すごろく作ってみた!(形になったとは言ってない)

 なんか素晴らしい閃きを得た気がするし、ダークソウルすごろく作ったろ!

 ……そう思い立ってわずか数日。結論から言って、ぼくはすでにオリジナルすごろく作成を諦めました。トランプのオリジナルルールが作れるならいけるだろう、という考えが甘すぎました。トランプとすごろくは別物、ベツモノなのです。

 順を追って経緯を説明しましょう。まず、中学の頃に突き当たった問題に対する解答を出すところまでは良い調子だったんですよ。本当です。

 

 ぼくが中学生の頃にダークソウルのすごろくを作ろうとした時、早々に見えてきた問題は大体以下のものたちです。

「ゲームのストーリーに沿って各マップを巡るすごろくにすると長すぎる。一つのマップだけを進むすごろくにすると短すぎる」

「武器やアイテムなどの、世界観とゲーム性のどちらにも関係している要素を原作通りに配置しようとすると、あまりにも広大なすごろくになってしまって非常に遊びづらい&作りづらい」

「戦闘で何度もサイコロを振ると疲れる。かといって振る回数を少なくすればするほど運ゲー化していく」

 ……と、これらの問題の解決策は思いつきました。一つ目なんか簡単です、短すぎたと感じれば、プレイヤー側が「もう1ステージ行こうぜ」的なノリで普通に二回戦を始めればいいのです。なので、基本的にゲームのステージ1つをすごろくのマップ1つとして作っていきます。

 そう簡単ではないのは残り二つの課題。これらを解決するためにぼくが思いついた策は、ずばり切り捨てでした。

 我々人間が右を向きながら左を向くことはできないように、全知全能の神にパラドックスがあるように、どうしても「両立できないこと」というものが存在します。今回の場合、それは原作再現とゲーム性の両立です。どちらかを切り捨てなければ、少なくともぼくの力ではまともな物を作れないと判断しました。自信がある人は両立を目指してください。

「原作に忠実なマップやアイテム、敵などの要素で構成されているがゲームとしてはクソゲーなすごろく」or「原作をちょくちょく無視しているがゲームとしてはそれなりの出来のすごろく」……ぼくは後者を取りました。ダークソウルの世界観は素晴らしい物だと思いますけど、やっぱりあれもゲーム自体が面白いことが前提にあったわけですし、ゲーム性が損なわれることだけはあってはならないと判断しました。

 じゃあ具体的にどうするのか。ゲームのために必要とあらば、本来存在しないはずのアイテムだろうと武器だろうと配置します。武器はマスを通過、アイテムはマスに停止で取れるように設定しました。

 武器は「武器マス」を通過することで「筋力」「技量」「魔法」3タイプのキャラが誰でも自分に適した武器を手に入れられるようにしたので、これで平等になる上に、たくさんの分かれ道を作る必要はなくなりました。……え? それだと全員が同じ場所に武器を取りに行く「武器屋さんへレッツゴーゲーム」が始まる? 上等です、そっちの方が面白いならレッツゴーさせますよ。

 ただ、本当に武器を取りに行くのがノーリスクになるとさすがにクソゲーなので、これは「ゴールマスでのボス戦開始前にダイスの出目次第で武器を入手できる。道中の武器マスを通過した場合はその場で確実に武器を入手できる(道中が楽な上にランダム性無し)」という風にして、武器マスへの道はそれなりの遠回りをさせることにしました。これなら取っても取らなくても、一応どちらにも選択の意味、メリットとデメリットが生まれるでしょう。……たぶん。

 次に、多すぎる敵はザックリとカットしました。大体1種類の敵につき出現するマスは1つです。敵の出現するマスを通過ではなく、そのマスに停止で戦闘開始に設定します。原作でどれだけ敵の多いマップであろうと知ったことではありません。戦闘の増加はダイスロールの回数増加です、そもそも戦闘自体がどう足掻いてもダイス振りまくりのゲームになるので、できるだけカットします。

 主人公が不死人であるダークソウルを元ネタにしたすごろくなので、戦闘での敗北は軽めのペナルティ「一回休み」にしました。ただそれだけだと戦闘の発生するマスが「一回休みになる恐れのあるダイスロールが面倒なマス」になってしまうので、戦闘に勝利した場合に能力値を上昇させられる設定も付け加えました。

 戦闘による成長は、そもそも戦闘マスに止まれるかが運な上に、戦闘自体もある程度運の要素が出てくるので、あまり運ゲー化しないように成長上限を設けました。上限に達したあとの戦闘マスはただの面倒なマスになりますが、それはそれで「〇〇(数字)だけは出るなよ!」みたいな、すごろく本来のサイコロを振る楽しみが出ていいかなと思い解決ということにしました。

 ……と、そんな感じでアイテムと戦闘については方針が決定しました。原作再現の要素を大幅にカットすることになりましたが、ダークソウルに出てくる名前のマップで、そのマップに出現する敵と戦ったり戦わなかったりしながら、本来そのマップにはなくともゲーム中には確かに存在する名称のアイテムを駆使してゴールを目指す。それで面白ければ、もう、充分じゃないですか。

 というわけで、この次は具体的に戦闘バランスの調整……自分キャラ3タイプの能力値と特性、敵キャラの能力値、アイテムの詳しい効果などを設定していくことになります。このあたりまでは本当に順調だったと思います。

 

 戦闘バランスについて気を付けることは二つです。一つ、ゴール地点にいるボスを倒した人の優勝というルールにする以上、ボスになかなか勝てず白けるorあっさり勝てすぎてボス戦の意味がないということのないようにすること。二つ、道中のいわゆる雑魚キャラとの戦闘に時間がかかりすぎないようにすること。これらは絶対に満たさなければなりません。

 戦闘が長ければ長いほど「結局負けました」となった時のショック、モチベーションの低下が激しくなるので、まずは雑魚キャラの戦闘を如何に早く終わらせるかを考えます。そしてそれをボス戦にもいい感じに流用したいです。

 そこで思いついたのは、敵キャラのHPを低めに設定することです。ワンチャン一撃で倒せるくらいにします。その代わり、仕留めそこなった時は痛い反撃が飛んできやすいように設定します。……これ、意外と原作再現にもなってるんですよね。固いキャラよりは、攻撃が痛い敵の方が圧倒的に多かった記憶です。

 黒騎士などの一部キャラはHPを多めに設定する代わりに、勝った時に能力値上昇にプラスして特別なアイテムの入手を付け加えました。さらにマスに止まった場合戦うかどうかはプレイヤーの任意で、一度戦闘したなら勝ち負けに関わらず消滅、セカンドチャンスは無しという仕様にします。

 これによって、アイテム狙いで任意で挑んで負けた時の自己責任感を出しつつ、消滅させることで何度もチャレンジし同じ敵との戦闘を眺める面倒な展開を回避します。もちろんアイテム狙いで挑む意味を消さないように、強すぎず弱すぎず、でも割と強い程度の設定を考えます。

 強い弱いの基準ですが、プレイヤーも敵もダイスロールで攻撃する以上どうしても運の要素はあります。自分の思い描いた強さに設定されているかどうかは、実際にテストプレイを重ねて体感で判断していくしかないです。なので、敵の強さはこの時点ではおおざっぱに深く考えず決めていきます。

 ボスもこれと同じ風にして、HP多めで他の敵より強力な攻撃を高すぎない確率で繰り出してくるように設定します。ダークソウルの魅力の一つはボスのバリエーションと個性なので、ボス戦の設定に限っては原作再現がそのままゲームの面白さに繋がりそうなので良かったです。プレイする時は個性豊かなボス戦で飽きずに遊べて、設定を作る時は個性に沿って設定できるから割かし楽と、いいことづくめです。

 しかし、それでもやっぱりボスが強すぎだったり弱すぎだったりアンバランスな設定になってしまっている可能性があります。こればっかしは実際に遊んでみなければわかりません。トランプの時も一緒でした、ゲーム作り素人にとってまず何より重要なのはテストプレイです。

 一通りマップと敵も設定できたし、実際にすごろく作って遊んでみるか! ……その段階にきて、やっとぼくは重大な、そして最大の問題に気が付きました。

 すごろく、一人でやってもつまらない問題です。

 

 3タイプのキャラを一気にテストプレイするべく、ぼくは一人で三人分のダイスを振るでしょう。振って、設定を確認してそれ通りに動かして、振って、動かして、振って…………何が楽しいんでしょうか? 寂しすぎます。昼休みにトイレの個室でサイコロ振ってる気分になりそうです。

 トランプの時は、というか今まで遊んできたカードゲームの時は一人でも全然問題なく楽しかったです。けれども思えば、いたストとか桃鉄とか、ああいうのはコンピューターとやっても何一つ面白みを感じませんでした。一体何が違うのでしょう。

 カードゲームは、与えられた手札から最善解を導き出すゲームです。本来ならデッキを組む楽しみもありますが、トランプではそれもありません。なのにある程度楽しかった。すごろくだって同じはずです。与えられたサイコロの出目から、分かれ道などの選択肢で最善解を目指す。そういうゲームのはずです。

 たぶん、ぼくはカードゲームが好きなんだと思います。カードをあちこちへ動かしていること自体がある程度楽しいんです。でも、サイコロを振って駒を動かすことはそこまで楽しめない。ぼくはどうやら、すごろくはそこまで好きじゃないようです。だから一人ですごろくをやっても楽しめない。

 そうなってくると今回の企画自体に疑問が生まれます。一人で遊んでも楽しくないものを必死に作ってどうするんでしょう、家族や友達と遊ぶ用のゲームならすでに充分な物がありますし、ぼくが新たに素人クオリティで作る必要はありません。やはり自作ゲームは、ぼくがぼくしか遊び相手がいない時にぼく一人で楽しむための物であるべきなのです。すごろくではそれを満たせないなら、すごろくの自作に存在価値なんかありません。

 そもそも一人すごろくが楽しくないとなると、テストプレイはただの苦行です。まさか未完成のガバガバゲームバランスの状態でのテストを誰かに付き合ってもらうわけにもいきませんし、ぼくは苦行の末にすごろくを完成させることになります。そして自分はその完成品に価値を感じない。じゃあもう作る意味ないですよね。

 紙とペンとやる気さえあれば、誰でも作れそうに見えるすごろくという遊び道具。今までに、どれも素人の中でも低すぎるクオリティの駄作とはいえ、小説や絵やトランプでの独自の遊び方を考えてきたぼくとしては、作れそうならば作ってみたかったという気持ちがありました。

 創作に何か魅力を感じるのです。自己満足がしたいのです。だから頼りの人がいるかどうか以前に、気持ち的にまずテストプレイ時に人に頼りたくないのです。自分一人で作って、自分一人で満足したいのです。ただ、そのためならどんな困難でも超えられる……というわけではありません。

 なんとなく「創作」というだけで釣られてすごろくを作ろうとしていましたけど、ぼくの本当の目的は「一人遊びをすること」でした。それを思い出しました。すごろく作りは、目的にまったく見合っていませんでした。

 こうして、オリジナルすごろく作成計画は終了します。テストプレイ一切無しで適当に考えた設定たちはほぼ確実にガバガバなアンバランス状態なので、恥ずかしいですし公開はしません。作りかけの要素共々永久凍結です。

 思いついてから数日。短い一人遊びでした。

金がないなら自作すごろくでも作って遊んでろ

 みなさん子どもの頃に自作すごろくの作成を試みたことはありますか? ありますよね、ぼくはあります。学校行かずに作ってたり、みんなが授業してる時に保健室なんかで作ってた気がします。

 しかし、すごろくを作るだけならまだしも、面白いすごろくを作るというのは至難のワザマエです。それを子どもの頃に身をもって知りました。要するに、つまらないすごろくをいくつか作ったわけですね。

 例を出しましょう。

 

