替え歌考えたので聞いてください

 だいぶ前に母とぼくの英語力が壊滅的なことが露呈したので、その時のことを替え歌にしました。聞いてください。

 女王蜂「HALF」の替え歌で、「はるふ?」です。

 

 

 簡単な英語さえわかんなーい 「iron」が読めずに、「アイロン」呼ばわり

 グーグルに聞いてみてわかったよ 「アイアン」の初めは、「A」じゃなくて「I」

 忘れたころ暴き出される あまりに低い学力

 海外には行けない 出川じゃないから 引きこもる、このまま日本に……

 でも、日本語さえ怪しいじゃん 「漁る」を真顔で、「つる」と読みだす母

 落ち込んだことなんてないぜ バカみたい読み違い 気にしない二人~♪

創作の設定。死後の世界と神。

 これは設定の話です。作文ではありません。

 

 

・思念体

……意識のみの存在。通常死んだ肉体からはじき出される存在であり、特殊な例を除いて思念体が死んだ肉体に戻ることは出来ない。基本的に不可視かつ何にも触れられない存在で、いわゆる幽霊はコレのこと。

 また死ぬ瞬間に大きな意思(未練など)を持っていなかった思念体は、基本的に意識を持たない。

 

・重力

……思念体にも重力が適用される。ただし生きた生物への重力が星に引き付けるように下へ下へと働くのとは逆に、思念体への重力は上へと作用する。また生物への重力はその物の質量が大きいほど強力に働くが、思念体への重力はその者の意思が弱いほど強力に働く。

 重力により上へと引き寄せられる思念体はやがて宇宙に到達し、そのままある一点へと向かう。その向かう先はブラックホールである。ただし思念体の意思が強ければ強いほど重力は無に近づくので、強い未練などを持った思念体は地球上にとどまり続けることが多々ある。

 

・あの世

……ブラックホールから通じる世界。ブラックホールが思念体以外の全ての物を分子レベルで分解し追放するので、あの世へ立ち入ることが出来るのは思念体のみである。また例外なく、あの世へ立ち入った思念体は強制的に意識を取り戻すことになる。

 かつては天国と地獄という概念があったあの世だが、そもそも全ての生物を初めに生み出したのは一部の神そのものであり、また生み出した理由も「自動で続きが描かれるドラマの冒頭を書いてみた」という非常に身勝手な物であったため、別の一部の神から批判があった。その結果、死刑制度が批判によって消えるような形で「神が人間その他を裁く」物である「天国と地獄」という概念も現在は消え去っている。

 現在のあの世は「その者が生きていた頃にいた世界と同じ世界」を提供する場になっている。ただし本人以外の全ては神によってプログラムされたクローンとなっており、本人が望まない存在は再現されないことが決まっている。また少々面倒な手続きを踏めば、互いの了承が成立している場合に限りクローンではない「本人」同士が対面したり共に暮らすことも可能となっている。

 神のエネルギーがいくら膨大とはいえ無限ではない(特に各々の思念体に「世界」を提供していることで消費が激しい)ので、思念体は原則リサイクルされて次の生物として人間界に放たれる。これがいわゆる輪廻転生である。輪廻転生の周期は100年単位であり、初めてあの世に立ち入ってから少なくとも100年は

 

※今のところ、この設定が適用されているのは無知の魔女ウィズが登場する世界観のみ。ただ、別に全ての世界に適用しても特に問題はない設定ではある。

 

 

各世界観における神

・無知の魔女ウィズがいる世界観の神

……あらゆる存在、概念を生み出した人間界(便宜上、ブラックホールの向こう側の世界をそう呼ぶ)の創造者たち。創造者たちは性別を持っていたりいなかったりする、個々で違った思想を持つ集団。その総称が「神」となる。

 人間にとっては遥か昔のある時から「既存のどの生物とも一線を画する生物を作ろう」という企画が始まっていて、魔女はその企画の結果生み出されている。魔女はなぜ人型が多いのか、なぜ女性なのか、という点に対する答えは「その方がより多くの同族にウケる」から。神にとっての創造は人間にとっての創作と似ている。

 しかし魔女は生殖機能を持たない個体も多く、時代が進むごとに、

「神の意志によってのみ生み出される存在は世界に対する過干渉ではないか。他の生物と同じように、初めの個体を作った以降はただ見守るべきだ」

 という批判をする神も現れ始める。そのほとんどは女性の神であったが、その思想はそもそも、

「どの生物とも一線を画する生物を作ろう」

 という企画の根幹を否定するものであり、他の生物と同じように魔女を扱っては本末転倒でつまらなくなるので、魔女肯定派と否定派の議論は平行線を辿るのみとなっている。

 結果としてはじわじわと肯定派が自粛していく流れとなっており、人間たちが平成と呼ぶ時代が終わりつつある今、魔女を生み出して人間界に放り込んでいる神は極少数となっており、その神たちも同族からは異端扱いされている。

 新しい個体が神の手によって直接生み出されることはそのうちなくなるはずなので、もしかすると魔女は遠い将来滅びるのかもしれない。

 

・死神JKデイズちゃんがいる世界観の神

……神の定義はウィズの時と同じ。

 人間たちにとってもそう遠くはない過去に、デザイアという人の欲望から生まれる化け物が突如出現したが、それは多くの神が想定していた事態ではなかった。当初はバグのような存在かと思われていたそれも、やがて一部の神が作った存在だったことが判明する。

 個人の勝手な判断で新たな存在を人間界に放り込んだ罪は重くデザイアの作り手たちは罰せられた。が、デザイア自体は意外と好評になり、やがてそれを退治することを神が直接行うのではなく、すでに存在している生物に任せてみないかという意見も出るほどになった。

 人間たちが平成と呼ぶ時代、ついに神たちの作る「魔法少女」という概念が生まれることになる。それは生に未練を持ったまま死んでいった少女に第二の命を与える代償として、強力な力を渡してデザイア狩りに挑んでもらうという「企画」だった。

 魔法少女の生き様は一部の神に大きな反響を呼び、やがて神は人間の欲望から生まれるのを待たずに自らデザイアを生み出し人間界へ放り込むようになり、それに連動して魔法少女の数も増やした。

 が、時代が進み一部に今までと違った意識の神が生まれたこと、そしてデザイアを神が新たに生み出すという「過干渉」が重なって、魔法少女という概念はある時から猛烈な批判を受けることになる。

 特に「死後の世界。あの世がどういう物か」について少女たちに詳しく説明していなかったことがバッシングを受け、結果的に「魔法少女」という「企画」は中止されることとなった。

 

・異能力「N」が存在する世界観の神

……神の定義はウィズの時と同じ。

 人間のマンネリ化を防ぐため、異能力を持った人間が生み出された世界観。一部の人間にNと呼称する異能力を与えることで人間界は今までにない動きを見せ、多くの神たちを楽しませた。好評のその流れでやがて異能力Nを持つ人間は増やされていき、最終的には全ての人間がNを持つようになった。

 ただしそれが上手くいっていたのは人間の一世代だけ。突如追加した要素であるNは人間の繁殖機能に対応しておらず、Nを持った人間の子どもにNを持たせるには、神が自ら手を加えるしかなかった。通常子どものスペックは遺伝子によって自動で決まるため、これに神が逐一手を加えなければならない事態は異例であった。

 一時は過干渉としてNそのものを概念ごと抹消する意見もあったが、すでにNありきで作成されてしまった世界に神が勝手な意思でNを持たない人間を生み出してしまうのは、それこそ過干渉だとしてその意見は非採用となっている。

 結果的に致し方なく神はNを人間に与え続けているが、これは地味に面倒でなおかつエネルギーを消費することであり、安易にテコ入れをしてはいけないという教訓を神たちに与えることとなった。

 

※代表的な三つの世界観において神の価値観はおよそ一貫性があるので、全ての世界を繋げることも可能かと思われる。時代設定的に「魔女」の件が始めだとして、既存の物とは違う存在を生み出そうとしてバッシングを受けた魔女の反省点を生かして、既存の存在に規格外の力を与える「魔法少女」企画が始まったでもいいし、同じ理由で「N」が生まれたでもいい。

 順番的には魔女から魔法少女に移り、人間に直接向かい合って人間を弄んだことが過干渉として批判された魔法少女の反省を活かして、今度は「有無を言わせず「そういう世界」にした」Nが生み出されたとすることができる。が、ということはNの世界観は魔法少女よりも後の時代ということになる。

 しかしそうすると、すでに三作品とも平成中ごろから末期の話として書いてしまっている点が問題になってくる。魔女は途中から半ば神に放置されている存在の話なのでいいとして、魔法少女とNが時代的に重なることは絶対にあり得ない。

 全ての世界観を繋げようとすると、今から書くならNを未来モノとして書くしかない。または実際に現実で平成の次の時代が進むのを待って、その時になってNを「現代モノ」として書いてもいい。未来設定なんて洒落たことは出来る気がしないので、身の回りに時代のモデルが勝手に形成されるのを待つことになりそうな気がする。

 全てを別々の世界観だと割り切って今からでも書けるようにするか、せっかく繋げられそうなので繋げて将来の自分に丸投げするか。どっちにしろ設定を作るばかりで、創作のモチベが作品を作るところにまで達することがあるのかも怪しいので、真剣に考えるほどの問題ではないのかもしれない。

