黒い雷を一目でわかるようにしろ

 ぼくは関東に住んでいるが、ネットで知り合った友達は福岡県に住んでいる。今年のバレンタイン、彼女からLINEギフトにてチョコが送られてきた。
 受け取れる店はローソンのみ。商品名はブラックサンダー。その商品のキャッチコピーは「一目で義理とわかるチョコ」である。ちなみに値段は三十円。
 日頃の移動経路に、なんとローソンは三軒も建っている。ぼくはすぐにそのうちの一軒へ向かった。そしてお菓子コーナーを舐めまわすように見回しブラックサンダーを探す。
 ……が、無い。何度見てもない。お安いチョコを探せば探すだけ、ぼくの視界にはスニッカーズが入ってくる。ブラックサンダーはない。
 諦めて帰ろうとした時、バレンタイン特設コーナーを見つけた。まさかとは思いつつ探すと、まぁさすがに置いていなかった。お前ら先週までこの世に存在してたか? というような見たこともないチョコたちが並んでいるだけだ。
 いや、そうか、レジ横に置いてあるのか! そう思い立ち見に行くも、しかしブラックサンダーはどこにもなかった。今度こそ諦めて次の店へ向かう。ぼくの知ってるローソンは三軒もあるのだ。無敵だ。
 ……で、三軒ともどこにも置いてなかった。もしかしてだけど、ブラックサンダーはお菓子コーナーでもチョコ特設コーナーでもレジ横でもなく、どこか別の場所に置いてあるのか? そう思って店中見て回ったが、見当たらなかった。三軒全てだ。
 探すたび探すたび、探した分だけ何度も何度も、ぼくはスニッカーズを見た。一度も食べたことのないスニッカーズが、なんだか嫌いになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで……ってやつはこれか、と思った。
 しかしそれはそうと、ぼくは物を探すのが苦手だ。本屋に行って、この本はどこに置いてありますか? と店員に画像を見せれば、要約して「あんたの目の前だよ」と言われたことは一度や二度ではない。
 ぼくはブラックサンダーを無限に見落としているのかもしれない。一番いいのは店員に尋ねることだ。どこにあるのかもわからない新たなローソンを探して自転車で走り回るのは無謀が過ぎるし、三十円のチョコのために公共交通機関を使うなんて本末転倒だから。
 けれども、……けれども! ローソンは、コンビニは、今か今かと声をかける相手に飢えた店員の跋扈する、電化製品店や洋服屋ではない。膨大な在庫に対して検索機も置かれていない本屋でもない。暇そうな店員がうろうろしている余裕あり気な喫茶店でもない。
 そこで何か? ぼくは、こう聞くのか? この店に、ブラックサンダーはありますか、って。店員は「なんだこいつ……」と思うだろう。だがそれはこっちの台詞だ、なんだこの店は……! なんで一目で義理とわかるチョコが、一目でわかる場所に置いてないんだよ!!
 思えばぼくの目的は本来、LINEギフトを受け取った時点で終わっている。チョコを送ってもらったという事実が大事なのであって、チョコ本体は単なる市販のブラックサンダーでしかない。
 だから例えば、もしもバレンタインデーが生魚を送り合う風習の日であったとして、女の子からイワシ一匹受け取ったぼくが帰り道、野良猫にそのイワシを取られたとしても、それはそんなに悲しむようなことじゃない。
 だからLINEギフトのバーコードを使えないまま終わっても、それはそんなに悲しいことじゃないはず。ブラックサンダーは事の本質ではない。物品に囚われるな、形のない物の価値に気付け……!
 アンラッキーだったな、そう思って終わらせればいい話なのだ。……という結末に出来れば良いのだけれど、しかし、ぼくは金の亡者だった。行きつけのカードゲームショップになぜか駄菓子が売っていた学生時代、友達がみんな帰りに駄菓子を買う中、食べたい物があったって意地でも何も買わないのがぼくだった。
 店員に聞く勇気はない。自力で探し出す当てもない。おまけに「まぁいいや」と思える度量もない。けれど、チョコをもらえたことは純粋に嬉しいから、悪いのはローソンだ。ローソンだけだ。許せねぇ、スニッカーズばっか置きやがって。黒い雷に焼かれてしまえ!
 ……と、そんなふうに怒り狂うぼくは、しかし福岡の友人の顔も知らないのだった。声なら知ってるぞ。
 

プリズムビッカーに気付いた日

 最近の我が家は週一でツタヤに行く。が、当時のぼくは、ツタヤに対する興味を失っていた。
 あの頃……つまりTLのオタクの盛り上がりに背中を押され、プリパラ(女児向けアイドルアニメ)を初めて視聴してから数ヶ月経った頃。プリパラの全話をレンタルDVDで見終えたぼくは、抜け殻のようになっていた。ツタヤに求める物は漫画の新刊だけとなり、つまりほとんどの場合、行っても借りる物がなかった。
 毎週欠かさずプリパラを借りていた頃のことを思えば、毎週の楽しみが一つ消えて、味気ない生活になってしまった。しかしそんなぼくと違って、プリパラ終了後も、弟は自分の見たいアニメを借り続けていく。
 ……いいなぁ、そんなに見たい物が置いてあって。この店にはアニメ「ゆるゆり」も、ドラマ「ケイゾク」も置いていないのに、お前の欲しい物は置いてあるのか。そう心の中で愚痴る。やがてぼくはツタヤに行く回数が減り、留守番の回数が増えた。
 かつて、ガルパンを借りて見た頃があった。リーガルハイを借りて見た頃があった。その頃は毎週のツタヤが楽しみだった。別にDVDでなくてもいい、ジョジョの単行本を次々借りていた頃も楽しかった。だから今も、何か、何かないのか……?
 そう悩むこと数ヶ月。同じくTLのオタクの盛り上がりから、プリキュアでも借りてみるかと思った日もあった。けれどイマイチ乗り気になれなかった。プリパラより遥かに数が多いからだ。しかし他に興味のある物もない……。だが気乗りしない……。
 そんな中、YouTubeのおすすめ動画に、仮面ライダーゼロワンの無料1話が表示された。しかしぼくは仮面ライダーに興味がなかった。子どもの頃は特撮ならウルトラマン派だった。だがそのウルトラマンも、大人になるにつれて面白さを理解できなくなってしまった。
 しかし、ゼロワン無料1話はおすすめ動画に何度も表示される。何度も何度も何度も何度も……。それをスルーしながらも、ぼくにはいろいろと思い出すことがあった。例えば、今は関係の切れたかつてのネット友達が、なんだか仮面ライダーの話をしていたなぁ……だとか。
 好きなユーチューバーが一人、仮面ライダーに突然どハマりしていたこともあった。ぼくはまるで興味がなかったので、どハマりしている様子がTLに流れてくることを少々うっとうしく思っていた記憶がある。大人の財力で変身ベルトなどを集める様子を、バカなのかと思っていたものだ。
 しかし、今なのかもしれない……そう思った。かつての友人を見ても、好みのユーチューバーを見ても、今まで自分は仮面ライダーに興味を向けなかった。そう、ちゃんと見たことさえなかったのだ。そして今こそが、見てみる機会ってやつなのかもしれない。そう思った。
 嫌うなら見て嫌え、叩くなら見て叩け。思えばその精神で、「君の名は。」だって見たじゃないか。ならば仮面ライダーも見るべきで、そのタイミングは今だ。ツタヤを持て余した、今しかない……!
 ということで、まずは無料公開されているゼロワンの一話を見た。しつこいおすすめをようやく受け入れた。
 ……そしてぼくは週末、ツタヤの特撮コーナーへ向かった。そしてプリキュアに負けず劣らずの、ライダーの山に相見える
 小学生の頃一度だけ、偶然チャンネルが合っていた流れで、仮面ライダーを丸々一話見たことがあった。それは仮面ライダーダブルだった。
 一話を初めから終わりまで見た当時のぼくは、来週も見てみようとは思わなかった。けれど今思えば、途中でチャンネルを変えたり、テレビから離れることをしなかった程度には、面白かったのではないか。
 レンタルしてきた仮面ライダーダブル。サイクロン!ジョーカー!の響きだけ妙に有名な作品……という認識だったそれを、ぼくは視聴した。
 そしてそれから、毎週ツタヤへ行くのが楽しみで仕方なくなった。それが今年の、お盆以降の話だったように記憶している。



