魔女たちの設定

 今まで書いた話の中で登場したキャラの設定と、そのキャラの中でまだ書いていない部分の設定を上げておきます。

 

・呪いの魔女 カナリア

……魔女狩りの冤罪で拷問の末に殺された女性たちの呪いから生まれた魔女。自身の出身地である村の中に限って、あらゆる不可能を可能にする魔法が使える。村の外では魔法が使えないことはもちろん、村の外に直接の影響を及ぼす魔法も使えない。

 恐怖をもって村人を支配し魔女狩りを廃止させた経緯があるが、根はそこまで悪人ではなく、むしろ善人。特に優しい心を持った人間には好意を抱きやすく、一人の少年を気に入ってからはその少年と共に多くの時間を過ごし、少年が成長したあとにはそのまま結婚して幸せに暮らしている。

 カナリアが生まれたのは現代から見れば数百年も前の時代になるが、魔女はもちろん彼女に気に入られた少年も魔法で不老不死となっているため、今もどこかにある「呪いの魔女カナリアが生まれた村」で二人は生きている。ただし姿を変えている可能性があるので、もはや部外者からは彼女らを判別することはできない。

 結婚後カナリアは姿を消したが、彼女のあとを継ぐ第二第三の魔女が登場したので、おそらく二人は姿を変えて一般人としての人生を楽しみつつ傀儡を用意して引き続き村を統治していると思われる。

 姿を変える前のカナリアは頭に山羊の角を生やしており、露骨に人外とわかる容姿の魔女というのは魔女全体で見ても珍しいものだった。ちなみに彼女の名前の由来は不明であり、生まれた時になぜか自覚していたという。

 

 

・無知の魔女 ウィズ(現名)

……大昔に封印された魔女。ひょんなことから現代日本によみがえり、以降は初めて会った現代人であるマコトという男性と共に暮らしている。封印される前から元々日本人で、よみがえってからの主な人生の目的は現代観光。封印される前の目的は面白いことを探すことで、特に人間に強く興味を持っていたのは現在と大して変わっていない。

 目の届く範囲に限りあらゆることを可能にする魔法を有しているが、その魔法を直接「知ること」には使えないという制約が付いている。呪いの魔女カナリアに比べると世界中どこでも魔法を使える代わりに汎用性は下がっていると言える。

 ウィズという名前はマコトが命名したものだが、封印前の彼女には別の人間が別の名前をつけていた。なぜ名前がコロコロ変わるほど多くの人間と付き合っていたかというと、彼女が基本的に「魔法で願いを叶えること」と引き換えに人間に近寄ることを生業にしている魔女であったからである。

 また「無知の魔女」の由来は、魔法で知ることのできない彼女が情報収集に一番多く用いた方法が「人に聞く」ことだったので、あれこれ聞かれてうんざりした誰かが「無知」呼ばわりしたことが始まり。

 また本来の彼女は広く動き回るために大きな権力や優れた経済力を有する人物に取り入ることが多いタチで一般とはかけ離れた世界に身を置いていた期間もあり、封印される以前には様々な体験をしていていろいろと経験豊富。現代で普通の大学生であるマコトと共に過ごしているのは慣れない時代だから適当に初めに会った人に取り入ったといったところであり、彼女が現代になれればターゲットも自ずと元の方針に戻っていくと思われる。

 典型的な魔女独特の倫理観の持ち主であり、たまに人間とは絶望的に意見が合わないことがある。「面白いことを探す」もしくは「現代観光」といった目的のためには人殺しもいとわず、今までに殺した人間の数も一人や二人ではない。しかし基本的には人間に友好的な存在だと言ってよい。

 彼女を封印したのは「協和勢、過激派」と呼ばれる一部の魔女集団で、人間との平和的な生活を望む協和勢過激派により危険と判断された彼女は封印されてしまった。しかしそもそも協和勢過激派が無知の魔女の「抹殺」ではなく「封印」に至った理由が「条件付きとはいえあらゆる不可能を可能にする魔法を秘めた魔女の力は膨大で、封印することが限界だった」というものであり、封印自体も比較的簡単に解けるようになってしまっていた。

 結局現代によみがえった彼女は初めて食べる食物たちに驚いたりするほか、

「魔法で現代の楽器を作り、魔法で分身してバンドを組み、魔法で撮影機器を作り動画を撮って、マコトにやり方を教えてもらって動画サイトに演奏をアップしてみたり」

 だとか、

「魔法でマコトの家から続く異空間を作り、その中で魔法で作った戦車を乗り回す。また分身して戦争ごっこをしてみたり」

 だとかして、自分の時代にはなかった技術を吸収しつつ人生を大いにエンジョイしている。ただしの作る物は全て「形だけ本物だが構造はでたらめ。しかしなぜか本物と同じように使える」という物である。

 元々肉体が死ねば思念体(幽霊のようなもの)になって依然活動を継続できる彼女は、魔法で人間の肉体を作ってそこに思念体を意識として同化させている存在である(つまり本来の彼女は人型でさえない)。魔法で「知ること」のできない彼女は医者のように人間の仕組みに精通しているわけではないので、彼女自身が見た目や触れた感じだけ本物の、なぜか動いているでたらめな存在となっている。そのため彼女にとって「魔法で怪我を治すこと」は「問題なく生きられるようにすること」であり、「元に戻すこと」ではない。

 思念体が本体である彼女には寿命がない。抹殺が困難であった理由もこの「生物学的な死が通用しない」点が主であり、魔女とて全員が不老や不死の能力を持っているわけではないので、イレギュラーな彼女を抹殺する手段はとても限られていた。

 児子消しという存在と知り合いであり、現代で再会している。その一件で現代においても魔女は滅んでいないことを「寝起き」といえる状態の彼女も知ったのだった。

 

 

・児子消し

……人間の子どもを食らうことを至上の娯楽とする存在。元々女性の体で生まれたり性自認が女性である「魔女」というカテゴリの存在と違って、児子消しの性別についてはかなり曖昧。そのため児子消しは厳密には魔女ではないと言えるものの、実際には魔女の生きる世界に比較的深く関わって生きている。

 人間の肉を一口咀嚼することで、その人間の存在を初めからなかったことにする能力を持つ。ただし食われた人間の体が消滅するわけではなく、能力の影響は児子消しと対象の人間以外にのみ作用する。対象の人間をAとした場合、児子消しとA本人を除いたその他全ての存在が「AはAである」ということを認識できなくなる能力だと理解すると話が早い。

 一口噛みつくだけで存在をなかったことにできる能力の都合上、児子消しの殺人行為はほとんど完璧な隠密性を有しており、少なくとも人間がその犯行に気付くことは絶対にない。一部の魔女などには能力が通用しない場合もあるので、その手の存在は天敵であると言える。

 児子消しが死亡した場合無知の魔女と同じく思念体となる。ただしこちらの場合は生まれる前の胎児の意識を乗っ取ることでしかよみがえることが出来ず、よみがえる際は必然的に表向き人間の赤ん坊としてこの世に生まれてくることになる。また、存在を抹消しつつ子どもを食うことと、生まれる前の子どもの意識を乗っ取ることの二つの特徴が「児子消し」の名の由来になっている。

 子どもの姿でいることが一番子どもと接触しやすいと考えているので、ある程度成長すると自殺を選択することもある。女性として生まれてきた場合は成長したあとも子どもと接触できる機会が男性よりも多いので、自殺する場合は男性として生まれてきていた時に多い。

 また、一応その気になれば子ども以外の人間も食うことが可能で、その場合も能力は問題なく発動する。能力の他にも、人間を食うにあたって使う顎の力などが人外らしい強力さを誇っていて人間の骨までバリバリとそのまま噛み砕いて食べる。が、とにかく子ども以外の人間はマズくて食えた物じゃないそう。

 恐ろしい食人鬼のような児子消しだが、子どもを食べるという以外の点では比較的普通の人格の持ち主である。数百年生きた結果、時代の変化に伴い「名前が練り消しみたい」と言われることが増えたことを笑い話にしていたり、寝起き状態のウィズに魔女たち全体がたどった歴史を教えるなど親切な面もある。そういうところが人間にはより不気味に、より不快に映ったりしてしまうわけだが。

 無知の魔女とは旧知の仲で、かつては彼女にそれぞれタイプの違う子どもの肉体を魔法で作ってもらい、夢だった「複数人をその場に並べての食べ比べ」を達成している。お返しに無知の魔女にも子どもの肉を分けてやったことがあったが、同志にはなれなかったらしい。

 児子消しの娯楽はあくまで「食べる」ことであり、殺しはむしろ嫌いな方。一切苦痛なく子どもを殺せる方法があれば手に入れたいと度々発言している。しかし一方で、現代で無知の魔女ウィズと再会した際に出会った人間であるマコトには「いらない子どもが出来たら呼んでね」などと発言しており、やはり子どもを食うことが関わると人間には受け入れがたい人格が垣間見える。

 

 

・プダカの魔女 ドウプラン

……現代で生まれた魔女。寿命が比較的長い者が多い魔女が新たに生まれることは滅多にないことなので、現代生まれの彼女は貴重な存在と言える。

 対象を視界に収めていて、なおかつ自身が体の一部を動かし続けている間、対象は自分で宣言したこと以外の行動が取れなくなる……という能力の魔法を持つ。ややこしい能力だが、要するに視認している相手に著しい行動制限を課す能力だと覚えればいい。

 非常に戦闘向きの魔法を使う魔女だが、彼女の思想は協和勢、過激派に属するもので、ほとんど滅びたそれらの思想の後継者とも言える。

 現代によみがえった無知の魔女ウィズと対峙し戦闘を行い、魔法の初見殺し性能を見事に押し付けきってウィズを殺害している。……が、殺害というのはあくまで「肉体を殺した」だけであり、不可視の思念体となったウィズには魔法が通じず一方的に敗北。その後ウィズは当然再び肉体を作ってよみがえり、ドウプランはウィズの監視下に置かれる。

 名前の由来は彼女自身が使う魔法からきている。自分が視認(チェック)しつつ動いている(アクション)間に発動する能力で、相手に次の行動を決めさせて(プラン)から行動させる(ドゥー)効果があること。要するにPDCAが元ネタになっている。なおこの名前はドウプランが生まれた時になぜか自覚していたものであり、名付け主はいない。

 

 

・偶像の魔女 イノベラルト

……ドウプランと同じ現代で生まれた魔女。思想としては彼女とは真逆の独立勢に属する。

 自分が想定した通りの人間を作り出すことの出来る魔法を使う。性別、容姿、人格すべてを魔法の使い手が自由に決められる非常に繊細な魔法だが、老化と寿命だけは付与することができない。ただしこの魔法で作り出した人間(「偶像」と呼ばれる)はイノベラルトの意思でいつでも崩壊させることができる。崩壊した偶像は何の変哲もない泥となる。また、仮にイノベラルト本人が死亡した場合にも偶像は泥となる。

 元々は人間を観察して「いかにも人間らしい偶像」を作り出してはそれを人間界に送り込み、偶像がいつまで人外であるとバレずに人間社会で暮らすことができるのかを試し、それをゲームのように楽しんでいた。しかしある時彼女は人間の男性に恋をしてしまった。

 その男性は何人もの女性と一度に交際するような、一般的に言えば不誠実な人物であったが、それでも彼女はその男性を自分の物にしようと試みた。今まで誰よりも人間を観察し人間を知ってきた自分にはそれが可能だと思っていた。

 しかし結局遊ぶだけ遊ばれて捨てられた彼女は傷心のまま引きこもり、次にその姿を現した時の彼女は、自分をフった男性の偶像を作り出しそれを溺愛していた。また彼を「自分のもの」にしようとして失敗した彼女は、人格まで本物そっくりに作った偶像で同じ轍を踏まぬようにと、女性の偶像も数個別に作り出し「みんなのもの」として男性の偶像を扱っている。

