはしないだろう。
 が、そういうことを考えると話が入り組み、ややこしくなってきてしまうので、今回は告白を受けた側が「相手の恋愛の定義次第では、付き合うこともやぶさかではない」と思っていると仮定して話を進める。実際の言い回しっぽくすると、「本当に自分のことを大切にしてくれるなら付き合ってもいい」と思っている状況……と仮定する。
 さて、ここまで書いたような考えでもって、ぼくは「恋人という概念」を「契約」だと思っている。そして説明した通り、その契約における定義、つまり契約条件は、基本的にお互いロクに把握しないまま、イエスorノーの返事をすることになる。
 それが「文字化けした契約書」だ。我々は誰かと恋人になる時、読めない契約書に判を押している。一部が読める場合や、読めはしなくてもなんとなくニュアンスは把握できる場合があるかもしれないが、その全容を完璧に把握した上で判を押すケースは、無いと言ってしまっていいだろう。
 そしてその文字化けは、契約関係を続けていくうちに、段々と「読める文字」に修正されていく。付き合いを重ねることで、少しずつ相手のことがわかっていく……というのがそれだ。
 少しずつ、相手の恋愛の定義がわかってくる。付き合ってくださいという言葉が、相手の中で具体的に何を意味していたのかを、知ることになる。文字化けした契約書の文字が、全て本来の姿に修正された時、判を押したことに後悔していなければ円満だ。逆にそうでなければ、別れることになったりもするだろう。
 しかしどちらにせよ、基本的に誰も契約書の存在に気付かない。円満に関係を続けようが別れようが、ほとんどの人は契約書の存在に気が付かないままだ。全てを無意識の内に処理している。恋愛の定義と、その契約という仕組みを、ほとんどの人が明確には察知せず、勘と雰囲気で立ち回っている。
 ぼくはこの仕組みをもっと多くの人が認知すれば、恋愛で傷つく人が減るのではないかと思っている。自分や相手の恋愛の定義を確認することは、誰と付き合いたいかを考える際に、すごく重要なことだと思うのだけれど……。
 一つ問題があるとすれば、ほとんどの人が恋愛の定義の中に「少なくともこちらに向けて、定義が何だ契約が何だと、クソみたいな理屈をこねくり回さないこと」を含ませていることだろうか。
 相手に定義を尋ねた瞬間その人は、その相手の定義に則って弾かれることになる。しかし恋人という契約は、元々そういうものなのだ。



 ところで、そう考えると、冒頭の漫画の台詞もちょっと見え方が変わってくる。
 恋人になるってことはセックスするってことだ、という理屈は、恋人という概念の本質を言い表す物としては不正確だ。しかしその台詞は同時に、そのキャラ自身の恋愛の定義の説明にもなっている。
 その台詞を、恋人関係の本質について話した物ではなく、ただ単に自分の恋愛の定義を語っただけの物として捉えれば、何もおかしなところはないのである。「俺は、恋人になるってことはセックスすること……だと思っている」という意味なら、ごく自然な主張なのだ。
 そういう捉え方をするなら、彼は貴重な「恋愛の定義を初めから明確に提示する人」である、彼の持ってくる契約書には、文字化けしている部分が普通よりずっと少ないことになる。
 それを踏まえてみるとやっぱり、契約書が初めから読める文字で書いてあるという特徴は、恋愛において何の強みにもならない場合がほとんどのように思う。

「うのとれ!」というゲームをたぶん100戦くらい遊んだ。

 UNOとTCG(トレーディングカードゲーム)を融合させたスマホゲームアプリ、それが「うのとれ!」だ。

 カードゲームであるからにはそれぞれのカードにイラストがあるわけだが、その題材は東方projectとなっている。アプリのアイコンは魂魄妖夢だ。

 UNOとTCGの融合とはつまりどういうことなのか。その意味するところは、まず自分でデッキを組むというシステムにある。デッキを組むということは、もうその時点で「これは単なるウノではないぞ……」というオーラを放っている。全ての人類はそのオーラに惹かれる人と、嫌厭する人とに二分されるだろう。

 そしてカードゲームをするからには、それぞれのカードに「効果」が設定されている。通常のウノではスキップ、リバース、ワイルド、ドロー2、ドロー4くらいが「効果」と呼べる物だけれど、うのとれ!には全てのカードに効果がある。ただ数字と色が書いてあるだけの、何の効果もないカードは存在しない。

 すると当然、ゲームは混乱を極めることになる。想像してみてほしい、ウノのカード一枚一枚に、それぞれ別の効果が設定されていることを。洪水のような情報量に、初見では何も把握しきれないだろう。TCGオーラに惹かれた人たちは、ここで再びふるいにかけられてしまう。

 しかもこの「うのとれ!」は、ウノとしては一戦がめちゃめちゃ長い。スーパー長い、ウルトラ長い。そうなってしまう理由は後述するが、とにかくゲームをインストールしたばかりの序盤は「勝たなければカードが買えない」+「一戦がめちゃめちゃ長い」→「何度か連続で負けると心が折れる」という流れになりやすい……と思われる。折れなかったからぼくは今この作文を書いているわけで、ぼく以外のうのとれ!プレイヤーをぼくは知らないけれど。

 そしてそんな「うのとれ!」には、さらなる問題点がある。それは「対人戦の機能がない」ということ。対戦相手は永遠にCPUだ。そしてインストールを試みる際目に入ると思うのだが、このゲームはすでに、これ以上の開発が放棄されてしまっている。もう一度言うが、正真正銘、対戦相手は永遠にCP‘Uだ。

 数々の困難を乗り越えても、友達と遊び盛り上がることはできない。けれどタイトルから察してもらえる通り、ぼくはこのゲームを、全てのカードゲーム好きにおすすめしたい。いくら対人戦が出来ようと、開発がどんどん進もうと、シャドバやゼノンザードのようなクソゲーをやってる場合じゃない。うのとれ!をやれ。うのとれ!の中にある、人類の可能性を見ろ。

 ぼくはこのゲームに、実物のUNOでドロー4を直撃させられながら「爆アドォ!」とか言って騒いでる、カードゲーマーたちの夢を見たよ。

 

 

 

 うのとれ!ってこんなゲームだぜのコーナー。まずは通常のUNOと同じところから紹介。

 

・手札は7枚からスタート。誰よりも早く全ての手札を使い切った人の勝ち! ただし通常のUNOと違って、同じ数字のカード複数枚を一気に出すことは出来ないので注意。

・同じ色か、同じ数字のカードを場に出せる。ウノって言い忘れるとペナルティがある等々、基本ルールは通常のウノと同じだ!

・ただし、一戦で試合が終わるとは限らない。勝者には決着がついた時点で、「他プレイヤーの手札の総数」に等しい点数が与えられるぞ。この点数が15点以上貯まった人が、その試合の勝者となる! 逆に15点貯まるまでは、延々と再戦を繰り返すってわけだ。よくわからんけど、たぶん公式の競技ルール的なやつもそんな感じなんでしょ(適当)。

 

 点数については「他人の手札は増やしつつ自分はあがる」なんてことが狙って出来るなら、そりゃ点数のルール無しのノーマルなウノでも苦労しないじゃないって話なので、いったん忘れてもらって構わない。

 要するにうのとれ!も基本ルールは通常のUNOと大差ない。しかし逆に言えば、基本ルール以外は何もかもが違うので、次はそれを紹介していく。

 

・「色」は全部で5色。赤、青、緑、白に加えて、通常のUNOにはない黒がある。また、色を持たない「無色」も存在したり、複数の色を持つ多色カードもある。デュエルマスターズみたいだね。

・「スペル」という特殊能力の概念がある。その内容は選択したキャラ毎に異なり、基本的に一戦に一回しか使えない。一度「あがり」が出てから点数が足りずに再戦する時は、スペルの使用権も復活する。

・デッキ切れの概念がある。通常のUNOと違いそれぞれのプレイヤーが自分のデッキを持ち寄って戦うので、当然誰かのデッキだけ先になくなることもある。デッキが0枚の状態でパスするなどしてカードを引こうとすると、その時点で強制敗北になるから気を付けよう。

・各カードの能力がバリエーション豊か。場に出した時に発動する効果以外にも、手札から表にして「公開」することで発揮される効果や、条件を満たすと山札から飛び出してきて発動される効果、デジタルカードゲームの特権である「カードを書き換える」系の効果もあるぞ!(手札や山札の中にあるカードの色を変えたり、効果を無効化したりできる。ワクワクしない?)

 

 と、通常のUNOとの違いは大体そんな感じ。一番大きいのは色についてだろう。色が一つ増えるだけで、格段にカードが出しにくくなる。一戦が長くなりやすい原因の一つはそれだ。

 一戦長期化の原因はもう一つあって、このゲームにはドロー系のカードが妙に多い。妙にというか、ウノをやる中で全てのカードに効果を与えるとなると、どうしてもそうならざるを得なかったのだと思われる。しかしこの「5色+ドロー系多数」によって、一戦の長さが初心者の……つまりかつてのぼくの心を折りにきた。

 けれどこのゲームには、それを乗り越えるだけの価値がある。カードが集まってくるにつれて出来ることが増えていって、UNOとTCGの融合が、奇跡的に成功していることを実感できるようになる。そして慣れれば慣れるほど、効率的に試合を回せるようにもなってくる。そうなってくると俄然面白くなるのだ。

 面白くなりすぎて、ぼくは作文タイトルの通りだ。延々CPUと戯れてしまっている。何がそんなに魅力的なのかと言われても、この魅力はたぶんカードゲームが好きな人にしかわからない。ものすごくカードゲームっぽいのだ、うのとれ!というゲームは。

 ゲーム性はTCGらしさに満ちているけれど、対人戦がない以上、このゲームの楽しみ方自体は、おそらくRPGに近い。「ぼくはこういうところを面白いと感じる」という話をしてしまうと、それはRPGのストーリーをネタバレしてしまうような意味を持ってしまう。

 が、ぼくは知っている。どうせこれを読んで「へぇー、いっちょインストールしてみるか!」となる人はいない。そもそもこれを読む人がごく僅か、下手すればゼロだ。そのごく少数の初見の楽しみ、自分で考え開拓していく楽しみを奪ってでも、ぼくはこの話がしたい……!

 少しでもうのとれ!に興味を持ってくれた人は、ここで引き返してインストールしてみることをおすすめする。ここから先を読むのは、心が折れてからでも遅くないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず、このゲームの必勝法から教えよう。心が折れた人はこれを目指してほしい。

 散々話した通り、5色&妨害多数のこのゲームでは、まともに手札を使い切ってあがることが難しい。もちろん不可能ではないし、その気になれば正攻法でもかなりの勝率を出せることに後々ぼくは気が付いたが、それよりも先に見つけた必勝法はこうだった。

 自分があがれないのなら、他人をあがらせないまま、全員潰してしまえばいい。このゲームには山札切れによる敗北があるのだ。「ドローさせる効果」とは、相手のあがりを妨害する意味ともう一つ、山札を削る意味も持っている……!

 そんな「おい、UNOやれよ」と言われそうなデッキ破壊デッキ、それがぼくが「うのとれ!」の中で一番初めに見つけた必勝法だった。

 相手全員のデッキを破壊し尽くすためのコンボパーツとして、以下のカードが必要になる。

 

・「河城みとり

……赤の3。手札のこれが公開状態なら、相手はパスする時山札2枚破棄。

・「イビルアイΣ」

……黒の6。手札のこれが公開状態なら、相手はパスする時もう1枚引く。

 

 この二枚を使って、相手が場に出せるカードを持たずパスする時に、計4枚のカードを山札から消費するようにする。パスの重みが自分の四倍になるのだから、これが決まれば大抵自分より先に相手全員の山札が尽きる。

 公開状態にするためのコンボパーツには、主に以下の四種類を採用している。

 

・「リグル・ナイトバグ

……緑の1。自分の手札を全て公開し緑の枚数が2枚以上なら1枚破棄。

・「河城にとり

……青の3。自分の手札を全て公開し青の枚数だけ相手の山札を破棄。

「夢子」

……赤の5。自分の手札を全て公開しそれらに赤色を追加する。

・「霊鳥路空

……赤の6。自分の手札を全て公開し赤の枚数分だけ相手はカードを引く。

 

 うのとれ!は全てのカードが最大1枚までしかデッキに入れらず、30枚デッキで戦うゲームなので、この四種類、計4枚を採用することになった。

 一番上の緑、リグルは本来「手札が相手にバレるかわりに、1枚捨ててあがりに近づける」というカードなのかもしれないが、もっぱらコンボパーツとして使っている。他にも手札を公開できるカードはいくつかあるのだが、リグルは万が一コンボ計画が破綻した際に、少しでも通常のあがりに近づけるという理由で採用している。

 次の青、にとりは見たまんまだ。デッキ破壊のコンボを準備しながら、デッキ破壊を行ってくれて一石二鳥だ。ただ、青のカードには山札破棄の効果が多く、山札破棄は相手のあがりを遅らせる意味を持てない以上、単純なドローの下位互換になっている。そのため青のカードは採用枚数が少なめで、にとりの効果も後半は使えればラッキーという物になっている。手札に青が1枚もない時でも、前述のメインパーツ2枚を公開できるタイミングならガンガン使っていこう。

 次の赤、夢子はコンボパーツの公開ついでに、全ての手札に赤を足してくれる。要するに赤以外のカードは全て多色となるのだ。場への出しやすさが跳ね上がり、ほとんどのカード(現在紹介している四種類も)が場に出した際に効果を発揮するので、コンボ成立後の詰めを有利に行えるようになる。

 さらにその次の赤、お空ちゃんは公開ついでに、ドロー強制という名のデッキ破壊を行ってくれる。あがりを遅らせてくれる上に、そのまま仕留められればデッキ切れで脱落時の手札枚数が、そのまま勝者へ入るポイントになるので、大量得点により一発で試合を終わらせられる可能性もある。

