ジョジョの頭にテントウムシが付いてる人

 去年くらいにあった母との会話の要約。

 

 

 

 

 

「いや~、ジョジョ5部のアニメ面白かったなぁ」

「あ、なぁなぁ、ジョジョで思い出したんやけど。そういえばこの前うちのオカンが、ジョジョのキャラの名前を思い出されへんくなっとってん」

「ほう」

「で、オカンがそのキャラの特徴を言うてたから俺も考えたんやけど、誰のこと言うてたのか結局分からんかったんよね。ちょっと一緒に考えてくれへん?」

「おー、ええよ。どんなキャラやったん?」

「なんかね、テントウムシが付いてるって言うてたんやけど」

「あぁ、それはジョルノ・ジョバァーナやな。ジョジョテントウムシが付いてるといえば、ジョジョの奇妙な冒険第5部の主人公で、テントウムシ型のブローチを愛用してるジョルノ・ジョバァーナのことやろ。すぐ分かったやん」

「でもなぁ、オカンの話聞いてたら違うっぽいのよ」

「なにがよ」

「オカンが言うにはな、そのテントウムシ頭に付いとるんやって」

「ほなジョルノちゃうがな。ジョルノが付けてるのはテントウムシ型のブローチやからね。ブローチを頭に付けてるような狂人が主人公やったら、いくらなんでも奇妙が過ぎるのよ。しかもジョルノの髪型にはチョココロネみたいな特徴的な丸がいっぱいあるんやから、もう頭の特徴はそれ以上盛られへんねん。……えぇ? でもジョルノちゃうなら誰なんやろ? 他にテントウムシ付けてるやつなんかおったっけ? オカンは他になんか言うてなかった?」

「言うてたよ。オカンが言うにはな」

「うん」

「胸元がでっかく開いてたんやって」

「ジョルノやないか! 胸元がバァーン!と開いた服着とるのはジョルノやないか! ジョルノのジョジョ立ちといえば開いた胸元を強調したポーズが有名やし、ニコニコ動画の中で男性の胸がはだけるシーンがあるとでっかい赤字コメで「ジ ョ  ル ノ ・ ジ ョ バ ァ ー ナ 」って書き込まれるのが定番と化しとるからね? 胸元が開いたジョジョのキャラといえばジョルノ一択なんよ」

「でもオカンが言うにはな」

「うん?」

「そいつ黒髪やねんて」

「ほなジョルノちゃうやないかい! ジョルノといえば金髪やろ。確かに序盤の一瞬だけ、黒髪時代のジョルノの写真が映るシーンはあったけれども、オカンがそんな細かいところだけピンポイントに覚えてるわけないんやから。黒髪っていうとジョルノとはちゃうやないか。……いや全然話が見えてこうへんな。もっと他の情報はないの?」

「あー、あと言うてたことといえば」

「うん」

「その人、ジッパーの能力を使うんやって」

ブチャラティやないか! ジョジョでジッパーの能力といえばブチャラティのスティッキーフィンガーズで確定やないか! ……え? ちょっと待って? 今画像確認したら、ブチャラティの胸元めちゃめちゃ開いてない?」

 

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「めっちゃ開いとるやん!? 今検索するまで全然そんな印象なかったわ。……えっ、じゃあ黒髪やし、オカンが言うてたのはブチャラティってこと? テントウムシは?」

「あっ、もしかしてブチャラティの頭に二つ付いとるそれ。それちゃう?」

「嘘やろ!? この髪飾りみたいなやつ? どこがテントウムシ!? オカンは何をどう見たらブチャラティの頭にテントウムシが付いてると思ったん……? この髪飾りとテントウムシとじゃ似ても似つかんでしょ。ムーディブルースが作ったボスのデスマスクディアボロ本人の顔くらい似てへんよ」

「あ、そういえばオカンが言ってたんやけど」

「まだあるの?」

「その人最後死んだんやって」

「もうブチャラティで確定やないか! 胸元開いてて黒髪でジッパーの能力で最後死んだのはブチャラティ以外あり得ないのよ。唯一分からんのはテントウムシやけど、この際もうブチャラティの頭のやつはテントウムシってことでええよ。オカンが言うてるキャラは間違いなくブチャラティや!」

 

 

 

 

 

 

 母に聞いたらブチャラティでした。

カチリカと過ごした夢の中(旧「トンネルの先にある世界」)のセルフ解説

 最近、小説を一つ書き上げました。今まで何本か小説を書いてきましたけど、今回の出来は最高傑作だと思います。エンタメとしてそれなりに良いことはもちろん、自己表現として完璧でした。読んでほしいのでURLを貼っておきます。

syosetu.org

 

 

 

 

 で、今回の作文は上に貼った「カチリカと過ごした夢の中」のセルフ解説記事になります。まだ読んでいない人は先に小説の方を読んできてください。最高傑作なので。

 また、今回は語りたいことが多すぎるので、解説は小説本文の各所をうえから順に切り抜いていく形で行います。読んでない人にとってはネタバレの嵐です。まだ読んでいない人は先に小説の方を読んできてください。最高傑作なので。

 ところで、カチリカがなぜ最高傑作なのかというと、それはカチリカがぼくが2019年3月28日(しかも夜22時台)に投稿した(らしい。投稿サイトいわく)作品「尽くす系ニマド」への、個人的なアンサー小説として成立しているからです。アンサーとして、オチに自分で納得出来ました。

 探して読むのが面倒な人のために説明すると、尽くす系ニマドとは、ヒロインである無敵のお姉さんが、主人公である無職のダメ男を無敵パワーで助けてくれる超ご都合主義小説……になる予定だった作品です。それを書いてからというもの、ぼくの創作にある程度明確なアイデンティティが生まれたように思うので、ぼくは「ニマド以前・以後」という概念を創作に限らず、自分の人生に対しても持っています。けれどそのニマドのオチに、ぼくは納得がいっていませんでした。

 ニコニコ動画異世界オルガを見て「どうしてクソラノベは、主人公をチートにしてハーレムを作るんだろう? ハーレムが決定事項なら、ヒロインをチートにして、主人公は全ての困難をそのヒロインに片づけてもらえばいいのに。叶わない夢を見るならそのくらい吹っ切れないと」と思ったことがきっかけで執筆したニマドがバッドエンドで終わった件に、自分で執筆しておきながら当時のぼくは愕然としました。流れで書いていたらそうなってしまったのです。「そんな甘ったれた考えはフィクション上でさえ通じない」と、神がそう言っているような気がしました。

 しかし、そのバッドエンドの発端は、ヒロインに全てを任せきりにしてどこまでも堕落しておけばよかった主人公が、自尊心を捨てられないばかりに「何でも出来る環境を用意されて、何も出来ないっていうのが、何より一番みじめなんだ」とか言ってしまったことによる物でした。……納得いきませんよね? 仮に自尊心がズタズタに傷つくのだとしても、だからって神にかなり近い能力を持ったヒロインのことを自ら突き放しますかね? ニマド執筆からもうすぐ3年が経とうとしていますけど、当時の自分は「そういう物だ」と考えていたのでしょうか? ニートのくせに。

 現在の、未だニートから脱却していないぼくは思います。あのオチはあり得ないと。一生遊んで暮らしていけるような力の塊みたいな存在が自分に協力を申し出てくれているなら、それを自分から手放すなんてことは、ぼくの考えとしては絶対にあり得ないわけです。親族と友人の一同から軽蔑の目を向けられて、罵られて、それに何も言い返すことが出来なかったとしても、絶縁を言い渡されたとしても、ニマドを自分の意思で手放すことは絶対にあり得ないんですよ。一生遊んで暮らせることって、自分に優しいヒロインがいる人生って、そういう物じゃないですか。

 その点についてずっと納得がいっていなかったのですけど、ニマド3周年記念が訪れるよりも早く、今回その「納得がいかなかったオチ」に対するアンサーとして、カチリカを書き上げることが出来ました。そういう意味で完璧な作品だったと思います。注目点の一つはそこですね。

 ……それでは前置きも済んだので、15行くらい間隔を開けた後で、いいかげん解説を開始しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・電車で訪れる魔界

……冒頭の描写の話です。今作は以前に書いた作品「アンダーライン×アンダーライン」と世界観を共有しているのですが、「人間とサキュバスの共存が成立して、人間界と魔界の行き来も容易になった」という設定は良いとして、じゃあ具体的にどういう手段で二つの世界を移動するの? と考えた時に、パッと思い浮かぶ物がなくて困りました。

 初めは何かジェット機的な物で、遊園地のアトラクションみたいなノリで「それでは夢とロマンの溢れる魔界へ、しゅっぱーつ!」みたいな感じにしようかと思ったんですけど、ふと気が付いたんですよね。あっ、たぶんそれはニート乗れないわ、料金が高すぎて……と。

 というわけで、超気軽に電車で来れるようにしちゃいました。別にどこでもドア的な物でもよかったところをわざわざ電車にしたのは、ぼくがインターネットで知り合った女性とオフで会うために電車に乗った経験があったことと、にゅう工房さんの同人誌にそういう内容の物があったからですね。影響受けまくってます。

 

 

 

ナポリタン専門店

……主人公の伊古田と、その友人である糸原が一緒に出かけた際の昼食に訪れた店。これは実在の物……というか、ぼくの実体験です。カードゲーマーの友達と品ぞろえの良いカードショップを求めて秋葉原へ行った時、なんかいつの間にか地下の方にあるナポリタン専門店で昼食をとる流れになっていました。友達が連れて行ってくれなかったら絶対に入っていなかったタイプのお店ですね。すごくおいしかったし、箸も置いてくれていたし、なぜかおしゃれなBGMが突然、輪るピングドラムのOP「少年よ我に帰れ」になったりしていました。パルメザンチーズもかけました。

 小説としてのこのパートの役割は二人の会話以外にも、「伊古田の友人はナポリタン専門店を昼食に選んだ」という事実自体があります。これが後に伊古田の「オフで初めて会った女性とファミレスで昼食をとる」という話や「糸原は俺よりも良質な人間だ」という見解に繋がるんですね……。

 

 

 

・プラモデルをピッキングするバイト

……これはぼくが散髪に行った際、「お仕事は何されてるんですか?」と聞かれたことで実際に吐いた嘘です。電車の話等のディティールは実話と小説で違っていますけど、作中の伊古田と同じくらい迷いなく嘘を吐けてしまったことはよく覚えています。でもぼくは彼と違って嘘を吐くのが下手なので、たぶん相手にはバレていたでしょう。

 ちなみにプラモデルのピッキングバイトは実在します。タウンワークに載ってました。ググっても出てきます。

 小説としては、この時点では伊古田が嘘吐きだということはまだ明かされていませんが、その後の支払いのことを気にしている彼の心情描写は終盤へ向けた伏線ですね。伊古田だってある程度のお金は持っているんです。問題は彼がニートから更生しない限り、その所持金が増えることは絶対にないということだけで……。

 

 

 

・「いやー、まぁ、そっちの方が旅行〜!って感じがするかなぁと思いまして。ははは」

「あー、いや、それはですね、なんというか、まぁそうなんですけども……。でも、あの、あれを持ってるんですよ、あれ。そういうキャンペーンがあって」

……無害そうな喋り方をする伊古田と、キョドる伊古田の図。後々に彼がすることを思うと、化けの皮感が凄まじいですね。大抵の他人が見る「伊古田という男の印象」はこれになっているのだと思います。

 

 

 

・伊古田ミツルという名前

……このあたりで登場キャラのネーミング由来について話しておこうと思います。

 本作は、書き始めた瞬間からニマドのアンサー小説になることが確定していた(そうでなければボツになる)ので、伊古田が最後にヒロイン(カチリカ)の差し伸べた手を振り払ってしまうことは決定事項でした。そこで思い出した名キャッチコピーがこれです。

「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」

 これはICOというゲームソフトのキャッチコピーです。ニマドの主人公はニマドから魂ごと手を放してしまったので、同じくそうなることが確定している今作の主人公には「ICOる(動詞)→ICOった(過去形)」ということで、イコタ(伊古田)という名前が付きました。

 一方で彼の友人ポジションには、一緒に秋葉原に行ったぼくの現実の友人の苗字が4文字なので、とりあえず4文字にすることだけは決定していました。しかしそれ以上は良い名前が特に思いつかず苦戦しまして……、そこでいい機会なので、今まで自分に課していたある縛りを解くことにしました。それは「(少なくとも自分の知っている)野球選手の名前は使わないこと」です。なぜなら野球選手の名前を使ってしまうと、執筆中ずっとパワプロのことが頭の中を支配して気が散ることになりますし、それは読者にとっても通じることだろうと考えていたからでした。

 しかしそうは言っても名前が思いつかないので、ここはひとつ試しに縛りを解いて、野球選手の名前を使ってみようということに決めました。結果として選出されたのが比較的普通の名前っぽい「糸原」です。伊古田の友人の名前にそれ以上の意味はありません。

 で、その流れで、伊古田の(特に必要なかった)下の名前はミツルに決定しました。野球繋がりで、タッチを描いたあだち充から取っています。

 

 

 

ケルベロス

……これ、書いている途中で「ケルベロスには頭が三つある。双頭の犬はオルトロスだ。」ということに気付いたのですけど、伝わればいいかと思って放置しました。というか、実際に双頭の犬を見て「オルトロスじゃん!」なんて言う人います? 「ケルベロスじゃん!」って言いません? 伊古田くんもそうでした。

 

 

 

・「風俗ってね、相性の合う女の子を見つけてからが本番なんだよ」

……これはある一つの性癖に特化したエロサイトに設置されていた「おすすめ風俗情報の語り場」みたいなところを(行ける金があるわけでもないのに)見ていた時に知った概念です。結果としてヒロイン(サキュバス)の初登場時の台詞としてのインパクトや風格は抜群の出来になったと思います。ありがとう、ぼくと同じやばい性癖を持った人たち。やっぱりリアリティは現実にあるんですね。

 

 

 

・「なんでそんな、都合のいいことを言う?」

「お腹すいてるの。ね、人助けだと思って」

……ここのカチリカの発言が大嘘だったことが、本編内では上手く伝えられなかったように思います。後に彼女の本当の魂胆を知ることで「あれは嘘だったのか」という流れにするつもりだったんですけど、べつに性欲と食欲って両立しますもんね。しくじりました。

 作中では語るタイミングを失いましたが、別作品「アンダーライン×アンダーライン」の方で語られている通り、サキュバスの魔法にはリスクが伴います。カチリカの背負っているリスクは「過剰な満腹感」です。そのせいで彼女は性行為を通して精力を得ることをあまりせず、人間と同じようにただセックスをしているだけのことが多いので、あれだけ痩せているんですよね。……本編で言えなきゃ意味がないでしょ!