 ひたすら自分の世界に入っている魔女のためそれを邪魔しない限り人間はおろか他の魔女にも害はない。ただし有益なこともほとんどない。愛しの男性の偶像とは、今のところそれなりに上手くいっているもよう(イノベラルト本人談)。

 名前の由来はライトノベル。一見しただけでは本物の人間と区別がつかない偶像を作る彼女の形成する偶像ハーレムが、なろう系ラノベのありがちな風景に見えるため。なおドウプランと同じくこの名前は生まれた時になぜか本人が自覚していた物であり、名付け主はいない。

 

 

※魔女の世界について

……魔女は基本的に「独立勢」と「協和勢」と呼ばれる二派に思想が分かれている。

 独立勢は人間との共存をあまり重視しない勢力である。自分の目的のためなら魔女でも人間でも殺す思想の持ち主が大半だが、逆に言えば自分にとって特に必要ないなら殺しは行わない物がほとんど。

 一方、協和勢は人間との共存を推し進める勢力である。その中でも人間社会に紛れ込んで生きようとするものと、人間に害をなす独立勢の抹殺を目論むものなど、様々なタイプが存在している。協和勢は基本的に人間には害をなさない勢力であるが、例外もある。

 独立勢はさらに大きく「自由派」と「中立派」に分けられる。自由派は何者にも縛られずに生きることを大前提としており、それを邪魔する人間や協和勢の魔女を容赦なく殺す。一方で中立派は、その手の殺し合いには関わり合いになりたくない比較的無害な勢力を指す。

 例でいうなら、ウィズとイノベラルトが独立勢自由派、児子消しが独立勢中立派に位置する。前者二人は邪魔者を嫌い敵意には敵意で返すが、後者の児子消しは基本的に争いを避けて逃げることを第一にしている。

 協和勢もさらに大きく「過激派」と「穏健派」に分かれており、過激派は独立勢の抹殺を積極的に行う勢力のことを指す。特に過激派の中でもさらにその色が濃い極派と呼ばれる者たちは独立勢の抹殺のためなら人間を巻き込むこともいとわず、同志であるはずの協和勢過激派ともたびたび争っている。一方で穏健派は争いを好まず、ただ人間社会に溶け込んでいるだけの魔女を指す。

 例でいうならドウプランが協和勢過激派(若干極派の気あり)となる。村を統治することのみを目的としているカナリアは魔女としてかなり特殊な部類で、彼女を協和勢穏健派とするか独立勢自由派とするかは意見が分かれるところ。

 独立勢と協和勢は数百年前、あるいは千年以上前からずっと長きにわたって大小様々な争いを起こしていたが、その争いのせいで魔女の数は徐々に減少していった。結果現代にいたるまでに、内輪での争いと「人間を守る」という枷を背負っていた協和勢はほとんど滅びて、現代に残った独立勢も少なくなってしまった。

 封印されていたウィズや現代で生まれた魔女たちはこのあたりの歴史を知らない上にこれらは表には残らない記録なので、ウィズが児子消しに教えてもらったように生き残りから教わるしかない。ドウプランも生き残りの魔女から教わっている。一方、イノベラルトはこの話題に一切関与せず。

 

 

 ……という設定を考えましたが、小説を書くモチベは灰になったままです。

デビルメイクライと思い出

 なんだかよく知らないうちに、大型タイトルの新作ゲームが次々と発表されていました。例えば、スマブラが今年の冬に出るみたいですね。

 他にはマリオパーティバイオハザード2のリメイク、アーケードゲームだとガンダムのエクバ2も出ますし、マリオテニスに至ってはすでに出ましたね。まだ遠い話なのかもしれないですけど、バトルフィールド5も出るらしいです。

 そんな新作ゲーム情報の一員として、デビルメイクライ5があります。調べてみたところ、「DMCデビルメイクライ」というスピンオフ的なタイトルと「リメイク版デビルメイクライ4」を除くと、なんと4が出てから5の情報が解禁されるまでの間に10年の時が過ぎていました。

 デビルメイクライ4の方に個人的な思い出がたくさんあるので、今回はその思い出について語っていこうと思います。思い出したから語るだけです、深い意味はありません。

 便宜上特殊な言い回しをする場合もありますが、あくまでも便宜上です。深い意味はありません。

 

 

 ぼくがデビルメイクライというゲームを初めて見たのは、近所の大型スーパー……というかイトーヨーカドーデビルメイクライ4の試遊台を見た時でした。十年近く前の話ということになりますね。

 DSなどの携帯機ならともかく、テレビゲームの試遊台は今の時代ヨーカドーやイオンから姿を消しています。なぜそうなったのかは知りませんけど、まったく見かけることがなくなってしまいました。

 しかし十年前にはまだまだ試遊台が置いてある場所が多く、デビルメイクライを知れたことは試遊台のおかげなので、試遊台というシステムそのものにも思い入れがあったりもします。ガンダムの連ザも、「ウルトラマン」というタイトルのゲームも、試遊台きっかけで購入に至ったゲームなので、試遊台がほとんどなくなってしまった今の時代には寂しさを感じますね。

 まあそれは置いておくとして。とにかく初めてデビルメイクライ4を見たぼくは衝撃を受けました。当時自宅のPS2でウルトラマンFE(ファイティングエヴォリューション)シリーズを遊ぶことに夢中だったぼくに、PS3のスタイリッシュアクションゲームはカルチャーショック級だったのです。まさに次世代、未来そのものでしたからね。

 ところでスタイリッシュアクションってなんだよと思うかもしれませんけど、これは公式の生み出したフレーズです。実際ゲームの中にもスタイリッシュランクというものがあったりするし。……まあ、どんなゲームなのかは動画を見てもらうのが一番早くて確実だと思うので、デビルメイクライ4で検索して見てくださいとしか言えません。

 ざっくり説明するなら、まあとにかく見た目がかっこいいゲームでした。デビルメイクライ4は小学生だったぼくの男の子魂をガッチリ掴んだ。しかし試遊台にはそこに置かれているゲームのタイトルが何なのか書かれていないことが多く、ぼくはその時「なんかかっこいいゲームがあった」というくらいのことしか知らずにいました。

 物心ついた直後くらいに見ていたアニメが、おぼろげとはいえ確かに記憶にあるはずなのに、そのタイトルは思い出せないことと同じように。それでだんだんとゲーム自体のことも忘れていってしまったんですよね。

 再びデビルメイクライと出会ったのは結構な間が空いて、高校生になってからでした。友達の家で「お前の家どんなゲームあんの?」みたいな感じでPS3のソフトを漁っていた時のことです。

 パッケージ裏に、昔見たことのあるボスキャラが映っていました。小学生の時にヨーカドーでプレイして衝撃を受けたあのゲームです。デビルメイクライというタイトルはその時やっと知りました。

 まあテンション上がりましたよね。

「うおおおおおお!?!?!? ちょ、ちょっとこれ! このゲームやりたいコレコレ!! お願いやらせて!」

 って感じになりましたよ。友達が二つ返事でいいよーと言うので、ドキドキわくわくしながらさっそくプレイしました。

 するとまあ、試遊台の時は知らなかったけど結構ムービーが多くて長いゲームで、どれも一人で鑑賞するなら本当に素晴らしい物だったんですけど、友達の家で遊ぶのには向かなかった。結局、割と早々に切り上げた気がします。

 で、当然それで終わりということにはなりません。小学生の頃に憧れたゲームをやっと見つけたんです。このチャンス逃すものかって感じですよ。

 高校生になる頃には奇跡的にPS3を獲得していたぼくは、結果的にその友達からデビルメイクライ4を無期限でレンタルする許可を得ました。ぼくの交渉術とかではなくて、友達がひたすら優しかっただけです。本当に「感謝」以外の言葉がありません。

 なぜ無期限なのかというと、別に返したくなかったわけじゃないですよ。どの程度の期間でクリアできるゲームなのかわからなかったことと、期限があるとプレッシャーで上手く楽しめないぼくの性質が理由です。

 レンタルに期限があるとゲームクリアまでの〆切的なものが発生して、なんだか仕事っぽくなると思いませんか? いくら念願のゲームでも仕事になると面白くないですからね、無期限で借してもらえて本当によかったです。

 それでしばらくそのゲームで遊んで、難易度「簡単」と「普通」でとりあえずクリアしました。思ったよりも謎解き要素があるゲームでしたけど、戦闘が当時感じた魅力のままかっこよく楽しくて良いゲームでした。

 とりあえずクリアしたので友達にゲームを返却します。これでぼくとデビルメイクライ4の縁も決着がついたかな。……と思いきや、このあとしばらくしてからまた借りるんですよね。なんかもう一回やりたくなっちゃって。

 もう一回借りて、難易度「難しい」をヒーヒー言いながらなんとかクリアしました。そうしたら「激ムズ」も出てきたんですけど、これはぼくには無理そうだと判断して友達に返却しました。ぼくはゲーム好きですけど上手くはないので、そこで自分の限界を感じて以降デビルメイクライ4に興味を持つことはなくなりましたね。コンボ動画とか見たらわけわかんない動きしてるし。

 それでも大満足で、いやー友達のおかげで思い出のゲームが思う存分遊べてよかったー感謝感謝、と思ってたんですけど、よくよく考えるとその友達には他にもいろいろ貸してもらった恩があったんですよね。

 小学校時代から中学校時代にかけて、ひぐらしのなく頃にのスピンオフ漫画とか、ローゼンメイデン一期全巻とか、漫画をたくさん貸してもらいました。全部無期限ですけど、全部ちゃんと返してます。

 あ、ちなみに友達は同い年です。ひぐらしのタイトルを「こういう漫画あるんだけど知ってる?」とそもそも持ち込んだのはぼくでした。不登校気味のやつが異文化を持ってくることもあるんです。

 まあそれはともかく、ここで話をローゼンメイデンに移します。デビルメイクライの思い出話じゃねーのかよって感じですけど、借りる繋がりなので。

 ローゼンメイデンは一番新しいアニメの一話をリアルタイムで見て「これが噂のローゼンメイデンかぁ。絵が綺麗だし、リメイクなんだろうな」とか思ってました。リメイクじゃなくて二期だということに気付くまでそんなに時間はかかりませんでした。

 二期から見ても面白いローゼンメイデン。こいつはツタヤで一期の原作漫画なりDVDなりをレンタルするしかないぜ……と思っていた時に、ふと友達の家の本棚を思い出しました。そういえばひぐらしのそばに、ローゼンメイデンがあったはず……!