 そもそもこの後第四の世界観を作る時が来てしまったら、その時はどうするというのだろう。第三までが偶然繋がったのに万が一第四が偶然では繋がらず、それを無理やり繋げられるように作ろうとするのは苦しいから嫌だ。かといって第四が繋がらなかった場合、別に繋げなくてもよかった第三までをわざわざ未来に丸投げしてまで繋げた意味って……となってしまう。

 そういうことを考えていると全然楽しくなくなってくるので、きっと、おそらく、たぶん、何も考えずに行き当たりばったりで行くのが一番なのだと思う。趣味なんだから。とりあえず今ある設定はコレ、あとのことは知らない。たとえあとで矛盾が生まれようとも。知~らない。

感想文。

 ツイッターで流れてきた、はがきコンクールジュニア部門の作品に素晴らしい物があった。画像をそのまま持ってくると著作権とかそこらへんが大丈夫なのかよく確信が持てないので、作品を文章にして載せておく。

※「はがきコンクールのジュニア部門に熱い作品あった」で検索すると元画像が見れる可能性があるので、ぜひそちらも見ていただきたい。

 

 

あい犬はぶくぶく太ってぶんにょぶにょ

十キロギリギリ走れよ走れ

(あい犬へ)

お前は太りすぎた。落ちている物をすぐ食べるな。

だから、七キロが十キロギリギリになるんだ。

外でおもいっきり走ってやせろ、やせるんだ。

わたしといっしょに走ろうよ。         なな子より

【ジュニアの部】

題名:あい犬へ

区分:短歌

 

 

 ……という作品が、いかにも小学生の描いたと見えるかわいらしい絵と共にあった。絵は走る女の子と首輪をつけた茶色い犬の物で、特に変わった物ではない。

 しかし、まずそこが良い。一目見て「あぁ、これはこれを描いた女の子と、その子が飼っている犬の絵だな。この犬が太ったのだな」と分かる上でなおかつ、いかにも小学生の描いた絵だと思わせるその絵が良い。

 この作品は元々手書きであるのだが、文字もいかにも子どもが書きましたといった感じの質になっている。わざわざジュニアの部と説明されなくても、文字を見た瞬間に「あぁ、これは子どもが書いた物なのだな」と分かるような物だ。言ってしまえば決して上手な文字ではない。

 しかし、その字を読むのに読み手が苦労することはない。解読が必要ないのである。子どもの書いた字があまりにもめちゃくちゃだと「おそらくこの部分は〇〇と書いてある」と読み手が推測しなければならないが、この作品の文字はいかにも子どもらしいのに、それでいてちゃんと読める物になっているのだ。

 明らかに子どもの描いた絵、子どもの書いた文字。しかし何が書いてあるかは自然に理解できる。このバランスがまず素晴らしい。いくら文章の内容そのものがほほえましくても、もし字や絵が異様に綺麗だったら、ジュニアの部の作品を見ている気になれないからだ。しかし逆に解読が必要になると、それは読み手に無駄なエネルギーを使わせてしまう。

 それらしい絵、それらしい文字、それらしい内容。ジュニアの部の作品としてそれらが統一されていながら、読みにくさは一切ない。その意味ですでにこの作品は模範的だと言える。……が、元画像もないのにそんなことを言っても何も伝わらないと思われるので、そろそろ文章の内容について話そうと思う。

 まず初めの一文だ。

「あい犬はぶくぶく太ってぶんにょぶにょ」

 この時点で才能を感じる。太った犬の贅肉を表現するにあたって「ぶんにょぶにょ」という擬音を出す発想が一般人にあるだろうか。ぼくにはない。許容しかねる段階まで愛犬が太ってしまったことがこの時点でもうよくわかる素晴らしい表現だと思う。

 しかもこの文の始まりは「あい犬」である。「愛犬」ではないのだ。このいかにも「まだ学校で習ってません」と言わんばかりの文字遣い、これぞジュニア部門だと初っ端から主張してきている。かなり良好なスタートダッシュと言えるだろう。

 そして次に続く文章。

「十キロギリギリ走れよ走れ」

 ここで若干の疑問が生まれる。「十キロギリギリ」とは十キロに近い九キロ台のことだろうが、ここでの「キロ」とは何なのだろう。後に続く「走れよ走れ」から考えてkmである可能性が思い浮かぶ。しかし愛犬が太ったという話題であることからkgである説も考えられる。ぼくは犬の体重の相場を知らないので、この疑問にこの時点で答えを出すことはできなかった。

 しかしその後の「走れよ走れ」だ。なんてテンポと語呂の良い言葉だろう。下手に飼い主らしさを出して、上の立場であることを表現して「走りなさい」なんて言ってしまったらつまらないが、この作品ではそんな退屈なこと起きない。「走れよ走れ」だぞ、走らなきゃいけない気がしてくるだろう。

 このテンポの良さに流されるようにして読み進めていくと「(あい犬へ)」というカッコ書きを挟んで文章が続いている。その文章の始まりはこうだ。

「お前は太りすぎた。落ちている物をすぐ食べるな」

 見よ、このセリフ。「お前は太りすぎた」から始まるその文章。何かの物語が始まるのかと思った。よくある「お前は知りすぎた」にも並ぶ、およそ容赦の感じられない衝撃的なセリフである。走れよ走れの時点では犬と対等に近かった筆者の態度が、いつの間にか上から目線になるまさかの展開で文章の続きは幕を開けるのだ。

 そして続くのは「落ちている物をすぐ食べるな」である。なんと至極真っ当な文句であることか。そりゃあ落ちている物をすぐ食べてたらそう言われるよ、ちょっと前まで対等だった飼い主も偉そうになるよ。しっかりしてくれ愛犬。

 次々新たな展開を見せ続け、読み手を飽きさせない文章は続く。

「だから、七キロが十キロになるんだ」

 ここで例の疑問に解答が与えられる! キロはkgだった……! 捉え方によって文章の意味が変わってしまう部分に早急に解答を与えてくれる文字書きの鑑だ。そして同時に愛犬が約3キロ近く太ったことが判明する。それは人間でもそこそこの増加量と言えるので、愛犬氏はかなりやらかしていると見える。怒られるのも致し方なしか。

 太ったというのが具体的に数値で言うとどの程度のことだったのかも示しつつ、まだまだ文章は続いていく。

「外でおもいっきり走ってやせろ、やせるんだ」

 走れよ走れから続く言葉である。しかし「やせろ、やせるんだ」というテンポよりも強調を優先した表現によって、以前よりもより強い思いが伝わってくる。落ちた物をすぐ食べて3キロ近く太ったという経緯を、読み手が知った今だからこそ伝わってくる思いもあるだろう。

 そして特筆すべきはこの「感情の乗せ方」である。強い思いが伝わってきつつ、感情ばかりが前に出て文章自体が崩壊してしまうということはない、絶妙なバランス。文字と絵においても素晴らしいバランス感覚を(さすがに無意識で)見せた彼女の才能はこんなところでも表れている。

 そしてこれらの文章は最後にこう締められる。

「わたしといっしょに走ろうよ。 なな子より」

 これまで徐々に飼い主として、上の立場を示しつつあった筆者が、友達に対するような対等で優しい言葉をかけて話は締めくくられるのである。なんともほほえましい作品だった。

 そして最後。満足して去りかける読み手に、運営側から衝撃的な情報が発信される。

 

【ジュニアの部】

題名:あい犬へ

区分:短歌

 

 区分、短歌。そう、これは短歌だったのだ。信じられるだろうか。字余りとか自由形とかそういう次元じゃない。我々が読んだ物は完全に愛犬への手紙で、そもそもこれは「はがきコンクール」であるわけだから、それが手紙でも何も問題はないと思っていた。しかし、どうやらこれは短歌だったらしい。

 しかしそれでも素晴らしい文章だった。大人にも書けないような流れるようなテンポと独特かつ魅力的な表現の数々、それらを見たあとだと「もうこれが短歌でもいいか」という気にさせられる。圧倒的な力を見せられたあとのそんな気分、それはとても心地よいものだ。

 ……が、この作品を紹介していたツイートのリプ欄に有識者がコメントしていた。

「最初の「(あい犬へ)」より前がちゃんと五七七で短歌になってるんですね」

 なんだと……!? と慌てて確認する。

 

あい犬は ぶくぶく太って ぶんにょぶにょ

十キロギリギリ 走れよ走れ

 

 マジだった。短歌は初めの部分でしっかり書かれて終わっていて、その後の手紙のような文章はすべて解説文だったのだ。解説文だとすればそれはそれで独特な物だったが、ともかくこれで「区分:短歌」についても文句のつけどころがなくなった。

 なんて素晴らしい作品だったことか、拍手を送りたくなるクオリティだった。むしろ短歌を短歌だとも気付かないぼくのような人間にはもったいない、有識者のための作品だったとも言えるような物でさえあった。高級品だ。なな子ちゃんバンザイ!