 そうか、これが、この気持ちが……! と仮面ライダーにどハマりしたぼくは、ダブルを最終回まで見たら、次はエグゼイドを見始める。年代の流れで言えば次はオーズなのだけれど、ぼくはその流れに沿う気がなかった。
 調べてみたところ、どうやら全てのライダーが良い評価を受けているわけではないらしく、またその中でダブルは、平成ライダーの最高傑作と呼ばれる作品の一つらしかった。だからぼくは、評価の高い作品から選りすぐって見ていくことに決めた。
 人気の作品の中でもエグゼイドは「宝生永夢ゥ!」という台詞や、それに関わる一連の流れが何やらネットで流行っていたり、死亡しても気の抜けた音楽と共に、土管から復活するライダーが話題になったりしていた。なぜそんなに流行っていたのか、本編を見て今こそ確かめてやろうというわけだ。
 で、エグゼイドも面白かった。次はドライブを見ようと思っている。けれど鎧武やオーズやビルドやファイズも気になる。ぼくの仮面ライダー生活はまだ始まったばかりだ。もちろん現在放送中のゼロワンも毎週楽しみにしている。
 ……そして、2020年の正月。我が家は父方の祖父の家に挨拶へ行った。父には親戚が多いのだけれど、祖父の家の2階の一室は、孫たちが置いていったオモチャで溢れかえっている。その部屋は半ばガラクタ置き場のような状態だ。ぼくはこれまでにもう何度も、孫世代も大きくなってきたしそろそろ捨てたらどうかと話していた。
 が、しかし。今になって思えばそのガラクタの中に、そういえばプリズムビッカーらしき物が置いてあったような気がしてきた。
 プリズムビッカーとは、仮面ライダーダブルが使用する武器だ。ガイアメモリ(変身ベルトに装着するアイテム)を盾に複数取り付け、その盾に剣を収めることで剣にエネルギーを付与するその武器は、発想がモンハンのチャージアックスに似ている。
 だがダブルが放送されたのは10年前だ。菅田将暉のデビュー作として今でもテレビで話題に上がることはあるけれど、しかし10年も前だ。チャージアックスが初登場したモンハン4より、さらに前の時代だ。プリズムビッカーは時代を先取りした面白いアイテムだったけれど、いくらなんでもそれがガラクタ山に、10年も残っているのか?
 そう思いダメ元で漁ってみると、……あった。プリズムビッカーの、盾の部分だけがあった。そしてそれは、ぼくが何年も何年も、盆と正月に祖父の家を訪れるたび、ガラクタという認識で視界に入れていた物だった。
 それを今日初めて、仮面ライダーの武器だと認識した。これはすごいことだ。祖父は10年間これを捨てずにいて、そしてぼくがつい最近になって、その「ガラクタ」が何であるのかを知ったのだ。今年の夏頃のぼくは間違いなく、同じ物を単なるガラクタだとしか見ていなかった。
 もしも10年前それを置いて行った誰かが成長して、昔見ていた仮面ライダーのことを忘れていたら、これが何物なのかわかるのは現在ぼくだけだ。半年前はライダーに微塵も興味を示さなかったぼくだけだ。それが10年越しだぞ? これはもう、ちょっとした奇跡だろう。
 しかも、掘り出し物はほかにもあった。変身ベルトだ。ダブルの変身ベルトがあった。ゼロワンの変身ベルトが5000円以上することを知ったぼくは、自分は一生変身ベルトと無縁の人生を送るだろうと悟ったけれど、それがまさか、こんなところで機会にめぐまれるなんて。ちょっと前までは、全部捨ててしまえばいいと思っていたのに。
 それはもうベルトを腰に巻いた。それはもうガイアメモリを装着した。電池は当然切れていて音はしなかったし、今新しい電池を入れたところでちゃんと動くのか、乱雑に扱われた10年物ともなると怪しく思うが、しかしベルトのギミック自体はちゃんと動いた。ちゃんと問題なく、本編で見た通りガチャガチャ動かせる。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと!! めっちゃ面白い物見つけたんだけど!!!!」
 ぼくは2階のガラクタ山の部屋を出て、大興奮で階段を駆け下りた。階下の祖父、祖母、父、母、弟のいる部屋へと駆け込んだ。もちろんベルトを巻いたままで。
 そしてそこで「じゃじゃーん!」と、ひとしきりはしゃいだあと、母に言われた。
「ベルトを満面の笑みで見せられた時、真剣に引いてしまいそうだった」
 興味なさげな弟以外、多かれ少なかれ、その場の全員が引いていた。
 12月に誕生日を迎えて、ぼくは現在、21歳だ。