「貸~して」「い~いよ」

 のトントン拍子で貸してもらえました。読んで、ローゼンメイデンにハマり、二期の部分はアニメで見たけどその後ツタヤで原作レンタルして読みました。

 返却期限が決まっていることは好ましくないのですが、そんなこと言っている場合じゃありませんでした。ツタヤで何かを借りる時は大体そんなこと言ってる場合じゃない時です。友達から借りる時も、どうしても期限が付くというなら甘んじて受け入れます。

 それで、読んでみると原作もとても面白かったので、二期は持ってなかった友達にもおすすめしときました。けどそれはあんまり響かなかったようです。

 思い出といえばこんな話もありますね。ローゼンメイデンの原作は出版社と揉めたか何かで連載雑誌を変えているので、原作的には変わる前が一期、変わったあとが二期です。アニメの一期二期もそれに連動しています。ツタヤの店員が一期1巻を二期1巻の箱に入れているところを見た時には「まったくわかってないなぁ(うざい声)」って気分になったりもしてました。気分だけですよ。

 そんな感じでその友達からは貸してもらう系の恩が以前からかなりあったんですけど、まさかデビルメイクライ4までぼくに知らせて遊ばせてくれるなんて、もう恩人の域です。友達がそれらの物を持っていたのは完全に偶然だったはずなので、奇跡の恩人でした。

 PS2が壊れて廃棄された我が家には実はまだPS2用のゲームソフトがいくつか残されています。友達の家にはPS3だけじゃなくPS2もあったんですよね。完全にそれで遊ばせてもらおうという魂胆でした。借りが一個あったら何個作っても一緒だぜと言わんばかりの図々しさです。いや、借りというか、借りた物は物理的にはちゃんと全部返しましたけど、そういうことじゃなくて。

 あ、借りるでもう一つ思い出しました。

 高校生の時にダークソウルにどハマりしたぼくが、ソウルシリーズに一切興味のないその友達に「一切興味ないの承知で言うから聞いてくれ。ダークソウルっていうゲームがこれこれこういう感じでめちゃめちゃ面白くて……」と熱弁したことがありました。

 その時は友達も「へぇーそうなんだ。よくわかんないけど」みたいな感じで聞いてくれたんですけど、なんかある時からダークソウルに関する質問をしてくることが増えたんですよね。

「魔法ってどうやって唱えるの?」

「持ち物の切り替えってどうやるの?」

 みたいな。なんかおかしいじゃないですか。最初は実況動画でも見始めてくれたのかなーだとしたら熱弁した側としても嬉しいなーと思ってたんですけど、だんだん質問の内容が「それゲーム動画を鑑賞する人が知りたくなることか……?」っていう物になっていったんですよ。

 ある時おそるおそる、そして期待をこめて、聞いてみました。

「……ダークソウル買った?」

「実は……ダークソウル2買った」

「!?!?!?!?!?!?」

 斜め上の展開! 衝撃というか、もはやドッキリの類でした。ダークソウル2はぼくも持っていなかったので、友達はいつの間にかぼくにとっても未知の世界に冒険へ出ていたのです。「マジかお前まじかああああ!」ってなります。

 ただぼくは本当に汚い人間だなと思ったのは、その時の喜びに「自分が勧めたゲームに興味持って買って遊んでくれるなんて嬉しい!」という意味以上に「これでダクソ2買わなくても借りて遊べるじゃん!」という意味がありました。今思い出してもクソ野郎ですね。

 とにもかくにも、借りるかどうかは置いておいてとりあえずぼくは友達の家に遊びに行きました。そして友達がダークソウル2をプレイしているのを隣で見守って、無印ダークソウル経験者として玄人面してコメントしたりしてました。

 ところがどっこい、そこで友達の思わぬ弱点を見たのです。その友達はホラー系がとても苦手な人だったんですけど、その人からするとダークソウルはかなりホラーっぽい物だったみたいなんですよね。ぼくからすればそんなことはないんですけど。

 せっかく剣を持っているのに、魔法を撃ち尽くしたら「近寄るのが怖いから」と言って拠点まで撤退する友達。怖いというのは迫りくる敵がホラーっぽいの意味もあるし、自分が攻撃をくらってやられてしまうこと自体が怖いみたいなニュアンスも感じました。なぜその豆腐メンタルでデビルメイクライが遊べたのか、不思議です。いやディスってるわけじゃなくて、純粋に不思議です。

 で、まあ玄人面してる人がそんな非効率な、というか非効率通り越して縛りプレイと呼べそうなプレイを見せられたら、そのうち「ちょっとコントローラー貸せ!」ってなりますよね。そんな乱暴な言い方はしてないつもりですけど、結果としてぼくはコントローラーを友達から奪取しました。

 敵が怖くて近寄れないという友達に対して、ぼくはぼくで消耗品のアイテムや使用限度のある魔法を必要以上に温存してしまう「貧乏性」という特性があったので、コントローラーを借りるや否や「雑魚相手に魔法なんて使ってんじゃねえ!」と言わんばかりの勢いで剣を片手に突撃してました。

 序盤のステージだったのでそれで問題なく突破できたのが幸いでしたね。そしてそれを見た友達が「すげえええ」みたいになってたので、ぼくもご満悦です。しばらくそのまま遊んで、温存した魔法をボスにポコポコ撃って倒しました。ボスもぼくがやっていいのかとは思いましたけど、結果的にぼくが倒すことになってましたね。

 その後友達はちょくちょく自力でプレイしたあとに「やって」とコントローラーを渡してくるようになりました。ぼくは傭兵になったのです。傭兵になることにより、借りるまでもなくダークソウル2を遊べました。

 最高だぜー! と頭からっぽで当時は楽しんでましたけど、今思えば普通にコントローラー奪取してるだけですし、いかがなものなんでしょうか。友達は若干行き過ぎたレベルで善人だったので、「頼む」という形を巧みに演出してわざとぼくにゲーム貸してくれてた説は……さすがにないと思いたいです。

 さすがのぼくもそこまで簡単にコントロールされちゃう人間なはずないでしょ。コントローラーを譲られながらコントロールされるなんてね。はっはっはっ。そんなの妄想ですよ妄想。

 でも妄想といえば、敵が怖くてまともに戦えない友達がダークソウル2を買ったということは、ぼくの話だけ聞いて買ってくれた説もあるんですよね。動画を見ていたらこのゲームは自分には無理だと判断していたかもしれないですし。

 だとしたら嬉しい話です。だけど「動画で見てる時は平気だった」なんて話も全然ありそうなので、このあたりのことはリアルタイムで友達に聞けなかった以上永遠の謎として放っておくしかありません。

 で、ゲームの話に戻りますけど、最後の方になるとほとんど全部ぼくがプレイするようになっていました。そうやって遊ぶうちに無事ラスボス撃破まで至りました。ただぼくは魔法キャラ以外でもプレイしてみたかったので、結局その後また無期限でレンタルさせてもらいました。ちゃんと常識的な期間で返しましたよ。

 そんな感じで、その友達には本当にとことんいろいろな物を借りてお世話になりました。しかし逆にぼくが貸した物が何かあったかというと……どうだったかな……。うーん……。

 ……で、この話のオチは結局なんなのかってことですよね。オチはですね、その友達とは最終的に絶交状態になったということですね。借りを作りすぎた結果パンクしたのか、原因はいくつもありそうなので「コレだ」とは言えないんですけど、とにかくぼくは人間関係に対して何か致命的な部分を持っているみたいです。

 我が家のPS2ソフトは次に機会が来た時に廃棄しようと思います。

 

 

 ……というようなことを、デビルメイクライ5のPVを見て思い出しました。一つのタイトルの新作が出ることで、小学生の頃から今に至るまでの様々な思い出がよみがえるのは、なかなかすごいことだと思いませんか。まあ主に一人の友達についてのことでしたけど。

 いや、バッドエンドの思い出ではありますけどね? でもエンドが悪かったからといって、楽しかったことが全部悪い思い出になるわけじゃないですし、思い出せるのはいいことだと思います。

 ……いや、バッドエンドに至る原因は流れを見てもわかる通り明らかにぼくにあっただろうし、原因作った側が言えたことじゃないんですけど。ぼくの側から友達に何をしてあげたのかというと、何かしてあげられた記憶はないわけで……。

 という複雑な気持ちになれるデビルメイクライ5ですが、複雑といえば「DMCデビルメイクライ」の存在もあります。

 ぼくは実際プレイしたわけじゃないのですが、「デビルメイクライ4」の発売から何年も経ったあとに「デビルメイクライシリーズの新作!」と鳴り物入りで出てきたDMCデビルメイクライ。これの評判は「ゲームとしては面白い。デビルメイクライとしてはクソ」でした。

 ゲームとして面白いならいいじゃん……と思っていた時期がぼくにもありました。デビルメイクライ4を遊んでからDMCデビルメイクライの動画を見てみると「あー、これはクソだわ」となります。長年待たされた続編がコレだと、根っからのファンの人はさらに怒り倍増だろうなって感じがしました。

 例えるなら、やっと連載再開したワールドトリガーがストーリーはそのままに、絵とセリフ回しが完全にジョジョになっていたみたいな。「漫画としては面白い。ワールドトリガーとしてはクソ」って感じです。伝わりますか……? 別にジョジョを否定しているわけではないですよ。

 よくわからない場合はデビルメイクライ4のリメイク版も出ていることですし、ぜひそれを買って遊ぶなり、お金と時間の事情があるなら全部通しのプレイ動画で見るなりして、その後DMCデビルメイクライを見てみてください。必ずわかります。

 と、そんな歴史のあるデビルメイクライシリーズ。DMCデビルメイクライの時に「元々長髪だった主人公が短髪になっている」ということがあったのですけど、デビルメイクライ5のPVを見ると、またしても主人公(4から出てきた二人目の主人公)が短髪になっています。

 さすがにナンバリングタイトルだから大丈夫だろうと自分に言い聞かせながら、なんとなく嫌な予感を覚えているファンもたくさんいるみたいです。デビルメイクライ1から楽しんでいる根っからのファンの間で、楽しみだという期待と過去の悪夢から来る不安が入り混じっているわけですよ。

 その点、4しか遊んでないとはいえ、デビルメイクライを見るだけで良い思い出とその終わりのことを思い出すぼくも似たようなものだと思います。え、全然違う?

 ともかくです。そんないろいろな人の様々な思いが入り混じったデビルメイクライ5は、ほぼ間違いなくPS4で発売されるはずです。しかしぼくは未だにPS4を持っていません。

 ダークソウル3もPS4でしか遊べないんです。よく似たゲームのブラッドボーンもです。どっちも一度も触れてません。このままではデビルメイクライ5も当然触れません。

 誰かぼくにPS4を譲って、いや、貸してください。無期限で。

チェンジ、チャレンジ、トートロジー

 世の中には「ニートの社会復帰をサポートする施設」がたくさんあって、ぼくも現在そこに惰性で通っている。

 なぜ惰性なのかというと、それはぼくがすっかり「働く気力」を失ってしまったから。初めは、

「進学も就職もぼくには無理だ」

 と親に告げていろいろあった末の高校卒業後、人生初バイトを始めるとっかかりを作ろうとその施設へ通い始めたぼくも、今では働く気力を綺麗さっぱり失ってしまった。

 現状、初バイトの勤務十日目にてばっくれた身としての感想は、とても、とても働きたくない……その一言に尽きる。そして、施設はあくまでも「働くサポートをする場所」であって、つまりは「働く意思のある者の手を取ってくれる場所」なのであって。だから本来、そこはすでにぼくの通うべき場所ではなかったりする。

 ではなぜ未だに通っているのかというと、それはぼくが「絶対に働かないからな」という意思をかなり前から示しているのにも関わらず、施設の職員が、

「わかったわかった。で、来週は〇曜日の~時でいい?」

 と、次の予約を向こうから入れてくるからだった。

 もちろんぼくには拒否権があるし、ばっくれたまま一切の連絡を無視することもできる。けれどまあ、週に一回1時間のお喋りをするために、自転車で往復1時間未満程度の距離を移動するのは、別に特別断る理由が生まれるほどつらいことでもない。……というわけで、惰性による「通い」が発生した。

 働く気のない人間が「働きたい人をサポートするための施設」へ通って何を話すのかと言えば、それは「最近なんか面白いことあった?」という類の、いわゆる世間話しかなかった。ぼくは毎週毎週、隣駅まで赴いては、世間話をして帰ってくるのだ。

 真面目に週5くらいのペースで施設へ通って勉強して、真剣に社会復帰を目指している人からすれば、ぼくのような人間は目障りで仕方がないのではないか。行くたびにそう思っていたけれど、思ったところで行動を改めないところがニートらしい。