 

 

 ……と、ひとしきり語ったところでこの話は終わる。しかし話題は次へ移り、この文章自体はまだ少しだけ続く。

 そもそも今回は、小中と同じクラスだった友人Kに言われて文章を書いている。彼がなな子ちゃん(なな子さん)の作品の魅力をイマイチ言語化できないというので、有識者に比べるとカスでも時間だけはあるぼくが一応こうして書いて見せることになったのだ。

 ところでそんな友人Kが中学の国語の授業か何かで書いていた詩が、とても印象的で未だに記憶に残っている。せっかくの機会なのでここで紹介しておこう。

 

 

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

五回も謝った

五回も

 

 

 ……というような詩を、彼は授業で必要に迫られて書いていた記憶がある。記憶は若干曖昧なので内容は少し違うかもしれないが、「ごめんなさい」が五回繰り返されていたことだけは確実だ。

 彼が何を思ってそれを書いたのかは不明。しかしどうだこの、ファッションメンヘラを置き去りにする闇のオーラは。友人Kは別にメンヘラというわけではないはずなのだが、これを提出物として見せられた先生の心中や如何に。

 先生のことはさておき、ぼくは初めて教室でこの詩を見た時「なんだこいつ、天才じゃねぇか」と思った。一方ぼくが授業で書かされた詩といえば、たぶん取るに足らない内容しか書けなかったのだと思う。記憶に一片も残っていない。

 しかし、それだけ力の差を見せておいて、友人Kは文章を書くのがそんなに好きではないらしかった。ぼくはこれ以降彼の作品を見たことがない。恨めしいことである。

 彼の過去作品を晒してすっきりしたので、今回の文章はここで終わりにしようと思う。晒したことを怒られたら、その時はきっちり五回謝ることにしよう。

魔女たちの設定

 今まで書いた話の中で登場したキャラの設定と、そのキャラの中でまだ書いていない部分の設定を上げておきます。

 

・呪いの魔女 カナリア

……魔女狩りの冤罪で拷問の末に殺された女性たちの呪いから生まれた魔女。自身の出身地である村の中に限って、あらゆる不可能を可能にする魔法が使える。村の外では魔法が使えないことはもちろん、村の外に直接の影響を及ぼす魔法も使えない。

 恐怖をもって村人を支配し魔女狩りを廃止させた経緯があるが、根はそこまで悪人ではなく、むしろ善人。特に優しい心を持った人間には好意を抱きやすく、一人の少年を気に入ってからはその少年と共に多くの時間を過ごし、少年が成長したあとにはそのまま結婚して幸せに暮らしている。

 カナリアが生まれたのは現代から見れば数百年も前の時代になるが、魔女はもちろん彼女に気に入られた少年も魔法で不老不死となっているため、今もどこかにある「呪いの魔女カナリアが生まれた村」で二人は生きている。ただし姿を変えている可能性があるので、もはや部外者からは彼女らを判別することはできない。

 結婚後カナリアは姿を消したが、彼女のあとを継ぐ第二第三の魔女が登場したので、おそらく二人は姿を変えて一般人としての人生を楽しみつつ傀儡を用意して引き続き村を統治していると思われる。

 姿を変える前のカナリアは頭に山羊の角を生やしており、露骨に人外とわかる容姿の魔女というのは魔女全体で見ても珍しいものだった。ちなみに彼女の名前の由来は不明であり、生まれた時になぜか自覚していたという。

 

 

・無知の魔女 ウィズ(現名)

……大昔に封印された魔女。ひょんなことから現代日本によみがえり、以降は初めて会った現代人であるマコトという男性と共に暮らしている。封印される前から元々日本人で、よみがえってからの主な人生の目的は現代観光。封印される前の目的は面白いことを探すことで、特に人間に強く興味を持っていたのは現在と大して変わっていない。

 目の届く範囲に限りあらゆることを可能にする魔法を有しているが、その魔法を直接「知ること」には使えないという制約が付いている。呪いの魔女カナリアに比べると世界中どこでも魔法を使える代わりに汎用性は下がっていると言える。

 ウィズという名前はマコトが命名したものだが、封印前の彼女には別の人間が別の名前をつけていた。なぜ名前がコロコロ変わるほど多くの人間と付き合っていたかというと、彼女が基本的に「魔法で願いを叶えること」と引き換えに人間に近寄ることを生業にしている魔女であったからである。

 また「無知の魔女」の由来は、魔法で知ることのできない彼女が情報収集に一番多く用いた方法が「人に聞く」ことだったので、あれこれ聞かれてうんざりした誰かが「無知」呼ばわりしたことが始まり。

 また本来の彼女は広く動き回るために大きな権力や優れた経済力を有する人物に取り入ることが多いタチで一般とはかけ離れた世界に身を置いていた期間もあり、封印される以前には様々な体験をしていていろいろと経験豊富。現代で普通の大学生であるマコトと共に過ごしているのは慣れない時代だから適当に初めに会った人に取り入ったといったところであり、彼女が現代になれればターゲットも自ずと元の方針に戻っていくと思われる。

 典型的な魔女独特の倫理観の持ち主であり、たまに人間とは絶望的に意見が合わないことがある。「面白いことを探す」もしくは「現代観光」といった目的のためには人殺しもいとわず、今までに殺した人間の数も一人や二人ではない。しかし基本的には人間に友好的な存在だと言ってよい。

 彼女を封印したのは「協和勢、過激派」と呼ばれる一部の魔女集団で、人間との平和的な生活を望む協和勢過激派により危険と判断された彼女は封印されてしまった。しかしそもそも協和勢過激派が無知の魔女の「抹殺」ではなく「封印」に至った理由が「条件付きとはいえあらゆる不可能を可能にする魔法を秘めた魔女の力は膨大で、封印することが限界だった」というものであり、封印自体も比較的簡単に解けるようになってしまっていた。

 結局現代によみがえった彼女は初めて食べる食物たちに驚いたりするほか、

「魔法で現代の楽器を作り、魔法で分身してバンドを組み、魔法で撮影機器を作り動画を撮って、マコトにやり方を教えてもらって動画サイトに演奏をアップしてみたり」

 だとか、

「魔法でマコトの家から続く異空間を作り、その中で魔法で作った戦車を乗り回す。また分身して戦争ごっこをしてみたり」

 だとかして、自分の時代にはなかった技術を吸収しつつ人生を大いにエンジョイしている。ただしの作る物は全て「形だけ本物だが構造はでたらめ。しかしなぜか本物と同じように使える」という物である。

 元々肉体が死ねば思念体(幽霊のようなもの)になって依然活動を継続できる彼女は、魔法で人間の肉体を作ってそこに思念体を意識として同化させている存在である(つまり本来の彼女は人型でさえない)。魔法で「知ること」のできない彼女は医者のように人間の仕組みに精通しているわけではないので、彼女自身が見た目や触れた感じだけ本物の、なぜか動いているでたらめな存在となっている。そのため彼女にとって「魔法で怪我を治すこと」は「問題なく生きられるようにすること」であり、「元に戻すこと」ではない。

 思念体が本体である彼女には寿命がない。抹殺が困難であった理由もこの「生物学的な死が通用しない」点が主であり、魔女とて全員が不老や不死の能力を持っているわけではないので、イレギュラーな彼女を抹殺する手段はとても限られていた。

 児子消しという存在と知り合いであり、現代で再会している。その一件で現代においても魔女は滅んでいないことを「寝起き」といえる状態の彼女も知ったのだった。

 

 

・児子消し

……人間の子どもを食らうことを至上の娯楽とする存在。元々女性の体で生まれたり性自認が女性である「魔女」というカテゴリの存在と違って、児子消しの性別についてはかなり曖昧。そのため児子消しは厳密には魔女ではないと言えるものの、実際には魔女の生きる世界に比較的深く関わって生きている。

 人間の肉を一口咀嚼することで、その人間の存在を初めからなかったことにする能力を持つ。ただし食われた人間の体が消滅するわけではなく、能力の影響は児子消しと対象の人間以外にのみ作用する。対象の人間をAとした場合、児子消しとA本人を除いたその他全ての存在が「AはAである」ということを認識できなくなる能力だと理解すると話が早い。

 一口噛みつくだけで存在をなかったことにできる能力の都合上、児子消しの殺人行為はほとんど完璧な隠密性を有しており、少なくとも人間がその犯行に気付くことは絶対にない。一部の魔女などには能力が通用しない場合もあるので、その手の存在は天敵であると言える。

 児子消しが死亡した場合無知の魔女と同じく思念体となる。ただしこちらの場合は生まれる前の胎児の意識を乗っ取ることでしかよみがえることが出来ず、よみがえる際は必然的に表向き人間の赤ん坊としてこの世に生まれてくることになる。また、存在を抹消しつつ子どもを食うことと、生まれる前の子どもの意識を乗っ取ることの二つの特徴が「児子消し」の名の由来になっている。

 子どもの姿でいることが一番子どもと接触しやすいと考えているので、ある程度成長すると自殺を選択することもある。女性として生まれてきた場合は成長したあとも子どもと接触できる機会が男性よりも多いので、自殺する場合は男性として生まれてきていた時に多い。

 また、一応その気になれば子ども以外の人間も食うことが可能で、その場合も能力は問題なく発動する。能力の他にも、人間を食うにあたって使う顎の力などが人外らしい強力さを誇っていて人間の骨までバリバリとそのまま噛み砕いて食べる。が、とにかく子ども以外の人間はマズくて食えた物じゃないそう。

 恐ろしい食人鬼のような児子消しだが、子どもを食べるという以外の点では比較的普通の人格の持ち主である。数百年生きた結果、時代の変化に伴い「名前が練り消しみたい」と言われることが増えたことを笑い話にしていたり、寝起き状態のウィズに魔女たち全体がたどった歴史を教えるなど親切な面もある。そういうところが人間にはより不気味に、より不快に映ったりしてしまうわけだが。

 無知の魔女とは旧知の仲で、かつては彼女にそれぞれタイプの違う子どもの肉体を魔法で作ってもらい、夢だった「複数人をその場に並べての食べ比べ」を達成している。お返しに無知の魔女にも子どもの肉を分けてやったことがあったが、同志にはなれなかったらしい。