 引かれることがつらかったのか、温度差がつらかったのか。はっきりとはわからないけれど、こんなに悲しい気持ちになったのは久しぶりだと思った。思い思いに「ドン引きだわ」を言い換える大人たちに、「なんでだよ!」と笑いながら応える時、悲しい気持ちで笑ったのはいつぶりだろうとも思った。
 特に母から引かれたのがつらい。母はボーダーラインだった。ぼくがプリパラを見ても「面白いの……?」と言うくらいで、何ならぼくがカラオケでプリパラの曲を歌ったって、内心引いていたとしても、それをそのまま口に出すことはなかった。仮面ライダーにハマりすぎて「ツタヤが週一では足りない」と言い出すぼくを、母は暖かい目(あるいは生暖かい目)で見守ってくれたのに。
 その母にはっきり、引いたと言われた。むしろ今までこそガチで引いていたから、恐ろしくて口にも出せなくて、今回が軽めの引きだったから言葉にされた……という可能性も無いことはない。そうだったとして、ぼくの気持ちが楽になるわけではないけれど。
 ぼくは「母」に引かれたくなかったのではない。さっきも言った通り、心の広い母は、「客観的なボーダーライン」なのだ。そこからNGが出たという事実がキツかった。
 父は別にいい、プリパラにも引いていたから。プリパラを初めて見た時と、プリパラの主人公が小学生だと知った時の二度引いていた。同じ男で、昭和と平成の違いはあれどライダーファンであるはずという話は確かにあるが、それでも母に直接「引くわ」と言われたことの方が余程の衝撃だった。
 大人がオモチャで遊んでなんで悪い。……と言うのは簡単だけれど、しかしぼくも鏡は見なかった。変身ベルトを付けた状態での鏡は、恐ろしくて見られなかった。
 ライダーに変身する俳優は皆イケメンで、ぼくは自分の顔やその他の容姿が好きでないというのはあるけれど、しかし理由はそれだけでもなかったように思う。みんなが「引くわ」というのも、実際のところぼくだって一理ある。
 けれどさっき言った通り、その変身ベルトとの出会いは奇跡だ。だってぼくはまだ過去のライダーを二作しか見ていないのに、10年も前の作品なのに、それがドンピシャで、タイムカプセルのように置いてあった。全ての経緯を振り返っても、奇跡としか言いようがない。
 突然のことと見た目のインパクトで、親たちにはそれがわからなかったのかもしれない。一晩過ぎれば、向こうだって「一理ある」と思ってくれるようになるかもしれない。……というのはさすがに楽観的すぎるというか、世界を自分の都合に良く見すぎているか。
 あとから思うと、「変身やってよ。動画に撮ってお前の友達に送ろうw」と言い出した父に、
「いや、サイクロンが右だったか左だったか忘れたし、最後ガチャンってやるの意外と難しいし、いろいろ調べて練習してからじゃないと」
 と返したのは、さすがにキモすぎたような気もする。「嫌だよ、上手くできない」と言うだけでよかったのに……。そこは反省している。
 ところで父が話題に出した「友達」とは、ぼくの数少ない友達の中でも、唯一の女子を指す(ネット友達を含めば唯一ではない)。彼女は小中学校を共に過ごした言わば幼なじみで、現在は心理系の女子大生をやっている。そんな彼女をここでは「A」と呼ぶことにしよう。
 ぼくはAに、LINEで今回の件を報告した。変身ベルトではしゃいだら引かれたことと、そっちに動画を送る話題が出たこと。そして報告のあと、こうも聞いてみた。もしも現場にいればAも引いていたのか?
 返事は要約してこうだった。
「皆の前で「変身!」とかやってたら引いていた。けど個人的に動画は大歓迎だ。ぜひとも送ってほしい」
 ぼくと友達でいられるくらいだから、Aは心の広い人だ。けれどぼくは、同じくらい心の広いはずの母からもらった、ついさっきのリアクションを忘れていたらしい。やはり人間、都合の悪いことほどよく忘れる。
 事実としては、ぼくは「変身!」をやらなかった。しかしそれは言った通り、上手くできる自信がなかったからだ。決して「21歳がこの状況で、それはさすがに……」と思ったからではない。そして「個人的には歓迎」と言うAが重視しているのは、まさにその「この状況で」に関する部分だろう。
 彼女はぼくと違って真人間だ。適切に空気を読むことの出来る人間だ。だから「その状況でやったのか」を気にするんじゃないか? だとすれば、ぼくは精神的には彼女のNGを踏んだことになる。
 結果として「していない」のだから良いじゃないか……とは、ぼくには思えなかった。サイクロンのガイアメモリを左右どちらに取り付けるべきか、あの場で自信を持って断言出来れば、ぼくは間違いなく「変身!」をしていた。
 ところで、昼ご飯としておせちを食べながら、ぼくは父に聞いてみた。
「ぼくの持ってきた物が変身ベルトじゃなくて、ロビンマスクの兜だったら、それでも引いたのか。それとも一緒に盛り上がったのか」
 父は昭和ライダーも好きだが、キン肉マンも好きだ。あとZZくらいまでのガンダムも好きだけれど、ともかく例として、キン肉マンロビンマスクを出した。ロビンマスクとは、フルフェイスかつ西洋風の兜を常時身につけているキャラクターだ。
「いや、ロビンマスクなら俺もテンション上がった」
 聞いてみてから、顔が隠れているのが重要なのかと思って、質問を変えた。
「じゃあ、初代ライダーのベルトだったら?」
「うーん…………それも盛り上がってたな」
 むちゃくちゃだ、と思った。これはひどい話だ、とも思った。
 要するに父は、いい歳した男(あるいは息子)が、父が興味のない子どものオモチャではしゃいでいたら引くけれど、もしもそれが、父が興味のあるオモチャだったなら、一転して一緒にはしゃぐと言うのだ。
 もっと言うと、はしゃぐぼくを見て「もしもあれが、俺の好きな〇〇だったら」と置き換えて考えることが、父には出来なかったということになる。
 まぁ、人間なんてそんなものとは知っているつもりだったけれど。知ってはいても、つらいものだった。
 そして思い浮かべるのは、友人Aのこと。大学生である現在もジャポニカ学習帳を愛用していて、それを親にバッシングされた際ぼくに「私がおかしいと思う?」と聞いてきた友人A。好きなミュージシャンの顔が大きくプリントされたシャツを着ることもある友人A。そのAも父と同じように、仮面ライダーに興味がないから、ぼくに引くっていうのか。
 ぼくは個人の趣味や価値観の多様性に、そこそこの理解を示す立場であるつもりだ。けれどそれはぼくの器の小ささから考えるに、ただ幸運なだけなのだと思う。「自分は違う」と思い込んでいるだけだ。現に過去、仮面ライダーにどハマりしていた人のことを「バカなのか……?」と思っていた。
 ぼくという人間は、ぼくにとって度し難い価値観の持ち主に、未だに会ったことがないのだ。一度たりともそういう相手とは、腕を伸ばせば届く距離では対面することなく生きてきた。運良くそれが出来た、それだけのことだ。しかしまぁ、そうだとしても、21歳が変身ベルトではしゃぐことは、そんなに悪いことなのか。
 いや、わかっている。ぼくが大学生であったり、正社員とまで行かずともせめてフリーターでありさえすれば、もう少し印象は変わったのだろう。現在、父のコネにて週二回一時間のバイトはしているけれど、それを「働いている」と呼ぶのにはかなり無理がある。ぼくは実生活の中で、これ以上「限りなく黒に近いグレー」という言葉が似合う状態を知らない。
 印象は理屈じゃない。もしもぼくが一流大学に通っていたり、大企業に務めていたりすれば、今日と同じく変身ベルトではしゃいだとしても、皆の反応は違った物になっていたはずだ。それともそれは、あり得ない仮定に夢を見すぎているのか? 大金があれば幸せになれるに決まっている、というような考え方をするみたいに。
 けれどぼくはやっぱり、父が子どもみたいにはしゃぐのを見たとしても、友人が客観的に見てレアな趣味を持っていたとしても、立派に家族を養っているからとか、大学とバイトによる多忙な日々に耐えているからとか、そういう理由で「良し」としているつもりはない。すべて、決して悪いことではないから、良しとしているつもりだ。
 ……と、言ってみても。いくらそれらしいことを言ってみても、ぼくがツタヤにて怒涛の勢いで仮面ライダーを借りる時、その費用が父の稼ぎから出ている事実は変わらない。いや違う、そうか、たぶん考え方がズレているのだ。生き様がご立派だと見方が変わるんじゃなくて、生き様がボーダーラインを下回ると、悪い意味で見方が変わるんだ。
 そう考えた時に、思い出すことがある。仮面ライダーダブルの決め台詞だ。あの台詞は今回の件を鑑みても、どちらかといえばやはり、ぼくに向けられる方が正しいように思えてしまう。その台詞は、

「さぁ、お前の罪を数えろ。」

 ダブルの放送当時からずっと、ぼくは半不登校だった。そして今に至っては黒いグレー、ニートだ。親には死ぬほど迷惑をかけている。





 ……大晦日の夜、あるいは元旦の朝。調子に乗って飲み食いしすぎて、グロッキー状態になったまま眠ったぼくは、縁起が悪いことに悪夢を見た。ぼく一人だけが、ヒステリーな声を出しては、家族に何かを怒り続ける夢だった。
 変身ベルトをガラクタの山から発見した時、あんな夢は何も関係なくて、ぼくは今年も幸運なのだと思った。……で、実際ぼくは幸運だ。次は仮面ライダードライブをレンタルしてもらう。たぶんダブルやエグゼイドと同じで、全12巻だろう。
 考えてみればさ、変身ベルトではしゃぐ自由と同じくらい、他人の行動に引く自由もあるんだよね。別に「お前は間違っている」と言われたわけじゃないんだから、そんなに悲しまなくてもいいのに。
 けど、それでも悲しかった。