 

 

 

・「でも金はいらない。むしろそっちが払えというならある程度は払う」

……伊古田くんの見栄です。ナポリタンを食べるだけで財布の中身の心配をしていた男の台詞とは思えません。ある意味ミスリードです。

 

 

 

・カチリカの名前の由来

……これは本当に大した理由がありません。響き重視です。

 一応原則としては、ニマド以降の作品のコンセプト上「ヒロインの無敵さ」は重要な物であり、「人間は無敵ではない」という現実の存在から「ヒロインが人外であること」がその重要さを支えているので、ヒロインの名前はわざと王道から外した感じの響きを選択することで人外感を演出しようとは考えています。これは夢子とリリア以外の全ての魔女やサキュバスについて言えることです。

 で、カチリカについてですが、まだ構想がぼんやりしていた頃に「伊古田の指にホチキスの針を打ち込むヒロイン」というものがあったので、ホッチキスの歯を閉じた時の音をカチッだとするなら、逆に開いた時の音とはなんだ……? …………リカッかな? ということでカチリカという名前が決定しました。意味がわかりません。

 しかし、結果として名前の響きや字面は最高になったので、己の壊滅的なオノマトペのセンスに感謝ですね。

 

 

 

・「もしここにきて、十人くらい男がいたらどうするつもりだった?」

……ぼくのツイッターのTL形成においてめちゃくちゃお世話になっているnoneさんという方がいるのですが、ここの発想はそのnone氏(サークル名「ガラクタをガリガリ」)が描いたエロ漫画「ピケコチャンvs10人ヌキ」から来ていますね。いろんな人のエロ漫画から影響を受けている……。

 

 

 

・ああいった物を確か、誉れの墓地というのだったか。

……三島由紀夫の「金閣寺」の中にあるらしい一文「脱ぎすてられたそれらのものは、誉れの墓地のような印象を与えた。」が元ネタです。急に謎の教養要素が出現している。

 ぼくがこの一文を知ったきっかけは、米澤穂信の短編集「儚い羊たちの祝宴」に収録されている「玉野五十鈴の誉れ」を読んだ時に「誉れ」ってなに? とググったことでした。なお、金閣寺を読んだ経験は皆無です。青空文庫に入っていないからです。

 余談ですけど、自分の創作の作風からして明らかな通り、太宰治の「人間失格」はぼくの趣味ドンピシャの最高な作品でした。しかし三島由紀夫の作品が一つも青空文庫入りしていないことを知ったことで、ぼくが人間失格を読めたのは太宰治が自殺したおかげだったのだ……ということにも気付き、複雑な気分になりました。

 

 

 

・俺は生まれて初めて、女を押し倒した。

……伊古田くんの独白。この一文があることで、後にチラッと語られる彼の童貞卒業がどういう物であったのかが分かるようになっています。少なくとも彼は、○○さんを押し倒してなどはいなかったのです。

 

 

 

・「私、怪我してる男の人が性癖なの」

……カチリカの台詞。この設定を思いついたきっかけは、田村結衣さんの描いている漫画「矢野くんの普通の日々」(単行本1巻発売中!)の1話が宣伝としてツイッターに流れてきたことでした。一応言っておきますが「矢野くんの普通の日々」はちゃんと心の優しくて明るい恋愛小説です。おかしいのはそこからカチリカを発想したぼくの頭だけです。

 

 

 

・つまらないセックス

……度々カチリカが口にする台詞。ぼくはコレの指すものが具体的に何なのかをよく把握出来ていないのですけど、セックスに詳しい人いわく「世の中には、毎回毎回決まったことを決まったように行うだけの、バッターボックスに入る野球選手みたいなルーティーンじみたセックスしか出来ない奴、「セミ童貞」がいる」らしいです。伊古田くんもそんな感じだったんだと思います。

 でもそれは、彼なりに好奇心を良識で抑えた結果なんですよね。彼の化けの皮は何重にも張り巡らされているのです。二泊三日の間にほぼ全部剥がれましたけど。

 

 

 

・暗いトンネルの話

……伊古田くんの夢に出てきたトンネル。一緒に乗っていたはずの人たちはいつの間にか消え失せており、この列車は本当に「先」へ向かっているのか、自分はこれに乗っていても平気なのか……? と不安になる話。

 これは伊古田くんのやっている「適当に誤魔化してニート生活を続ける」という人生に対する暗喩的な表現……だったのですが、それを作中で語る機会を失いました。旧タイトルの意味と、それが変更された理由は全てそこにあります。

 

 

 

・「電車が信じられないほど揺れるんだよ。ぼよんって」

……悪夢をまるで面白おかしい夢だったかのように話す伊古田くん。ここの台詞の意図は、実はぼくもよく分かっていません。でも伊古田くんはこのタイミングで「悪夢を見た」とかは言わない気がするんですよ。見栄ですかね? 結局のところ彼は最後まで、自分の人生について誰かに「助けて」とは言いませんでしたし。

 

 

 

・遊ぶ約束をしたはずの友達が突発的に不在で、家の中で待たせてもらうことも出来ずに追い返された小学生時代のある日を思い出す。冷たいと感じないこともなかったが、理屈は分かることだ。

……これもぼくの実体験です。小学校低学年の頃の話でした。一緒にゲームキューブとかデュエルマスターズで遊ぶって約束してたのに……。でも歳を取った今になって考えると、たぶんあの後その友達は、親からそれなりに怒られたんじゃないかと思います。だとしたらそれでイーブンですね。

 

 

 

・まぁ当たり前にしたって、嘘は嘘なのだけれど。常識がなんであれ、出来ないことを出来ると言うことに全く罪がないとは、俺は思えない。

……伊古田くん最大の名言かもしれない地の文です。彼の正体を知ってから読み返すと「どの口が言うんだ……?」って話ですよね。自分のことを棚に上げて他罰的なところに彼の見下げ果てた人間性がにじみ出ています。この辺りから伊古田くんのクズ男っぷりが明らかになっていきますしね。

 

 

 

・カチリカという女は、思っていたよりも結構なサイコパスなのかもしれない。俺の心の中には再び危機感が舞い戻って来る。痛覚を遮断したところで、危機感は無痛の状態を貫通してくるものだ。

……伊古田くんの名言2。「俺と同じじゃん!」みたいなニュアンスが一切感じ取れないところが薄気味悪いですね。彼は自分の好奇心をサイコだとは思っていないのでしょうか?

 

 

 

・「ところでカチリカ、俺は昨日、さっきの巨乳の女性から言われたんだ。魔界観光ならもっと都会の方がいいですよって」

……伊古田くんが「外食出来るような金はない」という話をするためのスタート地点。糸原が彼のまわりくどいトークに「話が見えてこない」とツッコミを入れていたことを思うと、そういうこと言わずに会話に付き合ってくれたカチリカの性格が見えてくる……ような気もしますね。

 それを思えば、この後カチリカが伊古田くんにお昼を奢ってくれるのは「優しさ」なのだと思います。一方で、伊古田くんが同じようなことを行う時、それは「見栄」です。

 

 

 

・そう言いながら、彼女はまたこちらの体の一部に舌を這わせている。けれど、今回ばかりは、傷口から流れる血の味を知るためにそうしているわけではなかった。……やがて興奮を煽るためにわざと出しているかのような水音が響き始める。

……ここから始まる一連の描写は、死ぬほど分かりづらいし官能の欠片もない文章ですが、一応エロ描写です。自分にはエロい文が書けないんだと落ち込んでいた時期もありましたが、逆に考えるんだ、エグいことをやっていてもR15で投稿できる才能があるんだ、と考えることで自信を取り戻しました。

 ただ、万が一本当に伝わっていなかったらそれは困るので、詳細を一応ここに書いておきますね。伊古田くんはこの時、自分は夕食を食べながら、カチリカにはフェラをさせています。単純な暴力とはまた違った味わいのあるひどい行いですよこれは……。

 

 

 

・そう、あれは俺が高校生の頃だ。俺が麻雀のルールを覚えた理由の三割くらいはそこにあった。

……脱衣麻雀についての話です。ぼくの実体験です。これによってルールを覚えた結果、今では家族で時々麻雀をして遊ぶようになったので、物事のきっかけなんて物はなんだっていいんだということがよく分かります。

 

 

 

・「脱衣麻雀っていうのは、「脱衣」のためにすると麻雀が邪魔だし、「麻雀」のためにすると脱衣が邪魔なんだよ。今、それと全く同じ感覚が起こった」

「骨付きチキンと骨無しチキンがどっちもあるのに、わざわざ前者を選ぶような人の気持ちと同じくらい分からない」

……これも全部ぼく自身の話ですね。しかし、物語の流れを汲む伊古田くんの発言としてのこれは、それがお前の言うことを聞いてくれたカチリカに対する態度かよ……って感じがしますね。徐々に彼のクズっぷりが浮き彫りになってきています。

 ところでぼくはダークソウル2のアマナの祭壇で学んだのですが、男には何をされても勃たない状況という物が実在するようです。

 

 

 

・これも今日初めて知ったことだけれど、普通にセックスをするよりも、こうして食べさせてもらったりしている方が「なんだかすごいことをしている」という感覚は強い。自分が偉くなったように錯覚するというか……そういう感じだ。

……伊古田くんのこれ、さも夕食時に気付いた感覚のように書いてありますけど、昼食を奢ってもらった時のことも踏まえての感想ですからね。奢ってもらうことが確定しているご飯を人目のある場所で「あーん」されながら楽しんでいるなんて、なかなか素質ありだと思います。

 なのに会計の瞬間には居たたまれなさを感じているのが、彼のよく分からないところなんですよね。本人の生まれつきのクズっぷりと、生きていく間に把握していった良識とが、いちいち反発し合っているように見えます。そういう意味では伊古田くんは、別作品「星を数えさせるためのハイエ」の主人公(湊秋人)にも似てますね。

 でも湊くんがハイエに奢られそうになれば「これは奢られる方が間違いか? それとも相手の好意を無下にする方が間違いか……?」と(常識に対する義務感の一心で)苦悩して体調を崩しそうですけど、伊古田くんは「奢られることの決定」には躊躇がありませんでしたね。みんな違ってみんなクズ。

 

 

 

・「お兄さんも、今日見たような巨乳の方が好きなの?」

「またエロ漫画で聞き飽きたような台詞を……」

「あはは、まぁどっちでもいいんだけどさ」

……ここ、伊古田くんは質問に答えてないんですよね。彼がどの程度本気で巨乳に興味を示しているのかは定かではありませんが、しかし彼が好奇心の人であることはそれなりに確かなことなので、少なくともカチリカの体型に対する「面白い」は嘘ではないと思います。

 

 

 

・「怖い? 痛くないんだからそんなことは……あぁでも骨折はたしかに」

暴力への恐怖その物をたったの二日で完全克服できる人間など、存在しないのではないかとは思うけれども。

……暴力への恐怖に関しても見栄を張る伊古田くんの図。腕の骨を折られた際のリアクションを気にしていたり、彼は本当に見栄っぱりですよね。ニマドの主人公は自尊心で身を滅ぼしたので、見栄っぱりの伊古田くんはそのアンサーを務めるに足る逸材だと思います。

 

 

 

・ まぁ、それは今回のカチリカとの約束が俺にとって都合のいい物だったから……というのが大前提にある考えなのだけれども。これがもっと明らかな苦痛や、あるいは単純に金が絡むことだったとしたら、俺としても「絶対に逃げるなんてことはない」とは言い切れない。なにせ奢られ童貞を卒業するような男だ、その人間性の高は知れている。

……伊古田くんの心情です。これは彼の自分自身をニートたらしめている部分に対して言っています。「無限回のセックスの確保」と引き換えでも働くことは出来ないと、そういうことです。本当に高が知れすぎているんですよね、彼。

 

 

 

・「尊厳の問題……ってやつなのかな」

……伊古田くんの名言3。食事中に自分のモノをしゃぶらせておいてこの言いぐさ! 彼には自己矛盾が多すぎるんですよね。単純に趣味が悪いとか、人として越えちゃいけない一線を越えてしまうとか、そういうタイプとは一味違うひねりのあるクズ野郎です。

 

 

 

・「モーツァルトの名を聞いてもだ」

……元ネタはモーツァルトが作曲した楽曲「俺の尻をなめろ」。月曜から夜ふかしによって有名になったネタだと認識しています。少なくともぼくはその番組がなければモーツァルトがそんな人だとは知らないままでした。

 

 

 

・それを考えると、まるで夢から覚めてしまうような気分になる。今から明日が憂鬱になってしまう。……それは、それだけは絶対に良くないことなのに。

……伊古田くんが働きたくない理由の一つがここで語られています。しかし「明日起きたくない」という気持ちは、「死にたい」に最も近い気持ちだ」という言葉を入れるタイミングは、残念ながら本作にはありませんでした。

 

 

 

・まずは昼食を共にした。聞いた話、大抵の女性はそういった洒落っ気の欠片もない店を嫌うらしかったけれど、彼女はファミレスでも普通に楽しそうにしていてくれた。

……伊古田くんが見た悪夢、もとい過去の話です。ナポリタン専門店の話にここで繋がります。

 

 

 

・食事を終えたあとはカラオケに行った。彼女の歌う曲は俺の知らない曲ばかりだったけれど、むしろそうして一緒に過ごさなければ一生知らなかったかもしれない良曲を知ることが出来て楽しかった。

……同じく過去の話。過去話の中ではここが最大の注目ポイントです。伊古田くんは一言も「○○さんと行けばなんでも楽しい」みたいなことは言ってないんですよね。彼はそういうことを言わないんですよ。

 その後彼が何をして○○さんから嫌われたのか、具体的なところはぼくにも分かりません。でもなんとなく想像はつきますよね。親しくなるにつれて相手の神経を逆撫でする余計な質問とかしまくってそうです。

 

 

 

・「お兄さんは変な人だね。未体験のことがしてみたいのに、本物のいじめられっ子から話を聞き出そうともしないし、セックスは普通すぎるし」

……カチリカのこの台詞、常識的に考えたら「そりゃそうだろ」って感じ(食事中にフェラさせるのとトラウマをえぐるのは別問題すぎる)ですけど、実はめちゃくちゃ的を射ている発言なんですよね。だって伊古田くん、このあと結局いじめの話をかなりひどい形で聞き出すし、普通じゃないセックスもするし……。

 

 

 

・俺も、彼女も、「嫌いになるか?」と聞かれているのに、質問にちゃんと答えることは出来ないものだった。

 その気持ちは痛いほど分かる。簡潔な答えを口に出来るほど事が単純ではないことが、なんとなく雰囲気で察知できてしまうのだ。

……これ、伊古田くんは巨乳の件について問われた時も同じことを考えていたと思います。でも彼は好奇心の人なので、カチリカとの魔界旅行が二泊三日ではなく一か月くらいあれば、そのうち「正直な気持ちを口に出したらどうなるんだろう? やってみよう!」みたいなことになっていた可能性は大です。

 

 

 

・「殴ったり蹴ったりすればいいのに。爪でもなんでも剥がせばいいのに。今からでも私をひん剥いて外に連れ出してくれたらいいのに。他のことだってなんだっていいのに……。お兄さんもどうせそうしたいんでしょ……? みんなそうなんだから」

「な、なんて言いぐさ……」

……ここの伊古田くん、ツッコミとしてこんなこと言ってますけど、実際カチリカとずっと一緒にいたら実践しかねない雰囲気はありますよね。爪剥がしといて「あぁそうだ、俺はグロいのがダメなんだった」とか言ってそう。そうすればカチリカから腕を切られた時に目をそらした描写も伏線として機能しますし……。

 

 

 

・例えば、挿入したまま首を絞めたり腹を殴ったりすれば、締まり具合にどんな変化があるのかだとか。例えば、男の本気の力で何度も何度も平手打ちをし続けたら、彼女の肌……例えば尻や、背中や、顔は、どんな風に変色してくのかだとか。……そういう知識を、知見を、俺は一晩で大量に得てしまった。

……伊古田くんの悪事の中でも物理的な物なら一二を争うこれ、その行為を具体的に「提案」したのはどちらなのか、という部分が気になりますよね。カチリカが提案して伊古田くんがそれに従ったのか、それともその逆なのか……。

 その点は作中では語られず、真実は闇の中ですが、果たして伊古田くんが闇に葬るような真実の中に、明かしておいた方が彼の印象を少しでもマシにする物なんて含まれているのでしょうか? ここまでの信頼度で言えば、ちょっとその線は薄そうですよね。

 

 

 

・けど正直に言うなら、高揚感については今までの人生で一番かもしれない物があった。自分が人でなしの変態であることを自覚させられてしまったことになる。二十年と少しを生きた経験上、自分の性格的に、それを隠して生きていくことがそこまで苦になりそうではないことが、唯一の幸いではあるけれど。

……逆に今まで自覚してなかったんかい、とツッコミたくなるような伊古田くんの心情です。そしてそれと同時に、彼の嘘吐きとしての自信の表れでもあります。「嘘への自信」については、本編最後の一行へ向けた伏線でもありますね。

 

 

 

・それにびびって、いつも以上に嫌だ嫌だってじたばた暴れちゃったんだよね。そしたら偶然、近づけられてただけの刃が肌にかすって、血が出て……。あれはたぶん私だけじゃなくて、その場の全員が焦ったと思う。血が出て、痛くて、怖くて、さらに必死に抵抗する私と、それをどうにか押さえつけようとするいじめっ子たちとで、もう半狂乱……。それである時、私を黙らせようとした誰かが本気で殴ってきて、一人が殴ったら二人三人って……。

……カチリカのこの凄惨な過去話は、まだ2ちゃんねるが5ちゃんねるではなかった昔の時代に、ぼくが偶然発見した良からぬ性癖の持ち主たちが巣くうエロSSスレ(本当のスレタイは忘れた)で見た描写を元ネタにした物です。世の中には本当にひどいものを書く人がいますよね……。それがこうして役に立ったので、スレに書き込んでくれた人にはとても感謝しています。

 

 

 

・「へぇー。テレビかぁ。熱湯風呂に落とされたりとか?」

「いや、まだそういうお笑いに参加するところまでは来てないから……。無駄にエロくなりそうだし」

「私もやったことない」

「俺も別に見たいとは思わない」

……ここの伊古田くんの台詞、直感で書いたんですけど、どういう意図として受け取ればいいのか自分でもイマイチ分かっていません。好奇心の人である彼が「熱湯に落とされるサキュバス」に興味を抱かないなんてことがあるか? と思えば嘘であるようにも聞こえますけど、こんなところで嘘を吐く理由が思い当たりませんし、「すでに男芸人のそれを見て容易に想像がつくから、「未体験」にカウントされるか微妙な判定になっている」と思えばそれが正しいような気もします。……一番あり得そうなのは、彼がまだ「同じことをやっていても、性別や容姿が違えば印象は完全に別物になる」ということに気付いてない説ですね。