 児子消しの娯楽はあくまで「食べる」ことであり、殺しはむしろ嫌いな方。一切苦痛なく子どもを殺せる方法があれば手に入れたいと度々発言している。しかし一方で、現代で無知の魔女ウィズと再会した際に出会った人間であるマコトには「いらない子どもが出来たら呼んでね」などと発言しており、やはり子どもを食うことが関わると人間には受け入れがたい人格が垣間見える。

 

 

・プダカの魔女 ドウプラン

……現代で生まれた魔女。寿命が比較的長い者が多い魔女が新たに生まれることは滅多にないことなので、現代生まれの彼女は貴重な存在と言える。

 対象を視界に収めていて、なおかつ自身が体の一部を動かし続けている間、対象は自分で宣言したこと以外の行動が取れなくなる……という能力の魔法を持つ。ややこしい能力だが、要するに視認している相手に著しい行動制限を課す能力だと覚えればいい。

 非常に戦闘向きの魔法を使う魔女だが、彼女の思想は協和勢、過激派に属するもので、ほとんど滅びたそれらの思想の後継者とも言える。

 現代によみがえった無知の魔女ウィズと対峙し戦闘を行い、魔法の初見殺し性能を見事に押し付けきってウィズを殺害している。……が、殺害というのはあくまで「肉体を殺した」だけであり、不可視の思念体となったウィズには魔法が通じず一方的に敗北。その後ウィズは当然再び肉体を作ってよみがえり、ドウプランはウィズの監視下に置かれる。

 名前の由来は彼女自身が使う魔法からきている。自分が視認(チェック)しつつ動いている(アクション)間に発動する能力で、相手に次の行動を決めさせて(プラン)から行動させる(ドゥー)効果があること。要するにPDCAが元ネタになっている。なおこの名前はドウプランが生まれた時になぜか自覚していたものであり、名付け主はいない。

 

 

・偶像の魔女 イノベラルト

……ドウプランと同じ現代で生まれた魔女。思想としては彼女とは真逆の独立勢に属する。

 自分が想定した通りの人間を作り出すことの出来る魔法を使う。性別、容姿、人格すべてを魔法の使い手が自由に決められる非常に繊細な魔法だが、老化と寿命だけは付与することができない。ただしこの魔法で作り出した人間(「偶像」と呼ばれる)はイノベラルトの意思でいつでも崩壊させることができる。崩壊した偶像は何の変哲もない泥となる。また、仮にイノベラルト本人が死亡した場合にも偶像は泥となる。

 元々は人間を観察して「いかにも人間らしい偶像」を作り出してはそれを人間界に送り込み、偶像がいつまで人外であるとバレずに人間社会で暮らすことができるのかを試し、それをゲームのように楽しんでいた。しかしある時彼女は人間の男性に恋をしてしまった。

 その男性は何人もの女性と一度に交際するような、一般的に言えば不誠実な人物であったが、それでも彼女はその男性を自分の物にしようと試みた。今まで誰よりも人間を観察し人間を知ってきた自分にはそれが可能だと思っていた。

 しかし結局遊ぶだけ遊ばれて捨てられた彼女は傷心のまま引きこもり、次にその姿を現した時の彼女は、自分をフった男性の偶像を作り出しそれを溺愛していた。また彼を「自分のもの」にしようとして失敗した彼女は、人格まで本物そっくりに作った偶像で同じ轍を踏まぬようにと、女性の偶像も数個別に作り出し「みんなのもの」として男性の偶像を扱っている。

 ひたすら自分の世界に入っている魔女のためそれを邪魔しない限り人間はおろか他の魔女にも害はない。ただし有益なこともほとんどない。愛しの男性の偶像とは、今のところそれなりに上手くいっているもよう(イノベラルト本人談)。

 名前の由来はライトノベル。一見しただけでは本物の人間と区別がつかない偶像を作る彼女の形成する偶像ハーレムが、なろう系ラノベのありがちな風景に見えるため。なおドウプランと同じくこの名前は生まれた時になぜか本人が自覚していた物であり、名付け主はいない。

 

 

※魔女の世界について

……魔女は基本的に「独立勢」と「協和勢」と呼ばれる二派に思想が分かれている。

 独立勢は人間との共存をあまり重視しない勢力である。自分の目的のためなら魔女でも人間でも殺す思想の持ち主が大半だが、逆に言えば自分にとって特に必要ないなら殺しは行わない物がほとんど。

 一方、協和勢は人間との共存を推し進める勢力である。その中でも人間社会に紛れ込んで生きようとするものと、人間に害をなす独立勢の抹殺を目論むものなど、様々なタイプが存在している。協和勢は基本的に人間には害をなさない勢力であるが、例外もある。

 独立勢はさらに大きく「自由派」と「中立派」に分けられる。自由派は何者にも縛られずに生きることを大前提としており、それを邪魔する人間や協和勢の魔女を容赦なく殺す。一方で中立派は、その手の殺し合いには関わり合いになりたくない比較的無害な勢力を指す。

 例でいうなら、ウィズとイノベラルトが独立勢自由派、児子消しが独立勢中立派に位置する。前者二人は邪魔者を嫌い敵意には敵意で返すが、後者の児子消しは基本的に争いを避けて逃げることを第一にしている。

 協和勢もさらに大きく「過激派」と「穏健派」に分かれており、過激派は独立勢の抹殺を積極的に行う勢力のことを指す。特に過激派の中でもさらにその色が濃い極派と呼ばれる者たちは独立勢の抹殺のためなら人間を巻き込むこともいとわず、同志であるはずの協和勢過激派ともたびたび争っている。一方で穏健派は争いを好まず、ただ人間社会に溶け込んでいるだけの魔女を指す。

 例でいうならドウプランが協和勢過激派(若干極派の気あり)となる。村を統治することのみを目的としているカナリアは魔女としてかなり特殊な部類で、彼女を協和勢穏健派とするか独立勢自由派とするかは意見が分かれるところ。

 独立勢と協和勢は数百年前、あるいは千年以上前からずっと長きにわたって大小様々な争いを起こしていたが、その争いのせいで魔女の数は徐々に減少していった。結果現代にいたるまでに、内輪での争いと「人間を守る」という枷を背負っていた協和勢はほとんど滅びて、現代に残った独立勢も少なくなってしまった。

 封印されていたウィズや現代で生まれた魔女たちはこのあたりの歴史を知らない上にこれらは表には残らない記録なので、ウィズが児子消しに教えてもらったように生き残りから教わるしかない。ドウプランも生き残りの魔女から教わっている。一方、イノベラルトはこの話題に一切関与せず。

 

 

 ……という設定を考えましたが、小説を書くモチベは灰になったままです。

デビルメイクライと思い出

 なんだかよく知らないうちに、大型タイトルの新作ゲームが次々と発表されていました。例えば、スマブラが今年の冬に出るみたいですね。

 他にはマリオパーティバイオハザード2のリメイク、アーケードゲームだとガンダムのエクバ2も出ますし、マリオテニスに至ってはすでに出ましたね。まだ遠い話なのかもしれないですけど、バトルフィールド5も出るらしいです。

 そんな新作ゲーム情報の一員として、デビルメイクライ5があります。調べてみたところ、「DMCデビルメイクライ」というスピンオフ的なタイトルと「リメイク版デビルメイクライ4」を除くと、なんと4が出てから5の情報が解禁されるまでの間に10年の時が過ぎていました。

 デビルメイクライ4の方に個人的な思い出がたくさんあるので、今回はその思い出について語っていこうと思います。思い出したから語るだけです、深い意味はありません。

 便宜上特殊な言い回しをする場合もありますが、あくまでも便宜上です。深い意味はありません。

 

 

 ぼくがデビルメイクライというゲームを初めて見たのは、近所の大型スーパー……というかイトーヨーカドーデビルメイクライ4の試遊台を見た時でした。十年近く前の話ということになりますね。

 DSなどの携帯機ならともかく、テレビゲームの試遊台は今の時代ヨーカドーやイオンから姿を消しています。なぜそうなったのかは知りませんけど、まったく見かけることがなくなってしまいました。

 しかし十年前にはまだまだ試遊台が置いてある場所が多く、デビルメイクライを知れたことは試遊台のおかげなので、試遊台というシステムそのものにも思い入れがあったりもします。ガンダムの連ザも、「ウルトラマン」というタイトルのゲームも、試遊台きっかけで購入に至ったゲームなので、試遊台がほとんどなくなってしまった今の時代には寂しさを感じますね。

 まあそれは置いておくとして。とにかく初めてデビルメイクライ4を見たぼくは衝撃を受けました。当時自宅のPS2でウルトラマンFE(ファイティングエヴォリューション)シリーズを遊ぶことに夢中だったぼくに、PS3のスタイリッシュアクションゲームはカルチャーショック級だったのです。まさに次世代、未来そのものでしたからね。

 ところでスタイリッシュアクションってなんだよと思うかもしれませんけど、これは公式の生み出したフレーズです。実際ゲームの中にもスタイリッシュランクというものがあったりするし。……まあ、どんなゲームなのかは動画を見てもらうのが一番早くて確実だと思うので、デビルメイクライ4で検索して見てくださいとしか言えません。

 ざっくり説明するなら、まあとにかく見た目がかっこいいゲームでした。デビルメイクライ4は小学生だったぼくの男の子魂をガッチリ掴んだ。しかし試遊台にはそこに置かれているゲームのタイトルが何なのか書かれていないことが多く、ぼくはその時「なんかかっこいいゲームがあった」というくらいのことしか知らずにいました。