氷菓くんは鳥頭

 父が大学の同窓会へ行く。ぼくの父はバスケのスポーツ推薦で大学へ行った人なのだけれど、同窓会にも当時の体育会的縦社会が色濃く残っているらしい。
 ちなみにぼくがバスケにおいて、下を見ながら真っ直ぐ進むドリブルしか出来ないのは、まったく同じ特性を持つ母の遺伝子によるものだと思われる。母は野球で空振りする時、強振のパワプロくんみたいに一回転する。そっちはぼくに遺伝しなかった。
 さて、同窓会ではみんな酒を飲むわけで、もちろん父も飲む。つまり車では現地へ向かえないわけだけれど、父にとってそれはすごく嫌なことだった。父は普段から、コンビニに向かうのでさえ車を使う人なのだ。
 そこで立てられた作戦はこうだ。父がぼくを後ろに乗せ、自転車で駅まで二人乗りをする。そして飲み帰りの父が自転車どころではないくらいベロベロに酔っ払っていた場合を考えて、なおかつ駐輪代をケチるために、駅で別れたあとぼくがその自転車に乗って家に帰る。自転車回収班導入作戦だ。
 ぼくが車の免許を持っていないからそういう作戦になる。そしてぼくは自転車の二人乗りが出来ないから、自転車の運転は必ず父だ。
 ……忘れもしない、高校生の頃の記憶。当時の彼女(人生最初で最後かも)と、どちらからともなく「二人乗りやってみようぜ!」と言い出したことがあった。別に、ちょっと家の前の直線を走るだけのつもりだった。なんかこう、ノリで。
 その時は当然ぼくが運転する段取りで、いざサドルに座り、ペダルを漕ごうとした。すると……うっ!? あ、頭がッ! 自転車……彼女……二人乗り……????? フタリノリ、アブナイ、オレ、ヤラナイ、ゼッタイ!
 ……とにかく、ぼくは絶対二人乗りの運転なんかしない。歩いた方が早いのに、目を閉じて歩くより危ないからだ。好きな女性のタイプは、自転車の二人乗りが出来ない男を許せる人です。……おかしいよね、米なら荷台に積んでも問題ないのにさ。
 いや、話が脱線してしまった。まぁとにかくそういうわけで、ぼくは父の漕ぐ自転車の後ろの荷台部分に座り、レッツらゴーと最寄り駅へ向かったのだった。
 が、痛い。足が痛い。足というか、股関節というか、付け根というか、とにかくそういう部分が痛い。昨日やったリングフィットアドベンチャーのダメージが溜まっているところに、絶妙にピンポイントな揺れと衝撃が来る。
 なんと言っても、そもそも自転車の後ろの荷台は、人が乗る場所じゃない! 慣れないちほーでの暮らしは、寿命を縮めるのです。
 そうこう言いながら走るうち、カラガラァーン! と何かが落ちる音がした。それなりの質量がアスファルトに落ちたようだった。
「あっ、アイコス!」
 父が叫ぶ。落ちたのは、父がポケットに入れていた電子タバコ本体だった。拾ってきてくれと言われて、一時停止した自転車から分離する氷菓くん。ゲッターチェンジって感じだ。
 電子タバコ本体を拾って渡すと、「あれ、ゴム落ちてなかった?」と言われた。父のアイコスは蓋の部分が壊れていて、ヘアゴムで抑えないと勝手に開きかねないのだ。
 道路でヘアゴムを探すのはなかなかの難易度だぜ……。あまり見つかる気がしないながらも地面に目を凝らしていると、背後から、
「あ、あった。ゴムだけポケットに」
 との通達があった。なんでだよ、なんでそんな器用にゴムだけポケットに。
 さてヘアゴムを本体に取り付けて、気を取り直し再出発する。父に頼まれて、二度目がないようにアイコスはぼくのポケットへ入れた。
 しかし走って一分も経たないうちに、今度はカサーっと何かが落ちる。とても軽い音で、一瞬視界に映ったそれは見覚えのある色をしていた。電子タバコ本体に刺して使う、タバコの入っている箱だった。それも二つ。それも未開封
 再び分離だゲッターチェンジ。拾って自分のポケットに入れる。もうポケットに入れてる物はないのかと聞くと、ないらしかった。
 走りながら、父が言った。
「このポケット浅いのかな」
「さぁ」
「それか俺が太りすぎたのかな」
「それは……恐ろしい可能性に気付いてしまいましたね……」
 あながち否めないところがつらい。
 とはいえその後は落下物もなく、比較的安全なサイクリングが実現された。ここらへん新しい家ばっかりだなーとか、あの家デカいなーいいなーとか、家の話ばかりしていた。何せ道中目に入る物が家しかないのだ。
 家族総出で車を洗っている家庭を、二件三件と見かけた。我が家はまだ大掃除をしていない。明日は我が身かと思うと、大変そうだなぁとか言っている場合ではなかった。洗車そっちのけで、水流のほとばしるホースで遊ぶ小さなキミ。ぼくはキミになりたい。
 と、そんな平穏の中、ある時行く手に強烈な段差が現れた。と言っても、ぼくからは父の背中しか見えていなかったので、段差があると気付いたのは、それに被弾した瞬間だった。
 ガタッガタンッ! と2HITコンボ。足の付け根が「リングフィット!」と叫んでいた。ぼくはぼくで、敵の必殺技をくらった悟空みたいな叫び声を上げた。うわぁぁぁーッ!! ……いや、さすがにそこまではリアクションしてないか。盛ったわ。
 その後ぼくたちは、信号がないわりに交通量モリモリな横断歩道や、よろよろ歩きなのになぜか道のど真ん中を行くおじいちゃんを切り抜け、なんとか駅までたどり着いたのだった。
 家ばかりの景色から一変、駅に近付けばパチンコ屋が見え、コンビニが見え、薬局が見え、本屋が見え、そして大量の飲み屋が見えた。同じ居酒屋がいつもバイトを募集している。まったく、いつ見ても募集しやがって。彼女募集中の男みたいな店だ。まぁ大体の店はいつも募集してるけど。そして大体の男もいつも募集してるだろ。
「ありがとな、助かった」
 爽やかにそう言って、自転車をぼくに預けた父は、駅の改札へと消えていく。去り際に父は、同窓会の集合場所を大雑把にしか把握出来ていないけれど、まぁ友達に任せれば大丈夫かと言っていた。争えない血を感じた。
 ところでその同窓会は30人近くが集まる中、メンバー内の女子は元マネージャーの一人だけらしい。どんな空間なんだろう……。
 何にせよ、ぼくに残る役目は家に帰ることだけだ。今来た道を引き返し帰り道とするべく、機首(?)を180度反転させて、ぼくは自転車に跨った。……なんだか、父の声が聞こえた気がした。気のせいかなと思ったけれど、父の声と聞き間違えそうな他の音もここにはない。しかしもしも聞き間違いでなかったのなら、父はぼくに何の用があるんだろう?
「……あっ!」
 思わず声が出た。これは悟空と違ってマジで出た。道行く人が近くに何人もいたけれど、意外と誰もこっちを見てこなかった。
 とにかく父を追いかけなければ! 一歩目を踏み出したところで、父の方からこちらへやってきた。半笑いで曲がり角から飛び出してきた。ぼくも笑う。
「ちょっと!!」
「タバコ!!」
(ここでRADWIMPS的な音楽が流れる)
 ……今度こそ、父は無事旅立っていったのだった。ぼくは去年似たような形で母を駅に見送って、
「言われてた地図、帰ったらLINEで送るね!」
 と言い残し、帰宅した頃には地図のことを綺麗さっぱり忘れていたというエピソードを思い出しながら、徐行運転で帰った。
 忘れていたことを思い出した時の、あのサーッと熱や音が消えていく感じと、同時に来るイラだちは覚えているのに。どうしてこうも同じような過ちを繰り返すのだろう。
 気が抜けているからだとよく言われる。しかし普通の人が、常に気を張っているとはどうにも思えない。だから、ぼくに出来ることは一つだけなのだ。自転車に一人で、一人で乗って帰ること。ただそれだけなのだ。
 やっぱり足の付け根が痛かった。

隣の罪は酸っぱいぞ

 ニートの社会復帰をサポートする市の施設があるんだけれども、そこに通っていた時期のぼくは、職員のおじさんとこんな話をしていた。

「あのー、デカいプールとかのCMで、水着のお姉さんがたくさん集まって、踊ってるやつあったじゃないですか。こう、シメジみたいな密度で集まって、がっつり露出した水着で」
「はぁ、まぁ、あったかもなぁ」
「ああいうお姉さんに囲まれたら、普通の男は「うひょー」ってなりそうじゃないですか」
「そりゃなるだろうね。俺も若けりゃなる」
「ぼくがあのビキニ集団の中に放り込まれたら、なんか、溶けちゃう気がするんですよ」
「喜びで?」
「ストレスで」
「はぁ? なんで」
「なんでと言われると、こう、なんというか、アウェー? みたいな……?」
「ふぅむ……。わからん」