 ……という話を、実際に真面目にその類の施設へ通っていたネットの友人(ぼくと同じ施設ではなく、遠方で似たような場所に通っている似たような社会的立場の人)に話してみたところ、かなりショッキングな感想をもらうことになった。

「それ、時間の無駄では……?」

 嫌味とかではなく、純粋に「あなたの幸福のためにも、そんなことをする時間があるなら家でプリパラでも見ていた方がいいのでは……?」という趣旨の感想だった。

 その感想のおかげで、ぼくは自分がニート生活になじみすぎて「時間の無駄」という概念を失っていたことに気が付くことになった。

 言われてみれば本当にその友人の言う通りで、ぼくがわざわざ施設へ行ってする話といえば、ツイッターに書きこむ価値さえ疑わしいような、くだらない内容がほとんどだった。それに、なんとか働く気になってはもらえないかと向こうが提案してくる案だって、現在ではどれも、

「ボランティアしてみたら?」

「寺を巡ってみたら?」

「海外旅行に行ってみたら?」

「九州(上記の感想をくれた友人が住んでいる場所)へ行ってみたら?」

「知らない駅で降りて散歩してみたら?」

 といったヤケクソな物になっている。それはヤケクソにならざるを得ないほどやる気の欠如したぼくも悪いのだけれど、

「どうして金もらっても働きたくない人間が、無償で働くと思うんですか……?」

「寺ね……。寺には興味がないし、寺を巡って働けるようになるなら、ここに通っている人たち全員で観光ツアーへでも行けばいいんじゃないですか? 大仏の中にハロワを開きましょう」

「日本語が通じない場所へ行くことの苦行は労働のそれと同じなんですよ。何が筆記体だよクソが」

「九州行くのはまあいいですよ、楽しそうですし。でも、それ帰りたくなくなりません? 自腹で楽しい場所に行くのはいいとして、自腹で現実に帰ろうとは思えないじゃないですか。失踪しますよ」

「とにかくぼくを外に出したいのは分かるんですけど、寺から始まり海外にまで広がった話が、最終的にただの散歩にまで妥協されるのも面白いですね。もう一押ししてグーグルアースくらいまで妥協してください」

 ……というような会話が延々続くだけでは、そこに何か意味があるとは思えない。なぜか言われるまでまったく気が付かなかったけれど、本当に「時間の無駄」以外の何物でもない物が、毎週毎週ずっとそこにあったのだ。

 ……という話をそれとな〜く、施設に行った際の世間話の一環として職員の人に言ってみたのだけれども、結局最後は「で、来週〇曜日の~時でいい?」と次の予約を取る流れになったので、何かが変わるということは全くなかった。

 そもそも時間の無駄だと言ったって、その無駄な時間を削ってまで他にしたいことがあるのかといえば、なにもない。プリパラもガルパンも今まで通りの生活で十分視聴できるし、他にしたいことは思いつかない。無駄を削るにしても、ぼくは今一つモチベーションに欠けていた。無気力だ。

 時間の無駄を削ったって、結局また別の方法で時間を無駄にするだけ。だからやっぱり、世間話を断る理由もない。そういう結論になってしまった。しかしその結論が有意義だとも思えなかった。将来がどうのこうのという話をされるよりもよっぽど、こっちの方が「このままではいけない」という気持ちにさせられる。

 そんな気持ちになっただけで何か行動を起こせる人間は、そもそもこんな状況に陥らないのだけれども。……とにかくそういうわけで、惰性の期間は長引いていった。 

 

 ……ところで、この前の世間話(建前上は面談)に行った際に、新たなヤケクソ提案シリーズが更新されたのだけれど、それは、

「女装してみたら?」

 という物だった。

 説明すると、さすがにその「女装」というキーワードは何の脈絡もなく出てきた物ではない。そこには以前のぼくが、

「美少女に生まれ変わりたいんですけど、それだけだとニート云々を抜きにしても通常の生活に支障が出そうですし、美少女と今の姿を自由に換装できるようになりたいんですよね。でもそれは不可能だとガンダムのゲームがぼくに告げているんです」

 というふざけた話題を暇つぶしに出した……という経緯があった。詳しくはこのブログ内にある「一切の苦労なく美少女になってみたい」という別記事を読んでもらえれば、ぼくの施設でのお喋りにどれほど意味がなかったのかを確認してもらえることと思う。

 ……まあそれはともかく。そんな経緯をもって放たれた「女装してみたら?」という提案は、明らかに今までのヤケクソ提案にも共通する「ある理論」によって職員の口から出ているということが察せられた。

 つまり、

「行動から変えれば心も変わるはず」

 という理論のもと、職員のおじさんは世間話の一環として、ぼくに様々な提案をしてくるのだと考えられる。逆にそうでなければ、そんな提案をする意味が分からないから。

 それが分かっているから、ぼくは真面目に取り合わない。女装の話にだって、本当なら今までと同じように「そんな行動力がある人はニートにならないんですよ」と返すところだったのだけれど、しかしいろいろとタイムリーなこともあり、今回ばかりはちょっとだけ話を広げることになった。

「いや、時代はバーチャルですよ。女装よりも美少女の二次元モデルを、声を手に入れるのです」

 といった具合に、思わず話を広げてしまった。話を広げたくなるほど画期的な勢いをもって、その当時インターネットの世は、まさに大バ美肉時代だったのである。

 その話題はそのまま魔王マグロナというバーチャルユーチューバーの話に移行した。そして興味がない人にとっては非常にどうでもいい話を経由したあと、とにかく最終的に出た結論としては、

「バーチャル美少女になるのは金がかかる。それは女装も同じだ。そしてどちらも金銭的な問題だけではなく、技術的な問題まである。働いて金を得てからそれらの趣味を叶えるならまだしも、働く気力を得るためにそれらを叶えるというのは、金を稼ぐための行為を実行するために金を稼がなければならない……という時点で破綻している」

 と、いつも通りの「だから何もしない」という着地点に収まっていった。……そこでぼくは、そのやり取りを経て改めて思うことがあった。

 施設にしろ個人にしろ、仕事にしろプライベートにしろ、良心にしろ義務感にしろ、ニートが社会復帰をするための手助けをしてあげようとする「真っ当な生き方をしている人たち」に共通して何かがおかしいのは、

ニートの社会復帰には自己の変化が必要である→なら社会復帰をするには自己を変化させるしかあるまい。」

 という至極当たり前なことを、大真面目な顔をして言うことだ。

 寺だの、海外だの、国内旅行だの、女装だのバーチャル美少女だの、そんなことを「よーし、やるぞ!」の意気込みでできる人は、そもそもニートになんかなっていないのではないか。仮に一瞬なってしまったとしても、すぐに復帰するのではないか。

 根っからニートの精神に染まった人間にとって、社会復帰とは自分自身を変化させることと同義になってしまう。だから「社会復帰=自己変化」であるのに、「社会復帰を行う」ためには、「自己変化を起こせ」と周囲の人間から言われる。ぼくはそれをおかしいと思った。

 上っ面の形が何であれそんなアドバイスでは、社会復帰がしたいのなら社会復帰をすればいいのに……と言われていることと同じである。そんな意地の悪い言い方をするくらいなら、お手上げだと、はっきり言ってくれた方がいくらかマシだ。

 施設にて、

「そもそも皆は、ぼくが真っ当に働き、自立して生きられるようになることをゴールだと思っているようだけれど、違いますからね。ぼくのゴールはぼくが幸せになることであって、幸せと真っ当な生活がイコールで結ばれていないから、働きたくないって言ってるんですよ」

 なんて話もしたけれど、その話の後はまた、来週いつ話すかの予約を入れられるだけで、何も変わることはなかった。

 施設側が何を考えているのか、ぼくには分からない。ぼく自身、自分が何をしたいのかもはっきりとは分からない。けれど少なくとも、社会復帰のために自己変化を求めることは、論理が破綻していると感じた。

 聞きかじった話、「AはAである」といったような言い回しを「トートロジー」と呼ぶらしい。ニートをなんとか浄化したい大人たちにはいい加減、そのトートロジーをやめてほしい。しょうもない世間話を繰り返した末、なぜか急に、そんなことを思った。

 働きたくない。しかし働かなければ生きていけない。働きたくない気持ちを和らげるため……つまり生きるためには、自分が変わらなければならない。自分が変わるためには、今までと違うことに挑戦しなければならない。

 ……なんて、まさか「働くこと=挑戦」であることに気が付かない人間なんて、いるわけもないのに。

 働くためには働くことが必要だ。そんなことを言われても、困るだけで、何もありがたくない。そう思った途端、世間話に本気で嫌気がさしてきた。

 

 

※追記

 この記事を書いたあと、6月20日付近にぼくが「ここ来る意味あります?」としつこく話した結果、次に施設へ行く予定日は7月末にまで大きく飛んだ。

 その日には他に、ぼくから、

「どうも全部が面白くない。熱中できると思った物を見つけては、数日から数週で飽きてしまう。毎日やりたいゲームや見たいアニメがあった学生時代の心を返してほしい。興味が持続しない」

 という話をしたところ、返された言葉が、

「楽しいと感じることを、価値観から変えていけばいいのでは? 例えば仕事に追われて働いてばかりいる人が、何もすることのない休日をもらえば、その日君が「退屈だ」と思うタイミングで、その人は「幸せだ」と思うでしょう。楽しさや幸せを多く感じたければ、価値観を変えればいい」

 というものだったので、6月25日現在の感情に従う場合、ぼくは7月末の予定日に施設へは行かないことを選ぶだろう。

 要するに施設の相談員は、ぼくの口から「幸せだ」という言葉が聞ければいいと思っているらしかった。

 口というのは、ぼくの心を声に変換する器官でしかなく、間違っても「心その物」ではない。しかし相談員は「ぼくの口」から「幸せだ」という言葉が聞ければ、それで良いらしかった。もしかすると全ての大人がそう考えているからこそ、ぼくに働けと言うのかもしれない。

 仕事に追われることで、今まで退屈としか思わなかった時間を幸せと感じるようになる。そんなことを「良い事」だと捉えるような、そんな人たちにとっては極論、誰かがぼくを脅して、ぼくが自立した素振りを見せながら「幸せだ」と言わされてしまえば、それで満足なのかもしれない。

 仕事に忙しい人は、本来退屈な物を、忙しさに脅されて幸せだと言っているのだとぼくは思う。考えてみれば分かる話だろう。腹が減っていた方が飯は旨く感じるけれど、いつも腹を空かせている人といつも腹が満ちている人、どちらが幸せ者なのか。

 人の価値観を意図的に変えることが許されるなら、だったら別に、ぼくが誰かを脅して、その人がぼくを養うことで「幸せだ」と言えるようにしてやっても良いのではないか。そうすればぼくも労働から解放されて、望み通りこの口から「幸せだ」と言うことが出来るだろう。

 幸せになりたければ価値観を変えろというのは、そういう話だと思う。人の価値観を意図的に変えようとすることは「悪」だ。……こんな世間話をするくらいなら家でアニメでも見ていた方が有意義だという指摘は、本当だった。

 

「3分」の読み方は。

 普通の人は「3分」を発音する時、何と読むのでしょうか。「サン「プ」ン」でしょうか。ぼくは「サン「フ」ン」です。このことについて、ぼくは自分が正しいと信じて疑いません。

 昔、父とこの件について喧嘩したことがあります。何気ない会話の中でぼくが「サンフン」と口にしたことで、父がそれを「サンプン」と訂正したことが始まりでした。

 どちらでもいいだろうと言うぼくを父は否定しました。「3分」は「サンプン」以外の何物でもないのだ、1分がイップン以外の何物でもないように。じゃあお前は、2分をニプンと読むのか……と。

