妄想もいいところだけど、氷菓は絶対に親になんかなりたくないという話。

 どうも、氷頂氷菓です。なんだかちょくちょくこのブログを書いている人を見るので、氷菓も書いてみることにしました。

 というのもですね、最近ツイッターに思っていることを書くと、いったい140字の文字数制限はなんの為にあるのだと言わんばかりの量になってしまうから、場所を移そうと考えたわけですよ。文字数制限なんのそのと140字毎に文章を切っては次へ繋げする様子は、なんだか不格好ですからね。えぇそうです氷菓の個人的な価値観です。

 与えられた環境に満足できないのであれば出ていくべきだと思うのです。俳句や川柳などで決められた文字数を守らずに「三句繋げて初めて意味が通るやつ作りましたー。いやぁ我ながら大作だぜ!」とか言ってる人を見たら憐みを感じるでしょう? 氷菓は感じます。もう俳句やめちまえよポエムでも書いとけよと思います。ですから氷菓はこちらに移行したというわけです。

 ただ、それは俳句やツイッターでの話です。例えばよく「気に入らなければこの家から出ていけ」と言う親父がいますが、それは「与えられた環境に満足できないのであれば出ていくべき」とはまったく全然別の話になります。ツイッターというのは、
A「140字だけの短い独り言をみんなで呟いたら面白くね?」
B「面白そう! やろうやろう!」

という感じで生まれた物だと思います。Aは開発や運営、Bはユーザーですね。そもそもAがいなければコンテンツは生み出されませんし、Bが「つまんないから興味ないわ」と言い出せば生まれたコンテンツは消滅しますので。

 で、気に入らないなら家から出てけ親父の話ですが、いったいどこの家庭が、

A「我々夫婦は子どもを産もうと思います」
B「いいね、楽しそうだから生まれるわ!」
というコミュニケーションを取っているのでしょうか。Aは子どもを産もうとする夫婦で、Bはそれによって生まれる子どもですね。
 現実は、Aはそのまま同じとして、
B「なんか知らない間に生まれてたわ。とりあえず流れで生きてみよう」
となりますよね。子どもというコンテンツを生み出す側に自由があっても、コンテンツ(つまり自分自身)を栄えさせるか滅ぼすかの自由は子ども側にないのです。もちろん生まれて間もない幼児が「これこれこういう理由で、我が生まれた世界は我が生きるに値しない」と考えられるなら話は別ですけどね。それは妄想というものです。
 わけのわからぬまま生まれた子どもはわけのわからぬままに成長し、いつの間にか知性を得ます。自分はなぜ生まれたのか、とかそんなことを考えるために知性を使うのはとても不幸なことだと氷菓は思うのですが、みなさんどうですか。中学生くらいの時に「なぜ我は生まれたのだ」と考えていたか「我は明日も友達と遊ぶぞー! わーいたーのしー!」と考えていたか、どちらですか。
 仮に成長した子どもが「我に希望はない、もはや死を選ぶほかない」と、自分の命という、両親の作り出したコンテンツを滅ぼすことを選んだとしましょう。するとどうでしょう、死ぬのは痛みや苦しみを伴いますよね。場合によっては、本心では死にたくないと思いつつも状況の苦しさから死を選ぶ人もいるでしょう。そういう人ならなおさらですが、両親によって生み出された子どもが自らの死を選ぶ時、苦痛を伴うのは子ども自身です。
 いやいや子どもに死なれたら両親だってつらいよ、とかそういう話はどうでもいいのです。なぜかといいますと、ツイッターの話を思い出していただきたいのですが、まずは仮に新たなSNSを誰かが生んだとしましょう。
A「ツイッターっぽいの作ってみた」
B「くそパクりつまらん」
コンテンツはユーザーであるBから支持を得られなかったため、自然に滅びます。すると困るのはAです。せっかく苦労して作った物が滅んでしまえば悲しいですし、費やしたお金や時間はなんだったのかと思わざるを得ないでしょう。逆にBは、つまらんと思うだけでそれ以上の損害は何もありません。
 しかしコンテンツを作ったのはAです。Aにはコンテンツを生み出した時点で、Bからの支持を得られなかった場合の責任を負う義務が発生しているのです。というか義務も何も、自然とそういう形になります。成功すればAB共に喜び、失敗すればAのみが主な損害を被る。それが正しい形なのです。損害を、リスクを恐れるのなら初めからコンテンツなど作ろうとしなければよいのですから。さすがにノーリスクでリターンが欲しいというのは無茶でしょう。
 で、また親と子の話に戻ります。どうですか、Aである両親とBである子ども。なぜ子どもというコンテンツが失敗に終わる時、Bが大きな損害を被っているのでしょうか。同意の上で命を与えられたわけでもないのに散々な仕打ちです。逆に両親は、自分たちが生むことを選んだのだから文句を言う権利などありません。
 話を「生きるか死ぬか」というかなり壮大なテーマで進めてしまいましたが、規模が変わろうと話は同じです。要するに親には子どもを産んだ時点で、その子どもの衣食住とその他基本的な権利(義務教育など)を保証する義務があるのです。その親が何をとち狂えば「気に入らないなら家から出ていけ」と言えるのでしょう。正気の沙汰ではありません。
 ……はい、そうです。ここまで読んでいただければわかる通り、氷菓は言われたことをそのままの意味で受け取るタイプです。やる気がないなら帰れと言われれば帰るタイプです。しかしですね、帰れと言う教師や上司とは、親という立場はまるで話が違うわけですよ。言葉の裏に他の真意があったとしても、気に入らないなら出ていけなどということは言ってはならないのです。金を受け取る代わりに責任を負う仕事をしている者と、金ももらえないのに自ら進んで責任を背負った者とでは、背負っているものの重さが違うのです。生きるためではなく好き好んで選択をした者には、生きるために選択をした者よりも重い責任が付きまとうでしょう。
 