 ……と、このようなギミックをメインに、その他様々なカードでメインの動きをサポートしながら、デッキ破壊による勝利を狙っていくことになる。なぜ単純なデッキ破壊効果やドロー系効果を使わず、わざわざ手札公開という手間を挟むのかというと、そこには深い理由がある。

 この「うのとれ!」というゲームにおいて、テキスト上に「相手」と書いてあった場合、それは基本的に「自分の次の順番の人」を指している。相手全員という意味ではないのだ。相手は2枚ドローすると書いてあった場合、自分の前隣の一人だけが2枚引くことになる。

 必ず四人で対戦するこのゲームには「相手(前隣の人)」「相手全員」の他にもう一つ「対面」という目標指定もあるが、とにかく重要なのは、ほとんどのカード効果が単体にしか及ばないということだ。こっちが必死こいてたった一人のデッキを破壊していたら、残る二人が漁夫の利を得るに決まっている。

 そこで初めに挙げた2枚のカードである。テキスト上は「相手」と書いてあるものの、それらのカードはなぜか効果が全体に作用する。手札公開さえ済ませてしまえば、自分以外の全員がパスするたびにすごい勢いで山札を消費していくのだ。

 これはカードのデザイン上「自分以外のパスした人は」という文章が文字量の関係で入りきらず、「相手はパスする時」と書かざるを得なかったのだと思う。(画像は実際のゲーム画面)。

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 対人戦のない閉じた環境だからこそ、そういうところを読み取り把握していくことを、「面白さ」と呼べないこともないだろう。

 とにかく何にせよ、デッキ破壊を勝ち筋にするなら、最初に挙げた2枚のコンボパーツは必須だ。逆にそのコンボさえ成立させられれば、このゲームはあがらなくても勝てる。まともにUNOをせずにUNOで勝てるのだ。これに一人黙々と遊ぶ中で気付いた時、ここまで折れずに続けてよかったと思った。ぼくがこのゲームを好きになったのはそこからだと思う。

 そしてこのゲームの面白いところは、メタカードが存在しているところにある。UNOで行うデッキ破壊という、言ってしまえば邪道のクソゲー戦法に対して、対策となるカードが多数存在しているのだ。カードゲーマーがしょっちゅう口にする「メタ」という概念が、うのとれ!にはきっちり存在している。

 その「ちゃんとカードゲームになってる感」を紹介するために、デッキ破壊デッキに対するメタカードを何枚か挙げてみようと思う。

 

・「八尺さま」

……黒の3。誰かが脱落しているなら相手は山札を全て破棄。

・「ルナサ・プリズムリバー

……黒の4。全員の公開されている手札を全て非公開にする。

・「多々良小傘

……青と緑の2。全員、手札を全て山札に戻し同数引き直す。

・「八雲紫

……青と黒の7。自分と相手の山札を全て交換。

・「ワーハクタク」

……無色の7。相手全員の手札全ての効果を消して公開させる。

 

 まずは八尺さまから解説。テキスト上の「脱落」というのはもちろん、デッキ切れで負けが確定した人のことだ。一人でも脱落者がいた場合、八尺さまが出てきた途端、その前隣の人は山札が全部消し飛ぶことになる。

 コンボを成立させて流れに乗り、勝った気になっていたら突然後ろの人から八尺さまが飛んできて即死……なんてことが起こりかねない。というか何度かあった。がっつりデッキ破壊をメタっていると言えるカードの1枚だ。

 次のルナサは、手札公開へ対するメタになっている。デッキ破壊以外にも手札効果という手間を挟んで発動する効果はあるのだが、手札公開系の最強戦法はおそらくデッキ破壊なので、もっぱらそのメタになっている。対象範囲が「全員」なので、何らかの効果で公開させられた自分の手札を非公開に戻し、ゲームを通常のUNOに戻すという意味合いも持っている。

 手札を公開するためのカードは、例えばぼくが使っているデッキだと30枚中の4枚が全てなので、一度ルナサで戻されるだけで結構つらい場合も多い。八尺さまのような致死級の威力はないが、後ろ隣以外からも飛んでくるという恐ろしさがある。

 その次の小傘は多色であり、場に出ているカードが青でも緑でも出てくる。そして手札の引き直しという効果はつまり、公開した手札を非公開に戻すという意味でもある。小傘の強力なところは、既に揃えていたパーツさえデッキに戻される可能性があることだ。ぶっちゃけルナサの上位互換だと思う。

 その次、八雲紫は、これはこれで別のクソゲーメーカーである。お互いの手札を交換させるカードは他TCGでもちょくちょく見かけるが、デッキを丸ごと交換するのは前代未聞だろう。コンボパーツを引き切る前に、後ろ隣からこいつを投げられると、もはやプランは崩壊、普通のUNOをやらざるを得なくなる。しかも八雲紫は多色だから場に出てきやすい。

 デッキを組んでUNOをやるという楽しみを頭から否定していくようなとんでもカードだけれど、その絶妙なところは「投げたからって勝てるとは限らない」というところだ。デッキを入れ替えたって負ける時は負けるし、入れ替えられた方だって勝つ時は勝つ。この「クソゲーメーカーではあってもぶっ壊れではない」ということと、出てくるタイミングが遅ければ遅いほど効力が弱くなることが、30分の1でしかデッキに入れられないゲーム性とほどよく噛み合っている。というかそもそも、UNOっていうゲームは元から運ゲーなんだから、TCGと融合したってこのくらいダイナミックなカードもあっていいのだ。

 そして最後のワーハクタク、こいつもクソゲーメーカーである。自分だけ何の被害も受けずに、他人の手札を公開するわ、その上で効果を消すわ、「俺だけ有利なUNOやろうぜ」と地で言っていくカードになっている。これを出されてそのまま負けると、非常にしょうもない気持ちになること請け合いだ。

 が、このワーハクタクにもほど良いバランス調整がされている。それは無色だということだ。無色というのは「いつでも場に出せるが、逆にどんなカードでも上に出されてしまう、相手が色を選択するワイルドカードのような物」……ではない! 否だ、断じてそんな物ではないのだ。ぼくも初めの頃はそれに驚かされた。

 無色というのは「無色カード、あるいは数字の同じ有色カードの上にしか出せず、出たあとは全てのカードを乗せられてしまう物」なのである。死ぬほど出しづらく、出したら出したで隣の人に好きなカードを出されてしまう。そんな扱いづらい代物が無色であり、だからこそ無色には派手で強力な効果を持つカードが多い。

 ワーハクタクが場に出せるのは、場に出ているカードが無色の時か、7の時だけ。青でも緑でも2でも出せる小傘と比べると出しやすさが段違いになっている。なかなか出せずに手札で腐り続け、出せた時には手遅れ……なんてこともある。だから許せるカードなのだ。

 ……というように、うのとれ!というゲーム、すごくちゃんとカードゲームになっている。インディーズゲームにありがちな、最強戦法を見つけてしまえばそれでおしまい、今までの苦労が馬鹿馬鹿しくなってしまう……というパターンではないのだ。ぼくはそこに感動した。

 ただ、これで対人戦をやるとどうなるのか、未知数なところはある。CPUに対する手札公開と、人間に対する手札公開では、きっと意味が違ってくるだろう。CPUはあらかじめ設定されたデッキを握っているだけで、たまたま各種メタカードを使っているにすぎないが、デッキ構築の段階から人間が入るとどうなるのか、まったく予想できない。

 万が一うのとれ!が対人戦に対応したとしても、その時このゲームが面白い物になれる保証は、どこにもないように思う。けれどそれがいい。対人機能さえあればと嘆くわけではなく、「どうなるかわからないけど、対人戦やってみたいなぁ」と思いながら、ひたすらCPUと戦う。それが良い。非常に良い。絶妙な引きこもり仕様だ。

 さらにこのゲームが素晴らしいのは、やりこみ要素があるということだ。だいぶ前に「キャラ毎に内容の異なる、スペルという概念がある」と言ったけれど、そのスペルは、キャラ一人につき一種類ではない。初めは50%から始まる好感度が、そのキャラを使って勝つたびに10刻みで増えていく。そして100%に達したとき、隠されし第二のスペルが解放されるのだ……!

 で、そのキャラが全員で、24人いる。ぼくがタイトルの通りこのゲームを遊びまくっているのは、その第二のスペル解放のためである。単なるやりこみではなく、解放していくことで当然新たな面白みも出てくるのだから、こんなに素晴らしいことはない。それと単純に第二のスペルがどんな内容になるのか気になる、好奇心をつついてくる面白さもある。

 せっかくなので、デッキ破壊デッキと相性の良いキャラを何人か紹介しておこう。

 

・「魂魄妖夢

……ほとんどのキャラが「UNOに勝つ」ことでアンロックされる隠しキャラに設定されている本作の、貴重な初期キャラ。

 第一スペルは「相手のUNO宣言を打ち消す」効果。これにより強制的にウノ言い忘れのペナルティを与え、2枚ドローさせた上で、その時に相手が出したカードの効果を消す。コンボ成立前や、デッキを破壊し尽くす前にあがられてしまうことを防ぎ、なおかつデッキ削り2枚の効果も成す。そんな悪くない能力だ。

 第二スペルは「誰かがあがる時、それを打ち消しカードを2枚引かせる」効果。UNO宣言打ち消しによるカード効果無効化能力を失ったかわりに、あがる見込みのない状態でとりあえず宣言するUNOに惑わされず、確実にあがりを妨害することが出来るようになっている。……まぁ正直、第一スペルと大差ない。

 

・「封獣ぬえ

……中盤でアンロックされるキャラ。第一スペルは「相手全員はカードを1枚引く」というシンプルな効果。小規模とはいえ確実に全員のあがりを妨害出来て、合計で3枚の山札を削ってくれる。

 しかし第二スペルを解放すると、このキャラの神髄が発揮されることになる。第二スペルは「相手全員は手札を全て破棄しカードを4枚引く」という効果になる。

 強制的に全員の手札を4枚にすることであがりを阻止できるが、重要なのはそこではない。このスペルは、確実に合計12枚の山札を削る効果なのだ。一部の「スペルの使用権を復活させる」系の効果を持つカードを用いれば、スペルだけで24枚も削れることになる。しかもちゃんとあがりも妨害できる。デッキ破壊デッキを使うにあたって、超有力候補のうちの一人だ。

 ……というかこの第二スペルはさすがにちょっと、通常のUNOやらせる気がなさすぎる気がする。バランス調整するとしたらここだろう。

 

・「大妖精」

……ぬえより後にアンロックされるキャラ。第一スペルは「全員カードを2枚引く」効果。全員のあがり妨害、6枚の山札削りに加えて、こちらはぬえと違い序盤に打つことで、自分のコンボパーツ集めをサポートしてくれる能力になっている。

 第二スペルはシンプルに「全員カードを3枚引く」という物。使い方は第一と同じだ。このスペルもまた通常のUNOをやらせる気がなさすぎると共に、こういうやつらが初めの方で言った「一戦の長期化」の原因を担っていたりする。

 

・「ルーミア

……ぬえと大妖精の間でアンロックされるキャラ。第一スペルは「相手全員の山札を見て黒のカードを2枚ずつ選び破棄」という効果。黒には先ほど紹介したような、デッキ破壊デッキへのメタカードが多数所属しているので、それをピンポイントで落としつつ山札削りを最大6枚行えるのは大きい。

 ただし弱点も多い。あがりを妨害する力が一切なく、初手に握られたカードは落とせず、打った時点で相手のデッキに黒がない場合は空打ちになってしまう。ただしそれでもメタカードをピンポイントで抜ける効果は魅力的なので、やはりぬえと大妖精のパワーがおかしいのだと思う。

 第二スペルは「相手全員の山札を見て黒のカードを2枚ずつ選び引かせる」という効果。普通に考えればあがり妨害が出来るようになって喜ぶべきなのだが、引かせてしまうのでメタカードを落とす役割を失っている。第一と第二、どちらを使うかは好みによるところがある。ただカード効果で使用権を増やして二度目を打つつもりなら、第一の方にしておかないとほぼ確実に相手にメタカードを渡すことになってしまう。

 

・「小悪魔」

……大妖精よりあとにアンロックされるキャラ。第一スペルは「手札を1枚選んで破棄し山札の上から3枚見て1枚を引く」という効果。つまり手札1枚と山札の上から3枚までのどれかを交換できる。コンボパーツを集める際に役立つ他、万が一デッキ破壊プランを放棄する場合は、通常のあがりをサポートしてくれる意味合いも持つ。

 ぼくが思わず笑ってしまったのは第二スペルの方だ。その効果は「場のカードの数字を4に変える」という物。いや、今まで正統派進化みたいな流れがあったのに、なんでそんな効果になったんだよ。

 要するにいつでも一度だけ4のカードを確実に出せる効果なわけだが、紹介した通り、デッキ破壊のメインギミックに4は無い。第二スペルの方は、まったく違ったデッキで役に立つのかもしれないが、専用デッキを組むほど派手な効果でもないので困ったものだ。どうしてこうなった。

 

・「パチュリー・ノーレッジ

……小悪魔よりあとにアンロックされるキャラ。第一スペルは「自分の山札の無色カード全てに緑色を追加する」効果。出しづらい故に強力な効果を持つ無色カードを、全て有色に変えてしまおうというダイナミックかつ夢のある効果だ。専用デッキを組む価値がある。

 このパチュリーを使うことで「ワーハクタクを出される前に、むしろこっちから出す」というようなことが狙える。また、無色の中には、

 

・「奏こころ」

……無色の7。自分以外はこれの上に無色のカードしか出せない。

 

 というカードが存在しているので、これを緑にすることで「無色は無色か同じ数字の上にしか出せない」というルールと合わさり、「自分以外はこれの上に7以外のカードを出せない」という強力なロック効果が実現する。これをデッキ破壊コンボ成立後に出すと、相手にパスを強制させ、自分もパスを続けることで、誰かが7を引くまで相手全員の山札が一生自分の4倍のペースで吹き飛んでいくことになる。