・パターン1 普通のすごろく

 サイコロと紙と駒でやる普通のすごろくです。出目の分だけマスを進んで、止まった先に書いてある内容に従ってゲームを進めます。もちろん最初にゴールにたどり着いた人の勝ちです。

 このタイプのすごろくの何がダメなのかというと、まず一度遊ぶと飽きてしまうことですね。ただ単調にサイコロを振るだけのゲームなんか子供騙しじゃん……という部分に目を瞑ったとしても、そもそも飽きやすいことが大問題です。

 一本道のすごろくは一度遊べば大体の内容を覚えてしまいます。それはもう「あの「3マス進む」のマスに止まって進んだ先では、次の番に5を出すと「2マス戻る」のマスに当たるから、あのマスに止まると次の番は実質5も3みたいなものだぞ」みたいなことまで覚えちゃいます。これがつまらないんですよね。

 元々が単調なので、パターンを覚えちゃうと以降はもうほとんど、すでに見飽きた番組の録画を見るみたいな感覚に陥ってしまいます。紙に手書きでマスを書いて苦労する割に、1~2回遊んで飽きてしまうのでは割に合いません。

 しかも途中で書いた通り、割と子供騙しのすごろくなので、自慢げに人に「すごろく作ったんだぜ!」と報告することもできません。そんなすごろくに労力を費やすくらいなら、トランプで神経衰弱でもしておいた方が有意義です。

 

・パターン2 お金などの、勝敗を決する「得点」が登場するすごろく

 人生ゲーム、いただきストリート桃太郎電鉄、あとぼくはやったことないけどモノポリー。お金を一番多く稼いだ人が優勝、というすごろく系ゲームは数多くあります。数多くある事実それ自体からも、そして実際に自分が遊んだ経験からも、その手のゲームは面白いことがわかります。

 じゃあ自分で作っちゃえ。と、そんな軽いノリで作れれば苦労はしません。ぼくも一度試みてあっけなく諦めました。

 まず、ゲーム内でお金を用いるからには、それを管理する媒体が必要になります。玩具のお金だとか、数字を表示しておいてくれる物……電卓とかですかね。一家に電卓って何台ありますか? 遊ぶ人数分用意できますか? まぁ当時はともかく、今はスマホで代用もできますけど、それにしたって厳しいです。

 玩具のお金の自作&量産は非現実的なので、全員の所持金を表す電卓(スマホ)を用意することになります。遊び相手に道具の用意を強制するあたりゲームとしての欠陥が物陰からこちらを覗いている気もしますが、それを見て見ぬフリしても問題はまだあります。

 問題その2は、ゲームバランスです。お金を稼ぐすごろくが面白いのは、ちゃんとゲームとして成り立ったバランスが設定されているからです。極端な話をするなら、バラエティでお約束の「この問題に正解した人には100万点!」みたいな展開をゲームでやると、全然面白くないクソゲーになるわけです。

 バラエティ番組はその場のノリですけど、ゲームは何度も遊びますからね。毎週お約束の展開やってる番組なんて見たことないでしょう? なので、そこまで極端ではなくても、ゲームバランスには気を遣わなければなりません。

 で、気を遣うって、どうやって? ノウハウなんか1ミリも持ってない知らない状態ですし、適当に作って遊びながら調整していく? すごろくを一人で何度も? 手書きの場合は書き直す労力もそれなり大きいのでは? そもそも、いたストや桃鉄みたいに複雑なお店なり物件なりのシステムをアナログで再現するのはさすがに非現実的です。

 最終的に、ぼくはお金稼ぎ系のすごろくの作成を諦めました。だって、仮にものすごい苦労をして完璧に近いゲームを作れたとしても、スーパーのオモチャコーナーでいくらか出せば「人生ゲーム」という自分の作ったゲームによく似た、それもほぼ完全上位互換のゲームが買えてしまうんですよ? 自作すごろくを完成まで漕ぎ着けるだけの労力の価値をお金に換算すると、その人生ゲームが買える金額以下になるのでしょうか?

 ああ、そうさ! と笑顔で言える人は、さっさとバイトなりなんなりで働きに出た方がたくさんの面白いゲームが買えると思います。そっちの方が効率的です。

 

パターン3 戦闘があるすごろく

 ダークソウルというアクションRPGゲームがありまして、中学生のぼくはそれにハマっていました。そしてある日「ダクソをすごろくに出来るのでは!?」と思い立ったわけです。

 すごろくの中で敵を倒しつつ進んで、ゴールにたどり着いた人が優勝。と、そんなゲームにする予定だったわけですが、その「敵を倒す」をどうやるのか、つまりすごろく内での戦闘はどうやって行うのか。初めはまぁ当然というか順当にというか、サイコロを振って行う方法を考え付きました。

 自分の攻撃、サイコロを振って判定。相手の攻撃、サイコロを振って判定。これを繰り返して自分が勝てば先へ進める。負けたら数マス戻る。よっしゃ、これ面白いだろ、これでいけるわ。そう確信を得たぼくはすごろくを作ってさっそくテストプレイしてみました。

 一回の戦闘が終わるまでに、何回サイコロを振ったのか。もはや数えたくもないほど多くの回数振ったと思います。ゲームバランスが悪かったですね。サイコロを数回振れば戦闘が終わるような設定にしておかないと、振ってるプレイヤー側に嫌気が差してきます。

 しかし振る回数を減らすとなると「偶数なら勝ちで先に進む、奇数なら負けで数マス戻る」みたいなシンプルな物になってしまうように思えました。ぼくはダークソウルの緊張感ある戦闘などを再現したかったわけですが、これでは「小学校の障害物競争で、最後に先生とジャンケンして勝ってからゴールへ走る」みたいな物になります。いかにもつまらなさそう。

 結局ぼくはここの打開策を思いつくことができないまま、ダークソウルすごろくの制作を諦めてしまったのでした。ただ、あとから考えれば他にも原因はたくさんありました。

 ぼくの今回の目的は、その原因たちを解決して「面白いすごろく」を作ることです。活路は戦闘系すごろくにあると見ました。

 

 

・ダークソウルすごろく作成の際に見えた課題

 課題その1 まず、なにをもってしてゴールとするのか。

 ボスを倒してゴール……というのでは、一つのステージをクリアしたらおしまいということになります。ダークソウルにはいくつものステージがあり、それぞれ強烈な個性のギミックやアイテム、ボスなどが配置されているのです。ここを再現しないなら、ダークソウルすごろくなんて名乗るのやめちまえって感じです。

 ただ実際作るとなると、そもそもゲーム中に登場する全てのステージをすごろくとして攻略しようとした場合、たぶん昼から初めて終わる頃には日が暮れることになります。早い段階で戦闘システムに行き詰まり挫折したので考えていませんでしたが、これは重大な問題、欠陥です。

 TRPGみたいにキャラシートを保存して何回かに分けて遊ぶ……という手もあります。しかし、それは面白いとされるTRPG並みのクオリティですごろくを作れる前提があってのこと。時間がかかるとわかっているゲームのプレイを始めるには「時間はかかるけど、でもこのゲーム面白いぞ」という相当なモチベーションが必要になってきます。素人の手でその条件を満たす物を作るのは、正直言って無理でしょう。

 なんとかすごろくを短くする必要がありそうです。しかし凝縮すればするほど、個々の個性は薄まって、もしくは失われていきます。ぼくはそれが嫌でした。ダークソウルへの愛が重すぎた説が濃厚です。

 

 課題その2 結局、戦闘システムはどうするのか。

 これについても愛が重すぎるせいで難航していた節があります。まずぼくはTRPGほど綿密ではないにせよ、ある程度スタート時に駒とするキャラの性能はそれぞれのプレイヤーで決めておきたいと考えていました。

 筋力タイプ、技量タイプ、魔法タイプ。大体その三つの中から選ぶ形でいいかなと思っていたわけです。そうなってくると、当然戦闘内でのそれぞれの特徴を考える必要が出てきいます。それはまだ、3パターン考えるだけだからたぶん問題なし、良しとしましょう。

 しかし、3タイプのキャラはゲームに忠実にいくならそれぞれ装備する武器が違います。ぼくはそこも再現したかった。あのマップにあるあの武器を取ってからこのキャラは強くなるんだ……みたいな、そういう成長システムというか、そんな感じのやつがほしかった。

 しかしそうなってくると、初めにプレイヤーが自由にキャラを選べる以上、それぞれのキャラに格差が出ないようにするためにそれぞれの武器(それもそれぞれ違った個性があるもの)を配置する必要が出ます。でないと弱いキャラを選ぶ人が出なくなりますからね。

 そうなるとその分マップも広くしないと、みんなが同じような場所へ武器を取りに行く「武器屋さんへレッツゴー」なゲームが始まります。そんなもんダークソウルには無い。しかしマップを広くするとプレイ時間が……。

 というかそもそも考えてみれば、武器を取るってどういうシステムにするんでしょうか。ちょうどそのマスにぴったり止まればゲット? 確率厳しすぎない? 通り過ぎたらゲット? それで一本道だと結局みんな戦闘前に「なんか落ちてた」で手に入れるから、だったら最初から持たせてる設定でやれよって話になってしまう。そして道を分岐させると、それぞれの道に別々のイベントも配置しないと結局意味がないから、上手い具合にやらないと「なんかあのタイプのキャラだけ有利じゃない? みんなあのタイプで遊ぼうぜ」ということになってしまいます。

 あれ……ひょっとしてダークソウルのすごろく化とか無理じゃね……? このあたりでそういう結論がチラチラと見えてきました。

 

課題その3 マップの形はどうする? イベントは?

 初めの頃、ぼくはすごろくのマップをゲームのマップに似せた形で作ろうとしていました。しかし元々方向音痴の人間、ゲーム内での東西南北の感覚はすぐに消え去ります。結局、似せるも何も「形」自体が把握できないということになりました。

 けれども、ただの一本道では芸がないし見た目にダークソウル感がない! はい、また愛が暴走し始めます。マップの形を把握できるようにたくさんゲームで遊ぶんだ、もしくは動画を見るんだ。……とか言ってる間にすごろくのモチベは段々と薄くなり、水が徐々に蒸発するように自然消滅していったのは言うまでもありません。

 そしてマップの形を抜きにしても、まずはイベントです。ダークソウルらしさ、つまりは個性を出すなら形よりもマスに止まった時のイベントの方が大切でしょう。いっそそれが思いつけばマップの形なんてもうどうでもいいかな。2週目世界の四人の公王にボッコボコにされながらぼくはそんな風に路線変更を検討していました。

 で、例えばゲーム内の通り道で矢が飛んでくる場所があったとしましょう。それを再現するとなると、どこかしらのマスに止まった時に「矢が飛んできてダメージを受けた!」みたいなイベントが起こるわけです。つまり、戦闘以外の場面でも「HP」の概念が出てくるわけです。

 当然、道中で削られたHPでそのままボスとの戦闘に突入することにならなければ、道中のHP増減イベントに価値がなくなります。となると、常にキャラのHPをカウントしておかなければなりません。

 ……どうやって? カウントだけで言えば減る一方なら楽ちんで、紙に書く程度でもいけるでしょうけど、それだとさすがにゲームバランスの問題もあります。何よりゲーム内には回復アイテムも登場するので、それを採用しないわけにはいきません。

 しかし増減するHPを紙に手書きでカウントするのはちょっと厳しい、というか面倒くさい。手ごろな物体(おはじきとか)をカウンターとして使えれば「一個につき1ダメージ受けてる状態ですよ」という風に出来るのですけど、そんな手ごろな物体そうそう都合よく身の回りにありませんよね。道具の用意に手間がかかるのはいただけません。

 かといってダメージ系のイベントを外すことも演出上難しい。一本道のマップでさえ上手く作れないとなってくると、マジで無理っぽいように思えてきます。そもそも戦闘だって「実質ジャンケン」のルールから抜け出しなおかつ手早く終わるようにしないといけないのに、これ全ての問題の解決って可能なのでしょうか……?