 あるいはこの会話文は、普通にぼくのミスなのかもしれません。

「見てみたさはあるけど時間がなぁ」

「今からでもやろうよ」

「ちょっともう疲れたんだよ……」

 みたいな会話が伊古田くんのキャラクター的には正しかったのかも。それでカチリカに「後悔しない?」と聞かれて、そうやって全ての後悔を取り逃がさないように躍起になると失った物ばかりが目に付くようになって人生が不幸に云々……みたいな持論を展開するのが伊古田くんらしかったかもしれません。……でも昨晩の衝撃的な行いで一睡もできず本当に疲れていたらしい彼がその場でそんなに饒舌になるのかというと、それはそれで怪しいですね。何が正解なのかぼくにも分かりません。

 

 

 

・「ピッキングのアルバイト。プラモデルのパーツを扱ってる。……フリーターなんだ」

……カチリカに嘘を吐く伊古田くんの図。定型文と化したその内容から、彼の嘘の常習性がうかがい知れます。定型文にオチまで用意しているところが憎らしい。

 そして彼はこの会話の流れで、カチリカが現在無職の身であることを知ります。もしもカチリカが大金持ちだったら……という甘ったれた幻が彼の中に無かったはずがないのに、本人はそれを地の文でさえ表に出しません。伊古田くんは見栄っぱりなんです。己に対してもですよ。

 

 

 

・「ああ。今度はちゃんと部屋の中で待っててくれよ、別に何も思わないから」

「じゃあ貴重品も置いていく?」

「……いいとも、サキュバスは人間に危害を加えないらしいからな」

……ここの伊古田くん、一瞬だけ返答に迷ってますね。たぶん彼にとっての「信用」はそういう物じゃないんでしょうけど、それを口に出すのはまずいってことは分かっているみたいです。直後の地の文からも「盗人への不安」が漂っているので、彼は貴重品は身に着けておきたいタイプのようです。きっと無職ゆえ、失った物を取り返すことが出来ないせいでしょう。

 ちなみに、カチリカはここで仮に「いや、それとこれとは別だから」と言われても別に気にしませんし、なんなら「じゃあ貴重品も置いてく?」は半ば冗談で言っています。部屋の主が戻ってくるまで廊下で立って待っていたような人ですからね。口調とは裏腹に、馴れ馴れしすぎる振る舞いをしないように気を遣っている印象があります。散歩について来る時だっていつも「ついて行っていい?」と聞いてきますし。

 

 

 

・「散歩にする? さすがにもう奢ってはあげないけど」

「それは残念だなぁ。……まぁ適当にぶらぶらするか」

「ついて行っていいよね」

「もちろん」

……一つ前の解説を踏まえて見る、カチリカさんのデレ始めている図。「いいよね」と前のめりな確認になっています。

 if世界線には存在するであろう、共に暮らした期間が長くなったことでついに何も言わずに当然のような顔をして同行するようになったカチリカさんとか、見てみたかったですね……。伊古田くんが働いてくれさえすれば見れただろうに……!

 

 

 

・伊古田の語るソフトクリームに関するエピソードの全て。

……台詞も会話文も、全てぼくの実体験です。チョコソフトを無謀な食べ方で散乱させた幼稚園の友達は女子であり、直後の予防接種で号泣していました。ぼくはバニラ味を落とさなかったし注射も泣かずに終えました。でも今はニートです。

 

 

 

・ほんの少し舌先について溶けただけの甘い汁が、それでも喉に詰まったような感覚に陥った。……一瞬だけ息ができなくなって、意味もなく大声を上げそうになる。

……図星を突かれた伊古田くんの、本人にも何と呼んだらいいのか分からない激しい衝動的感情の様子です。彼の上げそうになった大声というのが、「お前に何が分かる」の意味だったのか、それとも「分かるなら助けてくれ」の意味だったのか、あるいはもっと言葉としての意味を成さない悲鳴のような物だったのかは、本人にも分からないままでした。

 

 

 

・「……なぁ、それってあれだろ。センチメンタルとか関係なくさ、今までの俺の君に対する態度が、ちょっと社会的に見て好ましくなかったからっていう」

「それもある。ご飯奢ってあげた人は何人かいたけど……」

「いや、待て、それ以上言わなくていい」

……伊古田くんの豆腐メンタルな図。悪いことしている自覚はあるのに、それを他人の口から出されることには耐えられないのです。そしてその気持ちに、「相手がどういう意図でそれを口に出しているのか」は一切関係がないのです。

 なお一応言っておくと、この場面のこれは決して「他の男の話なんか聞きたくない」という意味ではありません。それについてはどちらかといえばむしろ興味があることが、後の地の文で明かされています。

 

 

 

・「俺は、嘘をついた」

「嘘?」

「働いてないんだ、俺。高校卒業してからずっと、ニート生活ももうすぐ六年になる。ピッキングのバイトなんて全部嘘だ。八時三十三分の列車は電車通学をしていた頃の話だよ」

「……そうなんだ」

……あえて言うなら、ここが伊古田くんのデレ場面です。休日に向こうの目的を理由に一緒に出かけたり、お昼を食べながら楽し気に会話していたような友人の糸原くんに対して、彼はこの「嘘」を明かしていませんからね。カチリカへの信用度(あるいは期待度)が友人のそれを超えたことになります。

 一方で、カチリカがそれを「伊古田がデレた」「信用してくれたからこそ適当に誤魔化さず打ち明けてくれたのだ」と受け取ったのかというと、それは怪しい……というかたぶん無理だったかと思います。過去作に例えると、わざわざつらそうな人間を探して助けに来たハイエのような存在とは違って、カチリカは偶然伊古田くんに声をかけただけですからね。彼を許容するために、それ自体を目的としてやってきたわけではありませんから、そういう人が伊古田くんの告解を受けてどう思うのかといえば、やっぱり多少なりともショックだったんじゃないでしょうか。それが後の彼女の表情に出てくるわけです。それを「哀れみ」ではなく「寂しそう」と受け取った伊古田くんの目は正しいと思います。

 ちなみに、これに続く「信じてもらえないかもしれないけど」から始まる伊古田くんの台詞は、その内容もさることながら、嘘を吐いたことを打ち明けてから言うことになってしまったせいで「オオカミ少年」の効果がいくらか発生してしまうという、悲しみと負のループを巻き起こしています。まあ、誘いを断られたカチリカからすれば、そんな物は嘘だろうと本当だろうとどっちでもいいのですが。

 

 

 

・「でも、すごいね。それなら二泊三日の旅費なんてどこから出したのさ」

「……小学生の頃から貯めてあったお年玉を使って来たんだ。笑えるだろ?」

「笑わないよ。大事なお金だったんでしょう?」

……ここ、この場面! ぼくが一番好きな場面です。カチリカの台詞、最高すぎじゃないですか……?

 カチリカ本編を投稿するまでの間、章ごとに一回ずつと、全体通して一回……の計二回にわたって自分で本編を読み返したのですけど、なぜか二回目のこの場面で泣きそうになりました。自分で書いたのに。

 あれでしょうか、ぼくも中学の頃からのお小遣いと、成人後に父のコネで一年(契機)だけやっていたバイトの稼ぎを後生大事に貯めこんでいるから、それが伊古田くんのお年玉貯金と重なって感情移入してしまったんでしょうか。

 そうなんだよカチリカ~! 君は分かってくれるのか~うぅ~! ぼくは昔から自他共に認める金の亡者で、守銭奴らしくこれまでずっと金を貯めこんできて、親だってそれを昔からずっと小学生の頃からずっと「金の価値が分かってる」って評価してくれてたのに、高校を卒業したぼくが人生初バイトを経て「働くことの苦痛は金より大きい」って話したら、お前は本当は金の価値が分かってなかったんだな……とか言ってくるんだよ、カチリカ~、なんで、なんで、今までずっとぼくの守銭奴具合を見ていたのに、それが「こいつにとってはそのくらい働くことがつらいのか」って解釈にならないんだよ~!! カチリカはそれも分かってくれるのか!? カチリカなら分かってくれるのかよ! どうなんだよ~!!

 ……………………はぁ?

 

 

 

・「そうだお兄さん、連絡先交換しとこうよ」

「えっ」

いいの? と本当に間抜けな声が出る。逆に交換しない理由がないでしょ……と、ものすごく呆れた顔で言われた。

……これは大きな分岐点です。少なくとも伊古田くんが最初の怪我を負ったあたりでのぼくは、この展開を想定していませんでした。カチリカとは何の手がかりも残さずにさよならをして、人間界でまた友達に嘘を吐くような、救えないし救われない伊古田くんを書くつもりだったんです。でも途中で気付きました、これは連絡先を交換しない理由がないなと。

 伊古田くんもすっかり夢から覚める気でいたので、まさか繋がりが残るとは思っておらず間抜けな反応をしています。普通はそう思いますよね……。ぼくもてっきり永遠の別れになるものだと思っていました。しかし実際これが、ニマドの例のオチに対するアンサーなのです。

 「金」という気持ちだけではどうしようもない問題(作中に書いてある通り、それが気持ちで解決できるならそもそも伊古田くんが魔界旅行に行っていない可能性が高い)があり、その問題点については差し伸べられた手を振り払うけれど、それ以外の部分ではギリギリ繋がりを保つ終わり方。これが……! これこそが! 正しい救いの振り払い方ですよ!

 

 

 

・「じゃあね、お兄さん。向こうに行ってもたくさん話そうね」

「もちろん。……あーでも、その頃にはカチリカは別の男と寝てるのか……」

「そこはサキュバスだから。嫌なら働いてこっちで暮らせー」

「へいへい、そうですね……」

……大きな分岐点を経た直後の、特大の不穏要素場面。伊古田くんとカチリカさんのやり取りは本編後の世界で、果たして本当に長続きしたんでしょうか……? 性癖に対する耐性が無敵レベルのカチリカにとって、魔界へ来る男の中に優良物件はまあまあ居そうですけども……。

 この直後の地の文で伊古田くんに若干のNTR耐性があることが仄めかされていますが、事態はそれどころではありません。カチリカの目の前に別の好ましい男が、言わば「働ける伊古田」が現れる可能性は常にあるのです。差し伸べられた手を振り払うというのは、そういうことを意味しているんですよね。

 しかもこの場面、ナチュラルに「働くことに比べたら君が寝取られることの方がマシだ」と言っているのに等しいですからね。伊古田くんのクズっぷりは、過去作のクズ男たちと違って息をするように自然と入り込んでくるので見逃しそうになります。まあそこは相手がサキュバスなので、彼の言葉も人間に対するそれに比べればそこまでひどい発言にはならないんですけど、だとしても無罪ではないですよね。

 

 

 

・「まだ二十四なんでしょー! 若いんだから全然大丈夫だよー!」

「それ、十八の頃からずっと言われてますよ!」

……ぼくは今年で23歳になりますが、18の頃から「これ」を言われ続けて23歳になります。この会話の救いの無さが、身内にニートがいない人にも伝わるものなのか、若干不安です。自分の将来の方は若干どころではなく不安です。

 

 

 

・本人の言葉を信用するなら、糸原は童貞である。その原因はたぶんそういう、緊張とか何とか言っているところなんだろうな……とは思う。というのも、彼は言ってしまえば普通の社会人だけれど、しかし欠点らしい欠点を持ち合わせていないのだ。……俺なんかより良質な人間なのだ。

……友人である糸原を評する伊古田くんの図。非童貞ゆえのイキりとニート(とそれ以外の人間性)ゆえの卑屈さが一瞬のうちに入れ替わる、彼のアンバランスさがよく出ている場面です。カチリカは彼のこういうところを察知して「生きづらそう」と感じたのでしょうね。息をするように嘘を吐くのに罪悪感はあるわ、性癖も人間性も終わってるのに罪悪感はあるわ……。考えてみれば伊古田くんの生きづらさの根源は罪悪感にある気がしますね。やはりハイエの湊くんに似ています。

 

 

 

・だから、あと彼に足りない物があるのだとすれば、それはネットで知り合って仲良くなった女性とオフ会をする勇気だとか、そういう物なのだと思う。緊張していたら童貞のまま狙撃されて死ぬというわけだ。

……上記の文章の直後の伊古田くんです。イキり、卑屈になり、茶化す。一瞬のうちにそれを行う彼の心情は、ある意味での情緒不安定なのかもしれません。

 

 

 

・「どうだったって? そりゃ、「最高だった」としか言いようがないけど、それだとあんまり伝わらないよな……。ちょっと待て、いい表現を考える」

「いや、別にそんなレポしてくれとは言ってないが」

「思いついた! 糸原、日本人男性の平均寿命は知ってるか?」

……伊古田くんの回りくどくてながーい話のスタート地点です。もしもこの話をカチリカにしていたらどんな相槌を打ってくれたんだろう……と考えてしまうのはぼくだけでしょうか。己の寿命の短さに感傷する糸原より、相手の寿命の短さに感傷するカチリカの方が見たかったと思うのはぼくだけですか? なんだか振り払ってしまった手の重さを感じるんですよね……。

 

 

 

・「そういえば伊古田さぁ、お前就職はどうすんの?」

「どうすんのって?」

「いつまでもフリーターってわけにいかないだろ」

「分かってるよ。……正社にでもならないと魔界に通えないなって実感し始めたら本気出すって」

「そうか……?」

「あぁ、今年中には決心つけるさ」

……もしかして読解力のない人には「伊古田が改心した!」と受け取られたりするのかなぁ、と思いながら書いていたシーンです。もちろん、むしろ一ミリも改心してません。「今年中には決心つけるさ」が一番の大嘘です。来年の伊古田くんはまた適当な嘘を吐くことでしょう。

 

 

 

・その写真に写る俺は、本当にひどい顔をしていた。

……本編最後の一行です。カチリカから送られてきた自分の写真が、とても「前向きな人間の顔」には見えなかったことから、今まで自分が吐いてきた嘘は全てバレていて、泳がされているだけなのではないかと不安になり始める伊古田くん。悪い行いとはいえ、確かにあったはずの彼の「自信」なんて物も、そうやってあっさり消えていくのです。そしてその写真の顔がまた、カチリカの言い当てたことを裏付けています。

 ……という感じで、ニマドのアンサーらしく、きっちりバッドエンドで終わりました。伊古田くんがここから先何らかのきっかけで立ち直り更生し、希望ある未来へ進むような姿は、ぼくにはちょっと想像できません……。

 

 

 

・おまけ、カチリカの不穏要素について。

……カチリカの描写は理屈で考えれば、魔界の方であっさりと「働ける伊古田」に寝取られかねず、伊古田くんが交換した連絡先に既読も付かなくなるような未来はすぐそこまで迫っているような不穏さをはらんでいますが、彼女の不穏要素はそれだけではありません。

 言いたいことは言うし笑いたい時は笑う、と豪語した彼女が「いろいろあって」と表現をぼかした退職理由。精神的な痛みには無力な魔法であるにも関わらず、なぜか克服している「ように見える」つらい過去。不眠症らしき描写……。

 カチリカが自分で気に入った人に進んで寝取られるなら、伊古田くんはともかくカチリカ本人はある程度幸せになれるのでしょうけど、連絡先を知っている「だけ」のカチリカとの関係は、もっと別な、誰も幸せになれない形でフェードアウトしていく可能性もありますよね……。

 本作の続編を書く予定はありません。

 

ポエムにしては長い文章保管庫。(創作)