 物心ついた直後くらいに見ていたアニメが、おぼろげとはいえ確かに記憶にあるはずなのに、そのタイトルは思い出せないことと同じように。それでだんだんとゲーム自体のことも忘れていってしまったんですよね。

 再びデビルメイクライと出会ったのは結構な間が空いて、高校生になってからでした。友達の家で「お前の家どんなゲームあんの?」みたいな感じでPS3のソフトを漁っていた時のことです。

 パッケージ裏に、昔見たことのあるボスキャラが映っていました。小学生の時にヨーカドーでプレイして衝撃を受けたあのゲームです。デビルメイクライというタイトルはその時やっと知りました。

 まあテンション上がりましたよね。

「うおおおおおお!?!?!? ちょ、ちょっとこれ! このゲームやりたいコレコレ!! お願いやらせて!」

 って感じになりましたよ。友達が二つ返事でいいよーと言うので、ドキドキわくわくしながらさっそくプレイしました。

 するとまあ、試遊台の時は知らなかったけど結構ムービーが多くて長いゲームで、どれも一人で鑑賞するなら本当に素晴らしい物だったんですけど、友達の家で遊ぶのには向かなかった。結局、割と早々に切り上げた気がします。

 で、当然それで終わりということにはなりません。小学生の頃に憧れたゲームをやっと見つけたんです。このチャンス逃すものかって感じですよ。

 高校生になる頃には奇跡的にPS3を獲得していたぼくは、結果的にその友達からデビルメイクライ4を無期限でレンタルする許可を得ました。ぼくの交渉術とかではなくて、友達がひたすら優しかっただけです。本当に「感謝」以外の言葉がありません。

 なぜ無期限なのかというと、別に返したくなかったわけじゃないですよ。どの程度の期間でクリアできるゲームなのかわからなかったことと、期限があるとプレッシャーで上手く楽しめないぼくの性質が理由です。

 レンタルに期限があるとゲームクリアまでの〆切的なものが発生して、なんだか仕事っぽくなると思いませんか? いくら念願のゲームでも仕事になると面白くないですからね、無期限で借してもらえて本当によかったです。

 それでしばらくそのゲームで遊んで、難易度「簡単」と「普通」でとりあえずクリアしました。思ったよりも謎解き要素があるゲームでしたけど、戦闘が当時感じた魅力のままかっこよく楽しくて良いゲームでした。

 とりあえずクリアしたので友達にゲームを返却します。これでぼくとデビルメイクライ4の縁も決着がついたかな。……と思いきや、このあとしばらくしてからまた借りるんですよね。なんかもう一回やりたくなっちゃって。

 もう一回借りて、難易度「難しい」をヒーヒー言いながらなんとかクリアしました。そうしたら「激ムズ」も出てきたんですけど、これはぼくには無理そうだと判断して友達に返却しました。ぼくはゲーム好きですけど上手くはないので、そこで自分の限界を感じて以降デビルメイクライ4に興味を持つことはなくなりましたね。コンボ動画とか見たらわけわかんない動きしてるし。

 それでも大満足で、いやー友達のおかげで思い出のゲームが思う存分遊べてよかったー感謝感謝、と思ってたんですけど、よくよく考えるとその友達には他にもいろいろ貸してもらった恩があったんですよね。

 小学校時代から中学校時代にかけて、ひぐらしのなく頃にのスピンオフ漫画とか、ローゼンメイデン一期全巻とか、漫画をたくさん貸してもらいました。全部無期限ですけど、全部ちゃんと返してます。

 あ、ちなみに友達は同い年です。ひぐらしのタイトルを「こういう漫画あるんだけど知ってる?」とそもそも持ち込んだのはぼくでした。不登校気味のやつが異文化を持ってくることもあるんです。

 まあそれはともかく、ここで話をローゼンメイデンに移します。デビルメイクライの思い出話じゃねーのかよって感じですけど、借りる繋がりなので。

 ローゼンメイデンは一番新しいアニメの一話をリアルタイムで見て「これが噂のローゼンメイデンかぁ。絵が綺麗だし、リメイクなんだろうな」とか思ってました。リメイクじゃなくて二期だということに気付くまでそんなに時間はかかりませんでした。

 二期から見ても面白いローゼンメイデン。こいつはツタヤで一期の原作漫画なりDVDなりをレンタルするしかないぜ……と思っていた時に、ふと友達の家の本棚を思い出しました。そういえばひぐらしのそばに、ローゼンメイデンがあったはず……!

「貸~して」「い~いよ」

 のトントン拍子で貸してもらえました。読んで、ローゼンメイデンにハマり、二期の部分はアニメで見たけどその後ツタヤで原作レンタルして読みました。

 返却期限が決まっていることは好ましくないのですが、そんなこと言っている場合じゃありませんでした。ツタヤで何かを借りる時は大体そんなこと言ってる場合じゃない時です。友達から借りる時も、どうしても期限が付くというなら甘んじて受け入れます。

 それで、読んでみると原作もとても面白かったので、二期は持ってなかった友達にもおすすめしときました。けどそれはあんまり響かなかったようです。

 思い出といえばこんな話もありますね。ローゼンメイデンの原作は出版社と揉めたか何かで連載雑誌を変えているので、原作的には変わる前が一期、変わったあとが二期です。アニメの一期二期もそれに連動しています。ツタヤの店員が一期1巻を二期1巻の箱に入れているところを見た時には「まったくわかってないなぁ(うざい声)」って気分になったりもしてました。気分だけですよ。

 そんな感じでその友達からは貸してもらう系の恩が以前からかなりあったんですけど、まさかデビルメイクライ4までぼくに知らせて遊ばせてくれるなんて、もう恩人の域です。友達がそれらの物を持っていたのは完全に偶然だったはずなので、奇跡の恩人でした。

 PS2が壊れて廃棄された我が家には実はまだPS2用のゲームソフトがいくつか残されています。友達の家にはPS3だけじゃなくPS2もあったんですよね。完全にそれで遊ばせてもらおうという魂胆でした。借りが一個あったら何個作っても一緒だぜと言わんばかりの図々しさです。いや、借りというか、借りた物は物理的にはちゃんと全部返しましたけど、そういうことじゃなくて。

 あ、借りるでもう一つ思い出しました。

 高校生の時にダークソウルにどハマりしたぼくが、ソウルシリーズに一切興味のないその友達に「一切興味ないの承知で言うから聞いてくれ。ダークソウルっていうゲームがこれこれこういう感じでめちゃめちゃ面白くて……」と熱弁したことがありました。

 その時は友達も「へぇーそうなんだ。よくわかんないけど」みたいな感じで聞いてくれたんですけど、なんかある時からダークソウルに関する質問をしてくることが増えたんですよね。

「魔法ってどうやって唱えるの?」

「持ち物の切り替えってどうやるの?」

 みたいな。なんかおかしいじゃないですか。最初は実況動画でも見始めてくれたのかなーだとしたら熱弁した側としても嬉しいなーと思ってたんですけど、だんだん質問の内容が「それゲーム動画を鑑賞する人が知りたくなることか……?」っていう物になっていったんですよ。

 ある時おそるおそる、そして期待をこめて、聞いてみました。

「……ダークソウル買った?」

「実は……ダークソウル2買った」

「!?!?!?!?!?!?」

 斜め上の展開! 衝撃というか、もはやドッキリの類でした。ダークソウル2はぼくも持っていなかったので、友達はいつの間にかぼくにとっても未知の世界に冒険へ出ていたのです。「マジかお前まじかああああ!」ってなります。

 ただぼくは本当に汚い人間だなと思ったのは、その時の喜びに「自分が勧めたゲームに興味持って買って遊んでくれるなんて嬉しい!」という意味以上に「これでダクソ2買わなくても借りて遊べるじゃん!」という意味がありました。今思い出してもクソ野郎ですね。

 とにもかくにも、借りるかどうかは置いておいてとりあえずぼくは友達の家に遊びに行きました。そして友達がダークソウル2をプレイしているのを隣で見守って、無印ダークソウル経験者として玄人面してコメントしたりしてました。

 ところがどっこい、そこで友達の思わぬ弱点を見たのです。その友達はホラー系がとても苦手な人だったんですけど、その人からするとダークソウルはかなりホラーっぽい物だったみたいなんですよね。ぼくからすればそんなことはないんですけど。

 せっかく剣を持っているのに、魔法を撃ち尽くしたら「近寄るのが怖いから」と言って拠点まで撤退する友達。怖いというのは迫りくる敵がホラーっぽいの意味もあるし、自分が攻撃をくらってやられてしまうこと自体が怖いみたいなニュアンスも感じました。なぜその豆腐メンタルでデビルメイクライが遊べたのか、不思議です。いやディスってるわけじゃなくて、純粋に不思議です。

 で、まあ玄人面してる人がそんな非効率な、というか非効率通り越して縛りプレイと呼べそうなプレイを見せられたら、そのうち「ちょっとコントローラー貸せ!」ってなりますよね。そんな乱暴な言い方はしてないつもりですけど、結果としてぼくはコントローラーを友達から奪取しました。

 敵が怖くて近寄れないという友達に対して、ぼくはぼくで消耗品のアイテムや使用限度のある魔法を必要以上に温存してしまう「貧乏性」という特性があったので、コントローラーを借りるや否や「雑魚相手に魔法なんて使ってんじゃねえ!」と言わんばかりの勢いで剣を片手に突撃してました。