 実際、諦めました。少なくとも当時は。

 

 

 あれから数年。 (はじめてのおつかい並感)

 トランプで遊戯王っぽい遊びができないかと考え、ある程度実現することに成功した現在のぼくは、ふとダークソウルすごろくのことを思い出します。そして、トランプの神の声が聞こえた気がしました。

「原作再現を優先順位の1にするな。トランプ遊戯王を考え始めた頃、数字の1~4だけがリリースなしで通常召喚できるルールはクソゲーだっただろう。再現(もといパクり)つつも、大切なのはゲームバランスだということを忘れるな」

「なに、気づいたら家の中にサイコロが見当たらなくなってた? そもそも普通の家にサイコロって置いてないと思う? ……トランプにも、1~6の数字があるのだがな」

「なぜ全マップを一度で、もしくは通しで遊ばなければならないのだ? ボスを一つ倒してゴールでいいじゃないか、キリも良い。……それだと他のマップが使えないのが気に食わない? 一回や二回で飽きないすごろくを作りたいのなら、何度も遊ぶ前提なのだろう? なぜ二度目以降も同じマップで遊ぼうとするのだ」

「HPを手軽にカウントする物がない? ジョーカー含めたトランプ計54枚って、すごろくでサイコロ代わりにしている間に全部使うかな……?」

 な、なんかいける気がしてきた。ぼくもう一回頑張ってみるよ神様!

 

 次回、「ダークソウルすごろく作ってみた!(キラっとプリ☆チャン並感)」につづく……。

 

トランプ王 ルール。

☆トランプ王基本ルール☆


☆用意する物……1~10のカードとジョーカー2枚(計42枚)が揃ったトランプ。11~13(12枚)は別の場所に置いておく。

☆ターンの流れ……
                  ターン開始
                    ↓
・ドローフェイズ……山札から1枚カードを引く。カードを引くことを「ドロー」と言う。
                    ↓
・メインフェイズ1……モンスターの召喚、魔法・罠の発動やセットなどが行える。
                    ↓
・バトルフェイズ……モンスターでの攻撃が行える。
                    ↓
・メインフェイズ2……モンスターの召喚、魔法・罠の発動やセットなどが行える。(メインフェイズ1と同じ)。
                    ↓
                  ターンエンド

☆ゲームの始め方
……お互いに5枚の手札を裏向きで用意してから先攻後攻を決める。決まったら手札を確認してスタート。
……先攻1ターン目にはドローフェイズとバトルフェイズが存在しない。


……召喚について

・毎ターン1度だけ、任意のカードを1枚モンスターとして召喚することができる。これを「通常召喚」と呼ぶ。また、1ターンに1度通常召喚を行うことができる権利のことを「召喚権」と呼ぶ。

・モンスターを守備表示で召喚したい場合、裏向き守備表示で「セット」しなければならない。セットも通常召喚としてカウントされる(召喚権を消費する)。また、特殊召喚するモンスターを守備表示で出したい場合は表側守備表示で出さなければならず、裏側守備表示で特殊召喚することはできない。

・カードの効果などで行える「特殊召喚」は、通常召喚と違って1ターンに何度でも行える。

・一度に場に出しておけるモンスターは3体まで。


……モンスターについて

・モンスターには「攻撃表示」と「守備表示(裏側守備表示)」の2種類の表示形式が存在する。召喚されてから1ターン以上が経過していて、なおかつ攻撃を行っていないモンスターは1ターンに1度表示形式の変更を行える。この際、裏側守備表示にすることはできない。

・裏側守備表示のモンスターを表示形式変更する場合、必ず攻撃表示になる。

・裏側守備表示のモンスターが攻撃された場合、そのモンスターを表側守備表示にして戦闘を行う。

・守備表示のモンスターは攻撃することができない。


……魔法について

・任意のカードを魔法カードとして使用することができる。魔法カードは自分ターンに何度でも発動することができる。ただし、効果の処理を行えない場合の発動はできない。
「例……相手モンスターを破壊する効果の魔法カードを、相手モンスターがいない時に発動することはできない」

・魔法は裏向きでセットすることも可能。セットしたターンにすぐ発動することもできる。

・一度にセットできる魔法・罠は3枚まで。

・魔法カードには通常魔法の他に、罠カードとしても使える「速攻魔法」、発動後も場に残り続ける「永続魔法」などの種類がある。

 

……罠について

・任意のカードを罠カードとして使用することができる。罠カードはセットしてから1ターン以上経過しなければ発動できないが、相手ターンでも発動することができる。

・罠カードの発動は1ターンに何度でも行える。ただし魔法カードと同じく効果の処理が行えない場合は発動できない。

・罠カードには通常罠の他に、発動後も場に残り続ける「永続罠」が存在する。

 

……シンクロ召喚について

・場にある自分のモンスターを二体以上墓地に送ることでシンクロ召喚ができる。

シンクロ召喚では、墓地に送ったモンスターの数字の合計が11~13になるようにしなければならない。シンクロ召喚を行った場合、墓地に送ったモンスターの数字の合計に等しい数字のシンクロモンスターエクストラデッキから特殊召喚する。シンクロ
モンスターは山札とは別の場所に「エクストラデッキ」としてあらかじめ置いておく。

シンクロモンスターシンクロ召喚する場合、素材となったモンスターに含まれるマークを最低1つは含むモンスターを選ばなければならない。

「例……スペードの7とハートの5でシンクロ召喚する場合、スペードのQかハートのQのどちらかを選びシンクロ召喚する」

シンクロモンスターは場を離れた場合、エクストラデッキへ戻る。手札、墓地、山札、除外ゾーンには存在できない。


……勝利条件、敗北条件。戦闘について

・お互いのプレイヤーは40点のライフを持った状態からゲームを始める。ライフを全て失ったプレイヤーは敗北する。

・モンスターは、それぞれ数字に等しい攻撃力と守備力を持つ。モンスターが直接相手プレイヤーに攻撃した場合戦闘を行い、攻撃力に等しい点数のダメージを相手ライフに与える。

・相手の場にモンスターがいる場合、攻撃対象は必ずモンスターでなければならず、プレイヤーへ直接攻撃することはできない。モンスターがモンスターへ攻撃した場合は戦闘が行われる。この時、戦闘の結果は以下のように処理される。

「攻撃表示→攻撃表示への攻撃。…………攻撃力の高いモンスターの勝利。敗北したモンスターは破壊され、数字の差分のダメージが敗北した側のプレイヤーに与えられる。同じ攻撃力のモンスターが戦闘を行った場合、どちらも破壊されダメージは発生しない」

「攻撃表示→守備表示への攻撃。攻撃力>守備力…………攻撃側の勝利。敗北したモンスターは破壊される。ダメージは発生しない」

「攻撃表示→守備表示への攻撃。攻撃力=守備力…………攻撃力と守備力が等しかった場合、どちらのモンスターも破壊されずダメージも発生しない」

「攻撃表示→守備表示への攻撃。攻撃力<守備力…………守備側の勝利。どちらも破壊されずに数字の差分が攻撃側のプレイヤーに与えられる」

・モンスターは基本的に1回のバトルフェイズで1体につき1回だけ攻撃できる。また、攻撃せずにターンを終えることもできる。

 

 

・モンスター効果一覧。

☆・スペードモンスター 
 ……数字と等しいライフを支払うことで、このモンスターは手札から特殊召喚できる。
 ……相手モンスターを戦闘で破壊した時に発動できる。破壊した相手モンスターの数字の半分(小数点切り捨て(1未満にはならない))のダメージを相手ライフに与える。

 ・スペード_シンクロ_モンスター
 ……相手モンスターを戦闘で破壊した時に発動できる。破壊した相手モンスターの数字の半分のダメージを相手ライフに与える。

 ……5の倍数のライフを支払うことで発動できる。その数字以下の表側表示カードを全て破壊する。

 

☆・ハートモンスター
 ……このモンスターをセットすることはできず、守備表示で特殊召喚することもできない。また、このモンスターの表示形式を変更することはできない。

 ……このモンスターの召喚に成功した時に発動できる。自分のライフを数字と同じだけ回復する。

 ……このモンスターが戦闘を行うダメージ計算前に自分ライフが相手ライフを上回っている場合、このモンスターはその戦闘では破壊されない。

 ・ハート_シンクロ_モンスター
 ……自分ライフが相手ライフを上回っているなら、その上回っている分のライフを支払って発動できる。支払ったライフの数値と等しい枚数山札を見て、その中からカードを1枚選んでモンスターとして特殊召喚、または魔法として発動、または罠(魔法)としてセットする。

 

☆・クローバーモンスター
 ……このモンスターは同じ数字もしくは同じマークのカードを手札から捨てることで特殊召喚できる。

 ……このモンスターが戦闘で破壊された時に発動できる。数字と同じ枚数山札からドローする。その後引いた枚数より1枚少ない枚数の手札を山札に戻してシャッフルする。

 ・クローバー_シンクロ_モンスター
 ……このモンスターが場を離れた場合に発動する。墓地からクローバーのカードを1枚モンスターとして特殊召喚する。

 

☆・ダイヤモンスター
 ……相手はこのモンスターと同じ数字のカードを召還、特殊召喚、発動することはできない。

 ……このモンスターと同じ数字の相手カードの効果を無効化する。

 ……相手の場にカードが存在する場合、自分の場のカードを1枚墓地に送ることでこのモンスターは特殊召喚できる。

 ……このモンスターが自身の効果で特殊召喚に成功した時に発動する。相手の場のカードを1枚選び破壊する。この効果によってカードを破壊された場合、相手は山札の上のカードをモンスターとして特殊召喚する。

 ・ダイヤ_シンクロ_モンスター
 ……このモンスターのシンクロ召喚を宣言する時に、マークと数字を1つずつ宣言する。このモンスターが存在する限り、宣言されたマークか数字のいずれかを含む相手カードの効果は無効化され、宣言されたマークか数字を含むモンスターを相手は召喚・特殊召喚することができない。

 

 

・通常の魔法カード。
……同じマークか同じ数字のモンスター1体を選択して発動する。そのモンスターを破壊する。

・通常の罠カード。
……同じマークか同じ数字のモンスターが召喚・特殊召喚された場合に発動できる。そのモンスターを除外する。


特殊な効果を持った魔法・罠カード。

1……罠カード
   モンスターが召喚・特殊召喚された時に発動できる。全てのモンスターを破壊する。

2……魔法カード
   山札の上から3枚を見て、そのうち1枚を相手に見せてから手札に加える。この魔法は1ターンに1度しか発動できない。

8……速攻魔法カード
   魔法・罠カード1枚を選択して発動する。そのカードを破壊する。

9……罠カード
   場のカードを1枚選択して発動できる。そのカードを手札に戻す。

ジョーカー……魔法カード
       自分の場にモンスターがいない場合に発動できる。ジョーカーを除いた       自分の墓地のカードからランダムで2枚を選ぶ。それらのカードを手札       に加える。

ガルパンにわか勢から見える景色

 アニメ本編をほぼ見たことのない男が、ちらちら目に入る二次創作作品とゲーセンでやったパチスロからイメージするガルパンを以下に記す。

 

・西住みほ

……愛称みぽりん。なんだか不憫な経緯で致し方なく隊長として戦車に乗せられてしまってそうな主人公。でも乗るなら乗るで責任感持ってちゃんとやるし、パチスロだと無双してた。みぽりんが出れば敵はすべて倒れるし、逆にみぽりんでも倒せない敵はもうどうやっても倒せない。そんな戦車道界のアムロ・レイ

 

・五十鈴華

……みぽりんの仲間、華道の人。華道を推してくる親に「戦車道やりたい」と言って参戦してきた。花を生ける時の集中力で砲弾を撃つ。華道やってますと言われれば「あぁ~わかる」って感じの雰囲気をまとっている。

 