 その他にも様々な有力無色を気軽にデッキに入れられるようになり、他キャラとかなり異なった面白味と強さを持ったプレイが可能になる。個性ナンバーワンのキャラだと言えるだろう。

 欠点は、初手に引いてしまった無色カードに色をつけられないこと。初めにカードが配られ、その後にスペル発動を宣言するルールになっている以上仕方がない。また、何らかの効果でスペル発動を封じられると、途端にデッキが無色だらけで厳しくなってしまう。またあがりの妨害や、直接的な山札削りも出来ない。

 しかし第二スペルは「自分の手札と山札の無色カード全てにランダムに色を追加」という効果になっている。これによって第二スペルさえ解放してしまえば、第一の欠点をほとんど克服出来てしまう。スペル単体で妨害や山札削りを成立させられない弱点はそのままだが、全キャラで一番夢のある人だと思う。

 

 ……というような感じだ。初めの頃はぬえを使って「勝てる、勝てるぞぉ!」とそれまでの鬱憤を晴らしていたが、最近はむしろ他キャラの第二スペル解放を兼ねて、ぬえと大妖精を使わずどこまでやれるか試している。イカれた性能のキャラがいるなら、プレイヤー側で自重すればいいだけなのだ。しかもCPUとしか戦えないし。

 もちろん戦法をデッキ破壊から通常のUNOに変えれば、相性の良いキャラも全く別なものになっていく。そういった面白さがあるので、長々と遊んでしまうわけだ。正直キャラ性能の差はかなり激しいが、単純な優劣ではない個性が豊かなので全然楽しめる。

 そういうキャラ性能の面も併せて考えると、やはり対人戦がいざ実現すればクソゲーが始まってしまうのでは……という気がするけれど、開発を放棄されたゲームに今以上を期待することは何もない。そういうところはかえって気楽でよかった。

 

 ……され、ぼくの書きたいことはこれで大体終わりである。本当はデッキ破壊デッキの採用カードを一枚ずつ解説したいけれど、さすがにここではやめておく。やるとしても別の作文として書く。

 付き合いのような気持ちでここまで読んでくれた人がいるなら、ありがとうとしか言いようがない。ぼくはその人に敬意を表する。たぶん内容はほとんど伝わっていないと思うけど、このゲームをおすすめしたいという気持ちだけは伝わったと思う。ぜひインストールしてみてほしい。

 仮に自分が、思い描いた通りのゲームが作れる能力を持っていたとしても、UNOを元にしてこんなにちゃんとしたカードゲームを作れる気が少しもしない。うのとれ!を作った人は天才だと思う。インストールしてもらって、その感覚を共有したい……!

 はい、本当に以上です。また別の作文で会いましょう。

 

 おしまい。

「エロ」と検索すれば、パンダがいた。

 性知識の歪みとは、エロ本やAV等の創作物から生まれるのだ。この世の中は、フィクションをフィクションだと理解できないような、馬鹿な男たちばかりが蔓延っている……!
 ……なんていう話が、半ば常識のように扱われている昨今。そんなことだから、表現規制という話も出てくる。フィクションをフィクションだと理解できないのなら、そもそもそのフィクション自体を無くしてしまえばいい、という流れだ。
 全ての男が賢く、なおかつ紳士であったなら、エロに対する表現規制の波は今ほど大きくなかっただろう。フィクションと現実を混同する男ばかりだから、今の流れがある。……が、しかし、その原因を全て「不健全なフィクションと、無知で馬鹿な男たち」のせいにするのは、それは違うと思う。
 そもそもなぜ男たちは正しい知識を持たず、フィクションを信じるのか。それはフィクションしか見る物がないからだ。学校でセックスの作法でも学ぶのか? そんなわけがない。ではどこで正しい知識とやらを学ぶのか。そう、そんな機会はどこにもないのだ。
 学ぶ機会がないことは、何も男に限った話ではない。しかしエロ本やAVは大抵男性向けの物で、つまり男性に有利な内容として出来ているから、それを現実と混同してしまった場合に割を食うのは、いつも女性の側なのだ。だから男の無知ほど叩かれる。
 しかし、いくら表現規制を強めたって、無知は改善されない。間違った知識を持つ状態から、何の知識も持たない状態に移行するだけで、表現規制が人を賢くすることはない。無知は無知のままだ。
 そんなやり方ではきっと、表現規制を望む人たちが考える「理想の世界」は、一向にやってこないだろう。性別に関わらず、今割を食っている人たちはきっと、引き続き不愉快かつ不都合な世界で生きることになってしまう。
 何も知らない者は、確率的に大抵失敗する。あらゆる失敗は、知っているからこそ避けられる。正しい性知識のために本当に重要なのは、不健全なフィクションの駆逐ではなく、正しい知識を学ぶ場の確立なのだ。
 話をその段階に持っていけない間は、今と同じように、みんながみんなお互いに、一生歪んだ性知識と付き合っていくしかない。
 ……なんていうのは、詭弁だ。正しい性知識を学ぶ場を用意することは、口で言うほど簡単じゃない。そんなことが出来るのなら、きっととっくにやっている。
 ぼくが高校の頃に受けた性についての授業、あるいは注意喚起の話を例に挙げる。その授業の内容には、保健体育の教科書に載っていることより、少し踏み込んだ物があった。
 クラミジアや梅毒などの、代表的な性病の名前や症状、治療法などを挙げて、結論として「危ないから、自分で責任を取れないうちは性行為をしないように」と締めくくる内容だった。……こちらも結論から言うと、その授業は、限りなく無意味に近い物だった。
 責任が取れる大人になれば、性病は危険でない物になるとでも言うのか。性行為をしなければ絶対に性病にならないというなら、そもそも最初の性病はどこからやってきたのか。責任が取れる大人とやらは、実際のところどのようにしているのか。……それら当然の疑問に何の説明もない、子供騙しの内容だ。しかしそれも、完全に無意味だったわけではない。
 実際、ぼくはそれがきっかけで、ネットでいろいろと調べた。その授業がなければ、調べようと思うことさえなかっただろう。結局性病がそもそもどこから来たのかは、一応の有力らしき説はあるものの「人類の謎」といったような扱いらしいことが知れただけで、特に生活の役には立たなかったけれど。
 それで何が問題なのかというと、その授業を受けていた時に、ぼくは「なんだかなぁ」という居心地の悪さを感じたことだ。不愉快とはいかないまでも、確かな居心地の悪さがあった。それが問題なのだ。なんとなく、人と聞くような話ではないように思えた、その感覚が大問題。
 ぼくはおそらく、そこらへんの男より性への興味が強い。なぜそう思うのかはあとで話すが、とにかく、そのような自覚を持つ男でさえ、性に関する授業に覚える感覚は「なんだかなぁ」だった。ぼくでこれなら、もっと強い抵抗を覚える人なんて五万といるだろう。
 正しい性知識を学ぶ場は必要だ。しかしそのために、生徒へ不愉快な思いをさせていいわけじゃない。そのジレンマの結果が、無難で無価値な性教育へと繋がっているのだとぼくは思っている。ちょっと踏み込んだ内容に手を出してみたって、大人の身に染み付いた無難さと無価値はそのままだ。
 そしてこのジレンマの解決策が、ぼくにはまったく思い浮かばない。教室というパブリックな場面で教わるのが嫌なら、プライベートな場面で学べるように教材なり何なりを渡せばいいのか? いったい何割の生徒が、それを真面目に見てくれるのだろう。読書感想文を真剣に書く生徒の数と、いい勝負になるんじゃないか。
 ほぼ全ての生徒に、不愉快な思いを極力させず、なおかつ有意義で正しい性知識を学ばせること。これは至難の技だ。どうすればそれが可能になるのか、ぼくにはさっぱりわからず、たぶん誰にもわからない。だからこそ現状の有り様だ。少なくともしばらくの間は、ほとんどの子どもが、性知識に乏しいまま歳を取って、やがて大人と呼ばれるようになるだろう。
 ただ歳を取るだけでは、精神的どころか、知識的にも成長なんかしないのに。



 ……ここからは、ぼく個人の話になる。ぼくは、フィクションを見ることで間違った性知識が身についてしまう、という考え方に否定的でいる。
 ぼくがエロ本を読んだのは、小学四年生くらいの時だったと思う。それはエロ本というよりも、父の買った青年漫画雑誌だったのだが、内容の過激さとしては、エロ本と言って差し支えない物まで載っていた。
 初めてそれを見た時は、何がなにやらわからなかった。何せ漫画には色がなく、そして色々なことがボカしてある。大抵のエロ漫画は、すでに事の真実を知っている人向けの描写だらけだ。
 だから当初、精液のことをおしっこだと思って見ていたし、おちんちんをお尻の穴に入れているのだとも思っていた。そもそも当時のぼくは女性器の存在さえ知らず、漫画からそれを把握することも出来なかった。女性の下半身には、自分の下半身から男性らしさを失わせただけの、ツルツルとした平面があるのだとばかり思っていた。
 そうやって、エロ漫画というある種のカルチャーショックを受けたぼくが、やがてネットでエロ動画を見初めたのも、たしか小学四年生くらいの時だ。両親とも家にいないことが多いので、ローマ字さえ覚えてしまえば「エロ」で検索をかけることは容易だった。
 ぼくは忘れないだろう、それで出てきた「エログちゃんねるニュース」というサイトのことを。サイトのトップには、なぜかパンダがいた。背景と同じ色の、ピンク色のパンダだ。気になる人は今からでも見に行ってみればいい。
 そこには、膨大な数のエロ動画があった。子どもにでもそれとわかる企画モノ、子どもからすればリアルに見えたレイプ物、今思えばマニアックな内容の物や、アニメやゲームなんかもあった。
 そのエロサイトをきっかけに、ひょんなことから「VIPPERな俺」というまとめサイトへ辿り着き、ぼくのオタク人生が猛烈に加速したこともあったが、その話はとりあえず置いておこう。当時そのまとめサイトを「ブイアイピーピーイーアールな俺」と読んでいた話も置いておく。
 ともかく、そのエログちゃんねるニュースというサイトでエロ動画を見ていくうちに、ぼくは賢くなっていった。「何やら白い液体がある」とか「穴が……二つある……?」とか、最低限の知識を得ていったのだ。
 けれどぼくは一度も、性的な用語について、単語でググって意味を調べることはしなかった。セックス、フェラ、ザーメン、マンコ。それらの単語が何を指しているのか、関連性だけで把握していった。
 セックスという単語が指している物は、おそらくこれのことだろう……という風に推測していく。そしてその推測たちは、あとになって思えば、全てが正解だった。それはそうだ、聞いたこともなかった単語たちに指されたものは全てが特徴的で、難しいことなど何もなかった。
 やがて、エロ本もネットで無数に見れることを知ったぼくは、それらを次々見ていった。ネットで無料で見れたということは、動画にせよ漫画にせよ、そのほとんどが法的に限りなく黒い物だったが、それについては許してほしい。
 とにかく、そうやっていろいろな動画や漫画を見た。どの単語が何を指すのか、関連性のみで把握していったので、初見の単語については、それを見て内容を察し避けるということが出来なかった。だからこう、マニアックな物にもたくさん当たった。
 そういう経験が、性癖を歪めるに至ったんじゃないのかと言われれば、それについてはちょっと反論しづらい。そうかもしれない……となってしまう。けれども、そういう経験が間違った性知識に繋がったかというと、それも違うと思う。
 無造作に選んだ、膨大な数の人間の顔を、全て合成していくと、最終的には無難で、どちらかといえば美しい顔になるらしい。フィクションから学ぶ性知識についても、それと同じことが言えるのではないか……とぼくは思っている。
 手当り次第に見れば見るほど、何が現実的で何がフィクション特有なのか、だんだんと真実に近づいていけるはずなのだ。観測範囲を偏らせなければ、人間は「中間」を見つけることが出来るのではないか。そしてその中間こそが、限りなく真実に近いのではないだろうか。
 両極端な内容を何度も見ていけば「どちらかが、あるいはどちらも現実的ではない」ということが、そのうち感覚でわかってくる。生々しく、現実に忠実であることを魅力としたフィクションだってそれなりの数があり、それを読んで得る知識はそこまで突飛な物じゃない。
 とにかく豊富なジャンルで、数を見ること。そうするうちにバランス感覚が身につき、性知識は自ずと現実へ近づいていく。もちろんそれは頭でっかちな知識でしかないのだけれど、初めてエロ本を見たぼくのような「何も知らない」や、偏った知識でフィクションと現実の区別がつかなくなることよりは、いくらかマシなように思える。
 フィクションの利点は多様性だ。多様だからこそ、かえって現実が見えてくる。表現規制なんかもってのほかなんじゃないか、とさえ思えるくらいに。フィクションも使い用なのではないかと思える。
 もちろん、エロに関するあらゆる創作が、全て現実に則していたら。教材としては、それほど優秀な物もないだろう。だけども現実的に考えて、創作がそんな扱いを受ける世界は来ない。それでは致命的につまらないからだ。創作という概念そのものがつまらない物になれば、その概念ごと消滅しかねない。
 面白くあること、それを通して現実が見えること。より良い世界のためには、その二点を必ず満たさなければならない。そこで重要なのが多様性なのだ。ぼくから見れば表現規制とは、誰も幸せになれない道への第一歩のように思える。
 正しい知識を学ぶ機会がないのなら、その機会を用意することが難しいなら、単語の意味を推測するみたいに、正しい知識を推測していくしかないのではないか。推測するためには材料が必要だ。ぼくは自分の辿った道が、ある種一つの正解のような気がしている。
 それに、インターネットは広大だ。興味さえあれば、いろいろなことを知ることができる。ほぼノンフィクションと呼べるようなエロ動画や、生々しいほどの現実が文章化した物まで、興味を持って探せばいつか見つかる。例えば、風俗嬢が今まで一番嫌だったプレイを挙げるスレとか。
 興味のままにいろいろ見ていくと、やがてエロから少し視野を広げた、性の話に繋がっていく。ぼくは、中絶の具体的な方法について書かれた文章を読んだことがあった。それは別に、医学的な物ではない。
 男の中のクソ共は、薬でも飲んでスッと中絶が終わるとでも思っているのかもしれないが、実際はこのような方法で行われているんだ、女性の心身への負担を考えろボケが、といった感じの憎しみ混じりの内容を読んだのだった。
 そういう文章に、エロについて探求していれば、そのうち出会う。エロへの探求は性の話に繋がって、そういうノンフィクションの文章に出会う時が来る。
 すると、彼氏が出来てわかったとか、被災しての避難所生活でわかったとか、いろいろなシチュエーションで「男ってこんなに無知なのか……」と失望する女性の話も、どこかしらで見つけて読むことになる。そういうことが何度も起こり、そのたびほんの少し賢くなっていく。
 それらの話は、ネットの海を泳ぎ回らなければ一生知れない内容ばかりだ。あるいは、身をもって知った時にはすでに手遅れである物ばかりだ。フィクションで興味を持つところから入っていけば、いつかそういうノンフィクションに目が向くこともある。そういう意味でも、フィクションから魅力を失わせることは、無知な男を減らす試みの、致命的な邪魔をしてしまうのではないか。
 ……という主張が、実際のところどの程度正しいのか、ぼくは自信が持てない。自分の経験を理由に主張をするなら、自分が多数派でなければ意味が無いんじゃないかと思う。けれどもぼくは、我ながら多数派には程遠いように見える。
 きっとみんな、ぼくのように暇なわけじゃない。現実を察知できるほどの数フィクションを見るなんてことは、ロクに学校も行かない引きこもりにしか出来ないことだったのかもしれない。
 読んだエロ本の中でも、ネットでエロを漁るにあたって、一日たりとも忘れたことがない物がある。漫画そのものというより、その中の台詞が一つだけ、ものすごく印象に残っている。せっかくなので、その一文を下に載せておくことにした。