 会計は持つから好きなものを頼め、と言うと、彼女はメニュー表の中から迷いなくその一行を指さした。
 値段を見て、思わず笑ってしまう。
「遠慮がないな」
「エンリョ?」
 きょとんとした目で見られる。俺は反射的に「別にいいんだけど」と付け足したけれど、彼女は別に、そういう価値観の中できょとんとしたわけではないようだった。
「あぁ、そっか、今が「遠慮の時」だったのか。分からなかった」
 しまった〜、と言わんばかりに、彼女はわざとらしく額に手を当てる。どのリアクションが素で、どのリアクションがわざとなのか、彼女に関しては中々分かったものではない。
「いや、だから別にいいんだって」
「良くはない! 遠慮も知らないポンコツだって思われるのは心外だよ。……それとも、ポンコツへの哀れみで奢ってくれるの?」
「そんなわけないだろ」
「そう……?」
「うん。君は賢いからな。人が覚えられる概念くらいすぐにものにすると思っていたよ。……だからその上で笑ったんだ」
「あ〜、なるほどぉ。そういう時も「笑う時」なんだ」
「そうとも」
 店員を呼び、まずは彼女が指さした通りの物を頼む。自分の分はその際に目についた物の中から適当に決めた。
「いつかは私もあぁしてみたいなぁ」
「あぁするって?」
「店員さん」
「あー、仕事なぁ。そうだよなぁ。……まぁそれも近いうちに出来るようになるさ、ブラックかもしれないけど」
「えー、ブラックは困るなぁ。怒鳴られた時ってどんな顔すればいいの?」
「いや、普通に残業のことを言ったつもりだったから。それは俺にも分からん」
 なんてことはない会話を繰り広げる最中に、なんだか妙な居心地の良さを感じた。しかし俺という人間が、友人との会話に人生の喜びを感じられるほど豊かな人格を形成できている覚えはなかったので、その居心地の良さの正体を知りたくなった。
 じきに彼女の注文した料理が運ばれてくる。それを見て真っ先に思い出したのは「寿司屋の大トロ」だった。料理のジャンルとしては全く別物だけれど、いかにも頭一つ抜けていますよという雰囲気がそっくりだった。
 そして、それで思い出した。この居心地の良さは、彼女が遠慮という概念を本質的には理解していないおかげなのだと。
「……食べないのか?」
「え?」
 カトラリーも持たずに、それどころか料理に目を向けることもなく、彼女は真っ直ぐこちらを見つめていた。
「いやいや、私だけ食べ始めるっていうのも悪いし」
「冷めるぞ」
「いいよ。それで私の遠慮が証明できるなら」
「はぁ? ……あぁ、そういうこと?」
 遠慮という概念すらまともに知らないポンコツだと思われた……という彼女の被害妄想はまだ続いていたらしい。そうではないというところを、今また別の形での遠慮を見せることで証明しようというのだ。
 金銭が絡む遠慮と、それ以外の遠慮。様々な遠慮の概念を知っているということがよく分かった。目で称賛を伝えると、彼女は敏感にもそれをきちんと受け取ったようで、満足そうに顔をほころばせた。
「じゃあもう食べたら?」
「え、なんで?」
「もう遠慮のことはよく分かったよ。それで十分だろ?」
「そうなの……?」
「じゃなかったら何なんだ……?」
「だって、「知ってる」と「出来る」は別だから。私は「出来る」ことを証明したいの」
「うん、だから分かってるよって。もう十分なんだ。なにも犬みたいに待つことないだろ」
「むっ、犬じゃないし。どこからどう見ても人間でしょ」
 言って彼女は豪快な一口目を頬張り、その味に満足してまた笑顔を見せる。……俺はそれを見て、ふと彼女が暗に「遠慮なんて物が、どれだけくだらない物なのか分かったか?」と言っているような気がして、心の中で自嘲した。人のことを言えたものではない被害妄想だ。
 もしも彼女が本当に概念ごと「遠慮」を知らなくて、「好きに頼めと言ったじゃないか」と我がもの顔で注文をして、自分の分の料理が運ばれてくるなりそれにがっつき始めたなら……。俺としては、それはそれで好ましいことであるように思うのだ。だから遠慮なんて物は、本当はくだらない物なのかもしれないと感じてしまった。
 そしてそう感じるのは、彼女と出会うよりも前の頃にまで人生を振り返れば、別に初めてのことではなかった。
 少なくとも「会計を持つ相手よりも高い物は頼めない」だとか、そんなつまらない遠慮を覚えてしまうことだけは、出来れば避けてほしいものだ。心からそう思った。俺の居心地の良さのために、彼女には今のままでいてほしいと。

夢日記、円満ではない終わり。

 小型のマグロくらいなら収まりそうな、大きな長方形のクーラーボックスを持って、ぼくは小学校の階段を上っていた。今日は、かつてこの学校を卒業して大人になった人たちが、子どもの頃の気分を再体験することができるイベントの日なのだ。
 クーラーボックスの中身は父が趣味で釣った魚である。水と氷も入っているので、歩くたびに揺れてガラガラと音が鳴る。とても運べないというわけではなくても、階段を上るにはきつい荷物だ。父はまだ海岸で釣りを続けているだろう。
 教室に入るとすでに大勢の人が、懐かしい作りの椅子に座っていた。一方で机は無い。かわりに、みんな画板を持っている。ぼくが足元にクーラーボックスを置いて、どっこいしょと椅子に座ると、現職員だろうスーツの男性から画板とプリントと筆記用具を渡された。
 職員はともかく、教室中の誰の顔にも見覚えがなかった。そして着席した者たちの綺麗に全員が男性だった。しかし何にしてもクラスは間違えていないはずだ。確実に確認して入ったのだから。
 はじめ、の声がかかり、ぼくたちは鉛筆を握る。小学校のテストとはこんなに簡単な物だったんだなぁ、と感慨深く思いながら、あくびが出そうなほど簡単な答えをプリントに記入していく。……記入していったのだが、ある時ふと、全く答えが分からなくなってしまった。ピタリと己の手が止まる。何度も問題を読み直す。舐めまわすように、何度も、じっくりと。
 信じられなかった。だってずっと、たとえば「足し算の筆算」のような、本当に小学生レベルの簡単な話ばかりをやっていて、それは今も変わっていなかったのだ。なのに答えが分からなかった。周囲の世界から途端に切り離されたような感覚。小学生の問題が分からない大人は、落ちこぼれの小学生よりももっと焦る。
 問題のレベルはずっと同じなのに、突然答えが一つも頭から出てこなくなった。忘れる忘れないの問題ではないはずの「考えれば分かること」が、全て、ド忘れしてしまったかのように一切出てこなくなってしまった。さすがにおかしいと感じ始める。顔を上げて周囲を見ると、誰も問題を解く手を止めていなかった。やはりぼくだけがおかしいのだ。
 足元を見ると、クーラーボックスがなかった。
 馬鹿な、あんな物が音もなく消えるわけがない。いくらテストに夢中になり、あるいは焦っていたとしても、クーラーボックスが動かされたなら絶対に気がつくはずだ。やはりおかしい。何がおかしいのか? ぼくは自分の頭や正気を疑った。正常な精神をしていないのかもしれない。
 ともかく、父にこの件を報告しなければと思った。急用を思い出したと言って教室を抜け出す。階段をかけ下りる。学校の門から出て、アスファルトや白線やガードレールの敷かれた通学路を走って走って、車や信号機に気をつけながら、ぼくは海岸まで戻ってきた。
 やはり父は釣りを続けていた。そしてその足元には、ぼくが持っていたはずのクーラーボックスがあった。
 父に一連の出来事を話すと、何を言ってるんだ、お前が今これを持ってきたんだろう、と笑われた。そんなはずはなかったが、ボックスはもちろん、中の魚もそのまま無事だったから、まぁいいかと思うことにした。
 そうなれば、それならそれで、今度は学校に戻らなくてはならないということになる。父も「おう行ってこい」と言うので、ぼくはまた大急ぎで海岸線に沿って走った。
 その道中で、砂浜に立っていた有名なお笑い芸人に出会った。やけに急いでいるぼくに興味を示した彼は、そのまま学校までついてくることになった。ぼくはいよいよ急がなければと思って、赤いカードを使うことに決める。危険が伴うので、カードの効果をまずは芸人にも説明する。
 カードを使うと、ぼくと芸人の体は電動自転車のように加速して進む。そしてカードを使う回数が五の倍数になるたび、その時だけカードの効果はさらに強くなる。それは事故を起こさないように気をつけねばならないが、便利であることには間違いない物だった。
「使いますよ、一回!」
 足元から浮遊感が生まれ、強風に背中を押されるように加速する。おっとと、と着地時に歩幅を整えながら、またカードを使う。同じカードをかざすだけで何度でも使えるから、慣れればもっと速く走れるはずだ。
「二回! 三回! 四回! 五回目行きますよ! 五回!」
「うおおおわあっ!」
 リアクション芸に定評があるだけに、芸人はカメラが回っていても良いくらい活き活きとカードに踊らされていた。しかし転びはしない。ぼくも彼もきっちり走っている。これなら間に合う。
 しばらく進むと山道に入った。狭く曲がりくねった下り坂で加速することに若干の不安はあったけれど、やるしかなかった。
「一回! 二回! うおっ」
 時々加速が過ぎて、左右の岩壁や木々、茂みに突っ込みそうになる。しかしそこはゲームで言うところの壁ジャンプの要領で上手く受け身を取り、ぼくたち二人は従来では考えられないほど素早く山道を下っていく。
 道中、買い物袋を持ったおばあさんとすれ違った。こちらは「危ない!」と肝を冷やしたが、幸い事故になることはなく、またおばあさんも全く驚いていなかった。慣れているようで、にこやかに会釈をしてくれたから、ぼくもそれに返した。
 突然、芸人が後ろからぼくの腕を握る。スピードが出ていた分、反動で「うっ」と声が出る。ぼくは不服の意で睨みつけるが、彼はお構い無しにぼくを草むらの方へ引いて行った。
「こっちの方が近道なんだよ。一回番組で来たことあるから知ってんだ」
 太い根っこが地面の上にせり出しているような一際巨大な樹木を目印に、芸人は道無き道へぼくを誘った。腰まである雑草をかき分けながら、正規の道よりもさらにきつい傾斜を下っていく。
 ふと、ある地点を境に、空からの光が入らなくなった。葉の間から十分に道を照らしていた木漏れ日が、密度を増した枝枝によってほぼ完全に遮られたのだ。鬱蒼とした木々の中、「近道」は廃墟のような暗闇に包まれた。
 下り坂の傾斜は終わって、平坦な地面に変わる。唐突に開けた落ち葉と土の道路が現れ、その脇にはポツポツと捨てられた民家が見え始めた。いかにも木の板を張り合わせて作られた「家の形をした物」は、脆そうな緑色へ変色しとっくに腐れ朽ち果て、家の壁を構成している板と板の間は隙間だらけで、そこかしこから真っ暗な内側へと繋がっている。
 先へ進むほど暗闇は増していくようで、真っ直ぐで障害物もない道なのに、50メートル先はもはや何も見えない有り様だった。
 人の気配も、生活の気配もない。けれどそこかしこに、崩れた焚き火のような黒い木片の小山があった。……直感的に、ここに人が済まなくなった経緯は、およそ円満ではなかったのだろうと悟った。
 奥の暗闇から、まるで細い腕をこちらに伸ばしてくるみたいに、嫌に冷たい風が吹いてきて頬を撫でる。芸人は腐った木の民家をよじのぼっていた。
「こっちこっち。そこの屋根の穴から行くんだ」
 ぼくはぞっとして、彼をそこから引きずり下ろした。何かがあったわけではないが、これ以上ここにいてはいけないと感じた。
 さっき彼にそうされたように、今度はぼくが強引に腕を引いて行く。雑草をかきわけて来た坂を上っていく。芸人は依然として軽い調子だった。
「本当だって、近道なんだって。確かに見た目アレだけど」
 そう言う彼について行ったら、なぜかは分からないがきっとタダでは済まない。そう思った。だから彼を説得するための言葉を探しながら、あの巨大な樹木のところまで彼の腕を引き半ば強引に戻ってきては、ぼくは言った。
「お前っ、上見ろよ!!」
 上に何があるのかは知らないけれど、ぼくは気付いたらその台詞を選んでいた。そして、直感的にそれを選んでしまった以上、もうぼくが上を見ることはできない。
 けれど、芸人が上を見たことは背中越しの感覚で分かった。
「……うわ、マジじゃん」
 彼が何を見たのか聞くことになる前に、ぼくたちは死にものぐるいで正規の山道を駆け下りた。
 学校の下駄箱に着くと、知っている顔の先生二人が校舎の中から出てきた。ここは小学校のはずなのに、その先生たちは中学の先生だった。国語科の若いS先生と、社会科の年配のN先生だ。二人とも男性である。その姿は昔と少しも変わっていないように見える。
 S先生が先にぼくを見つけて顔をほころばせた。
「おおっ!? なんだなんだ、お前、どういうやつで? ここ小学校だぞ」
 意外なタイミングでの再開に、最近はどうしているのかといった世間話が盛り上がる。N先生はそれを少し離れたところで眺めていたから、ぼくはそちらにも声をかけてみる。
「N先生、お久しぶりです」
 しかし一人目の時とは打って変わって、N先生の方は途端に険しい顔付きをした。
「私を「N先生」ではなく「先生」と呼ぶことには、意味があるんですね?」
「……は? いや、N先生って呼びましたよね?」
「また……。「先生」とだけ呼ぶことに意味があるんですね?」
 N先生の表情はみるみるうちに怒りへと変わっていく。次の瞬間にでも怒鳴り声を上げそうな、大人の本気の怒りの顔だ。
 おい、ちょっと、何なんだ、助けてくれ……と後ろを振り返ると、S先生がどこにもいなかった。ここまで着いてきたあの芸人もいない。二人とも忽然と姿を消してしまった。
 静まり返った、人気のない薄暗い下駄箱置き場で、N先生がぼくに一歩ずつ、ゆっくりと詰め寄ってくる。彼は明らかに怒っていた。話が通じない。ここには他に誰もいない。
 ぼくは、ずっと起こり続けていたおかしな「何か」が、まだ終わっていないのだと直感した。










 現実時間7時20分。「朝だよー」の声に、こんなタイミングで起こす奴があるかとぼくは腹を立てた。

オンリー1の円 (アナログゲームの話)

 子どもの頃食べたクッキーに「2003」の文字が彫られていたことを覚えている。当時の幼すぎた自分には、その意味が分からなかったことも。

 2003年頃の時代はまだ、ゲーム機が今ほど家庭的な物として根付いてはいなかったように思う。家族で桃鉄マリオパーティ等のゲームを楽しむ風景を映したCMが現れたのは、かなり最近になってからのことだろう。
 とはいえ、では当時の子持ち家庭の人々が「家族でゲーム」をしていなかったのかというと、別にそんなことはなかったと認識している。当時の親と子どもがやるゲームといえば、たとえば人生ゲームのような盤ゲームだった。あるいはトランプやオセロだった。
 日本の家庭的なアナログゲームの全盛期は、そういったWii以前の時代にあったように思う。今の日本の家庭において、アナログゲームにかつての栄光はない。
 ぼくが子どもの頃はパッケージが擦り切れるほどアナログの人生ゲームを愛好していた我が家の面々も、Wiiの存在が馴染んでくるにつれて、やれ後片付けが面倒くさい、やれ地味だ飽きたということで、すっかりアナログゲームを毛嫌いして、デジタルゲームの愛好家に宗派替えをしていた。かつて家にあったすごろく系の玩具はほとんど全て売るか捨てるかしてしまうほどにである。
 我が家のように「毎週土日は家族で集まってパーティゲームをプレイする」というような習慣が、子どもが高校を卒業したあとでも続いている家庭というのはなかなか珍しい例かと思う。しかしそんな我が家だって、もしも面倒なことがなくて演出も派手な数々の素晴らしいデジタルゲームたちが存在していなかったらどうだったろうか……と考えると習慣の強固さは定かではなく、デジタルゲームには感謝しかない。
 けれども、しかしそれはそれとして、ぼくはずっともったいないことをしているような気分にもなっているのだ。
 アナログゲームが全てデジタルゲームに劣るなんて、そんなことがあるだろうか? アナログボードゲームの愛好家は世界中にいると聞く。ドイツではアナログのボードゲームが日本とは比べ物にならないほど盛んに開発され愛されていると聞く。それらの物が全てデジタルゲームに劣るなんて、そんなことがあり得るのだろうか? アナログゲームの毛嫌いは、手を伸ばせばとどく距離にある何か素晴らしい体験を、みすみす取り逃してしまっているんじゃないか……。
 と、思いはしてもどうしようもない、という状態を数年受け入れてきた。家族の興味をアナログゲームに引き戻す方法など思いつきもしなかったからだ。
 しかしそんな日々の最中、天啓が舞い込んできた。
 ある日突然、母がカードゲームを買って帰ってきたのだ。それはいわゆるTCGではなく、例えばUNOのような、ボードゲームとしてのカードゲームだった。改装セールを謳う電化製品店を見に行ったら安く売っていたから気まぐれに買ってみたらしい。そのお値段、実に700円。ビンに入ったワインよりも安い。
 そのカードゲームのタイトルは「モノポリービッド」。あの有名なボードゲームモノポリー」の名を冠しているそれに、ぼくは大きな期待を寄せた。母も似たような期待をしたから買ってきたのだろう。母がモノポリーについて知っていることは「いただきストリートみたいな物」ということだけだったから、デジタルゲーム信仰が巡り巡って早10年以上、いよいよもってそれがアナログに回帰してきたことになる。
 きっと我が家はここから少しずつ、アナログゲームの世界に惹き込まれていくのだ。2003年頃とは違ってぼくや弟は賢くなり、奥の深いゲームにも対応できるようになっている。楽しめるゲームの幅は段違いであるはずだ。年に何本も出ないデジタルのパーティゲームに飢えるだけの時代は終わるのだ。
 ……と、ぼくは期待していた。