秋山優花里

……みぽりんの仲間、めっちゃ戦車好きそうな人。オタクがアニメイトに行くノリで戦地で食べる用のまずい保存食とか重くてデカいなんちゃらミリ砲弾を見に行く。人のこと「〇〇殿」って呼ぶからさらにオタク感が増している。口調でけもフレプレーリードッグを思い出すけど先輩はこっち。

 

・武部沙織

……みぽりんの仲間、良くも悪くも一番女子っぽさを感じる人。あんこう踊りでたぶん一番メンタルにダメージを受けていた。華道の人とは別ベクトルのおっとり系。とても戦車に乗って戦っているようには見えないが戦っている。というかそれを言い始めると「いかにも」な人はほぼいない。

 

・冷泉麻子

……みぽりんの仲間、眠そうな人。名前はレイゼイ・マコと読むらしい。初見じゃ読めない。声に抑揚がなくて一番やる気がなさそうだけどやる時はやりそう。若干幼児体型な気がする。

 

・角谷杏

……みぽりんが通う高校の会長。なんの会長かは知らないけど生徒会とかじゃない? 背の低いツインテ女子で、会長(偉い人)だけどちょっとロリっぽい。よくお菓子食べてる。あんこう怪人の着ぐるみを着たり、体を張る仕事をすることもある会長の鑑。

 

・西住まほ

……アムロ・レイことみぽりんの姉。妹と違って気が強そうだが「王者は常に勝たなくてはならない」みたいなことを言ってたので立場と責任でいろいろ大変そうな人。西住流というフレーズを聞いたので、もしかすると西住の人たちはみんな戦車に乗って勝つことを期待されているのかもしれない。生きづらい。

 

・逸見エリカ

……西住まほの仲間、性格がキツそうな銀髪の人。みぽりんへの当たりがキツイいし自信過剰な感じがするけれど、身内には優しそう、というかデレてそうな感じがする。二次創作では鉄花団の団長「オルガ・イツカ」と入れ替わったりしていろいろ大変そう。

 

・カチューシャ

……見た目は幼女、中身は高校生、その名は地吹雪のカチューシャ。若干どころかモロに幼児体型な人。いわゆる合法ロリ……と思ったが高校生が合法なのかは怪しいところ。困った時にはすぐ「ノンナ」を呼ぶ。射撃の代わりに戦車が特技になった女子版のび太くんなのかもしれない。劇場版ガルパンでは彼女が「ノンナ~っ!」と叫ぶシーンからタイトルロゴが出てくるはず。

 

・ノンナ

……カチューシャの相棒(保護者?)。ドラえもんよりも冷静な人で、歌が上手い。たぶん寒いところに住んでる。カチューシャに呼ばれた彼女がいったいどんなひみつ道具で事態を解決するのかは知らないが、とりあえず肩車はできるらしい。

 

ダージリン

……ことわざを教えてくれる人。ことあるごとにことわざを教えてくれる、リーガルハイでいうところの羽生くん的なポジション。名前からして紅茶が好きで、ことあるごとに紅茶を飲んでいる。戦車の中でも飲んでいる。

 

・アッサム

……ダージリンの仲間。名前と所属から察するに紅茶を飲むのだろう。

 

オレンジペコ

……ダージリンの仲間2。やっぱり紅茶を飲んでると思います。

 

・ケイ

……快活なお姉さん。ものすごくポジティブに生きてそうな感じがする。まわりの人もポジティブにするパワーがありそう。何やら西住姉とは別の強キャラオーラを放っている。あとなんとなくゾンビに襲われても銃で応戦できそうな感じもする。

 

・ナオミ

……ケイの仲間。戦車に乗っていることでイメージが引っ張られるのもあるけど、なんとなく軍人気質っぽい人。この人もなんか強そう。でも最後には負けそうでもある。

 

・アリサ

……ケイの仲間2。たぶん髪型のせいだと思うんだけど、他の二人と比べると強キャラのオーラが出てない。でもそれくらいでチーム内のバランスが取れてちょうどいいのかもしれない。

 

・アンチョビ

……本名、安斎千代美。負けそうなオーラが漂いまくっている人。いろいろ頑張ってお高い戦車を買ったらしいけど「こっち見てるぞ~!?」のあと生き残れたのか気になるところ。ニックネームと絶妙に絡んだ彼女の本名を知ると、他の人たちの本名も気になってくる。ドゥーチェ! ドゥーチェ!(ドゥーチェってなんですか? 知りません)

 

カルパッチョ

……アンチョビの仲間。まったく本名が予想できないが、安斎千代美だって言われるまでは想像できなかったしそんなもんでしょ。なんとなくチーム内で一番精神年齢が高そうだけど実際はどうなんだろう。

 

ペパロニ

……アンチョビの仲間2。周囲の人に振り回されるオーラが出ている、たぶん苦労人。一番戦えそうなオーラを感じる。がんばれアンチョビ軍団。

 

・島田愛里寿

……正真正銘のロリ、銀髪。なにやら戦車道に参戦する権利があるらしく、島田流なんていうフレーズも聞こえてきたりと大物感がある幼女。ボコというクマのぬいぐるみがお気に入り。ボコはアニメ化してたりフィギュア化してたりするらしい。パチスロに1ミリも出てこなかった。

 

あんこう

……みぽりんチームのマスコットキャラクター。かわいい。みぽりんが通う高校の女子たちはあんこうスーツ(全身タイツとほぼ同義)を着て踊らされたり、あんこう怪人(着ぐるみ)になりきってやられ役をやらされたりしているので、あんこうは要所要所で女子たちの精神を削っている節がある。

 

以上。他にもいろんなキャラ見たけど憶えきれない。だれか無料・無期限でDVD貸して。

自己分析と、VTuberの魅力

 突然だけど、ぼくはユーチューバーが嫌いです。ヒカキンとか、あとなんですか、水溜りボンド? フィッシャーズ? 嫌いです。名前も見たくないです。

 ただぼくも人間なので、ユーチューバー関連で楽しそうに盛り上がっている大勢の人たちを見ると、ちょっと羨ましくなります。人生楽しんだ者勝ちだ、コップ半分のジュースを「半分もある」と思える人が幸福感を得るのだと思ってるので、かなり羨ましいです。

 しかしどうにもユーチューバーは好きになれない。なぜ好きになれないのかの理由もいまいちわからない。そんな状態が続くと羨ましいが転じて、なんだかだんだん恨めしくなってきます。その頃のぼくなら、ユーチューバーを爆破するボタンを差し出されればきっと迷いなく押していたと思われます。

 そんな中、ぼくの観測範囲内にある日なんの前触れもなく、バーチャルユーチューバー……略してVTuberは現れました。革命的でした。何せ、ユーチューバーの名を冠しているのに、ぼくが見ても面白かったので。

 

 

 ぼくが初めて見たVtuberはのじゃおじでした。正式名称、バーチャルのじゃロリ狐娘ユーチューバーおじさんですね。もっと言うとねこますさんです。

 MMDみたいな美少女モデルがリアルタイムで中の人の動きに合わせつつ動き、そしておじさんの声で喋っている。たぶんこれはぼくでなくても衝撃を受けたと思います。衝撃のあまりのじゃおじに引き付けられた人と、衝撃のあまり即行で距離を取った人がいるでしょう。ぼくは引き付けられた側です。

 本当はVTuberというジャンル自体はそれよりも前にキズナアイがいたのですけど、「ぼくが初めてちゃんと見た」という意味での「初のVTuber」はのじゃおじでした。で、のじゃおじが気に入ったタイミングでちょうどよく、他にも様々なVTuberが出現し始めたので、ぼくもそれを追っていきました。輝夜月だったりシロだったりですね。

 今から思えばその人たちが出てきた時こそVTuberのブームに火が付いた瞬間だったわけですけど、とにかくぼくはのじゃおじ以外のVTuberたちも面白く感じ気に入ったので、そのあたりでどうやら自分はユーチューバーは嫌いだがVTuberは好きらしいということに気付いていきます。

 そして、比較対象が出てきたことで、いよいよぼくの中にあった謎にも一応の答えが用意されていくのでした。そこからVTuberの魅力は何なのかという話にも派生します。はい、前置き終わりです。

 

 

 VTuberをしばらく眺めていて思ったのは、まず「馴染みやすい」ということでした。アニメみたいなキャラクターが動いて喋ってという光景は、普段からオタクに属する人間としてはものすごく馴染みやすい物でした。実家のような安心感というやつです。

 対してユーチューバー、これはなぜか馴染めない。そりゃぼくはアニメをよく見ますけど、それと同じかそれ以上に人間だって見ているはずです。駅の近くをうろちょろすれば人間なんて腐るほど見れますからね。なのに、なぜ馴染めないのか。

 一つ仮説を立てました。思うにぼくは「通行人」などのまったくこちらに干渉しようとしない他人だとか、「家族」や「友達」などの特定のタイミングで面と向かって直接ぼくに、ぼくだけに干渉してくる人間には馴染みがあるのですけど、それ以外の人間にはまったく馴染みがないのでは、という説です。

 ユーチューバーは画面の向こう側で、不特定多数の視聴者がいるという前提で動画を撮っています。まったくこちらに無関心な通行人でもなければ、1体1のやりとりをする友人でもないわけです。ユーチューバーが嫌いなぼくは、おそらくこのタイプの人間に嫌悪感を覚えています。

 VTuberの良いところはキャラクターをクッションにすることで限りなく人間から遠ざかれることです。なので嫌悪感はありません。ついにぼくにもユーチューバーを楽しめる時代が来たと思いました。これからはキャラクターのクッションを挟んで、ぼくもみんなが楽しそうに見ていたユーチューバーの世界を見ていくんだ!

 ……とワクワクしていたところで、この理屈のおかしなところに気づきます。当たり前と言えば当たり前な話で、不特定多数に向かって自分を発信している人間はユーチューバーだけじゃないんですよね。テレビの芸能人とかまさにそれです。

 けれどもぼくは、芸能人には大して嫌悪感がありません。おかしい、この部分に説明をつけないと、ユーチューバーがなぜ嫌いなのかという話が振り出しに戻ってしまう。

 そういうわけでぼくはまた新たな説を考えだします。そんなことをしているうちに、純粋にVTuberを楽しもうとする心は、もしかするとどこかへ飛んで行っていたのかもしれません。

 

 

 キャラクターなら人間味をあまり感じないのでセーフ。ユーチューバーは人間味をモロに感じるのでアウト。だとすると、芸能人がセーフな理由も、やはり人間味を感じづらいからなのでは。咄嗟に考えたその説は、ほとんど正解だったと思っています。

 要するに芸能人というのは人間の姿形をしているけれど、テレビの中でそれぞれがそれぞれのキャラクターを演じているのであって、その人の人間性は全然別のところにあるからセーフなのでは……という話です。まぁ、ニュース以外のテレビに映る芸能人が、すべてキャラを演じているのかという点については、イエスともノーとも証明できないわけですけど。

 証明できないのにセーフということは、ぼくの中で重要なのは「キャラを演じていること」ではないということです。「「キャラを演じている」ように見える」ことが、どうやらぼくが嫌悪感を抱かないための条件っぽいです。芸能人はこれをクリアしていると思います。逆に、ユーチューバーはこの点をクリアしていません。

 キャラクターを感じない、人間性を感じる……ということは、良く言えばそれは「ありのままのその人たちを見ることができる」ということだと思います。けれども悪く言えば、たぶんそれは「素人くさい」という表現になるのだと思います。

 ぼくは後者の捉え方でしかユーチューバーを見れないようなので、ユーチューバーが嫌いなのです。そういえば文化祭で生徒が演じる類の、劇やお笑いなんかもあんまり好きじゃなかったなぁ。納得です。

 ……というところまでぼくの自己分析が進んだところで、世には新たなタイプのVTuberたちが現れ始めました。にじさんじ勢です。その人たちは、キャラクターの見た目を貫通する人間味を、素人くさい喋りを持っていました。