 序盤のステージだったのでそれで問題なく突破できたのが幸いでしたね。そしてそれを見た友達が「すげえええ」みたいになってたので、ぼくもご満悦です。しばらくそのまま遊んで、温存した魔法をボスにポコポコ撃って倒しました。ボスもぼくがやっていいのかとは思いましたけど、結果的にぼくが倒すことになってましたね。

 その後友達はちょくちょく自力でプレイしたあとに「やって」とコントローラーを渡してくるようになりました。ぼくは傭兵になったのです。傭兵になることにより、借りるまでもなくダークソウル2を遊べました。

 最高だぜー! と頭からっぽで当時は楽しんでましたけど、今思えば普通にコントローラー奪取してるだけですし、いかがなものなんでしょうか。友達は若干行き過ぎたレベルで善人だったので、「頼む」という形を巧みに演出してわざとぼくにゲーム貸してくれてた説は……さすがにないと思いたいです。

 さすがのぼくもそこまで簡単にコントロールされちゃう人間なはずないでしょ。コントローラーを譲られながらコントロールされるなんてね。はっはっはっ。そんなの妄想ですよ妄想。

 でも妄想といえば、敵が怖くてまともに戦えない友達がダークソウル2を買ったということは、ぼくの話だけ聞いて買ってくれた説もあるんですよね。動画を見ていたらこのゲームは自分には無理だと判断していたかもしれないですし。

 だとしたら嬉しい話です。だけど「動画で見てる時は平気だった」なんて話も全然ありそうなので、このあたりのことはリアルタイムで友達に聞けなかった以上永遠の謎として放っておくしかありません。

 で、ゲームの話に戻りますけど、最後の方になるとほとんど全部ぼくがプレイするようになっていました。そうやって遊ぶうちに無事ラスボス撃破まで至りました。ただぼくは魔法キャラ以外でもプレイしてみたかったので、結局その後また無期限でレンタルさせてもらいました。ちゃんと常識的な期間で返しましたよ。

 そんな感じで、その友達には本当にとことんいろいろな物を借りてお世話になりました。しかし逆にぼくが貸した物が何かあったかというと……どうだったかな……。うーん……。

 ……で、この話のオチは結局なんなのかってことですよね。オチはですね、その友達とは最終的に絶交状態になったということですね。借りを作りすぎた結果パンクしたのか、原因はいくつもありそうなので「コレだ」とは言えないんですけど、とにかくぼくは人間関係に対して何か致命的な部分を持っているみたいです。

 我が家のPS2ソフトは次に機会が来た時に廃棄しようと思います。

 

 

 ……というようなことを、デビルメイクライ5のPVを見て思い出しました。一つのタイトルの新作が出ることで、小学生の頃から今に至るまでの様々な思い出がよみがえるのは、なかなかすごいことだと思いませんか。まあ主に一人の友達についてのことでしたけど。

 いや、バッドエンドの思い出ではありますけどね? でもエンドが悪かったからといって、楽しかったことが全部悪い思い出になるわけじゃないですし、思い出せるのはいいことだと思います。

 ……いや、バッドエンドに至る原因は流れを見てもわかる通り明らかにぼくにあっただろうし、原因作った側が言えたことじゃないんですけど。ぼくの側から友達に何をしてあげたのかというと、何かしてあげられた記憶はないわけで……。

 という複雑な気持ちになれるデビルメイクライ5ですが、複雑といえば「DMCデビルメイクライ」の存在もあります。

 ぼくは実際プレイしたわけじゃないのですが、「デビルメイクライ4」の発売から何年も経ったあとに「デビルメイクライシリーズの新作!」と鳴り物入りで出てきたDMCデビルメイクライ。これの評判は「ゲームとしては面白い。デビルメイクライとしてはクソ」でした。

 ゲームとして面白いならいいじゃん……と思っていた時期がぼくにもありました。デビルメイクライ4を遊んでからDMCデビルメイクライの動画を見てみると「あー、これはクソだわ」となります。長年待たされた続編がコレだと、根っからのファンの人はさらに怒り倍増だろうなって感じがしました。

 例えるなら、やっと連載再開したワールドトリガーがストーリーはそのままに、絵とセリフ回しが完全にジョジョになっていたみたいな。「漫画としては面白い。ワールドトリガーとしてはクソ」って感じです。伝わりますか……? 別にジョジョを否定しているわけではないですよ。

 よくわからない場合はデビルメイクライ4のリメイク版も出ていることですし、ぜひそれを買って遊ぶなり、お金と時間の事情があるなら全部通しのプレイ動画で見るなりして、その後DMCデビルメイクライを見てみてください。必ずわかります。

 と、そんな歴史のあるデビルメイクライシリーズ。DMCデビルメイクライの時に「元々長髪だった主人公が短髪になっている」ということがあったのですけど、デビルメイクライ5のPVを見ると、またしても主人公(4から出てきた二人目の主人公)が短髪になっています。

 さすがにナンバリングタイトルだから大丈夫だろうと自分に言い聞かせながら、なんとなく嫌な予感を覚えているファンもたくさんいるみたいです。デビルメイクライ1から楽しんでいる根っからのファンの間で、楽しみだという期待と過去の悪夢から来る不安が入り混じっているわけですよ。

 その点、4しか遊んでないとはいえ、デビルメイクライを見るだけで良い思い出とその終わりのことを思い出すぼくも似たようなものだと思います。え、全然違う?

 ともかくです。そんないろいろな人の様々な思いが入り混じったデビルメイクライ5は、ほぼ間違いなくPS4で発売されるはずです。しかしぼくは未だにPS4を持っていません。

 ダークソウル3もPS4でしか遊べないんです。よく似たゲームのブラッドボーンもです。どっちも一度も触れてません。このままではデビルメイクライ5も当然触れません。

 誰かぼくにPS4を譲って、いや、貸してください。無期限で。

チェンジ、チャレンジ、トートロジー

 世の中には「ニートの社会復帰をサポートする施設」というのがたくさんあって、ぼくも現在そこに惰性で通っている。

 なぜ惰性なのかというと、初めはバイトを始めようと通い始めたぼくも、今では働く気を綺麗すっかり失ってしまったから。施設はあくまで「サポートをする施設」なのであって、つまりは「働く意思のある者の手を取ってくれる」場所なのであって。本来、すでにぼくの通うべき場所ではないわけだ。

 ならばなぜ未だに通っているのかという話だけれど、それはぼくが「絶対に働かないからな」という意思をだいぶ前から示しているのにも関わらず、施設の職員が「わかったわかった。で、来週は〇曜日の~時でいい?」と次の予約を、職員の側から入れてくるのが理由ということになる。

 もちろんぼくには拒否権があるし、ばっくれたまま一切の連絡を無視することもできる。けれどもまあ、週に一回1時間のお喋りをするために、自転車で往復1時間未満の場所まで行くのは、別に特別断る理由が生まれることでもない。その結果の惰性だ。

 生きる理由も見当たらないが死ぬに値する理由もないので生きている人間のように、行って話すこともないが断る理由もないぼくはほぼ毎週その施設に通っている。そして「なんか面白いことあった?」みたいな話をして帰ってくる。真面目に週5くらいのペースで施設へ通って社会復帰を目指している人からすれば、ぼくは相当すべてを舐め腐ったくそ野郎に見えるのかもしれない。

 ……という話を、実際真面目に施設へ通っていた人(ぼくと同じ施設ではなく、遠方で似たような場所に通っている似たような社会的立場の人)にしてみたところ、かなりショッキングな感想をいただいた。

「それ、時間の無駄では……?」

 嫌味とかではなくて、純粋に「あなたの幸福のためにも、そんなことする時間があるなら家でプリパラでも見ていた方がいいのでは」みたいな感想だった。その感想のおかげでぼくは、ニート生活になじみすぎて「時間の無駄」という概念を失っていたことに気付いた。

 言われてみれば本当にその通りで、施設へ行ってする話といえば、ツイッターに書く価値さえ怪しまれるくだらない話がほとんどだった。それに、なんとか働く気になってもらえないかと向こうが提案してくる案だって現在ではどれも、

「ボランティアしてみたら?」

「寺を巡ってみたら?」

「海外旅行に行ってみたら?」

「九州(上記の感想をくれた人が住んでいる場所)へ行ってみたら?」

「知らない駅で降りて散歩してみたら?」

 といったヤケクソな物になっている。それはヤケクソにならざるを得ないほどやる気の欠如したぼくも悪いのだけれど、

「なんで金もらっても働きたくない人が無償で働くと思うんですか」

「寺ねぇ……。興味ないし、寺巡って働けるようになるならここに通ってる人たち全員で観光ツアーへでも行けばいいのでは? 大仏の中にハロワ開きましょう」

「日本語が通じない場所に行くと全身の穴という穴から放射能を噴射して死にます」

「九州行くのはまあいいですよ、楽しそうですし。でも、それ帰る気になります? 自腹で楽しい場所に行くのはいいとして、自腹で現実に帰ろうと思います? 失踪しますよ。させたいんですか?」

「とにかくぼくを外に出したいのはわかりました。寺から始まり海外にまで広がった話が最終的にただの散歩にまで妥協されたのには笑いますけど」

 ……などといった会話になんの意味があるのだろう。驚くべきことに、本当に言われるまでまったく気付かなかったけれど、これは正に時間の無駄以外の何物でもないのではないか。

 という話をそれとなーく施設に行った際のお喋りでもしてみたのだけれども、結局最後は「で、来週〇曜日の~時でいい?」となったので、やはり何も変わることはなかった。そもそも時間の無駄だと言ったって、その時間を削ってまで他にしたいことは何もないわけで。プリパラもガルパンも今まで通りの生活で十分視聴できるわけで。