 サンフンという発音は他人に違和感を抱かせる。お前が2分をプンと発音する人物に対面した時に抱くであろう違和感と同じ物を、サンフンは他人に抱かせる。意味は伝わるかもしれないが、すんなり受け入れることはできない。社会に出た時に、学校の友達や先生などとは違った立ち位置の人と関わるにあたって、そんな余計なところで不和を起こしてほしくない。……といったようなことを父は言いました。

 ぼくはそれが頭にきて、そこから喧嘩になりました。だってぼくは3分はサンフンだと思っていたのです。ぼくからすれば、間違ったことを言うやつが「俺の言うことこそ常識だ」と言ってきた風に見えたのですよ。それが身近な相手なら、そりゃあ抗戦するでしょう。

 ぼくの反論は以下のような感じでした。

「不和を起こすのは、むしろあなたのような人間だ。今、噛みついてきたのはそちらだ。違和感を抱く側が不和を起こす、改める必要があるとすればそれはそちらの側だ。あなたの言うところの、大多数を占めるサンプン派だ」

 実際これは苦しい言い訳でした。仮にサンプン派が多数派だとすれば、どちらが正しいという話ではなくて、現実問題その多数派たちとどう付き合っていくかと考えたなら、やはり少数派が合わせていくしかないわけですから。

 ぼくは自分の負けを自覚しました。けれども、それで終われないほど悔しかった。この父を、思い上がったサンプン派を、徹底的に打ちのめしてやらなければ。と、その時は確かに思いました。

 ただ結局、さすがのぼくも、そんな憎しみは一晩寝れば風化しました。なのでぼくが3分の読み方問題を本気で調べたのは、それから半年くらい経ってからのある日のことだったのです。偶然何かの拍子にその話題を思い出して、本気で調べるという名の、ググる作業に入ったわけです。

 調べ始めた時には、風化したはずの憎しみが帰ってきていたような気がします。実際に父と言い争った時のリアルタイムな物に比べれば、いくらか小さくはなっていましたけど。

 

 調べた結果、ぼくに理解できる話は以下の物だけでした。すでにネットに投稿されていた、ぼくと同じような疑問を抱いた人に対する、誰かからの回答でした。

「3分は、普通サンプンと読みます。しかし、なぜそう読むかというと、それが一番読みやすいからです。それ以上の理由はないので、本気でサンフンの方が読みやすいという人がいるなら、それはそれで別にいいのではないでしょうか」

 言ってしまえばヤフー知恵袋のやり取りなので、信用性は定かではありません。けれども、それでもショックでした。ぼくは言う側に立つ時はともかく、聞く側に回った時にはサンプン派を受け入れてやろうと思っていたのです。

 それが、普通は逆だと言われたのです。ぼくの方が、慈悲の心でもって容認「してもらう」側だと言われたのです。

 父が正しかったのか。ぼくがおかしいのか。これ以上の話は「そもそも日本語の歴史とは」みたいな難しい話が出てくるばかりで、ぼくに理解できるのは知恵袋がせいぜいでした。敗北を認めるしかありません。打ちのめしてやらなければと思った相手に、容認してもらいながら生きていくか、自分がサンプン派に変わっていくしか、もはや残された道は……。

 ……が、しかし、その時です。ぼくに革新的な閃きが降ってきました。ピタゴラスイッチの1コーナーが、1本でもニンジンの歌が、ぼくに神託を授けたのです。

 やはり自分が正しい。そう確信を得るに至った閃きが、以下の物です。

 

 時間の単位である「分」は、「フン」と「プン」二通りの読み方をします。一分ならプンですし、二分ならフンです。

 この時、「プン」と読む可能性のある物は、以下に挙げる物たちだけになります。

「1分=イップン」

「6分=ロップン」

「8分=ハップン」

「10=ジュップン(ジップン)」

 一方、「フン」と読む可能性のある物は、残りの物たちになります。

「2分=ニフン」

「4分=ヨンフン」

「5分=ゴフン」

「7分=ナナフン」

「9分=キュウフン」

 さて、こうして2パターンに分けた時に、3分はどちらに属するでしょうか。

 重要なのは、3分をサンプンと読もうがサンフンと読もうが、そこに「ッ」は登場しないことです。プン読みのリストを見てください、すべてに「ッ」が含まれているでしょう。一方、フン読みのリストに「ッ」は一つも含まれていません。

 3分は、この法則に従うのなら絶対にフン読みなのです。 

 

 ……この「ッ」の法則に気づいた時、ぼくはもう本当に、法律で裁けない悪を滅ぼした気分になりました。何をどう考えたって3分はフン読みだろうと主張するための材料を手に入れたのです。

 この材料を跳ね除ける主張を、父はきっと持っていないでしょう。なぜなら父は「それが普通だから」の一つ覚えで、「なぜ普通なのか」という具体的な根拠を何一つ出せないからです。まさか日本語の歴史が、なんて話をしてくるはずもありません。

 勝ちを確信しました。大きな態度で我が物顔して間違ったことを「常識」だと騙る巨悪を、ぼくが大逆転劇の末に打ち滅ぼす時が来たのです。謝らせてやるとまでは言わないけれど、父にぼくが正しかったことを証明してやる……! そう意気込んでいました。

 満を持して、父に上の根拠でもってサンフン派が正しいことを主張します。どうだっ……と、してやったりな風に。

 父から帰ってきた返事は一言だけでした。

「何の話してんの?」

 ぼくがネット検索に乗り出すまでの半年、閃きを得るまでの半年の間に、父はすっかりこの話題について忘れていました。それほど父にとっては、多忙な社会人にとっては、人の親にとっては、これはどうでもいい話だったのです。

 あれを喧嘩だと認識していたのも、ぼくだけだったのかもしれません。やり場のない怒りを抱えたまま、この話は「時効」にて決着しました。

 

 

 最近久しぶりに、スマートフォンをスマフォと略する人を見かけました。そんな時に、ぼくは3分の読み方問題を思い出すのです。3分問題が初めに現れた時から、もう三年以上経っていると思います。

 略称というのは短く読みやすくするためにあるのであって、言葉として正しいかどうかというのは二の次だとぼくは捉えています。スマホという略称に「「スマートフォン」のどこに「ホ」があるんだよ!」と言い出す人は、略称の本質を見失った憐れな人だと思っていました。

 しかし憐れに思うことには、スマフォよりもスマホの方が言いやすいというぼくの価値観が前提にありました。略称というのは、短く読みやすくするためにある。スマホよりもスマフォの方が、本気で言いやすい人もいるのではないか……? 3分の読み方問題との深い関連性をここに感じます。

 スマフォ派の人にとって今のぼくは、3分問題の時にぼくが見た父のような人物に映っているのではないか。スマホ派が多数は気取るなよ……と、自分たちを迫害する憎しみの対象として。

 そしてスマフォ派の人たちが、鬼の首を取ったようにこう主張したら。

スマートフォンという言葉の中に「ホ」は存在しない。よって、略称として正しい物はスマフォである。これに異を唱えるのならば、原型となる言葉の中に本来存在しない文字が使われる略称の例をスマホ以外に挙げてみろ」

 もしそんな主張をする人が現れたのなら、その人は「ッ」が云々と主張していた時のぼくと同じです。

 ぼくは、なんて馬鹿なことをしていたのだろうと、その時やっと気付きました。

 例えば我々が「カップラーメンは3分で完成します」と口にする時、我々が伝えたいことは「カップラーメンは3分で完成すること」のはずです。決して「自分は「3分」を正しく発音できます」ということではないはずです。

 言葉はコミュニケーションツールなのです。クイズの問題ではありません。意味が伝わっているのに「その発音は間違っている」と糾弾するようなことは愚かなことなのです。本質を見失っています。その上余計な争いを生んでいます。

 これは挨拶も同じことです。微妙な時間帯に「こんにちは」と挨拶したことを「この時間帯は「おはようございます」でしょう」と訂正する人は、挨拶が何のためにあるのかを見失っています。挨拶は円滑なコミュニケーションのためにあるはずです、お互いが気分よく過ごすためにあるはずです。相手の挨拶への訂正は余計であるどころか、挨拶の本来の意義を損なうことにさえなります。

 我々は、言葉のクイズ大会を無意味に開始してはならないのです。それはまったく無駄であるか、もしくはコミュニケーションの障害となるからです。ようやくそのことにぼくも気が付きました。父はもちろん全ての人はぼくのサンフンを訂正するべきではないし、ぼくもまた誰かのスマフォを訂正するべきではないのです。

 しかし、そう結論付けると新たな問題が発生します。ぼくは、そして全ての人は、果たして2分をニプンと発音する人のことを、何の違和感もなしに受け入れられるのでしょうか。

 状況を問わず3分を必ずスリーミニッツと発音する日本生まれ日本人の場合でもなんでも、とにかく違和感を覚えそうな発音をする人がいた時のことを想像してみてください。その人になぜその発音をするのかと聞くと「言いやすいから」と返ってきます。我々は、その人のことを他の人に対するのと同じように受け入れることができるでしょうか。

 ぼくなら、そんな人とはあまり関わりたくないと思います。変な人に関わって良いことがあるケースは、悪いことがあるケースの何百分の一の確率だと思っているからです。この考えに賛同する人が全人口の何パーセントいるのかは分かりませんが、そう少なくないのではないでしょうか。

 おそらく我々が言葉を聞く時、その意味がすべて正しく伝わっている前提で、我々が感じることは3パターンに分かれるのです。

「違和感なく受け入れられる」

「違和感はあるが受け入れられる」

「違和感があって受け入れられない」

 3分の読み方問題は、せいぜい2番目の「違和感はあるが受け入れられる」話だったのだと思います。少なくともぼくにとってはそうでした。父にとっては1番目の受け入れられない物だったのかもしれません。

 相手から飛んできた言葉が、この3パターンのうちどこにカテゴリ分けされるかは個人差があります。より多くを受け入れられる人もいれば、受け入れられない物が多い人もいるでしょう。そしてその「受け入れられない」がお互いで一致しなかった時に、我々は争いを起こす場合があるのです。

 要するに、我々には言葉の価値観の相性が存在するのです。その相性が食い違ってしまえば最後、どんな理屈を並べて何が正しいのかを証明したつもりになったところで、お互いに分かり合うことはできないのです。

 だって考えてみればぼくだって、仮に「2分」の学問的に正しい読み方が実は「ニプン」であるという事実が存在していてそれを知ったとしても、その後も2分をニプンとは絶対に一生読みません。誰でもそうでしょう? 正しいと分かれば、どんなに違和感があっても正しいことに従う人なんて、ほとんどいないはずです。

 正しさを証明することは、言葉の違和感を語るにあたって何の価値もないことなのです。そして正しさが無意味であることが判明しているのに、言葉の違和感についての相性の悪さを解決してくれる他の物を、ぼくは何一つ知りません。諦めるしかないのだと思います。

 誰か一人の発するすべての言葉に違和感を抱くことなんてないでしょう。相性の悪さが露呈するのは極々限られた場合のみです。もしかすると、相性の悪さが見えないまま一生を終えられるような相手だって見つかるかもしれません。確率の話だけで言えば、これはそれほど些細なことなのです。だからこそ、諦めるしかないという結論に至ったとしても、少なくともぼくはギリギリ納得することができます。

 絶対に人と分かり合えない部分が僅かとはいえ確実にあるなどという事実は、何千何百という人間と密接に関わるわけではない我々にとって、きっとそんなに悲観することではないのです。仮にテレパシーを使ってでさえ人間が分かり合えないとしても、それはそれほど問題視することではないのです。それが問題として自分の前に立ちはだかることなんて稀でしょうから。

 ただ、自分の親との間にその些細な問題が発生したことを、ぼくが受け入れられなかったというだけで。

すごろく作ってみた!(形になったとは言ってない)

 なんか素晴らしい閃きを得た気がするし、ダークソウルすごろく作ったろ!