 

 

 初めに月ノ美兎を見た時の衝撃は忘れません。わーい新しいVTuberだー……と動画を開いた瞬間に「げっ」と嫌悪感を覚えました。

 その声、その喋り方、すべてが「普通の人」です。人間味の塊が、キャラクターという「皮」を貫通してぼくを襲いました。彼女の人気がぐんぐん上昇していく様を見て、VTuberは終わったと思いました。せっかくの魅力である、人間味をやわらげるクッション性が失われたように思えたわけですから、終わったというのは「ユーチューバーと同じになった」という意味です。

 どうせみんなそうなるんだ。VTuberたちも、一緒に同じ感覚で楽しんでいると思っていたコメント欄やツイッターの人たちも、ぼくには理解できない場所にいって楽しそうにしているところだけ見せてくるんだ。ちくしょう、全員くたばれ。そう思っていた時期も一瞬だけありました。その後に出てきた樋口楓なんか絶対に見るものかよ、てやんでい、ちくしょうめー……くらい思ってました。

 しかし、初めの頃に「流行の最先端」だったのじゃおじは動画を上げなくなり、輝夜月も初見殺しの成分が強かったのかだんだん勢いがなくなってきたと感じ、シロはどんどんぼくの興味の湧かないゲームを実況していく。……時代を感じました。

 そう、時代からは逃れられないのです。デュエルマスターズが超次元ゾーンから逃れられなかったように、遊戯王がシンクロやエクシーズやその他もろもろから逃れられなかったように、その業界の情報を追う限りは、最先端は嫌でも目に入ってきます。

 何度も何度も目にするうちに、何度も目にするだけの時間が経つうちに、ぼくの二度と見るもんかという決心も揺らぎます。

 そしてそんな時に、異形のVTuberが現れました。異形と言っても見た目が風変りだったわけではありません、動画自体が異質だったのです。

 彼の名はケリン、ヤミクモケリン。他のVTuberが軒並み5分以上、10分以上の動画を上げる中、基本長くても3分程度の動画を上げるダークエルフのVTuber。その短い動画時間が「まぁ見てみるか」という気にさせてくれました。

 結果として新たな境地を見ました。彼は声と喋り方こそ人間味に溢れているのですが、扱うテーマによってキャラクター性を強めることでクッションの役割をしっかり果たしていたのです。「例のアレ」の擬人化と言われていると言えば、わかる人にはわかるでしょう。偶然そのキャラクター性というかギャグセンスがぼくの好みだったことも大きいです。

 彼の動画を見てまだまだVTuberも終わってないなと思ったぼくは、さらに先に進もうとします。ケリンがエルフ繋がりということで(あと中の人もたぶん素で)好んでいる「エルフのえる」というVTuberがいることを彼の動画中で知ったので、ぼくはエルフのえるの動画を見に向かったのです。

 そして目的の動画(ダイジェスト動画だった)を再生した瞬間に、いつかの感覚を思い出しました。エルフのえる……こいつは……こいつは……にじさんじ勢だ……!

 

 

 素人くさい喋りとは何か、それは台本なしの即興で行っている喋りのことなのではないか。にじさんじ勢の動画をもう一度見始めて、ぼくはしみじみそう思いました。輝夜月やシロは(ゲーム実況以外は)台本をもってプロが喋ってる感が出ていたので、実際にそうであるかどうかに関わらず、その時点でぼくは普通にそれを見ることができました。にじさんじの人たちはそれの真逆というわけです。

 しかし二度目となると耐性もついているもの。嫌だなぁとは思いつつも、ぼくはその動画を見続けました。そして動画の途中で一つの感想を抱きました。

 

 あ、ぼくこの人の声と喋り好きだわ。

 

 その時のなんとも言葉にし難い、直感的に「あ、好き」となる感覚。ニコ生で好みの配信者を見つけた時のような、好みのゲーム実況者を見つけた時のような、この感覚。

 そうです、ぼくはとても重大なことを忘れていたのです。ぼくにもニコ生やゲーム実況を見ていた時期があったのに、それを忘れていました。喋りが多少素人くさいからなんだ、人類はアニメっぽい皮がなくたって声だけで「キャラクター性」を生み出すことができる。VTuberは、配信者は伊達じゃない! 素人くささと人間味はイコールでないことを思い出したのだ。

 思えばユーチューバーというのはほとんどの人が顔出しをしていて、良くて顔をマスクで隠す程度の人たちの集まりでした。しかしゲーム実況者や生放送などの配信者は違います、基本的に顔を出しません、体さえ見せません。「声」だけだから、それ以外の人間味を隠しているから、声でキャラクター性を作ることができるのです。

 そうしてキャラを作ってからなら、その後に顔出しをしてもそれは「キャラの顔」であって「生の人間」にはなりません。その顔のままでいつものキャラを演じている(ように見える)限り、その人に人間くささは生まれないとぼくは捉えます。順序が大切なのです。

 ……というわけで、芸能人と一部の企業系VTuber以外にも面白い人たちはたくさんいるのだということに気付いたぼくは、とりあえずえるさんの動画を追うことにしました。せっかくだしダイジェスト動画ではなく元の動画を……と。

 そこでようやく気が付きました。編集者が別にいて、台本や企画を考えてくれる人も別にいる企業系VTuberと違い、素人が個人でやるVTuberは動画を上げることがとてつもなく大変なことなのだと。そしてその結果、動画ではなく生放送とそのアーカイブを活動の主とするのが主流となりつつあることに。

 えるさんの動画を探せば、再生時間が1時間超えだという動画が出てくるわ出てくるわ。テレビドラマがCM込みで1時間なことを考えると、CM無し1時間の動画というのはどちらかといえばほぼ映画です。劇場版VTuberです。それを見るためには、なかなか心の準備が必要になります。

 ヒカキンから始まった本場の、生の人間のユーチューバーはそんな長い動画ほぼ上げないでしょう。VTuberは、バーチャルであるが故にユーチューバーからはどんどん離れていっていたのです。VTuberの流行の最先端であるにじさんじは、もはやユーチューバーではなくなっていたのです。

 そもそもよく見てみれば、にじさんじの公式サイトでは「バーチャルライバー」という言葉が使われていました。VTuberの流行がにじさんじに移ったのではなく、VTuberの流行がすでにバーチャルライバーに移りつつあったのです。VTuberは終わった、というのはあながち間違いでもなくなってきているのです。

 けれどもぼくは、みんなが楽しんでいたユーチューバーをぼくも楽しんでみたかったのであって、ライバーとやらを楽しみたいわけじゃあないのです。

 大体1時間のラジオみたいな放送の中に、面白い部分がどれだけあるというのですか。ダイジェスト動画は大体10分くらいのものです。面白い部分だけを残して削れば、それくらい短くなるのです。それを1時間も、いくら暇だからって見ていられるわけがない。そんな強靭な精神力はないんです。だから暇しているんです。

 にじさんじ勢については、目に入って関心を持ったダイジェスト動画を見るだけでいいや。ぼくはそう決めました。それでやっぱり充分楽しかったので、自分ではこれが正解だと思っています。

 エルフのえるモノマネまとめを見てみてくださいよ。サムネの時点で10分以上ある再生時間を見て、そんな長い間モノマネやって面白いわけないだろってところからぼくも入りました。10分全部面白かったです、見てよかったと思いましたよ。それで十分なんです。そういうのだけ見ていればいいんです。

 

 

 その後もいろいろなにじさんじ勢のダイジェスト動画を見ました。それぞれ、キャラの皮を生み出した人が想定していた物とは明らかに違うと思われる物になってこそいたけれども、それでも魅力を持った確固たるキャラクターを築いていてくれて楽しく見れました。特に、ロリ系のキャラクターの中の人は声自体もアニメっぽく人間味が薄くてよかったです。

 さぁ、いよいよ慣れてきた。そうとなれば、にじさんじブームの火付け役にリベンジする時だろう。ぼくは再びサブカル委員長の、月ノ美兎の動画(これも当然ダイジェスト)に挑みました。今ならきっと楽しく見れるはず……!

 そしてぼくは、むかし友人から聞いた話を思い出しました。

「ウチのお母さん、人生で最初に食べたメロンの味がすっごい薄くて、全然味がしなかったんだって。それ以降、一回もメロン食べずにメロン嫌いを自称してるんだよ。メロンは甘いのにね」

 月ノ美兎のその声は、改めて聞いてもやはり人間でした。キャラの皮を貫通し、声だけで独自のキャラクター性を構築することもない、声と喋りだけでも感じ取れる、ただの生の人間でした。初めて見たにじさんじの動画がエルフのえるであったなら、ぼくはダイジェスト動画を漁る段階までもっと早くたどり着いていたのかもしれません。

 まさかそんな、そんな強い人間味ってあるかよ。アニメキャラの皮を被ってまだ人間のにおいしかしない? そんな馬鹿な。現実を受け入れられなくて、ぼくは月ノ美兎のラジオ、通称みとらじのアーカイブも見ました。2時間くらいの物です。フルで見ました。

 余計に嫌いになりました。怒りを覚えました。

 あれを面白いと言う人がいることが許せません。でも、そういう人は多いです。「現実を受け入れられない」と言ったのは「にじさんじに慣れたぼくが面白いと感じないはずがない」という意味もあったけれど、「面白いと言っている人がたくさんいるからぼくがおかしいのかもしれない」という意味も大いにありました。でも、ぼくからすれば、やっぱりおかしいのはぼく以外の人たちです。

 みとらじは話題にリアリティがありすぎました。学生時代に体験したバイトの話とか、もうそのまま人間じゃないですか。

 それもただ話すだけじゃないんです。「こういうバイトしたことあるんだー」程度の話ならいいですよ。そこからさらに、そこで体験したエピソードなんかを詳しく語り始めるんです。話すなんてもんじゃない、語るんですよ。アニメのキャラみたいな皮を被っているのに、そんなリアルな話を、いかにも生の人間っぽい声で、何分もかけて詳しく語るんです。

 それはもうVTuberへの冒涜ですよ。バーチャルのYoutuberじゃなくてバーチャルのライバーだろうと関係ない、バーチャルの魅力をすべて打ち消し、バーチャルの皮をかぶったフリをして「ユーチューバー」をやっているのです。生の人間がやる、あのユーチューバーを。じゃあ、もう、ユーチューバーやれよって話になるでしょう? 顔を出したくなければそうしろ、顔以外も見せたくなければそうしろ、バーチャルの皮を被るな。いい加減にしてくれ。

 ……と、ぼく個人としては思ってしまいます。たださすがにここまできて「ぼくが、ぼくだけが正しいんだよ!」と喚き散らすほど狂っちゃいないので、こういう思考に至った時にぼくも気が付きました。

 VTuberの魅力は人間味をやわらげることだ、そのためのクッションになってくれることだ。そう思っている人はたぶん少数派で、ざっくりと「そう思っているのはぼくだけだ」と言ってしまって差し支えないくらいには、同じ考えの人はほぼほぼいないのではないでしょうか。たぶん、この考え方で間違っていないと思います。

 だからみんな、初めてにじさんじという今までと異なった形のVTuber(バーチャルライバー)が出てきても普通に受け入れていた。だからみんな月ノ美兎を面白いと言う。ほとんど全ての人にとって面白さが優先順位の1なのであって、人間味がどうとかいうのは、2の次3の次のどうだっていいことなのだ。

 よく考えたら、そりゃあVTuberブームの初期はオタク系の人たちが「俺たちにとって面白いユーチューバーが来た」と集まっていたかもしれないけれど、その中に元々ユーチューバーも普通に楽しんでいた人がいなかったという保証もないわけで。というか、確率的にたぶんそれなりにいたと思う。