 全て本心からの話だったのだけれども、その時はストレスで溶けそうという感覚を、上手く言葉で説明できなかった。
 なぜニートをサポートするための施設でそんな話をしていたのかというと、その時点のぼくはすでに二つの別なバイトを一回ずつバックレた末、「絶対に働かない」と決めていたものだから、就労の意欲さえない者には施設側も手の施しようがなかった……ということになる。
 なぜそんな状態で施設に通っていたのかというと、それはもう完全な惰性だった。バックレた二つのバイトは、どちらも施設に通い始めてから試みた物だったから、だからその勢いによる慣性のまま通い、社会復帰に不必要な会話ばかり繰り返していた。こういうのを俗に時間泥棒と言う。
 しばらくして、ついに慣性のパワーも尽き、ぼくは施設へ行かなくなった。そしてその頃のぼくは、今や恒例となった家事手伝いを始めていた。
 しかしぼくは洗濯物を干すようになって、おじさんに話した「水着のお姉さん集団の中に放り込まれたら」の話を頻繁に思い出すようになった。改めて響きだけ聞くと、パラダイスを想像してる暇があったら働けという感じだが、言ってもそれはいざ実現すると絶対そんな良い物じゃないぞ……と今でも思う。
 なぜその話を洗濯物干しながら思い出していたのか。それはまぁ、もはや言うまでもないかもしれないけれど、ずばり洗濯物の中に母の下着も含まれていたことが原因だった。
 母のだろうと誰のだろうと、女物の下着に触れるというのは、初めの頃はものすごい抵抗があった。いや、抵抗というか、「いいのか……? これはいいのか……?」と、神に問うような気持ちになっていた。ぼくくらいのダメ人間になると神にもタメ口である。
 ともかく、そうして洗濯物を干す日々を重ねながら、なんとか女物の下着に対する抵抗感を言葉にしようと、ぼくは毎朝頭をひねった。そしてある日、それっぽい表現を思いついた。
 身内の物でも他人の物でも、男が女物の下着に触れると、触れた箇所から「罪」が滲み出てくる気がする。……それがぼくの思いついた表現だった。
 しかし、罪とは一体何だ。具体的にどんな物のことなのだ。冷静に考えて、ぼくが女物の下着に触れてなぜ悪い? 盗んだわけでもあるまいに。客観的に考えて、家族が家族の洗濯物を干してなぜ悪い? 娘に嫌われる父親でもあるまいに。一体どこに罪があるっていうんだ。
 それもまたしばらく考えて、ひとまずの答えは出した。思うにここで言う罪とは、罪悪感のことだ。社会的な価値観で言う罪とか、あるいは人類の原罪であるとか、そういう物では断じてない。
 おそらくぼくにとって下着は象徴であり、それが誰の物だとか、そういうことはどうでもいいらしい。理屈ではなく、下着が自分の中で軽くタブー扱いになっている。
 子どもの頃はショッピングモールへ行った時、ゲームセンターコーナーへの最短ルートを突っ切るため、ブラ売り場を走り抜けていったものだ。それがいつからこうなったのか。
 今の年齢で一人女性の下着売り場をうろつけば不審者になる。そういう空気がぼくに象徴とか、罪悪感を植え付けたのか? それともぼくが「自分は性欲が強く、その上性的な趣味が悪い」という欠点を重々自覚しているせいで、少しでも性を意識させてくる物に向き合うと、自意識がおかしくなって罪悪感を湧かせているのか?
 自分の罪の意識がどこから来るのか、考えてみるとそれは、案外わからないことだった。しかし何にせよそれは自分の中だけの問題で、ぼくが母の下着を干しながら罪がどうのこうのと考えようと、考えなかろうと、誰もそれを気にはしないのだ。
 そしてある時、ぼくはあの職員のおじさんに、話の続きが出来ることに気が付いた。
「下着に触れると、触れた箇所から罪が滲み出るんです。下着でそれなんだから、女性の肌なんかもっとですよ。で、それで溶けるっていうことは、つまり罪ってのは酸性なんですね! あはは!」
 まさかそんな話をするためだけに、施設に赴くはずもないけれど。というか、おじさんはそんな話すっかり忘れているだろうけれど。
 酸性という言葉を使うと、いかにも下着と罪の現象は理科っぽいように思える。この世では「ぼく+女性の下着→罪悪感」という化学反応が成立しているのだ。しかしテストには出ない。
 ……ところで、ぼくはおじさんの言葉を忘れていない。あの人は若い頃、露出過多な女性の集団の中に放り込まれると「うひょー」となる側の人間だった。どう考えても、そりゃそっちの方が人生楽しいだろう!
 とはいえ、ぼくもすでに下着は克服した。罪がなんとかって本気で考えていた時期が懐かしい。あの頃は洗濯物を干す時、母の下着は出来るだけ目立たない位置に配置しなければと思うあまり、洗濯物全体の量が少なくてどうしても「目立たない位置」が生み出せなかった時、これはどうしたものかとそこそこ真剣に悩んでいたものだ。
 しかしこれは重要なことだけれど、罪というのは大抵の場合、何度か犯すうち嘘みたいに慣れてしまうものだ。触れた箇所から滲み出る罪とやらも、まったく例外ではなかった。
 つまり! 場数さえあれば、ぼくだって慣れるのだ。それが布であろうと、肌であろうと!
 問題は、女性の肌に対する場数なんか、ぼくに縁があるわけないってことだ。おじさんは生まれつき平気だったのか? それともまさか、後天的な慣れなのか……?
 ……まぁ、どちらでもいい。ぼくのような人間が持つ罪悪感とは縁がない人たちの、その慣れという感覚が先天性だろうと後天性だろうと、そんなことはどうでもいい。そんなもの、別に、羨ましくなんてないから。