「みんな働いてる時間だよ」

 ……やはり正しい性知識を学ぶことは、それを不愉快な思いなどせず、そしてまともに生きながら学ぶというのは、どうしても難しいことなのかもしれない。
 それにぼくは結局、あの日の授業で聞くまで、性病という概念に具体的にはたどり着けなかった。「性行為が原因でかかる病気があるらしい」ということくらいしか、思うままにネットの海を泳ぐだけでは把握しきれなかった。
 他にも、実際にやってみるまでわからなかったことは当然山ほどあった。しかしその「実際」を全ての人が体験するのは、おそらく不可能だろう。というか、不可能でなければ困る。主に倫理的に。
 何にせよ、少なくともエロや性に関して、あらゆる知識の調達法は、実践には遠く及ばない。ぼくの辿った「フィクションを数多く見る」という手法も、知識の調達法としては不完全だということだ。だからといって、何もしないよりマシなことに違いはないけれど。最善策でもない。
 いつか誰もが性に関して、正しい知識を持つようになる日が来るのだろうか。……そんな世界は、それこそフィクションの中でしかあり得そうにない。現状を見るに、そうとしか思えなかった。
 結局、実践以外では誰も、何も教えてくれないにほとんど等しい。顔を合わせる大人たちは、子どもたちのことを思えば、むしろ教えたくても教えられないのだろうけど。
 身の回りの大人も、画面の中のピンク色をしたパンダも、少しのことしか教えてくれない。だからみんな知らないことだらけ。ここはそういう世界だ。
 ……ぼくは最近、過激なプレイの危険性について、ちょくちょく知識を得ている。それも興味の行き着く先だった。けれど、初めてエロサイトを見てから、もう何年経った? 「あなたは18歳以上ですか?」の問いに、胸を張ってYESをクリックできるようになってから、さらに数年。今では飲酒も出来てしまう。
 そして、そんな今になってようやく、フィクションの危険性を理解してきたところがある。極論だが、動画撮影が終了したあとに出演者が死亡していたって、動画を見るだけではそれを我々は察知できない。
 何が安全で何が危険なのかを知るためには、コンテンツをただ見るだけではなく、そこからもう一歩踏み込んだ想像力と、ネットの力を駆使して正しい知識を得るための行動力その他が必要になる。……しかし、それが難しいことも確かだった。それは長い月日をかけたという事実でもって、ぼくが自分で証明してしまっている。
 だからといって、表現規制に賛成するようになったわけではない。何度も言うが、それは論外だ。何の解決にもならない、自暴自棄的な行為でしかないように思う。
 このあいだにじさんじの切り抜きを見ていた時に偶然、嘔吐を繰り返すことによる後遺症についてを知った。ツイッターで流れてきた漫画でも似たような知識を得た。知識は本当に、どこから来るかわからない。けれどその知識もまた、創作の多様性と、それへの興味が合わさって得られた物だ。
 けれどそうやって、隠しアイテムを探すようなやり方ではいけない気がする。最悪、自分に必要な知識を集めきる前に、寿命が来るのではないかという気がしてくる。
 誰かが天才的なアイデアで、この国の性教育をより良く、素晴らしい物へと変えてくれればいいのに……。と、どうもこの話は「それが出来れば苦労はしない」という内容ばかりになってしまうらしい。
 さて、そろそろオチを付けて、今回の作文を締めくくることにする。これが会話なら、オチがなくても価値のある例が山ほどあるのに、文章ではオチがないと宙ぶらりんな感じがしてしまうので困る。
 オチは、性癖の成り立ちについての話だ。ほとんどの人は性癖を、特に醜い性癖のことを「見てきた物の影響」で生まれると思っているんじゃないか。しかしぼくは、そうとも限らないことを知っている。
 数年前、我が家のPCが買い換えられたあとのこと。化石のように眠っている旧PCから、ぼくは父が保存したエロ動画(サンプル動画)を発掘した。驚いたのは、そこで目撃した性癖には、ぼくへの遺伝がそれなりに感じられたことだ。
 この世の性癖には、先天性と後天性があるんじゃないか……? そんな仮説を想像するに至った経緯も、興味があるから辿れたこと……つってね!

おしまい。





この作文は、こちらの記事がきっかけになって書きました。勝手に紹介していいのか分かりませんけど、せっかくなのでURL貼っておきます。
https://www.845blog.com/entry/2019/11/10/191111