 ユーチューバーを見ないオタクは単純にそれをつまらないと感じていたからで、嫌悪感だとかそんなものは理由の第一ではなかったのだ。ぼくはそう結論付けました。

 そうだと思わなければ月ノ美兎が人気であることに納得できない。ぼくはVTuberブームが始まった時に「ぼくと似たようなタイプの人たちは大勢これを好んでいる」と勝手に思い込んでいた。仲間がたくさんいると勝手に思っていた。その仲間とやらと話したことなんてないのに、見えない仲間を感じていた。

 みとらじを見たあとは、見えない仲間が全部、見えない敵になっていました。結局ユーチューバーを楽しむ人たちの輪の中に、VTuberを経由して行くことはできなかったけれど。それでもVTuberを楽しむ人たちの輪の中には入れたと思っていたのに。仲間入りしたと思っていたのはぼくだけで、初めから全然違う価値観でぼくだけ別の場所にいた……。

 そもそも、何が「ぼくみたいなタイプの人たちがVTuberを好んでいる」だよ。そこからしておかしかったんだ。みんなちゃんと働いてちゃんと生きてるんだよ、ニートと同じタイプの人間がそう多くいると思うなよ。

 ……とりあえず今後は、リアリティの無い物を、人間味が薄くてキャラクター性の強い物を可能な限り選んで、ダイジェスト動画を見ていこうと思います。

 

 

 ところで、原初のVTuberたるキズナアイですが、実はぼくは彼女のこともあまり好きではありません。動画が多すぎるからです。

 例えばシロの動画ならゲーム実況が多いので、サムネで興味の湧くゲームを見つけて見てみればいい。けれどもキズナアイの動画は、実況などとは別の領域で、自分のネタで動画を作っている物(例えば体力測定のやつとか)が多いので、それが自分にとって興味のあるものなのかをサムネやタイトルから予測しづらいのです。そして数が多いせいで片っ端から当たることもできない。

 好みに合わない動画は見たくないです。それは普通でしょう? でも好みの動画が見分けづらい。ジャンルが広すぎる。そういうところが、ユーチューバーだなって感じがして嫌いです。一見さんお断り感、もしくは、自分たちの動画を全肯定してくれない人お断りの感が強いんですよね。ミライアカリも似たようなものです。

 え、キズナアイはゲーム実況もやってる? ……見ましたけどね、あれはね、ゲームの腕が人に見せてもいいところまで達してないでしょ。

 ……と、そういうわけで、ぼくは学びました。文句ばかり言っている人は、文句を言っているそのジャンルにおいては、楽しそうにしている人たちの仲間になんか入れてはもらえないのです。入れたと思ったのならそれは上っ面だけのもので、本質の部分で考えれば錯覚です。よく覚えておきましょう。初めからそうと分かっていれば多少マシなので。

 

 

※追記

 月ノ美兎もキャラの皮は好きなので、中の人がキャラクター性を発揮してる時は好きです。「俺もうね逃げる」とかのサブカル系キャラだったり、「わたくしで隠さなきゃ」みたいな名言は良い。ただリアルの話持ってくるのは本当に許せぬ。ムカデ人間でギリギリ。

一切の苦労なく美少女になってみたい

 ぼくは現代ではそう珍しくもない、スカートを穿いたことのある男だ。その経験からぼくは、あのヒラヒラした布はあまりにも無防備で、油断するとすぐに風圧もしくは視線の角度に負け中身が見えてしまう物なのだということを知った。

 中身が見えること。まだしも、女子のそれならばハプニングの一言で済ませることができるが、男子の場合それはもう破滅的。中身というのは血に塗れた内臓よりも醜い光景だろう。全国のスカートに手を出す女装男子には細心の注意をお願いしたい。

 

 話は変わって、男が美少女に生まれ変わると、困ったことが起きると相場が決まっている。自衛ができないのである。

 どこぞの入れ替わり系田舎女子が「男子の目線、スカート注意。人生の基本でしょ」と言っていたが、あれは真理だ。我々男子はスカートとは無縁の存在で、彼女にとっての人生の基本が、男子にとっての非日常であり難関なのだ。

 基本が難関。それは勉強ができないことと似ている。基礎ができない、それはもう絶望的に。頭の悪い生徒が赤点を取るのと同じ頻度で、スカートを穿いた男は周囲にトラウマを振りまく。

 そんな男が人格をそのままに、体だけ突然美少女に生まれ変わってみろ。スカートの下のパンツさえ守れずにどうやって貞操を守るというのだろうか。男は美少女に生まれ変わっても自衛ができないのである。美少女になってしまうと人生の基本ができない。およそ生きていけない。

 というわけで、我々は神龍に会った時のために、その点についての対策を練らねばならない。ぼくはすでに結論を出している。

 

 これは「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」 を見てから考えたことなのだけれど、ぼくらが立ち回りで自衛するのはもう不可能だ。

 すでに男として生きている間に過ぎ去ってしまった「女子の基本を心得る期間」を今から取り戻すことはできない。青春を遥か過去の思い出として何十年も生きつつも、そこから思い立って大学生になっちゃいましたといったタイプの人間ならば、これは例外かもしれないけれど。

 ぼくは勉強が苦手だ、出来るようになれる気がしない。なら人生の基本も同じだ。苦手は苦手のままだ。だからもう、努力で解決する道はない。ないから諦める。

 結論を言おう。美少女に生まれ変わったら、サイコザクバックパック的な物を背負えばいい。いくら腕力が貧弱になろうと、背中のアームがぼくを守ってくれる。最終手段としてバズーカも撃てる。無敵だ。

 それに想像してみてほしい、サイコザクバックパックを背負った美少女だぞ? 魅力的じゃあないか、唯一無二的に。もうこれしかない、ぼくらは四肢を残して美少女になったままリユースサイコデバイス的なお助けアイテムを背負うしかないのだ。

 少女が背負うのだから当然軽くしてもらわなければならないし、軽くなっても戦闘力は据え置きでいてくれなければ困るし、背負っていても他人からなんら違和感を抱かれない環境も用意されていなければ生きていけない。特に最後の物が欠けると、一歩外へ出れば銃刀法どころじゃない理由で連れていかれてしまう。

 というわけで、神龍に願うことは以下の通りだ。

「ぼくをサイコザクバックパック的な物(人間に合わせたサイズで取り外し可能、めちゃ軽い、めちゃ強い、別に四肢は切り落とさなくてもいいし背負った本人に戦闘センスがなくてもほとんど自動でいい感じに戦ってくれる名刀電光丸仕様の物。しかも背負っていても誰も何も違和感を抱かないオマケ付き)を背負った美少女(見た目はもちろん声もかわいい)にしてくれ!」

 ……これを神龍が一つの願いとして扱ってくれるだろうか? たぶん無理だろう。きっとぼくが集めるべきドラゴンボールの数は句読点に七をかけた数字になるだろう。

 これでは無理なので、代案を出すことにする。

 

 要するに、ずっと美少女でいるから危ないのだ。男に会う時だけ、自分も男であれば何も危険はない。というわけで換装である。ぼくらは都合に合わせて男になったり女になったりすればいいのだ。

 しかし男と女は表裏一体、近いようで真逆の存在。それだけ大胆な換装をするキャラクターが、はたして世の中にいただろうか?

 例えばらんま、あれはダメだ。あれは、換装を自分の意志ではコントロールできないという制約を背負っているからああなのだ。その制約を放棄すると、たぶんおそろしくブサイクになる。でもぼくはそんな制約いやだ、もっと自由に換装したい。

 換装といえばガンダムなので(論理の飛躍)、ここはガンダムを基準に考えてみよう。ぼくはほとんどゲームでしかガンダムを知らないので、基準はアニメではなくゲームとする。

 Ez8はBRだろうと180mmキャノンだろうと射撃主体だし、ユニコーンは時間制限付きだし、シナンジュはマキシブースト以来換装をやめてしまったし、なんだかそれぞれが真逆を行く換装機は存在しない気がする。

 しかし男と女という真逆の存在への換装を試みるからには、射撃特化と格闘特化のように極端な換装をする機体でなければ、今回の参考にはならない。

 ならばインパルスはどうだ。ソードとブラストでいい感じだ。が、今度はフォースの存在が出てくる。つまり、極端な換装をするとなるともう一つ、何か中間的な機能の換装候補を持っておかなければならないということだ。

 射撃と格闘の間が機動力だったなら、男と女の間はなんだ? ……そりゃ、IKKOだろう。ダメだ、この線も却下する。万が一の操作ミスで一瞬でもIKKOに変身してしまうリスクは重い。

 性別の換装を求める道に希望はないのか。前例はないのか。これは、不可能なことなのか。そんなことを考えていると、もう一つ例を思い出した。カプル&コレンカプルだ。

 あれは射撃と格闘を極端に切り替える。が、弱い。ひたすらに弱い。これを男女に置き換えるとどうなる? どっちにしろブサイクになるということだ。ひたすらにブサイクになるということだ。これも却下。

 結論として、ぼくは性別の換装も諦めることになる。世界が、ガンダムが、それは神の力をもってしても不可能なことなのだとぼくに言っているからだ。

 一切の苦労なく美少女になれる日は遠い。

幼稚なウサギの感想からは卒業しなければならない

※以下の本文は、映画「君の名は。」および「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」「ベイマックス」を全人類が視聴済みだという前提で書いてある物なので、それらの映画のネタバレを含んでいます。まだ見ていない方は、特にクレヨンしんちゃんベイマックスの方をまだ見ていない方は注意してください。そして体力と気力があるのならばロボとーちゃんとベイマックスをぜひ見てください。あれはいいものです。

 

 

 

ここから本文。

 

 私が小学生だった頃に、飼育小屋のウサギを見てスケッチをする授業がありました。

 私は絵を描くのが致命的に苦手です。中居正広の描いた犬を笑いながら、中居くんに対して少し罪悪感を抱くような人間です。当然、当時もスケッチなんかやりたくなかったわけです。ただ、絵に関しては向き不向きがあって、不向きな人ほどそれを気にするもの……という点は、担任の先生も理解してくれていたように思います。

 先生から渡されたプリントにはスケッチを描くための枠に囲われた空白と、その下に感想を書くための行がいくつか用意されていました。感想とは、スケッチに取り組んでみての感想のことではありませんでした。スケッチと感想はまったく完全に切り離された物でした。

 書けと言われた感想は、ウサギを見ての物です。ウサギを描いてどう思ったかではなく、ウサギを見てどう思ったのかを書け……という課題でした。

 私は複数ある行の大半を空白で無駄にして、ほんの一行「かわいかった。」とだけ書きました。当然、すんなりと先生に受け取ってもらうことはできませんでした。

 

  例えばです。例えば小学校低学年くらいの小さな子どもがノラ猫を見かけて、それを指さし一緒にいた母親に対して「ねこ、かわいいね」と言ったら、どうでしょう? もっと詳しく感想を言えやりなおしだ……とは言われないはずです。多くの場合は、そうだねかわいいねと同意してもらえるでしょう。

 それが授業になった途端に「もう少し詳しく書けない……?」と言われてしまうわけです。もちろん母親と先生は立場が別ですが、それにしても今まで一言感想を述べれば肯定されていた子どもにとって、もう少し詳しくという要求は中々に困難なものです。結局私は、「かわいかった。」の一行に何も書き足せず、最後には諦めた先生に下手くそなスケッチと下手くそな感想文を提出しました。

 もしかすると私は、その時のことを未だに根に持っているのかもしれません。

 

 

 

 さて、話は変わりますが、つい最近「君の名は。」が地上波で初めて放送されましたね。私はすでにDVDレンタルで一度見ていたのですが、地上波でも見ました。二回も見たので、堂々と言います。