 とりあえず、モノポリービッド(以下ビッド)のルールを説明しようと思う。
 ビッドはいわゆる競売ゲームだ。モノポリー原作にあるようなすごろく要素や、金を取ったり取られたりの要素はそこにない。
 それぞれのプレイヤーは、毎度オークションにかけられる「色のついた物件」を手持ちの金で競り落として、同じ色の物件をいくつか揃えることで自らの得点に変えていく。当然金は有限なので、可能なかぎり無駄遣いをせず、かつ他人に競り負けずに、望んだ色の物件を競り落とすことが求められる。これはそういった駆け引きのゲームである。
 ……というのが建前なのだけれど、ビッドの実態はそんな物ではなかった。
 まずは前提をいろいろと解説しようと思う。ビッドは以下のような流れでゲームを行う。

・ゲーム開始時、プレイヤー全員に5枚の手札が配られる。
・各プレイヤーが自分の手番を迎えるたびに、全プレイヤーは山札から1枚引いて手札を得る。
・プレイヤーは自分の手番にアクションカードを、持っているだけ何枚でも使うことができる。その後、金銭カードを使って全員で競りを行う。

 ……アクションカードっていうのは何のことだ? と、この説明を聞いた人は思うはずなので、それについても解説していく。
 アクションカードとは、金銭カードと違って競りには使えないが、手番に使用することで各種特殊な効果を発揮するカードである。遊戯王に例えて言えば、金銭カードはモンスター、アクションカードは魔法というわけだ。そんなアクションカードの裏面は金銭カードと見分けがつかないようにデザインされており、山札や手札には金銭カードとアクションカードを入り交じらせてゲームを行うことになる。
 アクションカードには以下の4種類がある。それぞれの効果を、俗称を交えて解説する。また、言うまでもなく全てのカードは使い捨てである。

・2ドロー
……使うと無条件で山札から2枚引けるカード。手札が増えるということは金かアクションが増えるということなので、単純に強力。

・オールマイティ
……任意の色の物件の代用品として使えるカード。同じ色の物件を決められた数揃えて初めて得点になるゲームなので、全ての色になり得るこのカードは強力。

・横取り
……他人が競り落とし済みの物件を、1つ強奪できるカード。敵の物件は減り自分の物件は増える、攻防一体の強力なカードである。

・打ち消し
……アクションカードを打ち消すカード。他人がアクションカードを使用した際、これを使うことでその効果を不発にすることができる。強力な効果揃いのアクションカードを潰せる唯一の手段なので、これもまた強力。

 ……というバラエティ豊かな面々に加えて、金銭カード1円~5円を合わせた山札や手札を用いてゲームは行われる。言うまでもなく、全てのカードは複数枚存在している。
 競りは、金銭カードを任意の枚数伏せることで行う。全プレイヤーが伏せ終えてからカードを表にして、一番大きい金額を出していた人が物件を得るのだ。競りに負けた人の金は手元に戻るが、勝った人の金はそのまま捨て場に置かれる。そのあたりは現実のオークションと同じ仕組みなので分かりやすい。
 ……ところで、金銭カードには1円~5円の計5種類のカードが存在しているわけだが、当然、その中では5円が最強のカードとして君臨している。というのも、全てのカードは間違いなく「1枚のカード」であるのに、1円カードは5円カードの五分の一のパワーしか持っていない。だからこそ5円が最強と言えるのだ。逆に言えば、5円カードは1円カードの五倍のパワーを持っているということになる。分かるだろうか? 実に五倍、「五倍」である。つまり、両方ともカードの枚数としては「1枚」なのに、実際のパワーとしては「1枚分」と「5枚分」だと言い表すことも出来る……というわけだ。だから金銭カードの中では5円が最強なのだ。
 ……そしてここで、アクションカードの解説を今一度思い出してほしい。
「横取り……他人の競り落とした物件を強奪する」
 たとえばこのアクションは、金銭1枚の最大パワーが5円なのだから、最大で5円相当の力を発揮できるカードということになる…………と思ったら大間違いである。
 実際の「横取り」のパワーはもっと大きい。なぜなら競りは、「任意の枚数」の金銭カードを伏せることで勝負するからだ。横取りのパワーは理論上青天井である。そして需要が高い色の物件が競りにかけられるほど、それを求める人はきっと大きな金額をもって、なんとしてでもそれを競り落とそうとするだろう。その「大きな金額」が、たった1枚のカードに返される可能性のある5円未満であることは考えづらい。つまり「横取り」は適切なタイミングで使用すれば、少なくとも「5円~?円」の価値を発揮することが期待できるわけだ。そして小学生でもない限り、その使用タイミングを致命的に誤ることはないだろう。
 同じ理由で、競り落とすまでもなく物件の代用品になれる「オールマイティ」も青天井のパワーを持っている。それらを打ち消せる「打ち消し」も、相対的に青天井のパワーを持っている。2ドローは、1円を2枚引く可能性があるかわりに、青天井パワーを2枚引く可能性もあるカードだということになる。
 そしてさらに思い出してほしい。ビッドにおける「手札を増やす方法」についてだ。それには2種類しかない。

・各プレイヤーの手番が回るたびに、全員が1枚を引く。
・2ドローカードを使う。

 そしてゲームは、全員に5枚の手札が配られるところから始まる。みんなに必ず5枚の手札が配られるのだ。……つまり何が言いたいのかというと、こういうケースがあり得るということになる。

・Aさんの初期手札
……1円3枚、2円1枚、3円1枚。(実質のカードパワー=8円)

Bさんの初期手札
……5円1枚、2ドロー1枚、オールマイティ2枚、横取り1枚(実質のカードパワー=約22円~?円)

 ……こんな圧倒的なパワー差を持った状態でゲームがスタートする可能性がある。数えてみたところ、最も枚数の多いカードは1円カード、次に多いカードは2円カードであったため、確率的にもあり得ない話ではない。
 そしてこうなってしまうと、Aさんに勝ち目はない。同じ5枚の手札でもパワーの差は歴然であり、その差を能動的に埋める方法は存在しないからだ。全員で均等に行う1枚ずつのドローが、Aさんにだけ強く、Bさんにだけ弱いことが繰り返されなければ、圧倒的なパワーの差は埋まらない。……はたしてそれは「駆け引き」だろうか?
 もちろん、運次第で勝負が決まるゲーム自体は悪いものじゃない。作り手が「駆け引き」を謳っていようと、運ゲーとして面白ければそれはそれでゲームとして問題ないわけだ。
 けれど、ビッドの場合はそこもまずかった。「最初に配られた手札を見て、勝ち目がないことが分かる」のはさすがにまずかった。だってそんなに盛り下がることって他にないのだ。そんなつまらない気持ちになるゲームは他にないのだ。
 ババ抜きやUNOで山のような手札を抱えたって、まだそれで負けると決まったわけじゃない。麻雀でクソみたいな配牌に当たっても、上手く降りたり役満を目指すという「道」がある。でもビッドにはそういった物が何もない。まずい手札になったら理論上必ず負けるし、それを覆すためのワンチャンスを取りに行く能動的な手段、「道」もない。ただ祈ることしか出来なくなるのだ。
 自分の手札が弱くたって、他人の手札も同じくらい弱い可能性が残っているだろ……と思う人もいるかもしれない。けれど、ビッドの山札は「共用」である。一つの山札を全てのプレイヤーで分け合って使うのだ。必然的に、自分が弱いカードを引けば引くほど、「他人が強いカードをすでに引いている確率」は増していく。それも含めて、最初の手札を見た瞬間にとことん盛り下がることがあり得るというのだ。
 あげくに、問題はそれだけには収まらない。すでに説明したように最強の金銭カードは5円だが、アクションカードは全て実質的に5円以上の価値を持っている。つまりゲーム中で最も強いカードはアクションカードだということになる。最強は「金」ではないのだ。「競売」は「金」によってのみ行われるのにも関わらずだ。これは「競売ゲーム」であるはずなのにだ。
 競売その物とは関係ないところで飛び交う、最強のアクションカードたち。競りのために金を伏せるよりも前に、あれやこれやと効果が飛び交うその光景はまさに「空中戦」だ。はたしてそれがこのゲームの正しい姿なのだろうか。駆け引きとは何なのだろうか。競売にも空中戦にもまともに参加できず、黙って指をくわえているしかないような、ただ運が悪いばかりに1円や2円を大量に抱え込んでしまったプレイヤーの気持ちはどこへ行く?
 アナログゲームから離れて早10年。大人になったぼくは、ある種当然といえば当然なのかもしれない事実に気が付いたのだった。……クソゲーは、アナログの世界にもあるのだと。全員の手番が一周する頃には運悪く1円を5枚も抱え込んでしまいボコボコに負けながら、ぼくは身をもってそれを知った。
 理不尽すぎて静かに怒り狂ったぼくが数えた、全体のカード枚数の配分は以下の通りである。

1円=14枚
2円=13枚
3円=8枚
4円=10枚
5円=5枚
2ドロー=7枚
横取り=7枚
打ち消し=7枚
オールマイティ=11枚

 計82枚のカードを組み合わせた山札をプレイヤー全員で共有して、このクソゲーは執り行われる。 











 ……けれど、純粋な運次第で発生する純粋なクソゲーに対面したぼくの心は、その時点ではまだ折れていなかった。これがデジタルゲームだったらとっくに折れていたと思うが、アナログゲームなので折れていなかった。
 アナログゲームの強みとは何か? それは簡単にアレンジルールが作れることである。プログラミングで構成された精密な玩具であるデジタルゲームとは違い、非常に自由に、非常に容易に、非常に独創的に、アナログゲームのルールは各々でアレンジすることが出来る。アレンジとはつまり、「改善」だ。だからトランプやUNOや麻雀にはローカルルールという概念がある。その概念の根付きこそが、アナログゲームの強みを表しているのだ。
 ぼくは必死に、素晴らしい改善案を自分の脳内に探し求めた。何せこれは10年越しにデジタルから回帰したアナログの遊びなのだ、きっとアナログの世界にはまだ見ぬ面白いゲームがいくつも眠っているのだ。なんとしてでもこのモノポリービッドを呼び水にしなければ、今度こそそれを完全に取り逃がしてしまう。ぼくはゲームが好きだ。だから必死だ。
 我が家にアレンジルールを導入させるために求められることのうち、最重要なのは「分かりやすく簡単なこと」だとぼくには分かっていた。ぼく以外の家族はどこまでいってもゲーマーではない。テストプレイを繰り返してより良いゲームを目指す喜びを理解しない人たちにアレンジを認めさせるには、簡単で簡潔で、一ミリも気後れを感じさせない内容でなければならない。
 それを念頭にルールのアレンジを考えた時、モノポリービッドというゲームで勃発する「空中戦」については、もはや救いがたいものと思われた。アクションカードのパワーをちょうどいい物にする方法は思いつかなかったのだ。例えば強力すぎる効果にランダム性(狙った物件を横取りできるとは限らない)とか、代償(使うには○○円払うとか)を与えてしまうと、ルールと実際の処理が複雑化の一途をたどるわりに、「弱くなりすぎた無数のアクションカード」という名のゴミが場に散乱する可能性を招いてしまう。それは1円を増やすだけの行為であり、楽しい運ゲーにも熱い駆け引きにも一向に近づくことが出来ない。
 かといってアクションカードその物をごっそり取り除いたゲームを提案しても、そんな味気ない物で遊びたいと思う人はいないだろう。ぼくもそれはさすがにどうかと思う。そうなると、改善すべきは「高すぎるパワー」ではなく「低すぎるパワー」の方であるように思えた。とにもかくにも、枚数だけは立派な手札を見てげんなりするということだけでも無くせれば、このゲームは「神ゲー」ではなくとも「そこそこ楽しめる物」として落ち着けるはずだから。そうなれば「次のアナログゲーム」もあるかもしれない。
 低すぎるパワー、つまり一番多く入っているわりに一番しょぼい1円カードの扱いをなんとかしなければならない。何度も言うけれど「全部抜く」というのはあり得ない。そんな仰々しすぎる手段は気後れを生み、また同時に2ドローのパワーを引き上げてしまうから。
 そこでぼくが思いついた案は、以下の二つだった。

・5枚以上そろった1円カードは、それを捨て場に置くことで、山札から同数のカードを引くことが出来る。
・5枚そろった1円カードを捨て場に置くことで、「反射」のアクション効果を発動する。それは打ち消されない。

 前者のルールは言うまでもなく、シンプルな救済措置そのものである。1円を5枚抱え込んでしまったとしたら、それを全て捨てることで5枚ドローできる、という風にするのだ。
 この案のいい点はなんといっても、「手札に1円が溜まっていくこと」にワクワク感が付与されることだろう。なにせ見事5枚に達した瞬間に5枚ドローが確定するのだ。「1円が5枚も抜け落ちた山札」から5枚も引けるのだ。それは当然、このルールを適用する者に計り知れないパワーを期待させるだろう。そしてその「計り知れない期待」があるからこそ、その期待が裏切られたとしても諦めがつくというものだ。元々このゲームは運要素が強いのに、「1円を引きまくる」「その後のビッグチャンスも逃す」という二大不幸にぶち当たれば、これは今日は負けるしかなかったのだろう……とうなだれることが出来る。気持ちよく、うなだれることが出来る。なぜならその不幸極まる敗北の中には、「特大の希望を追いかけた」という輝かしい体験が含まれているからだ。遊びの面白さは勝ち負けだけで決まる物じゃない、過程の中にも面白さはある。この前者の案は、それを確保するためのアレンジルールなのだ。
 一方で、後者はドッキリ感を優先している。「反射」の効果とはつまり、他人が使ったアクションカードの効果を自分の物とすること、「打ち消し」の上位互換のことを指している。「横取り」を反射すれば逆に自分が他人の物件を奪い、「2ドロー」を反射すれば自分が2枚引き、「オールマイティ」を反射すればそれを自分の物とすることが出来て、「打ち消し」に対しては同じく「打ち消し」として働く。5枚も溜まってしまった1円カードを、そんな最強の一撃必殺カードに変換することが出来る……というアグレッシブなルールが後者の案である。
 せっかくの満を持しての必殺技を「打ち消し」1枚で台無しにされてはアレンジの意味がないので「反射は打ち消せない」の注意書きも入れるとして、これはこれで悪くない案だろう。前者の案に似て「巨大なパワーへの期待」が生まれる上に、他人の利益を打ち消しながら自分の利益にするという性質上、前者よりも「してやったり感」が出ることになる。対人戦のゲームとしてそれは魅力的な物だと言えるだろうし、気持ちだけでも「駆け引き」らしくなることは、本来あるべきだった趣旨に沿っているようで非常に綺麗なルールであるように思える。
 ただ後者の問題としては、説明が若干ややこしいことがある。「横取り」に対して打つ例はともかく、それ以外のアクションカードに対して使った場合の「反射」という言葉は的確ではないだろう。しかしそれ以上に的確な言葉はぼくには思いつかず、その微妙な違和感が、家族への解説を邪魔してしまう可能性は十分にある。というか、うちの家族なら「なんで反射は打ち消せないのさ。他のカードは全て打ち消せるのに」なんてことを言い出しかねない。そのくらいちょっと考えたら分かるだろうがボケ、という言葉を飲み込む自分の姿が容易に想像できる。
 ということで、まずは前者だ。ゲームバランス的にはたして本当に「5枚になったら交換」で合っているのかは分からないが、とにかくまずはそのルールを搭載してみなければ始まらない。要求枚数が多すぎるかもしれないし、1円を強くした結果2円がカスになるかもしれないけれど、そんな問題はすぐに対処できることだ(枚数調整や、2円もアレンジに巻き込むことは容易)。細かい調整よりもまずは「1円をオンリーワンの存在にすること」、そして「もしかしてそっちの方が面白いのでは?」と気付かせること、それが何より先決だ。
 だからぼくは遊び終えたモノポリービッドを片付けながら、家族に向かって提案してみた。
「このゲームは、1円を引きすぎるとゲームにならん。どげんかせんといかん。ってことで、1円が5枚手札に来たら、それを全部捨てて新しい5枚と交換できるってことにするのはどう?」
 答えたのは父だった。
「は? なに言うてんねん、そんなこと言い出したら運絡みのゲームなんも出来んやろ。時の運は時の運なんだよ」
 ……その言葉を聞いた時、ぼくは父がどういった人間なのかということを改めて、今さら改めて思い出した。
 何かに対して不愉快だと思うことは常日頃から多々あるけれども、カチンと来たというか、プツンと切れる感覚があったというか、この手の「人の発言」に対して「思想に対する殺意」みたいな物を感じたのはそれが久しぶり、または初めてだった。
 ちゃぶ台をひっくり返すように手元のカードをぶちまけたくなる衝動を抑えつつ、ぼくは家族と遊んできたゲームのことを、父と遊んできたゲームのことを一瞬にして振り返った。