 ……そう思い立ってわずか数日。結論から言って、ぼくはすでにオリジナルすごろく作成を諦めました。トランプのオリジナルルールが作れるならいけるだろう、という考えが甘すぎました。トランプとすごろくは別物、ベツモノなのです。

 順を追って経緯を説明しましょう。まず、中学の頃に突き当たった問題に対する解答を出すところまでは良い調子だったんですよ。本当です。

 

 ぼくが中学生の頃にダークソウルのすごろくを作ろうとした時、早々に見えてきた問題は大体以下のものたちです。

「ゲームのストーリーに沿って各マップを巡るすごろくにすると長すぎる。一つのマップだけを進むすごろくにすると短すぎる」

「武器やアイテムなどの、世界観とゲーム性のどちらにも関係している要素を原作通りに配置しようとすると、あまりにも広大なすごろくになってしまって非常に遊びづらい&作りづらい」

「戦闘で何度もサイコロを振ると疲れる。かといって振る回数を少なくすればするほど運ゲー化していく」

 ……と、これらの問題の解決策は思いつきました。一つ目なんか簡単です、短すぎたと感じれば、プレイヤー側が「もう1ステージ行こうぜ」的なノリで普通に二回戦を始めればいいのです。なので、基本的にゲームのステージ1つをすごろくのマップ1つとして作っていきます。

 そう簡単ではないのは残り二つの課題。これらを解決するためにぼくが思いついた策は、ずばり切り捨てでした。

 我々人間が右を向きながら左を向くことはできないように、全知全能の神にパラドックスがあるように、どうしても「両立できないこと」というものが存在します。今回の場合、それは原作再現とゲーム性の両立です。どちらかを切り捨てなければ、少なくともぼくの力ではまともな物を作れないと判断しました。自信がある人は両立を目指してください。

「原作に忠実なマップやアイテム、敵などの要素で構成されているがゲームとしてはクソゲーなすごろく」or「原作をちょくちょく無視しているがゲームとしてはそれなりの出来のすごろく」……ぼくは後者を取りました。ダークソウルの世界観は素晴らしい物だと思いますけど、やっぱりあれもゲーム自体が面白いことが前提にあったわけですし、ゲーム性が損なわれることだけはあってはならないと判断しました。

 じゃあ具体的にどうするのか。ゲームのために必要とあらば、本来存在しないはずのアイテムだろうと武器だろうと配置します。武器はマスを通過、アイテムはマスに停止で取れるように設定しました。

 武器は「武器マス」を通過することで「筋力」「技量」「魔法」3タイプのキャラが誰でも自分に適した武器を手に入れられるようにしたので、これで平等になる上に、たくさんの分かれ道を作る必要はなくなりました。……え? それだと全員が同じ場所に武器を取りに行く「武器屋さんへレッツゴーゲーム」が始まる? 上等です、そっちの方が面白いならレッツゴーさせますよ。

 ただ、本当に武器を取りに行くのがノーリスクになるとさすがにクソゲーなので、これは「ゴールマスでのボス戦開始前にダイスの出目次第で武器を入手できる。道中の武器マスを通過した場合はその場で確実に武器を入手できる(道中が楽な上にランダム性無し)」という風にして、武器マスへの道はそれなりの遠回りをさせることにしました。これなら取っても取らなくても、一応どちらにも選択の意味、メリットとデメリットが生まれるでしょう。……たぶん。

 次に、多すぎる敵はザックリとカットしました。大体1種類の敵につき出現するマスは1つです。敵の出現するマスを通過ではなく、そのマスに停止で戦闘開始に設定します。原作でどれだけ敵の多いマップであろうと知ったことではありません。戦闘の増加はダイスロールの回数増加です、そもそも戦闘自体がどう足掻いてもダイス振りまくりのゲームになるので、できるだけカットします。

 主人公が不死人であるダークソウルを元ネタにしたすごろくなので、戦闘での敗北は軽めのペナルティ「一回休み」にしました。ただそれだけだと戦闘の発生するマスが「一回休みになる恐れのあるダイスロールが面倒なマス」になってしまうので、戦闘に勝利した場合に能力値を上昇させられる設定も付け加えました。

 戦闘による成長は、そもそも戦闘マスに止まれるかが運な上に、戦闘自体もある程度運の要素が出てくるので、あまり運ゲー化しないように成長上限を設けました。上限に達したあとの戦闘マスはただの面倒なマスになりますが、それはそれで「〇〇(数字)だけは出るなよ!」みたいな、すごろく本来のサイコロを振る楽しみが出ていいかなと思い解決ということにしました。

 ……と、そんな感じでアイテムと戦闘については方針が決定しました。原作再現の要素を大幅にカットすることになりましたが、ダークソウルに出てくる名前のマップで、そのマップに出現する敵と戦ったり戦わなかったりしながら、本来そのマップにはなくともゲーム中には確かに存在する名称のアイテムを駆使してゴールを目指す。それで面白ければ、もう、充分じゃないですか。

 というわけで、この次は具体的に戦闘バランスの調整……自分キャラ3タイプの能力値と特性、敵キャラの能力値、アイテムの詳しい効果などを設定していくことになります。このあたりまでは本当に順調だったと思います。

 

 戦闘バランスについて気を付けることは二つです。一つ、ゴール地点にいるボスを倒した人の優勝というルールにする以上、ボスになかなか勝てず白けるorあっさり勝てすぎてボス戦の意味がないということのないようにすること。二つ、道中のいわゆる雑魚キャラとの戦闘に時間がかかりすぎないようにすること。これらは絶対に満たさなければなりません。

 戦闘が長ければ長いほど「結局負けました」となった時のショック、モチベーションの低下が激しくなるので、まずは雑魚キャラの戦闘を如何に早く終わらせるかを考えます。そしてそれをボス戦にもいい感じに流用したいです。

 そこで思いついたのは、敵キャラのHPを低めに設定することです。ワンチャン一撃で倒せるくらいにします。その代わり、仕留めそこなった時は痛い反撃が飛んできやすいように設定します。……これ、意外と原作再現にもなってるんですよね。固いキャラよりは、攻撃が痛い敵の方が圧倒的に多かった記憶です。

 黒騎士などの一部キャラはHPを多めに設定する代わりに、勝った時に能力値上昇にプラスして特別なアイテムの入手を付け加えました。さらにマスに止まった場合戦うかどうかはプレイヤーの任意で、一度戦闘したなら勝ち負けに関わらず消滅、セカンドチャンスは無しという仕様にします。

 これによって、アイテム狙いで任意で挑んで負けた時の自己責任感を出しつつ、消滅させることで何度もチャレンジし同じ敵との戦闘を眺める面倒な展開を回避します。もちろんアイテム狙いで挑む意味を消さないように、強すぎず弱すぎず、でも割と強い程度の設定を考えます。

 強い弱いの基準ですが、プレイヤーも敵もダイスロールで攻撃する以上どうしても運の要素はあります。自分の思い描いた強さに設定されているかどうかは、実際にテストプレイを重ねて体感で判断していくしかないです。なので、敵の強さはこの時点ではおおざっぱに深く考えず決めていきます。

 ボスもこれと同じ風にして、HP多めで他の敵より強力な攻撃を高すぎない確率で繰り出してくるように設定します。ダークソウルの魅力の一つはボスのバリエーションと個性なので、ボス戦の設定に限っては原作再現がそのままゲームの面白さに繋がりそうなので良かったです。プレイする時は個性豊かなボス戦で飽きずに遊べて、設定を作る時は個性に沿って設定できるから割かし楽と、いいことづくめです。

 しかし、それでもやっぱりボスが強すぎだったり弱すぎだったりアンバランスな設定になってしまっている可能性があります。こればっかしは実際に遊んでみなければわかりません。トランプの時も一緒でした、ゲーム作り素人にとってまず何より重要なのはテストプレイです。

 一通りマップと敵も設定できたし、実際にすごろく作って遊んでみるか! ……その段階にきて、やっとぼくは重大な、そして最大の問題に気が付きました。

 すごろく、一人でやってもつまらない問題です。

 

 3タイプのキャラを一気にテストプレイするべく、ぼくは一人で三人分のダイスを振るでしょう。振って、設定を確認してそれ通りに動かして、振って、動かして、振って…………何が楽しいんでしょうか? 寂しすぎます。昼休みにトイレの個室でサイコロ振ってる気分になりそうです。

 トランプの時は、というか今まで遊んできたカードゲームの時は一人でも全然問題なく楽しかったです。けれども思えば、いたストとか桃鉄とか、ああいうのはコンピューターとやっても何一つ面白みを感じませんでした。一体何が違うのでしょう。

 カードゲームは、与えられた手札から最善解を導き出すゲームです。本来ならデッキを組む楽しみもありますが、トランプではそれもありません。なのにある程度楽しかった。すごろくだって同じはずです。与えられたサイコロの出目から、分かれ道などの選択肢で最善解を目指す。そういうゲームのはずです。

 たぶん、ぼくはカードゲームが好きなんだと思います。カードをあちこちへ動かしていること自体がある程度楽しいんです。でも、サイコロを振って駒を動かすことはそこまで楽しめない。ぼくはどうやら、すごろくはそこまで好きじゃないようです。だから一人ですごろくをやっても楽しめない。

 そうなってくると今回の企画自体に疑問が生まれます。一人で遊んでも楽しくないものを必死に作ってどうするんでしょう、家族や友達と遊ぶ用のゲームならすでに充分な物がありますし、ぼくが新たに素人クオリティで作る必要はありません。やはり自作ゲームは、ぼくがぼくしか遊び相手がいない時にぼく一人で楽しむための物であるべきなのです。すごろくではそれを満たせないなら、すごろくの自作に存在価値なんかありません。

 そもそも一人すごろくが楽しくないとなると、テストプレイはただの苦行です。まさか未完成のガバガバゲームバランスの状態でのテストを誰かに付き合ってもらうわけにもいきませんし、ぼくは苦行の末にすごろくを完成させることになります。そして自分はその完成品に価値を感じない。じゃあもう作る意味ないですよね。

 紙とペンとやる気さえあれば、誰でも作れそうに見えるすごろくという遊び道具。今までに、どれも素人の中でも低すぎるクオリティの駄作とはいえ、小説や絵やトランプでの独自の遊び方を考えてきたぼくとしては、作れそうならば作ってみたかったという気持ちがありました。

 創作に何か魅力を感じるのです。自己満足がしたいのです。だから頼りの人がいるかどうか以前に、気持ち的にまずテストプレイ時に人に頼りたくないのです。自分一人で作って、自分一人で満足したいのです。ただ、そのためならどんな困難でも超えられる……というわけではありません。

 なんとなく「創作」というだけで釣られてすごろくを作ろうとしていましたけど、ぼくの本当の目的は「一人遊びをすること」でした。それを思い出しました。すごろく作りは、目的にまったく見合っていませんでした。

 こうして、オリジナルすごろく作成計画は終了します。テストプレイ一切無しで適当に考えた設定たちはほぼ確実にガバガバなアンバランス状態なので、恥ずかしいですし公開はしません。作りかけの要素共々永久凍結です。