ザ・ハンドは削らない&四番知らずのセックス・ピストルズ

 今回の作文は、「ジョジョの奇妙な冒険」のネタバレを含みます。









 ジョジョの奇妙な冒険という漫画には、スタンドと呼ばれる異能力が多数登場する。その中でも「ザ・ハンド」は、右手で触れた物を削り取るという能力を持っている。
 ザハンドに削り取られた物は消える、どこへ消えたのかは誰にもわからない。言わば即死系の能力であり、単純な威力だけで言えば恐ろしい能力だと言えるだろう。
 ただ、ザハンドには何だかややこしい使い方がある。それは「瞬間移動」だ。例えばだけれど、ザハンドの右手で看板の一部を削り取ったとする。元々の看板が、
「立入禁止」
 だったところを、能力で「入」の部分を削り取り、
「立 禁止」
 にした。が、ザハンドの能力はこれだけでは終わらない。なぜかこの後、看板は、
「立禁止」
 になるのだ。削り取られて消えた部分を埋め合わせるかのように、看板がくっ付いたのである。
 これの応用で、何もない空間をザハンドで削り取ると、その空間が「閉じる」ことによって、瞬間移動が成立する。図にすると、
「人間   人間」
 この状態で左の人間が、真ん中の空白部分をザハンドで削り取ると、
「人間 人間  」
 となる。逆にさっきと同じ状況で、右側の人間がザハンドを使うと、
「  人間 人間」
 となる。百歩譲って「削り取った部分が閉じる」は分かるにしても、決まって能力を使用した側に、使用された側が引き寄せられるのはなぜなのだろう。
 ……と思いきや、実は別の場面では真逆のことが起こっていたりもする。ザハンドの使用者側が、相手に吸い寄せられる形での瞬間移動だ。これはどうにもおかしな感じがする。ザハンドの瞬間移動は劇中の説明通りなら、あくまでも「削り取る能力」の副次的効果であるはず。しかし実際は、任意で瞬間移動をコントロールしているように見える。
 このザハンドは初登場、敵側の能力だった。主人公がザハンドにどうやって勝ったのかというと、決着はザハンド側の自滅となっている。無闇に削り取る能力を使いすぎて、近くにあった鉢植えが閉じる空間の作用で引き寄せられ、勢いよく顔面にヒットしてしまったのである。
 鉢植えを引き寄せてしまった際の状況は、相手との距離を詰めるために繰り返し空間を削っていた……という物だった。その目的であれば、自分が相手に近寄る側の瞬間移動でもよかったわけだが、使用者は自他共に認める「頭が良くない人」なので、そのあたりは適当にやってミスったのだと思われる。
 さて、ぼくは一つ疑問に思っている。というのも、ザ・ハンドは、本当に空間を削っているのだろうか……?
 向かいに立った人間を引き寄せるために空間を削ると、その人間のさらに向こう側に置いてあった鉢植えまで引き寄せてしまった。……このことから考えて、ザハンドの空間削りによる副次効果、空間閉じワープは、能力使用者の意図しない範囲にまで効果が作用していることになる。
 なぜ、人間以外に引き寄せられたのは、鉢植えだけだったのだろう? 鉢植えがあったということは、それを置いていた台とか、家屋なども近くに存在していたはず。なぜ鉢植えだけ?
 そもそも本当に空間を削っていたとして、その空間が閉じたら、空間の総量はどうなるのだろうか。まさか減っているのか? 看板の例に例えると、
「立入禁止」→「立 禁止」→「立禁止」
 となっているので、鉢植えの例から考えると、実際には「立」より左にある物体や、「止」より右にある物体が、一緒に引き寄せられてきてもおかしくないはずなのである。
 が、そのような描写はなかった。というか普通に考えて、ザハンドの能力が使われるたびに同じ軸上にある全ての物が拳一つ分引き寄せられていたら、世界はめちゃくちゃになってしまう。
 例えば建物なんか、だるま落としのように一部分だけが引き抜かれてしまうことになる(あるいは引き抜かれる力がかかることで、破損や倒壊が起こる)。劇中でいくら空間削りを乱発しても、さすがにそんなことにはなっていなかった。
 閉じる空間の影響は、どこまで及ぶのだろうか。その説明は劇中になかった。しかし少なくともザハンドは、世界中の軸をだるま落とし風にずらすような能力ではない。削られた空間は消えたと言うけれど、何も能力を使うたびに宇宙が少し狭くなっていくとか、そんな大規模な話にはなっていないはずなのだ。
 ではなぜ、ザハンドの能力はそういう規模にならないのか。その答えは、「ザ・ハンドが「削り取る能力」ではないから」……なのではないか。だって本当に空間を削っていたとしたら、言った通り宇宙が少しずつ縮んでいくはずだ。(宇宙は常に膨張しているとか、そういうのは今回考えないことにする)
 そもそも、ただ「閉じる空間」の作用で瞬間移動しているだけのはずなのに、自分と相手のどちらが引き寄せられるか選べるというのは、やはりおかしい。そしてオマケに、能力者本人は頭が良くない。
 つまりザハンドの能力の劇中説明は、本人が自身の能力を正確に理解しておらず、大体のニュアンスを「削り取る能力」と呼んでいるだけなのではないだろうか。
 ザハンドの右手に触れた物は確かに消える。看板の文字を消すと、確かに埋め合わせるようにくっ付く。何もない場所で右手を振り抜けば、瞬間移動が出来るのも事実だ。けれどそれは「空間を削り取っているから」ではないはずだ。描写から考えるに、ザハンドはそういう能力じゃない。
 ザ・ハンドとは単純に、「右手を振り抜くこと」をトリガーとして発動する、様々な効果を複合した複雑な能力なのではないか。それを、細かいことを考えるのが苦手な能力者が、ざっくりと「削り取る能力」と呼んでいるのではないか。
 ザ・ハンドの本当の全容を理解した時、能力の新たな使い道が見つかるかもしれない。ぼくはそんなふうに考えている。




 グイード・ミスタという男が、セックス・ピストルズというスタンド……つまり異能力を持っている。
 セックス・ピストルズは「No.1」から「No.7」の、計6人(6「体」と数えるとピストルズが怒る)のチームで構成される、銃弾の妖精のような存在だ。
 スタンドとしては珍しく、スタンド自体に自我があったりする。主な能力は、実際の銃から放たれた銃弾をピストルズが蹴ることにより、その軌道を変化させること。
 ……そう、ナンバー7までいるのに、計6人だ。なぜかというと、ピストルズの中に「No.4」は存在しないためである。
 能力者であるミスタは、4という数字を毛嫌いしている。いや、もはや病的に恐れている。
「4っていうのは不吉な数字だ。4に関わると必ず悪いことが起こる。昔知り合いが4匹の子猫を引き取ったが、そのうちの1匹に目を引っかかれて失明して……」
 などと語り、とにかく「4」に関わろうとしない。運ばれてきた料理が4皿あった場合、まず他人に取らせることで3皿にしてから自分が取るなど、徹底している。
 スタンドとはそもそも精神エネルギーの具現化である。なので4嫌いのミスタが持つスタンドに、ナンバー4がいないことはある種当然のことなのだ。
 ところでミスタは劇中で一度(正確には一度どころではないが)死にかけるのだが、その際よくわからない具合に復帰している。
 敵の策にハマってしまい、彼はスタンドのパワーをほとんど失った状態で、頭に3発も銃撃を受けてしまった。そこで死亡したかと思われたが、6人いるうちのピストルズが1人だけパワーを残しており、いつもは6人1チームで動くところを、たった1人だけで3発も銃弾の威力を相殺していたため、なんとか一命を取りとめる。
 で、その後、ミスタは何事もなかったかのように元気になっていた。頭に包帯を巻くとか、そういうのは何一つなしでピンピンしていた。
 ちょうどそのエピソードのあとで、彼の仲間である主人公が回復能力に目覚めるのだけれど、だからなおさら「致命傷ではないにしても脳天に鉛玉ぶちこまれたミスタが、なんで無傷でピンピンしてるんだ……?」と視聴者は不思議に思ったものである。回復能力のくだりがなければ、バトル漫画ってそういう物だし……と思うことも出来たのだけれど。
 そこでそのことについて、多くの視聴者が「4発撃たれてたら死んでた」「4発じゃなかったからセーフだった」「やっぱ4って怖いわ」と、半ば冗談としてコメントすることが、もはやお決まりのネタとなっている。
 実際4発撃たれていたら、ピストルズ1人だけでは対処しきれずに死んでいたかもしれない。が、それは死ななかった理由だ。なぜか傷が一瞬で完治していた問題とは別だ。もちろんみんな冗談で言っているから、だったらなんだという話なのだろうけど。
 しかし、ぼくは思う。スタンドとは異能力だ。その異能力に、ナンバー4だけがいない。それと重症が瞬時に完治したことが、無関係だとは思えない。ピストルズの能力とは、自我を持ったスタンドであることと銃弾をコントロールすること以外に、まだ何か隠された物があるのではないか。
 結局、何度も死にそうな目に遭いながらも、ミスタは最終回まで生き残る。なんなら既存キャラが何人か死んでしまった、後日談スピンオフでも生き残る。かなり初期から登場していることを考えれば、生き残る力は主人公並みだ。
 ピストルズには隠された能力があるのではないか。そしてその能力とは、4を避け続ける限り、死の運命を変える能力なのではないか。それを無意識に理解しているから、ミスタは4を徹底的に避けるのではないか。
 順序が逆である可能性があるという話だ。まずミスタがひょんなことから4を嫌うようになり、それからスタンド能力に目覚める、その結果スタンドにナンバー4だけが存在しなくなる……というのではなく、逆である可能性。
 彼のスタンドは元々「4を避ければ死なない能力」であり、その能力自体は銃弾を操る能力よりも先に発現していた。それを無意識下で察知していた彼は4を徹底的に避けて、そのあとで銃弾を操る能力に目覚めた。そういうことなのではないだろうか。
 ミスタの過去エピソードにも「銃を持った大勢の相手に一人で立ち向かったが、なぜか相手の弾は一発も彼に当たらず、彼の放った弾は全て相手に致命傷を与えた」というものがある。直接言及はされないが、その時点でピストルズの能力に目覚めているのは明らかだろう。
 が、その「ピストルズの能力」とは、「銃弾を操る能力」ではなかったのではないか。発現していたのは死なない能力の方だろう。だから彼に弾は当たらなかった。そして彼の放った弾が敵に全弾命中したことは、それは単純に彼自身の射撃の腕前だった。……ということなのではないかとぼくは思っている。
 実際ミスタは劇中でも、ピストルズ抜きで曲芸のような射撃を見せている。発現していたのは死なない能力だけと考えてもおかしなことはないように思う。そしてむしろ逆に、彼に死なない能力がなかったのなら、やっぱり頭の傷が一瞬で治っているのはおかしいじゃないか。
 間違いない、ぼくはピストルズにそんな、隠された最強の能力があると信じている。だって「時を消し飛ばす」という最強能力を持ったラスボスを倒す方法が、主人公が「全てをなかったことにする」というもっと最強な能力に目覚めて倒すという物だったのだ。そのラスボスにミスタのピストルズは、銃弾を曲げるだけの雑魚能力だと罵られている。
 機転とセンスだけでは覆しきれない能力バトルの中で、ピストルズが本当にただの雑魚能力だったら、ミスタは生き残れなかったはずだ。だからあるのだ、必ず、死の運命をねじ曲げる能力が。死にかけたはずの彼がすぐ回復したことに、仲間が何の違和感も持たなかったことさえ、ピストルズの能力の内なんじゃないだろうか……?
 ……ジョジョのバトルは、全体的にかなりノリ次第な部分が大きい。ある人の言った「ジョジョの戦いは、GMを納得させたPLの勝ち」というTRPGへの例えが、ものすごく的確であるように思う。
 父がエニグマというスタンド能力について、
「恐怖した人間を紙の中に閉じ込める能力で、なんでラーメンとかコピー機とかを同じように閉じ込められるんだ。わけがわからん、設定がおかしい」
 と言っていたことがあった。ぼくはそれを聞いて、
「それは、基本は物を紙に閉じ込める能力なんでしょ。それを人間相手に使おうとすると、恐怖っていう面倒な条件が加えられるってだけで」
 と考えて、一人で納得していた。
 ジョジョTRPGに似ている。そして我々視聴者はGMであると同時にPLでもあるのだ。自分で自分を納得させなければならない。そしてそれもまた、ジョジョの楽しみ方の一つなのだと思う。
 たとえ作者に聞いたら「いや、そこまで考えてないけど」と、言われてしまったとしてもだ。受け手の数だけジョジョがある。公式の見解は正史にしか過ぎず、各々の想像は別世界、スピンオフだ。
 つまりは、これもまた二次創作なのである。ぼくは小説を書く時、いつも一次創作しかしない(というか基本的に二次創作が出来ない)けれど、今日ここでしたような話のことを思えば、二次創作を楽しむ創作者たちの気持ちもわかる気がしてくる。
 というわけでオチはないけれど、別に必要ないだろう、今回に限っては。