 さて、それで結局氷菓はいったい何が言いたかったのか。実は家から出ていけと親に言われていて、それに憤慨しているのか。違います。氷菓は高校を卒業してしまい、もしかすると「親の責任」の範囲を抜けてしまったかもしれない……だからこの話をしているのです。
 はたして親が子どもの責任を背負い続ける期間はどこまでなのか。義務教育終了までか、高校もしくは大学卒業までか、一生なのか。子どもに「親に責任をまっとうさせた責任」が発生するのはいつからなのか。そもそも発生するのか。それが問題です。

 一般的に考えれば高校なり大学なりを卒業して社会に出た時点で、親の責任は終了し子どもに責任が移ると考えられます。義務教育が終了した段階ではこのご時世十分な教育が終了したとも言えませんし、やはり最低ラインは高校かと。
 そうして親の責任によりそこそこ健やかに生き延びた子どもは、今度は今後自らの人生は自らで構築していくという責任を負います。これは「人間」という種を繁栄させるための責任です。一生親に面倒を見てもらうのが当たり前なら、ほとんど誰も働かないので社会は崩壊、人間はいずれ絶滅もしくは文明を退化させるでしょう。それは基本的に誰も望まないはずです。
 なので氷菓が「氷菓がダメ人間になったのは親の責任だ! 一生面倒見ろ!」と喚き散らしたところで、きっと大きな成果は得られないと思います。氷菓の両親は間違いなく責任を果たしていましたから。すると今度は、人間という種の繁栄を妨げる劣等種である氷菓が淘汰されるかそれに抗うか、という話になってきます。


 親が責任をはたせば、子どもは確実に真人間に育つなんて、そんなことはありません。子どもは親以外のあらゆる物や者と触れ合うのですから。いくら親が努力したところで、結果として何かしらのことが原因で子どもがダメ人間に育つこともあるでしょう。

 しかし、どこへ責任を追及すれば良いのかわからないからといって、結論である子ども本人に責任を被せるというのはどうなのでしょう。氷菓はあまり納得できませんが、代替案もないので泣き寝入ることにします。ぐすん。