Vtuberのセンシティブにまつわるセンシティブな問題。

 ぼくにとっては、ほとんど「Vtuberにじさんじ」なんだけれど、今回の話はもしかすると、にじさんじに限らずVtuber全体の問題なのかもしれない。
  Vtuberのセンシティブなイラストを描くにあたって、つまりエロ絵を描くにあたって、どの程度配慮が必要なのかという話だ。センシティブ(いわゆるエロ)についての、センシティブな(慎重さを要する)問題があるというわけだ。
 Vtuberには必ず「魂」と呼ばれる人、いわゆる中の人が存在する都合上、それは実質的に実在する生身の人間に、ジャンルで言えば三次元のアイドルに近い存在であると主張する声がある。
 少々話が逸れるが、しかしそもそも、生身の人間が関わっていないキャラクターなど、どこにもいない。アニメキャラの声は生身の人間が当てているし、漫画のキャラだって生身の人間が考えて、生み出されている。
 けれども現状、アニメや漫画のキャラに関しては、とても自由に二次創作が行われている。エロ絵も山ほど描かれている。一部に二次創作を禁止している作品、あるいは作者がいるが、それは全体からするとほんの一部だけの「例外」である。
 もしもVtuberに関して「実質的に生身の人間だから」という理屈で、エロ絵を描き堂々と公開することは悪であるとするならば、それは作者単位や作品単位の話ではなく、「アニメ」や「漫画」といったような、「Vtuber」というジャンル単位での話になる。実在する例のような「ほんの一部」とは、理屈の規模がまるで違うわけだ。
 キャラクターの構成に生身の人間が一切関わっていない例は存在しない。しかしアニメや漫画のキャラクターに「生身の人間だからエロは不適切」と言い出す人たちもいない。そういったキャラクターとVtuberの違いは、いったいどこで生まれているのだろう。
 これは、Vtuberというまったく新しいジャンルの生んだ問題である。何が問題なのかというと、Vtuberは唯一、二次元の見た目と、三次元の人格が直結しているコンテンツだということだ。
 いくら声優が魂込めて声を当てたって、その声優の人格とキャラクターの人格がイコールで結ばれることはない。影響を受けることくらいはあるかもしれないが、イコールにはほど遠い。
 いくら漫画家が小説家が、心血注いでキャラクターを作ったって、そのキャラクターは作者の人格とイコールにはならない。近くなることはあっても、イコールにはならない。寸分違わず自分とまったく同じ人格のキャラクターを描き、なおかつ物語を成立させるなんてことは、不可能のはずだ。
 しかし、Vtuberは違う。彼ら彼女らは、与えられた台本を読んでいるわけではない。大まかな流れこそ決まっていても、細かい部分はほとんどが即興だ。そういう意味では、Vtuberの配信というのは、声優のラジオに近いところがある。
 キャラクターに声を当てている時の声優は、ほとんど人格を持っていないだろう。与えられたキャラクターを演じることに徹している。アドリブだってあるのかもしれないが、それはほんの一部の例外だ。
 これがラジオでは違う。ラジオで見せる声優の人となりは、それが外行き用の仮面だろうと、本心から来ている素だろうと、その人の人格そのものだ。誰に与えられたわけでもない、その人の「生身の人格」なのだ。
 その理屈で行くと、Vtuberはほとんど生身の人格で出来ていることになる。いや、それとももしかして、これはにじさんじ限定の話なのだろうか。
 少なくともにじさんじには、運営が用意した形ばかりのキャラクター設定がある。しかし実際は、委員長だとかエルフだとか、そういう「役職」の部分だけを起用して、性格の部分は設定ガン無視の、本人の人格ほぼそのままである場合がほとんどとなっている。
 そしてそのにじさんじも、今や3桁に迫る大所帯。しかもチャンネル登録者数10万以上の配信者がゴロゴロいる。仮に生身の人格を使ったVtuberにじさんじだけだったとしても、とても「例外」として無視できた規模ではない。
 生身の人格を使うVtuberとは、具体的にどんな物か。にじさんじの代表とも呼べる一期生、月ノ美兎がその最たる例だろう。設定は清楚な委員長キャラだって言ってるのに、配信開始時の「起立! 礼!」のような申し訳程度の委員長感を出したかと思えば、次の瞬間にはムカデ人間の話をし始める。他にも、子どもの頃に雑草を食す雑草ソムリエになってた話だとか、奇天烈な内容ばかりが繰り出される。それが本人の人格でなくてなんだと言うのか。
 そんなノリの人が代表だったからか、あとに続く後輩たちの9割方は、生身の人格で立ち回るようになっていった。真剣にキャラクターをロールプレイしていると、むしろ珍しがられるほどの事態になっている。だからこそ、そうやって生身の人格が宿る存在だからこそ、エロ絵について賛否が分かれることになっているわけだ。
 仮に実在するアイドルのエロ絵を描いている人がいれば「おいおい、大丈夫かよ」とぼくも思う。キャラクターではなく、声優本人のエロ絵を描いている人がいても同じことだ。
 そういうわけなので、Vtuberは見た目が二次元だけれども、生身の人格を持った存在だから、実在するアイドル等と同じような裁定が下されるべきではないか? という意見があるのだ。……けれども、これにぼくは少し思うところがある。
 実在アイドルのエロ絵を描くと、それは当然そのアイドルの見た目が描かれることになる。人格も同時に表現として描かれるだろうが、見た目が本人に似せられることは間違いない。仮に声優のエロ絵があったとしても同じだ。本人の人格と、本人の見た目に似せられた絵が描かれることになる。
 が、Vtuberはここが違う。人格は実在する生身の本人に似せて描かれたとしても、見た目は二次元のフィクションになる。決定的に違うのはそこだ。いくらVtuberが生身の人格とそのままリンクしていたって、描かれる絵の見た目……つまり容姿に関する部分は、人格の持ち主とは似ても似つかないフィクションとなる。
 そう、Vtuberとは史上初の、フィクションの見た目と生身の人格を持つ「半ノンフィクション」の存在なのだ。そんな例は今までどこにもなかった。いや、あることにはあったが、それがここまで人気になることはなかった。
 フィクションの見た目と生身の人格を持つ過去の例としては、歌い手のアイコンや、漫画家の巻末コメント欄に載るタイプの自画像などがあった。それでエロ絵を描いた人が今までいたか? ぼくは見たことがない。絵描きたちがセンシティブな領域に入った例は、きっとVtuberが初めてだ。
 だから話がややこしくなる。エロ絵否定派の人は「Vtuberは生身の人間に等しいから」と言うが、しかし考えてもみてほしい。生身の人間は、みんな生身の見た目を晒しているじゃないか。あるいはまったく姿を晒さず、フィクションの見た目さえ用意せず忍んでいるじゃないか。
 見栄えの良いフィクションの見た目を用意しておいて、それで客を引いておいて、いざとなればいけしゃあしゃあと「生身の人間扱いしてください」というのは、ちょっと虫が良すぎると思う。自分の都合で大人と子供を使い分ける高校生みたいで、ぼくは納得がいかない。
 けれども、見栄えのいいフィクション……という部分が、オタクという生き物の悲しさを抱えているのも事実だ。
 Vtuberには前世がある。前世とは、Vtuberとしてデビューする前にネット上で行っていった、中の人の活動のことである。
 Vtuberの前世が、ゲーム実況者であるケースは多い。なぜ実況者たちはVtuberになったのか。簡単な話だ、そっちの方が多くの人に見てもらえるからに決まっている。あるいは金の話も絡むのかもしれないが、Vtuberデビューした結果、前世と比べてツイッターのフォロワー数が10倍になった人の例を知っている。少なくともにじさんじの人気Vtuberたちは、みんなそんな感じだろう。
 10倍の例として挙げたその人は元々、ぼくも何度か動画を見たことのあるゲーム実況者だった。なんならニコニコ超会議に行って、本人の姿を生で見たこともある。もちろん数字の変化には単なるVtuberパワーではなく、にじさんじというブランドの力も多大にあったのだろうけど、残酷な話だなと思った。
 Vtuberたちはオタクのことを笑っているんじゃないか。あんたたちの好きそうな「絵」を用意してやったら、途端にこれだ。単純なやつらだなぁ、と。
 実質的に、見栄えの良いフィクションを用意させてしまったのは、そんな風なオタクたちだ。ぼくを含む単純で馬鹿なオタクたちだ。そういう意味では、Vtuberというジャンルが丸ごと、オタクの愚かさを証明した負の遺産であるとも言える。
 Vtuberは生身の人間だから……なんて虫の良い話をする、識者を気取ったオタクがかなりの数現れたことも、負の遺産の一部なのかもしれない。そんな単純な話ではないのだ。まさに本来の意味でのセンシティブ、慎重さを要する問題。我々はまだ、Vtuberとエロ絵にまつわる問題について、正解を知らないはずだ。
 ただ、愚かなのはオタクだけとも限らない。にじさんじの中でも、そうでないVtuberでも、「エロ絵は望ましくない」とはっきり口にした人が何人かいる。ぼくはその人たちのことが気に食わない。
 作品単位で「エロは禁止」とされる場合、その理由は「作品の雰囲気を脅かすため」とされることがほとんどだ。エロどころか二次創作を禁止にする場合は、作品のためという理由の他、「作者である私が見たくない」という作者単位の例も見かけたことがある。
 これはあくまでぼくの観測範囲でのことだけれど、「エロは禁止。なぜなら私が見たくないから」と明言した作者、あるいは作品の代表者を、ぼくはまだ見たことがない。けれどそれで然るべきだと思っている。逆に言えば「エロを禁止するなら、二次創作そのものを禁じる」という姿勢こそ、正しいものだと思っている。
 エロは望ましくない、その他の二次創作はオーケー、理由は私がエロは見たくないから、その他の作品は見たいから。……なんてことをのたまったVtuberがいるのだ、信じられないことに。もう一度言うが、ぼくはそれが気に食わない。
 私が見たいものだけをよこせなんて、傲慢もいいところだ。全ての二次創作者が、元ネタを生み出した人(作者や、Vtuberの魂)に喜んでもらうことだけを目的に、二次創作をしているとでも思っているのか?
 望ましくない、なんて言い方をしても、そんな細かな言い換えは無駄なことだ。実際馬鹿なオタクたちには効果を成さない。厄介オタクたちは、嫌だって言ってるんだからやめなさいよと、ネットの海を泳いではイチャモンをつけにいく。
 仮にアイドルや声優その他、あらゆる生身の表現者のうち誰かが「否定的な意見は聞きたくありません」と明言したとすれば、その時も「嫌だって言ってるんだからやめなさい」とでも言うつもりなんだろうか。そうだとしたらいよいよ救えない馬鹿だ。そうでなかったとしても、二次創作だってそれと同じだと気付けない時点で相当厳しい。
 これが「否定的な意見は聞きたくない」ではなく「私は人の感想を耳に入れないようにしている」だったら、気難しい人だなとは思っても、それでその人が何も支障なく、表現者としての働きを上手くまっとうしているならば、何も文句を言うべきところはない。というか、文句の言いようがない。「二次創作は全て禁止」とすることに、人格的な問題がないというのはそういう話だ。
 しかしまぁ、オタク界隈にはおなじみの「嫌なら見るな」という理屈があるわけで。実際気に食わない人格のVtuberは見なければいいだけなので、ぼくだって何も困ってはいない。二次創作はエロ絵に限って望ましくない旨を発言をしているVtuberの数なんて、全体に比べれば例外のようなものだ。
 というか、二次創作者はそんなことでは止まらない。創作意欲はその程度じゃ止められないらしい。事実、望ましくないと言っている人たちのエロ絵だって、結局描かれている。探せばすぐ見つかる。
 最近、それを本人に観測されないため(外野に怒られないためと、本人を悲しませたくないため、両方の意味があると思われる)に、推しであるはずのVtuberツイッターでブロックした絵描きが、ちょっと話題になったくらいだ。コンテンツが大きくなればなるほど、二次創作は止められない。
 エロ絵否定派のVtuberたちはVtuberたちで、人格としては傲慢でありながらも、権利としては何も逸脱していないのでその点としても問題がない。嫌な物を嫌だと言って何が悪いと言われればそれまでだ。元々Vtuber単体に「〇〇は禁止」なんてことを強制させる力はない。言いたいことを言い、その結果どうなるのかが本人たちの責任であって、それ以上のことは何もない。
 けれどそう考えると、「自分のことに関して、やめてくれと言う権利」でさえ、実際の行動を止めるには至れないと考えると、権利の主張というのは、どうも非常に難しいことのように見える。思えば人権でさえカタログスペックを発揮しきれない場合がほとんどなのだから、当然といえばある意味当然なのだけれども。
 ところで、Vtuberとエロ絵の問題によく似たことが、他のケースでも起こっている。特撮のエロ絵だ。これは意外にも結構な数が実在する。わざわざ特撮と限定しなくても、ドラマなどのエロ絵と言った方がいいのかもしれないが、今のところぼくが観測したのは特撮のエロ絵だけだ。逆に言えば、狙って探さなくても目に入ることがあるほどメジャーらしい、ということになる。
 特撮はVtuberと真逆の話だ。生身の人格は無いが、見た目が生身の本人になっている。これについては正直、本人たちがお願いだからやめてくれと言い出しても仕方がない……という気がぼくはしている。
 というのも、所詮「絵」は「絵」だ。絵やそのまわりにある台詞等の表現から伝わる情報のうち、「見た目」と「人格」、どちらがより多く、見る側に伝わるだろうと考えれば、当然見た目だろう。
 それが絵である以上、見た目の要素が大きいことは否めない。見た目と人格のどちらかを生身にしなければならないなら、エロ絵を描かれてよりつらいのは、見た目が生身の方だと思われる。
 が、それが問題視されている場面を、少なくともぼくは見たことがない。Vtuberオタクの方が特撮オタクより多いから、ということがその理由なのだろうか? おそらく違う。そもそもどちらが多いのかなんて知らない。
 Vtuberのセンシティブを問題視する声が上がったのは、生身の人格がコンテンツとしてすぐ表に出てくるからだろう。仮に役者が「自分の演じた役で18禁絵を描くのだけは本当に勘弁してほしい」と明言したとしても、コンテンツである特撮本編だけを見ていれば、視聴者がその声を目にする機会はない。Vtuberはコンテンツだけを見ていても、中の人の主張を自ずと聞くことになる。そういう違いが影響しているのではないかと、ぼくは考えている。
 そう考えると、Vtuberには「生身の人格のコンテンツ化」によって起こる問題が多い。エロ絵については、馬鹿なオタクがはびこることと本人の声が届きにくいこと、どちらが悪いと考えるか各々の自由なところがあるが、ひとまずはそれ以外のことについて話そう。
 例えばVtuberには「魂やその前世について話すことはタブーである」という風潮がある。これはあくまで「※本人の前で」が文頭に付く風潮なのだが、たまにどこで話していても「そういう話やめろよ」と言い出す輩が湧いてくることもある。
 文頭の米印付きなら、理屈としては至極真っ当な風潮だと思う。生身の人格がむき出しだろうと、せっかくキャラクターとして楽しんでくださいと向こうが用意してきてくれているのだから、それに乗っかった方が楽しいに決まっている。おそらく、これに乗れないことを無粋という。
 しかしある話題では生身の人間云々で理論を展開しながら、別の話題ではキャラクターをキャラクターとして扱うことの大切さを説くなど、まぁオタクというのはそういうものなのだが、ぼくもそのオタクの一員だ。
 キャラクターをキャラクターとして楽しむことの大切さを否定する気はない。けれども、ぼくは魂や前世についてめちゃめちゃ興味があるし、どんどん調べるタイプだ。そしてもしも前世を知り、さらにはそれが既に知っている人物だった場合、ぼくはそのVtuberをキャラクターとしては見れなくなる。が、それでいいと思っている。
 アンチスレと呼ばれる場所の住人がよく魂の情報をリークしていることから、ぼくのようなタイプはファンどころか、むしろ限りなくアンチに近い存在なのかもしれない。けれど、冷静になってみてほしい。どう足掻いたって、美少女Vtuberを隔てた画面の向こうには、実在する女性がいるんだぞ?(もちろん例外はある。ねこます、のらきゃっと、バ美肉系列など)
 揺るぎない現実として、フィクションの見た目と生身の人格(それと声)を持つ「半ノンフィクション」と呼べる存在に、オタクたちが「かわいい〜」とか「かっこいい〜」とか「好き〜」という言葉を投げかけては、画面の向こうにいる「完全ノンフィクション」の人間が、それを半分は自分への言葉だと認識した上で、その関係を良しとしている。オタクたちが何を言っても、その現実だけは変えられない。
 一部、下ネタに寛容な女性Vtuberもいたりする。するとそれはつまり、フィクションの見た目というクッションがあるとはいえ、下ネタに寛容な女性が画面の向こうに実在していて、しかも視聴者と生配信でダイレクトにコミュニケーションを取っていることになる。
 この事実は、これはもはや、FC2のニュアンスでほぼ新手のライブチャットと呼べてしまうんじゃないか……? オタクたちは古のニコ生や萌え声生主なんかを馬鹿にするけど、やってることはそんなに変わってないんじゃないか……?
 画面の向こうに生身の女性が実在しているのに、エロの意味での「センシティブ」という言葉が流行語のように扱われ、エチエチコンロだのエロ(江戸)時代だのエッッッッッッだの、そんな風な言葉がコメント欄を平然と飛び交っている時点で、なーにが生身の人間が云々だ、馬鹿じゃねぇの? という気がしてしまう。そんなコメントの飛び交う配信主体のVtuberは、もうとっくに性的コンテンツに片足突っ込んでるんだよ。
 既存の表現者たちの焼き増しである「Vtuber」という概念を生み出したこと、あるいは存続させたことは、オタクたちの責任だ。しかしそんな焼き増しコンテンツでも、アイドルのように「箱」という概念が生まれて、Vtuber無しではあり得なかった利点も生まれている。それはいい。素晴らしいことだ。
 しかし、エロとしての二次創作が増えていくのは、それはオタクだけのせいか? これも全部、ちょっと喜びそうなことをすればすぐ数字になる、単純でちょろいオタクたちのせいなのか? 数字のためならなんでもありか……?
 Vtuberとしてデビューする時点で、あるいはにじさんじに所属するという時点で、もはやエロは嫌だとか言っていられる状況ではない節がある。そういう意味ではもう既に、にじさんじは腐りきっている。なにがてぇてぇ(尊い)だよキモオタども。とんでもない抜け穴見つけやがって。不健全コンテンツと言われても、現状では微妙に言い返せないぞ。
 もちろんわかってはいる。仮に生身の人間が顔を出せば、みんなそこまで下品なコメントはしない。一部より精鋭化したやばい変態は現れるだろうけど、今「エッッッッッ」と言っているオタクたちは、別に良識がないわけじゃないのだ。
 フィクションの見た目というクッションがあるからこそ、配信する側もいろいろ許容出来ることがあるはず。しかし視聴者側の平均も、そのクッションがあるせいで、性的にハメを外してしまっているところがある。そしてそれは二次創作にも影響する。というか、クッションのせいで二次創作がある。そのクッションがなければそもそも流行りはしなかったわけだが……。
 ……という風に、Vtuberは問題だらけのコンテンツだ。もしヒカキンレベルで一般に知れ渡ったとしても、子どもにVtuberを(あるいはにじさんじを?)見せたがる親は現れないだろう。
 しかし、面白いかどうかで言えば、Vtuberは間違いなく面白いとぼくも思う。ぼくも馬鹿なオタクの一人だ。わかっていても見た目に釣られ続けている。そうするために作られた、フィクションの見た目一つにほいほいと。不健全だったからなんだとも思う。誰に迷惑かけているわけでもないし、面白さが全てだろう。
 しかし、Vtuberというジャンルにおいて、あるいはにじさんじという箱において、「自分はファンである」と言い切ることは出来ない。かといって、「自分はアンチである」と言い切ることも出来ない。好きなVtuberは好きだ、それに間違いはない。……ひょっとすると、アンチってみんなそんな感じなのかもしれないけど。
 調べてみたら、にじさんじは現在総勢98名が所属しているらしい。秋元康プロデュースのグループ約二つ分だ。いくらなんでも多すぎる。手当り次第に増やしすぎな運営のやり方が、ぼくは気に食わない。非常に気に食わない。にじさんじ所属の中で、一度たりとも動画を見たこともなければ、名前も覚えてないような人だって確実にいる。けど、98人だぞ? さすがにぼくが悪いわけじゃない。
 Vtuberを見るのは楽しいけれど、いつかこのバブルのような状況が崩壊してしまえばいいとも思っている。こんなブーム終わってしまえばいいと。
 楽しかろうとVtuber負の遺産Vtuberがなければ、にじさんじがなければ、存在しなかっただろうキャラクターとそのイメージが、数えきれないほどある。それらの条件でなければ見れなかったであろう、面白い場面も山ほどある。既存のミュージックビデオを元ネタに、にじさんじパロディが描かれた動画を見た時なんか心が踊った。だからやっぱり、好きという気持ちは、嘘ではないんだと思う。
 けれど、今回話しきれなかった理由等も含めて、ぼくは胸を張って「素晴らしいコンテンツだ」と言う気には、どうしてもなれない。
 案外、アンチはみんなそんな感じなのかもしれない。