 結局時間の無駄を削ったって、また別の方法で時間を無駄にするだけ。だからやっぱり、断る理由もない。そういうことになってしまった。将来がどうだこうだという話をされるよりもよっぽど、こっちの方が「このままではいけない」という気持ちにさせられる。

 そんな気持ちになっただけで何か行動を起こせる人間は、そもそもこんな状況に陥らないわけだが。

 

 ところで、この前お喋り(建前上は面談)に行った際に新たなヤケクソ提案シリーズが更新された。

「女装してみたら?」

 である。これはなんの脈絡もなく出てきた話ではなくて、以前にぼくが、

「美少女に生まれ変わりたいんですけど、それだけだとニートうんぬんを抜きにしても通常の生活にも支障が出そうですし、美少女と今の姿を自由に換装できるようになりたいんですよ。でもそれは不可能だとガンダムのゲームがぼくに告げているんです」

 みたいなふざけた話題を暇つぶしに出したという経緯がある。詳しくはここと同じブログ内にある「一切の苦労なく美少女になってみたい」という記事(笑)を読んでもらえれば、ぼくの施設でのお喋りに如何に意味がないのかを理解してもらえると思う。

 ともかく、その「女装してみたら?」という提案は、もちろん「行動から変えれば心も変わるはず」という理論から来ている。普段ならぼくもいつも通り「それができる人間はニートにならない」と返すところだったけれども、今回はちょっとだけ話が広がった。

「いや、時代はバーチャルですよ。女装よりも美少女の二次元モデルを、声を手に入れるのです」

 といった具合に。ここでもし、この日記を読んでいる人が「時間の無駄」というキーワードを思い出したのなら、それは正しい連想である。

 その話題はそのままマグロナちゃんというバーチャルユーチューバーの話に移行したわけだけれども、とにかく最終的に出た結論としては、

「バーチャル美少女になるのは金がかかる。女装も同じ。そしてどちらも技術的な問題まである。働いて金を得てからそれらの趣味を叶えるならまだしも、働く気力を得るためにそれらを叶えるというのは、金を稼ぐための行為を実行するために金を稼がなければならない……という時点で破綻している」

 といつも通りの着地になった。収穫ゼロである。

 これらのやり取りを経て改めて思うのだけれど、ニートが社会復帰をするためのサポートをしてくれようとする人たちの中で何かがおかしいのは、

「社会復帰には自己の変化が必要→じゃあ自己を変化させるしかあるまい=自己の変化には自己の変化が必要」

 という至極当たり前なことを言うばかりで、まともな手助けをしてくれる人が誰もいないことだ。少なくともぼくの視点からはそのように見える。

 寺だの、海外だの、国内旅行だの、女装だのバーチャル美少女だの、そんなことを「よーし、やるぞ!」の意気込みでできる人は、そもそもニートにはなっていないのではないか。一瞬なってしまったとしても、すぐに復帰するのではないか。

 根っからニートの精神に染まった人間にとって、社会復帰とは自分自身を変化させることであり、社会復帰=自己変化であるにも関わらず、それを行うためには自己変化を起こせと周囲の人間から言われる。社会復帰がしたいのなら、社会復帰をすればいいのに……と言われているのと同じことである。そんな意地の悪い言い方をするくらいなら、お手上げだと、はっきり言った方がいくらかマシだ。

 ミカンは放っておけば勝手に腐る。腐ったミカンを元の新鮮な状態に戻せたらそれは奇々怪々な魔法だ。心も同じである。腐らせた責任はぼくにもあるのかもしれないけれど、人として生きたければ独学で魔法を現して見せろと言うのは、あんまりひどいのではないか。

「そもそも皆は、ぼくが真っ当に働き、自立して生きられるようになった状態をゴールだと思っているようだけれど、違いますからね。ぼくのゴールはぼくが幸せになることであって、幸せと真っ当な生活がイコールで結ばれていないから、働きたくないって言ってるんですよ」

 なんて話もしたけれど、その後はまた来週いつ話すかの予定を入れられるわけで、ぼくは施設側が何をしたいのかまったく理解できない。しかし、ひょっとするとそれは向こうも同じなのかもしれない。ぼくが何をしたいのか、どうしたいのか、理解していないのかもしれない。施設だけじゃなくて、あらゆる大人も同じように。

 ……ぼくが何をしたいのかなんてぼくにもわからないので、その答えを求められても困るのだが。

 そこで提案がある。聞きかじった話だけれど、「AはAである」といったような言い回しをトートロジーと言うらしい。ニートをなんとか浄化したい大人たちはそろそろ、そのトートロジーをやめてみてはいかがだろうか。

 働きたくない。しかし働かなければ生きていけない。働けるようになるためには、つまり生きるためには変わらなければならない。変わるためには挑戦しなければならない。……なんて、まさか働くことが挑戦ではないなんて、思っているわけでもないだろうに。

 

 

※追記

 この記事を書いたあと、6月20日付近にぼくが「ここ来る意味あります?」としつこく話した結果、次に施設へ行く予定の日は7月末にまで大きく飛んだ。

 その日には他に、ぼくから、

「どうも全てが面白くない。熱中できると思った物を見つけては、数日から数週で飽きてしまう。毎日やりたいゲームや見たいアニメがあった学生時代の心を返してほしい」

 という話をしたところ、返された言葉が、

「楽しいと感じることを価値観から変えればいいのでは? 例えば働いてばかりの人が何もすることがない休日をもらえば、その日君が「退屈だ」と思うタイミングでその人は「幸せだ」と思うでしょう。価値観を変えればいい」

 というものだったので、6月25日現在の感情に従う場合、ぼくは正直7月末の予定の日にも施設へは行かないと思う。

 要するに施設の相談員はぼくの口から「幸せだ」という言葉が聞ければいいという話だった。口というのは、ぼくの心を声に変換する器官でしかない。間違っても心そのものではない。しかし相談員は「ぼくの口」から「幸せだ」という言葉が聞ければいいらしい。もしかすると全ての大人がそう考えているからこそ、ぼくに働けと言うのかもしれない。

 一度死ねというのだ。心を一度殺し、新たな心で口から「幸せだ」と言えという。それで満足らしい。もしそれが実現する日が来たとすれば、その時には現在のぼくは死んでいる。

 だったら別に、誰かの心を殺して、その人がぼくを養うことで「幸せだ」と口にできるようにしてやったらいいのではないか。そういう話だと思う。

「3分」の読み方は。

 普通の人は「3分」を発音する時、何と読むのでしょうか。「サン「プ」ン」でしょうか。ぼくは「サン「フ」ン」です。このことについて、ぼくは自分が正しいと信じて疑いません。

 昔、父とこの件について喧嘩したことがあります。何気ない会話の中でぼくが「サンフン」と口にしたことで、父がそれを「サンプン」と訂正したことが始まりでした。

 どちらでもいいだろうと言うぼくを父は否定しました。「3分」は「サンプン」以外の何物でもないのだ、1分がイップン以外の何物でもないように。じゃあお前は、2分をニプンと読むのか……と。

 サンフンという発音は他人に違和感を抱かせる。お前が2分をプンと発音する人物に対面した時に抱くであろう違和感と同じ物を、サンフンは他人に抱かせる。意味は伝わるかもしれないが、すんなり受け入れることはできない。社会に出た時に、学校の友達や先生などとは違った立ち位置の人と関わるにあたって、そんな余計なところで不和を起こしてほしくない。……といったようなことを父は言いました。

 ぼくはそれが頭にきて、そこから喧嘩になりました。だってぼくは3分はサンフンだと思っていたのです。ぼくからすれば、間違ったことを言うやつが「俺の言うことこそ常識だ」と言ってきた風に見えたのですよ。それが身近な相手なら、そりゃあ抗戦するでしょう。

 ぼくの反論は以下のような感じでした。

「不和を起こすのは、むしろあなたのような人間だ。今、噛みついてきたのはそちらだ。違和感を抱く側が不和を起こす、改める必要があるとすればそれはそちらの側だ。あなたの言うところの、大多数を占めるサンプン派だ」

 実際これは苦しい言い訳でした。仮にサンプン派が多数派だとすれば、どちらが正しいという話ではなくて、現実問題その多数派たちとどう付き合っていくかと考えたなら、やはり少数派が合わせていくしかないわけですから。

 ぼくは自分の負けを自覚しました。けれども、それで終われないほど悔しかった。この父を、思い上がったサンプン派を、徹底的に打ちのめしてやらなければ。と、その時は確かに思いました。

 ただ結局、さすがのぼくも、そんな憎しみは一晩寝れば風化しました。なのでぼくが3分の読み方問題を本気で調べたのは、それから半年くらい経ってからのある日のことだったのです。偶然何かの拍子にその話題を思い出して、本気で調べるという名の、ググる作業に入ったわけです。

 調べ始めた時には、風化したはずの憎しみが帰ってきていたような気がします。実際に父と言い争った時のリアルタイムな物に比べれば、いくらか小さくはなっていましたけど。

 

 調べた結果、ぼくに理解できる話は以下の物だけでした。すでにネットに投稿されていた、ぼくと同じような疑問を抱いた人に対する、誰かからの回答でした。

「3分は、普通サンプンと読みます。しかし、なぜそう読むかというと、それが一番読みやすいからです。それ以上の理由はないので、本気でサンフンの方が読みやすいという人がいるなら、それはそれで別にいいのではないでしょうか」