 家族で麻雀をして遊ぶことがよくある。そんな環境の中で父は、四風連打のルールは知っていても、九種九牌のルールは知らない人だった。知らないだけなら仕方がないけれど、父は最悪なことに、九種九牌の存在を教えられてもそれを頑なに認めない人だった。
 麻雀を知らない人にも分かるようにざっくり説明すると、九種九牌とは、さっきぼくが挙げたアレンジルールのような「ひどい始まり方への救済措置」のルールである。そしてそれはもちろんアレンジルールなどではなく、れっきとした麻雀の公式ルールである。
 一方で四風連打とは、これも救済措置に近い公式ルールだが、九種九牌に比べればゲーム性的な重要度はさほどでもない。いわく縁起的な意味合いに近いルールらしいけれど、まぁそんなことはどうでもいい。大切なのは、「まともなゲーム性の確保を意識した場合」、「九種九牌の存在を否定する理由なんて何一つない」ということだ。知らないならまだしも、否定するというのは、より良いゲーム性へ向かうことの拒否と同義になる。
 九種九牌は否定するが四風連打は肯定する……父の中にあるそんな奇怪な思想の由来として考えられるものは一つしかない。父は「ルールはルールだから」で納得できるタイプのシンプルな性格をした人であり、父にとって「すでに知っていたルール」こそが「ルール」であり、それ以外の物はそうでないという認識になっている……という説しか考えられない。ルールが何のためにあるのか、なんてことは考えないタイプなのだ、父は。
 次に、少し話題は変わって「桃鉄」で遊んでいた時のこと。それは家族で100年プレイ(約40時間プレイ)に挑むという企画を実施していた時のことだ。年数が進むごとにイカれた性能の偉人が現れ始め、さすがにそれをされると「勝ち負け」以前に「楽しくない」という感覚を呼んでしまう無茶苦茶な展開が起こり始めたので、ぼくはそれ(プレイヤーではなくゲーム性そのもの)に苦言を呈したことがあった。システム側で勝負を拮抗させろとは言わないけど、もうちょっと遊んでる人たちがちゃんと楽しめるようにするべきだよなぁ……と。それに対する父の返事は概ね以下の通りだった。
「いいじゃん、いろいろあった方が面白くて」
 ……また別ゲームに話題を変えると、いたストで遊んでいる時もそうだった。初周のカード運やサイコロ運が極まりすぎて、序盤から終盤まで一貫して一方的なゲームが繰り広げられた際、さすがにこれはつまらない、いたストは昔からこんな感じのゲーム展開を許してしまう仕様になっていたけど、それでもう30周年か……ついに改善されやしないっていうのか……とぼくが嘆いていると、その時まさに一人勝ちしていた父は言った。
「俺はこういうの好きだけどな。面白いじゃん」
 勝つことが面白いという気持ちは否定しないけれど、とにかく父は「この試合が楽しいかどうか」しか考えていなくて、ゲーム性そのものが「楽しい試合を量産できる物になっているか、つまらない試合を極力減らせる物になっているか」ということにはまるで興味がないことは明らかだった。興味がないというか、そんな物の考え方をしたこともないのだろう。
 一方で、父の立派なところは、いざ自分がその理不尽なゲーム性によって最初から最後までなすすべもなくボコボコに敗北させられた時、それについて一切文句を言わないというところにある。今回は運が悪かったな、の一言で済ませてしまうのだ。たとえそれが一時間二時間の長期戦だったとしてもである。その感覚こそが「ゲーム性の良し悪しに目を向けない」という姿勢を生みだす諸悪の根源なのだろうけど、それはそれとして発言や振る舞いに一貫性があることは立派だと思う。
 でも、ぼくは父のそういうところが嫌いだ。ぼくは「楽しいゲーム」が欲しい。「楽しい試合」がしたいのではない、「楽しいゲーム」が欲しいのだ。高確率で楽しくなるゲームで遊んでみたところ、実際には楽しくない試合が繰り広げられた……という場合なら納得できるという話だ。麻雀で裏目ばかり引き続けて負けたからといって、麻雀というゲームの完成度は疑いようがない。そういうゲームがしたいのだ。だから「その場の楽しさ」だけで全てを語る父とは気が合わない。自分が苦しむ可能性を受け入れることと引き換えに、他人が苦しむ可能性を許容してしまうような思想には、反吐が出る。そんな「自助の世界」のような思想は嫌いだ。それは父のような強い人の理屈だから、ゲームでマジギレしてしまうほど感情を揺さぶられない強い人の理屈だから、ぼくにはまったく同意できない。ゲームという物にはもっと、「納得のいく負け方」が必要なのだ。
 そんな風に、ずっと前から父とは何度も意見が衝突していたのだけれど、それが決定的な結果を、つまり喧嘩を引き起こすということは今までなかった。なぜなら思想がどうあれ、デジタルゲームを遊ぶなら、与えられたルールの中で遊ぶしかないからだ。デジタルゲームのルールアレンジの幅はアナログに比べれば著しく狭く、気に入ろうと気に入らなかろうと、選択肢はほとんど「遊ぶか、遊ばないか」の二択しかない。そして世の中に出回っている「ある程度の質を持ったデジタルパーティゲーム」には数がない。遊ばないという選択肢を取れるほど、デジタルパーティゲーマーの世界は潤沢ではないのだ。だから「結局は遊ぶ」という結論でぼくも父も一致しており、喧嘩が起こることはなかった。
 しかしそこで、モノポリービッドだ。アレンジが容易なアナログゲームクソゲーだ。デジタルにあった一線がそこにはない。話はすでに「どう思うか」ではなく「どうするか」になっている。「遊ぶ、遊ばない」以外にも「アレンジする、しない」の選択肢が生まれている。思想が違えば結論も変わるようになってしまっている。そうなることを、もう10年もまともにボードゲームに触れていなかったぼくは予想出来ていなかった。
 父は「時の運は時の運だ」と言った。それは場面によっては正しい言葉だ。ぼくだって坊主めくりのようなゲームを否定しているわけじゃない。あれはあれで運ゲーとして、ジャンクフード的な良さがある。トランプもUNOもそうだ、運が勝負のほとんどを決めるゲームだって「そのつもり」で遊べば楽しい。でもモノポリービッドは違う。あれは「そのつもり」になった上でなお、始まった瞬間に深刻にげんなりする可能性があるゲームだ。「時の運」という言葉で済ませていいラインを明らかに超えている。
 そんなことは、実際にプレイした人なら、我が家の人間なら分かるはずなのだ。1円カードは「何らかの役に立つケース」の方が少ないって、もうみんな実感しているはずだ。アクションカードが強力すぎると実感しているはずだ。他の運ゲーと比べてゲーム性に致命的な欠陥があることが、二度三度と遊んだ我が家の人間になら分かるはずなんだ。けれど実際に出てきた言葉は「時の運は時の運だ」だった。
 ぼくはそれが許せなかった。
「そんなことを言う奴と二度とやるか、ボケが」
 そんな言葉が喉まで上ってきていた。










 喉で止まった暴言とは、ツバのような物である。吐き出すのも飲み込むのも自分の意思で決められる。そして吐き出すことは、正しい正しくない以前に「下品」なことだ。……それを分かった上でぼくは考えた、吐き出してしまうべきかどうかを。
 口に出してしまえば百パーセント喧嘩になるだろう。特に「ボケ」という語尾がそうさせるだろう。けれどぼくは別に「もうあなたとは遊びません」という意思を伝えたいわけではないのだ。意思疎通がしたいのではなく、怒りをぶつけたいのである。だから「ボケが」は必須だった。しかし、では「怒りをぶつけられる」というリターンに対して、「喧嘩」というリスクの方はどの程度重いのだろう?
 喧嘩を始めれば、まぁまず「次のアナログゲームを遊ぶ機会」は「消滅」するだろう。ちょっとした気まぐれでデジタルの世界から抜け出してアナログに手を伸ばしてみればこれだ……と母は思うだろうから、きっとそうなる。それどころかもしかすると、完全崩壊とまではいかなくとも、「週末は家族で集まってゲームをする」という習慣自体が一時的に停止してしまう可能性も十分にある。それはなかなか重いリスクだ。元々我が家は「直近には何の心配もない円満極まる家族」……というわけでもないのだから、案外一つの綻びが雪崩を呼ぶかもしれない。すでに言ったように、我が家の素晴らしい習慣ってやつは、デジタルゲームの素晴らしさによって支えられてきたと言っても過言ではない程度には、決して完全無欠の強度を誇るものではないのだから。
 家族がみんなで仲良く遊んでいられるような余裕がなくなることなんて、わざわざ引き起こさなくてもきっとそのうち勝手にやってくるだろう。それをあえて「今」引き起こすことになるかもしれないリスクを、保留されていたあらゆる問題の雪崩を呼びかねないリスクを、怒りを伝えるためだけに受け入れるべきなのか? ……さすがに否だった。ぼくはぐっと暴言を飲み込んだ。
 そうすると、これからの自分が取るべき行動の方針はシンプルだ。ただひたすらに、モノポリービッドのプレイを拒否し続けること。俺は別のゲームがしたいと主張し続けること、それしかない。そうすることで全ては避けきれなくても、ある程度は避けられる。マリオパーティの発売も近い、話題はすぐにそちらに移るだろう。しかもぼくがキレなかった甲斐あって、そして父がぼくと真逆の思想と精神をしているおかげで、モノポリービッドがアナログゲームの呼び水となる可能性もゼロよりは大きく残せる。無難な収まりどころだ、やはりそっちの選択の方が正しいように思う。
 ……ただ、こんな作文を書くくらいだから、ぼくの怒りが未だ冷めやらないこともまた明らかではある。そしてぼくの「モノポリービッドについてのストレス発散」はこれが初めてではない。ここでしたことと全く同じようにルールを解説して、問題点を取り上げて、改善案を提示して、父の言葉とその背景をぼくに見える限りの範囲で説明して、友達にこの件についての「愚痴」を言ったことがある。今LINEを確認してみたところ、その愚痴を言ってから今日までで、もうすぐ二週間が経過しようとしているらしかった。
 二週間経っても怒りが冷めやらない。友達に愚痴っても、作文として書いてみてもまだ冷めない。許せない。「より良いゲーム」を目指そうともしない人間のことが許せない。そういう発想がないとか、やろうとしても出来ないなら仕方ないけれど、発想はぼくから聞き、具体的な案も一応は聞いておいて、それを試しもせずに「興味ない」とばかりに一蹴する人間のことは許せない。目の前に転がっている改善点に着手することがそんなに難しいかよ、仕事でもあるまいし、余分に時間を持っていかれるわけでもあるまいしすごく疲れるわけでもあるまいし、ただ遊び程度のことを、遊びの中で遊びのノリで改善しようっていうのが、そんなに難しいことなのかよ。そう思う。本当に許せない。
 我が家の雪崩を構成する材料が、一つ増えたように感じた。

はにとー学園に登場するネーミングの由来

 https://syosetu.org/novel/267778/
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 こういう小説(ほぼSS)を書いてます。一話完結で面白いので読んでみてください。
 今回は上記の小説内に登場する人物や発明品のネーミング由来について書き連ねていきます。





☆登場人物の名前について
……会話文だけの小説を書こうと思った時に、真っ先に気にかけたことがありました。それは「自分の実力では、話し方や発言内容だけで三人ものキャラを書き分けることは出来ないだろう」ということ。誰がその台詞を喋っているのか分かりやすくする必要があると、書き始める前から思いました。
 そこで初めに、発言主を明確にするための、名前の頭文字をカギカッコの前に付ける作戦を思いつきます。そしてその作戦を効果的に実行するためには、頭文字の雰囲気が紛らわしい名前は避けるべきだと考えました。例えば「川村(川)」と「水野(水)」なんかは好ましくないわけです。
 そういうわけで、出来るだけ文字のイメージや音の響きがバラけるように名前を考えたんですけど……。いざ頭文字を付けてみると「死ぬほど見づらっ!?」となったので、その作戦は中止になりました。

・巫女野こみみ
……頭文字「巫」になる予定だった人。担当する名前の雰囲気は「人」。
 趣味として、何にせよまずは「巫女」と名のつくキャラクターを作りたかった。オタクキャラにする予定だったので、こみみという名前はかつてニコニコで活動していたゲーム実況者「こみみ」を由来に決定している。
 数いる実況者の中からこみみをチョイスした理由は「巫女野(ミコノ)」との音の相性が良く、人名として適度に奇抜で覚えやすそうだったから。ただでさえ誰が喋っているのか分かりにくくなりそうな作品なので、名前の覚えやすさはとても重要。

・笹良そよ
……頭文字「笹」になる予定だった人。担当する名前の雰囲気は「植物」。
 名前の雰囲気を散らすために植物系の文字を使おうと決めた際、のほほんとした強キャラにする予定だったので、動物で言えばパンダがその特徴に近いかなと考えて「笹」を選択する。その後、笹の葉はよく風に揺られているイメージがあったので「そよそよ(擬音)」から取って笹良そよ。

・雛里あずさ
……頭文字「雛」になる予定だった人。担当する名前の雰囲気は「鳥」。
 とんでも設定(超技術&不死)は先の二人でお腹いっぱいなので、三人目はシンプルな強キャラにしようとしたところ、そのまんまシンプルに強そうな名前にすると可愛くなかったので、むしろギャップを狙って弱そうな名前を付けようと思い「雛」が選ばれる。
 あずさの由来は「あずにゃん」で、なぜそれを選んだのかといえば、(オタクにとっては)ただひたすらに覚えやすいだろうから。また、語尾の母音が三人でばらけて覚えやすくなるように配慮した。(こみみ(い)、そよ(お)、あずさ(あ))

・咲子
……一応記載。鎌を持って追いかけてくる……という噂もある口裂け女だから「裂く子」で咲子。怪異の類に本名的な物はなく、この名前は本人が適当に考えた偽名。



☆発明品の名前について
・「オート・ライフアーム」
……泳力を付与する腕型のアイテムなので、溺れた人を助ける「ライフセーバー」と「アーム」でライフアーム。自動で動くから「オート」も付けておいた。隠し機能の名前「モード・ジェノサイド(殺戮形態)」からは、こみみが本音としてはあまりビームの威力を落としたくなかったことが伺える。実際あまり落ちていなかった。

・暗器「卍」
……メインの由来は当然暗記パンだが、他にもいくつか元ネタがある。
 ばんっ、と発声することで発動する銃の能力としてはチェンソーマンのマキマ(銃の悪魔)。当て字に「卍」を使った理由としてはBLEACH卍解がある。こみみは少年漫画が好き。

・厄災兵器パンドラスイッチ
……名前だけ登場したアイテム。元ネタはドラえもんの独裁スイッチ。効果もたぶん似たような物。

・万能治療薬ハイオク
……欠点がそのまま名前の由来になっているアイテム。「スーパーハイオクMAXチャージ」という炭酸ジュースが実在することや、「ガソリンの味」で有名なコピペの存在から、オタクなこみみが作った物のネーミングとしてかなり適任だと思われる。オタクはマイナーな物とコピペが好き。

・シリアルエイト
……性癖を歪ませる食品。現状一番捻ったネーミングのアイテム。
 はにとー学園における「シリアルキラー」といえば「隣人」なので、身近な人間をやべーやつにするアイテムという意味で「シリアル」を、昨今の二次創作によってショタコンのエッチな高身長お姉さんと化した八尺様から、性癖を歪ませるという意味で「エイト」を拝借している。
 あのタイミングであの相手にしれっとそんなネタを忍ばせるようなことを、こみみは結構平気な顔をしてやる。