 「君の名は。」はつまらない、駄作だ。あれを絶賛する人間の感性はロクなものじゃない。

 ……はい、たぶん大多数の人間を敵に回したと思います。しかし私にはどうしてもあれが面白いとは思えず、また、あれを面白いと言う人を許容することも出来ません。

 特に映画そのものではなく、それを評価する人間の何が気に入らないのかを言いましょう。「面白かった」だとか「感動した」だとか、そういった漠然とした肯定の言葉を並べる人間が、私は好きではありません。というか、はっきり言って嫌いです。漠然とした感想を並べる人間に対して、感想を述べているその瞬間にだけ憎しみさえ抱いてしまいます。もちろんその憎しみは、映画自体への嫌悪感もプラスされた結果の物ですが、それだけというわけでもありません。

 自分と違う意見を認めることは、ほとんどの人間にとって難題です。けれども私は、そのあたりについて努力はしているつもりです。

 「君の名は。」はここがこういった理由で素晴らしい、面白い、感動するのだと具体的に説明してもらえれば、それに納得するかはともかくとして、ああこの人は本当にあの映画が好きなのだなぁと、尊重しようという気持ちが多少なりとも湧いてきます。その尊重しようとする「自分の中の理性」に逆らわないように、という努力はしています。

 ではどうして逆に、漠然とした感想を許せないのか。私は自分のことを完全に理解したいと常に考えていますが、これについてはまだイマイチわかりません。けれどもなんとなく、もしかしてという当てずっぽうだけれど、小学生の頃に書いたあのウサギの感想文が、あの一行を否定されたことが、ここに来てまで引きずっているのかなと。ふとそんなことを思いました。

 私自身、批判するのなら具体的にしなければらないと考えています。「君の名は。」については話題がピークに近かった頃から「そんなに面白いのか? ロクでもないやつらが持ち上げているだけじゃあないのか?」と悪意ある興味を向けていたので、私は半ば叩くために、批判するためにDVDをレンタルしてまで映画を見ました。見なければ具体的な批判は出来ないからです。

 そうして案の定、その映画は私には合いませんでした。以下、ネタバレと批判を並べます。

 

 都会暮らしの男子高校生「瀧」と田舎暮らしの女子高生「三葉」がいわゆる入れ替わり現象に遭い、そこからストーリーが進展していく……。事前に聞いていた情報で知っていることは大体それくらいでした。住む場所もまったく違う男女が入れ替わることで起こる様々な出来事を楽しむ映画なんだろうな……きっとなんやかんやあって二人は恋仲になってハッピーエンドなんだろうな……とイメージして視聴を開始します。

 で、三葉は数年前の隕石落下事故で亡くなった死者でした。瀧との入れ替わりには、タイムリープ的な要素も合わさっていました。衝撃の事実です。

 衝撃の超展開を経て、主人公二人は協力して隕石落下事故を防ごうと奮闘します。と言っても隕石を止めることはガンダムでも持ってこなければさすがに不可能なので、三葉含む村民を避難させて命だけは確保することが目的でした。

 瀧の住む時間軸では、過去である「三葉が住む隕石事故に遭う前の村」には干渉できません。なので入れ替わりのシステムをもってして二人は協力し様々な活躍を見せます。で、そこまでの過程で主人公二人は想像通り恋仲になって、結果として作戦も成功して三葉は生存します。過去が変わったことで瀧の住む時間軸にも三葉が現れ、記憶のおぼろげな二人は数年後に再会します。

 再会した瀧が「君の名は」と三葉に問うことで、タイトル回収を済ませてハッピーエンド、おしまい。映画「君の名は。」は、そんな映画でした。

 …………これ、入れ替わりのくだり必要ですか?

 意識せずとも耳に入ってくる宣伝によって、見る前から私は「君の名は。=入れ替わりの話」という認識を持っていました。当然、入れ替わりを軸にした話に期待します。

 しかし蓋を開けてみれば出てきたのはタイムリープもの。物語の中での大きな目的が過去の隕石事故を回避してのヒロイン生存である以上、入れ替わりはタイムリープに埋もれて目立ちづらい設定になってしまいます。それどころか個人的には、主人公たちの恋愛模様さえ隕石事故回避という大きな目標に半ば埋もれてしまったように感じました。私が気に食わないのはこの点です。

 

 

 ここからしばらく、私の妄想を書きます。

 例えば瀧は予知夢を見る能力者で、過去に自分が見た母親の死ぬ夢を「悪い夢だったけど夢は夢だ、現実に起こるはずがない」と何も行動を起こさなかった結果母親が夢の通りに死亡し、瀧も心に傷を負ったとして。

 それから父親の仕事の事情で引っ越した瀧は、同じく予知夢を見る能力を持ち、なおかつ瀧と同じように自分が特別な能力を有していると自覚しきれなかったせいで大切な人を失った三葉に出会います。二人は似た境遇ゆえに今まで他人には理解されなかったお互いの苦しみを共有することが出来て、そこから少しずつお互いを意識する関係になります。

 で、そこで見る隕石落下の夢。今度こそ予知された未来を変えるために二人は奮闘するも、まわりの大人たちは「何を寝ぼけたことを言っているんだ」と理解してくれない。それでも諦めずに行動して、最後には……。

 ……というわけで、ですよ。何が言いたいのかと言うと、「予知夢」という一つの要素を入れるだけで、「タイムリープ」「入れ替わり」という二つの要素を削れるわけです。詰め込みなんですよ、「君の名は。」という映画は。不必要に要素を盛っているんです。

 映画というのはたった二時間のものです。小学校の授業の約2コマ分の時間という、短くはないが決して長くはない時間の中で、一つの物語を始まりから終わりまで語らなければなりません。ポンポンと様々な要素を盛り込むだけ盛り込んでも、それを消化しきれるわけではないのです。

 「君の名は。」は盛り込みすぎた結果つまらなくなった上に、宣伝に釣られた客の期待を裏切ったと私は考えます。それを面白かっただの感動しただのと言って漠然と評価し、あまつさえ世界的なヒットにしてしまったような、いわゆる大衆が私は許せません。

 肯定的な評価をする人々が各々に自分の意見を語って評価しているのならそれは仕方のないことだけれども、2回も見た10回も見たと面白かったアピールや信者アピールだけをして、何が面白かったのかを語らない。私はそんな大衆を許してはおけません。ネタバレを控えたとしても、本当に面白いと感じたのならもう少しマシな感想が言えるはずです。いや、言えるようにしなければならないのです。幼稚なウサギの感想は否定されるべきなのだから。

 私のこの考えはDVDと地上波で2回見ても何ら変化しませんでした。自分が少数派だということは、薄々感じてはいます。

 

 

 さて、一つの映画を批判したところで、では逆にお前の言う良い映画とは何なのだと言われた時のために、おすすめの映画を2本紹介することにします。ロボとーちゃんとベイマックスです。以下の話はつまるところ私からの映画の宣伝なので、興味のない人は見なくてもオーケーです。

 ロボとーちゃんは皆ご存じクレヨンしんちゃんの映画ですが、話の流れは以下の通りです。

 

 綺麗なお姉さんにつられて見覚えのない店に入った野原ひろし(野原しんのすけの父)はそこでロボットに改造されてしまいます。初めは突然のことに家族も戸惑いましたが、そのうちロボになった野原家の父、ロボとーちゃんは家族に馴染んでいきます。

 が、話が進むと衝撃の事実が判明。ロボとーちゃんは「野原ひろしとしての記憶」を植え付けられたロボットであり、オリジナルの人間である野原ひろしは別に存在していたのです。つまりロボとーちゃんから見える世界は「自分は間違いなく両親から生まれた人の子で、ひょんなことからロボットに改造されてしまった」というものなのに、実際の彼は「人の子野原ひろしの記憶を植え付けられたポッと出のロボット」ということになるわけです。

 そして、そんなロボットを作った黒幕の目的も明かされます。黒幕はいわゆる嫁の尻に敷かれたタイプの父親で、娘にも邪険にされていました。そこで昔のような父親が絶対の時代、亭主関白こそ正義だった時代を取り戻そうと、父親としての記憶を持った武力的に強力なロボットをもってして父親の威厳を取り戻そうとしていたわけです。

 最終的に巨大ロボを持ち出した黒幕ですが、激闘の末に結局はロボとーちゃん含む野原一家の抵抗に敗れます。戦いに負けた黒幕は崩壊する巨大ロボの中で最後に「全国のお父さんに愛を!」と叫びます。

 なんとか最後の戦いに勝利したものの、ロボとーちゃんは損傷が激しく、機能を停止するまで……人間で言うところの「死」に至るまで、そう多くの時間は残されていない状態になっていました。そして最後にロボと人間、二人の父親は、どちらが子どもたちの父親として、そして野原家の大黒柱として相応しいかを決める腕相撲をします。接戦の末に人間のとーちゃんに負けたロボとーちゃんは「家族を頼んだぞ……俺……」と言い残し、機能を停止。……以上で、話は大体終了となります。

 

 さて、ロボとーちゃんの何が素晴らしいか。それはテーマの一貫性です。

 初めから最後まで、この映画は「父親とは何か、家族のあり方とは何か」というテーマを貫いています。もしも自分の父親が、もしくは夫が突然ロボットになって帰ってきたら。もしも自分はどうやら本物ではなくロボットらしいと自覚させられたら。我々人間はその時どうするのか……という、テーマに沿った話が展開していくわけです。

 さらには黒幕の主張も同じく「父親が軽視される現代は間違っている」という、家族のあり方を問いかけるストーリーの根本的なパーツそのものになっているわけです。ただのやられ役としての悪役ではなく、話の根幹を成す存在となっているのです。

 その上さらに素晴らしいのは、この二時間で綴られたテーマについて、主人公たちではなく悪役が答えを出したことです。「全国のお父さんに愛を」と、武力的な、暴力的かつ威圧的な解決を謀っていた黒幕が、最後には「愛」という言葉を持ち出すのです。「私は間違っていないはずなのに!」というような独善的な捨て台詞ではなく、「愛」を持ち出してきたのです。ここにこめられた意味は大きいでしょう。

 誰が考えても一家を養う父親が軽視されることは間違いであると理解できるのと同時に、だからといってその威厳を暴力的に取り戻すことが間違いであることも理解できるはずです。ではどうすればいいのかという問いに黒幕が、正義の味方ではなく悪役が、もしくは「父親」という概念その物の味方が「愛」という答えを出した。これは重要なことです。

 家族との関係について悩むことは珍しいことではないでしょう。それを暴力的な、理性的とは程遠い手段で解決したいと考えることもあるかもしれません。しかし我々人間は本来、そんな風に悪に染まろうとした時でさえ、きっと答えを知っているのです。本当に必要なのは力ではないと知っているはずなのです。ロボとーちゃんの黒幕は、最後にそれを示してくれたのだと、私は思います。

 また、これは悲しい話でもあります。なにせ同時にこの黒幕は、我々は答えを心のどこかで知りながら、それでも悪に染まらざるを得ない時があると示したのですから。愛されたいと口にすることがどれだけ覚悟のいることなのかを、黒幕の「断末魔としてでなければ言えなかった」という部分から我々は読み取るべきでしょう。

 ……というように、このような深い話をたったの二時間にまとめるためにこそ、テーマの一貫性というものは必須なのです。ロボとーちゃんは要素をしぼり、それを貫くことの大切さを教えてくれました。

 また、魅力的なのは黒幕、つまりは敵だけではありません。最後に「家族を頼んだぞ」と言って機能を停止したロボットの覚悟も、我々は推して知るべきです。

 例えば自分の意識が突然途絶えて、病院のベッドで目を覚まし「自分は事故に遭ったのだ」ということを自覚したとしましょう。さらに、事故によって腕なり脚なり、何でも良いのですがとにかく体の一部分を失っていたとしましょう。ロボットになった場合は、なる前よりも強くなっていたのでこの例えは少々不適切ですが、つまりは突然自分の体が今までと比べて著しく変化していたら……という話だと捉えてください。

 体の一部を失えば生活にも支障をきたし、それを支える家族も始めはそれに戸惑うでしょう。しかし段々とお互いにそのことにも慣れていき、元通りの家族として馴染めるようになっていくはずです。