コナンの脳に新一はあるのか

 子どもの頭は、大人よりも明らかに小さい。ということは、中に入ってる脳みそも小さい。フィクションの世界ではよく精神や記憶はそのまま、体だけ子どもになるなんてことが起こるけれど、脳みそのサイズを子どもサイズにまで戻して、今の精神、記憶、思考力等々をキープすることは可能なのか?
 可能なのか、というか、理屈としてどうなっているんだろう。フィクションに可能か不可能かを問うことは無意味なことだけれど、理屈の説明くらいは欲しい物だ。
 例えば、人間の脳は普段一割(だっけ?)の力しか出していないというから、コナン君は通常の人間より脳を有効活用している……とか、どうだろう。
 その場合、普通より濃密に脳を稼働させているのだから、消費するエネルギーも多いはず。しかしコナン君がデスノートのL的なエネルギー補給をしてる描写は印象になく、この説は違っている可能性が高い。
 というふうに考えていって、最もらしい自分だけの裏設定を見つけよう! というのが今回の趣旨だ。いや、実はちょっと違うのだけれど、しばらくはこの話を続ける。
 仮説その2、「臓器移植を受けた時から不可解な記憶を持つようになった。臓器にも記憶が宿るのだ」という話があるので、コナン君の脳みそに入り切らなかった情報は体のどこか別の部位に保管されている説。
 これは臓器と記憶の話自体の信憑性が定かではないけれど、フィクションというのは眉唾をいかに美しく振り回せるかを競う遊びでもある。都市伝説だろうとデマだろうと、そういう話が存在している、あるいは存在していたのが重要なのであって、それ以外はどうでもいい。
 この説を推すなら、コナン君の臓器がどっかいっちゃった場合に、一緒に新一もどっかいっちゃうケースが考えられるけれど、そういう二次創作を書いてみるのも悪くないんじゃなかろうか。ちゃんとしたファンの人には見せない方がいいかもしれないが。
 仮説その3(これで最後)、そもそも思考や記憶に脳は必須ではない説。これは要するに、思考する幽霊の存在を認める説になる。
 ここは一度、幽霊の存在を認めた上で、なおかつ、幽霊とは悔恨によってプログラミングされたオートマチックな存在ではなく、生きた人間と同じように思考するものだと考えてみよう。するとつまり、思考に脳は必要ないことになる。幽霊に脳はないから。
 思考や記憶を成り立たせることに脳は必須ではない、脳とは五感を成り立たせるための装置だ。……と考えれば、体だけが小さくなった大人というのも、幽霊と同じ理屈でフィクションの中に存在して良いのかもしれない。
 コナン君の内面が工藤新一のままでいられる理由について、どれを採用するかは皆の自由だ。あるいは別の考え方を自分で生み出してもいい。そういったこともまた、作品の楽しみ方の一つなのかなと思う。人に迷惑をかけない限り、どう楽しむかは個人の自由だ。



 さて、今回なぜこんな話をしたのかというと、ぼくの作ったあるキャラクターについて疑問が湧いたからだ。
 彼女の名はニマド。ニマドは魔女である。魔女とは種族であり、人外だ。決して元々は人間……なんてことはない。
 ニマドは様々な異能を持つが、その中の一つに変身能力がある。魔女である彼女は自らの魔法で、幼女だろうと熟女だろうと、女優だろうと二次元キャラだろうと、どんな容姿にでも自分の姿を変えられるのだ。
 つまりそこでコナン君と同じ問題が発生するわけだが、ぼくはその魔女には思考する幽霊説を採用している。ニマドは生まれた瞬間には思考する幽霊であり、後々魔法で肉体を手に入れたという設定だ。
 なぜそれを採用したのかというと、そもそも魔女ニマドを作った経緯が「エロ漫画を読みながら作った」だからだ。エロ漫画みたいな内容の小説を書いてみたいなと思って、ヒロイン役として作られたのがニマドだった。
 ニマドの持つ数々の魔法は、全てエロいことをするためにある。変身も例に漏れない。要するに彼女の魅力の一つは、誰が相手であろうと好みドンピシャの容姿になれること、というわけである。
 が、一つ問題があった。仮に現実の女性が、完璧な自由度とクオリティを誇る変身能力を有していたとして、あるいは自分自身が、相手を好みの容姿に変える力を持っていたとしたら。我々は「容姿を変えてくれ(変えさせてくれ)」と言えるのか? 個人的には、ノーである。そんな失礼なことを言う勇気はない。
 しかしそれは、なぜ失礼となるのか。それは人間がみんな「本来の姿」を持っているからだ。「生まれ持った姿」を持っているからだ。それを変えてくれというのは、たとえそれが手軽に実行出来たとしてもタブーなのだ。なぜなら本来の姿とはアイデンティティであり、アイデンティティを否定することは、人の尊厳を踏みにじる行為だから。
 誰もが気軽に容姿を変えられる時代が、いつか来たのなら。その時はアイデンティティの概念も更新されているだろう。しかし今は違う。そしてニマドは、今作られたキャラクターなのだ。
 タブーを犯せば罪悪感が湧く。人外であるニマドが人間的価値の「失礼」を笑い飛ばしたとしても、人間側には罪悪感が残ってしまう。それでは意味がない。いや、不完全だ。エロ漫画のネタとして変身能力を扱うなら、この罪悪感を取り除かなければならない。絶対に。
 というわけで、ニマドに「本来の姿」を持ってもらうわけにはいかなかった。彼女のアイデンティティは精神のみでなければならなかった。必ずそうする必要があった。だから思考する幽霊説を採用したのである。彼女は、先天性の肉体を持ってはいけなかったのだ。
 で、ここからが本題になる。名探偵コナンの話を絡めるに至った、ニマドに対する疑問とはいったい何か。それは以下の通りである。
 魔女ニマドは思考に脳を必要としない。ところで、思考に脳を必要としない存在に対して、果たして洗脳は有効なのだろうか?
 エロ漫画のヒロインとして、これは非常に重要な設定である。洗脳を有効とするか無効とするかで、彼女に担当できるジャンルが増減する。
 ぼくとしては、洗脳は有効だと思っている。ニマドは五感獲得のために脳を使っているけれど、それはつまり脳と魂(思考等を司る幽霊部分をそう呼ぶ)がリンク状態にあるということだ。たとえ思考に脳を使っておらず、脳のリソースがあり余っている状態だったとしても、洗脳が文字通り脳に作用する以上、リンクしている魂もその影響からは逃れられないのではないかという考え方だ。
 これはあくまでも「洗脳は脳に作用する」「脳の機能を一部でも使用した場合、魂は脳とリンクする」という二つの前提を元にした考えである。魂にまで作用する洗脳が存在していたり、魔女が脳と魂をそれぞれ別個の物として扱えた場合には、また別な考え方をする必要が出てくる。
 ぼくの推す説でニマドに洗脳が有効である場合、彼女にかけられた洗脳を解除するシンプルな方法がある。それは彼女の肉体を殺すことだ。
 肉体が死ぬと、魂は外に放り出される。すると当然、脳とのリンクも解除される。そのリンク解除により、彼女の魂を洗脳の影響外に置けるというわけだ。洗脳が解けたなら、また改めて肉体を作ればいい。
 問題は、数多の魔法を扱う魔女を殺すなんてことは、人間が束になってかかっても不可能だということだ。……って、これ、バトル漫画の話か? 考えている途中でそう思った。
 誰かが言った、エロ漫画とバトル漫画は似ていると。どちらもエロやバトルという「見せ場」に至るまでの流れが大切だったり、思想と思想のぶつかり合いだったりする。そして今語った洗脳の話のように、なんだか設定がバトル漫画っぽくなる時もある。バトル漫画で強い能力(時間を止めるとか)が、使いようによってはエロくなるのと同じことなのかもしれない。
 エロとバトルの例は他にもある。例えば、サキュバスというとエロに強いイメージだけれど、セックスというのは使い方次第で、愛情表現から暴力にまで何にでもなる。サキュバスが例外なく全てのエロに通じているのなら、暴力にも耐性があるはずだ。
 そしてその耐性が、精神的な物だけでなく実際の力を伴っていた場合、サキュバスはバトル漫画の世界に行ってもそれなりに強いことになる。可能性は無限大だ、各々の想像力でエロとバトルを自由に行き来しよう。
 少なくともフィクションにおいて、正解が一つということはない。何なら自分で作ればいい。