ボンバーマンR、それは家族で遊べる唯一のコンクエスト。

 ボンバーマンR(以下R)というニンテンドーSwitchのソフトがある。我が家(ぼく、弟、父、母の4人)が過去にボンバーマンで遊んだのは、ボンバーマンランドwii(以下wii)が唯一だった。だからボンバーマンの歴史はロクに知らない。
 しかし、wiiの頃の楽しさを求めてRを買うと、次世代機のはずなのに大幅ボリュームダウンしていてガッカリしたものだ。グラフィックの向上と引き換えに、以前は3つもあった対戦ルールが、たったの1つになっていた。
 我が家はゲームが苦手な母&弟と、実力並程度のぼく&父に大体二分されている。しかしRに残されたたった1つのルール、「最後の一人になるまで生き残れば勝ち」というバトルロワイヤルルール(勝手にそう呼んでる)では、実力差がはっきり出すぎてしまい困っていた。
 wiiにはスタールールがあった。ステージに散らばる星型の得点アイテムを拾い集め、制限時間終了時に一番多く星を持っていた人の勝ちというルールだ。バトルロワイヤルに比べると、このルールは実力差がいくらか緩やかになっていた。
 なぜスタールールなら実力差がマシになるのか。それは「爆死してもスターを吐き出してしまうだけで、また復活できる」というルールの存在が大きい。いやあえて言おう、その仕様が大きすぎる、偉大すぎる。我が家には、もはやそれが必須だった。
 バトルロワイヤルルールでは「生き残れば勝ち」、逆に言えば「一度死んだらそこで終わり」となる。厳密には復活チャンスもあるのだけれど、チャンスの期待値は渋い。一度のミスが致命傷になるので、ゲームが苦手な人には厳しいルールだった。
 しかしスタールールにおいて、我らがボンバーマンは不死身。ボンバーマンは皆、制限時間の許す限り何度でも蘇るさ。その不死身が下手っぴに嬉しい。そしてさらに「死亡するとペナルティとして、持っていた星をステージ上にばらまいてしまう」という要素がある。これがスタールールのミソだった。
 何度も死に、そして蘇ったボンバーマンは、もはやすっからかん。星など持っていやしない、カイジなら地下行き待ったなしといった状態になる。しかし、ということはつまり、他の生き残ったボンバーマンたちは、その分多くの星を蓄えていることになる。
 星に肥えたやつらの死は重い。少なくとも一度の死で、所持している星の半分は吐き出す仕様だ。すっからかんの奴らとは死の重みが違う。有利な状況であればあるほど、プレイヤーは「一発のリスク」を抱えざるを得ない仕組みになっているのだ。逆に言えば、不利な状況の人たちには常に「一発のチャンス」がある。
 この、常に逆転の可能性を残すシステムが、我が家にはピッタリだった。ぼくと父も別にゲームが超上手いわけではない。せっかく調子よく立ち回っていたのに、何度死んだかわからないへっぽこボンバーマンたちに、制限時間間近でうっかり爆殺され逆転されることもある。それが最高に面白かった。
 そのスタールールがRには無い。残されたのは(ほぼ)たった一つの命をかけたバトルロワイヤルだけ。失った物があまりにも大きい。……しかしRにもRの利点はあった。wiiと比べてステージの魅力が圧倒的に増したことだ。
 が、しかし。Rになってステージの個性が猛烈に増したのは嬉しいが、そのステージを解放するために必要な、ゲーム内通貨のレートが異様に渋かった。全然集まらない。遊んでも遊んでも集まらない。
 具体的には、一回遊んでもらえるのが300ポイントである一方、ステージ一つを出すのには4000ポイントも要求される。10連戦の激闘を超えたとしても、新ステージを一つも解放できないわけだ。ワーキングプアもいいところだろう。
 その他にR独自の物としては、特別な能力を持ったプレイアブルキャラクター……という新要素もあった。が、そもそもボンバーマンにキャラ固有の特殊能力を求めている人なんかいるのだろうか……? 格闘ゲームじゃあるまいし。
 そんなわけで、数々の理由が合わさり、ボンバーマンRはいつしか我が家で封印されていった。数あるソフトの下へと埋まっていった。……が、それを最近何かの拍子に取り出し、ちょっと遊んでみた。するとRに驚くべきことが起きていた。
 対戦ルールが増えている。一つしかなかった対戦のルールが、増えていたのだ。それはアップデートによるものだった。もはやネット環境のないゲーマーに人権はないと言わんばかりに、ルールは3つも追加されていた。そこには「クリスタル」と名を変えて、ほぼスタールールと同じ内容の物もあった。
 追加されたルールたち、クリスタル、チェックポイント、エスコートの3種類は、全てチーム戦専用の物だった。時々、我が家が3人家族だったらと想像してはぞっとする。プリンの数で争わない分ここで苦しめと言わんばかりに、ゲームは度々4人を推奨してくる。4人家族でよかった。
 さて、そういうわけで、ネット環境や人数など様々な「もしも」を想像しては震えながらも、もしもではなく「今」を見て、ぼく(とその家族)はウキウキ気分でクリスタルルールを遊び始めた。
 するとどうだ、思ったより面白くない。いや、ぶっちゃけ、限りなくつまらないに近いグレーだ。期待が大きすぎたわけではなく、普通に何かが、何かが足りなかった。
 何が足りないのか、何がダメなのか。その真相を突き止めるため、ぼくは過去作のスタールールと今作のクリスタルルールを比べて、その問題点と思われる箇所をまとめてみた。

・チーム戦になったことで爆殺対象が減少。しかもフレンドリーファイアがあるので、「自爆」に加えて「仲間の置いた爆弾で死ぬ」という、しょうもない死にパターンが増えてしまった。
・拾ったクリスタル数はチームでトータルされるものの、それとは別に「誰が、何個持っているのか」もカウントされるので、「敵チーム員」ではなく「敵チームかつクリスタルを多く持っている人」を爆殺しなければ、取られたクリスタルを奪い返すことが出来ない。
・チーム戦特有の要素として、敵を爆殺した際一時的に2vs1の構図となるので、散らばったクリスタルを拾う際有利になれる点がある。しかし同時に、スタールールにおける「漁夫の利」という醍醐味が失われている。
・以上の理由から、チーム戦としての面白みが皆無。

 要するにクリスタルルールとは、「殺しちゃいけない人」という概念が追加されたスタールールだった。そんな面倒な要素、面白いわけがない。
 仮にクリスタルが完全にチームの共有品となっていれば、爆殺すべき標的が増えると同時に、自分だけが生き延びればいいわけではないゲームとなって(ゲーム性的にどうなのかはともかく)一体感や独特な楽しみが生まれただろう。
 しかし現実は事実上の個人技だ。一人で拾い、一人で逃げればいい。味方がいくら爆散しようと勝敗には関わらない。
 一人でやればいいというのはスタールールも同じことだから、それ自体は悪いことじゃない。チーム戦でしか遊べないのに、チーム戦特有の面白みが一切ないことが問題だった。
 第三者が爆殺されて、大喜びでスターを拾いに行く様式美的な光景も消え去り、数的有利不利の概念がある関係で、スター拾いに夢中になって逆に自分が爆殺される……という様式美パターンも起こりづらくなっている。面白みがことごとく消されているのだ。
 ある種の不死となり、よつどもえになって命の代わりに得点を奪い合う。命もないのに殺し合う(言いたかっただけ)……そんなゲーム下手気味な人にもいくらか優しい「もう一つのバトルロワイヤル」だったスタールールに比べて、クリスタルルールは無駄に面倒かつ、妙なところで生ぬるい、ぼやっとしたゲームだった。
 ぼくは非常にがっかりした。四の五の言わずにスタールールを復権させてくれるだけでよかったものを……と。カービィのエアライドスマホゲームとしてリメイクされたらこんな気持ちかもしれないと思った。
 しかし、実はRに追加されたルールのうち、目玉と呼べる物はそれではなかったのだ。本題はクリスタルとは別にあった。
 チェックポイントというルールで遊んで、ぼくは驚きと感動を覚えることになる。それは一つの憧れを、ぼくの夢を叶えてくれる物だった。
 チェックポイント、それは陣取り合戦のルールだった。各所に配置された陣地を制圧することで、一定時間ごとに得点が入る仕組みだ。制圧の方法は、陣地の近くに居続けること。
 ぼくはそれとよく似たルールを知っていた。バトルフィールドというFPS(一人称視点シューティング)ゲームの、コンクエストというルールだ。あれもいくつかある陣地に近づき、居続けることで制圧して、自チームの陣地が多いほど時間ごとに勝利へ近づくルールだった。
 さらに知名度の高そうな例えを出すなら、少し違うがスプラトゥーンガチエリアがそれに近い。とにかく、そのような感じのルールが、気付けば突如ボンバーマンに実装されていた。
 ぼくは一人称視点だろうと三人称視点だろうと、シューティングが苦手だ。エイムが下手くそすぎるし、会敵すると冗談抜きで、どちらかが死ぬまでトリガーハッピーを起こしてしまう。はっきり言って向いてない。
 けれど今までの人生で、コンクエスト系のルールはシューティングゲームの中にしか見たことがなかった。だから、シューティングゲームで楽しそうに陣取り合戦している人たちを見ると、いつも羨ましくなる。自分もあんな風に楽しみたい……でも向いてないことを自覚している分野で努力するような根性もない……。
 そこに、チェックポイントルールが現れたのだ。それは単なる「ぼくでも出来るコンクエストもどき」ではない。「家族で出来るコンクエストもどき」だった。
 FPSを家族でプレイする家庭なんて、この日本に存在しているのだろうか。あれだけ知名度の高いスプラトゥーンでさえ、家族4人でそれぞれゲーム機本体とモニターを用意して遊んでいる例があるだろうか? いや、きっと無い。
 つまりコンクエスト系のルールは現実的に考えて、あるいはぼくにとって、家族で遊べる代物ではない。仮に家族で遊べるコンクエストもどきが既にこの世に存在していたとしても、ぼくはその存在を知らない。だとするとそれは、ぼくにとって存在しないこととほぼ同義だ。
 そこにボンバーマンRのチェックポイントである。コンクエストだ、自分にも出来るコンクエストだ。まぁなんとも、心が踊る……! こんなところで、こんな形で夢が叶うとは! クリスタルルールへの落胆なんか吹き飛んだ。
 しかし遊びながらも漂う一抹の不安。チェックポイントもクリスタルと同じく、何かが足りないゲームになってしまうんじゃないか。そう危惧していた。
 数分後、そこにはチェックポイントルールに熱狂する、ぼくの姿があった……!



 ……しばらく遊んでみて、わかったことがある。wiiのスタールールは我が家にとって、手放しで賞賛出来る素晴らしいルールだった。ある種完璧なルールだった。一方、チェックポイントルールも確実に面白い。かなり面白い。……けれども、まったく不満がない……というわけにもいかなかった。
 まず、チェックポイントルールの要点は、大体こんな感じだ。

・陣地に居続けることが制圧の条件、つまり制圧には「生き続けること」が必須。バトルロワイヤルほどではないにせよ、死は常に重い。
・しかし不死身でもあるので、やり直しのチャンスはいくらでもある。死ねば死ぬほど数的不利を背負う時間が増えて負けに近づくが、逆に言うとその不利は、死んだ分だけ敵を爆殺すれば取り返せる。死の重みは敵も同じだ。
・一度敵に制圧された陣地も、ゲーム開始時の「中立の陣地」と同じ要領で奪取できる。重要なのは「敵陣地に自分と敵がいた場合、自分側の制圧ゲージ(満タンになると制圧完了)が進行する」ということ。この仕様によって、陣地の所有権は目まぐるしく入れ替わる。

 ……バトルフィールドのコンクエストならば、陣地の範囲内に敵と味方が同数いた場合、制圧ゲージは敵味方共にストップする。誰かが死に、あるいはその場を離れ、どちらかの数が多くなった時、多数派となった側の制圧ゲージが進行を開始して、満タンになれば制圧完了となる。
 一方でボンバーマンは、自分が制圧対象の陣地の中に居さえすれば、敵が一緒にいようと制圧に支障はない。この仕様が醍醐味だ。頻繁に陣地の所有権が裏返るので、攻めこそが重要な激しいゲーム性となっている。
 というのも、敵を照準に収め引き金を引くことさえ出来れば確実にキルできるシューティングと比べて、時間差で起動する爆弾で動き回る敵を仕留めなければならないボンバーマンは、敵をキルすることに関して、プレイヤーの腕ではカバーしきれない難しさがある。どんなに上手くても瞬殺とはいかない。
 だからチェックポイントルールが守りに有利な物となっていたら、試合に動きが少なく盛り上がらない、非常にしょうもないゲームとなっていただろう。そうならなかったことをぼくは物凄く評価している。そして陣取り合戦というルール自体も、やはり普通に面白い。
 陣地を取るためにはそこに居続けること、つまり生き続けることが必要というのも、これまでのボンバーマンと一風変わっていて面白い。死ぬとまずいので逃げ回る、ということが出来ないのだ。チェックポイントルールにおいて、命は、あるだけでは意味が無い。命は、正しく使わなければならない。かといって死ぬことも論外だ。
 そんな「死ぬことは罪。何もせず生きても罪」という、おそらく「忙しさ」においてバトルロワイヤルを超えたと思われる新ルールは、かなり面白かった。大満足だ。しかしあえて不満点も上げようと思う。