・即決彼氏ロボ、両極端次郎くん
……優柔不断とは無縁な、なんでも即決してくれる彼氏を模したロボ。背中の箱と腰の刀は標準装備。
 名前の由来は当然、日本のアニメ映画興行収入ランキングを更新したあれの主人公。さらに「次郎」の部分は、この発明品が「頭に取り付ける形の装置」から着想して人型に至った物であるため、取り付け型を一郎、人型を次郎という扱いにしていることが由来。なおかつ二郎ではなく次郎なのは、ラーメンを連想しないようにするための措置である。

・クォーツァー
……懐中時計の形をした自動高速お化粧アイテム。欠点はクソうるさいこと。
 名前の由来は、時計型アイテムを使って変身する仮面ライダージオウのOP曲「Over “Quartzer」から。もっと言えば、ぼくの母親が出かける前に「ちょっと変身してくる」と言って洗面台の前に立った現実のエピソードが発想元。
 変身待機音として第九が鳴るネタに関しては、仮面ライダービルドの敵(ラスボス)が使うエボルドライバーが元ネタ。

・バカと煙は明星へ登る(ギャグウェ〜イ)
……被った人に面白いギャグ(ただしパクリ)を言わせる仮面。目元が怪しげに光っている。
 名前の由来はメイドインアビスという漫画に登場する、怪光線を照射する仮面「明星へ登る(ギャングウェイ)」から。ちなみに、ギャングウェイ使用者のアニメ化時の声優は森川智之である。

・噺手(アングラハンズ)
……ギャグウェ〜イを被った人に授ける強化アイテム。ネタの幅が拡がるもののパクリの域からは一向に脱出できない。
 名前の由来は同じくメイドインアビスに登場する、「祈手(アンブラハンズ)」というキャラクター群から。言うまでもないかもしれないが、祈手とパペットマペットには何の関連もない。

・その他のアイテム
……存在は明かされているが、名前は明かされていないアイテムがいくつかある。「巨大ロボ」「異次元空間」「ラベルが上に来る酒瓶」「巨乳化の薬」「銃と大砲(カメラ)」がそれに当たる。ぶっちゃけ名前なんか考えてないけど、もしかしたらそのうち名前付きで再登場するかもしれない。



 ……あとは本編に追加される物が出てきたら、機を見て追記していこうと思います。

オーバークック2・ハーフライン

 教育的な理由で、親からクレヨンしんちゃんの視聴を規制されている友人がいる。律儀に言いつけを守り続けた彼女はついに成人したけれど、彼女の受けた視聴規制が、教育的な意味合いで上手くいったとは思えない。
 なぜなら、クレヨンしんちゃんを見たことのない彼女は、小学生時代に血みどろの拷問シーンに溢れかえる「ひぐらしのなく頃に」をがっつり視聴していたからだ。アニメ、漫画、ノベルゲーム、全て網羅していた。
 まだ小学生だった頃の彼女がなぜそれを見始めたのか? というと、それは彼女のクラスメイトが「ひぐらしのなく頃に……って知ってる?」と突然勧めてきたせいだった。そのクラスメイトとはぼくのことだった。
 親子といえども、あるいは兄弟といえども、他人は他人である。そして他人への影響とは、本人以外には見えないところからやってくるものだ。……弟がいつの間にかVtuberオタクになっていた時、ぼくは小学生時代のひぐらしの件を思い出していた。それまで弟とVtuberの話をしたことなんて一度もなかったけれど、彼は高校の同級生から影響を受けたらしい。何にしても同じ穴のムジナだったということか……。
 しかしまぁ、だから完全な偶然によって、あるいは運命によって、ぼくと弟は二人ともVtuberのオーバークック実況を見て「このゲームで遊んでみたい!」と思うようになったのだった。
 そして、大雨の続くお盆休みのこと。オーバークック2(ダウンロード版)の半額セールを目撃した父が、コロナのせいでロクな使い道のない娯楽費をそこに注ぎ込んでくれた。半額につき約1400円という破格での購入だ。
 退屈に嫌気がさした父が「そういえば、子どもが何かゲームのタイトルを言っていたな」と思い出してオーバークックの値段を確認した時、半額セールはすでに終了三日前のカウントダウン状態だった。即決の購入を経て、「全てが運命的だ」とぼくは思った。






 実際に遊んでみた念願のオーバークック2の感想としては、「思ってたよりシビア」「しかし楽しい」「そしてゲームの出来がめちゃくちゃいい」の三つがある。
 まずゲーム性のシビアさについて。ぼくは実際に触れてみるまで、オーバークックの難易度を完全にナメていた。4人でわちゃわちゃしながら料理を作るゲームなんて、せいぜいマリオパーティミニゲームが複雑になった程度の物だろうとたかをくくっていた。しかし実際のそれは「複雑になった」どころの騒ぎじゃあなかった。超・複雑になっていた。
 指定された材料で料理を作るゲームならSwitchのマリオパーティにもあったけれど、しかし言われてみれば、そこには順序がなかった。トマト一つ、レタス二つを持ってこいと言われれば、順番はさておきとにかく指定通りの三つを自分陣地へ持って行けばいい……という、そういうゲームだった。
 しかしオーバークックは違う。オーバークックには「調理」がある。例えば肉を使う時、そこには「取り出す→切る→焼く」の手順がある。焼いてから切ったりすることは出来ない。そしてこれらの手順に、さらに「混ぜる」だとか「皿に乗せる・皿を洗う」だとか「使った調理器具を元の場所に戻す」だとか「火の面倒を見る」だとか、様々な要素が組み合わさってくる。その複雑さたるや、マリオパーティミニゲームドンジャラなら、オーバークックは麻雀だろうといった具合だ。
 何はともあれとりあえずやっておけばいい作業……という物は、オーバークックには存在しない。何事にも順序と、やるべきタイミングがある。そういう意味で、それは思っていたよりも遥かにシビアなゲーム性をしていた。思考停止で出来る物ではない。マリオパーティは酒を飲みながらでも出来るけれど、オーバークックは無理だ。
 また、オーバークックというゲームは時間との戦いでもあった。大抵のゲームはそうだろう……と思うかもしれないけれど、度合いが全然違う。今まで色々なゲームに触れてきたけれど、客の列を前にして怒号の飛び交う昼時の丸亀製麺を思い出したゲームはオーバークックが初めてだった。人生で初めて、ぼさっとしている人間が視界に入るとカチンとくる感覚を理解した。
 そのレベルで忙しい、忙しない、余裕がない。他人に「ぼさっとするな!」と言ってもいいのは、「〇〇をしろ!」と指示を出せる人間だけだ……という意識と、実際に指示を出すところまでは自分の脳みそが追いつかない歯がゆさを、社会に出なくても体感できるゲーム。それがオーバークックだった。
 そしてそんなオーバークックが、間違いなく楽しかった。その事実からは何か学ぶべきことがあるような気もした。「楽しい職場」という形容の意味合いをポジティブにするかネガティブにするかの違いはどこにあるのだろう……と思いを馳せたりした。オーバークックは楽しい「楽しい職場」だ。職場が楽しいのではなく、「「職場」という概念の楽しいバージョン」だ。
 楽しさの理由は、一番は試行錯誤にあると感じた。何をどうすればノルマに届くのか? ということを考える楽しさは、RPGやカードゲームの「編成・構築」段階の楽しさに似ている。忙しすぎるゲームがちゃんと楽しいのは、試行錯誤(失敗を踏まえた再挑戦)が楽しさの本題としてあることで、プレイヤー間でそれなりに「失敗」が許容されるおかげだろう。これが「一度失敗したら最初のステージからやり直し」とかだったら普通に投げだすところだった。ゲームが不親切な時代はぼくが生まれてくる前に終わってくれていてよかった。
 そして最後に感想の三つめ、ゲーム自体の出来の良さについて。これについては感想というより日記形式の話にした方が話が伝わりやすい気がするので、そのようにしようと思う。印象に残ったステージ・楽しかったステージの体験をありのままの感情で語っていけば、大体のニュアンスが伝わるはずだ。

 ※以下、オーバークック2本編の深刻なネタバレを含みます。オーバークックにストーリーらしいストーリーはないけれど、それでも間違いなく「初見の楽しさ」が貴重になるゲームです。4人協力型ゲームという、野良での協力を楽しめる人以外にとっては人脈的なハードルが高いゲームだけれども、遊べる見込みがある人は、ちゃんと自分で初見を味わった方が間違いなく得です。注意してください。
















 オーバークック2の印象に残ったステージ特集。
・1-4 寿司とベルコンと私
……例えばマリオパーティで料理を作るミニゲームが始まったとして、巻き寿司を作れ!と言われたら、大抵の人は「米」についてどう考えるだろうか? まず先に海苔を敷いて、その上に米を盛り付けて、それから具を入れて巻かなければ……と考えるかもしれない。
 しかしオーバークックにおいて、米は「炊く」ところから始まる。これが初見時「えっ!? 炊くの!?」と声に出てしまうくらい衝撃的だった。甘やかされ続けた平成2ケタ台生まれのゲーマーは、お料理ミニゲームなら当然炊飯器から炊けた米が出てくるだろうと思っていたのである。家の手伝いとして毎日米を炊いていたのだとしてもだ。
 そして1-4ステージには米炊きだけではなく、細い道に敷かれたベルコンという試練もあった。四角いステージに壁伝いで引かれた細い道に、時計回りの方向で流れるベルコンが敷いてある。そして米を炊くための窯と、出来上がった料理を出品するための窓口は真向かいにある。しかも細い上に物理的な流れのある道に対して、プレイヤーは4人もいる。当然、ちょっとの油断で大混雑が起こる。そしてこのゲームでの混雑とは、時間との戦い……もしくは火との戦いに、致命傷を与えかねないものになる。
 というのも、なんと信じられないことにこのゲーム、オーバークックというお料理ゲームは、火を使う器具を放置しておくと発火し始める仕様になっている。発火して、次々と燃え移り、キッチンが大火事になる。料理どころではなくなり消火器(マジでゲーム内に常備されている)を求めることになるが、そうなってしまうとまず満足な成績は得られないので、その回はリセット必至となる。そのくらい火の管理は重要なのだ。米が炊けたならば、その米が発火しないように火を止めに(というか炊けた米を盛り付けに)行かなければならない。混雑する狭いベルコンロードを抜けて、それをしなければならない。
「火を使ってる時はその場から離れるな!!!!」
 そんな小学生のお料理教室みたいな怒号が実際にプレイヤーの口から飛びだすゲームは、たぶんこの世に二つとないだろう。自分の口から一生無縁だと思っていたセリフが思わず飛び出た時、オーバークック2を遊べて本当によかったと思った。
 ちなみにオーバークックの真実としては、プレイヤーたちがゲームに慣れてくると火からガンガン目を離すようになる。「発火寸前」と「発火から最も遠い段階」は、「発火しない」という点において同じだから。



・1-6 今にも落ちて来そうな気球の上で
……常にキッチンを舞台とするオーバークックにおいて、しかしそのキッチンが常に陸にあるとは限らない。黒足のサンジが海の上にレストランを開くというのなら、オーバークックのシェフたちは空の上にキッチンを持つのだ。気球の上でサラダやパスタを作る。たとえ強風に流されて、足場や調理器具の位置が変わるのだとしても。
 ……と、そういう気球と風のステージは、実は1-5までの間にすでに体験していた。だから同じく気球の上が舞台となる1-6ステージを開始した時のぼくは、もう慣れたような物だからさほど苦戦はしないだろうとたかをくくっていた。……異変に気付いたのは「床の火」を見た時になってからだった。
 前述したように、油断すると調理器具は発火する。しかし床は燃えないはずである。どれだけ悲惨な大火事が起こったとしても、消火器を取りに走るための床は無傷であるはずなのだ。しかし1-6においてはむしろ、調理器具は一切発火していないのに、床に火がついた。火がついた場所は当然通ることができない。火によってステージ端に閉じ込められたぼくは慌てふためきながらも、まずは発火の原因を特定しようとした。するとどうやら、気球を飛ばすためのバーナー……つまり完全な「背景」から、火の粉が飛び出して床に着弾しているらしきことを目撃した。そしてそれとほぼ同じタイミングで、その火は調理器具の火災とは違い「時間経過で自然消火」されることにも気が付いた。
 つまり床の火は、「ステージギミック」の一環だったのだ。……なぜ? と思う。今までだって気球の上で料理をしていたのに、なぜ今になって初めてバーナーの火が床に来る? どうして急に? ……と、そんな疑問を原動力にさらに注意深く周囲を見渡してみると、それでようやく全ての理解に至った。
 背景を、キッチンの外側をよく見てみると、限りなく黒に近いグレー色の雲の中に、自分たちの乗っている気球があった。前ステージまでは青い空と白い雲があったのに、明らかに物騒な空模様の中に自分たちはいる。……というかさらによく見てみると、どうやらこの気球は落下している! 料理に集中しすぎて気付かなかったけれど、このステージは「落下する気球の上でクッキング!」というイカれた、それでいてアツい展開のステージだったのだ! 事故現場でそのまま手術を始める展開の医療ドラマくらいアツい。
 この世界観で気球が落ちるとなれば、火の粉くらい床に引火していても違和感はない。そういうことであらゆる意味での納得を得て、ぼくは調理作業へと戻った。野菜を切ってひたすらサラダを作る。レタス、トマト、キュウリ、注文によってそれらの組み合わせはその都度変わるけれど、どうやらレタスだけは常に需要があるようなのでレタスを中心に刻みまくる。刻み、盛り付け、窓口に出品する。ただひたすらに……。
 …………するとある時、気球が落ちた。
 文字通りの意味で、マジで落ちた。カメラが突然「引き」になって、灰色の雲の中へと落下して消えていくバルーンが映された。やがて「ドシーン!!」という衝突音が聞こえてくる。……プレイヤーは全員、ひたすら唖然となった。
 何が起こった? 死んだ? もしかして何か中間ノルマ的な物があって、それを達成できなかったから落ちて死んだ……? 中間ノルマの存在にまったく気付けなかった、というかそんな表示あったか……!? と頭の中は大パニックを起こす。さながら走馬灯のようだ。……がしかし、仮にその仮説通りにステージを失敗したのだとしたら、それにしては終了の合図が鳴らなかった。画面右下の制限時間を表示するタイマーだってまだ動いている。何かがおかしい。
 混乱する頭の中のもやが晴れていくみたいに、画面の中では雲が、あるいは白煙が、徐々に晴れていった。すると……。

「大輔、あれを見てみろ!」
「ええええええええええええええ!?!?!?!?」

 なんとそこには、落下した先で料理を続けるシェフたちの姿が!!!!
 全員生きていて、落下先は新たなキッチンで、しれっと第二ウェーブが始まっていた。ステージの形は気球にいた時とは大きく変化して、なんか回転寿司みたいなレーンの上を海苔と米が流れているし、ていうかいつの間にか料理の注文が全部寿司に変わっている。……そう、つまり気球の落下は「舞台チェンジ」に過ぎなかったのだ! ゲームはまだ続いている! このステージは二部構成だったのだ!
 ぼくはこのステージ1-6を初見で体験した時、本当に本当に感動した。まさかこんな二頭身のかわいらしいミニゲーム集的なゲームから、心を震わせるほどの感動を与えてもらえるとは思っていなかった。ありったけの臨場感、混乱の先にある高揚……! これはものすごいゲームに触れてしまった、この素晴らしさは絶対に世に広めなければならない。そう思った。
 気球が落ちた時、集中しきった作業の最中に起こったあまりの出来事に「うおおおおおおおお!?!?」と思わず口に出して叫んだぼくは、中学生の頃に初めて乗ったディズニーシーのセンターオブジアースのことを思い出していた。それこそ走馬燈のようだけれど、確かにそれを思い出していた。あのジェットコースターはコースの後半に、ひたすら暗闇の中を進むパートがある。加速のGを受けながら「どこへ行くんだ……?」と思うばかりの時間がある。そしてある時フッと火山の頂上から飛び出して落ちていくのだ。ぼくの場合、しかもそれに乗ったのは日が沈んだ時間帯、夜のことだった。
 その時の、暗闇から飛び出した時の衝撃は忘れない。暗闇が晴れて唐突に目に入る景色、パーク全体が見下ろせるような、見渡す限りのその景色は夜景だった。遊園地の中でしかあり得ないような、普通では見られないファンタジックで唯一無二の夜景が、見渡す限り一面に広がって見えて、「おお!」と思ったその瞬間、とてつもないGと浮遊感を伴って落下する。ものすごい速度で落ちる。夜景は一瞬にして過去の物になる。その時もぼくは思わず「うおおおおおおおおお!?!?」と叫んだ。その一連の体験の中には、間違いなく他のどこでも得られない感動があった。
 ……他のどこでも得られない感動だと思っていた。けれどオーバークックの気球が落ちた時、ぼくは確かにあの時に似た感動に襲われたのだ。そりゃあ初めて乗るセンターオブジアースに比べれば十分の一かそれよりも小さい感動だったかもしれないけれど、けれどそれでも間違いなく「同種の感動」ではあった。素晴らしいゲームに触れたと思った。家で画面に向かいながら、まさかその類の感動を得られる日が来るとは思わなかったから。
 この体験をしてからしばらくの間、ぼくはオーバークックの信者になった。100点満点で言えば300点のゲームだと豪語していた。実際、冗談抜きに信じられないくらい出来の良いゲームではある。そうでなければこんな感動はあり得ないのだから。