探偵ごっこがしたいわけじゃない。

 嘘を疑われた時、今のぼくに嘘をつくメリットなんてない……といくら熱心に説明しても、大抵はむしろ疑いを深められてしまう。状況に関わらず嘘はつかない、なんて主張する方が余程嘘っぽいはずなのに。
 ……ということを、時々思い知らされるけれど、そして反射的に「納得いかない」と思ってしまうけれど、実は、この現象は当然のことである。
 同じ経験をしたことがある人は、きっと大勢いるだろう。「自分のはずがないんだ」と論理的に説明すればするほど、強く疑いの目を向けられる経験を。ぼくを含めそんな経験を持つ人たちは、一つ胸に刻んでおかなければならないことがある。
 誰かを面と向かって疑っている人は、探偵ごっこがしたいわけではないのだ、ということ。普通、誰かを疑っている最中の人は、論理的推理からの「犯人はお前だ!」がしたいわけではないのだ。誰だって基本的に、人のことを疑いたくなんかない。
 ……例え話をしよう。例えば、ぼくが女性と密室で二人きりになったとする。場所はカラオケでも、どちらかの家の部屋でも、何でもいい。そこで女性が、冗談として言う。
「変なことしないでよ?」
 ここでぼくが、こう答えたらどうなる。
「しないよ。捕まりたくないからね」
 ……たぶん、いや絶対、警戒される。これこれこういう理由があるので、確実に自分はそれをしない……と主張することは、反対に言えば、その理由さえどうにかなれば話が変わってくる……ということになってしまう。
 もしも相手が全知全能で、何が嘘で何が本当なのかを確実に判別できるなら、そもそも人を疑う必要がない。何が嘘かを判別できないから疑うのだ。ということは、潔白を熱心に説明されたとしても、その説明自体が真実なのかどうか、判別する方法もないわけである。
 男女の例なら、「仮に捕まらない目処が立てば、こいつはやりかねない」とか「本当に「逮捕>変なこと」と思っているのか?」とか、疑う側は考えるわけだ。それを一つ一つ否定していこうとしたら、最終的に「いや、普通に考えてそうだろう」としか言えなくなる。自分が口にした理屈が絶対であることは、多くの場合証明できないのだ。それが真実だと確信できるのは自分だけ。…。それでは意味がない。
 人から嘘を疑われた時に「嘘をつく理由がない」と主張することもそれと同じだ。こちらはその主張が真実であることを確信しているから、そんな説明をするけれど、向こうからすればそんな説明、クソの役にも立たない話でしかない。何も主張していないことと、ほとんど同じになってしまう。
 もちろんまともな人なら、疑わしきは罰しないだろう。けれども、誰かから疑われるということは、普通に悲しい。ぼくは「熱心に説明したのに冤罪をくらうのは嫌だ」と言っているのではなくて、「熱心に説明したのに疑われるのは嫌だ」という話をしている。冤罪を避けたいわけではなく、疑いそのものを晴らしたいのだ。
 そのためには、どうすればいいのか? 答えは簡単だ。何も付け加えず、「自分は嘘を言ってない」と主張すること。それでダメな時は、どちらにせよダメだ。ただシンプルに無罪を主張する、それしかない。
 誰かを疑う人は、真摯さを求めている。出来れば疑いたくなんかないのだから、信じさせてくれることを求めている。そして疑われた側に主張の正しさを証明する方法がない以上、相手に信用してもらうためには、真摯さを見せるしかない。(もちろん、主張の正しさが証明できる場合は、証明すればいい)
 ところが、理屈で無罪を主張するぼくのようなタイプは、主張することにちょっと真剣だ。なまじ真剣なものだから、曖昧でふわふわした精神的な話をせずに、論理的に説明しようとする。
 しかしその論理とやらは、自分だけのものだ。自分以外の人間にとって、それは論理性の欠片もない物となってしまう。そもそも、信用の話をしようって時に、論理もクソもないのだ。それは元々曖昧でふわふわした、精神的な話なんだから。
 なのに精神的な話を避けようとするから、当然疑われる。疑われて当然なのだ。理屈抜きの真摯さを求める相手に、場違いな真剣さで返すからおかしくなる。コミュニケーションが成立していない。
 再び話を男女に例えると、「本当に私を愛してくれるのか」と言う相手に、「自分の年収はこれだけあるので、きっと不幸になんかしない」と返すようなもの。例え話における男の側だって、何も考えていないわけではなく真剣なのだけれども、しかし致命的に噛み合ってない。だから上手くいかない。
 本当に愛してくれるのかと問われたら、たとえその言い回しが、自分から見てどんなに嘘くさく思えても、「もちろんだよ」と言うしかないのだ。同じように、嘘を疑われた時は、「嘘なんかついてない」と言うしかないのだ。それでダメなら、どんな言葉を使おうと結局ダメなんだから、仕方がない。
 とはいえ、真摯さによる主張をそもそも「嘘くさい」と感じないタイプの人間は、ぼくのようなタイプよりも、より真摯に見えるように、自分の潔白を主張できるだろう。そういう意味で我々は不利だ。疑われやすい価値観を持ってしまっている。
 ……というわけで、ぼくと同じようなタイプの皆さん。すでに固まってしまった価値観を変えることは容易ではなく、不利を覆す方法はぼくには思いつかず、挙句の果てにこの作文にはオチがないけれど……それでも強く生きていきましょう!

おしまい。