・キャラ性能に差がある。
・ルール説明の不足。

 前者については、3種の新ルール共通のこととなっている。通常ルールにおいても「特殊能力の種類や有無」といった差はあるものの、それは設定でオフにできる上、それほど大きな物でもない。
 しかし新ルールのキャラ性能差はすさまじい。誰が優れているということではなく、「差がある」ということについて極まっている。
 まず初期能力が違う。通常ルールなら各自同じ条件で始まり、ゲーム中で拾えるアイテムにて能力値を強化していくことになるのだが、新ルールではそこから違う。そんな常識は通用しない。
 初めから爆風の大きいキャラ、爆弾をたくさん置けるキャラ、足が速いキャラ、アイテムを取って取得するはずの特殊能力を持っているキャラ……などなど、個性豊かな初期能力が設定されている。さらには「能力値」とは別に「能力上限」も決められているときたもんだ。
 全てのキャラが、大きく分けて「ゲーム開始時から強いけど、強化アイテムをあまり取得できない」と「ゲーム開始時は平凡だけど、強化アイテムでどんどん強くなる」の二つに分類されている。幸いにもまともなことに、能力値と能力上限はトレードオフの関係にあった。
 別に、そういう「差」があるからって、だから致命的につまらないというわけではない。明らかに強すぎるキャラがいるわけでもない。が、全員が平等なわけではないのだ。性能の強弱も少なからずある。
 そもそもボンバーマンに、キャラ性能を求める人がいるのか。いたとすれば、ぼくはその人とは趣味が合わない。ずいぶん前、マリオパーティ最新作におけるキャラ性能の差について、ここと同じ場所で長々と文句を垂れたこともあった。そこで今改めて言うけれど、ぼくはこの世に、キャラ性能の概念を持つべきゲームと、そうではないゲームがあると思っている。
 ボンバーマンは当然後者だ。ボンバーマンは、シンプルだからこそいいんじゃないか。むしろぼくはwiiからRになったことで、操作に必要なボタンが一つ増えたことにさえ若干否定的な立場でいるくらいだ。
 性能差というのは、格闘やシューティングなんかの、尖ったゲームにだけあればいいのだ。ああいう物はゲーム性そのものが尖っているからこそ、尖り方にバリエーションを付けた方が面白い。しかしボンバーマンマリオパーティは、ゲーム性の丸さが魅力だろう。
 丸さとはつまり、とっつきやすさのこと。性能差はその魅力を損ねるとぼくは考えている。まだマリオパーティと違って、明らかな強キャラがいないことが救いではあるが……。明らかな強キャラは、尖ったゲームでさえ褒められた物ではない。それが無いことは本当によかった。(まだ「それ」を見つけていないだけ、ということがないように祈る)
 しかし何よりも気に入らないのは、なぜ通常ルールでは「特殊能力なし」の設定が出来るのに、新ルールにはそういったON・OFF機能がないのかということだ。それさえ付けていてくれれば完璧だったのに……と、キャラ選択画面に来るたび思ってしまう。
 次の不満点は、ルール説明の不足。これは結構つらかった。問題なのは、ボーナス得点についてだ。
 チェックポイントルールでは、制限時間終了時にボーナス得点が入ることがある。が、その条件の説明が一切なく、一目見てわかる物でもなかったのだ。
 見てわかる確実なことは「自チーム陣地からボーナスが出る場合がある」ということだけ。この「場合がある」というのが曲者だ。ボーナスが出る時もあれば、出ない時もある。そこに何の差があるのか、初めはまったくわからなかった。
 まず父が最初に仮説を立てた。制限時間が尽きた時点で、最も新しく取得された陣地にのみ、ボーナスが出るのではないか……という説。しかしこれはすぐに、ボーナスの出る陣地が場合により一つだったり二つだったりしたことで、即座に否定されてしまった。二つの陣地がほぼ同時に制圧されてゲームが終わるなんて、そんなレアパターンが二度三度と出るはずがない。
 しかしその説が否定されると、ゲームプレイ中はいよいよ、ルールの把握について手詰まりとなった。まずいのは、ボーナスが「まぁいいか」では済まされないほどの高得点であること。これを把握せずして、ゲーム性も何もあったものではなかった。
 具体的には、時間経過や陣地奪取時には1点や2点がもらえるルールで、ボーナスは10点20点という具合だった。日給が1万2万という世界で、10万円のボーナスが理由も分からずもらえたり、かと思えば理由も分からずもらえなかったりした場合に、「まぁいいか」とは言えないことと同じである。
 この謎を解明するため、ぼくはyoutubeでチェックポイントルールの対戦動画を見た。正直「丸いゲーム」であるボンバーマンの対戦動画を、わざわざ上げてくれている人がいるのかは不安だったが、一応無事に見つかった。
 そしてそれを何度も見て、観察することで、一つの答えにたどり着いた。どうも、制限時間終了時に「制圧ゲージ」が出ていた陣地からは、ボーナスが出ないようだった。
 制圧ゲージとは、それが満タンになったら陣地を乗っ取れますよという印だ。当然、中立や敵陣地の近くにいるとそれが溜まる。しかし逆に言えば、というか普通に考えて、それは「最終的に溜まりきらなければ意味がない物」だとばかり思っていた。
 要するに、制限時間が来た時、敵が近くにいた陣地からはボーナスが出ない……ということらしい。たぶん、おそらく、見た感じではそのように思えた。この説まで否定されたら、今度こそもうお手上げだ。
 この説を正しいとすると、当然、これを知っているのと知らないのとでは、戦略に天地の差が生まれることになる。なのにゲーム中では、このルールについての説明が一切ない。本当に一切ない。まったく、これっぽっちもないのである。
 この際だから言うと、「陣地は近くに居続けることで制圧できる」ということさえ、説明はされなかった。我が家は「このゲームは陣取り合戦です。陣取りに成功するほど得点が入ります」という説明だけを受けて、それっぽい仮説とその実証で、ルールを把握したに過ぎない。
 あるいは、詳しいルール(百歩譲ってそう呼ぶ)は内蔵された電子説明書に書いてあるのかもしれないけれど、説明書を読まなければルールが把握できないボンバーマンを、ぼくは遊んだことがない。これはぼくがRを除くとwii一つしか遊んでいないせいだろうか……?
 何にせよ少なくとも、公式サイトと攻略wikiには、このボーナス得点についてのルールは載っていなかった。これで不満を持たない方がどうかしているとは思わないだろうか……? まるで詰めの甘いフリーゲームをプレイしているような気分だ。
 けれどそれらの不満点を除けば、チェックポイントルールのボンバーマンは素晴らしいゲームだった。だから本当に、惜しいのだ。昔みたいにキャラ性能を無くして(あるいはON・OFF機能を付けて)、ルールをちゃんと説明する。それが出来れば、それさえ出来ていれば、アップデートされたボンバーマンRは文句なしの神ゲーになれたのに。本当に惜しい。もったいない。
 チェックポイントルールに熱中するうちに、ゲーム内通貨もさすがにまとまった額が貯まってきた。まだ見ぬ個性豊かなステージの一つが、晴れて解放される日は近い。それが叶えば、それでやっと3つ目の新ステージだ。40戦以上戦って、ようやく3つ……。やり込み要素でもあるまいに!
 ともあれ、wiiと比べて明らかな強みであるステージが増えていくことで、Rの真の魅力が見えてくる……なんてこともあるのかもしれない。新ステージはバトルロワイヤルルールにしか対応していないが、もはやそれでも構わんと言えるくらいの魅力が、もしかするとそこにはあるのかもしれない。
 ……まぁそんな魅力に出会えたとしても、だとすればなおさら、ゲーム内通貨の貯まりづらさがクソなんだけどな! おとなしくチェックポイントで遊んどくわバーカバーカ。

ー完ー

キングクリムゾンはにんにくが嫌い

 ぼくは失くし物をすることが嫌いだ。そこにあるはずの物がなぜかない、ということに物凄く腹が立つ。

 普通に考えて、自分で自分の管理する場所に置いた物が、勝手に動いたりすることはないはず……なのに失くなる。これを理不尽に感じないという方がおかしい。理不尽かつ自分に不利益な目に遭えば、怒りも自然と湧いてきてしまうというものだ。

 ところで、昨日ぼくは危うく財布を失くしかけた。結局は見つかったからよかったものの、それに関してあまりにも納得できないことがあったので聞いてほしい。

 昨日は病院へ行った。すると受付で保険証を出してから問診票を書いて、問診票の提出と同時に保険証を返してもらった時には、財布がなくなっていたのだ。それはまぁ焦った。何せ自分は今から診療を受けるというのに、一気に無一文となったから。

 しかし、財布がある時突然きれいさっぱり消え去ってしまう……なんてことはあり得ない。消えたように見える財布も結局はどこかに隠れているだけなのだから、記憶をたどれば在り処がわかるはず。ぼくはそれまでの自分の経緯を遡ってみた。

 

・その1……朝、玄関で親から「病院代+ストック切れした柔軟剤の補充代=1万円」を受け取り、それを財布に入れて、財布はリュックサックの中に放り込んで家を出る。

・その2……病院到着後、受付が並んでいたことを確認した自分は時間を潰すために、ポケットからスマホを取り出す。その後受付の列が解消された頃合いを見て、スマホをリュックサックの中に放り込む。

・その3……スマホを片付けついでにリュックから財布を取り出し、そこから保険証を取り出して渡す。引き換えに問診票を受け取るが、その際受付カウンターに財布を置き忘れそうになり「あぶねっ」と財布を掴み取る。

・その4……椅子に座ってから財布をリュックの中に放り込み、問診票を記入。そのまま問診票は提出して、このタイミングで保険証が返ってくる。当然それを財布にしまおうとすると……リュックの中に財布がない!

 

 ……というのがこれまでの経緯だった。

 確実なのは、この経緯という名の「ぼくの記憶」のうち、どれかが間違っていること。そうでなければ財布は突然消えたりしない。いくつかの疑いを一つずつ解決していけば、理屈的には財布は見つかるはずだと言える。

「疑いその1……財布をリュックに入れ損ねた」

 まずこれが一番怪しい。財布をリュックに片付ける際、リュックの中に腕を突っ込んだわけではなく、放り込むようにした記憶があるからだ。

 記憶違いは「リュックの中に放り込んだ」というところで、実際は狙いを外し、財布がそこらへんに転がったのではないか。……ということで椅子の上と床を探してみたのだけれど、財布はなかった。待合室は広大というわけでもなく、見落としがあるとは思えない。

「疑いその2……受付のカウンターに置きっぱなし」

 置き忘れたところの記憶だけが正しく、それを掴んで回収した記憶が間違いな説。直前までスマホをいじっていたこともあり、「握る」という動作のみを共通点として、「スマホ」と「財布」が記憶中でごちゃ混ぜになっている可能性を考えた。

 カウンターの上を目視で確認、受付の人にも口頭で確認を取ったが、財布はない。有力説が二つも否定されて、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。

「疑いその3……リュックの中を見落としているだけ」

 そもそも財布はなくなってなどいない説。一度リュックの中の物を全て外に出してみた。……が、やはり無い。財布という物理的にそこそこ大きい物が、リュックの中をいくら探っても見つからないけど中身全部ひっくり返したら見つかりました!……なんてことになってくれるわけもないのだ。

「疑いその4……そもそも自分は財布を持ってきていない」

 疑い方もかなり苦しくなってきた。要するに自分は「経緯その1」の時点で、親とやり取りをしたあと玄関に財布を忘れてきたのではないか、という説だ。この説の場合、保険証は記憶と違い、実はスマホケースに入れていたと考えることになる。

 この説を信じるということは、「玄関で財布をリュックに入れた」「リュックから財布を取り出し、保険証を提出した」という二つの記憶が、どちらも間違いであったと考えるということだ。さすがにそんなことがあり得るのだろうか……?

 念のため家に連絡を入れたが、案の定玄関に財布はない。そりゃそうだと思いながら、まだ残っているはずの疑いを考え出す。

「疑いその5……ポケットの中」

 一応探った。あるわけがなかった。

「疑いその6……疑いその1が成立後、誰かに拾われた」

 残る可能性はこれくらいだとしか思えなかった。リュックに入れ損ねてそこらへんに転がった財布を、ぼくが焦って何度もリュックの中を確認している間に、誰かが拾ってしまったのではないか。……が、これも実際には考えづらい。自分の記憶さえ疑わざるを得ないような人間が、他人を疑うなんてちゃんちゃらおかしい気がした。

 そう、そもそもおかしいのが、自分の記憶を疑わなければならない点だ。強烈な精神疾患を持ち合わせているわけでもないのに、自分の行動を「忘れる」ならともかく「覚え違う」なんて、そんなこと起こり得るのだろうか……?