・3-1 ハリーポッターとピッツァと意思
……ステージは六つでひとくくりなので、1-1から2-6までをクリアして12個の修羅場を超えてきたプレイヤーたちは、すっかり「料理だけを作る機械」としての自分を手に入れていた。そんな中で登場するこの3-1、魔法学校らしき場所のキッチンを舞台にピザを作るステージは、ものすごく印象深い上に、ゲーム全体を通して見ても一二を争うくらい面白いステージだった。
 ステージ開始時、4人のシェフたちは2:2に分かれて隔離されることになる。左側の二人は材料があるだけの狭い空間、右側の二人は材料はもちろん出品窓口やピザ窯もある広い空間に配置されてスタートする。そしてそれぞれのグループは作業を分担しつつ、「お互いを隔てる障害物」という名の「三つのまな板」を介して協力していくのだ。
 つまり4人いる各々が必要な食材を持ち寄り、三つしかないまな板を駆使しながら調理を進めて、広い側の二人に加熱と出品を任せることになる。……が、それだけではもちろんつまらないので、このステージにはさらなるギミックが施されている。それは両グループを隔てているまな板が、魔法の力によってゲーム中何度も移動することだ。ただし移動のパターンは二つしかない。ゲーム開始時とは逆に左側を広く、右側を狭くする形でやはり各々を隔離するパターンと、それを元通り初期状態に戻すパターン。それが交互に行われる。
 しかし、このステージの肝はそのギミックにはなかった。最も重要なのは「まな板が三つしかないこと」、そして注文されるピザは必ず「生地、トマト、チーズの三つ」で構成されていることだった。まな板が三つ、用意するべき材料も三つ。これが肝だ。
 つまり、まな板の上に「同じ材料」が乗っているととんでもなく邪魔になるのである。生地、トマト、チーズ……とそれぞれ別の物が乗っていればそれを組み合わせて、出来上がった生のピザを窯がある側の人へ渡して焼いてもらえばいいだけの話になる。しかし例えばそこで生地、トマト、トマト……という風に乗っていたりすると、まな板の上にトマトが一つ余ることになる。シェフは4人もいるのに、隔離されたチームがやり取り出来る唯一の場であるまな板は3つしかないのに、その上そのまな板を一つ遊ばせてしまったら、ノルマ達成など遠ざかる一方に決まっている。しかもその場合、材料が一種類足りずに焼きに入れないピザ生地も残ることになる。全てが非効率なのだ。
 けれども「料理だけを作る機械」になってしまったシェフたちには、それを理解することがなかなか難しい。今までは時間が余す限り調理を進めることが、まな板を使っていくことが正義だった。火にかけた鍋やフライパンが埋まっているなら、そこへ火が通るまでの間に、次に使う食材をまな板の上にでも切って置いておけばいいじゃない。そういった思考が2-6までにおける定石だった。けれど3-1においてそれは悪手になる。「暇だったから」と余分な材料をまな板の上に置き始める者が出た途端、めぐりめぐってそれが全体の流れを妨げることになる。3-1に求められる技術は速さではなく「待つ勇気」なのだ。手なりで動いてはいけない。視野を広げ、明確な意思を持って「今するべきこと」を探さなければ。
 1-6にてゲームの演出的な出来の良さに感動したぼくだけれど、3-1ではそのよく出来たゲーム性に感動させられた。メリハリのつけ方が完璧だと思った。もしもオーバークックというゲームが、ただひたすらにその場その場の速度だけを求めるようなゲームだったら、きっと早々に飽きが来てしまっていただろう。けれど実際には「待つ勇気」を要求され、ゲーム性にメリハリがついた。オーバークックの良さは演出だけではなかったのだ。このゲームを作った人は天才なんじゃないか? 心の底からそう思った。何十個とあるステージのギミックを毎度毎度思いついてそれを形にするだけでもすごいのに、そのクオリティが完璧すぎる。これが神ゲーか……と心酔しながら、それはそれとしてピザが食べたくなった。



・4-1 お寿司シティアクターズ
……オーバークックを4ステージ目まで生き抜いてきたシェフたちにとって、寿司はすっかり慣れ親しんだ料理である。しかしそれと同時にそのシェフたちは、「お料理ゲーム」というジャンルの中で起こる奇想天外な、ドラマチック極まる出来事を体験してきた者たちでもあった。気球は落ち、テーブルは浮き、どこでもドアみたいな鏡を動線に組み込んで、火災一歩手前のピンチをフットワーク1つでチャンスに変え、足場から落っこちて闇に消えたとしても何度でもよみがえってきた。……だからそのシェフたちが4-1ステージを見た時、嫌な予感がしたと同時に、その予感が的中することを心の底では期待していた。
 4-1は夜の街中にて寿司を作っていく、調理場と出品窓口がひどく離れているステージだった。そしてその調理場と窓口を結ぶ道筋に、避けようもない車道と横断歩道と信号機がある。シェフたちの心の中には、それを見た瞬間相反する二つの気持ちが湧いてきた。「どうせただの背景だろう」「いや、このゲームならやってくれるはずだ」。……そしてぼくは個人的に、小学生の頃にプレイした「咲かせてちびロボ」のことを思い出していた。
 ゲームが始まってみると、車道には信号に合わせて車がビュンビュンと走り始めた。問題はそれが「移動する壁」なのか、それとも「殺傷力を持った鉄の塊」なのかだ。真面目なシェフたちはノルマ達成を目指すことを至上として、余計な検証を試みようとはしなかったけれど、それでも、事故は意図せず起こるから「事故」なのだった。
 一人目の犠牲者が出た。
「し、死んだ~!」
 轢かれた人は思わずそう叫んだ。なぜなら車にぶち当たったそのシェフは、ギャグ的にバシーンと画面外に弾き飛ばされるのではなく、その場でぺちゃんこのペラペラになって消えていったからだ。きっと他のメンバーが包丁を動かす手を止めて調理場から夜空を見上げれば、「あとは任せたぜ……」と親指を立てる亡きシェフの顔が見えることだろう。
 まぁ5秒経ったら復活するんだけどね。そうでなければやっていられないし。気球が落ちても料理を続ける戦士(シェフ)たちは伊達じゃないのである。
 このステージの素晴らしい点は二つあった。まずは何より一つ目、横断歩道と信号機を登場させたならば、しっかり轢きに来てくれたところ。こういったゲームにおける横断歩道は、いわゆるチェーホフの銃なのだ。これまでのキレッキレな演出を見ていての信頼感が、この4-1にてさらに増したことは間違いない。このゲームはエンタメが分かっている。それが何より素晴らしいことだった。
 そしてもう一つの素晴らしい点。それは轢かれたシェフが画面外に吹き飛ぶのではなく、その場で潰れてくれるところ。……もっと言うと、その手に持っていた食材や皿や、あるいは完成して盛り付けられた料理は、シェフ亡きあともその場に残るというところ。
 3-6までの間に何度か「足場から落ち得るステージ」があった。シェフが足を踏み外してしまった場合、シェフ本人は5秒で復活するものの、落ちる時に手に持っていた食材は失われてしまう。運んでいた皿も好ましくない位置に戻ってしまう。そして何より「完成して盛り付けた料理」を落とされると、各種食材を運び、調理して、盛り付けたその時間の全てが水泡に帰すことになる。そうなってしまうと、ただ単に食材を落とした時の3~5倍の時間を事実上失うことになり、ノルマクリアを目指すというゲームがまともに成立しなくなってしまう。だから落ちる可能性のある足場(橋とか)を通るのは最低限操作に自信のある者でなければならない……という、言わば「負の役割分担」が生まれてしまうのだ。
 ぼくは、こういう意味で求められるその手の「操作技術」の存在自体を嫌っている。モンハンやスマブラをやろうっていう時なら分かるけれど、オーバークックのようなパーティゲームスタイルのゲームを遊ぼうっていう時にそういった操作性を求められるのは、それは「違う」と思うのだ。だって橋をかけたいなら、落ちないように手すりをつけてあげればいいだけなんだから。それをしないことで得られる難易度の上昇や、それによって生まれ得る楽しさについては、そのかわりに切り捨てられる超ライトなゲーマーや発生し得るストレスの重さに比べると、非常にしょうもない物だと感じてしまう。
 そういった点で、神ゲーたるオーバークックにおいても残念ながら欠点はあるものだと感じていたのだけれど、この4-1の「轢かれる」という概念は良い。手に持っていた物が死後その場に残るという点がすごく良い。操作に自信がない人でもとりあえず挑戦することが出来るし、それで失敗してしまっても他メンバーが「あとは任せろ!」と言うことが出来る。「轢かれる」というシステムは演出的にもゲーム性的にも完璧な、非常に洒落た発明だと感じた。
 そしてそんな発明が、ここまでに紹介したような素晴らしいステージと、ここでは紹介していないがそれに次ぐ素晴らしいステージの山を経て、まだネタ切れを起こさずにしれっと現れるところに「天才」を感じさせられる。素晴らしい、すごすぎるゲームだと。
 そしてそんな素晴らしいゲームだからこそ、
「あぁ! 轢かれた!」
「おい! 完成品運んでただろお前!」
「大丈夫、皿は道路に落ちてる(死亡)」
「あ、そっか。じゃあいいや。ナイスナイス」
「いいんかい!(復活)」
 という面白会話がプレイヤー間に現れたりもする。亜人の二次創作みたいだなと思った。



・5-6 謎の光は全て床
……ぼくはこのステージがオーバークック2のラストステージなのだと信じて疑わなかった。実際は6-6がラストなのだけれど、5-6にはそういうクオリティがあった。
 ステージ5-6は、沼に浮かぶいくつかの小島からスタートする。当然それぞれの島に材料や調理器具などが散らばっており、定期的に流れてくる足場を伝って島を渡り歩きながら料理をしなければならない。……が、ここで神ゲーたるオーバークック2にも粗が見え始めてしまう。流れてくる足場が狭すぎる……というか、ここは自分の感覚を信じてあえてハッキリと言ってしまうけれど、「流れてくる足場の当たり判定」が「見た目と違う」。見た目の時点で小さいのに、当たり判定はそれよりもさらに小さくて、すぐに落ちてしまう。
 この手の体感を伴う指摘は必ず賛否が生まれてしまう物だとは思うけれど、少なくともこのステージには未だかつてないほどの、前述した「余計な操作技術の要求」があると感じられた。気球が落ちた時には100点満点中で300点くらいあったこのゲームへの個人的な評価も、道中何度もあったその操作技術問題によって下落したり、はたまた素晴らしすぎるアイデアによって再浮上したりして、5-6の時点では200点くらいになっていたのだけれど、今回のこの「小島と足場」はちょっと比べ物にならないくらい難しすぎて、一気に95点くらいまで評価(というか気持ち)が下がってしまった。
 ……が、その時である。ちゃんとやっているつもりでも三回に一回くらいのペースで落ちてしまう足場にイライラしていたシェフたちを、突如として意味不明な超常現象が襲った。いや、襲ったというよりもむしろ、手を差し伸べてくれた。
 突然背景の沼や小島は消えて、調理器具や材料の類だけが残った。そしてそのかわりの背景には、シェフたちの足元には、何か宇宙的なパワーを感じさせる寒色系の光が渦を巻き始めていた。これまでの演出を遥かに超える「異常事態」が何の前触れもなく発生したのだ。
「なんだなんだなんだ!?!?!?」
 分担作業のためのコミュニケーションが必須でよく喋ることもあって、このゲームは本当に驚愕が声に出やすいゲームだった。
 ワームホール的な物を思わせる謎の光が背景を覆い尽くし、「足場」という概念が消えた。少し歩いてみたシェフたちから順に気付きだす。この光の上は全て足場だ! 落下という概念がなくなったんだ! 何が起こってるのかは分からないけど今がチャンスだ!! 急げ急げ料理を作れ~!!
 その後謎の光が消えると、シェフたちは元々いた沼ではなく城の中みたいな場所の調理場に戻されるのだけれど、全てがフリーな足場と化す謎空間を体験したあとではその程度些細なことである。……というわけでその凄まじい体験を経て、ぼくはここが最終ステージなのだと信じて疑わなかった。
 ずっと誰もが思っていたことだ。気球の落下から始まったこの衝撃展開続きの料理ゲームの中で、もはや「料理ゲームの定義」とは何なのか……という哲学めいた疑問が、ここまでの試練を乗り越えてきたシェフたちの心には大なり小なりあったはずだ。そういった料理ゲームの終着点が「異次元空間でクッキング!」なのは、これはもう完璧な最終回だと思った。最後に次元まで飛び越えてこそのオーバークック2! オー、ブラボー! と、そういう気持ちで5-6をクリアして、6-1が普通に出現した時のぼくの気持ちよ……。素直に喜べなかった……。
 そして悲しいことに、その後6-1から6-6を走り抜けての感想は、「5-6で終わっておけば完璧なゲームだったのに」になってしまうのだった。しょんぼり。






 というわけで、オーバークック2の日記はここで終わる。尋常ではない面白さと、なんとも言えない尻切れトンボ感を味わってもらえていれば幸いだ。
 6-1以降のステージの何が悪かったのかというと、目新しいギミックやイカした演出に欠けていたことが「最高すぎた5-6まで」と比べて相対的にダメだった。最終コースらしくどのステージも難易度が高かったのだけれど、ゲームの性質上「高難易度=調理の不便」になってしまいがちなので、その部分のストレスが面白さとどっこいどっこいになってしまう感じだった。不便さその物が新たな面白さを生み出している3-1のような秀逸さは、6-1から6-6のどこにもなかったように思う。このレベルの天才でも30個もステージを作るとピークが来てしまうのだなと思った。自分のような凡人には1つたりとも発想すら出来ないわけだけれども。
 しかしそれを分かった上で凡人の立場から言わせてもらうけれど、6-1からは本当にちょっと「えぇ……」と思うくらいひどいステージが多かったように思う。特に「細くて曲がった足場」「しかもかなり不便なペースで浮き沈み」「あげくに当たり判定が見た目と違う」という三重苦の6-2だけは誇張抜きの苦行だったのでなんとかしてほしかった。「沈みますよ」のサインで足場がぐらぐらと揺れた瞬間その時点で、もう当たり判定的にはどう足掻いても他の足場には乗り移れなくなっている……というのはいくらなんでもひどくないか? ラスボスである6-6も、リトライするたびに飛ばせないムービーが入るとかいう超初歩的な不親切があるし……。今まで作った料理を全て作るという集大成的なノリ、ボタンで扉を開くという地味ながら新感覚なギミックは面白かったけど、二部構成の後半へ行くとその面白新ギミックは全ての目新しさと共に消えてしまうし、5-6の急に異次元空間(プレイヤーに有利)へ突入する衝撃に比べるとパワー負けしている感じがして……。
 と、いろいろ不満はあるものの、それで5-6までのかけがえのない感動と面白さが消えるわけではないから、総評としてオーバークック2は間違いなく神ゲーだと思う。ただし全ては「協力型ゲームで遊べるメンバーが4人集まること」を前提にした感想だ……ということは改めて言っておきたい。ぼくは家族4人で遊びました。
 ちなみにオーバークック2には無料DLCもあるのだけれど、その無料DLCの方はちょくちょく難易度が高すぎて我が家には無理だった。全6ワールドのうちまだ3ワールドしか遊んでいないのに、どう頑張っても先に進めないステージとすでに2つも出会っている。……逆に言えば、ある程度ゲームの上手い人たち4人で集まれる環境があるのなら、ここで紹介したストーリーモード本編に加えてさらに無料DLCまで付いてボリューム満点な神ゲー「オーバークック2」は絶対にやるべきゲームだ! と強く推したい。ただしその助言に従ってもらえる場合、ここまで読んでもらっている時点で「初見の楽しみの大部分」がすでに失われてしまっているのが難点だ……。
 というわけでそこはぜひとも、無料DLCを突破することでぼくにネタバレ返しをぶちかましに来てもらえたらと思う。我が家ではどうせクリアできないので待ってます。