 思いついてから数日。短い一人遊びでした。

金がないなら自作すごろくでも作って遊んでろ

 みなさん子どもの頃に自作すごろくの作成を試みたことはありますか? ありますよね、ぼくはあります。学校行かずに作ってたり、みんなが授業してる時に保健室なんかで作ってた気がします。

 しかし、すごろくを作るだけならまだしも、面白いすごろくを作るというのは至難のワザマエです。それを子どもの頃に身をもって知りました。要するに、つまらないすごろくをいくつか作ったわけですね。

 例を出しましょう。

 

・パターン1 普通のすごろく

 サイコロと紙と駒でやる普通のすごろくです。出目の分だけマスを進んで、止まった先に書いてある内容に従ってゲームを進めます。もちろん最初にゴールにたどり着いた人の勝ちです。

 このタイプのすごろくの何がダメなのかというと、まず一度遊ぶと飽きてしまうことですね。ただ単調にサイコロを振るだけのゲームなんか子供騙しじゃん……という部分に目を瞑ったとしても、そもそも飽きやすいことが大問題です。

 一本道のすごろくは一度遊べば大体の内容を覚えてしまいます。それはもう「あの「3マス進む」のマスに止まって進んだ先では、次の番に5を出すと「2マス戻る」のマスに当たるから、あのマスに止まると次の番は実質5も3みたいなものだぞ」みたいなことまで覚えちゃいます。これがつまらないんですよね。

 元々が単調なので、パターンを覚えちゃうと以降はもうほとんど、すでに見飽きた番組の録画を見るみたいな感覚に陥ってしまいます。紙に手書きでマスを書いて苦労する割に、1~2回遊んで飽きてしまうのでは割に合いません。

 しかも途中で書いた通り、割と子供騙しのすごろくなので、自慢げに人に「すごろく作ったんだぜ!」と報告することもできません。そんなすごろくに労力を費やすくらいなら、トランプで神経衰弱でもしておいた方が有意義です。

 

・パターン2 お金などの、勝敗を決する「得点」が登場するすごろく

 人生ゲーム、いただきストリート桃太郎電鉄、あとぼくはやったことないけどモノポリー。お金を一番多く稼いだ人が優勝、というすごろく系ゲームは数多くあります。数多くある事実それ自体からも、そして実際に自分が遊んだ経験からも、その手のゲームは面白いことがわかります。

 じゃあ自分で作っちゃえ。と、そんな軽いノリで作れれば苦労はしません。ぼくも一度試みてあっけなく諦めました。

 まず、ゲーム内でお金を用いるからには、それを管理する媒体が必要になります。玩具のお金だとか、数字を表示しておいてくれる物……電卓とかですかね。一家に電卓って何台ありますか? 遊ぶ人数分用意できますか? まぁ当時はともかく、今はスマホで代用もできますけど、それにしたって厳しいです。

 玩具のお金の自作&量産は非現実的なので、全員の所持金を表す電卓(スマホ)を用意することになります。遊び相手に道具の用意を強制するあたりゲームとしての欠陥が物陰からこちらを覗いている気もしますが、それを見て見ぬフリしても問題はまだあります。

 問題その2は、ゲームバランスです。お金を稼ぐすごろくが面白いのは、ちゃんとゲームとして成り立ったバランスが設定されているからです。極端な話をするなら、バラエティでお約束の「この問題に正解した人には100万点!」みたいな展開をゲームでやると、全然面白くないクソゲーになるわけです。

 バラエティ番組はその場のノリですけど、ゲームは何度も遊びますからね。毎週お約束の展開やってる番組なんて見たことないでしょう? なので、そこまで極端ではなくても、ゲームバランスには気を遣わなければなりません。

 で、気を遣うって、どうやって? ノウハウなんか1ミリも持ってない知らない状態ですし、適当に作って遊びながら調整していく? すごろくを一人で何度も? 手書きの場合は書き直す労力もそれなり大きいのでは? そもそも、いたストや桃鉄みたいに複雑なお店なり物件なりのシステムをアナログで再現するのはさすがに非現実的です。

 最終的に、ぼくはお金稼ぎ系のすごろくの作成を諦めました。だって、仮にものすごい苦労をして完璧に近いゲームを作れたとしても、スーパーのオモチャコーナーでいくらか出せば「人生ゲーム」という自分の作ったゲームによく似た、それもほぼ完全上位互換のゲームが買えてしまうんですよ? 自作すごろくを完成まで漕ぎ着けるだけの労力の価値をお金に換算すると、その人生ゲームが買える金額以下になるのでしょうか?

 ああ、そうさ! と笑顔で言える人は、さっさとバイトなりなんなりで働きに出た方がたくさんの面白いゲームが買えると思います。そっちの方が効率的です。

 

パターン3 戦闘があるすごろく

 ダークソウルというアクションRPGゲームがありまして、中学生のぼくはそれにハマっていました。そしてある日「ダクソをすごろくに出来るのでは!?」と思い立ったわけです。

 すごろくの中で敵を倒しつつ進んで、ゴールにたどり着いた人が優勝。と、そんなゲームにする予定だったわけですが、その「敵を倒す」をどうやるのか、つまりすごろく内での戦闘はどうやって行うのか。初めはまぁ当然というか順当にというか、サイコロを振って行う方法を考え付きました。

 自分の攻撃、サイコロを振って判定。相手の攻撃、サイコロを振って判定。これを繰り返して自分が勝てば先へ進める。負けたら数マス戻る。よっしゃ、これ面白いだろ、これでいけるわ。そう確信を得たぼくはすごろくを作ってさっそくテストプレイしてみました。

 一回の戦闘が終わるまでに、何回サイコロを振ったのか。もはや数えたくもないほど多くの回数振ったと思います。ゲームバランスが悪かったですね。サイコロを数回振れば戦闘が終わるような設定にしておかないと、振ってるプレイヤー側に嫌気が差してきます。

 しかし振る回数を減らすとなると「偶数なら勝ちで先に進む、奇数なら負けで数マス戻る」みたいなシンプルな物になってしまうように思えました。ぼくはダークソウルの緊張感ある戦闘などを再現したかったわけですが、これでは「小学校の障害物競争で、最後に先生とジャンケンして勝ってからゴールへ走る」みたいな物になります。いかにもつまらなさそう。

 結局ぼくはここの打開策を思いつくことができないまま、ダークソウルすごろくの制作を諦めてしまったのでした。ただ、あとから考えれば他にも原因はたくさんありました。

 ぼくの今回の目的は、その原因たちを解決して「面白いすごろく」を作ることです。活路は戦闘系すごろくにあると見ました。

 

 

・ダークソウルすごろく作成の際に見えた課題

 課題その1 まず、なにをもってしてゴールとするのか。

 ボスを倒してゴール……というのでは、一つのステージをクリアしたらおしまいということになります。ダークソウルにはいくつものステージがあり、それぞれ強烈な個性のギミックやアイテム、ボスなどが配置されているのです。ここを再現しないなら、ダークソウルすごろくなんて名乗るのやめちまえって感じです。

 ただ実際作るとなると、そもそもゲーム中に登場する全てのステージをすごろくとして攻略しようとした場合、たぶん昼から初めて終わる頃には日が暮れることになります。早い段階で戦闘システムに行き詰まり挫折したので考えていませんでしたが、これは重大な問題、欠陥です。

 TRPGみたいにキャラシートを保存して何回かに分けて遊ぶ……という手もあります。しかし、それは面白いとされるTRPG並みのクオリティですごろくを作れる前提があってのこと。時間がかかるとわかっているゲームのプレイを始めるには「時間はかかるけど、でもこのゲーム面白いぞ」という相当なモチベーションが必要になってきます。素人の手でその条件を満たす物を作るのは、正直言って無理でしょう。

 なんとかすごろくを短くする必要がありそうです。しかし凝縮すればするほど、個々の個性は薄まって、もしくは失われていきます。ぼくはそれが嫌でした。ダークソウルへの愛が重すぎた説が濃厚です。

 

 課題その2 結局、戦闘システムはどうするのか。

 これについても愛が重すぎるせいで難航していた節があります。まずぼくはTRPGほど綿密ではないにせよ、ある程度スタート時に駒とするキャラの性能はそれぞれのプレイヤーで決めておきたいと考えていました。

 筋力タイプ、技量タイプ、魔法タイプ。大体その三つの中から選ぶ形でいいかなと思っていたわけです。そうなってくると、当然戦闘内でのそれぞれの特徴を考える必要が出てきいます。それはまだ、3パターン考えるだけだからたぶん問題なし、良しとしましょう。

 しかし、3タイプのキャラはゲームに忠実にいくならそれぞれ装備する武器が違います。ぼくはそこも再現したかった。あのマップにあるあの武器を取ってからこのキャラは強くなるんだ……みたいな、そういう成長システムというか、そんな感じのやつがほしかった。

 しかしそうなってくると、初めにプレイヤーが自由にキャラを選べる以上、それぞれのキャラに格差が出ないようにするためにそれぞれの武器(それもそれぞれ違った個性があるもの)を配置する必要が出ます。でないと弱いキャラを選ぶ人が出なくなりますからね。

 そうなるとその分マップも広くしないと、みんなが同じような場所へ武器を取りに行く「武器屋さんへレッツゴー」なゲームが始まります。そんなもんダークソウルには無い。しかしマップを広くするとプレイ時間が……。

 というかそもそも考えてみれば、武器を取るってどういうシステムにするんでしょうか。ちょうどそのマスにぴったり止まればゲット? 確率厳しすぎない? 通り過ぎたらゲット? それで一本道だと結局みんな戦闘前に「なんか落ちてた」で手に入れるから、だったら最初から持たせてる設定でやれよって話になってしまう。そして道を分岐させると、それぞれの道に別々のイベントも配置しないと結局意味がないから、上手い具合にやらないと「なんかあのタイプのキャラだけ有利じゃない? みんなあのタイプで遊ぼうぜ」ということになってしまいます。

 あれ……ひょっとしてダークソウルのすごろく化とか無理じゃね……? このあたりでそういう結論がチラチラと見えてきました。

 

課題その3 マップの形はどうする? イベントは?

 初めの頃、ぼくはすごろくのマップをゲームのマップに似せた形で作ろうとしていました。しかし元々方向音痴の人間、ゲーム内での東西南北の感覚はすぐに消え去ります。結局、似せるも何も「形」自体が把握できないということになりました。

 けれども、ただの一本道では芸がないし見た目にダークソウル感がない! はい、また愛が暴走し始めます。マップの形を把握できるようにたくさんゲームで遊ぶんだ、もしくは動画を見るんだ。……とか言ってる間にすごろくのモチベは段々と薄くなり、水が徐々に蒸発するように自然消滅していったのは言うまでもありません。

 そしてマップの形を抜きにしても、まずはイベントです。ダークソウルらしさ、つまりは個性を出すなら形よりもマスに止まった時のイベントの方が大切でしょう。いっそそれが思いつけばマップの形なんてもうどうでもいいかな。2週目世界の四人の公王にボッコボコにされながらぼくはそんな風に路線変更を検討していました。

 で、例えばゲーム内の通り道で矢が飛んでくる場所があったとしましょう。それを再現するとなると、どこかしらのマスに止まった時に「矢が飛んできてダメージを受けた!」みたいなイベントが起こるわけです。つまり、戦闘以外の場面でも「HP」の概念が出てくるわけです。

 当然、道中で削られたHPでそのままボスとの戦闘に突入することにならなければ、道中のHP増減イベントに価値がなくなります。となると、常にキャラのHPをカウントしておかなければなりません。

 ……どうやって? カウントだけで言えば減る一方なら楽ちんで、紙に書く程度でもいけるでしょうけど、それだとさすがにゲームバランスの問題もあります。何よりゲーム内には回復アイテムも登場するので、それを採用しないわけにはいきません。

 しかし増減するHPを紙に手書きでカウントするのはちょっと厳しい、というか面倒くさい。手ごろな物体(おはじきとか)をカウンターとして使えれば「一個につき1ダメージ受けてる状態ですよ」という風に出来るのですけど、そんな手ごろな物体そうそう都合よく身の回りにありませんよね。道具の用意に手間がかかるのはいただけません。

 かといってダメージ系のイベントを外すことも演出上難しい。一本道のマップでさえ上手く作れないとなってくると、マジで無理っぽいように思えてきます。そもそも戦闘だって「実質ジャンケン」のルールから抜け出しなおかつ手早く終わるようにしないといけないのに、これ全ての問題の解決って可能なのでしょうか……?