 数々の疑いが財布を見つけられなかったことから考えても、おそらくぼくの記憶は間違っていない。なのに財布は消えた。……これだから、失くし物が嫌いなのだ。むかっ腹が立つ。理屈に合わないことが起こり、自分が不利益を被る、しかも「親から金を渡された+病院の診察直前」なんていうタイミングで。湧いてくる怒りをどうすればいいのか分からない。

 結局は親を呼んで、ひとまず診察料金を払ってもらった。そして病院を出てから改めてリュックを確認することになる。……すると見つかった。財布が、あっさりと、秒で見つかった。

 財布はどこにあったのか。その答えが、これ。

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 白いレールのような部分がリュックを開け閉めするジッパーである。財布があったのはその中ではなく、指で広げている外側のポケット部分。真ん中がボタンで留められているポケット部分の奥底に、財布は転がっていた。

 つまりぼくはジッパーの中に財布を入れたつもりが、このリュック外側ポケットに放り込んでしまっていた……ということらしい。記憶違いはそこだった、疑いその1は惜しかった。

 と、分かってしまえばしょうもない話……なんてことにはならない。これを見てほしい。

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 赤いラインが入っているのが財布で、黒いポッチが一枚目の写真でボタンの留め具があった位置である。

 サイズ感から考えて、片手間に放り込んで中に入るようにはなっていない。ボタンで引っかかってしまう。しかし実際は奥底に財布が入っていた。

 放り込んだという記憶が間違いで、実際は押し込んでいた説がある。さすがに押し込みでもすれば、外ポケット部分にも財布が入らないことはないだろう。問診票の記入という次のタスクによって、財布を片付けるというタスクに十分気が回っていなかった可能性も妥当性がある。

 が、問題はそんな気の散った状態の「片手間な作業」で、外ポケット部分に財布を押し込めたのかという点だ。ご存知の通り外ポケット真ん中の留め具はボタン、あくまでボタンだ、縫い付けられているわけじゃない。けれど財布がそこから見つかった時、確実にボタンは閉じられていた。

 二枚目の写真にあるようなサイズ感の物を、気が散った片手間で、力任せにボタンを外しながら押し込んだのではなく、きちんと工夫して綺麗に中へ納めることが出来るのか? そもそもそれが出来たとして、なぜぼくはそれを「放り込んだ」と記憶しているのか。元々ボタンは取れていて、そこに財布を放り込んだあと偶然ボタンが留まった……というのはさすがに無理がある。マジックテープじゃあるまいし。

 気が散った状態の自分、言うならば半ばオートパイロットのようになってしまった自分が、繊細な作業をしつつ記憶を大きく違えていた……なんて答えを聞いて、納得できるわけがない。そんなことあるわけがない、と思いたいからだ。

 これが事実なら、ぼくは自分の記憶に一切確信が持てなくなる。「押し込んだ」と「放り込んだ」を覚え違えたら、もう何を覚え違っても不思議ではない、記憶に確信が持てなくなってしまう。その上オートパイロット状態の自分が思っているよりも高性能となると、いよいよ「自分が何をしたか」について断言できることが何もなくなってしまう。自分の行動の全てが「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」になってしまう。冗談じゃない、そんなことあっていいはずがない。

 しかし、これは「見つかったんだからよかったじゃん」と言ってくれた親にも言われたことだけれど、「そこに入ってたってことはそれ以外の答え無いでしょ」という話に、ぼくはまったく反論できない。無意識に上手く押し込んでいた……ということ以外、外ポケットに財布が入っていた理由を説明できない。

 結局、財布の騒動は現物が見つかったのでそれで解決……ということになったけれど、ぼくにとってこれは、手放しで喜べる話にはならなかった。

 

 

 

 ぼくが失くし物に腹を立てるのは、それが理不尽だからだ。自分の管理下において、そこにあるはずの物がない……というのは、この世の法則に反しているとさえ思う。魚が空を泳ぎ、樹木が歩いて喋るようなものだ、自分の管理下から勝手に物が消えるということは。

 この理不尽の正体がはっきりしていて、なおかつ悪質ではないのなら、まだ許せる。よく親にやられるのが「出しといたよ」というやつだ。ぼくが料理をする時に向こうは親切のつもりで、その時必要な食材を冷蔵庫の中から取り出して、台所なりテーブルの上なり、どこかしらに出しておいてくれることがある。

 けれども、ぼくにとっての失くし物は「「そこ」にあるはずの物がないこと」である。冷蔵庫に入っていたはずの食材が、冷蔵庫の中を探しても探しても見つからず、もしかしてぼくの知らないうちに使ったのかと聞くと、「出しといたよ」と言われると……正直、頭に血が上る。出しといたよじゃねーよ、余計なことすんな、という言葉を吐き出さないよう気を付けなければならない。「なんで出しちゃうかな」くらいは時々言うけれど。

 そういう例から理解してほしいのは、ぼくが嫌いなのはとにかく「そこにあるはずの物」が「そこ」にないことであって、物が消えてしまうことではない。食材の場合は結局すぐ見つかるわけで、物が消えているわけではないのだけれど、それとは関係なく腹が立つのだ。

 食材の場合、ぼくの言う「理不尽」は「親」ということになる。正体がはっきりしていて、悪意はないことがわかっているので、そこまでわかっていれば腹は立つものの、それほど大きな問題でもない。「また「出しといたよ」だな……」と察しがついたら本人に聞けばいいだけで、その都度の解決も簡単だ。問題と呼ぶほどのことじゃない。

 一方、財布の件に関して問題なのは、その理不尽正体が「自分」と判明していることだ。財布をなくしたのは「自分の無意識」や「自分の記憶違い」であって、理不尽の正体は他人ではない。おまけに、なぜそれが起こってしまうのかまでは不明ときている。

 そもそもぼくは大前提として「自分で自分の管理下に置いた物が、勝手になくなるわけがない」と考えているから失くし物を「理不尽」と呼ぶけれど、その理不尽の正体が自分ということになってしまうと、前提の方が崩れてしまう。自分で自分の管理下に置いても、他人の干渉無しで物は失くなることがある……となってしまう。

 そんなおそろしいことってあるだろうか?……というのが正直な感想だ。自分が信用できないって、そんなつらいことが他にあるだろうか。自己肯定感が低い人は「自分はダメだ。自分は出来ない」ということをある意味信用しているわけで、自分に対して自信ではなく信用がないというのは、かなりおそろしいことだとぼくは思う。

 そんな状態で今後を生きていくなんて御免だ。これからも油断した頃に度々物が消えて、なんとかそれを見つけ出せたとしても「なんでそうなったのかわからない、納得できない」+「それをやったのは自分だ」なんて事実を突きつけられ続けるのは、ぼくは御免被る。そんな理不尽と共には生きていけない。

 財布が失くなった際、病院の中でぼくは友人へ、この作文のように経緯を説明して「他に疑う余地あると思う……?」と助けを求めていた。ぼくには気が付かなかった見落としに、他人なら気が付くかもしれないと思ったのだ。最終的には友人の方としても「そんなの文章だけで分かるかよ」と言いたくなるだろう結果が残ったけれど、それはともかくその友人が言っていたことがある。

「自分は小さい頃そうやって親に教えられたから、失くし物を探す時は頭の中で「にんにくにんにく」と唱えながら探す。物を失くすのは魔女が物を隠しているからで、魔女はにんにくが嫌いらしい」

 その「魔女とにんにく」の話を聞いたリアルタイム当時では、夜に笛を吹くと蛇が出るとか、爪を切ると親の死に目に会えないとか、その手の呪術じみた話のようにしか思えなかった。

 しかしその後財布の在り処が判明すると、ぼくはその話を思い出して納得した。いかにも魔女の仕業だ、というふうに。もちろん魔女の存在を信じて、にんにく呪文の効果に期待するわけではない。ただ自分にとっての失くし物は、なるほど魔女の仕業と表現したくなるところがある……と、表現として気に入った。

 けれども魔女は自分の中にいる。時々出てきてぼくを困らせる。財布等の重要な物を隠して困らせるのもさることながら、自分の記憶に確信を持てないようにさせてくることが恐ろしい。

 しかし思い出してみると、そのようなことは今回の財布が初めてではなかった。最も印象的で、おそらく初めて記憶した「魔女の仕業」は、数年前、ぼくがアルバイトをしていた時のことだった。

 当時のぼくは、中古の服を仕分けるバイトをしていた。ぼくの所属する部署の人たちが、一般の人から売られ送られてきた服やアクセサリー等を種類ごとに仕分けて、仕分けた物を受け取った別の部署の人たちがなんやかんやして、最終的に値が付く物はネットで売られることになる。大量の服がジッパー付きの袋に入れられて倉庫内に腐るほどあり、それを地道に仕分けていく作業だった。

 中身が多くて袋がパンパンに張っている場合、ジッパーが勝手に開くことのないように、結束バンドでジッパー部分が固定されていることもあった。そしてその固定を解除するために、人数分のニッパーが作業台の上に置いてある。アクセサリーを入れるための「ジップロックの小袋」や「付箋の束」が入れられたペン立てのような物に、そのニッパーも持ち手を引っかけるようにして入れられていた。

 作業中、ある時先輩に言われた。

「あれ、ニッパーどこやったの?」

 見ると、ペン立てに引っかけているはずのニッパーがなかった。けれどその時ぼくはまだ、それを失くし物だとは認識していなかった。

 トイレなどで席を外している時もあったし、ニッパーが必要になるほど中身の詰まった袋をしばらく触っていなかったこともあって、ニッパーが消えたこと自体はそこまで不思議に思わなかった。近くで作業をしていた誰かが知らないうちにニッパーを借りて行って、今にも返しに来るのではないかと思っていた。

 けれども、仕分け終わって梱包された物(やがて次の部署へ運ばれる物)の中に、ニッパーが混入しているのではないかという話になり、一度全てひっくり返して調べることになった。

 この時ぼくは、それだけはないと確信していた。ニッパーを引っかけていたペン立てのような物は紙素材で非常に軽く、その中に入れていた物も「小さなジップロックの袋」や「付箋の束」といった軽い物しかない。仮にそこへ引っかけてあったニッパーが作業をする中で服に引っかかり、うっかり移動してしまったのだとしたら、ペン立てごと倒れるだろうと考えたのだ。

 軽い軽いペン立ては立っているし、それどころか初期位置から動いた様子もない。ニッパーほど大きな物が服に上手く引っかかって、なおかつ落っこちることなく別の場所へ混入するとか、作業中それに一切気が付かないとか、そんなことあるわけがない。……と思っていたところ、まぁお察しの通り、仕分け終えて梱包済みの袋の中からニッパーが見つかった。

 これについて「危ないからマジ気を付けてね」と言われたくらいでそこまで怒られたわけではない……という話をすると「信じられないくらい優しい職場だ」との感想を返されることが多い。実際信じられないくらい優しい職場だったとは思う。けれどぼくはあの時の自分が、一ミリも「悪いことをした」と感じていなかったことを覚えている。あの時のぼくにとって……いや今のぼくにとっても、あのニッパーは勝手に消えた物なのだ。

 あれから数年経って、病院で財布を失くした時、「あのニッパーだ」と思った。あり得ないと思ったことが起こる、そこにあるはずの物が勝手に消える。そしてやはり、最終結果を見せられても納得できない。「あ、そういえば!」「そうか、あの時!」という気付きや思い出しは、結果を見せられてもまるで自分に訪れない。「ほら、お前がやったんだ」と見せられても言われても、何度でも言うけれどそれは「勝手に消えた物」なのだ。

 魔女が消した、本気でそう思う。さらに、魔女がもしも「物を消す」のではなく「記憶を消す」ことをしていた場合、心当たりはまだ増える。

 一週間近く覚えていた約束を、約束の当日ど忘れする。帰ったら連絡するねと言って別れた相手に連絡することを、徒歩十分未満の道のりで忘れる。その他にも人の誕生日を覚えるのが苦手とか……いや何なら、駐輪場で番号を確認してから精算機まで歩くまでの間に、その番号を忘れたこともある。

 ホラー気味な話なら、友人から借りた本を失くして、いくら探しても見つからず「ごめん……!新しく買うから……」と謝ったところ、「何言ってんだよ、返してくれたじゃん」とその場で現物を見せられたこともあった。そのような例の数々から考えて、どうやらぼくは時々、深刻に様々なことを忘れるらしい。

 自分の記憶していることの「内容の確かさ」はともかく、そもそも「記憶する能力」が低いことは数年前から明らかだった。これが「数年前から記憶力が落ちた」のか「記憶力の低さを数年前にようやく自覚した」のか、どちらなのかはわからない。

 忘れると覚え違うでは大きな違いがある。駐輪場を例えに出すなら、番号を丸っきり忘れてしまうのが「忘れる」で、正しいと思って間違った番号を入力するのが「覚え違う」だ。忘れることについては自覚があったが、財布を失くした件で、ぼくは覚え違うことについてもポンコツなのかもしれないと思い始めることになった。

 心外なのは「興味がないから覚えないのだ」と言われることである。確かにぼくは妙なところで無駄に良い記憶力を発揮することもあるので、他人からすると記憶力の差が興味の差に見えるのだろう。けれど違う、どうもぼくはエピソードを記憶する力だけが優秀らしい。

 つまり「面白い話」を覚える力だけが高くて、その他がダメなのだ。「面白い話」ばかり覚えているから、興味の差が記憶力の差に見えてしまう。しかし考えてみてほしい、自分の自転車を回収するための番号に、興味がないなんてことあり得るか……? もちろん駐輪番号も人の誕生日も、努めて意識すれば覚えることはできる。だからといって皆が皆、日常のちょっとしたことを、努めて意識することによって覚えているとは思えないのだけれども。

 そこで、連想したのはキングクリムゾンだった。ジョジョの奇妙な冒険という漫画に、キングクリムゾンという名前の異能力が出てくる。それは「自分以外の人間が「キングクリムゾン発動中に起こった出来事」を認識できなくなる」という内容の物で、その能力を使用された側からの視点でもってキングクリムゾンは「時を飛ばす能力」と呼ばれていた。

 財布を失くした時は、まさにそのキングクリムゾンに被弾したような気持ちだった。ニッパーを失くした時も今思えばそうだ、時が消し飛んだような感覚だ。「物を失くした」という結果だけが残って、過程がまったく自分の中に残らない。現実を生きているはずなのに、異能力をくらっている気分なのだ。

 これははたして、よくあることなのだろうか。世の中の他人たちは、みんな時々キングクリムゾンをくらっているのだろうか。普通は失くし物が見つかった時、「あーそうだった!」と思うんじゃないのか。「なんで?」とはならないんじゃないか。そう考えてしまう。

 細かい記憶はしょっちゅう消える。何なら覚え違いも起こす。それが原因で仕事をミスすることもあれば財布を失くすこともある。……本当にみんな同じ条件で生きているのだろうか? ぼくは非常に疑わしく思っている。

 時を飛ばす魔女の力から逃れる方法は、呪術じみた「にんにく」以外まだ何一つ考案さえされていない。強いて言えば「常に油断しないこと」だろうか。……世の人間の大多数が、そうしているとは思えないけれど。

 みんな特に気を付けなくても、物も記憶も消えないんじゃないか。そう考えると、それ自体すごく腹が立つのだった。だってそれこそ、ぼくへの理不尽以外の何物でもない。