 言ってしまえばヤフー知恵袋のやり取りなので、信用性は定かではありません。けれども、それでもショックでした。ぼくは言う側に立つ時はともかく、聞く側に回った時にはサンプン派を受け入れてやろうと思っていたのです。

 それが、普通は逆だと言われたのです。ぼくの方が、慈悲の心でもって容認「してもらう」側だと言われたのです。

 父が正しかったのか。ぼくがおかしいのか。これ以上の話は「そもそも日本語の歴史とは」みたいな難しい話が出てくるばかりで、ぼくに理解できるのは知恵袋がせいぜいでした。敗北を認めるしかありません。打ちのめしてやらなければと思った相手に、容認してもらいながら生きていくか、自分がサンプン派に変わっていくしか、もはや残された道は……。

 ……が、しかし、その時です。ぼくに革新的な閃きが降ってきました。ピタゴラスイッチの1コーナーが、1本でもニンジンの歌が、ぼくに神託を授けたのです。

 やはり自分が正しい。そう確信を得るに至った閃きが、以下の物です。

 

 時間の単位である「分」は、「フン」と「プン」二通りの読み方をします。一分ならプンですし、二分ならフンです。

 この時、「プン」と読む可能性のある物は、以下に挙げる物たちだけになります。

「1分=イップン」

「6分=ロップン」

「8分=ハップン」

「10=ジュップン(ジップン)」

 一方、「フン」と読む可能性のある物は、残りの物たちになります。

「2分=ニフン」

「4分=ヨンフン」

「5分=ゴフン」

「7分=ナナフン」

「9分=キュウフン」

 さて、こうして2パターンに分けた時に、3分はどちらに属するでしょうか。

 重要なのは、3分をサンプンと読もうがサンフンと読もうが、そこに「ッ」は登場しないことです。プン読みのリストを見てください、すべてに「ッ」が含まれているでしょう。一方、フン読みのリストに「ッ」は一つも含まれていません。

 3分は、この法則に従うのなら絶対にフン読みなのです。 

 

 ……この「ッ」の法則に気づいた時、ぼくはもう本当に、法律で裁けない悪を滅ぼした気分になりました。何をどう考えたって3分はフン読みだろうと主張するための材料を手に入れたのです。

 この材料を跳ね除ける主張を、父はきっと持っていないでしょう。なぜなら父は「それが普通だから」の一つ覚えで、「なぜ普通なのか」という具体的な根拠を何一つ出せないからです。まさか日本語の歴史が、なんて話をしてくるはずもありません。

 勝ちを確信しました。大きな態度で我が物顔して間違ったことを「常識」だと騙る巨悪を、ぼくが大逆転劇の末に打ち滅ぼす時が来たのです。謝らせてやるとまでは言わないけれど、父にぼくが正しかったことを証明してやる……! そう意気込んでいました。

 満を持して、父に上の根拠でもってサンフン派が正しいことを主張します。どうだっ……と、してやったりな風に。

 父から帰ってきた返事は一言だけでした。

「何の話してんの?」

 ぼくがネット検索に乗り出すまでの半年、閃きを得るまでの半年の間に、父はすっかりこの話題について忘れていました。それほど父にとっては、多忙な社会人にとっては、人の親にとっては、これはどうでもいい話だったのです。

 あれを喧嘩だと認識していたのも、ぼくだけだったのかもしれません。やり場のない怒りを抱えたまま、この話は「時効」にて決着しました。

 

 

 最近久しぶりに、スマートフォンをスマフォと略する人を見かけました。そんな時に、ぼくは3分の読み方問題を思い出すのです。3分問題が初めに現れた時から、もう三年以上経っていると思います。

 略称というのは短く読みやすくするためにあるのであって、言葉として正しいかどうかというのは二の次だとぼくは捉えています。スマホという略称に「「スマートフォン」のどこに「ホ」があるんだよ!」と言い出す人は、略称の本質を見失った憐れな人だと思っていました。

 しかし憐れに思うことには、スマフォよりもスマホの方が言いやすいというぼくの価値観が前提にありました。略称というのは、短く読みやすくするためにある。スマホよりもスマフォの方が、本気で言いやすい人もいるのではないか……? 3分の読み方問題との深い関連性をここに感じます。

 スマフォ派の人にとって今のぼくは、3分問題の時にぼくが見た父のような人物に映っているのではないか。スマホ派が多数は気取るなよ……と、自分たちを迫害する憎しみの対象として。

 そしてスマフォ派の人たちが、鬼の首を取ったようにこう主張したら。

スマートフォンという言葉の中に「ホ」は存在しない。よって、略称として正しい物はスマフォである。これに異を唱えるのならば、原型となる言葉の中に本来存在しない文字が使われる略称の例をスマホ以外に挙げてみろ」

 もしそんな主張をする人が現れたのなら、その人は「ッ」が云々と主張していた時のぼくと同じです。

 ぼくは、なんて馬鹿なことをしていたのだろうと、その時やっと気付きました。

 例えば我々が「カップラーメンは3分で完成します」と口にする時、我々が伝えたいことは「カップラーメンは3分で完成すること」のはずです。決して「自分は「3分」を正しく発音できます」ということではないはずです。

 言葉はコミュニケーションツールなのです。クイズの問題ではありません。意味が伝わっているのに「その発音は間違っている」と糾弾するようなことは愚かなことなのです。本質を見失っています。その上余計な争いを生んでいます。

 これは挨拶も同じことです。微妙な時間帯に「こんにちは」と挨拶したことを「この時間帯は「おはようございます」でしょう」と訂正する人は、挨拶が何のためにあるのかを見失っています。挨拶は円滑なコミュニケーションのためにあるはずです、お互いが気分よく過ごすためにあるはずです。相手の挨拶への訂正は余計であるどころか、挨拶の本来の意義を損なうことにさえなります。

 我々は、言葉のクイズ大会を無意味に開始してはならないのです。それはまったく無駄であるか、もしくはコミュニケーションの障害となるからです。ようやくそのことにぼくも気が付きました。父はもちろん全ての人はぼくのサンフンを訂正するべきではないし、ぼくもまた誰かのスマフォを訂正するべきではないのです。

 しかし、そう結論付けると新たな問題が発生します。ぼくは、そして全ての人は、果たして2分をニプンと発音する人のことを、何の違和感もなしに受け入れられるのでしょうか。

 状況を問わず3分を必ずスリーミニッツと発音する日本生まれ日本人の場合でもなんでも、とにかく違和感を覚えそうな発音をする人がいた時のことを想像してみてください。その人になぜその発音をするのかと聞くと「言いやすいから」と返ってきます。我々は、その人のことを他の人に対するのと同じように受け入れることができるでしょうか。

 ぼくなら、そんな人とはあまり関わりたくないと思います。変な人に関わって良いことがあるケースは、悪いことがあるケースの何百分の一の確率だと思っているからです。この考えに賛同する人が全人口の何パーセントいるのかは分かりませんが、そう少なくないのではないでしょうか。

 おそらく我々が言葉を聞く時、その意味がすべて正しく伝わっている前提で、我々が感じることは3パターンに分かれるのです。

「違和感なく受け入れられる」

「違和感はあるが受け入れられる」

「違和感があって受け入れられない」

 3分の読み方問題は、せいぜい2番目の「違和感はあるが受け入れられる」話だったのだと思います。少なくともぼくにとってはそうでした。父にとっては1番目の受け入れられない物だったのかもしれません。

 相手から飛んできた言葉が、この3パターンのうちどこにカテゴリ分けされるかは個人差があります。より多くを受け入れられる人もいれば、受け入れられない物が多い人もいるでしょう。そしてその「受け入れられない」がお互いで一致しなかった時に、我々は争いを起こす場合があるのです。

 要するに、我々には言葉の価値観の相性が存在するのです。その相性が食い違ってしまえば最後、どんな理屈を並べて何が正しいのかを証明したつもりになったところで、お互いに分かり合うことはできないのです。

 だって考えてみればぼくだって、仮に「2分」の学問的に正しい読み方が実は「ニプン」であるという事実が存在していてそれを知ったとしても、その後も2分をニプンとは絶対に一生読みません。誰でもそうでしょう? 正しいと分かれば、どんなに違和感があっても正しいことに従う人なんて、ほとんどいないはずです。

 正しさを証明することは、言葉の違和感を語るにあたって何の価値もないことなのです。そして正しさが無意味であることが判明しているのに、言葉の違和感についての相性の悪さを解決してくれる他の物を、ぼくは何一つ知りません。諦めるしかないのだと思います。

 誰か一人の発するすべての言葉に違和感を抱くことなんてないでしょう。相性の悪さが露呈するのは極々限られた場合のみです。もしかすると、相性の悪さが見えないまま一生を終えられるような相手だって見つかるかもしれません。確率の話だけで言えば、これはそれほど些細なことなのです。だからこそ、諦めるしかないという結論に至ったとしても、少なくともぼくはギリギリ納得することができます。

 絶対に人と分かり合えない部分が僅かとはいえ確実にあるなどという事実は、何千何百という人間と密接に関わるわけではない我々にとって、きっとそんなに悲観することではないのです。仮にテレパシーを使ってでさえ人間が分かり合えないとしても、それはそれほど問題視することではないのです。それが問題として自分の前に立ちはだかることなんて稀でしょうから。

 ただ、自分の親との間にその些細な問題が発生したことを、ぼくが受け入れられなかったというだけで。