 実際、諦めました。少なくとも当時は。

 

 

 あれから数年。 (はじめてのおつかい並感)

 トランプで遊戯王っぽい遊びができないかと考え、ある程度実現することに成功した現在のぼくは、ふとダークソウルすごろくのことを思い出します。そして、トランプの神の声が聞こえた気がしました。

「原作再現を優先順位の1にするな。トランプ遊戯王を考え始めた頃、数字の1~4だけがリリースなしで通常召喚できるルールはクソゲーだっただろう。再現(もといパクり)つつも、大切なのはゲームバランスだということを忘れるな」

「なに、気づいたら家の中にサイコロが見当たらなくなってた? そもそも普通の家にサイコロって置いてないと思う? ……トランプにも、1~6の数字があるのだがな」

「なぜ全マップを一度で、もしくは通しで遊ばなければならないのだ? ボスを一つ倒してゴールでいいじゃないか、キリも良い。……それだと他のマップが使えないのが気に食わない? 一回や二回で飽きないすごろくを作りたいのなら、何度も遊ぶ前提なのだろう? なぜ二度目以降も同じマップで遊ぼうとするのだ」

「HPを手軽にカウントする物がない? ジョーカー含めたトランプ計54枚って、すごろくでサイコロ代わりにしている間に全部使うかな……?」

 な、なんかいける気がしてきた。ぼくもう一回頑張ってみるよ神様!

 

 次回、「ダークソウルすごろく作ってみた!(キラっとプリ☆チャン並感)」につづく……。

 

トランプ王 ルール。

☆トランプ王基本ルール☆


☆用意する物……1~10のカードとジョーカー2枚(計42枚)が揃ったトランプ。11~13(12枚)は別の場所に置いておく。

☆ターンの流れ……
                  ターン開始
                    ↓
・ドローフェイズ……山札から1枚カードを引く。カードを引くことを「ドロー」と言う。
                    ↓
・メインフェイズ1……モンスターの召喚、魔法・罠の発動やセットなどが行える。
                    ↓
・バトルフェイズ……モンスターでの攻撃が行える。
                    ↓
・メインフェイズ2……モンスターの召喚、魔法・罠の発動やセットなどが行える。(メインフェイズ1と同じ)。
                    ↓
                  ターンエンド

☆ゲームの始め方
……お互いに5枚の手札を裏向きで用意してから先攻後攻を決める。決まったら手札を確認してスタート。
……先攻1ターン目にはドローフェイズとバトルフェイズが存在しない。


……召喚について

・毎ターン1度だけ、任意のカードを1枚モンスターとして召喚することができる。これを「通常召喚」と呼ぶ。また、1ターンに1度通常召喚を行うことができる権利のことを「召喚権」と呼ぶ。

・モンスターを守備表示で召喚したい場合、裏向き守備表示で「セット」しなければならない。セットも通常召喚としてカウントされる(召喚権を消費する)。また、特殊召喚するモンスターを守備表示で出したい場合は表側守備表示で出さなければならず、裏側守備表示で特殊召喚することはできない。

・カードの効果などで行える「特殊召喚」は、通常召喚と違って1ターンに何度でも行える。

・一度に場に出しておけるモンスターは3体まで。


……モンスターについて

・モンスターには「攻撃表示」と「守備表示(裏側守備表示)」の2種類の表示形式が存在する。召喚されてから1ターン以上が経過していて、なおかつ攻撃を行っていないモンスターは1ターンに1度表示形式の変更を行える。この際、裏側守備表示にすることはできない。

・裏側守備表示のモンスターを表示形式変更する場合、必ず攻撃表示になる。

・裏側守備表示のモンスターが攻撃された場合、そのモンスターを表側守備表示にして戦闘を行う。

・守備表示のモンスターは攻撃することができない。


……魔法について

・任意のカードを魔法カードとして使用することができる。魔法カードは自分ターンに何度でも発動することができる。ただし、効果の処理を行えない場合の発動はできない。
「例……相手モンスターを破壊する効果の魔法カードを、相手モンスターがいない時に発動することはできない」

・魔法は裏向きでセットすることも可能。セットしたターンにすぐ発動することもできる。

・一度にセットできる魔法・罠は3枚まで。

・魔法カードには通常魔法の他に、罠カードとしても使える「速攻魔法」、発動後も場に残り続ける「永続魔法」などの種類がある。

 

……罠について

・任意のカードを罠カードとして使用することができる。罠カードはセットしてから1ターン以上経過しなければ発動できないが、相手ターンでも発動することができる。

・罠カードの発動は1ターンに何度でも行える。ただし魔法カードと同じく効果の処理が行えない場合は発動できない。

・罠カードには通常罠の他に、発動後も場に残り続ける「永続罠」が存在する。

 

……シンクロ召喚について

・場にある自分のモンスターを二体以上墓地に送ることでシンクロ召喚ができる。

シンクロ召喚では、墓地に送ったモンスターの数字の合計が11~13になるようにしなければならない。シンクロ召喚を行った場合、墓地に送ったモンスターの数字の合計に等しい数字のシンクロモンスターエクストラデッキから特殊召喚する。シンクロ
モンスターは山札とは別の場所に「エクストラデッキ」としてあらかじめ置いておく。

シンクロモンスターシンクロ召喚する場合、素材となったモンスターに含まれるマークを最低1つは含むモンスターを選ばなければならない。

「例……スペードの7とハートの5でシンクロ召喚する場合、スペードのQかハートのQのどちらかを選びシンクロ召喚する」

シンクロモンスターは場を離れた場合、エクストラデッキへ戻る。手札、墓地、山札、除外ゾーンには存在できない。


……勝利条件、敗北条件。戦闘について

・お互いのプレイヤーは40点のライフを持った状態からゲームを始める。ライフを全て失ったプレイヤーは敗北する。

・モンスターは、それぞれ数字に等しい攻撃力と守備力を持つ。モンスターが直接相手プレイヤーに攻撃した場合戦闘を行い、攻撃力に等しい点数のダメージを相手ライフに与える。

・相手の場にモンスターがいる場合、攻撃対象は必ずモンスターでなければならず、プレイヤーへ直接攻撃することはできない。モンスターがモンスターへ攻撃した場合は戦闘が行われる。この時、戦闘の結果は以下のように処理される。

「攻撃表示→攻撃表示への攻撃。…………攻撃力の高いモンスターの勝利。敗北したモンスターは破壊され、数字の差分のダメージが敗北した側のプレイヤーに与えられる。同じ攻撃力のモンスターが戦闘を行った場合、どちらも破壊されダメージは発生しない」

「攻撃表示→守備表示への攻撃。攻撃力>守備力…………攻撃側の勝利。敗北したモンスターは破壊される。ダメージは発生しない」

「攻撃表示→守備表示への攻撃。攻撃力=守備力…………攻撃力と守備力が等しかった場合、どちらのモンスターも破壊されずダメージも発生しない」

「攻撃表示→守備表示への攻撃。攻撃力<守備力…………守備側の勝利。どちらも破壊されずに数字の差分が攻撃側のプレイヤーに与えられる」

・モンスターは基本的に1回のバトルフェイズで1体につき1回だけ攻撃できる。また、攻撃せずにターンを終えることもできる。

 

 

・モンスター効果一覧。

☆・スペードモンスター 
 ……数字と等しいライフを支払うことで、このモンスターは手札から特殊召喚できる。
 ……相手モンスターを戦闘で破壊した時に発動できる。破壊した相手モンスターの数字の半分(小数点切り捨て(1未満にはならない))のダメージを相手ライフに与える。

 ・スペード_シンクロ_モンスター
 ……相手モンスターを戦闘で破壊した時に発動できる。破壊した相手モンスターの数字の半分のダメージを相手ライフに与える。

 ……5の倍数のライフを支払うことで発動できる。その数字以下の表側表示カードを全て破壊する。

 

☆・ハートモンスター
 ……このモンスターをセットすることはできず、守備表示で特殊召喚することもできない。また、このモンスターの表示形式を変更することはできない。

 ……このモンスターの召喚に成功した時に発動できる。自分のライフを数字と同じだけ回復する。

 ……このモンスターが戦闘を行うダメージ計算前に自分ライフが相手ライフを上回っている場合、このモンスターはその戦闘では破壊されない。

 ・ハート_シンクロ_モンスター
 ……自分ライフが相手ライフを上回っているなら、その上回っている分のライフを支払って発動できる。支払ったライフの数値と等しい枚数山札を見て、その中からカードを1枚選んでモンスターとして特殊召喚、または魔法として発動、または罠(魔法)としてセットする。

 

☆・クローバーモンスター
 ……このモンスターは同じ数字もしくは同じマークのカードを手札から捨てることで特殊召喚できる。

 ……このモンスターが戦闘で破壊された時に発動できる。数字と同じ枚数山札からドローする。その後引いた枚数より1枚少ない枚数の手札を山札に戻してシャッフルする。

 ・クローバー_シンクロ_モンスター
 ……このモンスターが場を離れた場合に発動する。墓地からクローバーのカードを1枚モンスターとして特殊召喚する。

 

☆・ダイヤモンスター
 ……相手はこのモンスターと同じ数字のカードを召還、特殊召喚、発動することはできない。

 ……このモンスターと同じ数字の相手カードの効果を無効化する。

 ……相手の場にカードが存在する場合、自分の場のカードを1枚墓地に送ることでこのモンスターは特殊召喚できる。

 ……このモンスターが自身の効果で特殊召喚に成功した時に発動する。相手の場のカードを1枚選び破壊する。この効果によってカードを破壊された場合、相手は山札の上のカードをモンスターとして特殊召喚する。

 ・ダイヤ_シンクロ_モンスター
 ……このモンスターのシンクロ召喚を宣言する時に、マークと数字を1つずつ宣言する。このモンスターが存在する限り、宣言されたマークか数字のいずれかを含む相手カードの効果は無効化され、宣言されたマークか数字を含むモンスターを相手は召喚・特殊召喚することができない。

 

 

・通常の魔法カード。
……同じマークか同じ数字のモンスター1体を選択して発動する。そのモンスターを破壊する。

・通常の罠カード。
……同じマークか同じ数字のモンスターが召喚・特殊召喚された場合に発動できる。そのモンスターを除外する。


特殊な効果を持った魔法・罠カード。

1……罠カード
   モンスターが召喚・特殊召喚された時に発動できる。全てのモンスターを破壊する。

2……魔法カード
   山札の上から3枚を見て、そのうち1枚を相手に見せてから手札に加える。この魔法は1ターンに1度しか発動できない。

8……速攻魔法カード
   魔法・罠カード1枚を選択して発動する。そのカードを破壊する。

9……罠カード
   場のカードを1枚選択して発動できる。そのカードを手札に戻す。

ジョーカー……魔法カード
       自分の場にモンスターがいない場合に発動できる。ジョーカーを除いた       自分の墓地のカードからランダムで2枚を選ぶ。それらのカードを手札       に加える。