 ようやく元通りの形に戻れた、馴染めた。そう安心した矢先に、五体満足の「自分」が目の前に立っていたら。そいつが「俺が本物だ、お前は偽物だ」と主張し始めたら。我々は、きっとそれを受け入れられないでしょう。

 「ロボットだから」という理由で初めは家族とすれ違ったロボとーちゃんの気持ちは、それに似た物ではないでしょうか。やっとロボットの体を持った父親として、そう「父親」として家族に馴染むことができたのに、人間としての自分が突然目の前に現れるのです。上に書いた例え話での「五体満足な自分」と同じくらい、「ロボットだから」という理由で始めは家族に否定までされたロボットにとって、記憶の中では「数日前の自分」である「人間の自分」に出会い、そいつから「お前は偽物だ」と言われたら。そんなもの、受け入れられるわけがありません。

 当然ロボとーちゃんだって初めは現実を受け入れようとしませんでした。もしかすると、最後までそうだったのかもしれません。しかし、彼は最後に「家族を頼んだ」と人間の自分に言って、息を引き取ったのです。その言葉を口にするまで彼が何を感じて何を考えて、機能を停止する瞬間までどういった思いで生きたのか。想像するだけで恐ろしい運命を押し付けられたのにも関わらず、立派に生きた父親のことを、我々は尊敬しなければならないでしょう。

 それを押し付けるのはあまりにも酷な話になるけれど、もしかすると理想論むき出しで語るのならば「理想の父親」というものは、最後に「家族を頼んだ」と言えるロボとーちゃんのような存在なのかもしれません。

 ……と、家族のあり方というテーマを貫いたこの映画は、そのテーマを一方向だけから見た場合の「父親としてのあり方」についても表現し、それらを創作された物語が物語のゴールとしてたどり着く感動、つまりは面白さにまで結びつけているのです。なぜロボとーちゃんが世界に名を轟かさず、「君の名は。」が轟かせていったのか、私にはわかりません。漠然とした感想ばかりをこぼす大衆はこのことについての罪を背負っていると思います。個人的な意見ですが、そう思います。

 

 

 次に、ベイマックスです。これは宣伝で体感8割くらいの内容を見せたと思われる「アナ雪」に対して、宣伝でのイメージと内容がまるで違った映画です。そういう意味では「君の名は。」に似た部分があるのですが、私はこちらは面白いと感じました。なぜそう感じたのかを、もともと言語化する能力が高いわけでもないながら必死に言葉にしてみたいと思います。

 ベイマックスのストーリーはおおまかに以下の通りです。

 

 主人公のヒロは兄に似てロボット制作に秀でた、いわゆる天才少年です。ヒロは個人的にも尊敬している、兄の大学で教授を務めるキャラバンなる人物に認めてもらおうと自作の画期的な、無数の集合体となって力を発揮する小型ロボット「マイクロボット」を制作します。

 しかし、そのマイクロボットを披露する会場で大規模な火事が発生。ヒロとその兄は建物から無事脱出できましたが、キャラバン教授はまだ建物の中。教授を助けようとヒロの兄は弟の静止を無視して建物へと戻り、その直後に大爆発が発生。兄は帰らぬ人となりました。

 心に傷を負ったヒロのもとに、兄が最後に制作したロボットである「ベイマックス」が現れます。人の心身をケアするために作られたベイマックスはヒロを立ち直らせようとしますが上手くいきません。そんな中で、偶然ヒロの手元に一つだけ残っていたマイクロボットがおかしな反応を見せます。集合体となって初めて力を発揮するそのロボットは、自動的に他の個体と近づくために吸い寄せられるような反応を見せる場合があるのです。

 つまり、まだどこかで他のマイクロボットが現存していることになります。火事の際に失われてしまったと思っていた自分のロボットが、どこかにまだ存在している。ヒロはマイクロボットの現状がどうなっているのかを確かめようとし始めました。

 結果として彼は、仮面で顔を隠したいかにも怪しげな人物が、マイクロボットを量産していることを知ります。なんだかキナ臭くなってきました。火事で失われたはずのロボットを量産する謎の男。あの火事と謎の男は何か関係があるのではないか、ヒロはそう勘ぐって男の正体を追うことにします。

 兄の友達であった大学のメンバーたちと友達になり、彼らもしくは彼女らを仲間にしつつヒロが謎の男を追う冒険は進んでいきます。さらにマイクロボットは戦闘に用いても強力なロボットなので、対抗手段としてヒロはケアロボット……つまりは現代で例えるのなら介護ロボットに近い存在であるベイマックスを、ロケットパンチまで出せる戦闘用のロボに改造して作り替えてしまいます。

 そしてついに、仮面の男の正体にたどり着くのです。仮面の男の正体は、キャラハン教授でした。彼は炎に包まれる建物の中で、避難したヒロが放ったらかしにしていたマイクロボットを利用して生き残っていたのです。

 兄は教授を助けにいったのに、教授は自分だけを助けた。それに激高したヒロはベイマックスのリミッターを外しキャラハン教授の殺害を試みますが、これは失敗に終わり逃げられてしまいます。

 その後仲間たちに復讐はやめようと説得されたヒロは、キャラハン教授がなぜマイクロボットを量産しているのかの答えも知ります。教授は極秘に行われた空間転移装置の実験で起こった事故により実の娘を失っており、その実験を取り仕切っていたクレイという人物にマイクロボットを使った復讐を試みていたのです。もちろんその復讐の手法は、ひどく暴力的なものになるでしょう。

  仲間から説得を受けたヒロの目的は教授を止めることに切り替わりました。亡くなった兄だって復讐を望んではいないでしょうし、むしろ人の心身をケアするロボットを作っていた兄の意思を考えれば、復讐にのまれてしまった教授を止めようとするのはきっと正しいことでしょう。

 結果として戦いに勝利し、ヒロたちは教授を止めることには成功します。が、ヒロとベイマックスはクレイが再び稼働させた空間転移装置に飲み込まれて異空間に入ってしまいます。そしてその異空間の中で、死んだと思われていたキャラハン教授の娘が生きていたことを知り、救助します。

 しかし、ベイマックスが無事に異空間から帰ることはありませんでした。異空間内での事故によってベイマックスは満足に動けない状態になり、最後の力を振り絞ってロケットパンチに使うはずだった腕を飛ばす機能を使い、ヒロと教授の娘だけは異空間の外へと突き飛ばしたのです。

 兄を失い、今度はベイマックスまで失った。悲しみにくれるヒロは、最後に飛ばされたベイマックスの腕の、その握られた拳の中にある物を発見します。それはベイマックスに内蔵されていたチップでした。ヒロはそこから情報を読み取り、最後には自分でベイマックスを開発し直してハッピーエンド……という展開で話は終わります。

 

 ……いや、長いですね。上手くはしょって伝えることができませんでした、すみません。

 まあ、それはともかくとしてです。宣伝では「なんだか和む見た目のケアロボットと、心に傷を負った少年とのハートフルストーリー」みたいなイメージを伝えてきておいて、蓋を開ければバトル展開がもりもりでしたって感じの映画でした。

 CMでもベイマックスに戦闘用の鎧を着せているシーンはありましたが、まさか仲間を集めて黒幕とバトルする展開になるとは思いませんでした。ほとんどの人がそうだと思います。アナ雪に例えるなら、エルザが魔法を駆使して悪役と派手な戦いを繰り広げるイメージです。これは衝撃でした。

 さて、なぜ宣伝からの裏切りを見せたベイマックスを、私は面白いと感じたのか。これにもやはり、テーマの一貫性があったからだと感じます。

 ネットで見かけた意見に、ベイマックスは後味の悪い話だという主張がありました。兄がケアロボットとして作ったロボを戦闘マシンへと改造したことについても、結局は異空間に取り残されたままのベイマックス「1号」についても、後味が悪いというのです。

 確かに見方によってはそういった感想が出るでしょう。しかし私はこれを「人を救うことの重さ」の表現だったと考えます。ベイマックスは全体を通してそれを貫いたのではないでしょうか。

 兄を亡くし悲しみにくれる少年の心をケアする、つまりは救うというのは、生半可なことではないのです。ベイマックスはケアロボットという生まれ持った本来の自分を捻じ曲げてでも、戦闘ロボになってみせなければヒロの心を救うことはできなかったのでしょう。これを成し遂げたベイマックスは立派ですし、もはや聖人と言える領域に達しています。一人の人間の心を救うには、それだけのことが要求されるのです。

 軽々しく人の悩みを聞こうとして、思いついた言葉を投げかけては、自分はそれに対して何も責任を負わない。そんな無責任な偽善者の対極にあるのがベイマックスなのだと思います。そして異空間に取り残されたベイマックスは、聖人の末路を示しているようにも感じられます。

 人を救うっていうのはそういうことだ。覚悟が必要で、なおかつ報われるとは限らないことなのだ。我々はこの映画から、それを学んで自分を戒めるべきなのです。軽々しく人を救えると思ってはいけないのです。ベイマックスはバトル展開を通しつつも、そういった内面的な、精神的なテーマを貫いていました。

 一方、「君の名は。」は何を貫いたのでしょうか。恋愛について貫いたと言うには、あまりに描写が少なかったように思います。それをリアルだと言うこともできるのでしょうけど、リアリティは必ずしも作品の面白さに繋がるわけではありません。誰か一般人の日記を垂れ流したところで面白くはないことと同じです。

 映画に限らず「物語」という手段を用いる創作全般は、別に何か必ずメッセージ性を持っていなければならないわけではありません。ただ爽快、ただかっこいい、ただかわいい、ただ美しい、もしくはストーリー自体の巧妙さに感心する。そんな創作ももちろん有りでしょう。

 しかし、「君の名は。」は多くの要素を盛り込み、そのどれにも特化しませんでした。器用貧乏だったのです。そして器用貧乏にならないためには、おそらくは一貫したテーマが必要なのです。ベイマックスは一貫したテーマがあったからこそ、人の心を救うというストーリーと、バトル漫画的な展開を上手く共存させることが出来たのだと思います。

 

 

 ……と、ここまで書いてきましたが、私は重要なことを一つ言い忘れています。それは、ロボとーちゃんは「父親」を主観とした物語であり、ベイマックスは「バトル」を主な展開とした物語であったということです。要するに、両方ともどちらかと言うなら男性向けなのです。

 一方「君の名は。」の方は、SF的要素などがゴチャゴチャしていてわかりにくいですが、エンディングを主人公とヒロインが再会する場面にしたからには、主題は「恋愛」だったのではないでしょうか。そうだとすれば、あの映画は女性向けだったと、やや苦しいながらも言えることになります。

  そうすると、私は男ですので、男として男目線の男性向け贔屓な意見を言っている……ということがあるのかもしれません。これはなかなか自覚できるものではないですし、実際自覚していませんけれど。自覚していない物は存在しないことにする、なんてことはさすがに出来ません。

 もしかすると「君の名は。」には女性にしか理解できない魅力があり、またロボとーちゃんやベイマックスには、女性にしか理解できない欠点があるのかもしれません。もしそんな物が本当に存在するとすれば、まだ今の私ではそれを認識することはできませんが、だからといって文句を言うことはありません。価値観の多様性を否定するつもりはないからです。

 ですから、「君の名は。」が好きな女性が、もしも私のような男と対面してしまったのなら、その時には「男の子だからわからないんだね、かわいそうに」と言っておけば良いと思います。そうすれば私のような否定派からは言い返す手段がなくなりますし、何よりそれは、価値観の多様性を認めるという大切なことに繋がる台詞になるわけですから、悪いことなしです。

 ただ私にはどうしても、あの映画を支持している人たちの大半は、そんなところまで考えてはいない気がするのです。みんなきっと小学生の頃の自分に戻って、映画というウサギを見ているのでしょう。だとすればやはり私はその人らとは関わりたくありません。子どもは嫌いなんです。